Archive for 10月, 2016:
31 10月
召しと選び
パトリシア・キング(XP Ministries)
多くのクリスチャンが「私が神から召されているかどうか、どうすればわかりますか?」とか「召しとは何でしょうか?」「何が私の召しなのかを、どうやって知ることができますか?」という質問をします。
マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。 For many are called, but few are chosen.」とあります。私は救われた当初、この意味がよくわかりませんでしたが、あるとき聖霊が教えてくださいました。それは「あなたがたすべてはそれぞれの働きへと召されているのです。しかしその召しを受け取ってそこに踏み出して行く者だけが選ばれるのです。」というものでした。
イエスから私たちへの最初の召しは、主ご自身への召しでした。十字架の上で私たちの罪を負ってくださったとき、イエスを救い主として信じて神の子となるようにと私たちを召してくださったのです。すべての者が神の子となるようにと招待されました。その招待に応答した者が神の子となったのです。ですからそれがあなたが受けた第一の召しであり、それを受け取ったあなたは「選ばれた息子、娘」となりました。
私がミニストリーに召されていると思い始めたのは、私の心に「主に仕えたい」という切なる願望が起こったからです。まず神は私をご自分の娘としてくださいましたが、私は主への愛に満たされて、ただただ主に仕えたいという思いで一杯になりました。私はそれが主からの「召し」かどうか知りませんでしたし、召しがどのようなものかも知りませんでしたが、ただ 主に仕えたいという思いで一杯になっていたのです。私は祈り、賛美し、人々に福音を語りました。教会ではどんな事でも、例えば椅子を並べたり、トイレ掃除などをしました。とにかく主のために働きたかったのです。振り返ってみると、それは神の愛が私に呼びかけていたのです。それはサムエルのように神の声を耳で聞いたわけではありませんでしたが、私の内に神の呼びかけを感じたのです。又、 クリスチャンに成り立ての頃ですが、「主の栄光がこの地に満ちるよう祈りなさい」という強い促しを感じたのを思い出しました。「主よ、私は出て行って、世界の国々にあなたの御ことばを告げ知らせる者になりたいです」と祈り、そのような歌を作ったこともありました。神の声を聞いたり、預言を受けたわけではありませんでしたが、私の心の奥底から涌き上がってくる切なる願望がありました。人々に神を知ってもらいといという熱烈な思いでした。あなたが自分の召しを分別する一つの方法は、あなたの心が何を願っているか、何を求めているかを知ることです。神があなたに何を望んでおられるかをそれによって知ることができます。
私はいろいろな召しを受けました。ある時「とりなしの祈り」についての教えを受け、神の御心を知ってその通りに祈ることについて学びました。その教えを聞いていたとき、私は心の底から「家に早く帰ってとりなしをしなくては! 友達と一緒に祈らねばならない!」という強い思いが沸いてきました。それは私の霊がこの招きに応答していたのです。そして私がその中に一歩足を入れたとき、私は「とりなしのために選ばれた者」となったのです。私はとりなし手になったばかりか、それを教える者となりました。それは「他の人にもとりなしについて教えたい」という願望が私のうちに沸き起こったからです。それは即ち「教える者となる召し」であったことを私は後になって知りました。
又、私は聖霊の賜物や預言についてのクラスを受けました。毎週火曜日でしたが、教えのあとは実際にその賜物を活性化する訓練を受けました。預言や知識の言葉、癒しのミニストリー等です。私の内に「預言をしたい」という非常に激しい願いが沸き起こり、家に帰ると何時間も異言で祈りました。誰と会っても預言をしたいという願望を強く感じました。お茶を飲みにきた人にも私は預言をしました。内なる願望がそうさせたのです。そして私はどんどんと預言をするようになり、細かいことも預言できるようになりました。私は主から預言のミニストリーへと召されたのですが、主の御声をはっきりと聞いたわけではありません。それに関して夢を見たこともありません。後になって私が預言者として召されているという預言を受けました。それ以前に私はすでに預言者として召されていたのですが、その預言によって召しが確認できました。
