Archive for 12月, 2015:
28 12月
2015年を振り返って
坂 達 也
「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地とのいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。・・・」(2ペテロ3:10−12)
先日私がたまたまこの聖句に目が留った時、一瞬ハッとする強い思いを感じました。それは「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」の箇所です。そこで私は2ペテロ1−3章をはじめから読み直し、使徒ペテロから圧倒されるような特別のメッセージを感じたのです。皆さんもこの際ぜひ2ペテロ1−3章全体を通してお読み下さい。
ペテロはここで主の再臨の日にだけ焦点を置くのではなく、むしろ神のさばきが最初に人間の上に下った時のことに先ず触れております。それは「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾き(創世記6:5)」「地は、神の前に堕落し、暴虐で満ちて・・・全ての肉なるものが、地上でその道を乱していた(同6:12)」という時代でした。神はノアを選んで箱舟を造らせ、ノアの家族8人(一家族)と選ばれた動物と鳥を箱舟に乗せて救いましたが、その他のすべてのものは一度水(洪水)によって全滅させたのです。これはおとぎ話ではない実に恐ろしい話です。私は今の時代が、このノアの時代に段々似て来ていることに身震いさえ感じます。
それだけではありません。ペテロは、その後で「天の万象は焼けてくずれ去る」という人類を含むこの宇宙の「聖くない」すべてのものが最終的に裁かれ、火によって滅ぼされる恐ろしい「主の日」が来ること(10節)を最大限に強調します。しかも、その日は盗人のようにやって来ると警告します。その上でペテロは「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。(11節)」という警鐘を鳴らしているのです。
私はこの「盗人のようにやって来る」は、使徒ヨハネが書いた黙示録3:2、3に書かれている「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人を力づけなさい。わたしはあなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを固く守り、また悔い改めなさい。もし目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。・・」に通じると思います。それによってこの警鐘がどれ程深刻なものであるかを私は感知しました。ここに「なまぬるい生き方をしている」終末のクリスチャンへの厳しい主の警告ー「目を覚ましなさい」「悔い改めなさい」が鳴り響きます。
そこで私はそのような「聖い生き方をする敬虔な人」とは一体どのような人なのかを私なりに思いめぐらす中に、それが黙示録2−3章に7回も出てくる「勝利を得る者 overcomer 」であることに気が付いたのです。皆さん、この7回のそれぞれで、神が勝利者にどれほどすばらしい「ご褒美」を下さる約束をされているかをもう一度確認して下さい。私が心から感じたことは、このご褒美に与れる人とは並大抵の人ではないということです。ですからこそ、私たちが徹底して「聖い生き方をする敬虔な人」になることを、ペテロも、黙示録を書いたヨハネも心から私たちに嘆願しているのです。
勝利を得る者になる
私たちキリストに従うクリスチャンは「征服者以上の圧倒的な勝利者 more than conquerorsでなければならない」とロマ書8:37に書かれています。「勝利者」とは明らかに「戦うこと」を前提にしている言葉ですから、真のキリスト者とは霊の戦いで悪魔に完全に打ち勝つ人でなければならないはずです。皆さんの中にはそれを意外に思う方がおられると思いますが、この戦いの勝利者こそ、キリストの花嫁、真の弟子を指していると私は信じて疑いません。
この世は戦場です。悪魔の支配下にあるこの世のシステムに対してクリスチャンはサタンの力と誘惑に徹底的に抵抗して打ち勝たねばならないのです。それを私たちのために既に成し遂げられたのがイエス・キリストであり、主が先ず圧倒的な勝利者となられたのです。私たちはその主に従うフォロアーですから、主にあって同じように圧倒的な勝利者とならねばならず、それは形だけでなく、実が伴わねばならなりません。それには忍耐が必要です。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる(マタイ24:13)」と書かれている通りです。
