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Walk With God Ministries


30 11月

嵐はどこから来たか      ビル・ジョンソン            2015年11月30日         


嵐はどこから来たか

 

ビル・ジョンソン

 

人生の嵐は、奇蹟と同じように、私たちに大きな挑戦を与え成長する機会を与えてくれます。しかし、嵐にも種類があり、どのような嵐の中にいるかによって大きな相違があります。たとえそれがサタンから送られた嵐であっても、私たちを奮起させ、すでに自分が受けている啓示を実践するように私たちを招いてくれます。下記マルコ4:35−41にあるように、それは奇蹟を呼び起こすものとなります。

 

「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へわたろう。』と言われた。そこで、弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについてきた。すると、激しい突風が起り、舟は波をかぶって、水で一杯になった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。『先生、私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」

 

また一方、私たちが間違った方向に進んでいる時に神が送られる嵐もあります。ヨナの場合がそうでした。

 

「そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起り、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。船長が近づいて彼に言った。『いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。』」ヨナ1:4−6

 

2つの聖書箇所で2つの異なる種類の嵐について書かれていますが、その目的も又異なっていました。一つは神によって送られたものであり、他方はサタンによるものでした。両方とも船の中で眠っている人がいました。一人は意気消沈して現実逃避のために眠っていましたが、もう一人は「地に存在する天の御国」に生きておられたので安眠していました。なぜなら御国には嵐はないからです。

 

問題は、あなたがどちらの種類の嵐の中にいるかです。そしてその嵐の中で、あなたは神が望まれるような対応をしているかどうかということです。あなたは今までに経験した奇蹟を通して信仰の訓練や学びが出来、現在直面している問題のために十分整えられているでしょうか。

 

弟子たちが湖で遭遇した嵐は、彼らを神の御こころから逸れさせようとしてサタンが送ったものでした。ヨナの嵐は神の御こころに引き戻すために神が送ったものでした。ある人たちが遭遇する嵐は、神が右に行かれたのに、彼らが左に行ってしまったからです。神は彼らを引き戻すために憐れみによって嵐を起こされるのです。

又ある人たちは神の御こころの真ん中にいる故に嵐に直面しますが、それは神があなたがすでに受けている方法、道具を用いて嵐を静めるように訓練したいと願っておられるのです。

 

多くの者は嵐に遭遇するや否や、すぐに神に「この状況を変えてください!

助けてください!」と叫び求めるのが私たちの仕事だと考えてしまいます。しかし、嵐の目的はそこにあるのではありません。もし私たちがただ主に向かって叫ぶだけならば、奇蹟を起す私たちの役割を放棄していることになります。

神は私たちに嵐を静める道具をまず与えることなしに嵐を許されることは決してなさいません。神はその道具を私たちが用いて、奇蹟を招くことを願っておられるのです。過去において、あなたが経験した最も大きな問題や危機的状況を思い出してください。よく考えてみるならば、その問題に対処するために神があなたに与えた道具が何であったのかが必ずわかるはずです。

 

神が私たちの人生に問題が起るのを許されるのは、私たちがその問題を克服するためであり、いつも神に叫び求めるだけのためではないのです。その道具は舟の中の私たちの手元にあるのですが、サタンは恐れの暴風を起こして、その道具がどこにあるかを私たちに忘れさせようとするのです。

 

私たちの多くは嵐を見ると、イエスが眠っておられるのを見て弟子たちが叫んだのと同じ祈りをしてしまいます。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか?」と。その時イエスは起き上がって彼らの祈りに答えてくださいました。私たちのほとんどは、神が自分の祈りに答えてくださる時に喜びます。私たちの中には、弟子たちはあの嵐の中で正しいことをしたと彼らを称賛する人がいるかもしれません。しかし、イエスは彼らを見て「あなたたちは信仰がないのですか?」と叱責されたのです。弟子たちは「え、何ですって、ちょっと待ってくださいよ。」と思ったかもしれません。「私はあなたのところに来てお願いするだけの信仰があったのですよ!そしてあなたは私が願ったことをしてくださったではありませんかー祈るのが私の仕事で、それをしてくださるのがあなたの仕事だと思っていました!」と云われるかもしれません。

 

