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Walk With God Ministries


24 08月

時とシーズン (その1) ボビー・コナー & ポール•キース•デイビス 2014年8月24日


時とシーズン (その1)

ボビー・コナー & ポール•キース•デイビス 対談

 

P.K.デイビス:ボビーさんと私は最初に会った1991年から今までの23年間、ボブ・ジョーンズ師と共に数えきれない集会などで一緒に働いてきました。まず、あなたの最初の記憶について話してください。

 

ボビー・コナー:これは誇張ではなく本当の話です。1943年に私の父は性病にかかり精神病院で亡くなりました。母は私を妊っていましたが、医者が胎児も父親と同じ病気にかかっている可能性が高いと言いました。母にはすでに子供が二人いましたが、上の男の子は生まれつき身体が不自由でした。母は絶望的な気持になり、コートハンガーを延ばして自分の身体の中に入れて、胎児であった私を堕胎しようとしたのです。その時イエスの御手が胎の中にのべられて、私を片方に引寄せられたので、母のハンガーは私に触ることができませんでした。胎児の私はそのことを記憶しているのです。母がそのことを話してくれたのはずっと後のことでしたが、私はその前から知っていたのです。私の妻は「胎児であったときのことを憶えている人なんか絶対いないわよ。」と言います。でもエレミヤ1:4に「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」とありますね。これが私の最初の記憶です。

 

そして、私が5歳のときのことですが、神が「家の裏に行きなさい。」と言われました。兄と姉は学校に行っていなかったので、一人でいた時でした。そこにはこんもりとした木々がありました。私は一人ぼっちで面白くなかったので、木の下に肘をついて寝そべり「あーあ、やっぱり僕は一人なんだ。」と声に出して言った瞬間、風が起こり木の梢をそよがせました。そして、そこから声がして「あなたが一人ぼっちということは絶対にないのですよ。見てごらんなさい。」と言うのです。見ていると天が開けて、たてがみとしっぽが燃えている数頭の馬が行ったり来たり走っているのが見えました。それは天使だったのだと思いますが、5歳の男の子には燃えている馬のように見えたのです。

 

P.K.:その後もいろんなものが見えたのですね?

 

ボビー:私には天が開いていろんなものが見えました。又もうじき電話が鳴るとか、もうじき誰かが車で家に来るとかが全部わかりました。事が起る前にわかったのです。見た事のあるビデオ通りに物事が起るという感じでした。でも私は誰でもそんな風にわかるのだろうと思っていました。ある時、友達に天が開けて見えたことを話すと、随分嘲笑されバカにされました。それで私は天が見えることをそれ以来誰にも言わないと心に誓いました。

 

8歳のときアルコールを飲み始めました。アルコールが含まれているものならばなんでも飲んだのです。酔っぱらった状態で、人に「私は天が見えるよ。」と言ったのです。おかしいと思われる方がいるかもしれませんが、私は ボーンアゲインする前に賜物を頂いてしまったのです。救われたのは1968年でしたが、賜物は生まれてからずっとあったのです。

 

P.K.:「ポニーに乗ってはいけません。」と主が言われた話をしてください。

 

ボビー:私の家族はテキサス州に住んでいましたが、1943年に父親が死んで貧乏のどん底にいました。私がある日裏庭で一人で遊んでいると、声がして「ポニーに乗ってはいけません。」と言うのです。びっくりしてじっとしていると、また同じ声がして「ポニーに乗ってはいけません。」と言うのです。私は家の中に飛び込んでベッドに潜りこみました。兄が私の様子を見て「どうしたんだ?」と聞くので、私は「ポニーに乗っちゃ駄目!」と叫びました。兄が「どのポニー?」と聞くので「知らないけど、ポニーに乗っちゃ駄目だよ!」と私は叫んだのです。その後も静かにしているとその声が何度も聞こえました。

ある日、母が小さな箱の中に私と兄の洋服を入れました。おじさんが車で来たので、母と私たち兄弟は乗り込み、とても長い間ドライブしました。車の中はなぜか重苦しい空気が漂っていました。途中で公園に止まったりしましたが、何故か母は悲しそうな顔をしていました。やっと目的地に着き、おじさんがエンジンを止めたとき、一人の婦人がポニーを連れてやってきたのです。そして「坊やたち、ポニーにお乗りなさい!」と誘ってくれました。兄と私は後ずさりして、「僕たちはポニーには絶対乗らないよ!」と叫びました。そこは孤児院で、子供たちを騙して親から引き離すためにポニーを使ったのです。私たちは「ポニーには乗らない!」と叫び続けました。母は泣き始め「ああ駄目だわ、私にはとてもできない、、家に帰りましょう。」と言ったので、おじさんは私たちを連れてそのまま引き返したのでした。もし私が「声」を聞いていなかったならば、家族はバラバラになってどうなっていたかわかりません。

ヨハネ10:3でイエスは「わたしの羊はわたしの声を知っている」と言われました。私たちは主の声を聞き分ける能力を今高める必要があります。聖霊に導かれなければ生きていけない時代がくるのです。私たちのように小さくて貧しい家族をも神は心にかけてくださり「ポニーに乗ってはいけません。」と声をかけてくださったことを、私は心から感謝しています。

以前は、もし神が本当に私に言いたいことがあったら、私を両手で掴んで大声で「ボビー!」と言うと思っていました。でもまったく反対でした。「もしわたしが叫ばなければならないとしたら、それはあなたが未熟だからです。」と主は言われました。「あなたがわたしのすぐそばに居るならば、わたしはただまなざしだけであなたを導くことができるのです。」と言われました。又、「わたしはわたしの真理は叫びますが、わたしの秘密は小声でささやくのです。」とも言われました。真理は聖書の中に書かれていますから誰でも知ることが出来ますが、神の秘密を知る者は少ないのです。神の秘密を知る方法を知っていますか? それは私たちの耳を神の口元に持っていくことです。ヨハネ15:15にあるように私たちは神の友にならねばなりません。

 

PK:あなたが救われた時のことを話してください。

 

