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Walk With God Ministries


27 06月

モーセと小羊の歌  フランシス・フランジペイン       2016年6月27日


モーセと小羊の歌

 

フランシス・フランジペイン

 

この世で音楽ほど私たちを霊的領域に容易に近づけるものは恐らく他にはないと思います。音楽は霊的領域への橋渡しする媒体であり、目に見えない時間と空間の扉を通り抜けて人の魂を運んでいくことができます。 自分にとって特別な昔の歌を聞いて、突然ある出来事の喜びや悲しみの思いで胸が一杯になるのを誰もが経験していると思います。或いは、ベートーベンの「歓喜の歌」やヘンデルの「メサイア」を聞いて、魂が音楽の翼にのって天国の入口までも引き上げられるのを経験しない人はいないのではないでしょうか。

その反対に、まるでトロイの木馬のようにサタンからの隠された軍隊を西洋に密かに持ち来んだのは1960年代の音楽でした。私たちはその歌を歌い、その結果、反抗、魔術、麻薬、不品行が私たちの考えに密かに忍び込み、私たちのモラルの水準を襲撃し低下させたのです。今日、悪魔的な音楽は西洋への影響をほしいままにしており、有名なロック・ミュージシャンたちは大胆にサタン崇拝をし、地獄の音楽に酔う若者でスタジアムを一杯にしています。

 

終末の時代

 

聖書の預言は、終末に近づいている今、音楽がますます礼拝の表現として用いられることを明らかに示しています。人類は両極のグループに分けられます。即ち、神の礼拝者として小羊に従う者たちと、悪魔についてサタン崇拝をする者たちです。(黙示録9:20、13:8etc.)

現在すでにこの両極性は現れています。ハードロックのコンサートは全く悪魔的で、完全に堕落しており、実際にサタン崇拝の表現になっています。それと同時にクリスチャン・ミュージックは音楽界で実に最も成長しているジャンルになっています。今日、アメリカでは普通のテレビ局でワーシップCDのコマーシャルが流れていて、スタジアム一杯の人々が神を心からワーシップしている姿が映し出されています。

 主は終末におけるワーシップの重要性だけではなく、私たちが正しいワーシップができるように救われた者たちの歌が持つべきテーマをも教えておられます!実際、私たちの心を満たしている歌が何かを調べれば、私たちが聖書に示されているパターンと霊的に一致しているかどうかを見分けることができます。ですから黙示録5:9、10を見て、私たちの歌を「小羊に従う者たちの歌」と較べてみましょう。

 

「彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」

 

まず第一に、贖われた者たちは「新しい歌」を歌いました。真のワーシップは古くさかったり新鮮味がなかったりはしないのです。それはいつも新鮮で、いつも生きていて、いつも私たちの毎日の生活に表される神のすばらしい愛から生まれる出るものです。次に11−14節を見れば

「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、賛美を受けるにふさわしい方です。』また私は、天と地と、地の下と海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」とあるように、彼らは小羊の血によって贖われたことによってのみ神への道を得たことを知っていました。そして彼らは圧倒され自然に心から溢れ出る深い神の御子への感謝のことばで礼拝したのでした。

この箇所の歌のテーマは、たとえ完全にはそのように歩んでいないとしても、ほとんどのクリスチャンが慣れ親しんでいるものです。程度の差こそあれ、私たちはキリストへの賛美の歌を心に抱いています。しかし驚くべきことに、この聖書箇所によれば、終末に生きる贖われた者たちの世界観は、今日私たちの殆どが信じているものとは著しく異なります。

ヨハネは贖われた者の一人として私たちに語っていますが、彼らのゴールは天国で永遠に住むことではなく「地上で(キリストと共に)治めること」なのです。これは多くのクリスチャンが教えられていることと全く反対ではありませんか。私たちは「主よ、天国に連れていってください。」と祈ります。しかし贖われた者たちと24人の長老、そして天使の軍勢は「主よ、地上に天国をもたらしてください! あなたの御国が天にあるように地上に来ますように。」と歌っているのです。祈りの心をこめて考えてみてください。贖われた者たちは「地上で治めこと」に焦点をあてているのです。又、ヨハネが終末の聖徒たちを「私たちの神の祭司」と呼んでいることも考慮してみてください。「御国の祭司」の主たる任務は、旧約の祭司がその型を示している通り「とりなし」です。キリストと共に治める者たちは「とりなし手」であるのです。彼らは人類の罪のために神にいけにえを捧げ、万能の主の慈しみに賛美のいけにえを捧げるのです。祭司である彼らの人生は、彼らがとりなす人々や国々と堅く結ばれているのです。

