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Walk With God Ministries


26 09月

死ぬべき肉体に現されるキリスト           フランシス・フランジペイン          2016年9月26日


死ぬべき肉体に現されるキリスト

フランシス・フランジペイン

 

イエスがミニストリーを始められたとき、弟子たちのために何を思っておられたのでしょうか? 主の聖なる目標は何だったのでしょうか? イエスは失われた人々を捜し救うためにだけ来られたのではなく、救った人々の中にご自分を写す、再現するということが最高レベルの目標だったと私は堅く信じています。霊の旅路を始めたばかりの者であっても、或いは長年主に仕えてきた者であっても、まことにキリスト教とは、私たちのうちに、又私たちを通してキリストが生きて現れること以下ではないのです。(ガラテヤ2:20)

 

キリストのいのちそのものが私たちを通して現れ出ることなしに、私たちは自分のデスティニーに到達するための確実な足がかりを見つけることはできません。

「キリスト」と言うとき、私は貧しい人、病人、束縛された人、困窮した人等に対する主の憐れみの心を指しています。主の憐れみこそが奇蹟、不思議、解放をもたらしたのです。また、「キリスト」とは主の力と御父への深い服従のことであり、それはすべてに対する主の限りない権威を生み出しました。又、「私たちのうちなるキリスト」と言うとき、ただ神学的に正しい教義を指しているのではありません。神のゴールは、私たちが持つ教義の中の真理が芽を出し、キリストのいのちと力へと成長し、私たちを通して現れ出ることなのです。

 

教会がこのように内からキリストの姿へと変えられることは、パウロが最も願っていたことでした。彼はガラテヤ4:19で「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と書いています。又2コリント4:11には「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」とあります。愛する皆さん、キリスト教とは「イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体に明らかに示される」こと以下ではないのです!

お分かりでしょうか、天におられるイエスと私たちのうちに住んでおられるイエスに何の相違もないのです。ということは人類を愛し救われたイエス・キリストの御霊が私たちを通してご自身を現されるのです。私たちのうちなるキリストが現れることこそ、神の実体を知りたいと願う私たちを満足させる唯一の方法なのです。私たちの内にキリストが住まわれること以下のこと、又はそれ以外のものは何であれ、単なる宗教にすぎません。

 

イエスはヨハネ17:18で「あなた(御父)がわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」と言われました。私たちはイエスが遣わされたように、同じ使命、同じヴィジョンで遣わされているのです。自分の人生にキリストを受け入れたとき、私たちは人類のために死なれ、今は私たちを通してご自分の目的と力を再び生きるお方そのものを受け入れたのです。

 

この世は悪に満ちていますが、それは私たちをキリストと同じ姿に完成させるために神が選ばれた現場 reality なのです。霊的成長は世界で何が間違っているかを識別するためには殆ど不要です。しかし、私たちの近隣や街 が変革されるためには、 キリストのような成熟とヴィジョンにおいて成長することが私たちに要求されます。私たちは自分が置かれた環境の中で、どのように祈りをもって耐え忍び愛し続けるかを学ばねばなりません。確かにこの世界は悪に満ちていますが、よく見るならば、それは「私たちの死ぬべき肉体を通してキリストが現されるため」の完璧な場所なのです。(終り)


20 09月

腹を立てない心     フランシス・フランジペイン  2016年9月20日


腹を立てない心

フランシス・フランジペイン

エゼキエル36:26「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」

神は私たちのために気分を害したり腹を立てることのない新しい心を用意しておられます。愛する皆さん、怒らない心を持つことは、どちらでもいい事とか、あるといいかも、というようなものではありません。それは小さな事ではないのです。腹を立てる心には「石の心」になる危険性があるのです。

考えてみてください。私たちは時代の終りに近づいていますが、イエスはその時多くの人々は非常に気分を害したり腹を立てて信仰から脱落すると警告しておられます。

マタイ24:10-12「また、そのときは、人々が大ぜいつまづき、互いに裏切り、憎み合います。またにせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」

「人々が大ぜい(many)」「つまづく(offended 気分を害する、腹を立てる)」のです。その結果どうなるのでしょうか?「多くの人々(many)の」愛が冷たくなります。私たちが皆、このイエスの言葉に聖なる恐れをもって耳を傾けることを祈ります。

自分の心の怒りをそのままにしておくと、それは重大な霊的問題を招きます。この箇所でイエスはその危険な結果を3つ挙げています。即ち裏切りと憎しみ、そして愛が冷えることです。私たちが誰かに対して腹を立てるとき、それが自分が愛している人であっても、その人の所に話に行かねばなりません。もしその人と話をしないならば、その人のことを他の人たちに話すようになります。私たちは陰口を叩いてその人の弱さや罪を暴露して、その人との関係を裏切ることになります。