今年2015年のはじめに、私たちの属するリビングホープ・クリスチャン・センターでは、年間の目標として「勝利者になること」というロビンソン牧師のメッセージに続いて、全員でそのことにコミットし宣言致しました。これは大変大きな目標です。その意味する所はメンバー全員が「この世的な生き方をこれからはしない」と決意をすることですから、正直なところ、この世の隠然たる支配者である悪魔に大変な挑戦状を突きつけたのも同然でした。
私は悪魔からの攻撃が激しくなることを覚悟しました。そして、その通り教会はこの一年大変険しい道を歩んで来ました。私たちは今年一杯で今入っている建物を出なければならないことは年頭から分かっており、あらゆる努力をして新しい場所を探して来ましたが、本日現在未だに次の場所が見つかっていませんーーと書いたところで、念のためと思って牧師に連絡した所、実は昨日「交渉中の日曜日だけリースする場所を3月から借りれることが決まった」との朗報。ハレルヤ!最悪の場合に備えて、新年からは近くのホテルの宴会場を借りる手配がしてあったので、これで何とか3月までつなげます。しかし事務所の場所はまだ決まっていません。それに加えて、色々な事情で副牧師クラスのリーダー二、三名が辞任したり他所に移るという事態も起きており、若い人が中心の私たちの教会の信仰は試されております。しかしひるんだ人、動揺している人は見受けられません。主は今、若いリーダーたちの信仰を猛訓練されており、すべてにおいて主のタイミングは実に見事です。
そこで考えられることは、そんな苦労をするリスクを覚悟してまで「勝利者」になるコミットメントを掲げないほうがよかったのか、ということですが、そんなことは絶対にありません。第一、私たちの教会はミッション・ステートメントに「イエスを実際に顔と顔を合わせて見ることを熱望する」とはっきり掲げてあり(出エジプト33:11参照)これは私個人の熱望するところと一致します。更に「主の栄光を反映する『神の息子と娘』を育て上げ、御国を拡張すること」を目標とすると書かれていますから「勝利者になる」ことは当然のことであるのです。私はクリスチャンの集まる教会はみな「圧倒的勝利者の教会」であることを堂々とこの世に宣言すべきであると思います。
「勝利を得る者になる」ことの定義として、多くの人が1ヨハネ5:4「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。」を引用します。確かにヨハネが云うことは正しい定義です。しかし問題は、私たちが真に生まれ変わって「神から生れた者」ーすなわち私たちの肉の性質が神のご性質に変えられた者になっているかどうかです。そのような人は主がその人の中に常に生きている人であり、その人の信仰は「世に勝つに充分な確かな信仰」でありましょう。(1ヨハネ4:4を参照下さい。)
しかし信仰について、この辺りを軽く考える人は「イエスを信じるという信仰さえ持っていれば、それが『勝利者』なのだ」と簡単に片付けてしまい、その場合、多くの人は霊的戦いが必要だとは考えません。もし私たちが本当に悪魔陣営に対して勝利しているなら、例えば「病気の癒し」はどうなのでしょうか。悪魔の支配下で起こる病気こそ私たちが勝利すべき一大問題のはずです。
ところでフランシス・フランジペン師は「神の至高の目的は、私たちがキリストに似た者になることです。もしクリスチャンが『キリストに似た者となる』という確固たる信仰の目標を持っていなければ、どのように霊的になるための努力をしても、それを得る事は出来ません。」と云われます。
「キリストに似た者になること」がクリスチャンの最大の目標であるならー私はそう信じますー新約聖書に書かれている「イエスは彼の所に癒しを願って来る病人のすべてを癒した」とか、マタイ10:1の「イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。」と書かれている御言葉は、私たち現代のクリスチャンには当てはめなくてもよいのでしょうか。これこそ悪霊に対する戦いであり、私たちは圧倒的勝利を得なくてはならない重要な使命の一つであると信じます。なぜなら、信仰は実際に実が実らなければ信仰とは云えないからです。
とは言え厳密な意味で、癒しにおいて全くイエスと同じ事が出来る人は恐らくいません。しかしそれは信仰に於ける建前としての大目標であり、私たちは信仰でその目標を先取りし勝利していなければならないのです。すなわち、たとえそれが今現実完全には出来なくても、私たちがその信仰に達した者として実を実らせる信仰のたゆまない努力をしている限り、私たちは、信仰のプロセスの途中にある「勝利を得た者」と主は認めて下さると信じます。
