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Walk With God Ministries


28 03月

不安と恐れの根を取り去る      ビル・ヨント         2016年3月28日


不安と恐れの根を取り去る

 

ビル・ヨント

 

ピリピ1:28「かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしであって、それは神から来るのである。」(口語訳)

 

最近のことですが、私が話をするためにステージに上る直前、妻は私に恐れがあることを感じ取りました。そして私に身を寄せて「あなたの新しい名前は『自信』ですよ。」とささやきました。たちまち私の内で獅子が吼え、地獄に警報が鳴り響きました。私は立ち上がり、ユダの獅子がその集会を支配したのです。

 

私は我々信者の中に住んでいるユダの獅子の檻の戸を開ける鍵を見つけました。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて(lay aside 横に置く)、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)

 

「捨ててlay aside (横に置いて)」というのは私たちの見方を変えるパワフルな命令です。何かを横に置く時、それはまだそこにあるのですが、あなたはそれに焦点を当てないのです。なぜならば次の節に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあるからです。私が恐れ、ためらい、弱気に襲われたとき、それを横に置いて神が私を召してくださった業をすることを私は学びました。

サタンは主の業をする私たちの自信を盗むことにをやっきになっております。しかし私たちは一人ではありません。主は私たちの不安や恐れを露にして、その基の根を取り扱おうとしておられるのです。ですから恐れないで仕事を続けてください。不安や恐れを感じたときは、それを「横に置いて」立ち上がりユダの獅子が吼えるようにしてください。神は真実なお方です。

「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(第一テサロニケ5:24)

 

私は最近ある親しい姉妹からメールをもらいました。彼女は礼拝のピアノを弾く方なのですが、ある特別な式のため完全に弾けるかどうという不安と戦っていました。主が私に「あなたの恐れを横に置きなさい。イエスがピアノを弾いてくださいます。」という彼女への言葉をくださったことを感じ、彼女にメールしました。何時間か経ってから次にようなメールを彼女から受け取りました。

 

「主を賛美します!練習をしたところですが、本当にイエス様がピアノを弾いてくださいました!主が弾いて下さっているのだから私が邪魔をしないように、と自分にずっと言い聞かせました。友人のラケルが『準備はできましたか?』と聞いたのですが、その時、私は『はい!』と答えました。それはいつもの私とは違っていました。ハレルヤ!」

 

恐れの根源

 

私たちの不安や恐れの殆どは、深い根が表面的に表れている症候です。主は私たちの弱さを取り扱って私たちを強くしてくださいます。私の人生はほとんど不安と恐れとの戦いでした。それは私が頭を非常に強く道路にぶつけて、私の額の骨が大きくなって突起してきた瞬間から始まりました。その自転車事故は私が5歳の時に起りました。それ以来私の少年時代は手術や通院で多くが時間が費やされ、そのトラウマによって巨大な恐れへの扉が開かれたのでした。その扉は最近になるまで閉じられることはありませんでした。

 

最近私はペンシルバニア州ゲティスバーグでのカンファレンスで話をしました。行く前にホテルの値段を調べるととても高く、私は心配で安眠できないでいました。私は手頃な値段のホテルを捜し続け、そして見つけました。それは古戦場の近くにある「セメタリー(墓地)・イン」でした。カンファレンスが終って帰宅すると、妻が「〜という人が随分前にあなたに売ってもいいと言った二つの墓地のことで話がしたいから電話して欲しいと言ってきた」と言うのです。私は考え込みました。

私が墓地という名のホテルから帰ってきたら、誰かが二つの墓地を半分の値段で売っても言いと言ってきたのです。半値だというのも私は気になりました。私は「主よ、このタイミングがどうも嫌です。あなたのために週末ずっとミニストリーをして帰ってきたところなのですが一体どういうことでしょうか?」と訊ねました。2日後、私は墓地で売買の契約書にサインをするために兄弟と会うことになっていました。そこに着いてからずっとオフィスで彼を待っているのに疲れたので、外に出ました。