そうではないのです。障害物にむかって「消え去れ!」と命令するのは私たちの責任です。ほとんどの人たちのミニストリーは、嵐に襲われたとき、嵐にむかって「静まれ!」と命令をする代わりに、地上での問題を神に解決してもらおうと祈ればよいと考えてしまいます。私たちは直面している問題や状況を御国の視点で見るべきであり、問題にむかって主の御ことばを宣言することによって天の御国の力が地に及ぶのを見なければならないのです。・・・・

 

(何度も言いますが)もしあなたの舟の中でイエスが眠っておられるならば、主は、あなたが主を起こし何とかして欲しいと訴えることを待っておられるのではないのです。なぜなら、あなたは神から目的を与えられているからです。あなたがすでに主から与えられている道具を用いて「天の御国の(スーパーナチュラルな)パワーを適用して」あなた自身が奇跡を生み出すことを主は願っておられるのです。・・・

 

私たちは単に神が凄い奇跡を起こされるのを見て手を叩きアーメンと言うだけでそこを去ってしまうのであれば、私たちは何も学ばず何も変えられません。神は私たちに対して霊的訓練をして下さっているのです。それは、私たちが同じ奇跡を起こせるように期待しておられるからです。ですからそのような奇跡の機会を神が与えて下さる時、私たちはそれを無駄にしてはなりません。(終り)

 

   (師の著書 The Supernatural POWER of a Transformed MIND より)


24 11月

ブラザー・ローレンスから学ぶもの ー 主の臨在と共に暮らす習慣を身につける             坂   達 也   2015年11月24日 


ブラザー・ローレンスから学ぶもの 

    ー 主の臨在と共に暮らす習慣を身につける

 

                坂   達 也 

 

 昨夜、リック・ジョイナー師のサイトで彼が書いているブラザー・ローレンスの紹介記事を読んで、久し振りに私が最初にブラザー・ローレンスの珠玉のような本に接した頃を思い出しました。ブラザー・ローレンスについて、多くの方は既によくご存知とは思いますが、先ずは、ジョイナー師が書いている彼の略歴をご紹介します。

 

 「ブラザー・ローレンスは1614年にフランスで生まれました。貧しい環境で育った彼は軍隊に入らざるを得なくなりました。そして戦地でのある冬の寒い日、葉が落ちて裸になった木を見ているうちに、彼は著しい救いの体験をしたのです。彼はその時、葉が落ちて死んでいるような木と同じ状態にある自分を感じながらも、神が彼のために生きる希望を用意しておられるのを感じ始めていました。すると突然、神の誠実さと愛が彼のたましいに洪水のように溢れました。彼はその経験は、どこにでもある自分の目の前の現実に、突如として超自然としか思えないような「明晰な思い」が飛び込んで来た、と言いました。

 戦地で負傷したローレンスは、除隊後にパリにある修道院で働き始めました。教育を受けていない彼は、そこで調理場の下働きという最もありふれた下等の仕事に就きました。そこで彼は、人生で苦難の道を歩まねば神の恵みにはあずかれないという当時の宗教社会の通念に影響され、人生の失敗者である自分は、世の中の下積みの苦労をしなければならないと思い込んでいたからです。

 しかし彼が経験した超自然的な「明晰な啓示」を通して、いつしか彼は、どんなつまらない仕事をしていても、そこに主の栄光を見つけて主をひたすら礼拝することにこそ、主の御国で約束されている最も平安と喜びに満ちた生き方の一つがあることを発見したのです。

 しかし「継続的な神の臨在」を経験するに至る迄には、彼は非常に困難で長期に渡る、徒労で報われない献身の毎日を通らねばなりませんでした。しかしその努力が報われる日が遂にやって来たのです。彼はどのようなつまらない仕事をしていても、それに神聖さを見つけ、神に栄光を返すどんな王よりも楽しい毎日を過ごせるようになりました。

 そのような彼の平安と喜びに満ちた人生の生き様が、多くの人たちを惹き付け始めました。彼の死後(1691)に、彼が書いた多くの書簡からまとめたものをビューフォーのヨセフと呼ばれる一人の神父が編纂し、それが The Practice of the Presence of God として後日出版されるに至り、以降この本が多くの人に読まれるようになったのです。」

 