時として、自分ではまったく考えてもいなかった召しに関する預言を受けることがあるかもしれません。でも預言を受けたとき、あなたの内で何かが呼応するならば、その預言によってあなたの召しが活性化したのです。
ある時、テレビでよい番組はないかと捜していたのですが、どのチャネルも占いの番組だったことがありました。私の内に「主よ、どうかテレビで本当の預言をする人を起こしてください。」といううめきのような祈りが起りました。私は主の声を聞いたのでもなく、稲妻が走ったり、花火が上がったわけではありませんが、主が私の心に「あなたではどうですか?」と語ってくださったのです。私は「主よ、勿論私は無理ですよ。」と沢山の理由を主に申し上げましたが、また主は私の思いの中に「あなたではどうですか?」と語られました。「あなたが新しい預言的な番組をハリウッドで作ったらどうでしょう。」と。私はそれを日記に書き留めて祈りはじめました。「神よ、何をすればよいのか、どこから手をつければよいのか、全くわかりません。ですから、私に助け人を送ってください。」と祈りました。一週間半経ったとき、あるカンファレンスで、私を助けるように主から言われたという人が現れたのです。そこから私の放送関係のミニストリーが始まりました。
ですから神が私たちを召されるのは、いろんなやり方があるのです。あるときは非常に鮮明であり、またあるときはかすかな方法です。でもあなたがどのような方法で召しを受け取るかは問題ではありません。
神からの一番目の召しは神の息子、娘になるという召しです。すでにそれを受けいれた人に対する次の召しはなんでしょうか。それは母親や父親になることかもしれません。妻になること、夫になることかもしれません。あなたの中にそうなりたいという強い促し、願いがあるならば、それは主があなたの内に入れてくださったものなのです。又あなたは説教者や祈り手、子どものミニストリー、社会で働く事、政府で働くことなどに召されているかもしれません。多くの場合、あなたの召しはあなたの心の中に涌き上がる願いでわかるのです。又あなたは夢を見るかもしれません。主の声を聞くかもしれませんし、祈りの中であなたの思いの中に細い小さな声で語ってくださるかもしれません。どのような方法であれ、それを書き留めてください。
私は妻として召されています。私たちは結婚して43年になりますが、私は夫の妻であるように召されています。私はまた母親として召されています。二人の息子の母親です。3人の孫のおばあさんとしても召されています。キリストのからだの中のリーダーとしても召されています。ミニストリー、ビジネス、プロジェクト、メディア、説教者、預言者、伝道者として召されています。これらは私の内で涌き上がってきたものです。
このように多くの召しを私は受けています。それは自分のいのち、願いを主のためにすべてお捧げするという「主のしもべの人生」を私が選んだからです。「その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下には地にしるしを示す。」とあります。それは主のために選び分たれたあなたを通して主が偉大な業をなさるからです。
あなたが主のものとなり主に仕えることを選びとったとき、あなたのいのち、あなたのすべて、あなたの持ち物すべては主のものとなります。私が妻として或いは母親としてすること、そしてその他すべてにおいて私がすることは、主のためにするのです。私の人生が主のために聖め分たれるとき、私の業、私の持つものはすべて主のものとなりますが、それと同時に主の業、主が持っておられるものは私のものになるのです。
イエスの母マリアは、救い主の母となるように召されました。マリアがその召しに「はい」と答えたとき、彼女は「選ばれた者」となったのです。ですからあなたも召しに「はい」と応答するならば、「選ばれた者」になるのです。ヨシュア3:5に 「あなたがたの身をきよめなさい。(sanctify, consecrate 聖別する 神の御用に捧げる)あす、主が、あなたがたのうちで不思議をおこなわれるから。」とあります。
今自分への神の召しは何であるかと考えておられる方も多いと思います。私たちのミニストリーの中には、とりなし手、ワーシップリーダー、人を助ける人等々いますが、彼らはすべてのことを主のためにし、主に仕えるのをこの上ない特権であると思っています。