ボビー:私は預言の賜物を胎の中から受けていましたが、サタンはそのような神からの召しを知ることができ、それを阻止することに全力を注ぐのです。8歳のときにアルコールを飲み始めたと言いましたが、とにかく何でも試してみました。サタンは私の頭をおかしくしようとしていたのです。やがて麻薬の売買など、本当にひどい生活をしていました。家族は「ボビーは21歳になるまでには死んでいるか気違い病院に入っているだろう。」と言っていました。やがて私は結婚して子供も出来ました。でも私の生活はメチャクチャのままでした。私は自分にこう言ったのです。「もし人生がこんなものならば、もう生きていても仕方がない。もう止めよう。」と。私は妻と小さな息子をバプテスト教会まで車で送って行きました。もうその二人には会うことはないと決めていました。それから私は車で森の奥深くに入り、座席の下から拳銃を取り出し、銃口を口に入れました。車の中は悪霊ども(demons)で満ちていました。彼らは「やれ!やれ!今だ!」と叫びました。その時突然、私はぶるぶると赤子のように震え出したのです。私は拳銃を後ろの座席に放り出して、教会に戻って行きました。夜の10半ごろになっていました。教会の駐車場に車を停めてじっとしていました。私はもうどうしていいかわかりませんでした。私は「イエス様、もしあなたが私の人生を変えることが出来るならば、どうか変えてください。」と言いました。その途端、主が来て下さったのです! 本当にすばらしいことでした。私の心は喜びで満たされ夢見心地でした。車から降りたときは、私はもうまったく別人になっていました。

教会の中に入ると、ほとんどの人はもう帰ってしまっていましたが、教壇の前に数人が祈っているのが見えました。ポールというドイツ人がその教会の牧師でしたが、私は彼をずっと憎んでいました。マーケットなどで会うと私は汚い言葉で彼を罵りました。でもポールはいつもきれいな青い目で私を見て、「ボビーさん、愛しています。」と言うのでした。ボール牧師と私の妻と息子、そして二組の夫婦が私のために神に嘆願していたのです。「神よ、なんとかしてボビーを救ってください!」お分かりでしょうか?私が銃口を口に当てたとき、彼らが祈っていたのです。

私は赤子のように牧師にすがりついて泣きました。妻を心から愛する気持で一杯になり彼女を抱きしめました。その夜神が語られ、私に「全世界に行って福音を伝える」という召しを与えてくださいました。私は「そんなこと絶対に起りっこありませんよ。」と申し上げたのですが、神は本気でした。

神が私のような者を用いてくださるのなら、誰でも用いられることができるのです。私が育つとき、家はひどく貧しく、母は小麦粉を入れる袋を農家からもらって、それで私たちのズボンやシャツを作りました。教会に行くときは、道路にみんなで並んでヒッチハイクをしました。 小学一年の時、私が「主、我を愛すJesus Loves Me This I Know」を歌うと、ある男の子が「ボビー、神様はお前のことなんか愛してないよ。もし愛していたらもっといい洋服や靴をくれるはずじゃないか。」と言ってあざ笑ったのです。私はその子の言葉を聞いて受け取ってしまい、その時、私の心の中に神に対する憎しみが入ってしまったのです。その憎しみは1968年の秋に救われるまで消えなかったのです。でも私は死から命へと一瞬にして移され、新しく造り変えられたのです。私が何かをしたのではありません。私は追い込まれてどうすることもできない状態でした。神の救いの御手が届かないほどの深みに落ちることなど、あなたは絶対にないのです。

 

P.K.:本当にすばらしい神の恵みですね。それからあなたはテキサス州ブラードのバプテスト教会の牧師になったのですね。

私は1991年の11月に、主に示されてベニー・ヒン師主催のイスラエル旅行に参加しました。主がイスラエルで私に語ると言われたからです。その旅行でボビーさんはヒン師の助手を努めていました。私とボビーさんを引き合わせるのが神のご計画だったのです。

イスラエル旅行を通してボビーさんが神から深い油注ぎを受けていることを見て、私はすぐ次の日曜日に、8時間ドライブをしてテキサス州の彼の教会を訪ねました。礼拝の後でボビーは私を壇上に呼んだのですが、彼の回り1メートルの範囲は本当に肌で感じるアノインティングがあったのを忘れることができません。彼は私に預言を始めました。彼が知るはずもない私の子供時代のことなどを彼は話したのです。私は当時ビジネスマンで、ミニストリーをすることなど全く頭に浮かんだこともなかったのですが、彼は私が預言的ミニストリーをするようになると言いました。そして彼は「誰かこの人から預言を受けたい人はいますか?」と会衆に聞き、一人の老女が手をあげるのを見て、私に「彼女に預言をしてください。」と言うのです。「冗談ですよね!?」という感じでした。でもとにかく預言をさせてもらったのですが、その時から私たちはとても親しくなり、一緒にミニストリーの旅をするようになりました。

1994年5月にボビーさんがボブ・ジョーンズ師を紹介してくれました。それから私たちは数えきれないほどの集会を、ボビー、ボブ、私の三人でするようになったのです。三人が椅子に座っていろいろと話すという形式で、預言的、啓示的なことを多く話しました。

ジョーンズ師は今年2月に主のもとに行きましたが、私は先週本当にリアルな彼の夢を見ました。彼は地上にいた時と同じようにゴールデンブロンズの美しい肌をしていました。夢かトランスか幻か、わからないのですが、私は彼に近づいて「ボブさん、お会いできて本当にうれしいです。ここは一体どこですか?」と言いました。天国なのか、地上なのか、私にはよくわからなかったからです。彼は私の前に彼のてのひらを広げて突き出しました。私は自分の手の指をそれにぴったりと合わせました。ボブさんは以前から、親指は使徒、人差し指は預言者、中指は伝道者、薬指は牧師、小指は教師としていました。彼は私に「どの指が感じますか?」と聞くので、私は「親指と人差し指と小指です。」と言いました。彼は「今は人差指と小指だけれど、親指がもうじきです。」と言いました。その意味は、「今は預言的ミニストリーと教師のミニストリーのシーズンだが、使徒的ミニストリーが間もなく起る」ということだと思います。ボビーさん、あなたも最近ボブ師の経験をしましたね。

 