 以上の略歴を紹介した後、ジョイナー師はブラザー・ローレンスの経験した貴重な知恵の幾つかに触れておりますので、私はその内の二、三をご紹介したいと思います。

 最初にブラザー・ローレンスが云った言葉としてーこれは特に有名な言葉ですがー彼は数人の人が調理場で戦争のように忙しく立ち働いている環境に自分がいる時であっても、それは彼が静かに主の前にひざまずいて祈っている時と全く変わらずに、同じであると言っていることです。その理由を彼は、自分が神をしっかり保有し、あるいは神に保有されているからであると言います。ここで彼は possess という言葉を使っており、その意味は「完全に神に所有されている状態」を指しています。

 これこそ主キリストと私たちの関係ー主が私たちの内におられ、私たちも完全に主の内にいる状態ーすなわち、「私たちは完全に主の持ち物」であることを表していないでしょうか。私たちは聖書にそう書かれていますから、そのことを理屈では分かっていても、それが現実にそうなれるという事実をブラザー・ローレンスが証明してくれているのです。

 

 次に彼が云っていることは「主の臨在を感じない、主が隠れておられるような『乾いた状態』にいる時にこそ、私たちは主に対して真に忠実であることを学ぶことが出来るーそのような時にこそ主は私たちの主への愛をテストされ、又私たちが主に対してどれ程の堅い決意 determination をするか、あるいは、主にどこ迄自分を明け渡すこと surrender が出来るかを試すよい機会となる。」と云っています。

 又主は、「私たちが主のためにどんなよい仕事をしたかーそれはその仕事の大きさではなく、むしろどれ程愛をもってその仕事をしたかーということに関心を持たれる。」とも云っています。

 

 最後に「主といつも語り合う習慣を身につけるためには、自分が常に神のご臨在と共にいるかどうかを気遣っていることが絶対に必要である。」と彼は主張して止みません。そして、彼が主の助けを必要な時、彼は必ず主にお願いします。彼の経験では、神が助けて下さらなかったことは一度もなかったと言います。

 

 昔オレゴンの教会にいた時に、希望する人には全員にこのブラザー・ローレンスの The Practice of the Presence of God という小冊子を教会が無料で配布したことを私は憶えています。クリスチャンにとってこの本は、それ程重要な手引書の一つであって、私たちは、少なくとも一年に一度位は読み返すと大変恵まれる必読書であると思います。

 

 実は私は今朝思い立って自分がどういう人間であるのかを確認する思いで、ロマ書6:3−6を読んでみました。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテズマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテズマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテズマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちがキリストにつぎ合わされて、キリストとの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」

 

 私たちはキリストを信じてバプテズマを受けた時、新しく「霊の人間」に生まれ変わったことを本当にいつも自覚して生活しているでしょうか。それを忘れて、いつまでも肉のままの人間で生きてはいないでしょうか。

 

 ブラザー・ローレンスは、そのことを私にいつも改めて思い出させてくれる人です。(終り)


16 11月

現代のシメオン—レオナルド・レイヴェンヒル          リック・ジョイナー  2015年11月16日


現代のシメオン—レオナルド・レイヴェンヒル

            (偉大なクリスチャンのシリーズより)

 

リック・ジョイナー

 

レオナルド・レイヴェンヒルは英国ヨークシャーのリードという町で1907年6月18日に生まれました。彼は第二次世界大戦中に力強い伝道者として現れました。当時世界は深い闇に覆われていましたが、 彼の集会には大勢が集り多くの者がキリストに導かれたのでした。

レイヴェンヒルの集会で回心した者たちの多くに共通している最も顕著で、そして恐らく一番重要な特徴は、多くの者がその後教会のミニストリーやミッションの働きに就いたことでした。このすばらしい特徴をレイヴェンヒルのミニストリーは最後まで持ち続けました。大勢の人が集まる集会でも、また小さな祈祷会でも、彼の説教を聞いた者たちは、ただキリストを信じるだけではなく、キリストに仕えるようにと強く迫られたのです。

レイヴェンヒルの著書はまたたく間に高い評価を受け、彼はその時代の力ある預言的な声の一つとなりました。 一番のベストセラーである「Why Revival Tarries(リバイバルが遅れる理由)」は、真摯なクリスチャンにとっての必読書となり、今でもなお20世紀で最も影響力のある本の一つに数えられています。