皆さんはどうでしょうか。今までにすでに「はい」と応答した召しを紙に書き出してみてください。そして次に神からの召しを聞いたけれども、まだ「はい」と応答していないものを書き出してください。そのリストはあなたが成長する助けとなるでしょう。そして主に「私はあなたに自分をお捧げします。私の時間はあなたの時間です。私のお金はあなたのお金です。私の能力はあなたの能力です。すべて私が持つものはあなたのものです。私はあなたのものだからです。あなたにお仕えしたいのです。あなたが下さった召しにお答えしたいのです。そして私の生きる限りあなたに喜ばれる者となりたいのです。」と申し上げてください。
そしてその召しに踏み込んでください。「召されているのはわかっているんだけど、、、」と言うだけではなく行動するのです。たとえば癒し手として召されているならば、その訓練を受けられるところに行き、人々のために癒しの祈りを始めてください。そしてイエスの癒しの力があなたを通して表れるようにするのです。また、とりなし手や助け手として召されているかもしれません。何であれその召しに対して「はい」と応答してください。その時、召しに必要な「恵み」があなたに与えられます。召しを活性化するときに実が実り始めます。
ヨハネ15:16でイエスは「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、、」とあります。あなたが召しの中に踏み込むとき、主は実を結ばせてくださり、その実は残るのです。イエスに仕えることほどすばらしいことはありません。イエスに用いられることほどすばらしことはありません。それは地上の人生ばかりでなく永遠に影響を与えるものです。
今主は多くの働き手を召し、立ち上がらせておられます。世の中が揺れ動き混乱する中で、神は御国に仕えるために聖め分たれた人を求めておられます。その召しはあなたにも届いていると思います。神はあなたの召しを成長させ、油を注がれ実を結ぶようにされるのです。(終り)
25 10月
昨日出した私のメッセージを今朝一部変更し付け足しましたので、もし昨日既に読まれた方は、最後の数行を既に本文で変えましたので、恐れ入りますが再度目を通されることをお願い申し上げます。 坂 達也
24 10月
アメリカの歴史が今変えられようとしている
ピアース師の預言と、一つの崇高な罪の赦しの行為のご報告
坂 達 也
この数日アメリカでは、重要と思われる二つのことが起こりましたのでご報告致します。その一つは最近のチヤック・ピアース師の預言です。
10月21日金曜日
しっかりと備えておられる皆さんへ
私は、このオハイオ州ミドルタウンで行われたダッチ・シーツ師の「天にアピールするカンファレンス」でのミニストリーを終えたところです。昨夜のセッションは信じられない程のものでした。
ダッチ師は、私が今年の春の過ぎ越の祭りで預言した主のことば「今年4月25日から10月20日迄の期間は、アメリカが過去160年から170年間の間で起こる最も騒乱と混乱の激しい時となるであろう」の一部を講壇から読みましたが、その後、私は神の聖霊に導かれ、次のように預言しました。それは「天の風が今地上に吹かれつつある」という主からの預言です。私たちは今、新しいシーズンに入っているという事実を理解しなければなりません。
緊急の主の預言「天の風が今地上に吹かれつつある」
主は云われる。「過去八年間、わたしは天において強い風を再三吹かせて来たので天はかき立てられた。(「かき立てられる」が三度くりかえされる)しかし今、地上の領域にその風を解き放つので地はかき立てられる。しっかりと(飛ばされないように)自らを支えなさい。もう一度云う。飛ばされないようにしなさい。(三度くり返して云われる)この強い風は、過去八年間地上に吹くのをわたしが押さえて来たものだ。なぜなら、わたしが押さえて来る一方、あなた方はそれを早く吹かせて欲しいと願って来たから、今その風を解き放つ。わたしはあなた方が八年間求めて来たことに対して応える。
これから吹く風(複数)は、わたしに忠実であった者たちを一つの軍隊として集め始めるであろう。これらの人たちは、自分が属するとは全く思ってもいなかった場所に集まって来るであろう。それは逆境という風が、後に「歴史の流れを変えた主の軍隊」と云われる軍隊を生み出すのである。