しかし御国の祭司たちは助けが必要な人達と結ばれてはいますが、盲目なナショナリズムや個人的な文化的・民族的偏見に縛られてはいません。彼らは人々に欠けている点を明確に見ますが、それをただ容認したり、或いは裁いたりするのではなく祭司としてとりなすのです。彼らは、単なる批評家であることから抜け出して「御国と祭司」という上の位に即いたのです。

更に、彼らは「すべての部族、国語、民族、国民」の中から来ています。ですから彼らの心の歌に私たちはもう一つの側面を見出すことができます。即ち、彼らはキリストによって一つにされた人々であり、一致し和解することを決意しています。彼らは新しく造られた者たちであり、この世においては敵対していた時もありましたが、御国においては一つとなったのです。

 

ユニークなあなたの歌

 

贖われた者のミュージックやワーシップを満たすものが他にもあります。黙示録14:3に「彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。」とあります。

この箇所は神に選ばれた者たちについての記述ですが、これを適用すれば、私たちにも、他に誰も学ぶことのできない、私たち一人ひとりの歌があると言うことです。それは私たち一人ひとりの心から出るユニークな賛美の歌であり、自分の贖いを語る個人的な歌です。

愛する皆さん、あなただけが学び、あなただけが歌える歌があるのです。各節は神がして下さった奇蹟で満ちているでしょう。このワーシップはすばらしい御父の救いの力ある恵みの証しであり、私たちの神の体験から立ち上る麗しい香りです。あなたはこのような歌を歌っていますか? これこそあなたが生きる理由であり、あなただけにしか歌えない歌なのです。

 

すべての国々の人々が来る

 

しかしあと一つ私たちが学ぶべきテーマがあり、そのメッセージは黙示録15:3、4に書かれています。

「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。

『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名を誉めたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。』」

 

愛する皆さん、この言葉の中には非常に多くの事が含まれていますので、ここですべてを語ることはできません。しかし選ばれた者たちには伴っている神の働きがあるのです。即ちそれは、偉大で驚くべき力が現れること、そして、正しいさばき、これが明らかにされたのです。「弱々しい終末の教会」としか見えない人たちに申し上げます。これ等の神の働きが来て国々を揺り動かし、「国々の人たち」は「来てひれ伏す」のです。

もし私たちが「 終末の贖なわれた者たち」を満たすワーシップと同じワーシップをすることができるならば、私たちは「国々が神のもとに来るヴィジョン」を得るに違いありません。愛する皆さん、キリストに従う者たちはモーセと主について歌うだけではありません。彼らはまさにモーセの心を満たした歌そのものを歌うのであり、それは小羊ご自身が歌っておられる歌であり、それは国々が神のもとに来る歌であるのです。

ミリヤムは「(主は)馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた(出エジプト15:21)」と歌いました。しかしモーセは違う歌を歌っていました。私たちがイエスのことを歌うのは確かに適切なことです。しかし人類の罪のために神がいけにえとされた小羊は違う歌を歌うのです。モーセとイエスの心を満たしていたヴィジョンを見て下さい。それは「すべての国々が来て神の御前にひれ伏す」ことです。

愛する皆さん、キリストに似る者となるとは、私たちの心の中に主の心が持つ価値観と基準を移し入れることです。主の歌を所有することです。イエスがなされたすべてにおいて、「主の前におかれた喜び」とは国々の大いなる収穫でした。モーセが成し遂げたすべてにおいて、彼の目は「約束の地」を越えて「約束の全世界」が完全に神に回復される事を常に見ていたのです。ですから、私たちもこれと同じ全世界のヴィジョンを持とうではありませんか。そうです、そしてこう自分に問いましょう。「私たちの心を満たす音楽は、贖われた者のために神が与えておられる音楽と一致しているだろうか? 私たちはモーセと小羊の歌を歌っているだろうか?」と。(終り)


20 06月

アメリカにリバイバルの火が遂に燃え上がり始めた           坂   達  也


 アメリカにリバイバルの火が

         遂に燃え上がり始めた      2016年6月20日

 

             坂   達  也

 

