「WWGMのみなさんに伝えなさい。」 坂 達也 3月28日朝
「WWGMGMのみなさんに伝えなさい。今は主の前に出るときであると。」
今朝、主の御前に出ていると、主からこれを伝えるようにといわれましたのでお伝えします。主は語られる主です。主を見上げて御前に出てください。主は今、語られます。主の御声をお聞きください。 喜びにひたり、主をほめたたえてください。ハレルヤ! 坂 達也
「WWGMGMのみなさんに伝えなさい。今は主の前に出るときであると。」
今朝、主の御前に出ていると、主からこれを伝えるようにといわれましたのでお伝えします。主は語られる主です。主を見上げて御前に出てください。主は今、語られます。主の御声をお聞きください。 喜びにひたり、主をほめたたえてください。ハレルヤ! 坂 達也
天が開かれる時
リック・ジョイナー
私たちクリスチャンは普通の目に見える世界にいるよりも霊の世界にいる方が一番自然であるべきです。そのようになるために基本的なことを今日はお話したいと思います。イエスは地上におられたとき「わたし、即ち『神』はどのように生きるか」を示されたのではなく、『私たち普通の人間』がどのように生きるべきか」の見本を示されたのです。この時代が終る時には、すべてのクリスチャンが主のように生きていると私は信じます。「神の栄光が神の民の上の現れる」という預言はそのことを言っていると思います。
創世記28章に聖書で初めて「神の家」のことが書かれています。神の家とは建物ではなくて、私たちが神の家、神殿です。神の家がどうあるべきか、ということがこの箇所に書かれています。12節に「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」とあります。神の使いというのはメッセンジャーという言葉で、ここは天使ではなくて私たちクリスチャンのことを言っていると思います。
16節「ヤコブは眠りからさめて『まことに主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。』と言った。彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天に門だ。』」
神のメッセンジャーとしての私たちの第一の務めは、ヤコブのはしごであるイエスを上り下りすることです。ナタナエルがイエスの知識の言葉に驚嘆した時、イエスは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(ヨハネ1:51)と言われました。私たちは啓示によりイエスの真の姿が分かり天の領域に上ります。私たちは常に天に上り、天のリアリティーを地に持ち帰るべきなのです。イエスがされたすべての業は、主が御父のされることを見て、それを天から受けて地の上に現したのです。大勢の人を養ったとき、主は地上の必要を天の供給源で満たしたのです。天には欠乏ということはありません。
「神の家」は天への門でなければなりません。まず日曜の礼拝でこれを経験し始めたいと思いますが、目標は一週間それを持ち続けることです。行くところのすべてに天を持ち運ぶのです。天は死んでから行くだけのところではありません。天を地にもたらすのが私たちの務めです。
地上には数カ所、特別に神に祝福されていて、ヴィジョンや夢を受けやすい天に近い場所があります。ヤコブはこここそ神の家だ、天の門だ、といいました。しかし新約聖書の時代ではそれは場所というだけではなく、私たちのことであり、私たちが天の門となり「開かれた天」を持ち運ぶ者となれます。私たちが行くところはどこででも天を開くことができるのです。
聖書には、開かれた天に関する箇所がいくつかあります。
エペソ1:3「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
私たちは天にある祝福を地上に持ち帰るのです。イエスは天の御国の福音を持ってこの地に来られました。私たちも天と地との間の橋を造り始め、またその橋にならねばなりません。
エペソ2:5−6「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、、、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
これはただの教義ではありません。何でもまず頭で理解するのは悪いことではありませんが、私たちはそれを心で信じなければなりません。イエスは私たちが真理によって聖められるようにと祈られました。それは私たちが変えられるということです。教義として頭で信じるのではなく、その真理が私たちの人生のリアリティーにならねばなりません。「イエスと共にすわる」とは、イエスの権威をもって生きるということです。主は私たちをそのように召してくださっているのです。ここにいる皆さんすべてが、イエスのした業、そして更に偉大な業をすることができるのです。私たちは誰でもその人が望むだけ神に近づくことができるのです。
創世記28:18−22「翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。そして、その場所をベテルと呼んだ。..それからヤコブは誓願を立てて言った。『神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。』」