外に出てみると見渡す限り墓標がありました。うす気味悪さに私は襲われましたが、その時、主が語られました。「息子よ、これがあなたが今までずっと持っていた恐れの根です。あなたが医者に行く度、そして検査の結果を聞く度に恐れがありました。あなたは死ぬのを恐れているのです。あなたは5歳の時道路に頭を打ち付けた瞬間からずっとその恐れ戦ってきました。あなたが7歳の時、脳腫瘍になり、あなたは再び死に悩まされました。そして14年前に心臓の動脈に凝血ができ生存率50%と言われたときに、その恐れはまたあなたを襲いました。3日後にカテーテルを入れた時にあなたの心臓は手術台の上で止まり、電気ショックでまた動き始めました。・・・これで、わたしがあなたを決して死なせなかったことがわかりましたか? 今も、地獄、死、墓の鍵を持っているのはわたしであることを。」

主は続けて言われました。「あなたは聖書に『肉体を離れるのは、わたしと共にいることである(第二コリント5:8参照)』と言っているのをどう思いますか?天国には痛みも医者もサタンもいないのです。わたしの言いようもない臨在の中に永遠にいつまでも生きるのですよ。あなたはこのことをどう思いますか?」

一瞬私は言葉を失いました。主の言われる通りでした。私はその時に、それ以降いろいろな恐れに私が支配されるようになった最悪の恐れに面とむかったのです。私はそれを永遠と較べることに失敗してきたのです。その日、私は墓地で平安を見出しました。私が墓標を離れるとき、主がまた語ってくださいました。「ところで、息子よ、イエスを墓からよみがえらせた力と同じ力があなたの中に生きているのです。さあ、生きなさい。生きなさい。生きることを恐れてはいけません。人生のすべての一時一時を十分に楽しみなさい。」

 

あなたが恐れていることは何ですか? 愛する者を失うことですか? 仕事や自分の評判を失うことですか?もしかしてあなたは死ぬことを、あるいは生きることを恐れているかもしれません。今日あなたの恐れをイエスのところに引きずって行ってください。主の平安につつまれ、主の全き愛ですべての恐れが締め出されるようにしてください。あなたは長い時間がかかっても何が何でもこの問題を解決したいのだと、主に話してください。

 

神は私にクレージー

 

最近私がワーシップをしている時、主がささやかれるのを聞きました。「ビル、わたしはあなたに夢中です。わたしは本当にあなたに夢中なのです。」私は「えっ?どうしてあなたが私に夢中なのですか?わたしはあなたの栄光からはほど遠い者です。」と答えました。主は「わかっている。でもあなたはわたしを信頼していますね。あなたが出来ないことをわたしがすると信頼していますね。それがわたしを喜ばせるのです。それでわたしはあなたに夢中なのです。」と言われました。

あなたはいかがですか? あなたは主を喜ばせることができると知っていますか? 今日、主を信頼すれば主のクレイジーなあなたへの愛とすべての考えにまさる神の平安をあなたは経験するでしょう。主は、私たちが主を理解しようとするよりも主を信頼した方が喜ばれるのです。(終り)


21 03月

効果的な祈り      ロバート・ヘンダーソン         2016年3月21日


効果的な祈り

 

ロバート・ヘンダーソン

 

多くの人は祈りの答えを常に得るための祈り方を知りません。人々は、祈りとは「霊的な戦いの場で行う業である」と教えられてきました。しかし驚かれるかもしれませんが、イエスが祈りについて教えられた時、祈りを霊的戦場で行うようにとは言われなかったのです。確かに主は、「祈りは戦いである」と言われました。しかしそれは戦場におけるものではなく、法廷(ダニエル7:10参照)での戦いなのです。

 

イエスがルカ18:1−8で教えておられることを見てみましょう。ここでやもめは不正な裁判官に正しい裁きをしてくれるように頼んでいます。最初裁判官は彼女を無視しますが、彼女がしつこくやめないので裁判をしてやることにしました。やもめが裁判官の法廷に来る事をやめなかった故に、彼は正しい裁きをすることになったのです。政治力や賄賂に使うお金、或いは社会的地位もないやもめが、不正な裁判官から正しい裁きをしてもらえるとすれば、正しい裁判官である神は、選民である私たちにどれほどの正しい裁きをしてくださるでしょうか!