 北米では、いよいよリバイバルの兆しがあちらこちらで起き始めています。そこで今回は実際にリバイバルの火が燃え始めた一つの例をご報告させていただきます。

 去る四月九日、ロスアンジェルスで行われた「ザ・コール」の集会に集まった七万人の人々がリバイバルを呼び求めて叫んだその翌日、同じアメリカで何百マイルも離れたウエスト・バージニア州の僅か五百人という小さな炭坑の町に神は聖霊の風を送られました。その Delbarton という町の The Regional Church of God 教会のミッチェル・バイアス牧師は「私たちはこの日が来るのを何年も祈り続けて来た」と語ります。彼の教会ではその日教会員が集まって祈りの集会を持ち、そこでザ・コールの実況放送を見ていたのです。しかしそこに集まった人々の誰一人としてその翌日から始まることを予測した人はおりませんでした。

 ミッチェル牧師は、翌日の四月十日ー十三日の四日間を教会の「春のリバイバル集会」と名付けた特別集会とし、そのために以前からテネシー州の三十一歳のエバンジェリストであるマット・ハートレー師を招いておりました。その最初の日は日曜日でしたので朝と夕に礼拝が行われ、それは大変すばらしい集会となりました。翌日は隣町のクリスチャン・スクールのチャペルで話し、これも大変な盛会でした。そして十二日は近くの高校の「祈りのクラブ」に招かれてメッセージしました。そのクラブの会合には通常三十ー四十人位集まるのが、その日は何と四百五十人の生徒が集まり、これはその高校の半数以上の生徒数でした。

 ハートレー師はそこでゴスペルを、しかもテーマとしては人気のない「罪」に対するハードなメッセージを語ったのでした。最後に師が「招き」をしたところ百五十人がそれに応えて前に出て来ました。会場は異常な興奮につつまれ、若い観衆は泣き叫び、明らかに神のなす業に力強く触れられました。二日後にもう一度同じ場所で集会が開かれ、そこに又四百五十人が集まり、百五十人が救われました。

 一方ミッチェル師の教会では最初の日以来、毎晩リバイバル集会が開かれ、集まる人々は日ごと多くなりました。この教会では主のリバイバルの激しいムーブメントを望んでは来ましたが、このようなことが起こるとは予期しませんでした。高校の集まりで救われた人たちもこの夜の集会に合流するようになり、「神がリバイバルの火に油を注ぎ始めた」といううわさが広がりました。

 土曜日はエバンジェリストたちに一日休養を与えようと決めていたのが、学生たちの強い希望で、近くのスタジアムを借り、そこに二十五の高校から二千五百から三千人の生徒が集まり、ハートレイー師の力強い説教に呼応して、多くの人が導かれたのです。*次の日曜日はかってなかった程の多くの人が教会の礼拝に参加しました。それ以降、月曜日からの夜の集会では教会では収容しきれない程の人が集まり、火曜日の夜から、場所はウイリアムソン・フィールドハウスに移され、その時点からは多くの教会が参加し始め、単に若者たちの集まりが、一般人の集会に膨らんで行きました。五週間後にはもっと大きな場所に移されリバイバルの火はローガン・カウンテイー(郡)全域に広がり、やがて州全体に広がろうとしています。

 ミッチェル師は、リバイバルがこんな小さな州ーテレビの天気予報ではいつも他の州の名は言われても、ウエストバージニア州の名は出てこない程ー小さな州の小さな町で始まったことに驚きを隠し得ず「この州は神によって隠された町」と呼んでいます。師は1998年に同じ州のある町で祈りの会に参加した時主が預言され、「あなたの(州の)小さなことを恥じてはならない。ウエストバージニアよ、わたしは終りの日迄あなたを隠す。もっとわたしを求めるならわたしは示そう。」と言われ、ミカ書5章の最初にある「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。」を引用されたと言います。

 ミッチェル師は聖霊の風が吹き続けることを望み、次にように語っています。

 

「このリバイバルを起こしているのは私たちではない。主が望まれることを主がなされますように。私たちはこのことを既に何年も祈って来ました。この州はリンカーン大統領が南北戦争の際に大統領権限で州に指定したアメリカで唯一の州であり、当時の州民は人間が人間を所有することを信ぜず、奴隷制度に反対したのです。又、この州のウイリアムソン市は何兆ドルの価値ある石炭が埋蔵される地区の中心部に当たる場所です。神が石炭を造られ、ここに置かれたのです。