どうしてここでヤコブは十一献金をすると言っているのでしょうか。十一献金は、開いた天のもとで生きることと密接な関係があるのです。ある人達はそれは律法であり、律法主義だと言いますが、違うのです。アブラハムも行ないました。ヤコブも行ないました。最初の収穫物を神に捧げるのは基本的なことであるのです。それによって与えられる祝福を知れば、十一献金をしないことは馬鹿げています。弁解をする人は「私はすべてを主に捧げています。」というのですが、それはつまり何も捧げないということです。私が知っている人で、経済的に絶えず苦労をしている人は十一献金をしていません。忠実に十一献金をしている人でそのような苦労をしている人を私は知りません。私たちのミニストリーでは十一献金を信じない人をリーダーにはしません。必ずいろいろな問題が起こってくるからです。
私自身も非常に経済的に困窮したことがありました。そしてその理由が明らかになりました。その頃、私は十分の一以上献金していると思っていたのですが、よく計算をしてみると、十分の一に足りていなかったのです。主はこのことに関して私を非常に厳しく訓戒されました。「あなたは十一献金を皆に教える立場にいるのだから、わたしは厳しく訓戒するのだ。」と主は言われました。「教師は格別きびしいさばきを受ける」とヤコブ書に書かれています。
献金は人間の心が持つ究極的な偶像と関係しています。偶像というのは、ただあなたが愛するものというのではなく、あなたが神以外に信頼するものということです。
特に経済的必要を強く感じるとき、まず神を第一として初穂を神に捧げるならば、私たちは金銭という偶像を断ち切ることができます。金銭は、私たちの資源としてもっとも価値の低いものです。それは確かに価値があり良い資源ではありますが、私たちが求めるべき最後のものです。ルカ16:11「あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。」とあります。ですから十一献金をすることは基本なのです。
「十一献金だけすればよい」と考えている人もいますが、私たちは常に「与える者 giver」であることが基本的な聖書の教えです。もし私たちが本当に神の愛を持っているならば、与える者となるのです。「与えねばならない」のではなく「与えることができる」ということです。ですからただ十一献金をするだけではなく、神が与えてくださる「与える機会」を逃さないようにせねばなりません。それによってもっと与えられるためにするのではなく、御国の働きのために蒔く者となるのです。
「獣の刻印」が経済と関係しているのには理由があります。終末にはすべての蒔かれた種が実って収穫されます。獣の刻印を受けない人は神のしもべです。刻印を受けない結果、彼らの生活は非常に厳しくなるでしょう。しかしそれは最も祝福された人生となるのです。金銭への愛はすべての悪の始めです。アブラハム、イサク、ヤコブなどの父祖は富があり、立派な家に住むこともできましたが、地上が仮の住まいであることを知っていたので、天幕に住んだのです。彼らは天を知っていたのです。この地での人生は霧のようなものだと知っていたのです。一度天を見た人は、この世の富を得たとき、自分の生活水準(level of living)を上げるよりも与える水準 (level of giving) を上げるのです。そして神がなされる業を運ぶ管になることができます。不正の富に忠実な者を神は豊かに祝福してくださるのです。物質的にだけではなく霊的祝福も受けます。5千人を毎日養うことはすばらしいことですが、ハンバーガー1つで毎日5千人を養うことはもっとすばらしいことです。それが本当の富であり権威であり、それこそこれからの時代に必要なことです。
マラキ3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。—万軍の主は仰せられる。—
わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」
これは聖書の中で神が「わたしをためしてみよ。」と言われている唯一の箇所です。「何ヶ月も十一献金をしてためしたけれど、結果が得られなかった」という人に私は沢山会いましたが、これはためすものではなく、忠実に歩む中で経験して行くことです。私たちは「あふれる豊かさ」で生きるべきなのです。私たちはすべての良い業にあふれるべきなのです。物質的にも霊的にも、あふれる豊かさの中に私たちは生活できるのです。
マラキ3:11、12「『わたしはあなたがたのために、いなご*をしかって、あなたがたの土地の産物を滅ばさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。—万軍の主は仰せられる。—すべての国民は、あなたがたをしあわせ者というようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。』と万軍の主は仰せられる。」 [注 *むさぼり食うもの】
十分の一を捧げる者に対して、このような祝福を神ご自身が約束していてくださるのです。これはまさに御国そのものです。
黙示録4:1、2「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、、、」