私たちはその裏切りを「ただ人々からアドバイスが欲しかっただけ」とか「相談しただけ」と言ってつくろうかもしれませんが、振り返ってみればあまりにも沢山の人にその人のことを否定的に話したことがわかるのです。その本当の目的は自分が霊的な助けを得るためではなく、自分を傷つけた人への復讐であったのです。これが憎しみの表れでなくてなんでしょうか。冷えた愛、裏切り、憎しみはつまずいた魂を暗やみへと導くものです。

人は大きな岩につまずきません。比較的小さなもの、小石につまずくのです。あなたの上司が持つ性格や人間性が気になり始め、それがやがていらだちや怒りとなります。或いは友達や家族の誰かが自分の期待に添わないとき、私たちは魂に怒りを持ちます。愛する皆さん、私たちが「最後まで耐え忍ぶ」ためには、自分が嫌なことや気になることに正面から向き合わねばなりません。

イエスの「忍耐が必要である」という警告は、即ち「始めることは容易いが最後までやり遂げるのは難しい」と言っておられるのです。今から死ぬまでの間には、あなたはひどく立腹させられる事を何回か経験し、あなたはそれを克服していかねばならないでしょう。今そのような経験をしておられるかもしれません。怒りをそのままに放置する危険性を過小評価しないでください!

「信仰から離れよう。」とあらかじめ計画する人はいません。「今日、私は硬い石の心を作る努力をしよう。」と言った人もありません。それは私たちの魂にひそかに忍びよるのです。自分にはそんなことは起こるはずはないと考えるのは、浅はかです。私はいつも何かに腹を立てている人達を知っています。自分の怒りに対処せず、祈りを持ってその問題を神に委ねるかわりに、自分の魂の怒りをいつまでも持ち続け、遂にはその重圧で神との歩みが出来なくなるのです。

 

今日は大丈夫かもしれません。しかし明日にはあなたを失望させ傷つける何かが絶対に起こると保証してもいいです。何か不正なことがあなたに対してなされ、仕返しをしたいという思いをあなたに抱かせます。その時、あなたはもっと愛を実践してキリストのような者へと一歩近づきますか? それともあなたは腹を立てて自分の霊のいのちを消耗しますか?

怒りの根

怒りは私たちの徳や罪、価値やプライドを攻撃します。怒りは魂のどの部分(良いところも悪いところも)にも侵入して傷つけます。私はかつて「うわさ話」に関する 説教を何回かしたことがあります。ほとんどの人はそのメッセージを聞いて自分の罪を認め悔い改めましたが、うわさ話の中核だったグループは大変怒って結局は教会を去って行きました。魂の罪を聖霊に明らかにされたとき、それを悔い改める機会を私たちが拒絶するならば、私たちは往々にしてその教えを与えた人に向かって怒りを抱くのです。自分の心をへりくだらせる代わりに、自分の罪を明らかに示した人に激怒するのです。これは本当なのですが、大抵の場合、私は誰がその教えを必要としているのかはわからないのです。しかし神は知っておられます。

パウロはテモテに2テモテ4:2で「責め、戒め、勧めなさい」と告げています。彼は「勧め、勧め、勧めなさい。」とは言っていないのですが、ほとんどの教会では勧めしか語られていません。勿論私たちに励ましは必要ですが、責めや戒めを必要とする時もあるのです。今日、会衆が怒って教会を去ることを恐れて真実を語るのを恐れる牧師がいます。その結果として、すぐに腹を立て、いつまでも矯正を受け取ることができない成長の止まった人々ばかりの教会になってしまうのです。

人々はただ勧め励ますだけでは変ることができません。私たちすべての中にはキチンと問題を指摘され訓戒される必要がある部分があるのです。罪を犯している人を訓戒し矯正することを拒否する牧師は神に従っていません。そのような牧師は人々の人生を真に変革されたものへと導くことはできません。そして矯正されないままの人々は「最後まで耐え忍ぶ」ことはできないのです。(マタイ24参照)

 

私たちは「主よ、私の中で変る必要があるものを教えてください。」と言う者たちにならねばなりません。これは成長するということです。箴言15:5「愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる。」

