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31 07月

世界宣教と祈りのムーブメント マイク・ビクル(IHOPカンサス)   2017年7月31日


世界宣教と祈りのムーブメント

 

マイク・ビクル(IHOPカンサス)

 

現在世界には何千という宣教団体がありますが、その中でも10の団体は、非常に大きく、5000人以上の宣教師を遣わしているものもあります。この10の宣教団体を中心とする多くの団体のリーダー達は、定期的に会合を持っています。世界的規模の彼らの宣教活動はめざましいものがあります。

その中でも特に大規模なものが2つあります。YWAMと言われるYouth With A Missionは50年以上の歴史がありますが、現時点で2万5千人の働き人を世界中に遣わしています。リーダーであるローレン・カニングハム師は、60年ほど前にこの働きを自宅で始めました。もう一つはCru (2011年にCampus Crusade for Christから改名)で、2万人の働き人がいます。

幸いなことに私は、このようなリーダーたちが集まる会合に出席する機会を与えられてきましたが、そこで彼らの抱いている思いを聞くことができました。彼らは、世界で起こっている祈りのムーブメントとコネクトしたいという強い願いを持っています。今世界で祈りのムーブメントが爆発的に起こっていますが、個々の祈りのグループは、世界で今何が起こっているかという全体像を掴んでいないことが多いのです。1985年に世界にあった24/7の祈りのグループは25くらいでした。(勿論目標は皆が24/7をすることではありません。目標は教会に祈りのカルチャーを養うことです。ただ24/7のグループの数は祈りのムーブメントの一つのバロメーターとなります。)25もある、ということで当時私は励まされたものです。ところが現在2017年には、信じられないと思いますが、2万5千もの24/7の祈りの家があり、そのほとんどはここ10年の間に始まっているのです。著しい祈りのムーブメントが今世界中で起こっています!

アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの祈りのリーダーたちの間に親しい交わりがあり、多くの素晴らしい証しが生まれています。このムーブメントを動かしている情熱、熱意はものすごいものがあります。

宣教のリーダーと祈りのリーダーは、この2年間で、多くの点で深いつながりを持つようになりました。両者の目標は、世界の教会にリバイバルが起こることであり、教会が祈りのカルチャーの中で機能することです。両者共に個々の地域教会で神がしておられることを助ける役目を担っているのです。

イエスはマタイ24:14で「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終りの日がきます。」と言われ、「全世界に福音が伝えられること」と「主の再臨」とを結びつけておられます。これは私たちがよく知っている聖書箇所です。全ての世界(nations)というギリシャ語は、エスノスです。これはエセニック(民族、種族)の語源であり、即ち「福音はすべての民族に宣べ伝えられねばならない」とイエスは言われたのです。そしてそれが達成されたとき時、再臨が起こるのです。ある人たちは、「再臨はすぐにでも起こりえる」と言いますが、そうではありません。

世界には200くらいの国家がありますが、一つの国家には複数の民族が存在しており、世界の全体数は一万二千くらいと言われています。宣教のリーダーたちは過去20年間、まだ福音が届けられていないすべての民族を調査し、捜し出して、非常に戦略的にそれらの民族に対する宣教を繰り広げてきました。そしてその結果、現在世界でまだ福音が届いていない民族は600から700くらいになりました。そして大小の宣教団体は協力して、計画と戦略をもって、福音がすべての民族に届くように働いています。そして彼らは「2020年までには、歴史上初めて、すべての民族の中に福音を宣べ伝える者が立つ」と大胆に宣言しています。

私も宣教のリーダーたちと交わりを持つまでは、このようにめざましいことが起こっていることを知りませんでした。彼らの持つ世界民族に関する調査、資料、計画、戦略、資金計画等々は綿密であり、本気でこれに取り組んでいることが分かります。

又、世界には7千の言語があります。ウイクリフは最大の聖書翻訳の機関です。彼らはその言語が話されている地域に実際に人を送り込み、その言語を学び、そして聖書をその言語に翻訳するという地道な働きをしています。彼らは2025年までには、少なくとも聖書の一部分(例えば、ルカの福音書だけ)はすべて7千の言語に翻訳できると言っています。

今何かが起こっているのです! 福音がすみずみまで浸透しているということではありませんが、すべての民族に入り始めたのです。

歴史上はじめて、この3つのことが起こったのです。つまり、福音がすべての国々に伝えられようとし、聖書がすべての言語に翻訳されつつあり、祈りの集会が爆発的に世界中に広がっているのです。これらはこの15年から20年の間に起こっていて、明らかに今の時代のしるしとなっています。自分たちのしていることだけではなく、視野を世界に広げてみると、主が霊的リーダーたちを奮い立たせていることがわかります。

 

主の再臨の前に、教会は最も偉大な収穫の時期を迎えます。多くの人が一億の魂が救われると言っています。私はそれがすでに始まっていると思いますが、それがますます進展するためには、祈りのムーブメントが必要です。私が「祈りのムーブメント」というときは、「ワーシップ」も含みます。というのは天の御座の前では両方行われているからです。祈りによって私たちは主が約束されたことを告白、宣言します。そしてワーシップによって主の偉大さ、主がどのようなお方であるかを誉め称えるのです。共に神の御前へと立ち上るかぐわしい香りとなります。祈りとワーシップの割合は、個々のグループがそれぞれに決めればいいのです。人びとが一致して祈りワーシップをすることを神は受け取ってくださいます。

ルカ18:7、8「まして神は、夜昼神を叫び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 

今主は、世界中の町で夜昼叫び求める祈りを起こしておられます。それは24/7の祈りの家がその町に一つあるという意味ではなく、その町にあるすべての教会の祈りがすべて合わさってそれが24/7の祈りになるということです。神はすべての情報を把握しておられます。ある家では夜中の2時におばあさんが祈っている、ある教会では朝10時に祈っているとかを神はすべてご存知です。

 

イエスはこの箇所で、「夜昼の祈り」と「神のさばき(justice)」を関連づけておられます。さばき(justice)とは、「神が間違っていることを正しくしてくださる」ことだと思います。例えば人に不信仰があるならば、それが正されて信じて救われることです。病気があるならば、それが癒されることです。壊れた関係があるなら、和解することです。さばきとは、神が御力もって介入され、間違ったことを正しくされることです。

イエスは社会改革者であり「夜昼の祈り」と「神のさばき」とを関連づけた最初の方です。それは主が不正、不義の真の原因は、霊的なものであることを知っておられたからです。私たちは物事の外面的な面を見てそれに対処しようとします。それは大切なことですが、真の解決はその問題の根である霊的問題に対処することなしにはありません。ある町から夜昼の祈りが立ち上るとき、その町に霊的シフトが起り、神の義が表れてくるとイエスは言われたのです。それは神の約束と神の栄光を信じる者たちが一致して祈りワーシップすることによって起ります。

 

ダニエル10章は、祈りの舞台裏で何が起こるかを見せてくれる箇所です。ダニエルが祈ったとき、ミカエルが悪の勢力と戦ってくれたのです。私たちは「神よ、あなたは全能で、すべてを治めておられる方ですから、どうか一番よいことをお好きな時になさってください。」と神にすべてお任せしたい気がします。しかし神は「確かにわたしはすべてを治めるものである。しかしわたしは人間とのパートナーシップでしか事を行わない。人びとが一致して祈りワーシップするとき、わたしは聖霊の働きを増し加え、天使たちをもっと遣わして、悪霊の勢力を抑える。」と言われます。その時、その町に霊的なシフトが起こるのです。