ここで私個人のことを申し上げれば、私は癒しの賜物をいただいているとは思っておりません。しかし、バプテストの教会で洗礼を受けてクリスチャンになった早い頃から、信仰の書としての古典であるマクスウェル・ホワイト師の「The Power of the Blood」等を読み「十字架で私たちのために流されたイエスの血潮にはものすごい力があり、いのちがある」という聖書の教えを確信し、あらゆる病気とか、悪霊がからむ事態に対してイエスの血潮で覆い、振り掛け、宣言することを信じ少しづつ実行して来ました。その結果の実は確かに大したものではありませんでしたが、それでも時々起こる癒しの実で励まされて来ました。最近は特に家内と一緒に祈ることで力を得、癒しの確信は益々強まって来ています。そして実際に祈ってイエスの血潮を宣言している時に主が喜んでおられることを感じ、しかもその後でその人が癒されなかったことを知っても平安があり、結果に動じなくなりました。癒しのブレーク・スルーが来るのは時間の問題であると信じています。
癒しとは賜物をいただかなくても、イエスの十字架の御業を信じる者には既に力が与えられているのであり、私たちはどんどん果敢に信仰で癒しの祈りを実行すべきであると信じております。信仰とはそう言うものであり、私たちはみなそのプロセスにある者です。有名な癒し手の人が5年10年何も起きなかったという話はよく聞きます。未だ癒しの宣言を実行されていない方はぜひお始め下さい。
ところでここで2ペテロ3章の話に戻りたいと思います。ノアは周りからどんなに嘲笑されても「神を信じなさい」と人々に語り続け、神の指示に忠実に従い120年もかけて根気よく「どでかい箱舟」を事実上一人で造り上げました。彼は聖書の中の数少ない「神とともに歩んだ」人の一人です。私はノアが主の御ことばを忠実に実行はしても決して宗教的な男ではなかったことを何よりも誇りに思い、励まされています。そしてそのノアが造った「イエスの箱舟」に今の私たちも「勝利を得た者」として乗り込むことを堅く信じます。
最後に私自身の2016年のみ言葉を申し上げます。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」アーメン!皆様よいお年をお迎え下さい。 (終り)
21 12月
実現可能な夢
グラハム・クック
私たちは今新年を迎えようとしておりますが、それは新しい12ヶ月間への私たちの夢をもう一度考えてみる良い機会です。その際、幾つかの事を心に留めようではありませんか。
この世は、出来る限りすべてのもの、すべての事に、制限や限界を設けることを大変好みます。
私たちは「この夢はどうせ実現しないだろう」と自分に言い聞かせるように馴らされています。それはコンピューターのデフォルト設定(あらかじめ組み込まれた設定)のようなものです。私たちは小さい時から、「うまく行かない事もある」、「実現しないこともある」、「絶対不可能なこともある」、と言い聞かされてきました。周りの人達から限界を押しつけられました。その人達も周りの人達からそうされてきたのです。そしてそれらの限界は自分自身の考えだとして受け入れるように馴らされてしまっています。
自分で選んだスピード制限ほど自分に一番適した制限はありません。そしてそのような制限するというような否定的な思いは伝染するので、周りの人々の中にある同じような否定的な思いを増幅させてしまいます。それは、自分も同じような影響を他の人から受けてきたようにです。
この世で「それは現実的で、リアリスティックな線だ」と言うとき、実際はもっと可能性があっても、それに否定的な可能性を付加したり、保守的な考えと云う障害物を置いて(それは現実的ではないという)制限をつけてしまった考えであるのです。「夢の仕事」や「あこがれのライフスタイル」を勝ち取るなどと考えてあらぬ努力をすることは、全く(可能性の)希望はない無理なことと思うべきであり、「もっと幸福な人生」を送ろうと思えばその考えを是正すべきだと考えてしまうのです。しかし、「もっと幸福な」と言う言葉は実のところ、他の人たちが通ってきたと同じ道を歩くことに満足して「高望みとか無理をせず、人並みで平均的な」人生を送るということです。
いずれ人の通る道とはそのようにして作られていきます。幾人かが同じところを踏みながら歩いていくと、それが小道になり、やがて道路となり、そして6車線もの高速道路となります。これが、この世が持つ私たちが辿るべき人生の考え方なのです。
「信じる者にはどんなことで可能である。」と主はいわれました。ここで
「できる、可能である possible」という言葉はすばらしものですが、悲しい事に、実用主義者のふりをした悲観主義者が世界中でそれを否定的に用いてしまっています。原語であるラテン語「possibilis」は、「それは実現可能なこと」という意味で、力、能力、許容能力などを示しています。即ち「達成する、出来うる力」です。
1500年の原語の進化を経て、原語が認識できないほどに変化してしまう言葉もありますが、この言葉に関してはこの言葉に含まれている「希望」という概念が取り去られただけです。現在「可能であるpossible 」という言葉は、あきらめや疑いという意味合いを持って用いられます。大抵は「それはやっぱり無理だった。It just wasn’t possible.」とか「本当にそんなこと出来るの? Is it really