この「開いた門」は、今も開かれており、今も主は「ここに上れ。」と言われているのです。私たちはそこに上っていくことを求めている者でなければなりません。聖書全体を通じて、天が開いたとき見えるものは「権威ある主」であり、主がどのようなお方であるかを見ることこそ信仰の鍵です。
黙示録19:11、12「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」
エゼキエル1:1「第三十年四月五日に、私がケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。」(口語訳)
天が開かれたとき、私たちは権威に満ちた主を見るのです。天国の様子や、後に起こることなども見るかもしれませんが、主を見ることこそが最もすばらしいことなのです。主と主の栄光を見るとき、私たちは変えられます。
また、非常に大切な啓示が与えられるときも天が開きます。使徒行伝10:11には「見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に下りて来た。」とあります。これは異邦人にも福音が開かれることを示す非常に重要な啓示でした。
申命記28章は主の御声に聞き従う者が受ける多くの祝福が書き記されていますが、12節にそれらの祝福は「主はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。」とあるように、私たちのために天が開いてその倉から祝福が与えられるのです。
多くの人が天の倉の幻を見せられています。ある倉の中には足や手などの身体の部分が沢山入っていて、それは手足をなくした人たちに与えるためのものだと説明を受けました。私の友人で指を一本をなくした人がありましたが、主はその指をまた伸ばしてくださいました。2時間くらいかかりましたが、多くの人がそれを見ていました。関節2つ分が元通りになったのです。他にも無くなった手や足が伸びたという話を聞いています。それは天の倉から運ばれてきたのです。最近ある人が見た幻では天使はその倉から身体の部分を運んできているにもかかわらず、人々が祈らないので、届けることができないでいました。天使は私たちの祈りによって動くのです。私たちは求めないから得ていないのです。私たちは天に上って、倉からすべてのものを地に持ってこなくてはなりません。
申命記28章1節に「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく(diligently 勤勉に刻苦して) 聞き従い、私が、きょう、あなたの命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。」とあります。この「diligently 勤勉に」という言葉に注目してください。クリスチャンの中には、どうすれば最小限の努力で信仰生活をおくれるか、と考えている人がいます。それは主イエスのされたことではありません。主はすべてにおいて「父の御こころ」をされようとしました。最高の勤勉さをもって主に従うことが、私たちクリスチャンの情熱であるべきです。その時に28章に書かれているすべての祝福があなたを追いかけてくるのです。
もし自分の頭の上の天が青銅のように(申命記28:23)感じる方がいるならば、私たちクリスチャンはそのように生きる必要がないことを知ってください。私たちは「開かれた天」を持ち運ぶ者なのです。天の扉はいつも開かれています。神の義を真剣に捜し求め、時間を浪費するのではなく、主を知り主と交わるために時間を捧げる者となろうではありませんか。(終り)
ワーシップによる変革
リック・ピノ( Heart of David 創立者)
私たち夫婦はテキサス州オースティンでワーシップ・ムーブメントを推進するミニストリーをしています。ここは世界で最もライブ・ミュージックが盛んな街です。毎晩600から1000ものライブバンドが街のいたるところでライブ演奏をしています。私は郊外に住んでいるのですが、その近所でもライブをしています。コーヒーショップとか百貨店のようなところでもしています。そして皆上手です。街を歩いて行くと、違うジャンルの歌や演奏が次々に聞こえてきて面白いのです。私たちがオースティンに住んだ理由は、神がこの街を捉え変革してくださるご計画があると信じるからです。つまり「ライブミュージックの都」から「ライブワーシップの都」への変革です。今そのためにワーシップの学校と祈りの家を始め、日夜ワーシップと祈りを捧げています。
私たちはワーシップ・フェスティバルも開催します。去年は大学のキャンパスで7日間ぶっ通しのワーシップと伝道の集会をし、人々が救われ、魔術師や麻薬患者が解放されました。そのほとんどは、私たちが手を置いて祈ったのではなく、この街を愛しておられる主の臨在の中で救いが起こっていきました。
又、州会議事堂の前の階段に集まってワーシップをしました。皆さんの州でもされるとよいと思います。私は街に出て行って、ワーシップを解き放つことが本当に好きです。敵が自分のミュージックを使ってしてきたことを、私たちはワーシップを用いてして行きたいのです。百貨店、ガソリンステーションなど、あらゆるところにワーシップを持ち運ぶのです。
「オースティン・シティーリミッツ」について聞いたことがありますか?