今、アメリカで、またヨーロッパやアジアで祈りが絶え間なく捧げられ、さらに増大して行っています。それによってその地の霊的環境がシフトし、伝道の働きがもっと進んでいきます。同じ弱々しい説教者が同じ弱々しい説教をしても、霊的空気が変えられていると、今までよりも何倍もの人が救われてくるのです。

イエスは「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」という興味ある質問をされています。これはよく「終りの時代には人びとの信仰が冷えて、背信がおこる。その時、まだ信仰を持ち続ける人がいるだろうか。」というように解釈されていますが、私はそれはこの文脈の中では間違った解釈だと思います。

主が戻られる世代には、反キリストの勢力が世界で大きくなっています。歴史上、もっとも不正がまかり通っている時代です。邪悪な支配が世界中に手を伸ばしているのです。不正、不義が最高潮に達したとき、人びとはそれを野放しにせずに、「わたしのことばに従い、即ち夜昼の祈りによってわたしがさばきをするように願うだろうか。」という意味だと私は考えます。黙示録やイザヤ書を初め多く預言書には、終りの日の祈りのムーブメントに関して非常に多く書かれています。それは私にとっても大きな励ましとなっています。私は言います。「はい、イエス様、あなたが帰ってこられるとき、地上の不義、不正を放置しないで、あなたに従い、夜昼の祈りによって戦う多くの人びとをあなたは見られることでしょう。」と。

人びとが「これから世の中は良くなるのですか、それとも悪くなるのですか?」と訊くとき、私は「両方です。」と答えます。暗やみが深くなるほど、光は明るく輝きます。よい麦と毒麦は最後まで一緒に大きくなり成熟していきます。

 

YWAMの創立者であるカニングハム師は、彼らの宣教の働きのために「百万人のとりなし手を与える」という神の約束を頂いていることを話してくれました。そこで私たちIHOPは全世界の祈りの家に呼びかけて、YWAMの働きを祈りで覆うことに決めました。ですから皆さんも是非この働きに参加していただきたいと思います。

ヨハネは黙示録4、5章から、神が望まれるワーシップに関して3つのことが言えると思います。

1.それは絶え間ないものである

2.それは音楽的なものである

3.それは神を中心としたものである

3.の意味は、ある祈り会では、神よりもサタンに焦点を当てているからです。私たちはサタンがしている事や、サタンを叱責することに焦点を当てて時間を割くのではなく、神に焦点を当てねばなりません。御座の周りで起こっているのはそういうものです。イエスの麗しさや神の尊厳、力、栄光に焦点を当てています。

2.音楽は絶対に必要だ、という訳ではありませんが、あるとダイナミックになります。私たちは音楽なしの祈り会を15年ほどしましたが、IHOPが始まって油注がれたミュージシャンのワーシップが加えられたとき、非常に楽に祈れるようになりました。

神は牢獄の呻きに答えてくださる方であり、神を動かすのに音楽は必要ではありませんが、私たちの心が音楽によって触れられ動かされると祈りやすくなります。以前は祈りに行くときは少し気が重かったのですが、今は、歌い手やミュージシャンのワーシップによって非常に楽しみな時となっています。

どこでもそうだと思いますが、音が大きすぎる、小さすぎるとか、祈りの時間が短すぎる、長過ぎる、ワーシップが長過ぎる、短すぎるというような議論がIHOPでもいつも起ります。私は60歳を過ぎているので、いつも耳栓をポケットに入れています。早朝で疲れている時などは祈りの家で耳栓をしています。若者たちは大きな音が好きなのです。少し静かな音楽になった時は、少し耳栓を緩めます。自分のサウンドシステムを持っているようなものです。私は音が大きすぎると言って不平をいう年配の人たちに言うのです。「若者たちがここにエネルギーを与えてくれています。彼らは大きな音が好きなのです。どうか1ドルで耳栓を買ってください。そうすればあなたもハッピーですよ。」と。

神は3千年前ダビデ王に、御座のまわりで行われている祈りと賛美のインスピレーションを与えました。これはすごいことですが、ダビデは特別に契約の箱(神の御座の象徴)のためにミュージシャンと歌い手を4千人任命しました。(1歴代誌23:5)今までそのような伝統はイスラエルにはなく、神が天の御座で行われていることをダビデに示されたのです。

勿論ダビデは音楽が好きでしたが、それが理由ではなく、神ご自身が音楽を愛されているのです。アメリカでも政府がそのように礼拝を捧げる任務の部署をつくることを私は夢見ています。

2歴代誌29:25にダビデから300年後のヒゼキヤ王に関する記述があります。「さらに、彼は、ダビデおよび王の先見者ガド、預言者ナタンの命令とおりに、レビ人にシンバルと十弦の琴と立琴を持たせて、主の宮に立たせた。この命令は主から出たものであり、その預言者たちを通して与えられたものだからである。」

当時イスラエルの国勢は衰え、敵に取り囲まれていました。ヒゼキヤ王はイスラエルの歴史を研究し、神がダビデに示されたと同じことをすることを決意したのでした。

イエスは「天にあるごとく、地にもあるように」と祈るように教えられました。これは勿論、多くのことに当てはまりますが、その一つとして、私は「天の礼拝が地でも行われますように。地の礼拝が天の礼拝のようでありますように」と祈るのです。勿論スケールは違うでしょう。けれども聖霊の助けにより、ほんの少しでも天の礼拝を映し出す礼拝が地でも行われることを信じています。

神が今、多くの都市、町にそのような召しを与えておられると私は思います。神はミュージシャンや歌い手の中に情熱を与えられ、経済も支えられて、このムーブメントを進めておられることを私は見ることができます。

ダビデ以後、イスラエルが回復され祝福された時が7回ありました。そのすべての時において、ダビデが神から受けとった命令にしたがって神に叫び求める音楽と礼拝が捧げられたのです。それは決して偶然ではありません。皆さんの国や町が回復されるように、それぞれの場所で主に叫び求め続けようではありませんか。(終り)


24 07月

平安に導かれる     ラナ・ヴァウサー              2017年7月24日


平安に導かれる

 

ラナ・ヴァウサー(ラナ・ヴァウサー・ミニストリーズ)

 

最近主は、私にいろいろな「人の歩く道 pathways 」についてよく語られます。

現に今、多くの人が歩き、又今までも多くの人が同じように歩いて来た道(の一つ)は、非常に激しい苦しみや痛みを伴う厳しい戦いの道です。多くの人がその道を長い間歩いてきました。

それに加えて、敵から「人を殺す霊(ヨハネ10:10参照)」が送られてきているのですが、その霊とは、人びとにささやいて、神の御ことばのある部分をねじ曲げ、混乱、恐れ、迷いをもたらし、力をくじき、パニックに陥れるのです。

その「人を殺す霊」は、次のように宣言します。「神の民の前におかれた道は、苦痛、恐怖、傷、損失、暗やみに満ちている!そしてそこを通ることなしには、彼らに預言されている昇格、打ち破り、増加には辿りつけない!」と。