レイヴェンヒルは19 50年にアメリカに移り、60年代までずっとアメリカを巡って天幕伝道を行ないました。彼の妥協のない十字架のメッセージと聖さのうちに歩む情熱は、それ以後起ってきた多くのムーブメントの強固な土台となりました。彼が与えた影響は非常に大きかったのです。彼と彼のよい友人であるA.W.トーザーが互いに影響を与え合ったことは明白であり、二人は共に彼らや私たちの時代に対する重要なメッセ—ジを運ぶ器となったのです。

レイヴェンヒルは1980年代にテキサスのリンデイルに移りました。彼の大きな影響力はそこでも衰えず、多くのクリスチャン・リーダーたちを指導しました。その中にはキース•グリーン、ラビ・ザカリアス、スティーブ・ヒル、マイケル・プラウン、チャールス•スタンレイ、ビル・ゴットハード、デイビッド・ウィルカーソン等がいました。

 

私はレオナルド・レイヴェンヒルに1987年の末に会いました。私がテキサスのパレスタインでのカンファレンスで話している最中に、彼が数人の人と一緒に会場に入ってきたのです。その時の会衆の反応から彼が重要人物であることが分かりましたが、それよりも私が彼に注目した理由は、主の声が、今入ってきたのはどのような人であるか、を私に告げられたからです。主は「彼は現代のシメオンです。彼は今の時代に神の慰めが与えられるのを長い間待ち望み祈ってきました。そして彼は終末のミニストリーの揺籃期を見、預言をするという栄誉を与えられました。」と言われたのです。

私は集会を終えて彼のそばに行きました。まだ彼の名前も知りませんでしたが、彼が入ってきた時に主が告げられたことを話しました。私たちは友達になり、その後彼からもらった沢山の手紙は私の宝物となりました。彼の家にはいつも彼の知恵を聞くために名のあるクリスチャンたちが集まっていましたが、私も彼のそばに座って話を聞くのが大変楽しみであり、喜びでした。

 

私はレイヴェンヒルをマイク・ビクルとボブ・ジョ—ンズに紹介しました。すると彼らはすぐにレイヴェンヒルをカンサスシティーにスピーカーとして招きました。彼が大勢の会衆の前で話すのを聞くのは私にとってその時が初めてだったのですが、非常に多くの人が椅子に座っていることができず、床の上で顔を伏せて悔い改めたのには驚きました。彼はそこにいたすべての者からすぐに霊的父親として受け入れられました。

 

マイク・ビクルがレオナルド・レイヴェンヒルをジョン・ウィンバーに紹介したいと言ったとき、私はそれが良い事がどうか疑問に思いました。といのは、この二人は非常に異なっていたからです。ところが二人は最初の出会いから急速に強い絆で結ばれ、それには私も驚かされたのでした。ジョンがレオナルドにアナハイムのヴィンヤード教会に来て話してくれと頼んだ時には、もっと驚きました。次にジョンは、レオナルドを「聖さのカンファレンス」という特別集会のスピーカーとして招くことに決めました。私はそのカンファレンスで何か起るのかをこの目で絶対見なければならないと思いました。

その集会でレオナルドが話すか話さないうちに、またもや人々が床にすべり落ちて顔を伏せ主を拝し始めました。すぐに椅子に座っている人よりも床に伏せている人の方が多くなり、悔い改めのうめき声がレオナルドのか細い声をかき消すほどになりました。彼はすばらしい説教者ですが、このような反応を人々に起こさせたのは彼の言葉ではなく、聖霊が人々に罪を示されたからでした。人々は古いくびきから解放され、主への愛と情熱、そして主の十字架が彼らを訪れたのです。

 私はその時、「恵み」(ヴィンヤード・ムーブメント)と「まこと」(聖さのムーブメント)が完全に一つになるのを見ているように感じました。この二つはお互いを本当に必要としていたのです。そして二つは出会い、接吻をしたのです。それは終末のミニストリーがどのようなものになるのかを示す重要なしるしでした。

 

レオナルド・レイヴェンヒルは1994年11月7日に亡くなりました。私は死ぬまで主に仕えた多くの人々に出会うことができましたが、その中でもまず最初に頭に浮かぶのが彼のことです。彼が著書の中やメッセージの中で語った幾つかの言葉をここに挙げてみたいと思います。

 

レオナルド・レイヴェンヒルの知恵の言葉

 

私たちにリバイバルが訪れない唯一の理由は、私たちがリバイバルなしでもかまわないと思っているからです!

