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Walk With God Ministries


28 09月

主の臨在の中で生きる    ポール•キース•デイビス & ブラッド・マクレンドン対談     2014年9月28日


主の臨在の中で生きる

ポール•キース•デイビス & ブラッド・マクレンドン対談

(WhiteDove Ministries Webinar #34より抜粋)

 

ポール•キース•デイビス:ブラッドさん、あなたは主の臨在の中に留まるために毎日をどのように始め、どのように過ごされているのですか?

 

ブラッド・マクレドン:朝起きて私が先ずすることは、主に「あなたは今日、何をなさりたいですか?」とお聞きすることです。それが最初の質問です。それに対する主の答えは、過去数年間ずっと「今日わたしはある人に愛を注ぎたいのです。」でした。私の心は好奇心で一杯になり「それは誰ですか?その人と私は出会うのですか? それは何処でですか?」とお聞きます。そこから主と私との会話、コミュニケ―ションが始まります。それは私が先ず主にお聞きすることから始まるのです。もし、あなたの奥さんがあなたに話をしてくれないと、あなたは疎外されているように感じますね。でも奥さんと話をして仲良くしていると、とてもうれしくて元気が出てきます。私にとって朝一番に主と会話をすると、そこから一日中絶え間なく続くコミュニケーションが始まります。朝起きてすぐに主の御顔を仰ぎ見ないならば、私の頭はすぐに他のことを考え始めてしまい、主との会話をしないままになってしまいます。すると 私は一日の歩みを主と共にできないことになってしまいます。

 

私はキャサリン・クーマンの人生を調べるのが好きなのですが、彼女は「あなたはどのくらいの時間、神に祈るのですか?」と聞かれたとき、「私はいつも祈っています。I pray all the time.」と答えたそうです。そして「そんな時間をどうやって作るのですか?」という問いに対して、彼女は「ショッピングに行くときも、どこに行っても、何をしていても私は異言などで祈っています。」と答えました。ちょっとクレージーに聞こえますが、私たちはこのようなシンプルさを忘れてしまっているのではないでしょうか。このようなシンプルな鍵があなたを主との親しい交わりという栄光の中に入れてくれるのです。

 

PK:祈り方の間違ったモデルがあるのも問題ではないでしょうか。「祈りとは大声で叫ぶものである。」とかです。確かにそういう場合も時にはあるとは思います。でも夫婦の会話でも「朝ごはんを作ってください。」とかは普通に静かに話しますよね。妻が夫に話すように、私たちも主にむかっていつも普通に会話をすればいいのです。私たちはいつも叫び求めるような乞食ではないのですから。

 

ブラッド:私たちが毎日持つべき主との霊的な生活は、そのようなものです。弟子たちがイエスに何か質問するときに始まる会話は、 私たちの祈りの一つの型です。イエスと弟子たちは共に寝て、朝共に起き、話をしながら歩き始めました。祈りは主と共に生きるライフスタイルなのです。

 

PK:これに関する本で一番よいのは、ブラザー・ローレンスの「敬虔な生涯 The Practice of The Presence of God」だと思います。それは意図的に主の臨在を常に意識するということで、無言のときも 多いのです。彼は主の臨在に接続されている、即ち常に主がそこにおられることを知り、それを意識して主とつながっているということです。お皿を洗っているときも、床を掃く時も、何をしているときもその意識を持つのです。そのような習慣の力は自分の内に訓練によって養っていくことができます。

 

ブラッド:もし主が語られるならば、それを聞く用意が彼には常に出来ていたということですね。主はいつか語られることを知っている、でも語られても語られなくても、それはどちらでもかまわい、という境地ですね。

 

PK:私たちは「祈りとは即ち、嘆願だ」と間違って考えているところがあります。一日中主に嘆願し続けることはできませんが、一日中コミュニケートしていることは可能です。主はここにおられることを知り常に主を意識していることです。私は御ことばが大好きです。御ことばによって私は天とコミュニケートします。私たちは24/7、主の臨在を意識するようになれると思います。キャサリン・クーマンはそれをしたのですね。

 

ブラッド:その通りですね。

私は最近ある人からメールをもらったのですが、それは「今は皆が祈り込まねばならない(プレスインする)時だ。」と言う内容でした。しかし「祈り込む」というと、残念なことですが、ともすればそれは密室の祈りに集中し神に嘆願し続けることだと受け取られてしまい、それによって疲れ果ててしまう人が多いのです。私たちはそのようなマインドセットを変えて行かねばなりません。私たちは主のもとに行き、嘆願に嘆願を重ねて、その結果が得られずに疲れ果てて戻る、というような主との関係にあるのではないのです。そのような祈り方をするとき主の御声が聞こえないのは、私たちが聖霊によってではなく、自分自身の意志によって動かされ祈っているからです。主の祈りに「御こころが天で行われるように地でも行われますように」とあるように、私たちは主の御こころを知らねばなりません。

 

私はこのことをモレビアンフォールのワーシップ・センタ-に始めて行ったときに学びました。私はそこで大声で激しく祈っていました。(私たちは自分が祈っている声を聞くのを楽しむことがありますね。)その時主が「あなたは何をしているのですか?」と言われたのです。それはまるで主は私がずっと祈っていたことなど、全然聞いておられなかったような感じでした。主は「あなたは、わたしが祈ることを祈りたいですか?」と聞かれました。「そんな機会が与えられているのですか? そんなことが出来るのですか?」と私は心底からびっくりしました。私は「はい、したいです。」とお答えしました。するとそれから3時間、主は一言も話されませんでした。(笑)ですから私もそこに黙って座っていたのですが、主はそれを通して 「自分の意志で祈ること」から私を解放してくださったのです。3時間後に主が語られた時に、私はそれをはっきり聞くことができ、その通りに祈りました。そしてその祈りが聞き届けられたことが私にはわかりました。

 

いつもそのように祈らねばならないと言っているのではありません。けれども私たちが天におられる主の御こころを知り、それをこの地で祈ることができるほどに、主との親密な関係に入ることができることを、主は私たちが知ることを願われているのだと思います。

 

PK:教会が失った霊的遺産の一つに、黙想の祈り(contemplative prayer)があると思います。コンテンプレイトするとか、メディテイトする(黙想する)というと、人はすぐに「それはニューエイジだ」と決めつけますが、ダビデはニューエイジの出現よりずっと前にメディテイトしていました。私は「メディテイト 黙想」に関する聖句を14箇所見つけました。「神のすばらしさをメディテイトせよ」とか「神のことばをメディテイトせよ」とか「神のご性質をメディテイトせよ」とかですね。問題は私たちが静まってじっとしている訓練ができていないということです。静かに3時間しているというのはとても困難ですね。私は以前よくコンテンプレイトの祈りをしていました。これからも又、したいと思っています。