敵は神のことばをねじ曲げ歪めようとしています。多くの者はそれによって神が言われたことばに確信が持てなくなったり、自分の足場を失ったかのように感じるのです。

どちらが神の御声なのでしょうか? 今霊の世界に渦巻いている混乱は、 神の多くの民をくじき、絶望させ、彼らが前進するのを阻んでいます。

 

私はあるヴィジョンを見ました。ヴィジョンの中で、敵が「心配と恐れ」というタイトルを戦略計画の上に掲げている姿を見ました。その時主が語られました。

「敵の今の狙いは、わたしの民から平安を奪うことにあります。人びとを深い不安と恐れに陥れ、彼らを撤退させ、前にある昇格や昇進に踏み込めなくすることです。しかし、真実はこれです・・・」

 

瞬時に私はイザヤ55:11、12を聞きました。

「そのように、わたしの口から出るわたしのことばもむなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安かに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。」

主が再び語られました。「今のシーズンに対するわたしの布告、わたしの民への布告、即ち、わたしの口から出たことばは、事を成し遂げることなしにむなしく帰ってくることはありません。わたしが望むことを成し遂げます。

 

敵は『民の前の道は捕囚だ!』とわめき叫んでいます。しかし真実は、あなたの前にあるのは『祝い』の道です。」私は、神の民が緊急にこのことばに耳を傾けるようにと神が強く願っておられることを、感じました。

「人を殺す霊」は、ある人にはささやくように、またある人には大声で、『おまえはまず捕われの身となり、その後で打ち破りが来る』と言います。しかし、真実は、あなたは捕われの身とはなりません。あなたは祝賀へと向かっているのです!

今はヨセフのシーズンです。捕囚になるシーズンではありません。今は仕事、昇進、増加のお祝いへと進んで行くシーズンです!」

敵が「あなたの道には障害物がある」と宣告するささやきに耳をかしてはなりません。「あなたの行く手には暗やみが満ちている」というささやきを信じてはいけません。あなたは神の御ことばの光と真理と命に自分を一致させてください。神の御ことばをハンマーとして用いてください!御ことばを語り、御ことばを預言してください!

御ことばを祈ってください! 神をその真理の故に誉め称えてください。神はあなたが喜びをもって捕囚から導き出される道を宣言されているのですから!

私たちは救われたときに捕われの身から解放され導き出されました。麗しいイエスが払われた代価により、私たちは最早、捕われの身ではありません。そして今また、神が「わたしの民は大いなる喜びをもって捕囚から導き出されている」と宣言し、それを確認しておられると私は信じます。

 

私たちの今の戦いは、平安を勝ち取るためのものであり、それは本当に激しい戦いです!  主の御ことばにとどまってください。御ことばの真理によって「主の御声」と、「人を殺す霊の侮りと惑わしの声」とを明確に聞き分けられるようになるためであるのです。

神があなたを今導き出しておられます。あなたは再び平安を得るでしょう!あなたの平安は回復され、それは今まで以上の真の「平安」となるためです。そのために、主の臨在の大波が神の民の上に押し寄せ、大いなる喜び、喜び、喜びを解き放とうとしています!

 

人を殺す霊が、「あなたの道には大いなる戦いがあり、損失と艱難、苦難のシーズン、大いなる闇がある。昇格への打ち破りはない!」と必死で宣言しあなたを惑わそうとするのは、このことを知っているからなのです。

しかし神は「大いなる喜びがやって来ます!あなたは喜びをもって導かれ、大いなる増加、特別な厚意、打ち破りと昇格の道へと進むのです。その道は豊かないのちに満ち(ヨハネ10:10)、あなたは今までは知らなかったほどに、主を知るようになるでしょう。」と言われます。

次の聖書箇所があなたにとって現実となるでしょう。

詩編16:8,9「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」

詩編16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」

 

主の道は最高に「喜びに満ちた場所」へとあなたを導くでしょう! 主を信頼してください! あなたの信仰を主の御ことばと一致させて、このように宣言してください。

「あなたの喜びの道は、私をすばらしい場所へと導きます。あなたに従うときに与えられる私の特権はあまりにもすばらしく、私は圧倒されそうです。あなたが私に最上のものをくださったからです。」(以上は詩編16:6の英語訳「The Passion」を和訳したものです。日本語訳聖書16:6をご参照ください。)

神は今最良のものをあなたに与えようとしておられます。

主は言われます。「わたしが今からすることをよく見ていなさい!」(終り)


17 07月

健全なクリスチャンの誕生 デイビッド・ポウソン           2017年7月17日


健全なクリスチャンの誕生

 

デイビッド・ポウソン(英国聖書教師)

 

私は聖書を何年も詳しく調べてきましたが、初代教会の人びとがクリスチャンになった方法は、現代の人がクリスチャンになる方法とは全く違うことに気がつきました。そこで、私は聖書に書かれている人びとがどのようにクリスチャンになったかを詳しく調べました。

 

又、牧師として、私は多くの問題を抱えるクリスチャンをカンセリングしてきましたが、彼らの問題は、彼らがどのようにボーンアゲインしたかに起因していることが分かりました。その時聖書の書かれている起こるべきことが起こっていなかったのです。正しくボーンアゲインするならば、人びとが抱えるほとんどの問題は消滅するか、或いは小さくなって自分で解決できるようなものとなることが多いのです。

 

以上のことから、私は「Normal Christian Birthクリスチャンのノーマルな生まれ方」という本を著しました。ウオッチマン・ニーの本に「ノーマル・クリスチャン・ライフ(キリスト者の標準)」というものがありますが、私はその本に非常に影響を受けました。「ノーマル」という言葉はそこから取りましたが、それは「聖書が示す正しい標準」という意味です。ノーマルな誕生と平均的な誕生とは違います。今日の平均的なものは新約聖書が示すノーマルではありません。

 

今宣べられている福音は、水増しされた、人びとに受け入れやすくしているものだと思います。天国に行くための保険のようなものになっています。「あなたがもし今晩死ぬならば、あなたは天国に行きますか?それとも地獄に行きますか?」と人びとに訊くのです。そして「もし地獄に行きたくないのなら、この短い祈りを私について言ってください。・・・言えましたね。はい、これが天国行きの切符です。」というように人を導くのです。

あまりにも多くのクリスチャンが初めに通るべきプロセスを通ってきていないので、「ミニマム・クリスチャン=最小限のクリスチャン」になってしまっています。「天国に行くために最小限しなければならないことは何でしょうか?」というように考えるのです。

 

私はある時、ある助産婦に「赤ちゃんが生まれるときにするべき処置を全部書き出してください。」とお願いしました。「まあ、半ページくらいかな」と思っていましたが、彼女はなんと15ページもタイプしてきたのです。私はとても驚きました。そして大切なことを聞きました。「どの時点で『赤ちゃんが生まれた』と言えるのでしょうか?」と。

 

彼女は「誰もわかりません。いろんな意見があります。ある人は赤ちゃんが母親の身体から出た時だと言い、ある人はへその緒を切って結んだとき、母親から離れて生き始めたときと言います。ある人は産声をあげた時だと言います。」と答えました。