今夜、そして今週から、あなたがたは地上に状況の変化の転換点となる風を地上に吹かせ始め、今後の成り行きを再編成するであろう。国々は今他の国々との協力関係を再編成し始める。しかしわたしは、あなたがたを今迄しばって来た、その見せかけの外観を吹き飛ばすであろう。
あなたがたが転換点となるこの州に今集結しているので、わたしは八年間待って来た転換の風を解き放ち吹きつける。今から来年の五月までに起こることが(あなたがたがわたしを尊び始め、わたしとともに歩き、わたしと共に結集する時に)今迄敵の手で出現を阻まれてきた一つの(新しい)国を造り出すであろう。これから地上に吹く風が、今までこの国を支配してきた敵の戦術の手の内を暴露する。敵がこの地(アメリカ)で優勢を振るうことは最早ない!」 ーー以上です。
次にお伝えしたいのはリック・ジョイナー師が4日程前の師のフエイス・ブックに次のような記事を書いていたことです。
過去にアメリカ原住民と結んだ条約をアメリカ政府がことごとく
破った大罪を一千のアメリカ原住民部族が赦すことを宣言した
本日10月21日は、アメリカの歴史上で最も重要な事の一つが起きた日として記念されるでしょう。この日に一体何が起きたのでしょうか。それは、北アメリカとカナダの一千のインデアン部族を代表する人たちが本日、ワシントンDCの広場に集まり、ある特別の式典が執り行なわれたからです。それについて、その集まりの主要コーディネーターであるネジエル・ビグポンド酋長はこう言います。
「私たちインデアン部族は、アメリカ政府が過去においてインデアン部族と結んだ条約をことごとく破ったという事実に対し、アメリカ人が望むか望まないかにかかわらず、そのすべての条約破棄の罪を赦すことを宣告することにした。」と説明します。 その理由を問われたとき彼は、「アメリカ政府が、私たちと結んだ条約をことごとく破った罪の結果として発生した『のろい』によってアメリカが苦しむという報いを、これ以上見るに耐えないからである」と述べました。
聖書には、人が結んだ誓いや条約を破れば、その地にのろいをもたらすと書かれています。本当にアメリカはこののろいによって苦しんで来たのでしょうか。そうです。その通り、全く深くのろわれて来たのです。今アメリカが直面しているどの大きな危機をとってみても、すべて原住民をその閉じ込めた居留地の中で耐え忍ばせ苦しませて来た条約不履行の罪と関係があるのです。
これは真実です。国家が犯した最も大きな不正行為が目下真剣に取り沙汰されています。(訳者注:大統領選挙戦を通しての意味)しかもそれが非常に大きなこととしてです。たとえ不正行為が何世代も前に起こったことであっても、その報いとして今でもその傷の膿みが身体全体を毒することが現実に起こり得るのです。
私はこのネジエル・ビグポンド酋長を長年親しく知っておりますが、彼は今迄一度も犠牲者メンタリテイーとか恨みの感情を私に見せたことはありません。私は彼を「最もハッピーなインデアン」と呼んでおりますが、彼は卓越したリーダーであり些細なことに捕われたり、それで時間を無駄にするような人ではないからであると思います。
本日、一千のアメリカの原住民部族が、私たちアメリカの国が彼らに犯したこの上ない卑劣な罪を赦すと言ってくれるのです。それは私たちアメリカ国民がこれ以上アメリカの政治家が犯した罪によって苦しむのを見るに耐えない、というのです。
こんな高貴な話を聞いたことがありますか。私たちがみなそのように振る舞うならこの世はどれほどよくなることでしょうか。
―— 以上がジョイナー師の書いたフエイス・ブックの記事です。
ここからは私の意見です。
今回の大統領選挙によってあばかれたこと
さて、ここに報告させていただいた二つの報道が同じ日か一日前後して起こったことに私は注目します。なぜならピアース師の預言と同時に、その預言の通りに、アメリカがすべき、すばらしいことが今アメリカで起こったからです。
率直に申し上げて、後二週間も残されていない今回の大統領選挙は、多くの人がここまでひどい選挙は見たことがないと言う通りの泥試合となりました。旗色はトランプ候補が益々悪いことになっています。彼は確かに人格的に欠点が多いのですが、過去はどうであれ、今の彼は、最近救われたベービークリスチャンとして、まともな神を愛する人間になりつつあると確信します。政策的には彼の方がはるかに保守的で、真ともです。一方のクリントン候補は想像を超える無責任なリベラルな考えで、この人が選ばれたらと思うと背筋が寒くなります。