 一九〇四年から五年にかけて神はイギリスのウエールズ地方の炭坑の町に大きなリバイバルを送られました。今ここに住む私たちの家は、山あいの石炭が貯蔵された谷間が見える場所にあり、山から美しい水が流れて来て私たちの谷間を潤してくれます。私たちは石炭のすすとか塵が家具の上に落ちるのを厭いません。主は、どのような理由からか、もう一度私たちここの住民を地球の奥深くにある石炭を掘る仕事に就かせながら微笑みをかけて下さっています。他の多くの地域では仕事がないこの厳しい時代に、私たちは神からの風を日々感じ、霊が充たされ、この上ない喜びの中で、多くの人が神の御国に入るのを見ながら過ごせる祝福を下さっているのです。」

 その後このリバイバルの火は続いているとリック・ジョイナー師は先週報告し、又、ペリー・ストーン師もそれを確認しています。

 

 これに続いて、最近私が下記の預言的メッセージを読んだとき、私たちが耐え忍び待ち望んで来た「時が遂に来た!」ことに強く同感の念に打たれましたので、それをご紹介します。

 

 

今こそすべてを取り戻す時

 

ネリー・バランドウィッチ

 

先日教会に出掛ける前に、主が「今が時です。」と言われるのを私は聞きました。この言葉は多くの預言者を通して以前から語られて来たことを私は知らないわけではありません。しかし、今回は私にとって今迄とは違った特別のものでした。それは主から流れる蜜のように直接ダウンロードされてきて、「今が時だ」と私は心からわかったのです。主ご自身が今の言葉、即ちカイロスの言葉を啓示され、本当に今が時であることを私は悟りました。

主の預言の言葉「今は時です!」主は言われました。

今は時です。今は「あなたがもっと得る時」です。今まであなたは敵の策略でうそと偽りの中に抑えられて来ました。しかし今はそうではないのです。「わたしはある」という偉大な方が道をつくる」と言われます。それはあなたにとっての紅海(出エジプト14:21)に道を開くものであり、今迄の最大の障碍や問題は最早あなたを阻むことは出来ないのです。わたしがそれらすべてを用いてあなたをデスティニーに向かって強く進ませるからです。今あなたを止めるものは何もありません! あなたへのわたしの愛があなたを覆います。あなたがずっと暖めていた夢、今まで生まれそうで生まれなかったものが、今生れ出ます。栄光が来ます。それは、わたしがあなたに約束したものを実現するために、あなたの信仰と共に必要なわたしの愛の栄光であるのです。

 

この栄光の領域はどれほど価値のあるものなのでしょうか?この領域に入るための入口は今までも、そして今こそ、あなたの「勝利する霊 overcoming spirit 」であり、それは時としてあなたにあきらめたいと思わせても、それを手にすることができなかった霊です。あなたの中にはまだ信仰の一しずくが残っていました。わたしがあなたに与えたその信仰が働いていました。確かにあなたは阻められていました。しかし今、わたしは「今が時だ」と言うのです。あなたが「勝利する霊の波」に乗るからです。波は非常に大きく、あなたはその波の中でどのように進み動けばよいのかを学んできたのです。その波の戦士として。

あなたは自分の頭の思いからの猛攻撃 の中で勝利しました。あなたはこの世の世俗的な生活の中で勝利しました。あなたは人から拒絶される中で勝利しました。あなたを迫害した者の裏切りの中で勝利しました。あなたは暗やみの中で勝利しました。あなたが望んだものとは全く反対のものしか見えなかった時にあなたは勝利しました。あなたは移り変わり transition の回廊で勝利しました! そしてわたしはあなたのためにマナを隠してあります(黙示2:17)。そのマナは今まであなたが経験しなかった方法であなたを支え続けるでしょう。

 

さあ、わたしの愛する者よ、今が時です!あなたは今まであなたの霊的感覚をわたしの願いの波長に合わせるように訓練され精錬されてきました。わたしはあなたに大きな夢を与えました。又わたしの民に大いなる心と豊かな霊を与えました。今用意が整ったのです。わたしは「船出の時だ」と言います。今が時です。わたしが「今は時だ」という時、扉は開きます!わたしが「今は時だ」という時、計画に必要なすべてものは正しい位置に整列するのです。

 

あなたは今出て行き勝利するのです。あなたは征服し、あなたが出て行き追い求めるとき、あなたは増し加わり勝ち取るでしょう。わたしが共にいてわたしの言葉があなたの内にあるからです! あなたは「すべてを失った」と思いました。しかしこの言葉を握りしめなさい。ダビデはアマレク人が盗んだものをすべて取り戻しました。今日あなたはわたしがあなたに与えた夢を取り戻すのです。あなたはわたしがあなたにずーっと語ってきたことが現実となるのを見るからです。もはや行き詰まったり退いたりすることはありません。今が時です!今はあなたの申命記1:11です。わたしは約束した通り、あなたを千倍に祝福します!」(終り)