ピリピ4:6、7に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いを神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあるように、私たちはすべての心の思い、願いを神に祈ったあと、平安を頂きます。

その平安の中で「主を待ち望む wait upon the Lord」のです。待つことはやさしくありませんね。これは私が経験した霊的訓練の中でもっとも難しいものでした。ディサプリン(しつけ、訓練)ですね。様々なことが頭に浮かんできてしまうのですが、真にこころが静かになると、生きた御ことばによって「知性、意志、感情、想像」というたましいの部分と霊とが切り離されていきます。

 

終末の教会が持つべき重要な奥義の一つは、コンテンプレイトの祈りだと思います。それによって、ヴィジテイション(天からの訪れ)やヴィジョンを受け、神と一致することができるのです。ブラッドさんのモレビアンフォールでの体験は、まさにそのことだと思います。あなたはこころを静め、神と一致したのです。

 

「コンテンプレイトな祈りをどのようにすればいいのか」という質問を受けることがあります。それは一人ひとり違うのです。私の場合は、いつもの椅子に座り、出来るだけ何も考えないようにします。どうしても頭の中にいろいろな思いが浮かんでしまうときは、「ジーザス、ジーザス、ジーザス」とずっと繰り返します。そう言っていると他の事を考えなくてすみ、私の思いもイエスに焦点が合っていきます。これが私のやり方ですが、そうする必要はありません。どういうやり方であってもコンテンプレイトの祈りをすることによって、私たちは霊的力を受けます。これからこの祈りを人びとに教えて行かねばならないと思います。

 

ブラッド:同感です。私たちは神と一致せねばなりません。不思議なことですが、この祈りに入ると、あなたはすでに主に向いているのです。あなたは意識的に主と向きあうことを選びとったわけです。コンテンプレイトの祈りが終ったあと、あなたは「何も起らなかった」と思うかもしれませんが、実際にはあなたはその中でトランスフォームされたのです。その「実」は後になってからあなたの言動の中で表されてきます。祈りの中であなたは主から何も聞かないかもしれませんが、あなたの霊の中に主が何かをインプットしてくださるのです。

 

イエスとの親密な関係を持つことが、今の時代のクリスチャン生活にとって実に「かなめ」となります。これから起ってくる出来事の中で、自分が主とどのような関係にあるのかを、一人ひとりがキチンと認識せねばなりません。即ち、自分と主との個人的な関係をしっかりと持たねばならないのです。

 

PK:これからはどうしてもある「分離」が起ると思います。聖書にも明らかですが、真理があれば偽りもあります。エデンの園には二本の木がありました。カインとアベルは共に主に捧げものをしたかったのですが、一人は自分の業により捧げ、もう一人は啓示により捧げました。イエスは同じ畑に麦と毒麦があると言われました。 毒麦は麦と同じように見えても、その中に命はないのです。今日ここで話したことの中には、「宗教」とか「伝統」にとっては不愉快なことがあると思います。私たちがキリストの霊とそれ以外の霊とを区別する物差しになるものについて話したからです。

第二コリント11章には「別のイエス 」「異なった霊 」「異なった福音 」と言うことばがありますが、「異なった霊」はまことの霊に対して必ず激しく戦いを挑んできます。それは、黙示録で「ニコライ派の教え」と言われているものであり、聖職者が一般信者をコントロールする霊です。一般信徒がヴィジテイションやヴィジョン、啓示を受けて霊的力を持つことを許さない霊です。必ずこの戦いがありますから、私たちはその備えをせねばなりません。キリストの花嫁はその戦いに備えていると思います。

 

ブラッド:戦いが激しいほど、天からのヴィジテイションも頻繁になると思います。戦いが始まり毒麦が勢いを持つ時、御国がすぐそこまで来ていることを私たちは知るのです。その時天の御使いたちがやってきて、大いなる収穫が始まります。それはなんと栄光に満ちた時となることでしょうか。人間の目には恐ろしく暗い日々のように見えるかもしれませんが、私たちが上にあるものに目を留め続け、神の視点から物事を見るならば、歴史上最高にすばらしい時となるのです。(終)


21 09月

金の鉢に入れられる祈り     ボビー・コナー    2014年9月21日


金の鉢に入れられる祈り

 

ボビー・コナー

 

 

 ヨハネ15:16に「..また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」と書かれていますが、神の御霊は今、そのように非常に高レベルのとりなしの祈りの油を解き放ち注いでおられます。世界中の聖徒たちが祈りの勇士として召し出され動員されており、祈りの集会の大きなうねりが様々な場所で始まっています。これらの祈りの集会の中には、卓越した革新的な若者によって導かれているものもあり、彼らは「地上に神の御国を確立すること」だけを目標にしています。喜ばしいことは、それと同時に年配者からのとりなしの祈りも立ち上っていることです。

 

神の御座の前では祈りが大いに尊ばれていることを悟る

 

新たなる祈りの油注ぎを受けた私たちが、祈りに関して御ことばが何を教えているかを正確に知ることは極めて重要です。特に、私たちの祈りが天の領域に上ったとき、どのように取り扱われるかを知ることは 重要です。

黙示録5:8「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」

 

私たちの祈りは、天の小羊の御座の前で大変重要な位置をしめています。それは大切にされていて、金の鉢に入れられています。私たちの祈りは非常に麗しく芳香を放ち、大きな価値を持ち大変貴重なので金の鉢に入れられているのです。信仰に満ちた祈りの芳香は小羊の御前に絶え間なく立ち上り、御座を麗しい香りで満たしています。それは神の御前で行われているすべてのワーシップと崇拝の中で欠くことのできない大切な要素となっています。

 

熱心な祈りには大きな力があることを信じる

 

私たちの祈りがどれほど事を成し遂げるかは、全く驚嘆に値します。私たちの祈りは実際に全能の神の御手を動かすのです。(エレミヤ33:3)事実歴史上、命運をかけるような危機的状況において、多くの場合、祈りがその結果を生み出したのです 。キリストのからだとして私たちは、今は歴史的に大変重要な変革の時であり、又、重大な岐路であることを認識せねばなりません。私たちの祈りには大きな力があることを信じて、金の鉢をとりなしの祈りで満たすために充分な時間を掛けなければなりません。

