15 08月
霊のレンズ交換
グラハム・クック
神が見ておられるものと同じものを見,神がそれを呼ばれるのと同じように呼ぶのはとても重要なことです。レンズというのはとても単純な技術で、光を屈折させて物がよく見えるようにしたり、或いは光りを遮って物がぼんやりしたり、歪んで見えたりするようにします。レンズ自体は見えないのですが、私たちはレンズを通して物を見るのです。霊的に言えば、レンズとは私たちの認知、知覚、観察、考えです。レンズはある人やある物に対して偏見を生みます。「レンズを変える」ことはヨハネ1章にあるナタナエルに起りました。ピリポが彼にイエスを紹介しようとしたとき、彼は「ナザレから何の良いものがでるだろうか。」と言いました。しかしイエスが「あなたがいちじくの木の下にいるのを見たからです。」と言うと彼は「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と答えました。これは最速のレンズ交換でした。
レンズ交換は二人の使徒にも起りました。一人目は使徒行伝10章のペテロです。ペテロは彼の霊的レンズを変えるような神との出会いを経験しました。彼は学術的神学者ではありませんでした。人々は彼が無学な普通の人であるのを知っていましたが、イエスと共にいたことも知っていました。使徒10:9で、ペテロは夢心地の中で幻を見ました。それは大きな敷布のようなものの中にあらゆる種類の動物、はうもの、空の鳥が入っていて、「ペテロ、それをほふって食べなさい」という声がしたのです。しかしペテロは「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と答えました。主は「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」と言われました。これが三度も繰り返されたのです。彼は使徒であっても私たちくらい鈍感だったようです。
そのあともペテロは「今見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑って」いました。全くわからなかったのです。その時コルネリオから遣わされた人たちが訪ねてきました。コルネリオが天使からペテロを招くようにと指示を受けたからです。まだクリスチャンではない人のところに天使が現れて知識の言葉(ペテロの宿泊していた所とその人の職業と名前)を与えたのです。御霊は「ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」とペテロを促しました。
カイザリヤについた時、ペテロは異邦人と交わったり彼らの家に入ることを非常に躊躇しました。今までしたことがなかったのです。彼がコルネリオの家に入ってまずしたことは「自分のレンズ」の説明でした。28節で「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。」と話し出しました。「ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。 それでお迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。」と彼は続けました。本当は聖霊によって強く促される必要があったのですが。(笑)
コルネリオからいきさつを聞いたペテロは、34節で「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことはなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」と言っています。ペテロのレンズは完全に変えられたのです。ペテロはコルネリオの後にはそれまでは救いに入れなかった膨大な数の人々(異邦人)が続くことを知りませんでした。神は突然異邦人への大きな扉を開かれたのです。あなたも私もコルネリオの後ろにいたのです。ペテロはレンズを変えられて「これで私は、今神が何をしておられるのか、はっきりわかりました。」と宣言したのです。
彼はその後イスラエルに戻り、他の人々にこのことを報告せねばなりませんでした。使徒11:7で「どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」と言って、これは自分の考えではなく、神がしておられることだと説明したとき、人々は納得して神を誉め称えました。彼らのレンズも変えられたのです。
私たちのレンズが変えられると、少し安定感がなくなり、落ちつかず、当惑し、混乱します。ペテロは今まで一つの考え方で生きてきたのですが、突然神から違うものを見せられて、「これがわたしのしていることだから、あなたもこれを見てほしい。」と言われたのです。「わたしがしようとしていることは、今までのあなたの育ちとはぶつかり、相容れない。わたしはあなたを伝統、習慣、慣しのなかから取り出して、全く新しい場所に導く。わたしはあなたに異邦人への働きの扉を開いてほしいのだ。確かにわたしはあなたを混乱させ困らせている。あなたの伝統、あなたがわかっていると思っていた事、今までの経験をすべてぐちゃぐちゃにして、違う新しいことをあなたにしてほしいと願っている。今は新しい時なのだから。わたしは今までとは違うやり方をする。古いことは過ぎ去って、すべてが新しくなったのである。ペテロ、あなたがまず最初にそのドアを通って行けるのだ。」と主は言われたのです。