個人的な怒り

一番簡単に腹を立てるのは私たちのプライドです。プライドは自分に分相応以上のものを期待するようにさせます。プライドは自己崇拝の一つの形です。神は私たちのプライドを打ち壊す必要があるので、あなたの中でへりくだりの足りない部分を露にするために、あなたを立腹させる事件が起こるのを許されるのです。あなたの良い働きに対して励ましを期待するのは間違いではありませんが、自分が期待したときにそれを受けなかったといって腹を立ててはいけません。

ずっと以前、私がまだ若い牧師だったとき、私たち夫婦はあるカンファレンスに出席したのですが、そこでリーダー格だった人がすべての牧師夫婦に個人的に挨拶をすることにしました。彼は私たちの右側にいた夫婦に挨拶をしたあと、スタッフに何かを聞くためにその場を離れました。彼が戻ってきたとき、私たちをとばして私たちの左側にいた夫婦のところに行きました。周りの人たちはみんな私たちが抜かされたことを見ました。私たちは恥ずかしく少し腹が立ちました。

しかし妻は、この出来事で自分たちが傷つくのを許すのではなく、私たちが人々の気持に敏感になるための一つのよい教訓として受け取ることもできると賢明にも考えたのです。このことは人々が無視されたときにどのように感じるかを私たちに教えてくれました。お分かりでしょうか?あなたはつまづきを更にキリストのようになるための機会としなければならないのです。

私たちが腹を立てる事柄は本当に際限なくあります。実に私たちは、腹を立てるか、それとも決して腹を立てない心を持つかのどちらかを選ぶチャンスを毎日与えられているのです。主の約束は「私たちに新しい心を与えてくださった」というものです。それは主の御霊で満ち、主の愛にあふれた柔らかで人を受け入れ赦すことのできる心です。


祈り「主よ、私がすぐに腹を立て、ずっと赦さないでいることをお赦しください。御父よ、私のこころは愚かで弱いのです。何に対しても気を悪くしたり腹を立てないイエスの心をお与えください。アーメン」(終り)

 

 

 

 


12 09月

御顔を求める      リック・ジョイナー             2016年9月13日



  御顔を求める

    

  リック・ジョイナー

 

 

黙示録1:16でヨハネは次のように主を描写しています。

「...顔は強く照り輝く太陽のようであった。」

太陽のエネルギーは自然界の命を保ち、可能にします。神の御顔も又、すべての命と霊的命を保ち、生きることを可能とします。使徒パウロがアテネの哲学者たちに言ったように「私たちは神に中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17:28)」

 私たちが人を識別するには基本的に二つの方法があります。それは顔と声とによります。その人の手に何か特別な特徴が無い限り、手を見ただけでその人が誰であるかを見分けられる人があなたには何人いますか? 身近な人でさえわからないのではないでしょうか。しかし神を神の手だけで、つまり神が与えてくださった物によってだけ神を知る人が多いのではないでしょうか。第1歴代誌16:11と詩編105:4は「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」と私たちに命じています。

         主の御手は主の力と供給を表しています。それはすばらしいものであり求めるべきものではありますが、私たちはまず第一に主の御顔を慕い求めるように召されているのです。もし私たちが主を御手によってしか知らないならば、私たちに与えてくれる手ならば何でも主であると考えてしまうでしょう。私たちは主の御顔を求めねばならないのです。御顔からすべてのいのちが発せられていて、太陽のように輝いています。

 

         それではどのように主の御顔を求めればよいのでしょうか? それは主の御業だけではなく、主と主の道を求めるのです。詩編103:7は「主は、ご自分の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。」と言っています。主のみわざを見ることはすばらしく、それを忘れないのは大切なことです。イスラエルは毎年 主のみわざを次の世代に語り継げるように命じられました。しかし主のみわざを見ることと、主を見ることには違いがあります。

 

        モーセは主の御顔を求めました。彼は多くの偉大なみわざを見たにもかかわらず、主を知り、主の栄光を見ることを願いました。モーセは人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせて主と会ったのです。(出エジプト33:11)モーセがいのちで溢れていた理由はこれだと思います。120歳になったときも、彼の目はかすまず、気力も衰えてはいませんでした。

 モーセは主と共に多くの時を過ごしたので、老衰で死ぬことはなく、主ご自身が死なせねばならなかったのです。主の御霊は私たちの死ぬべきからだをも生かすと言われています。(ローマ8:11)御霊のうちに過ごす時間は私たちを若返らせます。しかし主を知ることの祝福は身体の若返りよりも更にすばらしいものです。イエスが言われたように永遠のいのちとは神を知ることです。(ヨハネ17:3)