これはビアンセのような一流のロックンロールのミュージシャンが出演するところです。それがあまりに有名になったので、それに因んだミュージック・フェスティバルをするようになりました。毎年50万人もの人がやってきて、街中がお祭り騒ぎになります。
私たちは毎年夏に「プレゼンス(臨在)」というワーシップ・フェスティバルを主催します。
去年は大学のキャンパスで7日間ぶっ通しのワーシップと伝道の集会をし、人々が救われ、魔術師や麻薬患者が解放されました。そのほとんどは、私たちが手を置いて祈ったのではなく、この街を愛しておられる主の臨在の中で救いが起こっていきました。
その働きは霊的にこの街を敵の手から取り返し、恵みにより街を揺り動かし始めています。数ヶ月前のスタッフミーティングの時、2017年の開催場所を主に尋ね祈り求めていました。「主よ、あなたのプレゼンスを教会の壁を越えてこの街に運びたいのです。」と皆で祈っているときに、恐らく「信仰の賜物の霊」が私に望んだのだと思いますが、気がつくと私は「主よ、この街で一番最高の場所をお願いします。」と祈っていたのです。そして一人のスタッフの方を見て、「お前がオースティン・シティーリミッツに電話するべきだよ。」と言ったのです。私は彼がすぐ行動に移すとは思っていなかったのですが、彼は走って部屋を出てすぐに電話をしたのです。オーステ・シチィーリミッツでキリスト教関係の音楽が演奏されたことは一度もありませんでした。
彼が係の人に電話をすると、彼女は「ああ、知ってますよ、『Heart of
David』というワーシップグループですよね。」と言うのです。テキサス州は全体的には保守的な土地柄なのですが、オースティンは別で非常にリベラルなところあり、ニューエイジの人達も沢山いました。彼女は「あなたから何かすばらしいオ—ラを感じるわ。いい感じがするわ。電話で話してるだけだけど、私はあなたたちを好きだから、会場を提供したいわ。」と言ったのです。彼はびっくりしました。彼女は続けて「同じ日にすでに4つのグループから申し込みがあるんだけど、私はあなたをとても気にいったから、私が申し込みの手続きをして費用も半分にしてあげるわ。そして強く推薦してあげるから、多分大丈夫だと思うわ。」と言いました。彼は「私たちは神から特別の恵みを受けていますから、絶対に大丈夫です。」と預言的に宣言しました。
次の日、彼女から朗報があり、私たちはこの街で最も大きな敵の要塞に出演する最初のクリスチャン・グループとなったのです。今年の6月22、23、24日です。ただ演奏するだけではなく、主へのワーシップがそこから流れ出て街を変革するのです。神が捜しておられるのは、神のパートナーとなり破れ口に立つ者です。
私たちは世界にむけて「ミュージショナリー」ミュージックの宣教師を送りだしています。音楽によって街や地方、国を変えることができると信じているからです。最近ベルギーのブルッセルでワーシップの集会をしましたが、それは丁度アイルランド対ベルギーのサッカーの試合がスタジアムで始まろうとしている時でした。私たちはワーシップを始めましたが、その途中で神が横やりをいれてきました。
「あなたは預言して歌いなさい。わたしがこの国のテロの背骨を折ると。」と主が言われました。ベルギーはここ数年大きなテロが頻繁に起こっていました。私たちは「神はこの国のテロの背骨を折られる!暗やみに隠れていたものがすべて露にされる!」と宣言して歌いました。観衆は英語をあまり理解できなかったのですが、会場全体に霊的一致が広がるのを感じました。そして突然何かが打ち破られたことを皆が感じ、会場全体が勝利の叫びをあげました。
翌朝目を覚ますと、地元の牧師からその朝の新聞の記事が送られてきました。それには「昨夜8時ころ(それはまさに私たちが勝利の宣言をしていた時です)ブルッセルでサッカー試合が行われていたスタジアムを襲おうとしていた多くのテロリストが逮捕された」と書かれていたのです!神は本当にすごい方ですね。