使徒パウロもレンズの交換をした者です。彼は学術的神学者でした。ガマリエルのもとでバリサイ人の厳格な教えを学んだと書かれています。親もパリサイ人であり、8日目に割礼を受け、ベンジャミン族の出であり、熱心にクリスチャンを迫害していました。律法に関しては完璧でした。最も厳格なユダヤ教徒だったのです。彼は教会を迫害することにより神のために働いていると100%確信していました。ステパノの石うちは、当然であり正しいことであると信じていました。使徒9章には「この道のものであれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げた」とあります。すべて神の御名において行っていたのです。彼は学術的神学者でしたが、今何が起こっているのかを全く理解していませんでした。イエスが何者であるかを全く理解していませんでした。
しかし彼がダマスコに向かう途中でイエスと出会ったのです。天から光がさし、彼は地に倒れ、目が見えなくなりました。「彼は自分のレンズを無くした」とも言えるのでしょう。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」という声が聞こえ、彼は「主よ、あなたはどなたですか。」と尋ねます。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と主は答えられました。これはパウロにとって衝撃的な瞬間であったことでしょう。彼がその時、どのように感じたか想像ができますか? 「自分は神の御こころを行っている」と100%確信していたのです。ところが実際は神を迫害していたと知らされたのです。彼は目が見えず、暗やみの中で、3日間飲み食いもできませんでした。ただじっと「自分は今まで一体何をしてきてしまったのだろうか」という思いで一杯になって座っていたのです。きっと恐れおののいていたことでしょう。 今までのすべての訓練、すべての神学、すべての教義に疑問を抱いたことでしょう。なぜならば、神と出会ったときそれらは意味をなさず、役に立たなかったからです。彼は混乱し、当惑したことでしょう。自分に対して怒りを持ったでしょう。罪責感と恥で身動きが出来なくなり、孤独であったでしょう。
もし、あなたの霊的レンズが、他の人を迫害したり攻撃したりするようにあなたを促すとすれば、あなたは聖霊によってではなく宗教の霊によって動かされていることを知らねばなりません。神がアナニヤを遣わしパウロが聖霊で満たされるようにされた時、「ただちにサウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。」とあります。彼の視力を長い間遮っていたものが落ちたのです。うろことは、厚い皮膚のようなものであり、視界を妨げ洞察力を制限するものです。
イエスは新しいレンズを与えるために来られ、私たちが主と同じようにものが見えるようにしてくださいました。プロテスタント教会は宗教改革の上に成り立っていますが、それは当時の重要なレンズ交換でした。恵みが再び現れて律法主義と戦いました。神が何か新しいことをしたのではありません。ずっとそこにあったけれども見えなくなっていたものを回復されたのです。カリズマティック・リニューアルもまた大きなレンズの交換でした。私たちの人生における聖霊の重要さを明らかにしました。教会が神の力と聖霊の賜物によって動くことが世界にどれほど大切であるかを示しました。このような重要で大きなレンズ交換は私たちの周りで今もなされているのです。レンズ交換の成功なしには、神と共に歩き続けることに成功はできないのです。あなたはキリストと共に歩き始めた時と同じように終着点に辿りつくのではないのです。これは教義や神学のことだけを言っているのではありません。神を体験することを言っています。神がどういうお方であるのか、あなたが何者であるのか、神が私たちのために何をしてくださるお方なのか、ということに関するレンズ交換です。ヴィジョンに向かって進んでいくというのは、ただ一線上を進むだけではなく、レベルも又変るのです。私たちはこの世にいますがこの世の者ではなく、御国に属するものです。御国の者は御国にふさわしい者として物を見、行動するのです。そして神が今しておられることを見て新しいヴィジョンを持つためには、私たちは絶えずレンズ交換が必要なのです。神は私たちのレンズを拭いたり、修理したり、或いは交換したりしたいのです。(終り)
08 08月
隠された宝と二倍の取り分
キャシー・ペルトン
信仰とは見えないものを信じて望むことです。私たちは主から「約束」や「指示」を聞いたとき、それが必ず起こるという目に見える保証がなくても、その約束の中を歩みはじめます。保証は主のことばの中にあります。それは主が忠実な方でありご自分のことばを必ず守る方だからです。
神からの約束や指示を聞いたときそれが実際どのように可能になるのか、どのように起るのかが全くわからない時に、私たち家族が信仰で一歩を踏み出した多くの人生の旅についてある友人に話す機会が最近ありました。主の忠実さを証明する多くの体験を思い出しながら話している間中、私は 隠された宝が今にも与えられようとしているヴィジョンを見ていました。
