Archive for 6月, 2017:
29 06月
主のご臨在と共に生きる
坂 達 也
私たちはこの二年間、田の字型の四連棟住宅の一角に住んでおりますが、その左隣にはアンデイーとジュデイーという共に81歳になる一組の老夫婦が住んでいます。私たちが引っ越して来て最初にお会いした時、彼らは、隣にクリスチャンが引っ越して来ることをずっと祈っていたと言い、私たちが隣人になったことを大変喜んでくれました。それ以来親しくして来た人たちです。夫のアンデイーさんは元バプテスト系の牧師でしたが、10年程前から心臓疾患による歩行困難が進み、この一年半程は近くの療養所に入っておりました。そしてジュデイー夫人がほとんど毎日そこに出掛けて、夫に付き添うという生活を送っておりました。
先週の木曜日の朝、ジュデイー夫人から電話があり、アンデイーがこの二日間食事も取らなくなったことを報告してくれました。そこで私たちは何が起こっているのかを察し、その日の午後一番に彼が入っている病院付属の療養所に駆けつけました。私たちが病室を訪ねると、彼はいつもと違って顔の血色もよく、のどかな高いびきで寝ていて、私は吃驚し嬉しくなりました。どう見ても死期を迎えた人には見えません。そこで私が祈り始めるといびきが止み、彼は細目を開けて私を見ましたが、又すやすやとやさしいいびきに戻って行きました。
そして二日後の日曜日の朝(6月25日)でしたが、私が主の御前に出た時、直ちに、いつに無い豊かな主のご臨在につつまれました。そこで私は、そのすばらしい愛と平安にひたることができたことを主に心から感謝しました。
祈りの後しばらくして、礼拝に出掛ける準備をしていますと、玄関のベルが鳴り、ドアーを開けると、そこにジュデイー夫人が立っていて、ご主人が前日の午後に昇天したことを伝えてくれたのです。
そこで私は、その朝の祈りで、いきなり濃い主のご臨在を感じた理由を理解することができました。主が私に「アンデイーは無事、わたしの元にもどって来て今ここに、わたしの側にいるよ。今は全くすべての痛みとか拘束から解放され、すっかり喜んでいる。その喜びを分かち合いなさい。」とおっしゃっておられるような気がしたのです。そして教会の礼拝に出た後も、その日終日私は、絶えず主の臨在を感じて喜びに満ちて過ごしました。
その日の礼拝メッセージの中でベンジャミン牧師が、ロマ書12:1
*「・・私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。・・」*
を引用した時、私はすかさず、神が喜ばれる真の*「霊的な礼拝」*とは、
「いつも主の栄光を見上げて、主の御顔を拝し」
「聖霊のご臨在と共に毎日を生きる」
ことであることにハッと気が付いたのです。それは、私たちが生きる毎日の生活のすべてが「霊的な礼拝」でなければならない、そのためには、私たちが自分をいつも
「神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげる」*
ことが前提となることです。それ以外のメッセージはあり得ないという確信を持ちました。
実は私はその前の週に、今の私たちは、ニューヨーク移転の日取りが決まらない事や、私が書こうとしている本の原稿も思うように進展しないことを含め、どこを向いても八方ふさがりであるように思えたとき、私は分かっていながらも、一瞬強い焦りを覚え、上を向いて大きなため息をついたのです。
私自身「主を見つめて待つ」というモットーをいつも自分に言い聞かせておりますが、自分のしたいことが「待たされる」時ほど「自分に死ぬ」ことの必要性を感じることが他にあるでしょうか。皆様の中にもそのような経験をされた方があるいは大勢おられると思います。私は「すべてを主に委ねて生きること」の難しさを過去に数えきれない程感じて来ました。しかし主は、その度に、私たちのミニストリーに Walk With God Ministries =「主と共に歩く」という名前を付けて下さったことを思い起こさせて下さり、それが励みとなりました。この世で生きる私たちの人生とは、まさに「信仰の霊的訓練」に尽きることを今回も改めて教えられると共に、その人生を主が聖霊を通して共に生きてくださる愛と恵みに心から感謝した次第です。
モーセから学ぶ主の「ご臨在」の大切さ
聖霊のご臨在がどれ程すばらしく、また重要なものであるかは、先ず旧約聖書から学ぶことができます。出エジプト記33:7に、モーセが率いるイスラエルの民が荒野を旅行中に宿営するときに、モーセは「会見の幕屋」(新共同訳によれば「臨在の天幕」)という天幕を必ず宿営から離れた所に張り、誰でも主にお伺いを立てたい者ははそこに行けるようにしました。特にモーセがそこに行く時は、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセがその幕屋に入る迄見送りました。彼がその天幕に入ると雲の柱が降りて来て、その入り口に立ち、その中で、主はモーセと語ります。すべての民は、外に立つ雲の柱を仰ぎ見て伏し拝んだと書いてあります。
そして、主は、人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセに語られました。その後、モーセは主に懇願して「主ご自身が、これからの道を、モーセと民と共に行って下さる」という約束を取り付けました。しかし、もし主のご臨在が民と共に行くのでなければ、私たちをここから上らせないでくださいと、モーセは主に念を押したのでした。そしてその後モーセは主に主の栄光を見せて欲しいと改めてお願いしたのです。
後にモーセの幕屋が造られたときには、聖所の前の庭には「全焼のいけにえ」を絶やすことなく主にささげる祭壇が設けられました。それが出エジプト記29:42、43に書かれています。下記をご覧下さい。
「これは、主の前、会見の天幕の入り口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことの無い全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会い。そこはわたしの栄光によって聖とされる。」
私たち霊のイスラエルこそが、「代々にわたって絶やすことの無い全焼のいけにえ」であると私は解釈できると思います。
私たちのからだが聖い生きた供え物となるには