ここで言えることは、「誕生」は一瞬を指すのではなく、プロセスだということです。最後に彼女は「要するに、赤ちゃんに対してなすべき処置をすべてして、健康な赤ちゃんになったときに『生まれた』と言うのです。」と言いました。

 

クリスチャンになるために4つ段階

 

私の理解によれば、クリスチャンになる条件は4つあります。

1.神に対して悔い改める

2.イエスを信じる

3.水のバプテスマを受ける

4.聖霊を受ける

 

1.まず「神に対する悔い改め」から話しましょう。

 

これが欠けていることが多いのですが、最も重要なことです。「悔い改め repent」は「後悔 regret」や「自責の念remorse」とは全く違います。私たちは、自分にしてしまったことを後悔するかもしれません。他の人にしてしまったことに自責の念を持つかもしれません。けれども「悔い改め」は私たちが神に対してしてしまったことに対する思いであり、それを心から認識することです。「repent 悔い改め」という言葉は「考え直す」という意味であり、即ち、自分の人生を考え直す、神の視点から自分の人生を考え直すということです。そして、神の視点から自分がどれほど間違っていたかを考えるのです。自分の視点では、あなたは十分に良い人間であり、人生に成功していると見えるかもしれません。でも神の視点で、神があなたに持っておられる計画や目的からどれほどずれているかを見るのです。

一つの例として、イエスがよく言及された罪があります。それは「心配 ・思いわずらい」です。

それが罪だと考える人はほとんどいないのですが、イエスは、それは天の父に対する侮辱であると強い口調で語っておられます。もし私の子どもの学校の校長から、「あなたのお子さんは食べ物や着る物が十分あるだろうかとすごく心配するあまり、勉強が手につかないようです。」という手紙をもらったとしたらどうでしょう。私は「えっ、私の子どもがそんな事を言っているんですか!

何て事でしょう!」と驚くでしょう。それは親の私に恥辱を与えることです。私がちゃんと必要なものを与えない親なので、子どもが不安だというのですから。

 

もし「神が面倒をみてくれないから心配だ。」というならば、私たちはその子どもと同じだとイエスは言われます。神を信頼するならば、あなたは心配しません。心配しているならあなたは神を信頼していません。単純なことです。ですから「思いわずらい」は重大な問題なのです。しかしあなたが悔い改め、考え直すならば、突然「私は神を疑ったりして、神の心を何と傷つけていたのだろう。」とわかるのです。悔い改めは、あなたの考え方から始まるのです。考えを変えて、神の視点から物を見て、自分の人生を神が見られるように見るーーその時初めてあなたは「自分は罪人です。」と言うでしょう。

 

悔い改めの次の段階は、一つひとつの罪を告白することです。例えば、「私は今までいろいろと思いわずらってきました。それがあなたを傷つけていたことがやっとわかりました。」と神に申し上げるのです。

罪の告白は「すべての罪をお赦しください。」というようなおおまかなものではいけません。それは何の役にもたちません。聖書の中の悔い改めは、それがどの罪に対する悔い改めなのかを常に明確に表しています。

 

悔い改めが真実であるならば、次にそれは行動に表れなければなりません。例えば、「悪いと分かったことをやめる」とか、「借金を返す」とか「よくない関係を断ち切る」とかであり、「正しくできるものを正しくする」ことです。ルカ3章でバプテスマのヨハネは、取税人には「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」といい、兵士には「誰からも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」と具体的に示しています。

一つの例をお話しましょう。ある時、いかつい格好をした若者がモーターバイクでやってきて、私と話をしたいと言いました。そして洗礼を受けたいというので、私は「悔い改めとは何か知っていますか?」と訊きました。彼は知らないというので、私は「では家に帰って、イエスに『私の生活の中であなたが嫌いなことがありますか?』と尋ねてください。そしてイエスが示されることがあれば、それを止めてください。」と言いました。3週間後に彼はまたやってきて、私に「ほら!」と言って彼の両手を見せました。

そして「爪を咬むのをやめたよ!」と言ったのです。私は「そうか。じゃ洗礼式をしよう。」と言いました。聖書はそれを「悔い改めにふさわしい実」と呼んでいます。彼のとった行動は、彼がイエスの視点で物事を考え、悔い改め、それに従って行動したことを証明したのです。それで私は彼に洗礼を授けました。

 

勿論、悔い改めがそれで終りということではありません。それは悔い改めのプロセスの始まりと言ってもよいでしょう。クリスチャンの人生は悔い改めの人生です。それはイエスに近づけば近づくほど、自分の汚れをもっと感じるからです。けれども正しい悔い改めをもって始める事がとても重要なのです。

 

バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。神の御国が近づいたから。」と述べました。イエスが宣教を始めたときも「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。ペテロがペンテコステの日に説教をした時も、彼の最初の言葉は「悔い改めなさい。」でした。常に「あなたの人生を神の視点から考え直しなさい。そしてあなたが心から自分の個々の罪から救われたいのか考えなさい。」という言葉から始まるのです。「救われる」といっても「何から救われたいのか」が分からなければ意味がありません。それはただのむなしい言葉になってしまいます。イエスは私たちを個々の罪から救うために来てくださったのであり、私たちは本気で罪を捨てる気持がなければなりません。

 

往々にして人びとは「イエスを信じるにはどうすればよいのか」は教えられますが、「どのように悔い改めをするか」を導かれていないのです。イエスが嫌われることを辞める/捨てることなしに、クリスチャンになってしまうのです。クリスチャンが最初に悔い改めから始めないならば、その出発は常に大きな荷物を負って生活することになるのです。生まれたときにへその緒が切られていないようなものです。ある意味でサタンの王国にまだ繋がっているのです。

 

2.イエスを信じること。

 

(1)先ず、事実を信じなければなりません。信仰は感情的なものではなく、歴史上起こったある事柄を信じることです。即ち、「イエスが生まれ、自分は神の子だと言われ、それ故に殺され、神が3日後によみがえらされた。天に戻られ、今も私たちのために祈っておられる」という出来事が真実であることを信じるのです。

(2)次にイエスを信じねばなりません。これはBelieve Jesus ではなくてBelieve in Jesus でなければなりません。イエスが神の子であると信じるだけでは、あなたの毎日の生活は全く変わりません。イエスに真に信頼している証しがなければなりません。例えば、私を本当に信じる人は(believe in me) 私の運転する車に安心して乗るでしょう。私にお金を安心して託すでしょう。

私が先ごろ手術を受けたとき、私はその医師を信頼して契約書に署名をしました。医師の持つ手術の能力を信じるだけではなく、自分の身体を託すほどに信じるのです。それはリスクを伴うことであり、あなたが本当にその人を信じているかどうかを証明することです。「私は信者です。私はクリスチャンです。」というだけでは、何の意味もありません。教会に来て使徒信条を唱えるだけで、主を信じる行動の証しがない人が沢山います。信仰は行動で表れるのです。

 

3.次に水のバプテスマについて話したいと思います。

 

旧約聖書にはバプテスマのことは書かれていません。祭司や民には定められた清めの儀式はありましたが、バプテスマはバプテスマのヨハネから始まりました。そしてイエスも人びとにバプテスマを受けるように教えられ、使徒たちもそれを教え実行しました。当時は今よりもバプテスマの意味が重視されていました。新約聖書にはバプテスマに関する箇所が31あります。私はメソジストの牧師でしたので、当初幼児洗礼を授けていました。しかし聖書を詳しく学んだとき、「自分は一体何をしていたのだろうか」と思いました。それ以来幼児洗礼はしなくなりました。一番の理由はバプテスマの本当の意味を幼児に当てはめることができなかったからです。