私たちは神を父として、また友として御前に出ることは知っていますが、裁判官としての神に近づくことも学ばねばなりません。エペソ2:6に「私たちはキリストと共に天の所に座っている」とあります。また、ヘブル書に次にようにあります。

ヘブル12:22−24「しかし、あなたがたはシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」

ヘブル4:13「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明するのです。」

裁判官である神の御前に出るというこの話の中で、私たちは少なくとも効果的な祈りのための3つの法則、或いは奥義を見つけることができます。

まず第一に、 私たちが祈るとき、それは即ち神の司法制度の中に足を踏み入れることであるのです。これを理解するために私たちは、霊的領域におけるすべての行為は「法」に基づいていることを認識せねばなりません。イエスが十字架上で「完了した。」(ヨハネ19:30)と言われたのはその理由によります。即ち「すべての創造物を贖うために必要な法的な義務は今完全に遂行された」と主は言われたのです。主イエスは暗やみの力を法的に打ち倒したのです。

私たちは祈る時、地上で祈ることが現実になるように、十字架上で確立された法的勝利を適応するのです。別の言い方をすれば、十字架上ですでに完成された業による判決を、すべてのことが神の御こころと一致する時まで執行するのです。

 

喩え話の第二の奥義は、やもめは決して敵対する相手と話すことをせず、裁判官にだけ話したことです。裁判官が彼女によい判決を下すならば、敵はもうなす術が無いことをやもめは知っていたからです。彼女はこの戦いは戦場ではなく法廷で行われるものであるとわかっていました。イエスの祈りが戦場での祈りであったことは一回もありません。すべて天の法廷での祈りでした。黙示録19:11に、イエスが天の軍勢と帰ってこられるのは、まず裁きをされ、そして次に戦われるためであると書かれています。この順序が非常に重要です。

ヤコブ4:7に「ですから、神に従いなさい。(submit to God) そして悪魔に立ち向いなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」とありますが、これも同じことを言っています。「裁き」とは司法活動です。言い変えれば、私たちは敵(サタン)から法的権利をまず剥奪し、次に戦場へと行進して行くのです。これは成功するために絶対に欠かせないことです。

「敵」と言うのは、世界の何か、或いは誰かを指しているのではなく、霊の領域のサタンとその勢力のことです。私たちはみな、神の御こころと一致した祈りをしてもその答を得られなかった経験をしています。そして「神は応答してくださるほど私のことを気にかけてはおられないのだ」と結論づけてしまったりするのです。しかし、私たちがブレークスルーを得られない本当の理由は、霊の領域で「法的に」私たちに対抗している敵がいるからです。私たちは裁判官なる神にどのように近づき、霊においてこの「法的な」問題を対処するかを知る必要があります。

 

この事を理解するために2つのギリシャ語を学ぶ必要があります。まず「敵

adversary」という語で、これはルカ18:1−8の喩え話の中で用いられています。このギリシャ語は antidiko で、「訴訟を起こす者」という意味です。一つの法的立場を表しています。

第一ペテロ5:8に、敵は私たちを食い尽くそうとしている悪魔であるとあります。この箇所の「敵」も antidikos が使われています。即ち悪魔は私たちを食い尽くすための法的理由を捜しているのです。悪魔は霊的領域で私たちに法的に不利な事柄を見つけた時にだけ私たちを攻撃できるのです。「訴訟を起こす者 antidikos」として悪魔は私たちに不利な法的事実を確立し、私たちを食い尽くし滅ぼす権利を獲得しようとしているのです。

antidikos という言葉は、2つの部分からなっています。anti は反対するという意味でありdikos は権利という意味です。ですからantidikos(敵)の目的は、私たちに対して法的訴訟を起こし、私たちが持つ正当な権利を奪おうとすることです。私たちが神の御こころと御ことばにかなった祈りをしても答えられないのは、これが理由です。私たちの祈りに神が応答する法的権利を否む訴訟が、霊的領域においてされているのです。

 