他人の臓器移植を受けると元の人の性質とか嗜好が移植した人に持ち込まれることが多いそうです。英国である中年の女性が、オートバイ事故で死んだ18歳の男性から心臓と肺の臓器移植を受けた所、その女性は突然今迄無かった嗜好としてビールが飲みたくなり、チキンの唐揚げが食べたくなっただけでなく、モーターバイクに乗りたい強い気持ちになったそうです。これら三つの嗜好は彼女自身が持っていた嗜好ではなく、その臓器の持ち主から移植されて受け継いだものであったというのです。つまり、人間の身体はその人の生きた歴史を生物学的に記録するというのです。
又、感情がその人の生理機能に大きく影響を与えることは誰しも経験します。恥ずかしいことをしたとか、急に怒り出した人の顔が赤くなることや、恐ろしさに手が震えたり、あるいはストレスが身体に大きな影響を与えることはよく知られています。それだけではありません。ボーン・アゲインして霊的なトランスフォーメーションを経験をした人は、実際に「神がその人に移り住む」変化が起きるそうです。すなわち、「聖霊がその人の人体の細胞に影響を与え」名実共に2コリント5:17に書かれている「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」が生理学的に起こると、生理人体専門学位を持つ神学博士のジェン・クラーク師は指摘します。
その一例として、クリスチャンになれば、キリストから霊的な平安が与えられ(ヨハネ14:27)日常生活でその平安と愛を多く経験しますが、一方で、多くの人は、クリスチャンになった後でも、昔経験したネガティブな感情から来る古傷がトラウマとなって残っています。これらは、その人が過去に経験した感情が細胞の上に記憶として残した人生記録の一部ですが、私たちは、聖霊の臨在によってその傷を完全に癒すことができると、クラーク師は言われます。
話しは変わりますが、私が未だ牧会していた頃に「クリスチャンはよい香りと味の沁み込んだ『聖霊漬け』にならねばならない」とよく言っていたことを覚えています。これも量子学的事実として理解できるのではないでしょうか。それを言えば、もう一つあります。
それは10年程前にジェシカ・ジョーンズ師という預言者が書いていたことですが、師は「人間が合唱するとき、よい声か悪い声かは別にして、私たちは皆音声を持って歌います。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と共に、私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったもので、この合わさった声が音の振動を作り、それが天にまで届くのです。私たちすべての人は音から創られました。私たちが話したり歌ったりする言葉には力があります。そして私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があるのです。事実、すべてのものは物体ではありますがそれは音(振動)であるのです。そして、すべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、その色が一致するとき白い色になります。白は私たちすべての心、魂、身体が三位一体の神と一致し調和している色なのです。白は義の衣の色でもあります。それはこの世が見るような皮膚の色とは何の関係もありません。音があなたから発せられ、他の人の音と一緒になって天にまで上っていくのを想像してください。そしてこの力が何百万、何千万という人々の力と一緒になり、天にまで広がってゆき、愛、崇拝、感謝、創造の力となっていくのを思い描いてください。その効果はどんなに素晴らしいことでしょうか。天では絶えることのない祈りと天使の働きにより平和があり、すべての民が絶えず喜んでいるので、言葉で表すことが出来ないほどの喜びが満ちているのです。」といわれます。このようにして私たちのからだが神への「聖い生きた供え物になる」ためには、私たちは常に聖霊のご臨在の中で生き、聖霊によって浄められねばなりません。そのことが2コリント3:16−18に書かれています。
「人が主に向く(上を見上げる)なら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊(聖霊)です。そして主の御霊があるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
最後に、私たちが「主を見上げて待つ」祈りをする時に経験する最も大事なことといえば、私たちクリスチャンに内在する聖霊の「ご臨在」に出会うことを期待し、それを待ち望むことであると言うことです。すなわち、それは私たちが顔と顔を合わせて主と対面することが霊的に起こることを意味すると私は信じます。それをモーセはシナイ山上での40日間の祈りで経験し、その後下山したとき、彼の顔があまりにも輝いていたので、民がまぶしくて、覆いを掛ける必要があった程でした。私たちもできるだけ多くの時間を割いて主を見上げ、そして聖霊のご臨在に遭遇することが、私たちのからだ全体を主と同じ栄光に輝く主に似た者に変えるのです。それによって、私たちのからだが主への「聖い生きた供え物」となるのではないでしょうか。
さて、そこでその「ご臨在の中に入る」のに、どのくらいの時間が掛かるのかと言いますと、グラハム・クック師は普通10−15秒でそうなれるといいます。私の場合はとてもそんなに早くはできません。私がこのコンテンプレイティブ・プレイヤーを始めた頃は祈り始めて一時間も二時間も掛りましたが、今では普通30分以内です。早くそうなれるかなれないかは、どれ程自分が平静で主の平安の中にいるかどうかによります。何かのプレッシャーとか悩み事がある場合はより多くの時間が掛かることを経験しています。それに、普通クリスチャンになれば、聖霊が内在しますが、それだけでは聖霊のご臨在の前に出たことにはなりません。
本物の聖霊の臨在体験とは、例えば、ビル・ジョンソン師が常に願い、命がけで求めて来られた主の栄光に満ち溢れた臨在の体験であると思います。ーそれは、降りて来る「栄光の雲」を待ち望み、その「霊的環境を造ること」にあります。ジョンソン師と彼の教会が主を礼拝する最大の目的がそこにあり、そのような臨在の中でクリスチャンがみな真の礼拝をするとき、癒しはひとりでに起こるといわれます。