13 06月

神は私たちを置き去りにはしない         グラハム・クック   2016年6月13日


 

神は私たちを置き去りにはしない

 

グラハム・クック

 

神が私たちの人生の中にどのように関わられるかをよく理解する時、私たちの人生は変革されます。それは「神が私たちのうちで何をしておられるか」又「私たちを通して何をしておられるか」を見ることができるようになるからです。そしてこの二つを混同することもなくなり、私たちは神の臨在に中で時を過ごし、啓示、導き、愛を受け取ることができるようになります。

しかし、これは普通すぐに経験できることではありません。「神を待ち望む」には忍耐が必要です。それはすべての事には最適で完全なタイミングがあるからです。伝道者の書3:1は「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」と告げています。

 

私たちは自分が願っていた、あるいは予期していたよりも物事に時間が掛かるとき、神を疑いたくなる衝動に駆られる時がありますが、これに対しては抵抗しなければなりません。時として私たちは「何も起らない」とつぶやいたり「ここは自分がいるべき所ではないのかも・・」と思ったりします。

 

しかし自分がいらいら焦れば焦る程、逆に神は物事を遅らせるということに気がつきました。それはやかんで湯を沸かしているようなものです。私たちが急いでいる時程、神はゆっくり沸かせられます。ですから私たちは、自分の周りで起っている状況の中にではなく、キリストの内に生きていることを忘れないようにすることが大切です。主が私たちの安息であり平安です。私たちの状況から平安を得ようとしても巧くいきません。なぜならば平安は頭からではなく、心からくるものだからです。平安は状況の中から生まれるのではなく、主との関係の中で生まれるのです。

 

心からの感謝と喜びが平安と安息を生み出します。なぜなら心からの感謝はすべての否定的でマイナスなものに打勝つからです。頭で喜ぶことは一時的な気休めにしかなりませんが、心からの喜びは私たちのライフスタイルを変えます。

感謝はありふれて起こることではありません。感謝とは主の喜びを経験することによって私たちが解放されて喜ぶことです。喜びこそ天国の持つ霊的環境であり、私たちの内なる霊的環境を永久的に変えるものです。

 

喜びは神そのものです。ですから私たちが喜ぶのは、神というお方の本質に私たちが応答することです。私たちは喜びの中に住まうことができます。それは神が喜びの中に住んでおられるからです。平安と安息とは、私たちの内なる命から生まれ出て私たちのライフスタイルとなるべきものです。どうか神のご性質の中に時々訪れるのではなく、神の内に住んでください。神の内に住まい留まるならば、神はあなたの内に住んでくださいます。(ヨハネ15:1-11参照)平安と安息は神の内に住まう結果であり、それは私たちクリスチャンが受け継ぐべき資産の一部です。私たちが神を相続し、神は私たちが受け継ぐ私たちの資産なのです。

 

神は、私たちが信仰によってこの真理に更に深く進み続けることを望んでおられます。私たちは霊的成熟の道を歩むようにと召されているのです。ですから私たちは、神を待ち望むことをもっと理解するように成長してゆかねばなりません。神は私たちの想像をはるかに越えた多くのすばらしいものを用意していてくださるのです。それは、第一コリント2:9に「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことにないもの。神を愛する者のために、神が備えてくださったものは、みなそうである。」とある通りです。

 

しかし神のギフトを受け取るために、私たちは神の中に住まねばなりません。神がキリストの中に私たちのために用意してくださっている場所に入らねばならないのです。私たちのすべての集会 gatherings の目的は、私たち一人ひとりがすべてイエスとの関係の中に確立されることです。 キリストの中にどのように住まい、 又留まるかを聖霊に聞くのは一人ひとり私たち個人の責任です。その時に、安息が訪れるのです。(終り)


06 06月

世界を揺り動かすワーシップ           ミスティー・エドワーズ (IHOP ワーシップリーダー)   2016年6月6日


世界を揺り動かすワーシップ

 

ミスティー・エドワーズ(IHOP ワーシップリーダー)

 

ワーシップと祈りは切り離すことができません。神がどのようなお方であるかという一致した意見を私たちはワーシップを通して持つことが出来、祈りを通して神が約束してくださったことに一致して同意することが出来ます。祈りと結びつかないワーシップはあり得ないと私は思います。「ワーシップ音楽」がワーシップになるのは、それが神にむかって話しかけているからであり、そうでなければただの「音楽」にすぎません。