本当のアメリカの問題はヒラリー・クリントン候補にあるのです。彼女がどれ程うそを平気でいう人であるかはほとんどの日本の皆さんには想像ができないと思います。それはフランクリン・グラハム師ですらはっきり認めています。
理由は、ワシントンの政府は勿論のこと、政界から、財界、それにメジャーなメディヤがこぞってクリントン候補になびいて癒着しているからですー正直なところアメリカがこれほど迄にモラルが堕落・腐敗しているとは思いませんでした。政府の高官からFBI に至るまで憲法は無視する、汚職と不正行為が堂々とまかり通る、これは悪魔に完全に操られた姿としか思えません。ピアース師の預言の意味を「神が、過去八年(オバマ政権)の間、天は地のことを人間に任せて来た結果がここまで悪くなれば、もうこれ以上は我慢出来ない」と云われていると受け取るとしても私は反対しませんし、反対出来ません。ウキリークがあばきにあばいても、この八年間、余りにも不正が堂々と行われて来ましたから、人々の感覚は麻痺していて「トランプはもっと悪人だ」と云えば民衆は黙ってしまう状態です。そうしてクリントン候補が夫婦で海外からどれ程不正による資金集めをして来たかが今どんどん明るみに出されています。日本なら彼らは国賊扱いを受けるでしょう。
しかし、もしこの選挙でクリントン候補が選ばれるとしても、私は当然ながら神を全面的に信頼しています。神はアメリカをもっと悪くした上で、抜本的・奇跡的に回復させる神であることを疑いません。しかし、これからの最後の二週間足らずで、神がなさることに期待しています。
大リバイバルが近づいている
最後に私の結論を申し上げたいと思います。アメリカが、最近にない程のひどい「人間性の腐敗・堕落」に堕ちたことは、いよいよアメリカに、いや世界に今迄に無いスケールのリバイバルを神が起こされる状況が整いつつあると言うことではないでしょうか。神は八年間こうなるのを涙ながらに待っておられたのです。そして、ついに神が動かれ始めるといわれるのです。リバイバルの時が近づいています。ぜひお祈りください。(終り)
17 10月
否定的な思いは取り合わないで無視しなさい!
グラハム・クック
私たちは周りの状況によって自分の信じることが揺り動かされることを許してはなりません。そうではなく、あらゆる状況によって信じることが強められるようにするのです。
周りの状況は、それが良くても悪くても、或いはとんでもなくひどいものであっても、すべてが実際あなたを強くする要因になっているとしたらどうでしょうか? 神が悪い状況を用いられてあなたの信仰を強めておられるとしたらどうでしょうか?
それは神がなさりそうなことではありませんか? 神は「わたしは心からあなたという人間を強くしたいので、この悪い状況をあなたに許したのです。あなたに少しばかり忍耐と辛抱を教えたいのです。ただわたしのそばに留まり、パニックにならないで落ち着いていなさい!」と言われているのではないでしょうか。
私たちは「神は私のためにどのようなお方であってくださるか」という真理に拠り頼むことによって、どのような状況に対しても立ち向かうことができるのです。あなたはすべての状況に向かって「聞け、私はこういう者だ。 私にとって神はこういうお方なのだ。これが私の真のアイデンティティーであり、この状況は私をもっとすぐれた者にするためのものである。私をレベルアップさせるためのものであるのだ!」と確信を持って言い放つことができるのです。
悪い、否定的な状況に対処する一番の方法は、あなたの考え方を変えることです。頭に浮かぶ 否定的な思いと論争してはなりません。それらは無視するのです! そして 「キリストの心、思い」へと力強く踏み込み、主が喜んでおられるのを見出すのです。
あなたは自分が御霊においてどのような者になるかを決断せねばなりません。そして人生で起こるすべての状況は、そのあなたのアイデンティティーを強めるために備えられたものであると認識し理解せねばなりません。
それはエペソ4:20―24に次のようにある通りです。
「しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」
又コロサイ3:9にはこうあります。
「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」