これに加えてもう一つのギリシャ語の意味を知る事によって霊的領域で起っていることの新しい理解を得ることができると思います。黙示録12:10に、日夜兄弟たちを訴えている告発者がいるとあります。告発者 accuser というギリシャ語は katagoros  で、その意味は「法律を訴訟する者、法律の告訴人」です。告発人とは、私たちに敵対し司法行政に不平を言う者ということです。その結果、私たちはブレークスルーや祈りの答えを得ることができないのです。私たちが主からの答えを得るためには、私たちは antidikos と katagoros を黙らせる必要があります。この二つの言葉は私たちが持つ正当な権利を否むために法的訴訟を起こそうとする悪魔の業を映し出しているのです。

 

この喩え話の中にある3つ目の奥義は、ルカ18:7、8に書かれています。裁判官である神の御前に出て霊的に法的問題を取り扱うならば、私たちの祈りはすみやかに答えられる、とイエスは教えておられます。私は私自身の人生に中でそのことを見てきました。天の法廷でどのようにすればよいのかを学び始めたとき、今まで起らなかったことがすぐに起きるようになりました。

神の御こころに沿う祈りが答えられない理由は2つだけです。一つは神のタイミングであり、神から答えを頂くにあたって非常に重要です。もう一つの理由は、霊的領域で私たちに抵抗している法的なことが何かあるときです。

天の法廷で祈りを通して訴えるとき、私たちはイエスの血潮によって敵が起こした法的訴訟を取り除くことができます。罪、過失、不正、否定的な言葉などの法的問題がイエスの血潮により処理されるならば、サタンは祈りの答えが私たちに届くのをもはや阻止することはできません。これらの問題を私たちは根気強い祈りによって取り扱うのです。

根気強い祈りと言うと、私たちは同じ祈りを何度も繰り返すことだと思います。しかし、裁判官の前で祈る根気強い祈りとは、祈りの答えが届かないようにサタンが用いる法的妨害を取り除くことです。私たちが主の御前に出るとき、主は私たちが祈るべき祈りができるように助けてくださいます。

ロ—マ8:26には聖霊は弱い私たちを助けて効果的に祈るようにしてくださると書かれています。これは霊的領域で私たちが祈りの答えを受け取るのを阻止しようとしてサタンが用いるすべての法的訴訟をイエスの血潮によって徐々に取り除くことも含まれています。私たちに対するすべての法的訴訟が取り消されるならば、裁判官である神は御父の情熱を自由に成就することができ、私たちは祈りが答えられ、ブレークスルーがやってくるのです。

 

私の息子であるアダムはミニストリーをしていましたが離婚を経験し、その後2年間深い鬱状態となり、そこからどうしても抜け出すことができませんでした。私は彼を励ましましたが、彼は自分は価値のないものだ、生きる意味がない、と言うのでした。もともと彼は非常に明るい人間で、これは全く彼らしくありませんでした。私は知っている限りの祈りをしました。ある日、私は天の法廷のことに気がついたのですが、主が「アダムをわたしの法廷に連れて来なさい。」と言われました。はっきりとその言葉を聞きました。

天の法廷のことはまだ深くは理解しておりませんでしたが、始めてみました。まず息子のために悔い改めをしました。それがとりなし手の仕事です。本人が出来ないことを替わりにするのです。私は父としてその権威がありました。アダムが夫として父親として犯した罪、敵の偽りを信じた罪を思いつく限り悔い改めました。5分くらいでした。次に主は「あなた自身の悔い改めをしなさい。あなたがアダムに関してあなたの妻に話したすべてのネガティブな言葉を悔い改めなさい」と言われました。これは非常に重要でパワフルなことでした。私は直接息子には何も非難めいたことは言わなかったのですが、妻との会話のなかで、「アダムはどうしてあのようにしたのだろうか、息子が理解できない、どうしてもっとちゃんと出来ないのだろうか」というようなネガティブなことを言っていたのです。その言葉が息子を縛り、告発者によって使われていたのです。「彼の父親がアダムについてこう言っていました。これが父親の証言です。」という具合に敵に用いられたのです。私は涙を流しながら自分の罪を悔い改めました。5分くらいでしたが、悔い改めを終えるとすぐに、主が「さあ、アダムのデスティニーを預言しなさい。」と言われました。