バプテスマは「清め」と「古い自分の埋葬」を意味します。ですから滴礼ではなく、浸礼が本来の姿です。

ある時、サタンの入れ墨のある人が洗礼を受けたいと思いましたが、シャツが水にぬれるとその入れ墨が透けて見えるのでどうしようか、と戸惑っていました。整形外科に言って相談しましたが、焼き切るとひどい傷になるし、皮膚の移植は非常に費用がかかり、保険が効かないと言われました。彼は思い切ってそのままで洗礼を受けることにし、スイミング・プールで洗礼を受けることにしました。

多くのクリスチャンがプールのまわりに集りました。彼が洗礼を受けて水からあがると、サタンの入れ墨は消えてなくなっていたのです!このすばらしい出来事は、バプテスマの意味をよく示しています。過去を洗い去り、公に死んだ古い自分のお葬式をするのです。それはただの象徴ではなく、実際に霊的にすばらしいことを神がしてくださり、私たちに新たな出発をさせてくださるのです。

 

イエスはバプテスマを強調されました。「すべての国の人びとを弟子にしてバプテスマを授けよ」と言われました。ペテロは最初の説教で「悔い改めなさい。そしてそれぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と言いました。まず悔い改めをし、バプテスマで清められ古い自分に死んだときに、私たちは救われるのです。バプテスマの持つ深くて重大な意味を知らされることによって、その人は本当に新しい出発ができるのです。サタンに対して「おまえは私の葬式を見ただろう。おまえは最早私に対する何の権威もない。」と言うことができるのです。これはロ—マ6章に詳しく書かれています。

バプテスマは全身を清めるものです。しかし、この汚れた世を歩いたときに足が汚れるので毎日足を洗う必要があります。しかしバプテスマはもう必要ではありません。それは一度でよいのです。

 

4.次に聖霊を受けることをお話ししましょう。

 

聖霊を受けると、聖霊が次のことをしてくださいます。

 

(1)一つは聖霊の助けなしには決して出来ないことをさせてくださるのが聖霊の賜物です。

それは知恵のことば、知識のことば、信仰、癒し、奇蹟、預言、霊の見分け、異言、異言の解き明かしです。御霊の賜物は教会を建て上げ伝道するために必要です。人びとは福音を聞くだけではなく、見る必要があるからです。神は御ことばを目に見えるしるしでそれが真実であることを確証したいと願っておられます。

 

(2)二つ目は、御霊の実と呼ばれ、これは9つの味がする果物です。一つの果実ですが9つの味がするのです。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。最初の3つは神とのよい関係、次の3つは人びととのよい関係、最後の3つは自分とのよい関係を示します。それはすばらしい実であり、実にイエスの御性質そのものです。これは能力ではなく、性質です。この9つはクリスチャンの人生に同時に表れます。9つのうち2、3の性質を生まれつき備えている人はいます。とても寛容な人とか、とても親切な人とかはおります。しかし、この9つすべての性格を兼ね備えている人は聖霊を受けた人にしかおりません。9つの味のするこの実は、最初はつぼみとして現れ、次に花、そして小さな実となり、長い期間かかって大きくなり成熟するのです。成熟したクリスチャンは、成熟した実になっています。

 

(3)以上が聖霊が個人に対してしてくださることですが、それだけではありません。聖霊はあなたを神のコミュニティーに溶け込ませてくれます。神は個人ではなく、家族を持つことを望まれていますが、私たちは個々に異なる性格を持ち、考え方も違います。異なる人びとを一緒にして家族にしようと思っても無理です。しかし聖霊は「御霊の交わり」をつくり出してくださるのです。あなたの内におられる聖霊と同じ霊を持つ人と出会うとき、一瞬にして親密な一致を感じます。私は世界中で、そのような経験をしています。肌の色や教派が違っても、両者の中におられる聖霊が二人を引き寄せているのがわかるのです。

そのように同じ御霊を持つ人びとは集められてキリストのからだという麗しい集合体となるのです。御霊なしに教会を一致させようとするならば、それは失敗に終ります。一致は人間の努力では達成できないからです。聖霊だけがキリストのからだを一つにできるのです。

 

(4)それではどのように聖霊を受ければいいのでしょうか。

イエスはルカ11:11で「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょうか。」と言われました。ですから第一に「天の父に求めるask Him」ことが大切です。ここで「求める」というギリシャ語は一度だけではなく「得られるまで求め続ける」ことを表す時制です。

ルカ11:5−8で、イエスは真夜中に尋ねて来た旅人のために友人にパンを求める人の喩え話をしておられます。彼はパンをもらえるまで頼み続けました。この人は自分のためではなく、旅人のためにパンを頼んだことに注意してください。聖霊は自分のためではなく、人に仕えるために頂くものです。

 

「聖霊がなくては、私は何一つできない。」と心から悟るならば、必死で聖霊を求める思いが与えられるのです。そして9節にあるように「求めなさい。(求め続けなさい。)そうすれば与えられます。」という約束が私たちにはあるのです。(終り)


10 07月

心の井戸の水を汲む   ペリー・ストーン         2017年7月10日


心の井戸の水を汲む

 

ペリー・ストーン(ペリー・ストーン・ミニストリーズ)

 

ヨハネ4:11「彼女は言った。『先生。あなたは汲むものを持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこからお入れになるのですか。』」

ヨハネ4:23、24「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

新約の礼拝に関する教えは、イエスによってヤコブの井戸で最初に与えられました。ヤコブは全イスラエル部族の父祖であり、彼はスカルの地で井戸を掘りました。イエスは旅の疲れをおぼえ、この井戸の傍らに腰をおろされました。

 

井戸から水を汲むためには、何か入れ物が必要でした。当時の井戸の上には石の蓋が置かれていました。小動物が夜中に井戸に落ちて死ぬならば、水が汚されるからです。他にも木の葉とか枝が入って井戸の中で腐ることもあります。ですから水を清く保つために蓋がしてあったのです。

このことから示されることがあります。アメリカで「ワーシップ」と呼ばれるものがありますが、実際にはそれはワーシップではないことがあるのです。

まことの「ワーシップ」は、人が心から主を礼拝し、それを口で言い表すものでなければなりません。「私は心の中で主をワーシップしながら、静かにしています。あまり何も言わないし手を上げたりもしませんが、心の中でワーシップしているのです。」と言う人がいます。

 

しかしマタイ12:34に「・・・心に満ちていることを口が話すのです。」と書かれているように、もし神への賛美や礼拝があなたの心にないならば、それを外に表すことはできません。神の臨在や愛が心に、即ちあなたの井戸の中にないならば、それは水のない井戸です。あなたの心の中にあるものが口から言葉を出させるのです。

 

ヨハネ7:37、38でイエスは「だれでも乾いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。私たちの中には井戸があり、それは生ける水で満ちているはずです。乾いた人はその水を飲むことができますし、身体が汚れていれば清めることができます。ヨハネ伝では、水は聖霊を表すだけではなく、人の心の奥底の霊から溢れ出るワーシップも表しています。ですからあなたは内なる井戸の水が常に清いように守らねばなりません。