ボビー:夢でしたけれど、とてもリアルなものでした。私は机に座って仕事をしていたのですが、聖霊が「訪問客が来ました。」というので、私は立ってドアの方に歩きかけました。すると聖霊は「いいえ、窓からやってきます。」というのです。窓を見ると、天から真珠色に光るエスカレーターのようなものが下りて来て、ボブさんがそれに乗っているのです。彼はとても顔色がよく溌剌としていました。私が心の中で「ボブさんはどうやって入ってくるのだろう。窓を開けたほうがいいだろうか。」と思った途端、彼はすっと部屋の中に入ってきました。そして最初に言ったことは「You are doing fine. あなたはちゃんとやっているよ。」という言葉でした。そして「I am doing wonderful.  私はすばらしくやっている。」と言いました。私たちは会話をしたのですが、口に出す必要はありませんでした。彼は「最近、あなたは自分の髪の毛に気がついていますか?」というので、私が髪を撫でると、手の中に鉛筆ほどの太さのまっすぐな棒のようなものが並んでいました。彼は「もう一度やってごらん。」というので、私はまた自分の髪を撫でました。それを何回もすると私の手の中には大きな麦の束が出来ていました。彼は「これはハーベストのことですよ。今は預言的ミニストリーが大きく用いられる時です。預言により収穫をするべき畑に働き人を送ることができるので、まだ実っていない畑に行く無駄が防げるのです。

 

P.K.:レムナントの一人になるにはどうすればよいか、又将来に関してあなたが示されていることを話してください。

 

ボビー:エレミヤ31:17に「あなたの将来には望みがある。」とあります。現在から将来の間は、歴史の中でもっとも困難な激動の時となるでしょう。しかし、暗やみが深くなる時、神の栄光は最も輝くのです。世界は激動の時を迎え、想像以上に軍事的行動が起ります。今私たちが「キリスト教」と呼んでいるものは役に立たなくなります。今主は勇士を召しておられます。戦うことが出来る者たちです。ユダの手紙を読んでください。私たちは今その時代に生きているのです。ある人たちは「私たちはもう救われているから、どのように生きてもいい。」と言っていますが、それは間違いです。私たちがどのように生きるかは大変重要なのです。今は戦って勝ち取る(contend)時です。その意味は、あなたの血の最後の一滴まで戦うということです。イエスは「わたしが戻ってくるときに信仰を見つけることができるであろうか。」と言われましたね。私たちは信仰を守るために戦わねばなりません。今アメリカではキリスト教とイスラム教を一つにするというムーブメントがあります。これは本当にとんでもない馬鹿げたことです。使徒行伝4:12に「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」とあるではないですか。

昨夜の集会中に 天使たちが香炉を会衆の上に振っているのが見えました。 それは、とりなしの祈りの油注ぎを人々に与えていたのです。すばらしいですね。私たちは天の助けが必要です。ヘブル1:14に「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」とあります。ですから天使にどんどん助けてもらってください。

 ある時私が天を見ると、天使たちが退屈そうにしていました。私は「主よ、彼らを働かせてください。」と言うと、主は「天使に仕事を与えるのはわたしのすることではありません。」と言われました。あなたがレストランに行くとウエイターがいますが、彼は客のあなたに向かって指図はしませんね。客であるあなたが彼に何をしてほしいかを指図するのです。天使は私たちを助けるために仕える霊なのです。モレビアンフォールに行って天使と会ったとき、彼らは「ここに来るのにどうしてこんなに時間がかかったのですか!」と私を責めました。彼らは長い間仕事がなくて退屈していたのです。

 

レムナントはどのような人かという御質問でしたが、それはイエスのような人です。第二コリント7:1に「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。」とありますが、これがレムナントのマークです。私は「神よ、このようなレベルの聖さを人々が求めのは、どのような約束が用意されているからなのでしょうか?」とお聞きしました。主は「成熟した神の息子、娘となる約束です。」と言われました。神がご自分の仕事を安心して任すことができるほどに私たちが成熟するのです。第二コリント6:18に「わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」とあります。私はそのようになりたいと思います。あなたもそうではありませんか。(続く)


17 08月

主とのモーターバイクの旅 リック・ジョイナー    2014年8月17日


主とのモーターバイクの旅

リック・ジョイナー(2014年8月3日日曜礼拝説教からの抜粋)

 

私はこの7月にモーターバイクで旅をしました。これからそのお話をさせていただきます。私は仕事で東海岸にいましたが、その仕事を終えた後、休暇を取って、メキシコ湾沿いにあるいつもの場所で家族と落ち合う予定でした。

ところが私の車が故障してしまいました。修理工場に持って行きましたが、どうしても故障の原因を突き止めることができませんでした。それは神がある目的のためにそうされたからでした。

 

車が修理できないことを知らされて、まず私が考えたのは、「オーケー、じゃあ飛行機で行こうか、それともレンタカーにしようか」ということでした。そのとき、主が鮮明に語られたのです。「モーターバイクで行きなさい。」と。850マイルほどの行程です。私は「主よ、こんな長距離をバイクで行くのは、ティーンエイジャーでも大変ですよ。」と申し上げました。モーターバイクで1マイル行くのは、車で何マイルも行くくらい大変です。確かに車よりずっと楽しいですが、すごく神経を使い、集中しなければならないし、エネルギーを使います。普通でしたら100マイルも走ると疲れ果ててしまいます。しかも私は膝が悪いのです。「主よ、800マイル以上あるんですよ..」ともう一度抗議しました。しかし主がモーターバイクで行くようにと言われるのを私は明確に聞きました。「わかりました、やります。」と私は答えました。

 

「多分3日か4日かかるだろう、途中で宿泊しながら行こう」と考えました。結果として、そのモーターバイクの旅は私の人生で最も重要なことを主から受け取る時となったのです。 もし、私がその時主に従わなかったならば、私はその召しを逃していました。もしモーセが燃える柴を見たとき、自分が行こうとしていた道から逸れてそこへ行かなければ、主からの使命を逃していたのです。モーセは自分がしていたことを中断して道を逸れて行きました。そして主から人生最大の召しを受けたのです。(出エジプト3:3 あちらへ行って turn aside)私はもしあの時私が従わなかったならば、それをミスしていたと信じます。主は1年後、又は2年後にまたチャンスを下さるかもしれませんが、下さらないかもしれないのです。私は以前もう少しでチャンスを失いかけたことがありました。

 

雅歌5章のシュネムの女が寝る用意をしてベッドの中にいる時に、愛する人が戸をたたきました。彼女はほんの少し「ためらった」だけでした。彼女は床の中でとても心地よかったので、愛する人のために起きるのをほんの一瞬ためらったのです。彼女が気を変えて戸の所に行ったときには、既に愛する人は去っていました。これと同じことが幾度私たちに起ることでしょうか。私たちは最近「とても心地よい、pretty comfortable」と感じて暮らしているのではないでしょうか。主は 時として心地よくないことをするようにと言われるのです。そしてそれは私たちのためにです。