信仰で踏み出す
私たち家族に主が「今日から6週間後に違う国に引っ越すように」と言われた時のことを私は友人に話しました。私たちはその8ヶ月前に新築の家を購入したばかりでしたのでローンの支払いもあり、子どもも4人いるのに、どうしてそのような事を主が言われるのか、本当に主の御声であったのかと悩み苦しみました。多くの祈りと多くの確証を得て、私たちは「それは確かに主からの指示である」と結論づけました。私たちは家を売りに出し国外に移住する準備を始めました。
出発の日になりましたが、まだ家は売れておらず、経済的なサポートも殆どなく、ビサも取得できておらず、ただ行き先までの旅費があっただけでした。目に見えない約束を信じる信仰だけで私たちは新しい国へと出発したのです。
「私たちは信仰に満ち満ちて恐れはなかった」と申し上げたいところですが、正直なところ私たちは怯えていました。以前一度だけこれと同じ位未知の世界へ踏み出したことがありましたが、それはまだ私たち夫婦に子どもがいない時でした。私たちは4人の子どもたちを眺めながら「私たちが確かに神の御声を正しく聞いたのでありますように」と祈りました!それから新しい国で暮らした何年かを通して、私たちは神が常に隠された宝を私たちのために用意していてくださることを学んだのです。それは住居、人脈 、人間関係、物資、収入という形で現れました。
私たちに必要なものが何処から来るのかわかっていたことは一度も無かったように思いますが、それはいつも来たのです。私たちが予想するような所からではなく、考えたこともない思いもよらない所や理解できない所から来ました。私たちはいつもびっくりし続けていました。主がお言葉をくださっていたのですから驚くべきではなかったのですが、でもやっぱりいつもびっくりしていました。
イザヤ45:3「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることを、あなたが知るためだ。」
今も私たちは毎月の必要を目には見えないものを信じる信仰で与えられています。思いがけない必要が突然起こることがあります。その時は心を静めて「神は隠された宝を蓄えておられ、神のタイミングでそれを必ず与えてくださる」ことを思い起こすのです。これは定収入のある人にとっても同じだと思います。
生きたとりなし
私は「神が示される事のためにとりなす」という召しを受けている預言的な者ですが、キリストのからだの多くが経験していることを私も常に経験させられています。それはとりなし手に課せられた「重荷」ではなく、聖霊のパートナーとして共同作業をするという任務です。この任務は、敗北ではなく必ず勝利する方のパートナーになることですから大きな喜びを与えてくれます。
この2ヶ月、私は魂に大きな圧迫を感じる経験をしました。同時に私たち夫婦はお金が足らない、それもひどく足らないことに気がつきました。もう何年も見えるものではなく信仰で歩むことを学んできたので、私は平安と神のブレイクスルーの確証を信じてこの嵐を耐え忍ぶことを会得していました。
しかし今回気がついたのは、私がよく眠れなくなったことでした。パニック状態で目を覚ますようになりました。 神の慈しみを確信して平安に眠りにつくのですが、夜中に息苦しくなって起きるのです。怖い夢を見たのではありません。熟睡している時に魂に氷水をかけられたように感じて起きるのです。
これが何回か起きたとき、私は何が起っているのか、どうすればいいのかと主に訊ねました。主はこう答えてくださいました。「わたしの息子、娘の多くがパニックと絶望を味わっている。彼らに仕掛けられている悪魔の業を克服するために、あなたがわたしのパートナーになってくれるようにわたしは願っているのです。」
とりなし手たちはイエスのパートナーになるのです。イエスは人々のために既にすべてに勝利された方です。主とパートナーになるのは光栄なことですが、その任務をはっきり認識しないと非常な重荷になる可能性があります。主とパートナーになるという招きを理解するならば、あなたはあなた個人の戦いから目を移して、キリストのからだが約束された勝利を受け取るための戦いに焦点を合わせることができます。
自分はとりなしの任務をもって生活していると認識したので、私は忍耐して主が求めておられるとりなしをすることができました。今とりなしという特別の任務は多くの者に明らかにされ、 主のパートナーになることに同意した人達の祈りによって遂行されているのです。
私はこのことを二つの理由から皆様にお話しています。まず第一にパニックや絶望的な状況に直面しているすべての人が、イエスは自分の問題をすでに処理されておられ、解決が今来ようとしていることを改めて確認できるようにです。第二にとりなし手として召されている人たちが、自分が感じている重圧感、圧迫感は「自分の痛み」ではなく、苦しんでいる息子、娘たちのために主ご自身が感じておられる「主の痛み」であることを忘れないためです。
私たちが苦しみの中で主のパートナーとなるならば、 栄光の中でも又主のパートナーとなるのです。それは主の助けが必要である人達に解放が来るのを見るからです。
1ペテロ4:13「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」
感謝せよ!