聖書は神の慈愛に満ちた貴い約束で満ちており、神が喜んで祈りに答えてくださるという約束が数えきれないほど書かれています。神の御ことば私たちに次のように約束しています。

「義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)」

主イエス・キリストは福音書の中で、 私たちの望むものは祈れば、すべてかなえられると何度も保証しておられます。

「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)

私たちの祈りは、実に私たちが想像する以上に事を成し遂げるのです。「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことができる方に..」(エペソ3:20)

 

サタンの嘘を見抜く

 

私たちの魂の敵であるサタンが、私たちの祈りを妨げるために、策をこらして容赦なく攻撃してくることは間違いのないところです。サタンは私たちが全く祈りを止めてしまうようにと狙っています。彼の一番の作戦は何でしょうか? それは神を中傷することです。「神はあなたの祈りなど聞かない。」というような冒涜的な嘘によって、私たちの真実なる王を糾弾するのです。サタンが話すときはいつも、例外なく、嘘であり偽りです。(ヨハネ8:44)嘘とは真実の正反対のものですね。ですから、敵が「あなたは神に祈りを聞いていただけるほど重要人物ではない」とか、「あなたは祈り方を知らない」とか、「過去に犯した罪のゆえにあなたはもう神の憐れみや恵みを受ける資格はない」とか、「神は無関心で不真実で愛がない」とか言うときは、即ち、真実はそれと全く反対であり、それはあなたの祈りが天の法廷で聞かれているということなのです!

 

あなたは失格であるとか、無視されているということは絶対にありません。それと全く反対に、あなたが信仰で神の御ことばの貴い約束に立って祈るとき、その祈りには力があり、効力があります。あなたが祈る度に、例外なしに、あなたは天の軍勢を動員するのです。あなたが疑いや不信の声を聞く時は、それが糾弾するサタンの声であることをこの際はっきりと識別して、彼を叱責し、否認し、その場から追い出してください。

 

力強い天使の助けを歓迎する

 

次のことに確信を持っていただきたいのです。それは、あなたの祈りは天で聞かれています。聞かれて金の鉢に大事に入れられるばかりではなく、それは大事に守られて、力ある聖なる御使いによって遂行されるのです。

黙示録8:3-5にこう書いてあります。「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。」

絶対に忘れないでください。あなたの祈りは必ず遂行されます。祈りは、常に、間違いなく必ず天を動かすのです。

第二コリント6:2「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」

 

祈りは必ず結果を生むことを信じて期待する

 

地上であなたの口から祈りが発せられると、それは神の御座の前に立ち上り、天は直ちにそれに応答します。時として地は揺り動かされます。例えば、弟子たちが祈ると実際に地震が起りました。

使徒行伝4:31「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」

 

使徒行伝12章の祈りは、投獄されていた使徒ペテロの生死にかかわるものでした。ヤコブは既に剣で殺され、ペテロも同じ運命に直面していました。しかし聖書は「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた、、(使徒12:5-11)」と記しています。神に出来ないことはないのです。私たちの祈りは神の御手を私たちのために動かすのです。真に、祈りはパワフルな力です。

私たちの祈りは地からの応答を招くだけではなく、天からの激しい応答をも解き放ちます。上記の黙示録8:3-5で、私たちの祈りが天から地にむかって投げ返されるとき、いなずま(神の力を表す)が起ると書かれています。雷鳴やとどろきは神の御ことばが天から解き放たれることを意味しています。神の御声が語るとき、全世界が揺り動かされるのです。(出エジプト19:10-20)

 

信じて奥義を見出せ

 

神の御手を動かすのは信仰の祈りです。そうです、神にはすべてができるのです(ヨブ42:2)。創世記18:14に「主に不可能なことがあろうか?」という問いがあります。その答えは「No! ない!」です。私たちが信仰の祈りの領域に入るとき、神に不可能は絶対にないことがわかります。神は私たちが求めれば答えてくださると約束されています。このパワフルな約束はエレミヤ33:3に書かれている通りです。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。Call to Me, and I will answer you, and show you great and mighty things, which you do not know.

 

この「大いなる mighty」という言葉は「囲まれた fenced in」という意味です。それは「切り離されて cut off、立ち入ることができない inaccessible」という意味合いを持っています。ですからエレミヤ33:3は、 隠されていたものが祈りによって見えるようになることを私たちに約束しているわけです。神は私たちに、又、私たちを通して顕し啓示してくださることを沢山持っておられることがこれによってわかります。しかし私たちが信仰の祈りを持って主を呼ばなければ決して受けとることはできません。神は今まで隠されていたものをあらわすことが出来ます。神はご自分の友にそのような奥義をあらわすことを願っておられるます。それはご自分の民を必ず助け守ることを決意されているからです。

申命記29:29に「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」とあります。神は私たちに教えたい秘密を持っておられます。しかしそれらは祈りによってしか手に入れることはできないのです!

愛する皆様、絶対にあきらめないでください! 神に叫び続けてください! 答えは今あなたのところに向かっています。神は私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて成すことが出来るのです。(エペソ3:20)ハレルヤ(終)

Bobby Conner EaglesView Ministries
Email: manager@bobbyconner.org


12 09月

主の栄光を見上げつつ、主と同じ姿に変えられる 坂 達也 9月12日


主の栄光を見上げつつ主と同じ姿に変えられる


          坂  達 也       2014年9月12日


最近主から特に強く示されている御言葉があります。それは2コリント3:18です。但し、日本語訳の新改訳と新共同訳では一番重要なことが抜けている点を先ず指摘致します。それはどちらの訳も「鏡のように主の栄光を反映させながら」(新改訳)、あるいは「鏡のように主の栄光を映し出しながら」(新共同訳)と訳してはいますが、肝心な「見上げる、見る」
Beholding as in a mirror the glory of the Lord という言葉が抜けています。


そこで口語訳を見てみますと、「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(二コリント3:18 口語訳)となっており、「見つつ」が適切に訳されています。
このみ言葉が今の最後の時代にいかに大切であるかということを今回は強調させていただきます。

なぜなら、ヨハネ17:22-24に「22またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。・・・・・24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったもの(私たちクリスチャン)をわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが(いつも)見るようになるためです。」と書かれているからです。

上記から分かることは、第一に私たちは既に主の栄光を与えられていることです。すなわち、私たちは霊的には神の御子と同質であるのです。そして、主の栄光の力とは、ものすごい超能力の力であることを真に理解し確信し、納得する必要があります。それによって、私たちは今、その力を信仰で行使する時代に入ったのです。