ある日私はクラスで「従うこと」と「神に『はい』と応答すること」を教えていました。「あなたの『はい』は歴史を変えることができるのです。私たちが今この街でこのような活動をしているのは、誰かが昔どこかで『はい』と神に応答したからです。」と話しました。この真理を一週間ずっと学生に叩き込んでいました。その週の終りに50時間連続ワーシップの集会を主催しました。
これは3ヶ月に一度行っているもので、「祭壇の火」と呼んでいますが、多くのワーシップチームが集って賛美をささげます。ワーシップの中で、腫瘍が消えたり、女の子の手の小児麻痺が癒されたりしました。
数年前のことですが「祭壇の火」の話を聞いたクリスチャンの判事が私のところにやってきました。彼は20人の麻薬中毒患者をリハビリに行かせる判決を下したのですが、リハビリ施設の代わりに、私たちのワーシップの集会への出席を20人に義務づけたのです。彼らは後ろの方で「馬鹿馬鹿しい」という態度でふてくされて座っていましたが、10時間、20時間と経つうちに段々と前の方に移ってきました。そして遂には一番前で他のクリスチャンより熱狂的にワーシップをし始めたのです。
最近「私は20人の付き添いとしてその集会にいました。」と言う人に出会いました。そこで私はその20人の近況を聞いたところ、20人全員が今もイエスを熱狂的に信じ愛しているということでした。これが神の臨在の力です。
今回も「祭壇の火」で50時間のワーシップを終え、私がまだその余韻の中に浸っていたとき、ある牧師が来て「このような集会をこの街でしてくださって、本当にありがとうございます。」と言いました。私は「ありがとうございます。でも私たちより先にいた人達が、神の招きに『はい』と応答したからこそ、今私たちがここにいるのです。誰かがこの街のために祈っていたに違いありません。」と答えました。すると、彼は驚いたような顔をして、「ピンク・レディーズのことを知っていますか?」と聞くので、私は知らないと答えました。なんか変な名前だと思いました。
彼の説明はこうでした。1970年代にカトリックの尼僧グループがオースティンに来て、人生を絶え間ない祈りのために捧げたのです。最後は3人になりましたが、一人が一日8時間の祈りをささげ、25年間絶え間ない祈りを続けました。バックミュージックも何もない部屋で、この街の救いを祈り求めたのです。私は「何ですって!その祈りの部屋はどこにあるのですか?」と尋ねました。そこは今は法律事務所になっているから訪ねるのは無理だと言われましたが、私は苦労のすえ捜し当て、皆で押し掛けました。法律事務所の中のその部屋は今は使われておらず、私たちはそこでしばらくの時を過ごすことができました。美しい大理石の小部屋で祈りがしみ込んでいることが感じられました。尼僧たちが昔祈った祈りに答えて主が私たち夫婦をこの街に送ってくださったことを確信し、私は神に感謝を捧げました。すると先の牧師がインターネットの情報を見て、ピンク・レディーズのモットーは「あなたの『はい』は歴史を変えることができる。Your
‘Yes’ can change the history.」だと教えてくれました。彼は私がそのような教えをしていたことは何も知らなかったのです!私は驚愕しました!まさに神が私たちを一つに織りなして、「あなたの『はい』は歴史を変えることができる」という真理を更に照らしだしてくださったのです。
皆さん、2017年は今まで経験したことがない、ものすごい、すばらしい、驚くべき年になります。しかしそうなるためにはあなたの「はい」という応答が必要です。あなたの従順が必要なのです。状況が困難で、目に見える成果がない時でも主に「はい」と応答し、従い続けるのです。その時あなたは次世代のための先駆けとなっています。今あなたが打ち破りのために戦い勝利するとき、次の世代にとってそれは当たり前の土台となるのです。
イザヤ54章は去年私達夫婦に与えられた聖書箇所です。
イザヤ54:1、2
「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。
産みの苦しみを知らない女よ。
喜びの歌声をあげて叫べ。
夫に捨てられた女の子どもは、
夫のある女の子どもよりも多いからだ。」
と主は仰せられる。
「あなたの天幕の場所を広げ、
あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、
綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。」
去年の暮れ、私はイエスのヴィジョンを見ました。主は私の方に歩いて来られました。私はいちじくの木でした。主は「リック、実をください。」と言われました。私は「主よ、今はその季節ではありません。」と答えました。主は愛と真実のこもったまなざしで私を見つめ、「わたしは今がどの季節かを尋ねたのではありません。あなたの実を求めたのです。」と言われました。私は震えていました。
皆さん、今は実が実る時です。「子を産まない不妊の女よ。歌え。」とあります。2017年はあなたの人生の実りのない部分に歌を歌う年です。あなたは主に「はい」と答え、主に従い、あなたの人生が歴史を変えることを信じる年です。聖霊に私たちの不妊の部分、もっと実を実らせるべき部分、不可能と思われた部分を示していただき、その部分に預言し歌を歌う時なのです。今は右にも左にも惜しみなく天幕を広げる時です。主が増し加えてくださることを信じてください。来年の今頃、あなたは「主はこの一年でなんと多くの事をしてくださったのだろう!」というでしょう。(終り)
私がトランプ氏に投票した理由
ビル・ジョンソン 2016年11月9日(選挙の翌日発表)
【訳者注:今回の大統領選挙の最大の特徴は、予想に反して勝ったトランプ大統領に投票した人を、彼の対抗者に投票した人が、これ程敵意をもって激しく非難の感情を表したしたことは、南北戦争以来なかったのではないかと思います。
しかも、それに近い対立感情がクリスチャンとその教会内でも起こったのです。特にクリスチャンの中で影響力の強い、人望のあるビル・ジョンソン師は多くの人から師が誰を選ぶかを執拗に聞かれました。しかし、師はかたくなに選挙が終わる迄その問いに答えず、投票が終わった翌日に初めて下記の文面を発表したのです。これを発表した後で、師は「クリントン氏」という具体的に名前を挙げたことを非常に悔やんでおられたといわれます。】
私は今回の選挙で「もしあなたがトランプ氏に投票するというならば、聖書をよく調べてみてください。それが聖書的に正しくないことがわかるでしょうから。」と多くの人から言われました。そこで私が聖書を調べたところ、 以下のことがわかりました。
1.殺人及び堕胎は悪いことであることがわかりました。クリントン氏は赤ちゃんが生まれる直前まで堕胎を許すと言っています。「赤ちゃん、baby」という言葉を「胎児fetus」と言い換えても現実は変りません。それは赤ちゃんです。女性は自分の身体に起こることを決める権利があります。しかし私たちが持つ権利はすべて、他人の権利を侵害する時点でなくなります。堕胎はお腹の赤ちゃんの権利の侵害です。また、私たちが持つ権威の聖書的な主要目的の一つは、「声を持たない者の代弁者となること」だということもわかりました。お腹の赤ちゃんは「声を持たない者」です。お腹の赤ちゃんたちは誰かが立ち上がって語ってくれるのを黙って待っているのです。クリントン氏はそのことを拒否しました。
2.政府が持つ主要な責任の一つは、国民を守ることだとわかりました。クリントン氏は、ベンガジにおいて私たちの国を代表する人たちが救助を求めていたにもかかわらずそれを退けました。そしてユーチューブのヴィデオに責任があると、それが真実ではないと知りながら、偽って責任転嫁をしたのです。
3.海外から来る人たちに憐れみを持つことは重要ですが、まず自国民の安全を守る責任が第一であることがわかりました。国境が閉ざされていないことは、その責任を果たさないことであり、アメリカに住む人々の安全を守るために毎日危険を侵して犯罪を取り締まっている警官たちに、過酷な任務を負わせることになっていることがわかりました。それと同時に不法入国者に対しても可能な場合は憐れみをもってよい対処法を考える必要が大いにあることもわかりました。