しかし、すべての聖霊体験は、クリスチャンがみな、それぞれ個人的に主に飢え乾き、主との顔と顔を合わす交わりに入ることから始まることを忘れないでいただきたいと思います。(終り)
27 06月
神の愛の奥義
ショーン・ボルツ(ボルツ・ミニストリーズ)
もしも神の愛の奥義の見本を見たいのであれば、私たちはイエスを見ればよいのです。御父が世の初めから人びとに対して持っておられた愛の御こころを、イエスほど深く知っていた方はありませんでした。イエスは、当時律法で交わることを禁じられていた人々とも交わりを持たれました。
その中の一人にヨハネ4章のサマリヤの女があります。主は彼女に話しかけて水をくださいと頼みました。そして二人は驚くべき会話を交わし始めたのです。主はその女の人生の詳細を告げたので、彼女は驚嘆しました。
ここで私が衝撃を受けることがあります。それは、彼女がそれまで何人もの夫を持ち、何人もの男性と関係したにも拘わらず、主が彼女の中に価値を見出したことです。しかも彼女は現在夫ではない男と住んでいました。その上、彼女はサマリヤ人で、ユダヤ人が言葉を交わすことは律法で禁じられていました。
主は時間をさいて話しかけるほどに彼女に価値を見出し、そのような目で彼女を見たのです。主は彼女のよくない行状を明らかにしましたが、その話し方は憐れみと愛に満ちていたので、彼女はイエスを信じ受け入れました。彼女が町にもどって「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいます。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:39−41)と証言したのは、自分が主から裁かれたのではなく、愛されたという確信があったからです。イエスがサマリヤの女にこのように接したことは驚嘆に値します。
コロサイ1:15は、イエスを見るならば、神が被造物すべてに対してもともと意図されたかたちを見ることが出来る、と言っています。ですからイエスは実にすばらしい特別な方であることは明らかです。イエスがご自分のまわりの世界をどのように見られるか、どのように取り扱われるかは非常に特別で、それは実に私たちに対するお手本となります。
イエスはまわりの人々を見て、「わたしの父はあなたのために天に家を建てています。」と言われました。神は、神と共にいることを選びとる人々のために、天の家までも既に計画されている愛に満ちたお方なのです。
ですから私たちの心の中にはこのような愛の思い、愛の精神がなければなりません。神の愛の奥義はまず私たちの心の中からスタートします。神の愛の奥義は私たちの内にあり、それが私たちと「この地に対する神の元々の目的と計画」とを結びつけるのです。アダムとエバがエデンの園を去ったとき、神は回復の計画をもたれていましたが、その計画はイエスにおいて現実となって現れました。
そのご計画は、地上に神の王国を回復することだけにとどまりませんでした。イエスは人類を愛し、私たちをヨハネ10:10にある真実に「そうか、わかった!」と応答する瞬間へと呼び戻し、真に豊かな人生へと招いてくださったのです。それは即ち、神が私たちに与えてくださった元々の目的に生きる人生です。
主は何の資格もない弟子たちを、全教会を建て上げていくための土台となる価値がすでに100%あるかのように取り扱われました。主は弟子たちのうちに何か特別なものを見られたのです。他の誰も見なかったものを見られたのです。主は、教養もない平凡な者たちを、特別な愛と信念を持って取り扱うことにより、
リーダーとして建て上げたのです。その結果弟子たちは歴史上最も偉大なリーダーの数に入る者に成長しました。イエスはこのような方でした。そして私たちもそのような者であるべきなのです。それは人びとの内側に金を見出すのです。
私たちは「この人は神の御こころの中ではどのような人なのだろうか?」を見なければなりません。「神は世の初めから彼をどのような人として考えておられたのか?」を思い、「彼の誕生日、結婚相手、 選ぶ職業、その人の永遠を見ておられた神は、彼をどのような人として考えておられたのだろうか?」と。
もし神が今地上におられたら、神は彼をどのように見られ、どのように取り扱われただろうか?」と考えてみるのです。
ですから預言とは霊の賜物である以前に、私たちが人びとをどのように取り扱うかということを知ることであり、人びとを神の永遠の光に照らして見ることを選び取ることです。
ここで一つの経験をお話ししたいと思います。
あるコンベンションのために私はホノルルに行きましたが、ある人が、「ホテルに泊まらずに自分の持っているマンションを是非使ってください」と言ってくれました。一つだけ問題があり、それはマンションがホノルルのいかがわしい場所に隣接していることでした。
私は夜の10時頃、よくサンドイッチを買うために街に出ました。ある夜歩いていると、一人の若者が「お兄さん、何か入り用はないかい?」と言って私を止めました。彼はドラッグとか売春のことを言っていたのです。私は「いや、何もいらないよ。サンドイッチを買いに行くところだよ。」と言いました。すると彼は「本当かい?ドラッグはどうだい?」と言うので、私はいらないと答えました。
彼は「女の子はどうだい?」と言って、階段にいる女の子を指差しました。女の子は10代の男の子二人と一緒でした。(その時彼女は16歳でした。)私は「いいや、女の子はいらないけど、彼女とちょっと話をするよ。」と言いました。
私は彼女のそばに行き、「一緒にしたいことがあるんだけど..ちょっと変に聞こえるかもしれないけどね..私はクリスチャンで、神様が計画された人生の目的があなたにあると信じているんだよ。あなたは何のために生まれてきたか知ってる?自分がどういう者であるかを知ってる?」と訊きました。彼女は「知らないわ。」と答えました。私は「何をして生きていきたいと思う?」と聞くと、彼女はまた。「知らない。」と言いました。
私は「わかった。じゃあ、私の信仰をちょっと借りてみてよ。そして一緒に祈って、私が神様にあなたに代わって質問をするよ、すると神様はきっと答えてくれるよ。いいね?」と言いました。彼女は街の通りで目を閉じることを少しためらいましたが、私のことばに従って私と一緒に目を閉じました。私は「神様、私が生まれる何百万年も前にあなたが私のために考えた人生の目的はなんでしょうか?」と祈りました。