 

まず私は息子の誕生日を祝うために娘のいる250マイルほど離れたチャールストンに行き、そこで一泊しました。まだ600マイルほどあります。翌日は、フロリダ州のジャクソンビルかレイクシティーまで行きたいと考えていました。ジャクソンビルに行くまでに、嵐に2回遭遇しました。雷や大雨を伴うひどい嵐でした。モーターバイクで嵐に遇ったら、ガソリンステーションや高架の下などで嵐が過ぎるのを待つのが常識です。でも私は主がはっきりと「走り続けなさい。」と言われるのを聞きました。「これは大変だ、容易いことではない」と思いました。このスピードで走ると雨は銃弾のように肌をさすのです。でも 不思議にあまり痛くありませんでした。私は半ズボンとサンダルといういでたちでした。(笑)確かにバカでした。でも南に下って行くからきっと暑いと思ったのです。ガスステーションや高架を通りすぎる時、そこで雨宿りをしているバイカーたちがみんなあきれ顔で私を見ているのがわかりました。2つ目の嵐に遇った時には、私はもう「嵐が大好き!」という感じでした。全身びしょぬれでしたが、とても涼しいので最高でした。70マイルで走っていると嵐を過ぎればすぐに乾きます。(笑)私は嵐に遇うのが楽しみになってきました。「主よ、もう一つ嵐をお願いします。」という感じでした。

 

ジャクソンビルを過ぎましたが、主は走り続けるように言われました。「主よ、わかりました、出来るだけ頑張りますけど、私は膝が悪いのです。」と申し上げました。レイクシティーに着きました。主は「走り続けなさい。」と言われます。私は「オーケー」と言い、高速からおりて走り続けました。その時に主は今まで私が聞いたことがなかったほどはっきりと、又違う調子で語られました。私は以前から啓示や夢、幻を沢山受けましたが、主からこれほどの親しい語りかけを受けたのは始めてだったような気がします。 私は主がモーターバイクの後ろに乗っておられるのがわかりました。主は後ろから私の耳もとに語ってくださったのです。主は目的地までこのまま走り続けなさいと言われるのです。私としては今日はタラハシまで行くのがやっとだろうと思っていました。でも主は「大丈夫、最後まで行ける。」と言われます。私は「主よ、私の膝を癒して下さらねば無理です。」と申し上げました。もう膝が限界だったからです。すると主は癒してくださいました。(拍手)行けば行くほど膝が良くなりました。まだ完全ではなく80%くらいでしょうか。もう少しバイクで旅行をせねばならないということでしょうね。(笑)

 

タラハシに着きましたが、私はとても元気でした。早くまた出発したいという感じでした。私は夕食をとりガソリンを入れて出発しましたが、どんどんとすばらしい走行となりました。今までで一番すばらしいモーターバイクの旅でした。行けば行くほど快適になりました。650マイルを一日で完走して目的地に着いたとき、私は疲れもなくピンピンしていました。それは主の臨在があったからです。

 

そして主は私を昇格させてくださったのです。 主と私はずっと会話をしていました。私は「主よ、私はこの本は絶対に書き上げます。」と言うと、主は「労働は安価です。友は高価です。でも息子はとても貴重でお金では買えません。Labor is cheap, friends are expensive, but sons are priceless.」と言われたのです。そして「あなたはもうわたしに仕えるのではありません。わたしは今日からあなたを友と呼びます。」と言われました。

 

私は主の時を知り、その時にするべき事を知る知恵を得るために、イッサカルの油注ぎを下さいと、主にずっと願っていました。主はそのためにはイッサカルがしたことをせねばならない、と言われました。イッサカルは苦役を強いられる奴隷となりましたから、私もよい奴隷となるように長い間一生懸命務めました。私がよい奴隷になったというわけではありませんが、出来る限りよいしもべ、よい奴隷になるように主に仕えてきました。でも今主は「わたしはあなたを奴隷のメンタリティーから解放します。もはやあなたは奴隷ではなく、わたしの友です。」と言われたのです。

 

考えてみると、今まで私が主のもとに行くときは命令を受けるためでした。よい兵士は王から命令を受けて、それを忠実に遂行するのです。その意味で主と私は友達ではありませんでした。主は「あなたはもう奴隷のメンタリティーを捨てなさい。あなたがここに到達するために奴隷の道を通るのは必要でした。でも今は変ることを学ばねばなりません。」と言われるのです。私にとって主と友になるのは、ぎこちなくておかしな気持でした。私は神のベイビー友達です。全く新しい主との関係に入ったばかりなのです。沢山の預言的な人から私が近々何らかの転機を迎えることは告げられていました。でもこれは私が思っていたよりもずっと深いことでした。主はまた、「自分で勝手に『私は神の友だ』と思いこむことはできません。わたしが友と呼ぶまでは待たねばなりません。あなたが奴隷として仕えることを充分に学んだので、わたしはあなたを友と呼ぶのです。」と言われました。私が良い奴隷だったというわけではないのです。主は恵みと憐れみによってそのように言ってくださるのです。

 

私はこれからは主の最良の友になりたいと願っています。今始めたばかりです。そして「息子」になるのには又かなりの道のりがあるでしょう。皆さんは、「リックは今まで40年も信仰生活をして来た。そして今やっと友に昇格したと言っている。私には到底無理ではないだろうか?」と思っておられるかもしれません。でも皆さんは私のように頑固ではないかもしれません。(笑)私のように沢山の召しをミスしてはいないかもしれません。私はある時は自分のしたいことで頭が一杯で、主が召しておられるのも聞こえませんでした。主の一日は千年、千年は一日ですから、私には40年かかったことが、あなたは一日でできるかもしれません。時間の長さではないのです。時間のメンタリティーから抜け出さねばなりません。それは奴隷のメンタリティーです。何年服役するかということではないのです。大切なのは私たちが変るということです。新しいクリスチャンが私よりずっと早く主の友となれるかもしれません。

 

聖書にはこの行程が書かれています。私たちはボーンアゲインせねば神の御国を見ることはできませんが、ボーンアゲインしたから神の御国が見えるとは限りません。実際のところ、ほんのわずかな者だけしか神の御国を見てはいないのです。ボーンアゲインした者は、「神のベストフレンドになり、息子となる力を得る道」を歩むことができます。男性がキリストの花嫁になれるのですから、女性も神の息子になることができます。(笑)私たちは常に神の御声を聞いて召しを受け取ることができるようにアンテナを張っていなければなりません。