そこで私は「私はあなたの御ことばにより『よき訪れを告げる者の足は美しい』と宣言します。息子はイエス・キリストの福音を述べ伝えます!」と宣言しました。すると御霊が「さあ今、鬱状態の霊を叱責しなさい。」と言われました。私は御霊に導かれて知らないうちに法的に必要な手続きをすべて行ったのでした。それで私は「サタン、私はお前を叱責する。エペソ5:14により宣言する。眠っている人よ。目をさませ!キリストがあなたにいのちを与えてくださる。鬱の霊よ、立ち去るように命ずる!イエス・キリストの名によって、今息子から立ち去れ!」と叫びました。2年間祈ってもブレークスルーがなかったのですが、これは15分くらいですべてが終りました。私は本当に何か違ったことが起きたと感じました。

 

一週間半後に電話がなり、アダムからでした。彼は「何が起ったのかわからないのだけど、一週間半前に突然、僕は鬱状態から抜け出ました。神の御こころを行う用意ができました。」と言ったのです。彼は現在自分の教会でシニアパスターとして働いていますが、教会は9ヶ月で3倍の大きさになりました。聖霊の賜物も顕著ですが、すべては天の法廷でなされたことに起因しているのです。私が戦場で2年間戦ってもできなかったことが、天の法廷での15分間でできたのです。

 

皆さんも次にように祈ってください。

「神よ、イエス・キリストの名によってお願いいたします。私が犯したすべての罪、過ちを悔い改めます。コロサイ2:13、14『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけされました。』を宣言します。私に対して立てられたすべての責め、告発、私を責め立てるすべてのものを、あなたはすでに取り去り十字架につけられました。主よ、それらの告発はイエスの血潮によりすべてとり去られました。主よ、私たちに法的権利を与えてくださり、私があなたから与えられているデスティニーを取りもどすようにしてください。イエスの名において祈ります。アーメン」(終り)


14 03月

神から特別の愛顧を受ける   ショーン・ボルツ         2016年3月14日


神から特別の愛顧を受ける

 

ショーン・ボルツ

 

神と共に真に歩むクリスチャンは神から特別扱いをされる愛顧の印がつけられていると私は思います。

それは神の友である私たちが持つ特典の中でもっとも頻繁に起ることであり、私も多く経験してきました。以前私が海外旅行に行かねばならなかった時のことを憶えているのですが、それは丁度私たちが引っ越ししたばかりで、まだ引っ越し荷物の箱に囲まれて暮らしていた時でした。

 

私のパスポートがどうしても見つからず、出発までにはもう40時間しかありませんでした。私はロスアンジェルスのパスポートオフィスに行ったのですが、そこの女性は笑って「予定日に出国するのは絶対無理ね。保証するわ。」と言いました。私はパスポート緊急入手のプロセスについて聞きましたが、その部署も事務処理が遅れていて、数日か、下手をすると数週間かかると言われました。私が誰か緊急処理の係の人と話せないだろうかと訊くと、彼女はうるさそうにしましたが、私が丁寧にお願いするとその窓口を教えてくれました。

 

そこに行くと、男性が前の女性と同じように「無関心そのもの」という態度を見せました。私は「多分無理なことだとはわかっているのですが、どうして私が海外に行くのかお話ししてもいいですか?私はミッション旅行に行くのですが、孤児として育った多くの人達を一緒に連れていきます。彼らは私の助けがどうしても必要なのです。私は出来るだけ彼らと一緒に遅れずに行きたいのです。」と説明しました。それを聞いていた彼が深く感動しているのが私にはわかりました。

 

彼自身は孤児にも信仰にも関係のない人のようでしたが、彼の人生で一番大好きな人物であった彼のおじいさんが毎年ミッション旅行に行っていたのです。おじいさんはいつも旅行から帰ってくるとすばらしい話をしてくれました。彼はおじいさんをものすごく愛していたので、私と出会ったのは絶対何かのしるしに違いないと確信したのです。そして苦労して特別に私のパスポートの手続きをしてくれ、何と3時間後に私はそれを受け取ることができました!パスポートを申請する人の長い列はビルのまわりをぐるっと取り巻いていました。神が絶好のタイミングで私と男性の間に現れてくださり、起るはずのないことを推し進めてくださったのです。

 