今の教会は、責任をのがれて携挙されることを望んでいます。

もし祈りが弱ければ、私たちはすべてにおいて弱いのです。

人はアドバイスを与えるが、神は導きを与える。

 

あなたが生きる目的にしているものは、キリストが死ぬに値するものですか?

罪を犯している人は祈るのをやめる。祈る人は罪を犯すのをやめる。

私たちは何年もかかって山のように膨大な紙と川のように大量のインクを使って、歴史上の大きなリバイバルに関する証しをでかでかと書きまくったにもかかわらず、いまだに世界中の国でひどい腐敗があり、教会ではペンテコステ以来最も祈りが少なくなっている現実に対して、どうか神が私たちを憐れんでくださいますように。

かつて教会は滅び行く人々を助ける救助艇であったが、今は有望な人たちを招き入れる遊覧船である。

願望は、悪魔の「手配中極悪人リスト」にのることである。

今の牧師たちがしているメッセージと同じメッセージをイエスが語ったならば、イエスは決して十字架にはかけられなかったであろう。

人生最大のチャンスはチャンスがあるうちに捕まえなければならない。

私の人生の主たる娯楽はサタンが提供する喜びの代用品である。

(終り)


10 11月

あなたの「思いの想定 assumption 」を考え直す    グラハム・クック     2015年11月10日


あなたの「思いの想定 assumption 」を考え直す

 

グラハム・クック

 

私たちが多くのことで、自分の考えに従ったために、好ましくない地点に到達しているとすれば、今私たちは 新しい思いと考え方を身につける時ではないでしょうか。私たちは、自分の考えによって必ずどこかへと導かれます。

そうであれば、自分の考えが私たちに対する神のすばらしい御こころから外れていないように注意することは、 自分自身に対する私たちの責任です。

人は、その人の考えが正しくてもあるいは間違っていても、その人の考えるような人になってしまいます。それは箴言23:7の一部に人の思いがその人となりを造ります。」(訳者意訳)とある通りです。

主の御前で自分自身の価値評価を問うことは極めて重要です。もしその評価が高ければ、私たちは努力しなくても喜びのうちに生きることができるでしょう。しかしもし大変努力をしなければ感謝を表せないならば、私たちは自分の考え方を調整せねばなりません。

主の恵みに中で、私たちはみな自分を高く評価する特権を頂いているはずです。実際、キリストのうちにありながら、神が今までにして下さったこと、現在していて下さることのすべてに、大いに感謝しないことなどあり得ません。それは真のワーシップへと私たちを導く踏み台です。イエス様の麗しさの中で自分自身を受け入れるのです。もし主のお名前の一つが「ワンダフル」であり、私たちが主の内にあるのならば、神が私たちの内に創られていることや自分に対して「ワンダフル!」という思いを持つのは当然であり、ふさわしいことであるのです。

 

確かに、私たちは「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。(ロマ12:3)」と勧告されていますが、これを聞くと私には笑みが浮かぶのです。

第一に、この勧めがある聖書箇所は、この世的な物事の考え方に調子をあわせないようにと言っています。

第二に、心の一新が人生の根本的な変革のために必要であるとも言っています。

第三に、私たちの考え方が、神に受け入れられる、良いものであり、全き御こころに適うものでなければならないと言っています。

そして第四として、私たちは自分を高く評価しないようにとは言われていません!

 私たちは信仰によって歩む落ち着いた生き方にふさわしい考え方をするようにと言われているのです!