 

「労働は安価である」:しかし、私たちはよりよい働き手になる必要があります。主の業に従事しているクリスチャンは多くはありません。真の弟子であるクリスチャンは少ないのです。 私もしもべでなくなったわけではありません。それは土台ですからなくなることはなく、毎日その上を歩むのです。

 

「友は高価である」:皆さんは何人友達がいますか? 神はあなたの友ですか? もしそうならば、その友情のためにあなたはどの位、時間や労力を注いでいますか。この世の友情でもそれを保つには、意図的に努力をせねばなりません。電話をしてランチに誘ったり、一緒に何かをします。何度断られてもあきらめません。意図的に努力をすればするほど、よい友情が育まれます。これはどの人間関係にも言えることです。神との友情も意図的でなければなりません。

 

あなたがもし神のしもべならば、あなたはしもべの権威を持っています。神の御前に出て、神から指示やインストラクションを頂くのです。でも神の御前に友として出るときは、それとは全く違うレベルの権威を持つことになります。

私は最早しもべとしてではなく、友としていつでも神のところに行ってお話ができます。私はそのことにまだ慣れていません。でもとてもすばらしいです。又、主は「あなたがもし神の息子ならば願わなくてもよい-ただ宣言すればいいのです。」と言われます。 宣言をよくするクリスチャンもいますが、彼らはまだ息子ではないので、あまり何も起りません。たまに何かが起ることもありますが。神との関係によってあなたの権威のレベルが変るのです。

 

 私はある場所で集会をするためにモーターバイクで行く時は、一直線にその場所に行くのではありません。その町の回りをぐるっと巡ってとりなしをします。主はその町で何が起っているのか、どのようにとりなせばいいのかを語ってくださるようになりました。主の御こころを打ち明けてくださいます。そのような絶え間ない主からの啓示や語りかけは今まで経験したことがありませんでした。

 

 

主が友と呼ばれたボブ・ジョーンズ師が息を引き取ったとき、マグニチュード4.1の地震がありました。それは偶然ではないと思います。彼の一番好きな聖書箇所は黙示録4:1でした。「...天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起る事をあなたに示そう。』」

私たちはもっと高く上らねばなりません。すべてのものは管理を怠ると崩れていきます。

一番大切なことは主との関係です。主との関係を意図的に深めていかねばなりません。どんどんとすばらしいものとなります。ある時には自分にはできない、と思われるような旅に出るようにと主が言われるかもしれません。でも私はもっともっと記録を延ばして長距離のモーターバイクの旅をしたいと思っています。常に記録を破ってさらに進み続け上に上って行かねばなりません。(終)


12 08月

主のご臨在と共に生きる      坂  達 也   2014年8月12日


主のご臨在と共に生きる

 

坂  達 也

 

 

私は今、この二、三年程休んでいた「創造者の神とイスラエル」(仮名)と言う本の原稿を仕上げることに集中しております。祈っては、主から示されたことを書いて行くのですが、ある時、突然主が「おられないこと」に気が付いて慌ててしまいました。そして何か必死で主の臨在を「感じさせていただく」ことをお願いしたのです。

 

私にとって、ものを書いている時ほど主の臨在と油注ぎを必要とする時はありません。と言いますのは、私は元々書くのがとても遅く、特に最近は年のせいか、益々書けなくなっているからです。そして願わくば、私の書くことのすべてを、その一語一句まで主の「ことば」をいただいて、その通りに書かせていただくことが私の切なる願いです。

憐れみ深い主は、私の願いに答えて毎日私に必要なことを示して下さいます。それには確信があり心から感謝しております。

しかし、私の信仰の至らなさから、いただいたものを書いているつもりでも、それを書いているうちに、つい自分で勝手に書いているのではないかと言う不安が出てきます。そんな時、主が傍にいて下さるという、出来れば圧倒的な「臨在感」が欲しいのです。しかしそれがない時は、まるで母親を見失った小さな子供のように一瞬不安な気持ちになってしまいます。

勿論、そう思うのは私の間違いです。主は、私が自分の感情で主の臨在を感じようが感じまいが、必ず私と共にいて下さることは確かな事実ですし、それは私も充分に心得ている積もりです。又、不安を持つことも信仰で生きることの一部であることも承知しています。

 

さて、そんな時に思い出したのがモーセの言葉です。モーセの生き方は私にとって座右の銘、いつも感銘し、励まされております。出エジプト記33章で、モーセは主のご臨在がどうしても必要であることを主に嘆願しました。

モーセはその時、主から「あなたは上って行きなさい。しかし、わたしはあなたたちと共には行かない。」と言われたのです。その理由は、大変な罪を犯した民に対する怒りからでした。そこでモーセは神にとりなすために「臨在の幕屋」に一人で入りました。

 

モーセは主に「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。・・・ 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。・・・」これを聞いた主はモーセの要請を受け入れて「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう・・・わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」と答えられました。

 

主とモーセの関係は本当にすばらしいですね。「 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」と書かれています。本当にモーセほど主がご好意を示し、主の信任を得ている人はいませんね。神とモーセは「・・・口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。・・・」とも言われます。

 

ここで主ご自身が「彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている」とモーセを称えているところが一層すばらしいですね。私はモーセほど主の栄光を仰ぎ見ている人はいないと思います。しかしそのモーセが、主から「あなたと共に行く」と約束されたにもかかわらず、それだけでは満足せず、重ねて「どうか、あなたの栄光をお示しください」と主にお願いしています。

すると、主はこの申し出も受け入れて下さいました。そして、主は仰せられました。「わたし自身、わたしのあらゆる善 (goodness) をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」(出エジプト33:19)これは実に深いことばです。

ここで主がモーセに見せたかった「主の栄光」とは「神のすべての愛、めぐみ、あわれみ」であったのです。それは外見上のまばゆく光輝く「栄光」以上に、主の内面のすべてを表す「愛・あわれみ」と言う霊的な栄光でありました。

 

それと、モーセが主の栄光を見せて欲しいと言ったのは、主の言われた「ことばでの約束」を少しでも疑ったからではありません。その御ことばを聞いたモーセは本当にうれしかったと思います。しかし、彼はもっともっと主のことばを聞きたかった、もっともっと主の栄光を見たかったのではないでしょうか。すばらしい主の臨在―その中で主の御ことばを聞けば聞くほど、もっと聞きたくなりませんか。そして主の栄光の姿を誰よりも見ているモーセこそ、もっともっと主の栄光を拝したかったのであると思います。