         主は道であり真理でありいのちです。道とは救われるための方法ではなく、あるお方のことです。真理とは教義を正確に理解するだけではなく、私たちが知るべきお方です。もしそのお方が私たちのいのちでないならば、私たちは本当には道も真理も知らないのです。私たちは単に「主について」しるだけで満足してはなりません。顔と顔を合わせて主を知らねばなりません。これが私たちの人生の最も重要な目的です。他のすべての事の永遠の価値や素質は、私たちの顔と顔を合わせる主との関係によって決まるのです。(終り)


03 09月

とりなし手とはどのような人か           ジュディー・サリバン




とりなし手とはどのような人か

 

ジュディー・サリバン

 

 祈る人ととりなし手の違いは何でしょうか? 殆どのクリスチャンは祈りますが、すべての人がとりなし手ではありません。とりなしとは神とのコミュニケーションの手段であり、その点は祈りと似ていますが、祈りよりずっと深みへと入っていくものです。普通人々が祈るのは非常に個人的な事柄が中心となりますが、とりなしは自分では祈ることができない人達のために祈ります。辞書によると「とりなし intercede」の意味は「和解させる意図でグループ間に介入する 仲裁する」とあります。とりなし手は人のために神の介入を願って「破れ口」に立つ者です。

アブラハムがソドムを滅ぼさないようにと神に嘆願したとき、彼はとりなし手の役目を果たしていました。(創世記18:16−33)イスラエル人が金の子牛を造り拝んだときモーセはとりなし手として彼らを殺さないようにと神に嘆願しました。(出エジプト32)ご自分のいのちをすてて人類が神と和解するための道を備えられたイエスは、究極のとりなし手でした。

 

とりなし手とは、裁かれるのが妥当である時に神の憐れみを乞う者のことです。彼らは第二歴代誌7:14の「わたしの名を呼び求めているわたしの民が自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」という神の呼びかけに応答したのです。

 

自分の事ではない

 

真のとりなし手は自分本位ではない者であり、彼らの最高の目的は自分がとりなしている人のために命を捨てることです。熱心な祈りをもってある人やある場所と、それらに害を加えるものの間に立つのです。とりなしている相手と一つになり、彼らのために願い求め、嘆願し、彼らを苦しめている問題と戦うのです。憐れみや赦しを受ける権利のない人達のために願い求めます。とりなし手たちの祈りは霊的空気を変え、一日を制し、天を揺り動かし、悪霊を追い散らします。とりなし手はこれは自分の事ではなく、主の事であり、人類に対する主の愛、そして主の贖いのご計画に関することであることを理解し悟っています。

とりなし手は秘密の祈りの場で破れ口に立つ隠された者たちであり、他人のために悔い改め、主のご介入を叫び求める者たちです。彼らが公の場で祈るとき、その祈りは豊かでいと高き神の秘密の場所でじっと待ち望んだ者だけが持つ権威があります。真心を尽くして主を喜ばせ主に仕えることが彼らの焦点です。彼らは油断せず目を覚ましています。私たちの真の敵は人ではなく、悪魔がほえたける獅子のように食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っているのを知っているからです。(1ペテロ5:8)虜になっている人たちを解放し、彼らが主のすべての慈しみを味わうことができるようにすることに、とりなし手は情熱を持っているのです。

イエスは人類が神と和解するための道を作るためにご自分の命を捨てられた究極のとりなし手でした。とりなし手に関するステレオタイプや空騒ぎを通りすぎるならば、これが本当に尊い召しであることがわかります。主に自分は何であるのかを尋ねてみてください。あなたが隠された者の一人、世界級のとりなし手になりつつあるかどうかを訊ねてみてください。

 

自分の目的を知る

 

今日「自分が何者であるか」発見するための多くの本や教えがあります。リック・ウオレンの「人生を導く五つの目的」やランス・ウオルナウの七つの山に関する教えはよい資料です。どの山のために自分が召されているかを理解し、自分はなぜ造られたのか、短い人生で何をするべきかを理解するのは、実に教会の覚醒となりました。目標を定めない人生は無謀であり無意味です。聖書にも「Where there is no vision, the people perish.ヴィジョンが無ければ、民は滅びる。」(箴言29:18)とあります。

 

とりなし手として自分が主にあって何者であるかを知ることが、自分の役割を果たすための鍵となります。自分の役割を悟ったならば、私たちの祈りは新しいレベルの権威を持ち、すべてのことが可能になるでしょう。あなたがその人のために祈っている人が、自分が真に何者であるかがわかり始めるならば、どんなにすばらしいことが起るか想像してみてください。

個性、性格を越えたもの

 