次に、主が父に願ってそれが許されているように、私たちは今既に天の御座に主と共に座っているという事実をはっきり認識することが、今の私たちにとって最も重要なことの一つであるからです。主の栄光が与えられていなければ、私たちは主と共に父の右座に座ってなどおられません。私たちに主の栄光が与えられているということは、私たちはすること、なすことすべて主と同じになれると言うことであり、信仰でそうならなければならないのです。
言ってみれば、私たちには既に住まいとしてこの上ないすばらしいセカンドハウスを持っているのです。皆さんは、その天の別荘をいつも訪ねて主と共に過ごす時を楽しんでおられるでしょうか。私たちクリスチャンのそれぞれが「主の住まい」であるならば。主の天の住まいは私たちにとっての「住まい」であるはずです。

その天の住まいに行くことが、すなわち、私たちが「主を見上げ、見つめ、御顔を拝する」ことでなくて何でしょうか。それだけではありません。最近は霊の身体で天に行った人や、時々行ったり来たりしている人は意外に多いようですよ。

私たちが主の栄光を既にいただいているのなら、この世にない超自然のパワーを既にいただいていて、例えば、この三次元+時間の世界における「距離」は超越できるのです。ピリポが一瞬にして別の町に移されたように、私たちは天に瞬時に行ったり、あるいは地上で一瞬にしてある地点からある地点に移動できるのです。イエスが水の上を歩いて来て弟子たちの小船に乗り込んだら、あっという間に向こう岸の目的地に着いた―イエスが用いたその力が私たちにも使えます。

モーセはホレブの山で、水も飲まない40日断食を二回も続け、昼夜主を見上げて過ごしました。彼ほど主を見上げて時を過ごした人はいないと思います。そのモーセの顔は主の栄光が反射して輝いていました。まさに2コリント3:18に書いてある通りです。ですからこそ、モーセは内から変えられ(トランスフォームされ)何にでも耐えられるような、完全に自分に死んで主に100%仕える超人になったと思います。私たちもそうならねばなりません。そのためには主をもっともっと見上げればよいのです。

主に似た者になる

私たちの最終目標は「主に似た者になる」ことです。ところで、この主に似た者になるという言葉ほど曖昧で、誤解を招く言葉は他にないと思います。「似た者」とは「どれだけ似れば」よいのですか―恐らく宗教的な人たちは、私たち人間が全くキリストのような人になることはできない、そうなれると口にすることすら神への冒涜、不遜であると言うかもしれません。
しかし、上記の聖書に何と書いてありますか。「父と子、と私たちが一つとなる」ことが書かれています。一つとなると言うことは完全に同質、同じものが一体となることではないでしょうか。それには父と子は同質・完全一致であっても、私たちは多少でも、いやかなり「似てさえいればよい」のでしょうか。そうではないと思います。全く同じものにならなければならないと思いませんか。


そんなこと不可能だと思わないで下さい。確かに人間の力では不可能でしょう。しかし全知全能の神に不可能はありません。聖霊が私たちをそのように変えて下さると言うのですから、それに逆らわずに素直に信仰で信じれば、そうなれると主が言われるのです。
この2コリント3:18で「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と書かれている部分は英語で to the same image of
the Lord で imageのギリシャ語はstrong #1504 eikonです。この場合、特にキリストと「同じイメージ」と言うのは
「似ている」というより 「全く同一」という意味のようです。

さて最後にもう一つ次の聖句をご覧下さい。
1ヨハネ4:15 「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。17このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日(これから来る終末の時代)にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

最後の下線部分の英語は because as he is, so are we in this life.です。ここでも私たちがキリストの在り姿と私たち一人ひとりの在るべき姿が全く同じであることを主は期待しておられることが分かります。しかもそれが「この世にあって」の話であることにご留意下さい。

以上のことから明らかなことは、私たちが主を心から愛をもって見上げる時、あるいは、御顔を拝することによって、私たちの内的な資質が主と同じ資質に変えられるということです。そうであれば、後は私たちがどれ程真剣に、熱烈なパッションを持って主を見上げ、追い求めるかに掛かっています。
ついては、主が一つだけ嫌われることがあります。それは、なまぬるい者、なまけ者は、主が口から吐き出したくなる程嫌われることです。

私たちは心から「・・・恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」とパウロが言うように、主を益々愛し、賛美しつつ、毎日出来るだけ多くの時間を「主を見上げて、見つめる」ことに費やそうではありませんか。(終り)


07 09月

キリストに似る者となる   フランシス・フランジペン(In Christ’s Image より)  2014年9月7日


キリストに似る者となる


フランシス・フランジペン(In Christ’s Image より)


今日は、私たちの教会の最も中心的なヴィジョンを話します。それはキリストに似る者となることです。私たちがキリストに似る者とならないならば、教会の目的はなくなります。神は私たちの古い性質を抑制する「宗教」を与えてくださったのではなく、私たちに新しい性質をくださったのです。新しい命、即ちキリストの命そのものをくださったのです。パウロはガラテヤ2:20で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と言っています。イエス・キリストがあなたのうちに生きておられるかどうか、吟味してみてください。教会におけるすべての訓練(活動、ヴィジョン、適応、学びなど)の目的は、キリストを私たちのうちに解き放つことによりキリストが私たちを通して生きることにあるのです。私たちがどのくらいキリストの霊をこの世に解き放つか、自分の動機、自分の思い、自分の信仰をどれだけキリストに明け渡すか、そして私たちがどれほどキリストに似る者になるか、が教会の成功度のバロメーターなのです。人数ではありません。何人がキリストに似る者となるかが、教会の成功を測るポイントです。

真のリバイバルの証は、人々が倒れるとか、飛びはねるとか、転げ回るとかではありません。教会の建物を出たときあなたがどのくらいキリストに似る者になっているか、なのです。それによってあなたがリバイブされたかどうかがわかります。リバイブ(生き返る)するのは、あなたの中のキリストの命だからです。キリストが私たちの命なのです!キリストを顕すこと、すべてをキリストに明け渡すという唯一のゴールにフォーカスすること、それこそが人生の他のすべてのゴールをも達成させる道です。パウロがピリピ3章に書いていますが、この箇所は私の聖書では「人生のゴール」という見出しがついています。そしてそれは、「イエスを知りイエスに似る者となることである」とパウロは言っています。彼は信仰生活を始めたとき、多くの教会を設立しようと計画したわけではありません。新約聖書の三分のニを書くつもりもありませんでした。使徒になる計画もありませんでした。彼の唯一つのパッションは、「イエスを知ること」でした。