この逆説的な勧めの中には、私たちがするのを許可されていることが沢山あるのです。ですから私たちは、私たちに対して神が持っておられるヴィジョンの中で、自分が受け入れられる真の場所を見出さねばならないのです。

 

私たちは(自分の将来を)思考をすることによって、期待が生み出されます。もし思考することが乏しいならば、私たちの人生の可能性も非常に減少します。神に受容され愛されているという保証があるとき、私たちは神の暖かさを感じ神を信頼することができます。それによって私たちは、神の偉大なご性質を探り、自分の真のアイデンティティーを発見する力を得るのです。自分のアイデンティティーが鮮明になってくると、期待感が高まります。即ち、自分の可能性に対する新たな思いと、神に対する偉大なる期待を抱かせる新たな思いへと私たちは導かれるのです。

聖霊は、私たちを理論だけの状態から実践へと巧みに導いてくださいます。そして、そのような真理の実践は新たに神を経験する機会を創りだします。それは真理が私たちを神との出会いへ必ず導いてくれるからです。すべての人間関係は実際にお互いをよく知り合う経験なくしては、初め出会った時点から深まることはありません。すべての人間関係は、出会いと共にお互いをよりよく知り合う経験を重ねることによって成長します。この世で真理であることは御国においても真理です。私たちは聖霊の働きなくしては、継続する真の人間関係を与えられることはありません。

 

今まで自分が持っていた「思いの想定 assumption 」を考え直すならば、聖霊は私たちが真理をしっかり胸に抱くように導いてくれます。その真理は、キリストの内にある自分自身が何者であるかを受け入れる自由を私たちに与え、聖霊が私たちの周りに作ってくれる「自由の領域」に足を踏み入れさせてくれるのです。

キリストの命の中に私たちのための新しいスペースが開かれます。私たちの成長の次の段階は、今自分はどのような者であるか、そしてキリストにあって次にはどのような者になるのかについての幾つかの新しい考えを持つことから始まるのです。(終り)

 

編集者より

今回、突然私たちのサイトが消えてしまい、その復旧に数日掛かってしまいました。この間、皆様からご心配いただきましたことを心から感謝し、又、深くお詫び申し上げます。

                 坂 達也・柚実子


03 11月

今回の日本旅行を終えて       坂 達也            2015年11月3日


今回の日本旅行を終えて

 

坂 達也

 

去る9月25日より私たち夫婦は、私たちの所属する教会の牧師であるベンジャミン・イスラエル・ロビンソン牧師と共に日本を訪れました。そして最初の10日間の日程を終えたロビンソン師が帰国した後、私たちだけでいくつかの教会を訪問させていただきました。今回はその御報告方々、日本に対する率直な感想を書かせていただきます。

 

一言で云えば、今の日本には過去になかった程「天が開かれている」ことを強く感じました。霊的空気が一新されています。それを云えば、20年前私たちがグルーバー師夫妻と共に日本を訪れた頃、あるいは最初にマイク・ビクル師の教会から始まった24/7の礼拝と祈りのムーブメントが日本に導入された初期の頃(約10年程前)でも依然として、日本は霊的に非常に重い空気に覆われていて、そのムーブメントは導入不発に終りました。

その頃の私たちは、帰路に着くべく日本の空港から飛び立った時は、その霊的暗雲の圧迫感から如実に解放され、いつもホッとしたことを思い出します。

 

私は今回日本に来て「その後わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ・・・」とあるヨエル書2:28のみ言葉を何度も思い出しました。特に霊が注がれるのは、信者ばかりではありません。日本のすべての未信者の上にも注がれていることを強く感じました。日本人は今、知ってか知らずか、多くの人が霊的なものに飢え渇いています。

ヨエル書に書かれているこのみ言葉は終末のイスラエル人を指すと言われますが、今はイスラエル在住のユダヤ人だけではなく、世界中に散ったイスラエル人「ヤコブの残りの者は多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。・・・」と書かれているミカ書5:7、8が起こり始めていると信じます。そして私は、日本の国と日本人がこれに含まれていてもよいと思ったのです。

 

さて、今回私たち三人は最初に福島市にある蓬莱キリスト教会(佐藤経夫主任牧師)を訪ねました。この教会は約10年前にアメリカのカンサスシテイーにあるマイク・ビクル師の24/7のミニストリーを最初に日本に取り入れた教会の一つですが、その後24時間ではないにしろ、ビクル師の唱える「霊的な祈りと賛美」が着実に続けられ実っている教会として、今では日本を代表するすばらしい賛美の教会の一つです。この間にもう一つの柱である「霊的な弟子訓練」が行き届いた結果、現在教会員が200人を優に超す教会に成長し、今後益々発展が期待される教会の一つです。