すると彼女は「アッ」と声を上げました。彼女はすぐ心に何かを聞いたのです。
それは「あなたはコックになることになっています。」という言葉でした。私は「あなたは料理するのが好きですか?」と尋ねました。彼女は「そう思うわ。」と答えました。私は「すごいね。本当に素晴らしい。あなたが人生に成功することが一つ分かったんだね。何から始めればいいか神様に訊いてみようよ。」と言って、「神様、わかりました。コックになるために2週間のうちに私は何をすればいいのですか?」と祈りました。
すると彼女は又「アッ」と言ったので、一緒にいた若者たちも「何?何?」と訊きました。彼らも興奮してきたのです。彼女は次のように言いました。「私の叔父さんに電話をするように言われたの。私のお母さんと叔父さんはずっと仲違いをしていて、私が家出をしてから家族や親戚に連絡したことは一度もないわ。だから私が叔父さんに電話をしたら、きっと来てもいいって言ってくれると思うの。それに叔父さんはレストランをしているから、私を雇ってくれると思うわ。」
私は「本当にすごいね。これは神様だね。神様はあなたを愛しておられるんだよ。神様はあなたが今の生活から抜け出す計画を与えてくださっているんだ。それはあなたをすごく愛しておられるからなんだよ。叔父さんに電話をすると約束してくれる?」と聞くと、彼女は「ええ。」と答えました。私は私の電話番号を渡して、彼女が叔父さんに今週電話したら、私に報告してくれるように頼みました。
彼女は翌日叔父さんに電話をしました。叔父さんは熱心なクリスチャンでイエスを愛していました。彼が女の子のお母さんと仲違いをした理由は、お母さんがキリスト教や宗教を非常に嫌っていたからでした。女の子は叔父さん夫婦と住むようになり、レストランで働き始めました。
8、9ヶ月経って、彼女が電話をしてきました。「信じられないと思うけどね、叔父さんが新しいレストランを開くことになって、その権利の50%を私に持たせてくれるの!」そしてそれは丁度彼女が復帰した高校から卒業する時でした。
神は彼女を街から信仰へと救い出して下さっただけではなく、神がご計画された召しへと導いて下さったのです。私たちは、たとえ召された道からはずれたとしても、神は私たちが相続を取り戻す機会をいつも待ち望んでおられます。ご自分の愛と人生の元々の目的を私たちに話したいと、うずうずしておられるのです。
私たちが人のために神の声を聞くことを学ぶならば、たとえそれが預言の言葉にならなくてもよいのです。ホノルルの女の子は自分で神から聞いたのです。神は、私たちが人びとを見るときに彼らの持つ真の価値を見るように教えたいと願っておられるのです。女の子は街の売春婦に堕ちていったかもしれませんでした。しかし神は違う道に導いて下さいました。
皆さん、イエスがこの世に来られたのは、御父が初めに夢見られた豊かな人生を私たちに与えるためです。それはヨハネ3:16に書かれています。そして3:17にあるように、神はこの世がどれほど悪いかを指摘し糾弾するためではなく、この世を助け、回復させるためにイエスを送られたのです。
今、あなたの人生を考えてください。神との関係において真の自分として生きていない部分があるかもしれません。自分をまだ神の御こころに照らし合わせては見ていないかもしれません。神はあなたを神の元々の計画と目的に回復させるためにイエスを送られたのです。
多くの人は私に「もうあまりにも離れ過ぎてしまいました」とか、「もうそんな時間はありません」とか、「もう年寄り過ぎます」とか、「もう機会を失いました」とか言います。「神の元々の計画と目的に回復できる道など本当にあるのでしょうか?」と訝しく思うのです。
でも真実はこれです。イエスはご自分が召された課題すべてを遂行するのに3年半しかかからなかったのです。もしあなたの人生に3年半が残されているならば、あなたには十分な時間があるのです。今これを見ている人のほとんどが「まさにこれは自分のことだ」と感じていると思います。神の御こころの中にはあなたへの愛があり、そこから神の恵みがあなたに注がれ、その恵みはあなたを変える力があるのです。そしてその恵みは神があなたに最初に願った姿へとあなたを変えて行くのです。
キリスト教は、あなたが麻薬中毒者であったとしても、回心すれば神にあって完全に充実した豊かな人生を送ることを可能にする唯一の宗教です。私は全くどうしようもないような過去をもつビジネスマンたちに出会って来ました。
彼らの人生は回心により突然変革され、彼らの人生から神ご自身が輝き出るようになったのです。
第一コリント1:26〜31は私の好きな箇所の一つですが、私たちの持つ資格について書かれています。神があなたを選んだのは、あなたが最も優れているとか、最も偉大であるとか、よい家柄であるとかいう理由ではありませんでした。神はこの世の強い者たちを辱めるために、最も弱い者たちを選ばれたのです。
マタイ5:14にあるように、神はあなたを一番高い丘に置いてそこで輝かせたいのです。それはあなたが現在どこにいるかは問題ではありません。この聖書箇所は、イエスが全く何の資格もない者たちに向かって話しているところです。イエスは、彼らが神の愛の中で成長して行き、神が元々計画されていた姿になるようにされました。イエスは彼らが既に御父が当初からご計画された者であるかのように、取り扱われたのです。これが神の愛の奥義です。弟子たちは、神が計画されていた「なるべき姿そのもの」になったのです。
私たちクリスチャンもこのようでなければなりません。私たちは御父のこころの中にある偉大なる愛の奥義に従って、お互いを「イエスにふさわしい者」として取り扱わねばなりません。私たちは皆、イエスが十字架で支払ったすべての代価に値するふさわしい者だからです。そしてお互いをそのように取り扱うとき、それは即、預言となるのです。なぜならば、それは人をアップグレイドされた姿で見て、お互いを人生のゴールで、手にトロフィーを持った姿で見るからです。
私たちは互いの資格が今よりもずっとあるかのごとく振る舞いはじめます。今の姿と未来の姿とのギャップは、信仰で埋めるのです。未来の姿にふさわしい者としてお互いを取り扱うならば、私たちはイエスの御名を高く上げることになります。なぜならば、それによって私たちは神がリアルなお方であり、神の愛がすばらしいことを世に現すことができるからです。(終り)
20 06月
輝く聖さ
フランシス・フランジペイン