(彼はピリピ3:2で犬に気をつけるように警告しています。悪い働き人、肉体だけの割礼の者に気をつけるように言っています。一世紀の犬は今のように可愛いペットではなく、ゴミ捨て場をうろつく動物でした。エルサレムの12の門の一つはゴミの門で、その門の外はゲヘナと呼ばれゴミが燃やされていました。犬はそのゴミをあさって生きていたのです。教会にもゴミばかりあさっているクリスチャンがいます。何か悪いことがないかといつも鼻をぴくぴくさせているのです。腐敗したことはないか、不完全なものはないか、何か失敗した者はいないかといつも嗅ぎまわり、それを食べて生きているのです。そのようなクリスチャンには、どうかならないでください。神はあなたのためにもっと良いものを備えていてくださるのです。)

ここでパウロは「宗教」ではなく、キリストとの真の関係について話しています。
彼は自分の経歴を述べ始めます。「自分はパリサイ人の中のパリサイ人、ベンジャミン族の出、律法に熱心で非難されるところはなかった...」と自分の血筋の良さを書き並べたあと、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」と言っています。この「イエスを知りたい!」というパウロの情熱こそが、彼が「神からの約束」を得る推進力となったのです。もしあなたがイエスを知る情熱をもたず、キリストに似た者になることもせず、神からの約束の成就だけを願うならば、それはなかなか成就しません。キリストに似た者になることを人生の最大の目的とすることが必要なのです。

この教会はただ「人々」を求めているのではなく、「弟子」を求めているのです。
「弟子は師以上には出られません。しかし、十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカ6:40)」とイエスは言われました。私たち弟子は、師であるイエス・キリストのようになれるのです。これがこの教会のゴールです。イエスを知ること、イエスのようになること、そのための情熱を持つこと、それが今日の話のテーマです。それはあなたが生きているこの世界でキリストのようになることであって、次の世に於いてではありません。次の世ではすべての人が完全にされますから、それは難しくありません。でも神は今ここで私たちがキリストに似る者となることを意図されているのです。即ち、あなたの仕事場でキリストのようなること、あなたが住んでいる町でキリストのようになることです。もし私たちがそれを目指して進むならば、神の約束がそれに添えて成就されるのを私たちは見るのです。私たちは神の約束を得ようと進んでいても、なかなかそこに到達出来ないと感じます。それは私たちが「神の約束は他のことと関係なく独立して存在し、成就するものだ」と勘違いしているからです。そうではなく、神の約束は私たちがイエスとの縦の関係を確立するとき、私たちの心がキリストを知ることを愛しキリスに似る者となりたいと情熱を持って進むときに、その「結果」として、神の選ばれた時に成就されるものです。

世界の国々のことを考えてみましょう。彼らが救われることを私たちは願います。すべてのものは膝をかがめ、すべての口が「イエスは主である」と告白して神を誉め称える時が必ず来るのです。イスラム教国であっても、共産国であっても、ヒンズー教国であっても、ある時にすべての人が「イエスは主である」と告白するのであり、それが真理でありリアリティーなのです。(拍手)現在と、それが成就するまでの間の期間に、教会はどんどんと今までになかったほどキリストに似る者となるのです。この約束が成就されるために、私たちはキリストに似る者にならねばなりません。第二コリント1:20でパウロは「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって、『アーメン。』と言い、神に栄光を帰すのです。」と言っています。「ことごとく」とは、神がイスラエルにした約束、異邦人にした約束、イエスによってもたらされた約束、神があなたにされたすべての約束、これらすべての約束のことです。健全な結婚、子供たちの救い、繁栄、健康など、すべてあなたが神からの約束と信じるものは、「この方において『しかり。』In
Him(Jesus) are Yes
」となったのです。もしあなたが約束の成就に到達したいと願うならば、まずイエスにある成就に到達せねばならないのです。イエスにあって成就すること、即ち私たちを通してイエスが顕されることが、二番目の祝福の扉、即ち神の約束の成就の扉を開けることになるのです。

人々はあまりにも多くの場合、焦点を間違えてしまいます。例えば、「繁栄」ということに焦点を当てます。「神は私を繁栄させてくださる。私が蒔けばそれは何倍にもなって返ってくる、と聖書は約束している。」と言います。でもその人はやがて破産してしまいます。どうしてでしょうか。その人は「信仰」をもって行ったのではないのですか?
聖書の法則に従って行動したのではないのですか?
違うのです。そのような約束はそれが独立して成就するのではなく、イエスにおいて成就するのです。私たちの人生の中心にイエスがおられるならば、主は光と力を与え、すべてのものをあるべき姿にしてくださり、二義的な約束をも成就してくださいます。
「イエスにおいて」「神の約束は」「ことごとく」「しかり(Yes)」なのです。考えてみてください。すごいことではないでしょうか。

あなたはあなたの結婚が、仕事が、家族の救いが、その他すべてのことが巧くいくことを願っています。神はそのすべてをイエスにおいて「Yes!」だと言われるのです。喜びの叫びをあげようではありませんか!
御父は御子をそれほど愛されているのです。イエスはそれほど私たちのために代価を払われたのです。天の銀行にある約束を引き出すためには、私たちは「イエスにおいて
in Him」生きねばなりません。イエスの御ことば、命があなたの命となって、神があなたの内側を変えてくださることによって、栄光から栄光へとあなたを内から外へと変革してくださるのです。イエスに焦点を当ててください。

イエスを顕すこと、そのことにために私たちは存在し、創造されたのです。もし、あなたがこのことを真剣に求めるとしましょう。あなたが今、「私はイエスに似る者となりたいです。」と神に申し上げるとします。あなたが女性とか男性とかは関係ありません。イエスがあなたに新しい性質、徳性を与えてくださるのです。あなたが若くても年寄りでも、男性でも女性でも、あなたを通してイエスの力、聖さ、柔和さ、愛、信仰、徳が顕れ出るのです。

これを真剣に願う人がいますか? 「主よ、私はそれを求めます。」と言いますか?
そのような人にはある事が起ります。主はあなたを「イエスのようでなければならない状況」に導かれます。
「主よ、私はあなたのようになりたいです。嵐の中でのあなたのようになりたいです、でも嵐はやめてください。」「私はあなたのように人を愛したいです。すでにあなたのように愛の人となった人たちを。」「わたしは水の上を歩きたいです。一月のアイオワで。」一月のアイオワは凍っていますから、誰でも歩けますね。7月に歩けたら進歩ですね。(笑)

私たちのゴールはイエスのようになることです。あなたがそのことを真剣に望むならば、そしてあなたの中でイエスのようでないところが一つずつ減っていくならば、何かが起り始めます。前もって警告しておきますよ。戦いが始るのです。「私はイエスのようになりたいと言いました。教会という安全な場所でね。牧師が『イエスのようになりたい人はいますか?』と聞いたので、『はい。』と言ったんですよ。でも教会を出た途端、ひどいことが沢山起こりました。」とあなたは言うかもしれません。でもひどいことが起るのはすばらしい事なのです。それはあなたが前進している証拠なのです。あなたは「私はそんな風に前進などしたくありません。私は安らかにまどろんでいたいんです。」と言われますか?