 

あなたの心にあるワーシップは、口に出して表さなければワーシップとはならないのです。教会やクリスチャンテレビを見ると、すばらしい説教やすばらしいワーシップがありますが、会衆はただ座ってそれを聞いて楽しんでいるだけです。手を上げている人もなく、ワーシップしている人もいません。誰かが楽しませてくれるのを見ているだけなのです。それは「ワーシップをする」と言えるかもしれませんが、実はそうではないのです。あなたの口から音が出てこなくては、あなたはワーシップしたことにはなりません。

 

ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)では、カンターと呼ばれる歌い手がいて、聖書を読むときは、ただ読むだけではなく、節をつけて歌います。詩編はダビデや幕屋の歌い手などによって書かれましたが、それは朗読するのではなく、歌うべきものであり、詩編はイスラエルの賛美歌なのです。エペソ5:19には「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」とあります。

 

今ご自分で私の言うとおりにやってみてください。お腹の上の左右のあばら骨がぶつかるところにある横隔膜の下に指を4本縦に少し強く当ててください。そして「ハレルヤ!主を賛美します イエス様ありがとう」と言ってみてください。筋肉はほとんど動かないのが分かると思います。次に同じ言葉で歌ってみてください。横隔膜が動くでしょう。あなたが賛美を単に言うとき、それはただ「習慣的に」言うこともできます。イエスはパリサイ人についてマルコ7:6で「この民は、口先(lips)ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」と言われました。礼拝後に何を食べようかと考えながら、口では主への賛美を言うことができるのです。しかし歌うときにあなたの身体の中心で横隔膜が動き、あなたの中の何かが動き、賛美が心から出てくるのです。

 

残念ながら多くの人は、自分の中にある井戸の蓋をしたままでいます。蓋は動物やゴミ等の井戸水を汚すものが入らないようにするものですが、その井戸から水を汲みたい時は蓋を取り除かねばなりません。水を汲むのを遮っているものを取り払うのです。信じる者の腹の奥から、即ち霊から、生ける水の川が流れると主は言われました。井戸から水を汲むためには、バケツを深く入れて外に水を汲み出さねばなりません。私の霊にあるワーシップはそれを口に出す時に奥深いところから上がってくるのです。

 

会衆が皆大きな声でワーシップをしているとき、霊的空気が変るのを感じると思います。例えば私の周りに50人ほどの兄弟姉妹がいるとします。私一人がワーシップをするならば、一本の川が私から流れ出ます。周りの人たちが一緒にワーシップするならば、その一人ひとりから川が流れ出し、それが集まって非常に大きな川の流れとなります。そしてその賛美は天の御座に立ち上っていきます。エゼキエル47:1−5でエゼキエルは、神殿の敷居の下から流れ出る水の幻を語っています。1千キュピト行くと足首までの深さとなり、更に1千キュピト行くと膝まで、次の1千キュピトで腰に達し、更に1千キュピト行くと水に囲まれて浮かんで泳げるほどになったのです。

 

水かさが足首までの時を「アブラハムの時代」だと私は思います。アブラハムは信仰で約束の地を歩きまわりました。(創世記13:14−17)それから千年後にはダビデ王の時代となりました。ダビデは戦士であり、様々な敵を打ち破り進軍していきました。信仰で歩くだけではなく、戦いに勝利したのです。それからまた千年後は、バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々にバプテスマを授けました。洗礼を受ける者は水の中に腰まで入ります。ヨハネは天の御国が近づいたから罪を悔い改めるように語りました。水の清めによる新生です。

 

そして今私たちはエゼキエルが見た「水かさが増し、泳げるほどの水の川」の時代に住んでいるのです。先に進めば進むほど水かさがまして、立っていることができず、泳ぐようになります。今私たちはヨエル2:28の時代、即ち「すべての者に霊が注がれる時」にいます。それはまた、イエスがヨハネ4:23で言われた「霊とまことによって神を礼拝せねばならない時」なのです。サマリヤやエルサレムの山ではなく、私たち一人ひとりが聖霊の宮であり、私たちが行くところ何処にでも神を持ち運ぶことができるのです。しかし私たちの腹の奥にある水を汲み出すためには、賛美を言葉に出すだけではなく、横隔膜を広げて井戸の蓋を取って、歌う必要があります。今の終りの時には「詩と賛美と霊の歌を持って主にむかって心から歌う」ことが非常に大切なのです。

 

このようにワーシップに関する啓示はヤコブの井戸においてなされました。イエスはサマリヤの女に「あなたは知らないで礼拝しています。

 You worship what you do not know.(あなたは知らないものを礼拝しています)」と言われますが、私たちはそうであってはなりません。私たちは神を知り、口先だけではなく霊とまことをもって礼拝しようではありませんか。(終り)


07 07月

トランプ大統領の試練とアメリカの政治情勢     坂   達  也    2017年7月7日


トランプ大統領の試練とアメリカの政治情勢

 

                坂   達  也

 

国外で発揮されるトランプ大統領の実力とリーダーシップ

 

G20の会議がドイツで始まりました。それに先駆けて、トランプ大統領の最初に立ち寄ったポーランドでの演説は、格調の高い、世界のリーダーシップを握るにふさわしい実力者である事が如実に顕われておりました。ウオール・ストリート・ジャーナル誌は「アメリカ・ファーストよりも大きく、それを超えた、世界の方向性を決める(defining )スピーチであった」と評価し、多くの人がレーガン大統領の歴史的演説に匹敵すると賞賛しました。ポーランドは折から、洪水のようにボートで入って来る難民を一切受け入れないと宣言し、難民を受け入れ過ぎて困惑するドイツとは対照的です。このG20では、トランプ大統領がこの数十年世界に蔓延した無責任なグローバリズムに対決する強い姿勢を示すと共に、アメリカはヨーロッパNATO 各国だけでなく、北朝鮮問題を含む世界的視野で、その強い連携責任を果たすためのリーダーシップを取ることを明確に宣言しました。

それが、プーチン大統領との会談でも表れていたようです。両大統領の会談は2時間を超え、最初はトランプがプーチンのアメリカ大統領選挙への介入とシリヤ問題を厳しく問いつめた後、二人は積極的に問題解決への道をポジティブに話し合い、二人の相性はとてもよかったとチラソン国務長官が報告しています。

一方アメリカのリベラルなメディアは、すかさずトランプ大統領を「レイシスト・民族差別主義者(白人優先イスラム軽視)」と非難しました。

 

トランプ大統領が直面するアメリカ国内の問題

 

アメリカの政治環境と国民のモラルは、左右二派に分かれた対立がいよいよ激しくなり、トランプ大統領が目指す内外の政策は全面的に立ち往生する事態となっております。その大きな原因は二つあります。一つは昨年の選挙に負けたデモクラット民主党が、二大政党が協力して成り立つ民主主義政治への責任を全く果たしていないことです。そして二番目の問題は、リベラルなメディアが常識を逸脱して、報道すべき報道を拒否し、人心を惑わし煽るフェイクニュースだけを流すことによって、アメリカ国民だけではなく、世界を惑わし、攪乱するという前代未聞の事態になっていることです。私はこれは悪質極まりない「テロ行為」と呼んではばかりません。