モーセが心から主の臨在を願ったのは、主がいつも傍にいて下さるのでなければ、彼は神から与えられた仕事を忠実に遂行することは不可能であることを強く感じていたからであると思います。

私はクリスチャンとしてモーセに与えられた仕事ほど辛い仕事はなかったと思います。人間が神から受けた命令の中で最も厳しい、最も報われない、耐えることが不可能なほど辛い仕事でした。彼は神の民イスラエルを引率してエジプトを出て、彼らを約束の地まで届けるのが仕事でした。彼は自分を全く無にして超人的に主に仕えました。朝から晩まで立ち続けて民の言うことを聞き、民を指導しました。そして民が主にそむくような事があるたびに全身全霊で主にとりなしたのです。その民は結局40年間荒野をさまようことになりましたが、最初から最後まで神にそむき逆らい通しでした。(申命記9:7、24)そんな民の第一世代が荒野で死に絶えるのを見届けるのが彼の仕事であったのです。

しかも彼はその仕事が報われない仕事であることを知っていたのです。彼は、主が大半のイスラエルの民を救われないようにするために、神が初めから民に「悟る心」と霊的に「見る目」と「聞く耳」を与えずに「かたくな」にするご計画を持っておられることを知っていたのです。(申命記29:3、ロマ11:8))それはパウロが言うように、救いが異邦人に先に及ぶために、自分の民を救われないようにしたからです。(ロマ書11:11)

こんなやりきれない辛い仕事が他にあるでしょうか。彼はそのような仕事に40年間耐え続けました。それでも彼は不忠実で不平ばかり言う民を愛し、その民のためなら自分の名を「いのちの書」から消し去ってもらってもよいとまで、主に嘆願しました。(申命記32:32)私はそのようなモーセの犠牲的な愛に本当に頭が下がります。

ここまで主に仕えたモーセにとって唯一の慰めとよりどころは主ご自身のご臨在であったと思うのです。主がいつも傍におられることを感じ、主のお話を聞き、必要な時に主の栄光のお姿を見ないではやっていけなかったと思います。

 

しかし、このようなモーセでも最後に一つだけ主に逆らう罪を犯す時が来ました。それは水源地区のカデシュに着いた時、そこにはいつものようには水がなかったので、民はモーセとアロンに逆って彼らをののしりました。モーセは烈火のように怒りましたが、二人は会見の天幕の入り口で主の前にひれ伏しました。主は「杖を取れ。会衆を集めて、彼らの前で岩に命じれば岩は水を出す。」と言われました。しかし、モーセは長い間の民に対する堪忍袋の緒が遂に切れたのか、岩に向かって話すかわりに、民に向かって「反逆者たちよ」と叫び、主から言われて持ち出した杖(多くの奇跡を起こさせた権威のある杖です)を振り上げ、性急に怒りをもって岩を二度打ってしまったのです。水は出ましたが、彼は初めて主の命令に背いたのです。

前にも同じことが起きましたが、その時は主に言われた通りに岩を杖で一度打って水が出ました。神はモーセのこの一つの罪のために、彼とアロンが約束の地を目の前にしながら、神は彼らを入れなかったのです。

 

この話から学べることは、モーセがつい腹を立てて、そんなつもりはなかったと思いますが、主に代わって(主の言うこと、やり方に従わないで)自分の権威(杖)で岩を打ったことです。神は確かに杖を取れといいましたが、岩にはことばで命令しなさいと言われたのです。私たちは、特に教職者、あるいはミニストリーのリーダーとして立つ者は自分のポジションとか権威で命令しがちですが、神のパワーはあくまでその時その時に主が語る「ことば」にあることを、いかなる場合でも忘れてはならないと言うことではないでしょうか。これは霊的に高いレベルに達した人たちへの教訓であると思いますが、私たちは高い権威の立場に着けば着くほど、よほど注意してへりくだらなければならないと思います。

 

私たちがモーセのように、いかに主を慕い求める者であっても、いや、そうであればある程、主はこれからもっと多くの艱難の中をくぐらせ、一見報いは少ないような、あるいは、やりたくないような「辛い仕事」を与えられる可能性は充分にあると思います。それは私たちを訓練される愛の主であるからです。そのような時には、主の臨在と脂注ぎだけが私たちを励まし、その時に必要なスーパーナチュラルなめぐみの力を与えて下さると信じます。そしてどんな状況下でも、自分の感情に左右されることなく、忠実に主の御言葉にだけ仕えることの大切さを私たちは学ばなければならないと思います。(終わり)


05 08月

「荒らす忌むべきもの」について マイク・ビクル 2014年8月5日


「荒らす忌むべきもの」について

 

マイク・ビクル (カンサスIHOP国際祈りの家 ディレクター)

 

 

「荒らす忌むべきもの」或いは「荒らす憎むべきもの」(the abomination of desolation)は奇異な言葉ですが、ダニエル書には4回出てきますし、イエスもマタイとマルコで1回ずつ言われています。端的に言えば、これは真の神への礼拝に対抗する偽りのものです。ここカンサスIHOPだけではなく、世界中にワーシップと祈りの家が今立ち上がっています。さまざまな形式、スタイルがありますが、それら世界中の祈りの家は、この「荒らす忌むべきもの」即ち反キリスト崇拝に対抗して最前線で戦うものとなるのです。「荒らす忌むべきもの」の出現は大艱難が始る主たるサインとなりますから、これに関する知識を持つことは大変重要です。

 

まずイエスの言葉を見てみましょう。マタイ24:15に「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読みとるように。)..」とあります。ということは、私たちはその前に携挙されるのではなく、地上にいてそれを見るということです。それは一つの像(偶像)で、反キリストの姿をしています。 エルサレムの神殿の中にそれを見るならば、そこは反キリストに対する礼拝、即ち世界中で行われうる反キリスト崇拝の中心となることをあなたは知るのです。この像は超自然的で悪魔的な要素を持ち、ものすごい影響力があり、多くの人々を反キリスト崇拝へと巻き込むのです。

 