祈りは目に見えない神との対話であり、それには多くの表現があります。時には御ことばを深く思い巡らすことであり、時には助けを求める真摯な叫び、正しい裁きへの嘆願、或いは悔い改めの嘆き悲しみです。又、神はどのようなお方であるかという宣言であり、神がしてくださった事、またこれからしてくださる事への感謝、そして今日神が語られていることの預言的宣言でもあります。

とりなし、崇拝、賛美、預言は、すべて私たちが「祈り」と呼ぶ聖なる会話の切れ目のない一つの流れの中で行われるものです。これらの要素を音楽と合わせると、それは私たちの心にダイナミックなインパクトを与え(個人的にも集会としても)それは社会全体にまで影響を及ぼすのです。

 

私たちは「ワーシップ」と「祈り」という二つの言葉をよく用いますが、それは「神との対話を歌い又話すことを通して行う」という意味です。話す祈りと歌う祈りにはパワフルな関係があると私は思います。黙示録では、御座の周りで話される言葉と共に歌が絶え間なく捧げられているのを見ることができます。音楽を表す立琴(5:8)と聖徒の祈りをあらわす香のいっぱい入った鉢(5:8、9)です。これが天においてなされているならば、それは今地上でするべきモデルであると私たちはわかるのです。

今日とりなし手たちが聖なる山に行き楽しんでいる(イザヤ56:7)祈りの集会が世界中で起っています。このような祈りを楽しいものにする一つの方法は、預言的な要素のある祈り、 神の霊を受けた音楽、そして歌を組み合わすことです。

音楽は神から出ています。人間の霊は音楽を理解し楽しむように創られています。それは私たちが神に似せて創造されたからです。私たちの感情や記憶、又思い、身体、魂、霊に集中する能力などと歌が関連しているのは神秘的であり、又、同時にシンプルでもあります。それは神が一人ひとりに与えて下さっている麗しいギフトです。

あなたが「自分はシンガーでもミュージシャンでもない」と思っても、あなたは音楽的なのです。パウロは霊の歌を歌ったと言っています。(エペソ5:19、コロサイ3:16)私は彼がワーシップ・リーダーだったとは思いませんが、彼は祈りの人であり、霊で神に歌ったのです。(第一コリント14:15)

 

私たち個人の生活の中で、祈りを歌にして歌うことは多くの点で益となります。一つは私たちに高いレベルの集中力を与えてくれることです。聖書の御ことばを神に向かって歌うとき、繰り返し歌うことによって深い想いへと私たちは導かれます。又語られた言葉にはない力で私たちの心に真理を刻み込んでくれます。

例えばもし私が「キラキラ星よ Twinkle, twinkle, little star」と言ったならば、あなたは直ぐにその歌を思い出してちゃんと最後まで歌えると思います。しかしもし私が「エペソ1:17」と言っても多くの人は全くわからない(思い出せない)でしょう。しかしこのパウロの祈りを歌にするならば、子どもでも憶えられます。そして教会学校の先生がそれに即興で言葉を加えて歌うならば、御ことばを憶えるだけでなくその意味も含めて理解することができるのです。

教会や集会の中でも、祈りを歌にして歌うことはダイナミックなインパクトがあります。 私たちは一つの事を一人のお方に同時に歌うことによって、一つの声一つの心となれるからです。真理を宣言し、打ち破りを祈るときも、歌を通して私たちは同時に同じことを感じることができます。

 

歌は「キリストの身体」を一致させるパワフルな道具です。 祈りと歌が一つになる時はいつも、部屋中の、或いは競技場中の人々が、私たちを一つの声にするシンプルな歌の祈りに同意し一致することができます。この一つに一致したとりなしの祈りとワーシップは、一つの都市や地域の霊的空気を変えるものの一つであると信じます。

あなたが神に会話しながら祈るとき、歌にする必要性はありません。しかし、音楽が加わると私たちの心はオープンになり、真理が心に刻み込まれ、霊的雰囲気が変わります。又、会衆の祈りを長く楽しいものとし、互いの心を一致させ、神との一致ももたらすのです。(終り)

 

 Misty Edwards ミステイー・エドワード師はカンサスシテイーにあるアイホップ IHOP のリーダーシップ・チームの一員として1999年に参加し24/7の祈りの部屋をはじめとする、すべてのワーシップリーダー、ミユージシャンと歌手たちを統率するリーダーを努めて来た方です。