キリストが私たちの内に入られた瞬間から、私たちは聖いもの(holy)、神のために選り分けられたものとなりました。この種の「聖さholiness」は、神殿で用いられる器具が持つ「聖さ」と同じであり、それは主のために用いられる故に聖いのです。器具自体にはなんの徳もありません。材質が変化したのでもありません。主に仕えるという意味において、キリスト教は「聖い」と言えるでしょう。しかし私たちが追い求める聖さは、ただ「選り分たれている」というだけではなく、そのような者として成熟し完成することです。私たちが求めるのは、天の御父の臨在が自分を通して映しだされるような聖さです。私たちは御父のご性質とその素晴らしいいのちの両方を追い求めているのです。
真の聖さは、私たちの内に聖霊のいのちを実際に生み出すものですから、聖霊がどのようなお方であるかをまずはっきりと知る必要があります。神の御霊は愛であり、宗教ではありません。神はいのちであり、儀式ではありません。聖霊は、私たちが異言を語ったり証しできるようにするだけではありません。聖霊は私たちをイエスの御前、イエスの臨在へと導いてくださるのです。そこにおいて私たちはイエス・キリストと結び合わされ交わることによって聖さを受けとるのです。
繰り返しますが、私たちが求める聖さとは、一連の規則や律法を守るということではなく、キリストご自身が持っておられる素晴らしいいのちです。聖霊は私たちの内に働いて、私たちがもっと人を愛したいという新たな願いを起こさせるだけではなく、まさにキリストご自身の愛を私たちに分与してくださるのです。私たちは普通に言うところの「イエスを信じる信仰」以上のものを持ち始めます。私たちは、実にイエスが持たれる信仰のレベルと質をもって、イエスと同じように信じ始めるのです。私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神です。小さな止まり木に満足気に心地よく座っていた私たちを揺すぶり振り落としてもらいましょう。そうすれば私たちは大きなおののきと大きな喜び、深い礼拝と聖なる畏れをもって、ご自分の意志と目的のために私たちを引き寄せてくださった神のリアリティーへと近づくことができるのです。
第1コリント3:16に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とあります。神の御霊が私たちのうちに住んでおられるのです。これに照らし合わせて、古からの「人とは何者なのか?」という問いかけを再び考えてみようではありませんか。私たちは自分が他の人々にどのように映っているかは分かっています。でも、もし神が本当に私たちの内におられるならば、天使や悪霊にはどのように映っているのでしょうか? 霊の世界で私たちはどのような光を放っているのでしょうか?
私たちの周りはどのような色の輝きがあるのでしょうか?
目に見えない霊の世界に向かって、「見て心せよ。神の子が今ここに来た。」と布告するのはどのような栄光の輝きなのでしょうか?
考えてみて下さい。初めに創造主はご自分の姿に似せて人を造ろうと思われたましたが、そのお方の御霊があなたの内に、今、おられるのです。
「聖さ」とは光に満ちたからだ
聖くなるためには制限があります。条件があります。あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。光と闇に、罪と義に、自分と神に、同時に仕えることはできません。光があなたの内にあります。しかし闇も又、あるのです。私たちの世界は暗やみの世界です。私たちの先祖は暗やみの子らでした。私たちの肉の思いは、いまだに暗やみが活躍する舞台になっています。選択を迫られる世界で私たちは光を選び取らねばなりません。「光の大人として完全に成熟したいならば、誠実で二心のない者でなければならない」とイエスが教えられた理由がここにあります。「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全(純真 誠実 二心がない)なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)」と主は言われました。
もしあなたが自分の意志と思いを神に集中するならば、あなたの全身は光で満ち、あなたの内におられる神の栄光を完全に表すことができるのです。しかし、もしあなたに二心があり、罪や悪の思いに留まり続けるならば、あなたの光は徐々に暗くなり、遂には暗やみで満ちてしまいます。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)」と警告されています。
自分の救いに関して何もせず、神を求めず、神に従うことを拒否するならば、あなたは闇の中にいるのです。「まあ、いつか自分は何となくそれなりに良くなっていくだろう」というような、当ての無い希望で自分を慰めるのをやめてください。決意という武具で身を固めてください!
もしあなたの光が闇の中に埋もれているとしたら、その闇はどんなにか恐ろしいことでしょう。光の子たちよ、あなたがたは闇を憎まねばなりません!闇は地獄の実体です。それは神の存在しない世界なのです!
しかし、私たちの望みは闇ではなく光です。あなたの足は義人の道を歩いています。その道はますます輝きを増して真昼のようになるのです。ルカ11:36に「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」とあります。この節は「聖さ」が完全になったときの姿を明瞭に示しています。即ち、私たちのからだはあかりが輝くように栄光で輝くのです。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのです。
霊的に成熟した者、あるいは神の聖者のためには、光と栄光に輝く衣が用意されているのです。それは変貌の山でイエスが着ていた衣と同じものです!それは永遠の中でだけまとう輝きではなく、今ここで、即ち「曲がった邪悪な世代のただ中で」「世の光として輝く」ことです。(ピリピ 2:15、16)
エペソ5:8「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」
今、あなたは光のこどもです。これは単なる比喩ではありません。神の栄光があなたの内とあなたの周りにあるのです。それが霊的なリアリティーです!