possible?」のように否定的に使われるのです。そして「それは絶対不可能だ。That’s impossible.」という決定的な台詞があり、私たちはそれを何に関しても、誰に対しても発するのです。
私たちはそのように馴らされているのですが、それは大変悲しいことです。というのは、「それは可能である」と宣言する元々の本当の意味は、「それは出来る」と宣言することだからです。何かが可能であると決断すると、私たちは力を受けます。「はい、出来ます!」と私たちが言うとき、私たちがどのような人間かを表します。それは霊を高揚させます。自分の霊だけではなく、周りの人の霊もです。誰かがあなたに向かって「はい、出来ます!」と言ったとき、あなたは自然に笑みをうかべて「すばらしい!」と言うでしょう。
それはとてもよいことであり、私たちを力づけ、周りの人たちをも喜ばせることです。しかしそれ以上に、あなたが今まで出来ないと思っていたことを「やっぱり出来る!」と決断したとき程あなたに力を与えることは他に何も、絶対に何も、ありません。世界で一番すばらしい気持になることの一つです。子どもの頃から馴らされていた否定的な考えのスイッチを切り、不可能なことを可能であると宣言するのです。
神はこのことをずっと私たちに告げておられます。
ルカ1:37「神にとって不可能なことは一つもありません。」
ピリピ4:13「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
マタイ17:20「まことにあなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ.』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
しかし、キリストが最も決定的にそれを語っておられるのはマルコ10章です。信心深い富んだ若者がイエスのもとに来て永遠のいのちを得るためには何をせねばならないかと訊ねました。イエスは彼はすべてを正しく行っているが、今はすべての地上の持ち物を人に与えてイエスに従うようにと言われました。勿論若者は貧しい生活や、すべてを与えるということは考えられなかったので、悲しみながら、豊かなままで去って行きました。イエスは弟子たちに「裕福な者が神の国にはいることは、何と難しいことでしょう。」と言われて、弟子たちを又もや仰天させたのです。
当時主流だった教えは、「人生で富を蓄えるのは神から祝福されているしるしだ」というものだったからです。ですから富んだ者は貧しい者よりも天国に入る可能性が高いということです。(今でも多くの金持ちが貧乏人にこの考え方を押しつけています。)しかしキリストはそれとは違うことを話されました。即ち、自分の功績で天国に入る権利を勝ち取ることはできないと説明したのです。御国に入る道をお金で買うことはできないのです。
弟子たちが「それでは誰が救われることができるのですか?」と聞いたとき、イエスは「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」と言われました。
可能性の力はキリストによる神からの贈りものです。
神は私たちをキリストの内に入れて、私たちが恵みの中で生きることができるようにしてくださいました。そこはすばらしい恩恵を伴った場所であり、そこにおいてはすべてに手が届き、すべてを達成することが出来るのです。
すべて可能なのです。神が何かを約束してくださるとき、私たちは理論から想像の領域へと解き放たれます。その場所で私たちはただ座って「できるだろうか」「本当に達成できる確立はどのくらいだろうか」「今まで何人が試して失敗してきたのだろうか」などと、くよくよ心配しなくていいのです。そこでは「できるだろうか?」と聞くことはもう出来ないのです。
そのかわりに、私たちは「出来ます!」と言うべきです。私たちは問題を越えてその先にある約束の成就を見つめます。なぜならば、天の父からの約束は結果が保証されていて、私たちを自由と実現に向かって歩く力を与えてくれるからです。神が私たちの「不可能さ」の状態をこよなく愛される理由はそこにあります。神は私たちが行き詰まった時や絶望した時に、介入して私たちに約束をくださることが本当にうれしくてたまらないのです。私たちを不信仰に陥らせようとするような厳しい状況の中で、主はご自分の臨在を告げられるのです。それまでは考えられなかったことが想像できるまでになった時に私たちが感じる喜びを、御父はその千倍ほども感じられるのです。
ペンテコステの日に、神は聖霊の傾注により、人々が預言や幻や夢を通して神の御国に入ることを可能にされました。それは歴史上大きな変化の時でした。御子の誕生によって始められた新しい契約の締めくくりの出来事であり、キリストの内にある新しいリアリティーが現されたのです。
それはペテロがその日示したように、数世紀前に預言者ヨエルにされた約束の成就でした。ヨエル2:28−30「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。」