その一方、国の指導者たちに「どの法律は守り、どの法律は無視してよい」という選択権などあるのでしょうか。もしあるというのならば、政府関係者は自分を法律よりも上に置いているのです。「不法移民」はその言葉の通り不法なのです。もし悪い法律ならば変えねばなりません。
4.「正直さ」は神の御国の中心的価値であるにもかかわらず、クリントン氏は何十万という機密文書を含むEメールを削除し、しかもそれに関して議会で虚偽の証言をし、証拠隠滅を図ったことは、この御国の価値を犯したものであることがわかりました。機密文書がそれを見るべき立場にない人の手に渡り、国家の安全を脅かしていたことがわかりました。
5.神は私たちが働くことによって裕福になるための技能を与えておられることが分かりました。しかし政府が働かない人にお金をただで与えることは、他人に依存する生活を生みだし、そのような福祉政策は逆に彼らや政府のために危険であることがわかりました。クリントン氏が信じるリベラルな政策は、彼らが唱える問題解決の方法とはならず、実際にはかえって問題を生み出すことになりました。
私はまた、多くの場合、政府による福祉システムは一見人々を助けるように見せかけますが、実際は人々にとって本当に必要な「労働によって得られる自己価値感」を奪っていることがわかりました。
政府は、社会のシステムからくる貧困のサイクルを破らねばなりません。そのために働いて所得が得られる充分な職場をすべての人種のすべての家庭に与える責任があります。それが神の御こころです。その職場提供に問題があるなら、その問題にお金を使うべきです。しかし福祉と言う名でただ(応急処置的な)お金を投げ与えるだけでは問題の根本的な解決にはなりません。
6.人々自身が憐れみをもって他人を助けることが今切実に必要とされています。困窮している人に手を差し伸べることは、すべての(隣人と)社会自体に与えられた栄誉ある責任です。
しかしこれに反して、最近の社会主義的な考えによって書き換えられた「家族」の定義は、不道徳であり、実際に神によって呪われていることがわかりました。悲劇的なことにこれがクリントン氏立候補の中心的立場であり、価値観です。
7.社会主義(ソーシャリズム)は、イエスとその教えに反することがわかりました。主は貧しい者に与える大切さを強調されました。しかし一方で、主が「1タラントを持つ者から取り上げて、一番多く持つ者に与えなさい」と言われたとき、主が社会主義者ではないことがわかります。
社会主義は、国家の支配と力によって、人々から個人として持つべきアイデンティティーと自由を奪います。クリントン氏が中心となっているリベラルな政策は、このテーマを誇り高く推奨します。政府が富裕層から取り上げて貧乏な人に与えるならば、自分の憐れみによって貧困問題の解決の一旦を担う時に得られる自己評価感(と責任感)を富裕層から奪うことになります。政府があなたからお金を取り上げて貧しい人に与えることを、私は「憐れみ」とは呼びません。私が自ら進んで与える時に、初めて憐れみとなるのです。
8.私は、誰かを「人種差別者(レイシスト)だ」と告発することは、アメリカ人が皆立ち止まり、自分が人種問題を更に大きくしているのではなく本当に解決の一旦を担っているかどうかを考えねばならない深刻なことであるとわかりました。トランプ氏の周りのスタッフや彼の会社で働いている人たちを見たとき、少数民族(マイノリティー)の人達が彼に非常に感謝し喜んで働いているのが分かりました。又、トランプ氏が人種差別者であるという告発は、人々の恐れを煽るためのサタンの罠であり、人々の決断プロセスを操縦しようとするものです。
私はサタン自身が「告発者」と呼ばれているのがわかりました。そして善良な人々が、自分の判断が間違っているにもかかわらず、誰かの悪いイメージを創ることが人々のためになっていると思い違いをするという罠に往々にして陥っていることがわかりました。トランプ氏はクリントン氏の競争相手になるまで人種差別者と呼ばれたことは一度もありません。
9.イスラエルを祝福するものは主に祝福されることがわかりました。そして今までのリベラルな政策が、アメリカにとって重要な同盟国であるイスラエルとの何十年にも渡る友好関係に危機をもたらしたことがわかりました。