 

今回、私は日本の皆様に緊急のとりなしのお祈りを要請させていただきたいという一念で、緊急事態のアメリカの現状をお伝えさせていただきます。

 

民主党(デモクラット)と「陰の政府」の暗躍

 

「陰の政府」とは最近アメリカで DEEP STATEと呼ばれていますが、オバマ前大統領があやつり暗躍する陰の政府を指しているようです。オバマ氏が雇い、その後引き続き現職で残っている相当な人数の政府要員を陰であやつりながら、オバマ氏はあらゆる手段を尽くしてトランプ大統領を妨害(というより、彼の後を受け継いだトランプ大統領が成功しないように)しようとしています。それが最近露骨になって来たのです。特に民主党議員への働きかけが目立ちます。その一つの理由は、政権が変わった後の民主党にはリーダーが全くいないということが曝き出され、民主党からの政策的提案は皆無に等しく、彼らのして来た事と言えば、共和党のすべての政策に闇雲に反対することであり、トランプ大統領を弾劾することだけに全精力を集中して来ました。

 

しかしながら、このような民主党に対する国民の審判の目は厳しく、トランプ政権になった後に行われた5回の国会議員の補欠選挙で、その5議席とも共和党議員が選ばれたという結果が出ています。

 

トランプ大統領のツイート問題

 

この動きに協調しているのが大手のリベラルなメディアです。彼らはますます過激的に反トランプ色を強くしていますが、大統領弾劾のための理由として、最近ではトランプ大統領自身が毎日のようにするツイートを指して(特にリベラルなメデイアをこき下ろすツイートに対し)医学的根拠が全くないにもかかわらず、「大統領は精神異常者で、大統領としての資格は無い」として、25人の民主党議員が議会にトランプ大統領弾劾提案をしようとしております。確かにトランプ大統領のツイートは前例のない程多く、内容は激しく率直すぎる、一国の大統領らしくないと言う非難は当っているかもしれません。しかし、これだけ大手メディアが寄ってたかって大統領をこき下ろすことだけしか報道しないのであれば、大統領としてはツイートによって国民に直接訴えるしかないというのは無理からぬ事情といえます。特に最近暴露されたCNNニュース局の内部で「上司が報道者へ、大統領を誹謗するためのフェイクニュースだけを毎日手を変え品を変えて流せ」という指示をしている現場を隠しカメラで撮った映像が公表されたのです。それは呆れてものが言えない程ひどいものでした。それを知った大統領が痛烈に批判したツイートを立て続けに発表したことに対して、今度はそれを逆手に取って大統領に「精神異常者」というレッテルを張り、それを弾劾理由とするという卑劣極まりない話なのです。

 

私は日本の政治情勢が必ずしも最上とはいえないことを知っておりますが、もし皆さんが今のアメリカの実情を知られたら、これが文明最新国のアメリカでまかり通っているとは「信じられない」とおっしゃると思います。今のアメリカのリベラルなメディアではジャーナリズムのモラルなどひとかけらもありません。何故そうなるかと言えば、大手メディアは視聴率が上がる事だけを目標にし(広告収入に影響しますので)、反トランプのニュースだけを聞きたい見たいリベラルな民衆が50%近くいるので、その人たち相手の視聴率を上げるフェイクニュースだけを流せと上司が指示するからです。

そこでご参考迄に、それ以前の6月に起こった主な事件をご報告します。

 

世界中に暴虐と殺人が氾濫する

 

その一つは、民主党と共和党両院議員による恒例の慈善野球試合の前日に、一人の白人が折から練習中の球場に来て、そこにいるのが共和党議員であることを確めた上で、ハイ・パワー銃で50発近くを乱射し、一人の共和党議員が重傷を負い、数人が負傷、そして犯人は、5分後に駆けつけた警官により射殺されるという惨事が起きました。今世界中において、ISIS以外に、これに似た殺人事件が続発しております。日本も例外ではありません。これは悪魔の断末魔的仕業としか言いようがありません。クリスチャンが聖霊の臨在による栄光の環境をつくり出す事ができるとすれば、その逆に、悪魔は暴虐と殺人の殺伐とした環境つくりができることを今如実に実証していないでしょうか。

 

元 FBI 長官コーメー氏の議会喚問証言

 

次に大きな話題となったのは、トランプ大統領が免職処分した元FBI長官コーメー氏の議会喚問証言です。この議会証言が行われたのは6月8日でしたが、その前から大手メディアの報道は今迄に増して反トランプ攻撃が過激化し、まるで気違い沙汰の様相を呈していました。もはや、フェイク・ニュースかどうかの問題を通り越し、自分が好むニュースだけを報道する、そこには報道者の中立性などは微塵もないのです。多くの場合アナウンサーの顔と声がひきつり、トランプ大統領に対する憎しみを隠そうともしません。ある信用できるレポートによれば、現在のアメリカのメデイアは80%が反トランプ報道であると言われます。

 

そこで今回のコーメー氏喚問でさらけ出された最も重大な証言は、彼が「機密にすべき情報」を他人に漏らし「リーク」したことを自ら認めたことでした。しかもそのリークの目的が、元FBI長官で(コーメー氏曰く)「最高に尊敬できる親友である」ロバート・ミューラー氏が折から取り沙汰されていた大統領のロシアゲート疑惑を調査する特別勧告審査官に任命されるように裏から手回しをした」という意味の供述をしたのです。そして事実ミューラー氏はその通りに任命されました。これこそ裏の政府( DEEP STATE ) の仕業であると信じます。

 

私は今これだけ「リーク」が問題になっている最中に、事もあろうにそれを取り締まる立場にいる FBIの長官自身がリークしたこと、しかも彼はあまりそれを「重大な過失罪」として認識していないことに気が付いて愕然としました。そうであるならリークは今回だけであるはずはなく、今後はそれが追跡されて当然と思います。

尚、「ロシアゲート」とは、昨年の大統領選挙でロシヤがトランプ側と結託して妨害介入したという疑惑問題ですが、最近の民主党はこれを大事件として執拗に煽り立て世界をかく乱しております。その目標はひとえにトランプ大統領を弾劾impeachすることにあり、そのためなら僅かなことでもすべて弾劾の理由にこじつけようとしています。しかし実際には、トランプ大統領が明言しているように、今のところトランプ政権のロシア介入の証拠は一つも出て来ていない、そしてコーメー氏自身も大統領介入への疑惑調査は全く行われていなかったと今回証言しているのです。

 

ここで、参考迄にリック・ジョイナー師の意見をご紹介します。師は「今回のコーメー証言はソープ・オペラを見ているようなもので、結論をいえば、コーメーは自らの墓穴を掘り、トランプが勝利したことは明白です。コーメーはいよいよトラブルに落ち込みました。彼は一度は『絶対にリークしたことはない』と宣誓しておきながら、今回、友人に『リークした』と打ち明けたのですから、これはまさしく偽証罪に問われます。