教会が誕生した時に与えられた預言の賜物や、幻や夢は(それと同じ賜物によって私たちも肉なるものを通り越して超自然へと到達することができるのですが)それ自体が約束の成就だったのです。
心を尽くして主に信頼し、自分の不完全な悟りに頼らないという信仰の原則を、私たちは預言によって生きることができます。あなたのいのちの中の御霊からの約束や預言は、神があなたに何をしてくださるかを語るでしょう。それらの言葉はあなたの人生の可能性を次の領域へと引きあげ、神の臨在を力強く感じるために必要な力を持っています。
神の約束とその約束に含まれている保証された結果にあなたの焦点を当ててください。そしてそこから大いなる力を得てください。不可能なものはないのです。2016年は、あなたの実現可能な夢を夢見てください。(終り)
14 12月
愛のバプテスマ
ポール•キース•デイビス
1996年に、私とボブ・ジョーンズ師が一緒にミニストリーをしている時に神が出会わせてくださった人のことをお話したいと思います。彼はエライジャ・マズワンガニという名で、南アフリカでミニストリーをしている黒人の方でした。その人は沢山の本を著しておりましたが、集会のあと私に一冊本をくださると言いました。彼がすばらしい神の人だということが分かっていたので、私はとても楽しみでした。彼は自分の本が25冊くらい入っている箱の中をいろいろと探していましたが、「あった、あった」と言って一つのパンフレットのように薄い本を私に渡してくれました。「これはあなたによいものだと思いますから、どうぞお受け取りください。」と彼は言いました。私は感謝をして鞄にいれました。
その本の題は「私が受けた愛のバプテスマ My Baptism of Love」でした。当時南アフリカでは人種差別が激しく、黒人の彼は酷い経験を沢山したそうです。彼がこの本で書いていることをお読みしたいと思います。(以下)
「私(マズワンガニ師)その夜、いつものようにデボーションを済ませたあと、一人で自分の部屋で寝ていました。突然、午前2時ごろでしたが、私は自分の内に麗しい音楽が涌き上がってくるのを聞き、また感じました。それはオーケストラが最大のクレッシェンドで演奏しているような響きでした。私の内なる音楽に、私のまわりの大勢の天使たちの歌声が加わりました。私の内の歌とまわりの天使たちの歌声には完全なハーモニーがありました。歌声と何種類もの楽器との響きは、最高に美しいばかりではなく、全く調和し完全でした。それは私の最も深い霊的、感情的な願望や飢え渇きを完全に満たすものでした。私は音楽によって天の領域に引き上げられて移されていくように感じました。歌の歌詞はこのようなものでした。『あなたの思いをイエスに話しなさい。主は友としてよく知られている方です。
Tell it to Jesus. He is a Friend who is well known.』誰かが音量をどんどんと高くしているようでした。
音量が最大になったとき、私は天使の歌声の大海原の中にいるようでした。圧倒されるような恍惚状態の中で、私は本当に美しいイエスの手を見ました。主の身体は見えませんでした。主の手はやさしく私の額に伸ばされました。主に触れられてベッドからおりると、私の口から勢いよく異言がほとばしりでました。私の賛美の歌や言葉は、天使の歌声と完全に調和していました。私の両手は天にむかって伸ばされ、2時から6時までそのままの姿勢で賛美し続けました。私の足も手も、少しも疲れませんでした。私は喜び、平安、幸福感で満たされ、すすり泣きました。
その時、私は『愛のバプテスマ』を受けたのです。そして私は神と新しい経験をしたことがはっきり分かりました。朝6時に家の戸を開けて外に出たのですが、その時私の目に入るものをすべて愛さずにはおられなかったのです。どんな人種の人も私は愛しました。人々が神の花束のように見えました。空も、草も、木も、車も、動物もすべて愛しました。今までの懐疑的な思いや批判的思い、疑いは消えていました。私は平安で一杯に満たされました。それはパウロが『人知を越えた神の平安』と呼んだものだと思います。生まれて初めて私は完全に自由だと感じました。
私が『愛』の新しい定義を与えられたのはその経験を通してだったと思います。それは『神の愛は自由である God’s love is freedom.』というものです。この栄光に満ちた超自然的な霊的経験の後、私の人生やミニストリーは以前とはまったく違うものとなりました。神は私に人々を理解し無条件で愛す、そして無条件で赦すというキャパシティー、許容力を与えてくださいました。この愛によって私はどんな状況の中にあっても人を赦すことができるようになりました。この経験によって私はすべての人を愛するようになりました。私は常に人々のことを考え人々の夢を見ます。私は世界中に旅をしますが、どこででも人々は私の中にある愛を感じてくれます。大抵の人と苦労しないですぐに仲良くなれます。それは神がすべての人を愛に応答するものとして造られたからです。言葉が通じなかったり文化習慣が違ったりしても、人間は自分が本当に愛されていときは分かるのです。」(以上)