もしあなたが今圧迫や重圧を受ける「任務」に直面しておられるなら、主はあなたを慰めたいと願っておられます。私があなた方のためにとりなしをしているときに 「感謝せよ!」という御ことばを聞きました。詩編107はこのように始まります。「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」
そして続けて、主が長い年月の間にご自分の子らにどれほど何度もいつくしみを施されたかを述べています。主による解放といつくしみの業を一つひとつ述べたあとに、必ず「主に感謝せよ」という宣言があります。
この詩編を読んでいるとき、私は主が主の民の賛美の上を手にかまをもって敏速に馬で駆ける姿を見ました。この幻は変化し始め、大いなる苦しみの中に閉じ込められた男女の幻に変わりました。彼らは助けを求めて叫んでいましたが、その叫びは突然主のいつくしみを感謝し宣言する叫びへと変りました。
彼らが感謝の宣言をしたとき人々の声の勢いは増し加わり、イエスが彼らの感謝の叫びの上を駆けめぐりました。主の手にある鎌が 突然素早く動き、人々の上に重くのしかかって 圧迫していたすべてのものを打ち壊して彼らを解放しました。
彼らは解放され感謝のいけにえの叫びを解き放ちましたが、その時彼らの身体は喜びの賛美で満たされました。そして彼らは主と共に馬に乗り、一緒にこの鎌を持って捕われ人(男や女、都市、国家)を解放するために出て行きました。解放された者たちは神の大いなる軍隊に参加するのです。
詩編107:21、22「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。」
私は聖霊が多くの人に「感謝のいけにえ」の叫びを解き放つようにと呼びかけているのを感じました。それは あなたや人類に対する主の慈しみへの感謝のいけにえの叫びや宣言、或いは行動かもしれません。それがあなたのブレイクスルーのための鍵となるでしょう! ただブレイクスルーを得るために賛美のいけにえを捧げるのではなく、主がそれにふさわしいお方であり、それが真実であるから捧げるのです。(終り)
01 08月
親密さと慣れの違い
リック・ジョイナー
アモス3:7に「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」とあります。又、詩編25:14には「主はご自身を恐れる者とは親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」とあります。神は神を恐れる者たちにご自分の知識を信頼して委ねられます。
「神に恐れを抱いていてどうして神と親しい友だちになれるのか」と不思議に思うかもしれませんが、このような神の逆説(パラドックス)を理解するとき、私たちはいのちの道を見出すのです。詩編25:14で「恐れる fear」と訳されているヘブル語は「yare」で、これはまさに「恐れる」という意味です。他に「尊敬 respect」と訳しているものがあり、勿論それは間違いではないのですが、これは普通の尊敬ではなく尊敬を何千万倍にもしたものです。私たちが神の親友であったとしても、神はやはり神であり私たちはやはり人間なのです。
ヨハネはイエスに親密な intimate 友でした。ユダは主に慣れて familiar いました。神との関係において聖くない慣れ方があり、それは恵みからの最も悲劇劇な脱落の原因になりえるのです。一方ヨハネは年老いて12使徒の最後の生き残りとなったときに幻で天に上げられたことが黙示録に書かれていますが、彼はその時でもなお主の臨在の中で何度も倒れて死者のようになりました。確かに彼は最も偉大なキリストの啓示を受けた者であり、最も親しい神の友であったにもかかわらず、主への恐れを決して失いませんでした。恐らくそれがこのような啓示を委ねられるほど信頼された主な理由であったことでしょう。
パウロは初期の書簡で、「自分は他の最も優れた使徒たちと較べても決して劣ってはいない」と言っています。後に彼は自分は「使徒の中で最も小さい者である。(1コリント15:9)」と書き、その数年後には「すべての聖徒たちのうちで一番小さい私(エペソ3:8)」と書きました。彼の晩年の書簡には「私は罪人のかしらです。(1テモテ1:15)」とあります。ここに一つの段階的流れがあるのがお分かりでしょうか。彼の霊的成熟が進むにつれて彼のへりくだりも増し加わっているのです。
思慮や分別のない者が自分の御座や重要な会議の場に近づくのを許可する国王や大統領が果たしているでしょうか? 主が「秘密のはかりごと」を打ち明けてくださるような主の友になりたいのならば、私たちはそれが栄誉であると共に責任でもあることを理解せねばなりません。預言的啓示を信頼して委ねられるならば、それを人に伝える時を知ると同時に伝えてはいけない時をも知る知恵を持つ必要があります。この知恵は主を恐れることに根ざしています。私たちは主の親友になったとしても、主がどなたかであるかを決して忘れてはなりません。主を恐れることは知恵の初めであり、それはすべての真の預言ミニストリーの土台であるのです。(終り)