又、民主党はといえば、今回のコーメー証言から徹底的に『あら』をしぼり出し、それを材料にしゃにむに『トランプ弾劾』にもって行こうとしています。悲しいことに彼らには今それしかできないのです。しかしそのことに、やっと心ある民主党員も民衆も気が付き始めました。一方共和党はどうかといえば、民主党と同じ程、問題だらけです。正直なところ、ここに至ってはアメリカの二大政党政治そのものが、それを修繕すこともできない程完全に崩壊してしまったと思います。

トランプ大統領は、今国内だけでなく世界中から憎まれ攻撃の的になっていますが、彼は窮地に立たされれば立たされる程、神が彼を救出し、彼の実力と名声は逆に上がる一方です。そうとしか考えられません。そして今回もそうなるでしょう。それは彼が神の特別の好意を受けていて、神からのデスティニーと目的を持っているからです。アメリカの歴史を見て下さい。彼以上にメディアと民衆から嫌われてた大統領がいるとすれば、それは暗殺される前迄のリンカーン大統領です。リンカーンを嫌った人たちは、彼が殺されてやっと彼がどれ程偉大なことを成し遂げたかに気が付いたのです。トランプ大統領は同じように、これからも嫌われ、やることなすことに妨害され続け、大統領として本当に自分がしたい仕事ができるようになるまでには一年かかるでしょう。

 

ところで私は今回の証言台でのコーメーの言動からは好ましい印象は全く感じられませんでした。なぜでしょうか。それは彼が証言した事柄の他に、人に言えないようなもっと深い大きな事実を隠しているからだと思います。オバマ大統領の任命した人たちで未だに政府職に残っている人が大勢います。コーメーはその人たちが隠していること、絶対に明るみに出せない陰謀、あるいは知られたくないわいろ=多大な闇の資金を使った悪事が予想以上に大きいことを知っているからであると思います。そうでなければ、ここ迄執拗にトランプ大統領を弾劾し失脚させようと焦る理由は他に考えられません。これらのことはすべて明るみに出されねばなりません。間もなくそれが始まり、前政権下の悪事がどんどん暴かれると思います。それがトランプ大統領の召命であると私は信じます。

 

いずれにせよ、これだけ徹底して議会審議が妨害遅延され、又、メディアに反対攻撃されながらも、トランプ大統領がこの4−5ヶ月の間に、政治・経済・軍事・外交面で成し遂げたことはめざましいものがあります。ほとんどのメディアはそれを報道しませんから、残念ながら世界の人々は知らされていないのです。

(以上がジョイナー師のコメントです。)

 

北朝鮮の核兵器保有の危険性

 

ジョイナー師は続いて、この数ヶ月くり返し北朝鮮の核兵器の脅威について述べていますが、最近、下記の記事をフェイスブックに載せて、それを更に強調しています。

「The Sun、 a new UK news Corp.)・・・その筋の上級専門家(Mr. Lewis )

 

によれば、北朝鮮は既にアメリカに到達するための大陸横断用核弾道ミサイルを打ち上げる技術において、僅か後一歩のところ迄来ていると言う。

北朝鮮は既に近い将来使用するICBMの頭に取り付けるコンパクトな核弾頭は開発済であると信じられ、その最後のハードルは、弾道ミサイルが打ち上げられた後で、大気圏に再突入する際に起こる強烈な空気摩擦によるショック、激しい振動、並びに急激な超加熱に耐えるだけのものを造り上げる技術の開発を残すだけとなった。その開発において、既に昨年地下グラウンド・テストに成功しており、最近の数ヶ月で最後の仕上げを急いでいると言われる。その報道とは別に、最近テストされた四つの新兵器の内の一つは、超精度を誇る短距離誘導ミサイルで、それはグアム島の米軍施設に迄届く(訳者注:勿論日本にも)と言われる。又、対軍艦用のクルーズ・ミサイルも既にテスト済という。」

 

北朝鮮のサテライトは EMP 攻撃に理想的な手段となり得る

 

続いてジョイナー師は下記の記事を引用して、次の事態が現実に起こり得ると声を大にして警告します。

「『北朝鮮は現在、地球の周りを周回する複数の人工衛星を持っていると言われ、そのサテライトを利用して、EMP ( Electric Magnetic Pulse ) 爆弾をアメリカ上空で落とす可能性が強くなって来た・・・』と書いた Oli Smith の記事(5月27日)を紹介します。

 

この EMP爆弾による被害とは、低レベルのEMP爆弾によっては、すべてのエレトロニックス・システム(コンピューター等)が少なくとも一時的にとまります。又大きな爆弾ならば、すべての電気とエレクトロニックス関係の器具、パルス(音響、波動、電波)のいかなる機器電源も損なわれ、飛行機、船舶、自動車、すべての乗り物は止まり、上水下水システムも停止=事実上食料生産も含む通常の文化生活ができなくなります。但し、この爆弾による被害は上記の電気、エレクトロニックス機器に被害が及ぶだけで、その他の人体、動植物、物体には影響がないのです。しかし通常の生活が完全に麻痺しますから、最悪の場合一年以内にほとんどの人間は死に絶える可能性がある、と言われます。

 

そこで、このような被爆を受けた後に生き延びるためには19世紀以前の生活様式(即ち電気器具やコンピューターの無い生活)に戻らねばならない。これが映画・小説の世界ではなく現実にいつでも起こり得る世の中になったのです。北朝鮮は他国をこの爆弾で攻撃できる用意ができているといい、彼らがアメリカ本土を全滅する核戦力を持つのは時間の問題と脅迫するのはあながち嘘ではないのです。

そこで考えねばならないことは、第二次大戦前に、イギリスがドイツのナチが台頭し始めた最初の頃に攻撃しておけば、被害は最小限に留めることができたはず、それをしなかったがために第二次大戦という大変な被害を世界が受けることになったという事実があることです。この教訓は今こそ当てはまります。北朝鮮に対して今の段階で敏速に手を打たないと、ナチと同じように手遅れとなり多大な犠牲を払うことになりかねないのです。」以上がリック師の警告です。

 

とりなしの祈りのお願い

 

そこで、最後に私自身が申し上げる事があるとすれば、私たちがクリスチャンであり、クリスチャンこそは「祈り」という最高の武器を持っているという事実です。神は私たちが信仰で主に祈る事を待っておられます。そして御存知のように私たちの正しい信仰の祈りは絶対に聞かれるのです。

 

悪魔がどのようにあがいても、又、闇が深くなればなる程、私たちが信仰で祈れることによって、必ず勝利するという「証し」ができることを私たちは忘れてはならないと思います。悪魔は「うそ」をならべて「惑わし」「威嚇」「恐れさす」ことしかできません。一方、「信仰」と「真実」と「祈り」を持つクリスチャンは、何一つ恐れる必要がありません。なぜなら勝敗は既に十字架に着かれたキリスト・イエスによって圧倒的勝利が決まっているからです。

 

今、世の中が前代未聞の荒廃と真っ暗な闇の中に突入しつつあるように見えるとすれば、私は興奮します。なぜなら、いよいよ、それは私たちの前途に「前代未聞」の圧倒的「勝利のリバイバル」が近づいて来ている前兆であると信じて止まないからです。現代を生きるクリスチャンは、その「主による大勝利」の証人となるべく、最後の時代の働き手として訓練され生かされて来ているのではありませんか。どうぞ日本の皆様の力強い圧倒的な「とりなしの祈り」を期待しています。(終り)


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