10.「政治的正しさ(political correctness)ー真の正しさではなく、その時の世間的に人気のある考えに同調する言動)」は目新しいことではなく、イエスご自身もそのようなチャレンジを受けられたことがわかりました。主は人々の意見によって統治されることを拒否されました。人を恐れること(それが「政治的正しさ」の到着点です)は、自分自身で思考する自由を奪う故に、神の鼻にとって悪臭であることがわかりました。
11.神が一つひとつの国にユニークな価値を置いておられることがわかりました。そしてグローバリゼイションへの動きは、現代のバベルの塔に他ならないことがわかりました。それは同一化によって一致をもたらそうとする人間の努力であり、個人や国家の多様性を喜ぶ自由をなくすものです。
12.女性を性的に卑しめるような話をすことは間違いであることがわかりました。それは人を所有物のように扱うことだからです。それは言い訳することのできないことですが、赦されないことではありません。私はまた、赦しを求めた人を赦すことは大切であることがわかりました。
トランプ氏は10年前の自分の間違いを認めて公に謝罪しました。彼の罪を裁く人たちが、自分の罪を告白したときに裁かれないようにと私は願います。ある人が実際どのような人かを見るために、私はその人の子どもたちを見ます。トランプ氏の子どもたちは父親を敬愛し彼と共に優秀な働きをしています。これを読む方も皆、そのようであることを私は願います。
選挙というものは何であっても大変ですが、今回ほど大変だったものは無かったように思います。どの候補者に投票するか、しないかには正当な理由があります。残念ながらビリー・グラハムやマザー・テレサは立候補していませんでした。ですから限られた中で最善をつくすことが私たちの責任です。そして私は良心をもって投票しました。選挙の結果は神からのものだと私は信じます。それと同時に、私の愛する多くの人たちは、私のような見方をすることができないこともわかりました。
いずれにせよ、 神と人々に対する私の愛には変わりがありません。そしてクリントン大統領、ブッシュ大統領、オバマ大統領のためにしたと同じように、私はトランプ大統領とその家族のために主の守りがあることを祈ります。そして彼が殆ど不可能に近い問題解決のために偉大な知恵を受け、神や人々の助言に耳を傾けるようにと祈ります。彼が神と人からの愛を更に受けるように祈ります。
この選挙結果で落胆している人たちに神が平安と約束で満ちた希望を与えてくださるようにと祈ります。最後に私たちがすべて夢を実現できる人生を送り、健康と人生のすべての領域において祝福されるようにと祈ります。(終り)
日本の皆様、エステル記に書かれたプリムのお祭りのための
断食祈祷にご参加ください
坂 達 也
イスラエルではプリムのお祭りが、今年は3月11日夕方から12日夕方迄行われます。御存知のように、エステル記によれば、王妃エステルはユダヤ人の一大危機を救うために死を覚悟して王に会いに行くことを決意し、そのために自分も含め回りの人たちに三日三晩断食することをモルデカイに要請しました。
今年のプリムの祭りが近づいたとき、二人の女性がルー・イングル師(コールの主催者)に「断食祈祷の集会」を呼びかけて欲しいと要請して来ました。それを受けたイングル師自身がその直後に一つの夢を見たのです。それは「今のトランプ政権を襲っている強力な悪霊の死の力を打ち破るにはこれしかないという、国を挙げての一大断食祈祷のムーブメントが起こる」という夢でした。
そこでイングル師は直ちに、現在アメリカを襲い、又これから起こる「反ユダヤの霊によるハマンの一大陰謀」を阻止するために、プリムの前日の3日間(3月8日夕刻から11日の夕刻迄)断食祈祷することを呼びかけたのです。従って、先程ご報告したオハイオ州における「 POTUS Sield 祈りの集会」と同一の主旨による(どちらもイングル師が関係しています)祈祷会ですので、ぜひとも日本の皆様にもお祈りにご参加いただけますよう、取り急ぎお願い申し上げます。(終り)