ではあなたのうちにまだ残っている暗やみはどうなるのでしょうか? パウロを続けて言っています。
エペソ5:11、13「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい...けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」
あなたの暗やみを隠さないで、明るみに出してください。暗やみの言い訳をしないで、告白してください。憎んでください。断ち切ってください。なぜならば、暗やみがそのまま闇の中に留まっている限り、それはあなたを支配するからです。しかし暗やみを光の中に持ち出すならば、それは光となります。今まで隠していた罪を持って神の恵みの御座に大胆に進み告白するならば、神はすべての罪からあなたをきよめてくださるのです。(第一ヨハネ1:9)あなたがもし再び罪を犯すならば、また悔い改めてください。あなたの中で罪の習慣がなくなるまで何度でも悔い改めてください。
昔鉱山の山元がしたように、あなたは神の御国でしっかりと自分の領域に杭を打ち、あなたが権利を有する天国の純金を守る備えをせねばなりません。(黙示3:18参照)
そしてあなたが恵みの御座の前にずっと留まり続ける時、炉の上の熱い石炭のように、何か永遠なるものがあなたの中で輝き始めます。そしてあなたが全能の神と時を過ごすとき、神の臨在の聖なる火が、あなたの今までの人生の木やわら、草を焼き尽くすでしょう。イエスが持っておられたような力があなたの一番奥深い部分に宿るでしょう。天使たちは畏敬の念をもって見守り、あなたの金は精錬され、あなたの衣は光となり、あなたの人生は聖くなります。(終り)
19 06月
キャサリン・クーマンの夢
ポール•キース•デイビス(ホワイトドーブ・ミニストリーズ)
先週末に見た夢の話をしたいと思います。多くの場合、私が朝、目を覚ます直前に見る夢は、目的とメッセージを持っているようです。その夢はキャサリン・クーマンの夢でした。キャサリーンはご存知のように癒しや預言で大きく用いられた器ですが、私は彼女のミニストリーによって長年、沢山の事を学ぶことができました。夢の中で、彼女は一人で話していましたが、2つの要点がありました。それをお分ちしたいと思いますが、その前に少し説明をさせてください。
4年ほど前のことですが、いつものように私は静かに主を待ち望んでおりました。自分の魂を静めて、聖霊に耳を傾けていたとき、ある声を聞きました。「今あなたが信じていること、重要だと思うこと、あなたという人間の形成に最も影響を与えたミニストリーは何ですか?」という問いでした。答えはすぐに私の頭に浮かびました。「ウイリアム・ブラナム、アレクサンダー・ダウイー、キャサリン・クーマン、マライア・ウッドワース・エタ、ジョン・G・レイク、A・A・アレン」と私は6人の名前を挙げました。するとその声は「彼らの名前には何文字ありますか?」と聞きました。
私はそんなことは考えたことも無かったのですが、一つひとつ数え始めました。「William Branham...14文字。Alexander
Dowie...14文字です。Kathryn Kuhiman...これも14文字」私はこれは面白いと思い始めました。次はMaria
Woodworth Ettaの番でしたが、私は「これはいくら何でも長過ぎる」と思ったのですが、私の内の声が「わたしが彼女を召したとき、彼女はまだMaria Woodworthでした。」と言ったのです。するとそれは14文字であり、私はショックを受けました。次はJohn G.Lakeでしたが、Gが何の頭文字かを知らなかったので調べたところ、Grahamであることがわかりました。John Graham Lakeもやはり14文字でした。最後のA. A. Allenも調べてみると、Asa Alonso Allenであることが分かり、これもまた14文字だったのです!