普通言われていることに反して、私たちの人生に対する神の召しが私たちの性格と一致することは極めて稀です。ダビデは子どもの時に油注がれた王でしたが、家族の中では最もそれにふさわしくない者でした。モーセは神に選ばれた解放者でしたが、言葉を明瞭に話すことができませんでした。ギデオンは酒ぶねの中に隠れていたときに「勇士」と呼びかけられました。シモンは岩とはほど遠いものでしたが、イエスは彼を岩という意味のペテロと呼ばれました。主が召されたときに彼らのアイデンティティーは明らかではありませんでした。彼らはみんな「勇気のテスト」に落ちていたことでしょう。彼らを勇敢にしたのは油注ぎだったからです。

 

イエスの母であるマリアも普通の若い女性でした。彼女の未来のプランは、多分私が彼女と同じくらいの時に持っていたものとさほど変らなかったでしょう。しかし彼女が神と出会った時、すべてが変わりました。「あなたは歴史上もっとも重要な母親になる」とマリアに告げた時、天使ガブリエルは彼女に性格テストを受けるようにとは言いませんでした。マリアは多分そのように高い召しが要求するプロファイルには今日の基準からいえば適合していなかったことでしょう。私たちがなるべきために生まれた者となるためには、神との出会いが必要なのです。

プロセスを大切にする

 

自分が何者であるかを悟ったとき、まだそこに到達する途上であっても、私たちの確信は大きくなります。まだ世界級のとりなし手ではないかもしれませんが、多くの先達と同じように、神は「無いものを有るもののようにお呼びになる方」であるのです。(ローマ4:17)

 私たちはいろいろなことの総合的組み合わせによって知られ確認されます。外面的には歩き方、話し方などの外観で知られます。内面的には個性や感情で知られます。私たちの文化習慣が私たちを形造る大きな役割を果たします。生まれ育った時代が影響を与えます。所属する教会が性格を形成する助けとなります。多くの点で親や兄弟姉妹に似てきます。私たちの人生の歴史のすべてが生き生きと役目を果たし霊的な遺産となります。

 

主が私たちを召されるとき、主は私たちの歴史を払拭はしません。そのすべてを用いられてキリストにある新しい者を造られます。私たちの今までの経験のすべては、私たちをキリストの似姿とし真の召しを引き出すために用いられます。私たちの今までのすべての間違いや犯したすべての罪は、主がご自分の性格を私たちの人生の中に育てるために用いられる苗床の土壌となります。

主の赦しの中で起こる奇蹟の一つは、私たちがどのような者として造られたのかを見出すことです。困難な人生の中で学んだことは私たちの霊的DNAに記録され、敵が攻撃したまさにその所でより大きな権威を私たちに与えてくれるのです。

あなたのアイデンティティーを守れ!

 

私たちのアイデンティティーは私たちの受けるべき遺産であり長子の権利です。エサウは少しの食物のために長子の権利を売りました。放蕩息子は一時の快楽のために遺産を浪費しました。もし長子の権利を売るならば、自分のアイデンティティーを他人にやってしまうのです。聖書は私たちが持っているものをしっかりと守って誰からも冠を取られないようにと警告しています。私たちの人生の一瞬たりとも無駄になることはありません。それはすべて私たちが何者であるかを形造る一部なのです。

私たちは、血縁、環境、文化の中から生まれたものです。もししっかりと聞くならば、主は私たちが何者であるかを教えてくださるでしょう。自分の真のアイデンティティーを悟り、自分の長子の権利を知るならば、正しい場所で正しいことをするように私たちは焦点を当て続けることができるでしょう。

神が任命するとりなし手の召しには肩書きとか学位は必要ではありません。この役目のために一番適切な個性とか性格のタイプもありません。試煉や厳しい苦難を通って燃え尽きた灰の山の中から、新しい種類のとりなし手たちが今現れてきていると思います。真の先駆者と同じように、私たちは困難を通して物事を学び、自らの失敗によって砕かれました。戦場で前線に立つことによって、自分の中には外の敵よりも偉大なお方が住んでおられることを学んだので、大いなる戦いが始まる時私たちは勇敢でいられるのです。

主は今主のとりなし手たちの目を覚まされています。今はわくわくして生きる時です。これは尊い召しです。あなたは今まで機会を逃し主の招きに応じなかったかもしれませんが、神は二回目のチャンスを与えてくださる方です。主は今やり直しのボタンを押しておられます。今日私たちは勇敢に私たちの召しへと踏み出していくすばらしいチャンスがあるのです!(終り)