イエスは「それを見たならば、あなたは逃げなさい、町から出なさい。」とユダヤ地方にいる人々に言っておられます。イエスは基本的に信者に対して警告しています。世界中で艱難が起りますが、特にエルサレム近辺、そしてその回りのユダヤ地方では最も激しい戦いが起るのです。これは象徴的な話ではなく、本当に生死にかかわることであるので、イエスは「すぐに逃げなさい」と言っています。「屋上にいても仕事場にいても、家のなかに物を取りにいかないで、すぐに逃げなさい。」と言っておられるのです。3年半の大艱難がその時から始るのです。

 

更に「荒らす忌むべきもの」は一つのことではなく、一連の出来事です。神の目には「忌むべき、憎むべき」邪悪なことが起ります。その結果、世界は荒れ果てて荒廃(desolation)します。「忌むべき一連の出来事(主なものは4つ)が起り、それにより世界が破壊され荒廃する」ということです。その中心的出来事はエルサレムの神殿に偶像が立てられることです。これが起こるときに私たちは地上にいるのです。それはクリスチャンにとっては最高にすばらしい時となり、祈りのムーブメントは最高にパワフルとなります。なぜならばそれは悪魔的ワーシップ・ムーブメントと最前線で戦う働きをするからです。反キリストは真に主を礼拝するムーブメントに対して大いに怒りを燃やし、それをやっつけようとするのです。

 

パウロは第二テサロニケ2章3−4で非常に重要なことを言っています。彼は「荒らす忌むべきもの」という言葉こそ使っておりませんが、それに関しての重要なキイとなる出来事について語っています。「なぜなら、まず背教が起り、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼はすべての神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」とあります。

不法の人、滅びの子とは反キリストのことです。即ち反キリストが現れなければ主の日(再臨の日)は来ないと言っているのです。反キリストは、真の宗教のみならず、他の多くの偽りの宗教をも禁止し、すべての人が彼だけを礼拝することを要求するのです。そして彼はエルサレムの神殿に座し、自分が神であると世界に向けて宣言します。これは「荒らす忌むべきもの」の重要なポイントです。この箇所からも分かるように、エルサレムの神殿は建て直されねばなりません。現在ユダヤ人は神殿の丘に新たに神殿を建てる綿密な計画を立てています。それが実現すれば、それは政治的にも宗教的にも大きなしるしとなるのです。

 

「荒らす忌むべきもの」の4つの主な出来事

 

1.反キリストが神殿の座について自分が神であると宣言する。(第二テサロニケ2:4 )ある者たちは「これはすばらしいことだ!」と言うが、神はそれを見て大いに怒られ「それは邪悪なことである、忌むべきことである」と言われる。

 

2.偽預言者が反キリストの偶像をエルサレムの神殿の中に立てるように言う。(黙示録13:14;マタイ24:15)その像は悪魔的な力を持ち、自分で息をして自分の意志で話すことができると科学者たちからも認められ、多くの者がそれを信じる。超自然的な力で生きているように見える。(黙示録13:15) 即ち、反キリストが神殿に座し、その像が神殿の中に据えられる。

 

3.偽預言者は諸国のリーダーたちに反キリストの像を造るように命ずる。世界中のいたる所にその像が立てられ、そこが反キリスト崇拝のセンタ−となると思われる。 それらの像は最先端の技術をもって造られ、まるで生きているかのように見えるのであろう。最先端技術とサタンが協力して作りあげる像となるであろう。

 

4.偽預言者が全世界の人々に反キリストを神として礼拝するように強制する。黙示録13:12、15「この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。..また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」

 

偽預言者はすべての人が反キリストを礼拝しなければ罰せられるという法律を作るのです。何百万、何千万、何億という人たちがそれに賛同し、競技場を埋め尽くすような集会をするでしょう。黙示録13:8に「地に住む者で、ほふられた子羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」とありますが、全世界のすべての国々で反キリストを礼拝する者たちが起るのです。法律によって反キリストを拝まない者を殺すことが許可されます。そのような法律は神にとって「忌むべきもの」です。ナチスの時代、法律によりユダヤ人を迫害することは合法となり、ユダヤ人を告発すると報償を受けました。それと同じように、反キリストを礼拝するようにという命令が出され,それに従わない義人は犯罪人となり、義人を告発するものには報償が与えられるような極めて忌まわしい法律がつくられます。

 

以上4つのことが「荒らす忌むべきもの」です。このようなことは人類の歴史を通してかつてありませんでした。これは全世界を網羅することだからです。そのような悪に対して勝つ方法は一つ―それはイエスです。別の言い方をすると、人々がイエスとつながって、イエスから力を受ける器になることです。イエスは人々を用いてその力を世界に顕されるのです。イエスはすでに力を持っておられますが、人々がそのイエスとつながってこの世で生き、イエスの力を発揮していくのです。それが今必要とされています。それが緊急の任務であることを私は感じています。

 

私たちは国際祈りの家を始めましたが、まだまだ祈りの初心者であり、聖霊の流れに飛び込む初心者です。聖霊は「その調子、いいぞ、がんばれ、もっともっと主の力をあらわせるようにがんばれ!新しい領域へと進め!」と言ってくださっています。世界中の祈りのムーブメントに向かって聖霊はそのように励まされているのです。

すばらしいことに、イエス・キリストを礼拝する真の祈りとワーシップの家が世界中に打ち立てられています。ある人たちは「私はワーシップソングがとても好き」とか「みんなで集まってワーシップすると楽しくて、臨在があってすばらしい」とか言うかもしれません。 祈りのムーブメントが起こってから今までの10年は音楽を中心として 広がっていきましたが、これからは音楽ではなくイエスと聖霊を中心とする祈りのムーブメントに変えていく必要があります。音楽ではサタン礼拝のムーブメントを克服することはできないからです。ただ「クールな音楽」では駄目なのです。サタン礼拝に打勝つ地上で唯一の力は、「真に預言的な油注がれたワーシップの中で、神の臨在から神の力が流れ出ることだけ」だからです。

真に聖霊の力のある祈りと賛美を日夜続けることだけが、サタンを打ち倒すことができるのです。私たちがカンサスIHOPでしているようなスタイルである必要はありません。連鎖祈祷など様々な方法ですることができます。敵は物を言う反キリストの像を中心にサタンに礼拝を捧げます。私たちはそれと戦うのですからすさまじい霊的戦いとなります。しかし私たちには生きた真の御霊がおられます。

 

世界的な荒廃(desolation)

 