彼らの名はすべて14のアルファベットからできていることが分かったのですが、これは私にとってとても意味深いことでした。(これについてはまたいつかお話したいと思いますが、例えば使徒パウロのミニストリーは14という数にとても関連していると思います。)とにかくこの事実は私が今まで考えもしなかったことであり、驚きでした。
この6人はそれぞれが神の御性質の一つの面を表していると思いますが、それは私にとって特別に興味深いことであり、神は私の信仰が形成される過程で彼らを用いられ、終末の時代に何を語るべきかを示してくださったのだと思います。
さて、キャサリン・クーマンから夢で語られたことの第一は、祈りの生活に関してです。彼女について研究し始めたとき、彼女が「私のベストフレンドは聖霊です。」と言ったことばに私は衝撃を受けました。私はそれに関していろいろと学んだのですが、彼女は絶え間ない聖霊との交わりに中で生きていたということです。パウロは「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり(fellowship of the Holy Spirit)があなたがたすべてとともにありますように。」(2コリント13:13)と言っていますが、彼女は実際にそのような聖霊との絶えざる交わりの中で生きていたのです。それは一体どのようなことなのでしょうか。
ある時彼女は「癒しの大集会の前にあなたはどのくらい祈るのですか?」という質問を受けました。人々は、そのような集会の前には彼女はきっとどこかに閉じこもって2、3時間くらい異言で激しく祈って油注ぎを求めるのではないかと、想像したのでしょう。けれども彼女の答えは「いつも以上に祈るということはありません。」というものでした。それは祈りの力を信じないからではなく、彼女が絶え間ない聖霊との親しい交わりの中にいたからなのです。オクラホマ州タルサの集会の後で、オーラル・ロバーツ師が彼女のところに来て、「集会で力を出しきってお疲れでしたら、外に食事に行かなくてもいいですが...」と言うと、「大丈夫です。私はこのような油注ぎの中でいつも暮らしていますから。」と答えたそうです。
絶え間ない聖霊の臨在の中で生きている人がいるのだという事実は、私に衝撃を与えました。イエスはそのように生きておられました。そしてそれが私たちのお手本です。「御霊が鳩のように天からくだって、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」とバプテスマのヨハネは証言しています。(ヨハネ1:32)
少し前に主はご自分の祈りの生活についての私の理解を正してくださいました。人間的な考えから、私は次のように思っていました。「主は一日中、多くの病人を癒し、教え、説教し、悪霊を追い出して長時間ミニストリーをした後で、『主は夜通し祈られた』と聖書に書いてある。なんという献身であろうか。」と。しかし主が言われました。「あなたはわたしの祈りの生活について大きな誤解をしています。御父のもとに行き、祈ることはわたしにとって労働ではなく、報酬なのです。わたしはその時を一日中待ち望んでいるのです。」と。そして私は短い幻を見せられました。それは主が弟子たちから離れて荒野に出て行かれ、御父の臨在の中でご自分を解き放たれている姿でした。それは確かに「祈り」でしたが、又同時に交わりであり、臨在の中での豊かで親しい語り合いでした。リフレッシュの時であり、イエスの肉体が回復される時でした。又、御父との交わりの中で豊かな啓示が与えられる時でした。
私の祈りの生活とは、労働や責任ではなく、喜びであり、生き方そのものであり、絶えざる聖霊との交わりの中で一日を過ごすことだとわかりました。勿論私がそこに到達したわけではありませんが、目標はそこにあります。私がキャサリン・クーマンの生き方から学んだことの一つは、彼女がそのような主にある生き方を発見し会得していたということです。彼女はそのような主との絶えざる交わりという祈りの生活を求めるようにと、夢を通して私を励ましてくれたのです。主からのそのような招きが私たちすべてに今与えられていると信じます。
さて、夢の二つ目のポイントですが、彼女は特有の大きな身振りで力を込めて「あなたは御ことばを食べねばなりません!それからそれを口から吐き出すのです!」と言いました。その瞬間、私は目を覚ましました。彼女が言った意味を私は知っていました。黙示録10章で、ヨハネは巻き物を見せられて「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」と御使いに告げられました。ヨハネがそれに従ったとき、「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」と御使いは言いました。ここで言っているのは、あなたは何かを食べたならば、それは口に留まるのではなく、腹にまで入らねばならないということです。主はこれから時代、私たちが語ったり、説教したり、預言したりするときは、頭から言葉を出すのではなく、腹から出さねばならないと言っているのです。主が求めておられるのは、もっと沢山の「説教者」ではなく、「メッセンジャー」なのです。もっと多くの「説教」ではなく、「メッセ—ジ」を求めておられるのです。
夢の要点の#2は要点#1と密接に関係しています。あなたが#1の生活をするときに聖霊があなたのベストフレンドとなり、#2が可能となります。あなたはイエスの啓示を食べ、それは腹にまで入り、それが預言となりあなたの口から出るのです。あなたはすべての人に読まれる生きた書簡となります。
この2点は非常に重要であると私は信じます。私たちにとっての鍵であり土台です。来るべきことを悟ることができるのです。あなたの語ることは生きた言葉となります。油注ぎの中から生まれている言葉です。単に暗記した言葉とか、学んだ言葉ではなく、あなたの命の中から出てくる啓示の言葉です。「預言」をあらわすヘブル語には「吐き出す」という意味もあります。終末に関する神の奥義を、聖霊との絶えざる交わりの中で受け取り、それを吐き出すのです。これは皆さんのデスティニーでもあります。神の恵みにより私たちはそのように24/7過ごすことが可能です。
イエスが御父の臨在の中でご自分を解き放たれたように、私たちも神の臨在の中に生きるとき、変革されて行き、神の生ける言葉を預言するようになるのです。(終り)
13 06月
恵みの御座に近づく
リック・ジョイナー(モーニングスター・ミニストリーズ)
ヘブル4:14−16
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
神の御座は威厳に満ちた神聖な場所ですが、私たちには、ご自分には罪が無いにもかかわらず私たちの弱さに同情してくださるイエスという大祭司がおられます。イエスが十字架につかれて私たちの罪の代価を支払われたのは、私たちをその罪に定めるためではありませんでした。主は私たちが神と和解できるように十字架についてくださったのです。ですから私たちは必要な時はいつでも神の荘厳な御座の前に進み出るならば恵みを受けるであろうと言われているのです。
もし「福音」に何か欠点があるとすれば、それは福音があまりにもすばらしくて本当とは思われないことでしょう。恐れ多い万能の神が、このように親切で、情け深く、優しいことがどうしてあり得るのでしょうか?