その後、今回の訪日目的の中心である東京の新宿シャローム教会(稲福エルマ主任牧師、富田慎吾牧師、真島誠牧師)を訪ねました。この教会はご存知の通り、三年前から24/7のミニストリーを始め、今では若い人たちを中心に「24時間の賛美と祈り」を続けるだけでなく、このミニストリーそのものを日本中に広め定着させる役割を、特に富田牧師が果たしつつある姿を拝見しました。現在この教会が日本を霊的にリードする役割を果たしつつあることを知り大いに励まされました。

又、シャローム教会から推薦いただいた二つの若い世代を中心に発展途上にある教会として、東京渋谷にあるキングダム・シーカーズ(久保田文吾牧師)と大阪のエレベート・チャーチ(佐々木拓也牧師)を訪ねました。その理由はロビンソン牧師が38歳というアメリカの代表的な若手牧師であることと、リバイバルへの関心が高いこと。この若い世代が最後の世界的リバイバルの中心的リーダーシップを取ることが期待されているからです。

しかし一方で今回は、今迄リーダーとして活躍して来られた多くの中年から老年のリーダーの方々も、老いて益々盛んに若い世代を力強く指導しておられることを知りました。このように年長者と若手が一つとなって、これから主が起こされる最後の大リバイバルにおいて日本が世界の先駆けとして用いられ、そのリーダーシップをとる意気込みを感じ、又見ることが出来て、大変勇気づけられた次第です。

 

日本の教会の現状

 

しかし日本全体を見る時に、残念ながら日本では今、真の霊的なメッセージが語られていないように思います。率直に云って、日本のクリスチャン信徒は総じて霊的な飢餓状態にあるように思えます。多くの教会は形だけの聖日礼拝を守ることに精一杯で、霊的な食物を提供するという教会ミニストリーにおける最も重要な義務を怠っているように見えます。すなわち、今の日本の教会には真のリーダーが枯渇していて、キリストの教会としてあるべき真のリーダーシップがほとんど存在していない・・・そのように思えるのは私だけでしょうか。

現に日本では各地で、自分が行きたいと思う真に霊的な教会がないという理由で、教会に行っていない人、あるいはそのような教会があればそこに移りたいという希望を持っているクリスチャンが大勢いるように見受けました。今回は特にそれを痛切に感じました。そうであるとすれば、それにはどうしたらよいのでしょうか。

 

私たちの今後の計画

 

そこで今私たちは、下記のような二つの企画を話し合っております。

その一つは、ロビンソン師による日本でのミニストリーとして、来年から日本で真の霊的リーダーを育てるためのセミナーを開くように導かれています。その点彼は、既にアメリカに於いて、具体的にそのような牧師訓練のためのインターネット神学校を建て上げており、実際にそのための特別修養会等を開くこと等によって、牧師養成の具体的な効果を上げている実績があります。

 

もう一つの計画は、日本人向けにインターネットを通して私たちによる一つの「霊的な教会」を建て上げることです。これは私たちのミニストリーWWGMの一環として前から構想を練っていたものです。

それは毎週インターネットを通して生中継(あるいは録画DVD)によって、私たちの教会 LHCC での礼拝音楽の実況とメッセージをお届けすると共に、その後で、実際に少なくとも月に一回は私たちのこちらの教会と日本各地で参加を希望する「私たちの家の教会」をスカイプ等で結び、オンタイムで祈りと癒しのリクエストに応じることが出来るようにする。加えて、年に数回は実際に私たちが日本に出向くか、あるいは希望者にこちらに来ていただいて、個人的面談、カンセリングと交わりのための集会を持つというアイデアです。

このアイデアは、勿論「地方教会」としての完全な役割を果たすことは出来ませんが、出来るだけそれに近い形で、それに代わるものを、たとえ微々たる力しかない私たちでも実現出来る可能性があると思っておりますがいかがでしょうか。それには最近のめざましいインターネット技術を駆使する必要がありますが、いずれにしても、実現不可能ではないと考えております。

 

最後に、今回の旅行を通じて、私たちWWGMのミニストリーが私たちの予想以上に多くの方々に読まれており、毎週のメッセージを心待ちにしておられる方々が大勢おられることを知り、大変励まされました。心から御礼申し上げます。

それでは皆様からの忌憚のないご意見をお待ちしております。(終り)