私はこの小冊子を読んでとても感謝しました。私には「愛のバプテスマ」が必要だと彼は思ったのだと思います。皆さんの中にも愛に浸される経験が必要な方があると思います。私も神の栄光を少し経験したことがあります。私の兄弟が亡くなったすぐ後のことでした。私たちは一年半の間、彼の癒しのために断食をし、祈っていました。ですから彼が死んでしまったとき、私は少しばかり落胆し傷ついていました。その時、雲が私を包んだのです。そして何百万という楽器が奏でられるのが四方から聞こえて私を取り囲みました。ただ上から聞こえたというのではないのです。あたかも水の中にいて水が身体の触れている所すべてから音が聞こえるという感じでした。それは数分間続いてから消えていきました。その経験は私を確かに変えてくれました。
「キリストの花嫁」がみんな愛のバプテスマを受ける日がくることを私は望みます。それはどのような方法であるかはわかりません。主の御手に触れられるのか、栄光の雲に包まれるのか、あなたの部屋に光が差し込むのか、夢の中か、トランスの中か、祈りの中か、異言を話しているときか、それはわかりませんが、あなたが神の愛に覆われるときが来ることを願います。そして御父の愛が真にわかるようになるのです。どうか私たちが神に浸されて神が愛であることが本当にわかりますように。神が愛を持っておられるのではなく、神が愛なのです。
神は今、それを受け取る用意のある人に愛のバプテスマ与えてくださると信じます。
聖霊の賜物は勿論よいものであり、私も頂きたいと思っています。癒しのミニストリーなどもすばらしいです。しかし、もし私たちが愛のバプテスマを受けるならば、その他のものはもっと早く与えられるのではないかと思います。ウイリアム・ブラナンが自分の癒しのミニストリーについて語っています。
彼が人々のために祈る時に、その人の病とか、家族の問題とかを彼自身が身体の奥深いところで感じ、彼はその人に対する愛と憐れみに満たされるのでした。その時、奇蹟が起ったのです。主イエスも人々の苦しみを見られた時、愛と憐れみの故に癒されたのでした。もし私たちが癒しや解放、奇蹟などの力を求めているならば、それは愛と憐れみの中から生まれてくるのだと思います。
賜物を与えられるのはすばらしいことです。私もすべての賜物を受けたいと思います。しかし、賜物によって業をなすことと、主の臨在によって業をなすのとは違うのです。癒しの賜物を受けるよりも、癒し主ご自身が臨在してくださることを私は願います。知識の言葉を受け取りたいと思いますが、それだけではなく、知識の霊を受けたいと思います。知恵の言葉だけではなく、知恵の霊を受けたいと思います。奇蹟だけではなく、力の霊を受けたいと思います。なぜならそれらの霊は主ご自身だからです。主こそ御座の前におられる7つの霊(黙示1:4)です。ですから主がすべての源であられ、源がくればすべてのものがそれに伴うのです。それが王であり、キリストの花嫁が愛する方なのです。
私たちは異なる次元で業をするようになるのです。数は少ないですが、今までも先駆者たちがその次元でミニストリーをしてきました。キャサリン・クーマンやジョン・G・レイクなどは、栄光の領域で愛と憐れみをもってミニストリーをしたのです。私たちも主に「愛のバプテスマ」をくださるようにお願いしようではありませんか。(終り)
07 12月
神の一途な思い
グラハム・クック
神には二心はなく、御思いは常に一つであることをお話したいと思います。
ポイント#1
第一のポイントは、「神の私たちに対する思いは変ることがないと知るとき、私たちは一番変ることが出来る」ということです。私たちの多くは残念ながら、「宗教的組織、宗教的システム」の中で育ち、神には二極性があると教えられてしまいしました。宗教は「神は私たちを愛しておられると同時に、私たちに腹を立てておられる」と言うのです。「神は私たちの言動を見て、それが良くない時は私たちに背を向けられる」とずっと教えられてきたのです。もしあなたの教会がそのように教えているとしたら、それは宗教の霊であることを知ってください。これは西洋の教会の最大の問題の一つだと私は思います。それは間違った教義であり、よい教えではありません。しかし、うれしい事に今変化が起きています。すばらしい知恵と啓示の霊が今世界中を巡り始め働いていてくださいます。神は私たちを御国の真理へと目を覚まさせていてくださいます。
神がどのようなお方であるのか、又私たちはどのような者であり、どのような者ではないのか、に関する御国の真理があるのです。そして神の思いは常に全く一つであり常に同じであることをその真理は教えてくれます。神の私たちに対する思いは一つであり、それがすべてであるので、私たちはそれを完全に理解することができ確信が持てるのです。そして「私たちが神にあって何者であるか」「どのように神に結びつけばよいのか」も理解し確信することができるのです。
「イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とヘブル13:8にありますね。マラキ3:6には「主であるわたしは変ることがない。」とあります。それは「あなたの主であるわたしは変ることがなく、あなたは変ることのないわたしと関係を持っている。」と言う事です。神は宇宙でただ一人、決して変ることのないお方です。ですからあなたは主との関係において、自分がどこに位置しているかが常に分かっているのです。あなたが最高であった日にも最悪であった日にも、主のあなたへの思いは全く変ることがありません。そして主はご自分がそのような方であることを喜んでおられるのです。
ヤコブは次にように言っています。「すべてのよい贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変りや、移り行く影はありません。」(ヤコブ1:17)神があなたに対する態度を変えてしまうということはありません。神は「わたしはこういう者です。いつも永遠にこういう者だとあなたは知るでしょう。そしてわたしがあなたに対してどういう者であるか、あなたは確信を持つことができるのです。あなたに対するわたしの思いが変ることは決してありません。」と言われるのです。
私たちが神のご性質を知るとき、神がどのように私たちと関わってくださるのかを知ることができます。神のご性質、ご性格が変ることがないので、神の約束、神の御ことばも同じように永遠に変らずに聖なるものです。民数記23:19、20には「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。」と書かれています。イザヤは55:11には「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。」とあります。
私たちに神が語られること、それは聖書の御ことばであったり預言を通しての御ことばであったりするわけですが、大切なポイントは、神は私たちに与えてくださった言葉を必ず成就させるということです。神の御ことばが私たちの毎日の生活や戦いの中で、完全に成就することです。それは神が偽りを言うことはないからであり、変ることのないお方だからです。神の御ことばは永遠なのです。
イザヤ45:23に「わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることは正しく、とり消すことはできない。」とあります。神の誓いはあなたの性質に左右されるものではなく、神のご性質によって成り立っています。あなたがどのような者であるかによるのではなく、神がどのようなお方であるかによるのです。私たちが神の翼の影に身を寄せることができるのは、神がどういうお方かに全面的に拠り頼んでいるのです。あなたがすばらしいからではなく、神が驚くべきお方であるからなのです。そしてあなたがすばらしくなったのは、あなたが立派だったからではなく、神が驚くべきお方であり、神が変ることがないお方であり、神のご計画の中にあなたを入れてくださっているからです。
過去数年私が最も愛している神の約束があります。今私は命を脅かすような病を得ています。私は健康になろうとしている病人ではなく、病気を追い出そうとしている健康な人間です。神から私に与えられたこの約束は、私にとって聖なるものです。皆さんの中には同じような状況の方々がおられると思いますので、読んでみたいと思います。私に対する主から与えられた約束です。
イザヤ46:3「・・胎内にいる時からになわれており,生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」
神にとっては約束がすべてです。ですから私たちにとっても約束がすべてです。神からの約束は往々にして生と死を分かつようなものです。変ることのない神の約束にあなたが立脚するとき、神がご自分の言葉に対して持っておられる確信があなたにも訪れます。
神は私たちをキリストの内に置かれ、神の慈しみのゆえに私たちが安全に保たれるようにされました。私たちの人生が揺れ動くとき、揺れ動かないのはイエスだけです。私たちが主を信頼する土台は主の御性質です。イエスは決して変ることのない良いお方です。そのお方が「わたしは決してあなたを離れない、見捨てない。」と約束されているのです。
そして主は私たちに啓示的な洞察を与えてくださいます。その啓示とは、神の変らない御こころ、変らない御ことばにより、あなたは絶対的な確信をもって、神があなたに対して持っておられる慈しみを信じられることです。それはどのような状況においてもそうであるのです。ですからあなたが今直面している「状況」よりも「神がどのようなお方であるか」の方が、あなたにとってもっと大切で重要なのです。
ポイント#2