何かが起り始めるのです。もしあなたが真剣ならば、主はあなたが立ち上がってキリストに似る者になるのを阻止しようとするものとの戦いに勝利できるように油注いでくださるのです。この戦いは神の御こころによって戦略的であり、計画、計算されていて、教会という安全な場所でまず調えられたあなたが、厳しい外の世界に出て行って勝利するように神が備えてくださったものなのです。そこで私たちはイエスのようになるプロセスを拡張していくことができるのです。教会の建物を出てからが実際の生活の場におけるリアルな訓練です。

あなたは将来の伴侶を求めているかもしれません。それは誰だか教えましょう。それはイエスです。「そういうことではなく、本当の誰かを望んでいるのですが….」と言われるかもしれませんね。でも、まずイエスと親しい関係になることがよい伴侶を見つける道です。幸せな結婚がしたい、よい家庭を作りたい、というあなたの願いは、まずイエスとよい関係を結ぶことから始るのです。主はあなたに最良の結婚を与えてくださいます。あなたがまわりのものに目を奪われることなく、まずイエスを目指して進むからです。

出エジプト1:11を見てください。「そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。」とありますね。12節には「しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、」とあります。これが主のやり方です。あなたがある戦いで苦しめば苦しむほど、キリストがあなたの人生にふえ広がるのです。イエスがあなたの魂にふえ広がれば広がるほど、あなたはキリストに似た者とされるのです。

私たちには少しばかりの苦難、少しばかりの戦いが必要なのです。小説でも「葛藤がない話は退屈」でしょう?
私たちの中には「退屈な筋書き」の人生を送っている者があるのではないでしょうか。でも大丈夫です。あなたがキリストに似る者になりたいと真剣になったときには、主は必ず葛藤、戦いを送ってくださいます。主はあなたがキリストのようにならねばならない状況の中に置いてくださいます。キリストに似る者になればなるほど、神の約束はあなたの傍に引寄せられてきます。神はあなたの心の願いを与えてくださるようになります。戦いの中にあってもあなたが主を喜ぶとき、あなたが聖なる手をあげて祈るとき、神に愛を捧げるとき、生け贄を喜んで捧げるとき、神は祝福を与えてくださるのです。神の力があなた近づいてきます。あなたがキリストに近づくからなのです。私たちの教会のDNAは、イエスに従う者です。イエスのように変えられる者です。今日、私たちは神からイエスのようになるチャンスと力を頂いているのです。特権です。

質問します。あなたは他の誰かでその人のようになりたいと思う人がありますか? 考えてみてください。政治家ですか? 映画俳優ですか?
私はイエスのようになりたいです。あなたもそう思われるならば、あなたはその決心をせねばなりません。「主よ、これが私の生き方です、私はこのために生まれました。」と。イエスのようになること以外は、すべて死の世界なのです。私たちの魂のすべてがイエスにむかって「Yes!」というならば、キリストの御性質が増え広がっていくのです。すべての人が心からこの決断をすることが、私の願いです。「私はイエスに倣う者になりたいです。今までそれ以下のことを神としていたことを悔い改めます。」と。

イエスを離れて私たちは何もできないのです。徳を高めることも、力を得ることも、神の約束を手に入れることもできません。ある人は他の人がしていることを真似てそれらを得ようとします。しかしイエスを内に持たないではそれは不可能です。朝イエスと共に目をさまし、夜イエスと共に床につく、私の潜在意識までもがイエスの思いで一杯になるように、私の目が健全でからだ全体が少しも暗いところがなく明るいようにと願います。

祈りましょう。「父よ、私たち一人ひとりが、イエスのようになることに熱心になりますように。私たちの人生のすべての面をあなたが取り仕切ってくださいますように。父よ、私たちがイエスに似る者となることをお願いいたします。キリストのような心の態度で回りにいるすべての人に接することができますように。自分はいつもそうではないことを告白いたします。あなたや私の心を満足させるような態度ではないことを告白いたします。キリストのような心をすべての面において与えてください。父よ、私たちがイエスを顕す者となれますように。アーメン」(終)


01 09月

時とシーズン (その2)    ボビー・コナー & ポール•キース•デイビス     2014年9月1日


時とシーズン (その2)

ボビー・コナー & ポール•キース•デイビス(2014 年7月19日収録)

 

PK:私は「Thrones of Our Soul」という本の中で、救いの段階、プロセスについて書きました。救いは神からのギフトですが、油注ぎを受けるには代価を払わねばならないと私は思います。「勝利を得る者」には多くの祝福、報いが与えられると書かれています。勝利者ということは、何かと戦って勝利するということです。これについて少し詳しく話してくださいますか。

 

ボビー:箴言23:23に「真理を買え。それを売ってはならない。」とあります。買うというのは、即ち、代価を払うということです。これから数日のうちに、数ヶ月のうちに、数年のうちに、真理はとても高価なものになります。真理を水増ししたり、変えたりする教会が増えてきます。聖霊が来るときは、完全な真理を告げます。ですから私たちは聖霊のメッセージが必要です。勿論、愛をもってすべての真理を語るのです。あなたが愛していることを相手が信じるならば、語れないことは一つもありません。

 