あなたもこのような神の特別扱いの好意を受けたことがありますか?或いは神が 不可能を可能にしてくださったことがありましたか?それはクリスチャンが持つ恩典の最もすばらしいことの一つです。

 神はあなたを愛しておられるので、あなたを通してすばらしい人生を、あなたのために、そしてあなたの周りの世界のために創りたいと願っておられます。ヨハネ10:10に、敵は滅ぼすために来るけれど、主は私たちが経験したことのない豊かないのちを与えてくだる、とあります。「特別な恩恵、愛顧(favor)」は、「祝福(blessing)」とか「豊かないのち(abundant life)」と言うことができます。

この世では、特別の愛顧を受ける人と言うと、政府の高官、裕福な人、名士、芸術家、出世した人、高学歴の人等を思い浮かべます。しかし、神が考えられる「特別の愛顧を受ける人」というのは、神を愛している普通の人達のことです。私たちは神の王国で神の愛顧を受ける者です。私たちの肩に神の王国の主権があり、私たちは神の名声を身にまとっているのです。私たちの内には創造主が住んでおられ、主はすべての名の上に高く置かれた方です。(エペソ1:18−22参照)

 

と言うことは、 あなたが神との親密な関係のうちに歩むならば、神から特別の愛顧を受けないなどという選択肢はないのです。それは約束されています。

神の愛顧はあなたにどのような影響を与え、またあなたはそれをどう用いればよいのでしょうか? マタイ5章にあるイエスの最もパワフルな説教の中にその

答えがあります。

 

マタイ5:13−16

「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

私たちは世界の光となるべき者です。神のご性質を人々に分ち合い、すべてのものに神の味を付けるのです。

イエスはヨハネ8:12でご自分のことを次にように言われました。

「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことなく、いのちの光を持つのです。』」

私たちは、「神がしておられること」と「希望があふれる場所」に焦点を当てねばなりません。私たちのまわりで起っていることを人々が耳にするとき、彼らに生きる希望といのちが豊に与えられねばなりません。それは地上の大部分の人間が普通、 保身や自分が生き残るためにだけあくせくと生きているのとは全く異なる生き方です。

 

あなたが神の光を自分の光として、ポジティブな態度を持ち、希望と愛に満ちて

特別の恩恵(favor)を人々に与えて生活していくならば、あなたの周りの世界は思いもよらない方法であなたに特別の恩恵を与え始めます。不可能を可能にした奇跡的な出会いを経験した人達が、どの分野においても存在することを私は証しすることができます。皆さんも経験されていると思います。

 

私がこの事をお話しする理由は、神が今新しい特別の恩恵を与えようとしておられると私は信じるからです。その理由の一つはイザヤ49:8にあります。

「恵みの時に(In the time of my favor)、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。」

神は私たちに答えて下さり、次に私たちの周りで無くなったもの、傷ついたものを回復するために私たちを用いたいと願っておられるのです。もし私たちが、神が与えてくださっているものではなく、私たちに無いものに焦点を当ててしまうならば、私たちは祝福と恵みの偉大な領域を失うでしょう。

 

今のシーズンには下記のことによって愛顧を受ける備えをしてください。

1.期待する:主の恵み、慈しみが来ることを信じ期待して待たねばなりません。(ヨハネ10:10)特別の愛顧を期待している事柄に関してネガティブになってしまうならば、その思いを変える必要があります。

 

2. 特別な愛顧に備える:主が今まであなたに語ってくださったことを全部調べて、主からの約束と現実とのギャップが小さくなるように祈ってください。主からの愛顧によって、このギャップはどんどんと小さくなり、遂には無くなります。

私たちは自分の人生にもっと多くのすばらしことを望み、心に想像し描き始めるべきです。あなたが何歳であっても、あなたが望む以上のもの、あなたが想像する以上のものを愛によって与えてくださる神がおられるのです。

エペソ3:20「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に」

今、神の特別の恩恵、愛顧があなたを訪れ、あなたが豊かないのちを得ることができるように祈ります!(終り)


05 03月

リバイバルが近づきつつある            坂  達 也   2016年3月5日


リバイバルが近づきつつある

 

                    坂  達 也

 