第二のポイントは神は愛であられ、神は常に愛をもってあなたを思っておられるということです。神は御子の愛の中にあなたを入れてくださっています。神は変ることがない方ですから、それが変ることもありません。ですから神があなたをイエスの中に置かれたとき、それはあなたを変らない主の御性質の中に入れたのです。つまり、あなたの言葉や行動によって変ってしまうものはないということです。物事が私たちの言動によって左右されると考えるのは宗教の霊です。すべてのことは神によるのです。あなたが良い子だから神からご褒美を頂くのではありません。あなたがイエスの中にいるから、良い物を受け取るのです。
ローマ8:31に「では、これらのことからどう言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とありますね。だれも敵対できないということは、あなたも自分自身に対して敵対できないのです。皆さんの中にはそうしようとした人がいますよね。でもできません。それは神がそうさせないからです。神はあなたの味方なのですから、もう自分に敵対することもあきらめてください。
32節「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
ここでいう「すべてのもの」とは自分にとって何でしょうか。あなたが今置かれている状況の中で必要としている「すべてのもの」とは何ですか?
神があなたをその状況の中に置かれた唯一の理由は、あなたにすべてのものを恵んでくださるためです。神は知恵をもってその状況をつくり出し(それは神の力で簡単に阻止もできたものなのですが)あなたに沢山の物をくださろうとしておられるのです。パウロが「すべてのもの」という言葉を用いたのは、私たちの人生で起るすべての状況に適応させるためです。人生で起るすべての状況の中で、あなたが主から何も受けない状況はないということです。それは神の御性質と相反することだからです。
33節「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」それはあたかも神が私の前に立って「グラハムを訴える者は、まずわたしと対峙せねばならない」と言っておられるようなものです。
34節「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」私たちを一番知っておられる方が私たちを一番愛してくださり、私たちのためにとりなしの祈りをしていてくださるのです。
35節「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。艱難ですか、苦しみですか、迫害ですが、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」勿論この質問に対する答えは「何もありません。」です。それはあなた自身をも含みますよ。自分の愚かさもキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
37節「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらのすべてのことにあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
パウロは本当に真剣で大真面目ですね。「私たちをイエス・キリストにある神の愛から引き離すものは何もない」ことをはっきりと認識し、確信し、もう絶対に疑問を持たないことが、私たちにとって大変重要なのです。
神はあなたがどのような人間であるかを正確に知り、あなたがどう思っているか、感じているか正確に知っておられ、あなたのためにご自分はどのようにしたいかも完全に知り、そのご計画、目標から少しも逸れることはありません。そのご計画とはあなたを神の似姿とすることです。それは私たちも神のように変らないものとなることです。そうなるための過程で、まず私たちは神が自分にとって変ることのないお方であることを意識的にしっかりと認識せねばなりません。そして私たちは完全に1000%、リラックスし、神のご性質の中で安息するのです。その時自分の業績や善行に拠り頼むという意識は消えていきます。
勿論パーフォーマンス、業績、実績は大切です。スポーツマンに聞いてみたら分かります。歌手でも俳優でも、また実業界の人にとっても勿論大切です。しかし霊においては、自分の行ないは神がまずしてくださることの後に来るものなのです。神との関係が築かれた後の結果としてパーフォーマンスが生まれるのであり、関係を築くためにパーフォーマンスをするのではありません。神が自分にとってどういうお方であるかを知り、それに対する応答として私たちはパーフォーマンスするのです。クリスチャンにとってのパーフォーマンスとは、私たち一人一人のために神がしてくださることに応答するだけのことなのです。何かを得るためにするのではなく、神のすべてを受けて祝うことであるのです。私たちは神に愛される者として受け入れられていて、その結果として神の愛の中で圧倒的勝利者となることが出来るのです。(終り)