PK:今まで私たちはいろいろとミニストリーをしてきましたが、これからはまた一段レベルの違うミニストリーが始ると思います。荒野でモーセはイスラエルの民に水を与えるために、一度目は岩を一度打ちました。それは神の力のデモンストレーションでした。しかし2度目は岩を打つのではなく岩に命令するように言われました。モーセは神の指示に従いませんでしたが、これは神の権威のデモンストレーションになるはずでした。このことが今の私たちへのサインではないかと思います。例えば、今までは人々に手をおいて癒しを祈りましたが、これからは権威をもって病気に対してその人から去るように命令するようになるのではないかと思うのです。ブラナム師(William Branham)はそれを「スーパー・アノインティング」と呼んでいましたが、その油注ぎがくると聖霊が「何でも言いなさい。そのようになります。」と言われたそうです。それはすごいことですよね。神はシンプルな事でそれを証明してくださいました。ある日彼はリスを獲りに行ったのですが、リスが見当たりません。神が「リスが現れるように言いなさい。」と言われるので、そのようにするとリスが一匹現れましたので、それを撃ちました。神は「もう一度やってごらんなさい。」と言われるので、彼はまた「リスよ、現れよ!」と言うとまた一匹現れたので、それを撃ちました。彼は「これは幻かもしれない」と思ってリスのところに行くと、血を流したリスが本当にそこにいました。彼は「権威ある言葉の力」というメッセージを語っています。ボビーさん、あなたも権威ある言葉の証がありますね。

 

ボビー:はい。いくつかの証があります。一つは9年ほど前のことですが、アメリカの北東部で山火事がありました。一日に百万ドル以上かけて消火活動が行われていましたが、まだ火は燃え盛っていました。私はその時、テキサス州の集会でメッセージをしようとしているところでした。主が「ボビー、あなたはあとどのくらいこの火事を燃えたままにするつもりですか?」と言われたのです。私は「主よ、この火事が私の責任とは思いませんでしたが、、」と申しあげました。主は「誰の責任だと思うのですか?」と言って、詩編115:16「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」を示されました。私が「何をすればよろしいのでしょうか?」と聞くと、主は「教壇に行き、手を挙げて,『主が大雪を降らせるので山火事は消える』と預言しなさい。」と言われました。私は「主よ、今は8月で気温は40度Cですよ。」と言うと、主は「言われた通りしなさい。」と言われました。ですから、私は人々の前に出て、「主が大雪を送られます。それで山火事は消えます。」と預言しました。

そして、私はテキサス州から消火活動の基地になっていたモンタナ州ミズーラに飛行機で行こうとしましたが、非常事態であったのでそこには行けませんでした。それで、そこから数マイル離れた一つの町に行きました。始めてお会いする牧師が出迎えてくださり、燃えている山が見える場所に連れていってくれました。祈り始めると、主が「わたしはあなたの祈りが聞かれるというしるしを与えます。」と言われるので、「主よ、どの聖書箇所ですか?」とお聞きすると、「聖書ではありません。中華料理店の3つ目のフォーチュンクッキーの中です。その牧師にそう言いなさい。」と言われました。私はちょっと困りましたが、「あの、主がこのミッションが成功するしるしをフォーチュンクッキーの中にくださるそうです。」と牧師に告げました。彼と私の間にさっと壁ができたのを感じましたね。(笑)でも彼は「それは面白いですね。私の一番好きな中華料理店がすぐそばにあります。そこに行って食事をしましょう。」と言ってくれました。食事のあと二つのクッキーをおばあさんが持ってきてくれましたので、私は「すみませんが、もう一つください。」と頼みました。彼女がくれた3つ目のクッキーを私は震えながら割りました。するとそこには「神はあなたの祈りを聞いてくださるばかりか、それを成就してくださる。」と書かれていたのです! 私たちは山に戻り、「神よ、イエスの御名によって大雪を送ってください。」と宣言しました。モンタナ州ミズーラの新聞をインターネットで調べてみてください。翌朝大雪が降り、火事は鎮火され、消防隊員はすべて下山したことが書かれています。(拍手)

 

もう一つの出来事があります。私がテキサス州にいたとき、主が「ウクライナに行きなさい。」と言われました。理由は告げられませんでしたが、従いました。ウクライナに着くと、がちがちになった雪が膝の高さまで積もっていました。ホテルの後ろの湖では氷に穴をあけて魚を釣っていました。「主よ、どうして私がここに居るのですか?」と聞くと、主は、「シリアの軍隊がロシアとウクライナから毒ガスを購入してイスラエルに爆弾を落とそうとしています。あなたはそれを祈りで阻止するのです。あなたのミッションが成功したしるしとして、明朝までにすべての雪は消えてなくなります。あなたと一緒にいる人たちにそう宣言しなさい。」と言われました。私は「主よ、雪は深く、湖は凍っています。」と申し上げたのですが、主は「言われた通りにしなさい。」と言われました。私は言われた通りにしました。そして翌朝起きてみると、すべての雪と氷は溶け去っていたのです!湖ではボートが走っていましたし、道路は雪が全部とけて水浸しでした。夜のうちに天候が一変して大雨が降ったのでした。

神は事を成就させ、それをしるしをもって確証してくださいます。マルコ16:20に「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とありますね。

 

もう一つの出来事はこれです。私は旅行をするときはいつも小さなナイフをひげ剃りの道具箱の中に入れて持っていきます。これはボブ・ジョーンズ師からもらったもので、高価なものとかではないのですが、私はとても大事にしていました。ところがあるホテルにそれをうっかり忘れてきてしまいました。ホテルに連絡をして探してもらったのですが、どこにも見つかりませんでした。私はすごく残念で腹が立ちました。集会をして忙しくしていましたが、ナイフの事が頭の片隅にいつもありました。家に帰ってスーツケースを開け、ひげ剃りの道具箱を取り出したときに、又怒りが湧いてきて、私は大声で「おい! ナイフを返せ! Hey! I want my knife back!」と叫びました。すると何かが空中から現れてベッドの上に落ちたのです。何だったと思いますか? 私のナイフでした!空中から現れてベッドの上に落ちたのです。ビル・ジョンソンは私のこの話を聞いて彼の教会で話したところ、人々はそれを実行して無くしたものを沢山取り返すことができました。本当にすごいですね。

 

何かを宣言することには大きな力があります。生と死があなたの口にあるのです。

イザヤ50:4に「神である主は、私に弟子の舌を与え(the tongue of the learned)、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」とあります。今のこの多難な時代に私たちはどのように生きたらいいのでしょうか。私たちは人々にどのように話したらいいのかを主から学ぶことができるのです。

 

PK:私たちは今、容易ならぬ霊的戦いを迎えようとしていると思います。その多くは教会内での戦いだと思います。確かにこの世との戦いもあると思いますが、ほとんどは教会内だと思います。その一つに使徒の定義に関する戦いがあります。真の使徒的ミニストリーと、人間によって使徒とされた人たちによるミニストリーとの間に、はっきりとした線が引かれると思います。聖書的な使徒は、神によって使徒と任命された人であり、そのような人たちは人を生き返らす力を持つと思います。