あなたは古い自分を取り扱う必要はありません。それは放っておけばいいのです。
死体のお世話はしません。「古い人」にカウンセリングをする必要はないのです。私たちはキリストにある真の人、真の性質に訓練を与えていくのです。
心の霊において新しくされてください。イエスがあなたにとってどのようなお方であるかに目を留めてください。そこにこそあなたの自由、解放があるからです。神に似せて造られた新しい自分を着てください。そうすれば義が伴ってきます。
往々にして私たちは、自分が神にとってどれほど麗しい者であるのか、又私たちに対する神の愛がどれほど尊厳に満ちたものであるかを理解できません。しかし「新しいあなた」があなたに自由を与える真理を語ってくれるでしょう。
私たちが持つ自分へのヴィジョンと私たちのすべての状況は、イエスにあって常にレベルアップさせられます。古い自分に聞き従うことは聖書を信じる者がすることではありません。それはファーストクラスの航空券を持っているのにエコノミーで行くのにちょっと似ています。
あなたは新しく造られたものであり、古い人は死んだのです。あなたは罪に死んで神に生きていることを知ってください。「自分は神に生きているのだ」といつも考えるように訓練をしてください。イエスにあってファーストクラスの航空券を持っていることを忘れないでください。
今週、あなたの頭に否定的な思いが忍び込んだと気づいた時には、あなたの真のアイデンティティーを宣言して自分を訓練してください。
「私はイエスにあって、神と真に関係を結ぶことを愛します。主と同じ思いを持ちたいと願うので、それよりも低いレベルの思いや思考に留まることはしません。 私に関して神が考えていてくださる通りに、私も私自身のことを考えたと願うのです。」(終り)
10 10月
「黙示録」の時代が迫り来る
リック・ジョイナー
ヨハネの黙示録は「イエス・キリストの黙示(啓示 revelation)」という言葉で始まっています。この書の中には、イエスの最も栄光ある姿と主の花嫁(教会)について、そしてこれから起ころうとする最後の時代の事が書かれています。その結末は 聖書で最も励まされる未来に関するメッセージであると思います。しかしこの書の中程には歴史上最も暗く、最も恐ろしい出来事がいくつか予示され、反キリストや不品行な教会について書かれています。しかしそれらのすべてが「イエス・キリストの啓示」であるのです。どうしてこのように邪悪なことが「イエス・キリストの啓示」に含まれているのでしょうか?
「罪の人 man of sin」とは人間の罪を人格化したものー即ちキリストを持たない状態の私たちの姿です。暗黒時代に教会が堕ちた深い暗やみは、もし私たちがキリストを離れて「今の邪悪な時代」の霊に加わるならば、私たちが皆陥る暗やみを意味します。これは教会がローマ帝国の国家宗教になった後に起りました。
これは 起こるべくして起こった堕落でした。
イエスは「最後のアダム」と呼ばれます。そしてイエスの花嫁は、最初のアダムの花嫁イブと同じように誘惑を受けねばならなかったのです。キリストの花嫁も同じように罪に堕ちましたが、最後のアダムであるイエスは堕ちませんでしたし、ご自分の花嫁に罪の宣告もなさいませんでした。イエスは花嫁を贖うためにご自分の命を捨てられたのです。また主は花嫁を回復させる力も持っておられました。今もそうされています。イエスの贖いの力は非常に偉大であり、最悪の淫婦をも、しみ一つない花嫁に回復させることができるのです。
教会は教会を滅ぼそうとするイザベルの霊に常に屈して来ました。イザベルは当時働いていたその教会を滅ぼす霊を人格化したものです。黙示録にも見られるように、主は彼女に「悔い改める時間」を与えます。それはこの霊から解放されるためには時間がかかるからです。そして教会は、この霊との戦いに前進はして来ましたが、今日未だこの霊から完全に解放されてはいません。
過去の時代において、イスラエルは約束の地に到着するまでに、約束されたものとは全く正反対の荒野を通っていかねばならなかったことを私たちは学びました。この試煉は人々の一番悪い部分を露呈しましたが、同時にある人々の一番良い部分が明らかになりました。第一コリント10章には「イスラエルが荒野で経験したことはすべて私たちへのメッセージである」と書かれています。「霊のイスラエル」である教会も又、キリストの再臨と地上での御国建設という約束の地にたどり着くまでには荒野を通らねばならないのです。