 今アメリカは、大統領選挙のシーズンに入っていますが、その前途には政治的、経済的、又社会的に混乱と暗闇がたれこめつつあるように見えます。しかし、その暗闇と混乱が来ることによって、リバイバルの機が熟しつつあるのかもしれません。

 今朝、私は示されて最も短いマルコ伝を通読しました。そこから私は主イエスが御国の「大統領」となるべく現れて、どのように「御国造り」のためのキャンペーンを張られたかを学ぶことができました。

 それは丁度、この世で私たちクリスチャンと教会が、これから主が起こされる御国のリバイバルをどのように受けて立つかを学ぶことが出来ると思いますので、そのことをお分ちさせていただきます。

 

御国をこの地に建て上げるリバイバルが来る=そのためにマルコ伝から学ぶ

 

1。主は先ず、ご自身がバプテズマを受け、天からの御声と聖霊を受けられました。これは私たちにとっても「主に用いられる」人になるための必須条件です。それから直ぐ主は荒野に出てサタンの誘惑を受けられました。これで御国のキャンペーンに入る準備が完了しました。

2。そして直ぐに地方へキャンペーン旅行に出られたのですが、その途上、これはと言う人材をを拾いながら、会堂で「御国とは何か」その政策を力説し始めました。それに伴って「悪霊追い出し」と「癒しの業」という「御国のビジネス」をどんどん実行して見せ、こちらから集める努力をしなくても、勝手に人が集まって来て黒山のような人だかりが出来ました。これが私たち教会がリバイバルを起こすノーハウではないでしょうか。

 主は御国建設に必要な人選と組閣を直ぐに始められ、12人のコアとなる人選と教育を始められたのです。ポイントは「主が用いることが出来る人材」を主は選び、その人たちを特訓されたことです。

 

3。主のキャンペーンの特徴は、もの凄くエネルギッシュに行脚し、安息日迄働いたことです。マルコ2:27、28で主は「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」と云われました。それはヘブル4:10、11の「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして務め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないように・・・」と警告された通りです。すなわち主の安息日に私たちは自分の業を休んで主と共に主の業だけをして働くのです。その意味で私たちは主の安息日の働き人です。

 

 そのためにマルコ4:22−24で主は「隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」とも言われました。

今主は世界中で、あらゆる人の隠れている本性とか、よい所、悪い所をすべてあばいて人と本人自身に見せておられます。皆さんも経験されておりませんか。

特にクリスチャンづらしている「宗教的な人たち」の化けの皮が剥がされています。(それがアメリカの大統領選でも如実に顕われていておかしい程です。)今主は急いでおられます。それはリバイバルが来るための準備段階に入ったからであると私は信じます。

 そして主は「聞く耳のある者は聞きなさい。・・・聞いていることによく注意しなさい。」といわれました。誠にこれこそがポイントですね。

 

4。主はあまりにも忙しく働き、又、主の「実のある話し」を聞くために「荒野に」集合した人たちは食べる暇もない程でした。そこで主は何千人分もの食事を配給する奇跡を行い、又説く。すると又集まる。そして又奇跡を・・・

 

5。マルコ9:23−24「信じる者にはどんなことでもできるのです。」と主は言い、その後主は多忙で空腹をおぼえたとき、季節外れで実がなってないイチジクの木を見て実のなさを呪われ、翌朝見るとその木は根まで枯れていました。その後主は「神を信じなさい。・・・あなたがたがこの山に向かって『動いて、海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、その通りになります。」と言われたのです。(11:13−24)

 

 これだけの信仰があってはじめて主が起こされるリバイバルに私たちは用いられるのです。そのために今主は厳しい信仰の訓練をされておられます。今が時です。目をさましてください。

 

6。最後にマルコ16:15−19です。「それからイエスは彼らにこう言われた。全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。 信じて、バプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には、次のようなこのようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受ず、また、病人に手をおけば、病人はいやされます。』主イエスは、彼らにこう話されて後、天にあげられて、神の右の座に着かれた。』」そしてその主が間もなく帰って来られます。

 

 今はそのシーズンに入ろうとしています。それは「信じる者にはどんなことでもできる」シーズンです。 (終り)