 

ボビー私たちは時が来ていないのに慌てて使徒の定義をしようとしてしまったのではないでしょうか。そしてピラミッドの頂点が使徒であると考えました。でも本当は逆で、使徒は一番下で人々を支える人です。人々は「使徒」というタイトルを求めましたが、神は本当に使徒として機能する人を求めています。 

使徒は、まず神の御ことばを熟知し御ことばで満たされた人でなければならないと思います。ヨハネ1:14に「ことはば人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。御ことばを熟知していなければ使徒的であることはできません。又、使徒はイエスをその目で見た者だと思います。

 

PK:ヘブル12:1に「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、」とあります。このような証人を認める教会と認めない教会がありますが、証人たちは、ある意味で私たちよりももっと生きています。彼らは私たちを取り巻いているとはっきり聖書に書いてあります。私たちと彼らの間にある幕は今非常に薄くなっています。今この部屋にも天使や証人たちが満ちていて、神が幕を少し開けるならば、霊の領域にいる天使や証人が見えるのです。私たちは霊の領域に対してもっと心を開かねばなりません。そのことばかりに心を捕われるということではありませんが、神が私たちのために霊の領域からメッセンジャーを遣わしてくださることがあるのです。メッセンジャーには色んな種類があるのです。あなたはイギリスでそのような経験をされましたね?

 

ボビーこれは確かに教会内において争点となる事柄だと思います。人々は頭で理解できないことを恐れます。そこが問題です。私たちは物事に対して頭ではなく霊で近づかねばなりません。霊の領域に進もうとするときに最大の障碍となるのは頭です。私たちは聖霊によって教えられ導かれねばなりません。

ある時、私は切符を買ってロンドンに行きなさいと主から言われました。

私「どうしてですか?」

主「わたしがそう言うからです。」

私はロンドンでの集会の予定など何もありませんでしたが、ロンドンに行き飛行機から下りました。

私「主よ、ここで何をするのでしょうか?」

主「あそこのホテルにチェックインしなさい。」

私「どうしてですか?」

主「わたしがそう言うからです。」

私はホテルにチェックインして部屋に入りました。

私「主よ、何をすればいいでしょうか?」

主「そこの椅子に座りなさい。」

私は茶色の皮の椅子に座りました。私は、ロンドンに行けと言われ、ホテルにチェックインせよと言われ、椅子に座れと言われたことすべてに腹が立っていましたので、異言の祈りもしませんでした。

私「主よ、いつまでこの椅子に座っていればいいんですか?」

主「わたしが立てと言うまでです。」

私は祈りもせず、椅子に座り、前の茶色の木の壁をにらんでいました。

かなり長い時間座っていました。そしてそこで次に起ったことをお話します。

 

その壁がさっと開いたのです。そこから、いにしえの聖徒たちが出て来て、私の前に立ちました。彼らは私に挨拶はしませんでしたが、私がそこにいることはわかっていました。彼らが一人ずつ私の前に立ったとき、私はその人がボーンアゲインしてから死ぬまでに主のために行ったことを全部知りました。本当に細かいことまでです。次から次へと私はそれを知ることができたのです。そして最後にイエスが来られました。

主「彼らがいるからこそ、今あなたがそこにいるのです。」

私「主よ、彼らとは誰のことですか?」

主「雲のようにとりまく証人たちです。」

 

証人たちは何か言うことを持っているのです。「証人」という言葉を調べてみてください。見たことを告げる人ということです。彼らはただ私たちを眺めているだけではありません。 自分たちが見たことを私たちに告げたいのです。彼らは私たちのためにものすごく祈り、とりなしているのです。それは彼らが受ける報酬に私たちが深くかかわっているからです。

 

PK:先日リック・ジョイナー師と食事をしたときに、彼がエリヤとエノクに会った話をしてくれました。これは多くの人から「そういう事はありえない」と批判されることです。しかし、エリヤとエノクは彼らが終末の大いなる御霊の傾注に深く関わっていることを彼に話したそうです。私はジョイナー師がエリヤとエノクに会ったことを100%信じています。

 

ボビー:私のやり方はこうです。聖書に超自然的なことが書いてあるのを読むと、私は神に「あなたは人をかたより見ない方です。これと同じことを私にもしてください。あなたは顔と顔を合わせてモーセと話ましたよね!」と詰め寄ってあきらめないのです。ついに主は「もし同じ経験をしたいならば、彼らがしたと同じことをあなたもせねばなりません。」と言われます。彼らがどんなことをしたかを聖書から学ぶのです。

 

例えばモーセです。神がシナイ山に下りてこられた時、数百万のユダヤ人は恐れのあまり逃げ去りました。彼らは「もう私たちは直接神のことばを聞きたくありません.モーセ、あなたが言って聞いてきてください。」と言いましたね。モーセは震えながら雷鳴の鳴り轟く山に登りました。みなさんも同じことをする覚悟がありますか? ほとんどの場合、私たちは代価も払わずに恩恵だけ受けようとしているのです。

 

PK:最後に、私たちが超自然的なものに対する飢え渇きをもっと強く持ち、神がそれを与えてくださるように祈りたいと思います。終末の時代は暗やみが深くなると同時に、神の超自然的な力がもっともっと解き放たれて、輝かしい時代になると私は信じています。同時に神の大いなる裁きもあります。今は神の御ことばで満たされるべき時です。世の中では「悪」を「善」と呼び、「善」を「悪」と呼ぶ時代になってきています。ヘブル4:12にあるように、神のことばこそが、善と悪を切り分ける正しい基準なのです。今はなまぬるいラオデキヤの霊が蔓延し、人々を眠らせ、無関心にしています。イエスはそれらの人々を口から吐き出すと言われました。私たちはラオデキヤの霊に打ち勝たねばなりません。

「癒しのミニストリー」はすばらしものであり、必要ですが、そこで留まっていてはいけないと思います。イエスは癒しを人々の関心を高めるために用いられました。そして次にイエスは人びとに本当に語りたいことを話されました。それは生ける御ことばのミニストリーであり、「霊」と「たましい」を切り分けるものでした。その時イエスの人気は落ちていきました。人びとは厳しいメッセージを聞きたくないからです。私たちはあくまでも御ことばに忠実に従う者となりたいと思います。(終)