イスラエルは40年間荒野をさまよいましたが、教会は今まで2千年ほどもこの荒野にいます。イスラエルのように、この間に教会の最も悪い部分が表面化して、人間の罪が人格化したものが主の宮に座ることさえありました。そして主の宮はそれが主であると思ったのです。もう一度同じ事が起るのかどうかはまだわかりませんが、歴史の中ではヨハネが予見した通りのことが起りましたし、初代教父の多くはそれが起こることを理解していました。
中世の教会がした出来事の多くは、キリストのご性質とは全く正反対のことでした。教会がそれをはっきりと認めるまでは、それが即ち私たちの仕えるキリストのご性質であると世界は認識し続けることでしょう。そして人々はイエスとその(真の)教会を拒絶し続けるでしょう。「歴史を知らない者はそれを必ず繰り返す」という原則を、教会はまさしく証明して来たのです。一つ前の世代が陥った霊的罠と同じ罠に殆どの世代が陥っているからです。今こそそれを理解してこの繰り返しのサイクルを打ち破る時です。その時にこそ私たちはヨルダン川を渡って約束の地に入る用意が整うのです。
歴史上で教会がキリストの名によって行って来た事を調べるとき、私たちはあまりにも恐怖を抱き、その時代から存続して来た教会組織を非難するかもしれませんが、それは間違いです。これを行ったのは「彼ら」であるという視点ではなく、「私たち」であると考えることを是非お勧めいたします。主の恵みなしには私たちも彼らと同じなのです。
歴史が証明することは、このような啓示(黙示録)を受けて淫婦の教会を罪に定めようと立ち上がる人達も、やがては同じ罪に陥るように思えてなりません。私たちが教会の罪の深さを認めるとき、しかし、その罪よりも十字架による神の恵みの深さの方がより大きいことを知らねばなりません。恵みは罪の贖いだけではなく、完全に和解させ回復させます。私たちはこれらすべての歴史をキリストの贖いの目的を通して見なければならないと思います。
過去の世界の暗やみが深かったように、この終末の時代に起こる闇はもっと深いものになるでしょう。しかしどれほど闇が深くなろうとも神の恵みが届かないような暗やみはではないことを私たちは忘れてはなりません。神はすでに贖ってくださったのであり、和解させ回復させてくださるのです。主は邪悪な者たちを滅ぼすために十字架にかかられたのではなく、彼らを救うためにかかられたのです。主は復讐のために戻ってこられるのではなく、主の相続遺産である国々を受け取るために来られるのです。
世界が陥った悪を主が見られたとき、主はそれを罪に定めることはしませんでした。主はご自分の命を捨ててこの世を贖ってくださったのです。この「イエスの啓示」は、キリストというお方が私たちの内に、そして私たちを通して世界に知らされ啓示されるのが目的です。それが起るためには、私たちは最悪の罪人に対しても目を逸らさず、彼らが救われるために自分の命を喜んで捨てねばなりません。悪を見たときにはその中に捕われている人の救いを願わねばなりません。私たちは、教会の歴史をも含む−すべてのことを、罪定めするのではなく、贖いの立場から見なければなりません。最悪の出来事でも、悪に捕われた人よりも自分の方が良いと考えるのではなく、それは恵みがないときの自分の姿であると考えるべきなのです。そして恵みに感謝し、自分が受けたと同じ助けを人々に与えたいと願わねばなりません。私たちはこのような見方と考え方を充分時間を取って心に入れる必要があります。なぜなら、私たちがこれから先に進むにつれ、今迄の歴史上顕された悪の深い闇ーしかもその闇の多くは今の時代にもまだ残っているーその闇の中をこれから私たちが通されるという大きなチャレンジを受けるからです。しかし、この時代の終りには教会は完全に解放され、多く赦されたものは多く愛するようになるのです。今は最悪の暗やみにいる者たちであっても、その人たちは義において、愛し贖うことを学ばなかった者や愛の成長が止まった生ぬるい者を、素早く追い越すことができるのです。
私たちは主への初めの愛を取り戻し、主と主の民ヘの愛をこれからますます成長させると決意しようではありませんか。
私たちは悪を見逃したり言い逃れをしたりはできません。しかし、もし主の愛が私たちのうちにあるならば、私たちはすべての人を、たとえその人の過去や現在の状態がどのようであっても、愛と贖いをもって見ることができるでしょう。(終り)