神はあまりにも善き方、すばらしい方であるので、私たちがそれを理解し受け取るのは難しく、通常、少し時間がかかるものです。神の赦しを受けるのがそれほど簡単であり、しかも受けるために私たちがすることは何もないことを理解するのは難しいのです。私たちの完全な赦しのための代価はすでに支払われたのであり、もしまだ私たちが何か支払わねばならないと思うならば、それはイエスの生け贄が十分ではなかったと言うことになります。
多くの人が「神の憐れみは受けたいが、神の裁きはいらない」と言います。しかしながら、神の憐れみは、神の裁きがある故に確固たるものとなるのです。つまり、神の裁きにより罪の結果は死であると確立され、そしてイエスは、死ぬべき罪は無かったにもかかわらず、私たちの罪の代価として私たちに代わって死なれたのです。もし私たちが自分の罪のためにまだ何か支払う必要があるというならば、それは不当なことであり、御父がイエスの生け贄を十分なものとして受け入れなかったことになります。
ですから、私たちは罪を犯したときも、正しく歩んでいた時と同じように神の御座の前に大胆に進むことができるのです。自分自身の義ではなく、イエスの血潮と主の代価によって御前に進むのです。私たちがイエスの義の衣をまとって御座の前に行くとき、御父が見られるのはイエスの義だけであり、私たちは、それが良い日であっても悪い日であっても、神の目には完全に清い者として映るのです。
主の御前に進み出る力は、自分がどれほどうまくやったかに基づくのではなく、「イエスの十字架は私たちの罪や過ちを覆うのに十分である」という単純な信仰によるのです。私たちが大胆になれるのは、イエスが達成されたことによるのであり、自分が何をしたか、しなかったかによるのではありません。主の臨在の前に行くために自分が完全になるのを待つ必要はなく、主の臨在によって私たちは完全にされるのです。
イエスが水の上を歩いているのをペテロが見て、舟をおりて主と共に水の上を歩いた時、イエスから目を離さない間だけそれが出来ました。波を見た途端、ペテロは沈み始めました。私たちも、自分の古い罪の性質(罪の世界で生きている結果のすべて)の絶え間ない葛藤の中で、それと同じことをするのです。私たちがイエスに目を注いでいる間は、自分の古い性質や人生の試煉という波の上を歩くことができます。もし私たちが葛藤(波)に焦点をあて始めるならば、沈むのです。
ですから私たちは御座の部屋に傲慢な態度でずかずかと入って行くのではなく、感謝のこころで入るのです。私たちは「感謝しつつ主の門に(詩編100:4)」入るのです。このような偉大な憐れみと偉大な恵みに感謝しないでおられるでしょうか?
大胆なへりくだりは、主と主がしてくださったことに対して大胆になることです。私たちの大胆さは、私たちの主への信仰を反映するものです。
次に黙示録に書かれている御座について考えてみましょう。
黙示録5:1−5
また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もなかった。巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
イエスの他には天にも地にも開くにふさわしい者がいなかったというこの巻き物は何なのでしょうか? 七つの封印とは何でしょうか?
ヨハネが神の御座の前で起こったこの重要な出来事の場に何故いたのか、そして何故イエスだけが巻き物を解くことができたのかを理解する必要があります。
ヨハネはこのヴィジョンの中では預言者という立場だけではなく、とりなし手でもありました。詩編115:16に「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」とあります。主は私たちの必要を私たちよりよくご存知です。しかし、主は地に対する権威を人類に委任されたので、私たちが願わなければ地のことはされません。それでヨハネはここでとりなし手の役割をし、巻き物を開く者がないので泣いていたのです。地を代表するものが巻き物を開きたいと願わねばならなかったのです。そして巻き物を開くにふさわしい者、即ちユダ族のしし、ダビデの根、イエス、がいるという啓示が与えられます。
私はある時、霊で御座の前に上げられ、私の友人に対して向けられた主の怒りを目の当たりにしました。主は彼が重大な罪を犯しているにもかかわらず悔い改めないので、彼の命を取ると言われました。私は主にもう一度チャンスを下さるように懇願し、主はそれを聞き届けてくださいました。
私はその友人をとりなすためにこの経験を与えられたことは分かりました。しかし、とりなしは祈り以上のものです。私は彼の人生がどのような罪に捕われているのかを見つけようと決意しました。それはすぐに判明し、そこから彼の回復への長い道のりが始まったのです。
人生の一番の目的は主の祭司となることです。これは新約のクリスチャンへの召しです。もしヴィジョンで、又は実際に何かを見せられたならば、その啓示の目的はとりなしのためであることがほとんどでしょう。とりなしは、落ち込んだ罪の罠から人々を助け上げたり、落ち込まないようにして、問題の解決のために実際に手助けをすることもあるのです。
私の経験では、人を罪の中から救ったり罪に堕ちないように助けようとして成功した時よりも失敗した方が多かったように思えます。このことで私が落胆していた時に、主が主の記録を見るようにと促されました。主はすべての人のために死なれたのに、多くの人はその救いを受けないで罪の中に留まっているようでした。これは「失敗」のように見えるかもしれませんが、今は理解できない多くのことは、これからの時代に解決していくのです。ですから主が私たちに求めておられるのは従順であり、成功したかどうかは主だけが本当に知っておられるのです。
ハイディ・ベイカー師は、今最も偉大な宣教師の一人だと思います。彼女はチョクトウ・インディアン居留地での伝道集会において回心したのですが、その集会での回心者は彼女唯一人でした。当然ながらその時の伝道者は、「今日主に出会ったのは15歳の女の子1人だけだ、この伝道集会は情けない失敗であった」と感じたことでしょう。しかしながらその一つの回心の故に、数えきれない人々が主のもとにきて、ハイディの人生から大きな影響を受けたのです。
使徒パウロのことを考えてみてください。彼は主の死と同じ姿になることを祈りました。そして主と同じように死にました。彼の友人のほとんど全ては去っていき、人生を捧げて建て上げた教会のほとんどが背教に陥ったのです。彼の死刑が執行された日、彼は「自分は主のために何か成し遂げたことがあるのだろうか」と思ったかもしれません。しかし、彼の幾つかの書簡を通して、彼はいまも永遠の命の実を集め続けていることでしょう。それはその後に起こったすべてのミニストリーよりも多くの実なのです。
自分の人生がどれほどの実を結んだかを、生きているうちに判断することはほとんどできません。私たちの目標は、ただ主に従順であるということでなければならないのです。(終り)