今まで「忌むべきもの」について話してきましたが、次にその結果として起こる世界的な 荒廃について見てみましょう。それを起こすものに二つあります。

一つはイエスです。そしてニつ目は反キリストです。

忌むべき出来事が起こった故に、この両者が三年半の間、世界に破壊、荒廃をもたらし、地上の多くの者の命が失われます。

 

マタイ24:22「もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。」

イザヤ24:1「見よ。主は地を荒れすたらせ。その面をくつがえされて、その住民を散らされる。Behold, the Lord makes the earth empty and makes it waste, distorts its surface and scatters abroad its inhabitants.」

イザヤ24:6「それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。Therefore the inhabitants of the earth are burned, and few men are left.」

 

わずかな者とはどの位でしょうか。それはわかりませんが、いずれにせよ僅かなパーセントです。主ご自身が地をからっぽにされるというのです。これは大艱難の時のことです。

 

イザヤ13:9「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ。罪人たちをそこから根絶やしにする。」

イザヤ13:11、12「わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオファルの金よりも少なくする。」

 

 

1.イエスがもたらす荒廃

 

イエスは反キリスト礼拝に対して裁きを下し、荒廃をもたらします。黙示録に書かれていることは、「荒らす忌むべきもの」に対するイエスの裁きです。真にイエスを礼拝するムーブメントに反抗する者に対するイエスの裁きです。イエスは「荒らす忌むべきもの」について語った次に、マタイ24:22で「もし、その日数が少なくされなかったなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくなります。」と言われています。

これは三年半のことを言っています。世界では大きな苦難がありますが、それと同時に教会が最も輝く時です。しるしや不思議、奇跡、超自然的な食糧や物資の調達、天使の現れが顕著になります。殉教者たちは栄光の中に迎えられます。私がもし殉教して命から死への一線を越えるならば、その途端、イエスが「マイク!」と言って御手に抱いてくださるのです。もし殉教しなければ空中で「マイク!」と迎えてくださいます。すばらしいですね! どちらであっても私たちは勝利するのです。

 

黙示録6:8「..彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」

黙示録6:12「私は見た。子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。」封印を解くのはイエスです。

黙示録9:15「..人類の三分の一を殺すために解き放された。」第六の御使いがラッパを吹き鳴らし、四人の御使いが人類の三分の一を殺すために解き放たれます。これは実際に起こることなのです。しかし、イエスが災いを起すときは、忌むべきものに対する裁きです。

イザヤ66:16「実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。」

エレミヤ25:33「その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。」

 

私はこのことを決して喜ばしいとは思いませんが、これは主がされることです。教会は聖められ、祈りのムーブメントが 目に見える形で主の偉大な栄光を顕すようになります。これはゲームではありません。永遠の生死にかかわることです。極めて重大なことであるので、神は今私たちに予めそのために祈るようにされているのです。

今の私たちには100%は理解できないことかもしれません。20年か30年経ってから、私たちが祈りのムーブメントに入れてもらったことがどれほど大きな主の恵みであり御計らいであったかを悟ることになるでしょう。世界のどこにいるとしても、祈ることを訓練され、整えられることは本当に鍵となるのです。終末の大きな戦いの最前線で戦うのは祈りのムーブメントだからです。そしてそれは同時にすばらしく麗しいことなのです。

 

2.反キリストがもたらす荒廃

 

これは反キリストが自分に抵抗する者に対して起すものです。彼は前代未聞の政治的、軍事的、経済的力を駆使して、自分を礼拝することを拒絶する人たちを滅ぼそうとします。第二テサロニケ2:3「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。Let no one deceive you by any means; for that Day will not come unless the falling away comes first, and the man of sin is revealed, the son of perdition.」

「滅びの子 son of perdition(破滅、滅亡、地獄)」と呼ばれる反キリストは、自分に抵抗する者に対して怒りをぶちまけることによって目に見える世界を破壊し、 人々を惑わして自分を礼拝させ、彼らを霊的に破滅させて地獄に送り、最後には自分もそこに行くのです。反キリストが滅びの子と呼ばれる理由です。

 

反キリストの像と獣のマーク(刻印)

 

反キリストの像については黙示録に10回出てきます。(黙示録13:14、15<3回>;14:9、11;15:2;16;2;19:20;20:4)黙示録に一回でも出てくるならば、それは終末において重大なことであると言えますが、獣のイメージに関しては10回も書かれているのです。強制的に行われる反キリスト崇拝に対して、真の礼拝者たちが戦い、それによって彼らが霊的に鍛えられることを神は意図されたのです。真の礼拝者たちは敵と戦うことによって目的を定め、聖められ、整えられ、完全に御霊によって生きる者とされます。

 

「荒らす忌むべきもの」は多くの奇跡を起こすことが書かれています。

第二テサロニケ2:9「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、」

マタイ24:24「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」

選民も惑わされるのです。しかし、私たちが互いに交わり、主を礼拝し祈り続けるならば、惑わされる必要はありません。

 

黙示録16、17「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。」

「獣の刻印」は、世界中の人々がこれを受けないと経済的な制裁を受けるということです。経済的な反キリストの体制を立て上げるキイとなります。獣の刻印を受けた者は経済的に豊になります。しかし、受けない者はキリストによって超自然的に養われます。主はパンを増やし、岩から水を出されるのです。私たちは反キリストの経済体制に頼る必要はありません。主が主の民の面倒をみてくださいます。

 

反キリストは悪魔的力とテクノロジーを合わせて獣の像を作り、その像はまるで生きているかのように話をします。その語る言葉を人々は神からの宣託として受けとります。そして像の語ることばが世界で直ちに法律となり、人々はそれを神からの法律だと信じます。又、世界中に配置されている像は、人々に預言するようになるでしょう。真の預言のムーブメントに対抗する偽りのものです。

 

マタイ4:8−9「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべて国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。』」

サタンが全世界に対して要求することは、ここでイエスに要求したことと同じです。又、反キリストはネブカデネザル王と同じように自分の像を拝むことを人々に強制するのです。

ダニエル3:1−6「ネブカデネザル王は金の像を造った。その高さは60キュピト、その幅は6キュピトであった。..伝令官は大声で叫んだ。..『ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像をひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。』」

 

「荒らす忌むべきもの」を理解する必要 ―

ダニエル9:23「..そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。」

ダニエル9:25「それゆえ、知れ。悟れ。..」

マタイ24:15「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば(読者はよく読み取るように)」

 

このように聖書は「荒らす忌むべきもの」に関する幻を悟り、心して理解するようにと私たちに勧めています。(終)