30 07月
携挙のタイミングについて
マイク・ビクル(カンサスIHOP 国際祈りの家 ディレクター)
はじめに
イエスの再臨まで賛美と祈りを絶えず続けているカンサス国際祈りの家のディレクターである
マイク•ビクル師が、携挙に関する質問に答えている談話と記事です。ご存知のように携挙に関しては
諸説ありますが、今回ここにビクル師のものを紹介させていただきます (訳者より)
過去150年間、アメリカでは携挙の時期に関しては3つの考え方があります。そしてこの3つの考え方はアメリカの宣教師が行ったところにも広がっています。150年間にアメリカの宣教師が行っていない土地には、この考え方は顕著ではありません。まずこのことを知っていてください。アメリカのクリスチャンは世界中のクリスチャンがアメリカのように考えていると勘違いしていますが、世界的に見れば、アメリカの考え方は一部に過ぎません。
先ず第一番目として、過去150年の間に「艱難期前の携挙 pre-tribulation rapture」の考えがアメリカでポピュラーになりました。艱難時代の前に教会は携挙されるという考えですね。この教義はキリスト教の歴史上からすれば、かなり新しい考えです。2千年のキリスト教の歴史の中で、この考え方は、ほとんどアメリカの中だけで150年くらい前から注目されて来たものであり、それ以前は全く取り上げられなかった考え方です。99.99%そのような考えはなかったと言ってもいいのです。ですから、これはアメリカではとてもポピュラーな考え方ではありますが、 聖書的ではないと私は考えています。(艱難期前の携挙を信じているすばらしい先生方を私は多く知っていますし、彼らは神を愛し、聖書を愛し熟知し、すばらしい働きをしておられる方々ですから、私は心から尊敬しております。)
第二番目は、「艱難期の最後に携挙がある post-tribulation rapture」という考え方であり、私はこれが聖書的であると信じています。この考えはキリスト教の2千年の歴史を通して教会が教えて来たものであり、アメリカの宣教師が行っていない地域で信じられていることです。アメリカからの影響を受けていないところはこのように信じています。
第三番目は、携挙をまったく無視する考えです。「そんなことはわからない」と言って考えもしない人たちです。
私は携挙は大艱難時代の最後に起こると信じています。艱難前の携挙を信じている人たちは、「艱難時代は非常に恐ろしい時であり、神の裁きの時である」と思い違いをしています。艱難時代というのはほとんどの場合、反キリストに対する神の裁きの時なのです。黙示録の大部分は反キリストの艱難について書かれています。即ち、反キリストに対する神の裁きであり、教会に対する裁きではありません。
黙示録には400の節がありますが、(実際は403ですが、400と考えてみましょう。)その中の12の節だけが、教会に対する迫害に関して書かれています。即ち黙示録の3%だけが、教会が反キリストや暗やみの力から受ける迫害に関する箇所なのです。黙示録の97%は違います。従って黙示録の主要なテーマは反キリストが苦しむことについて書かれているのです。イスラエルの民がエジプトにいた時にモーセがパロに対して裁きを下したように、終末の教会はモーセより偉大なイエスによって、終末のパロである反キリストに対して裁きが下されるのです。黙示録に書かれている艱難はエジプトの10の災いと非常に似ています。3千5百年前にモーセがパロに対して起こした災いは、イエスが反キリストに対して起こすものの型です。
ですから大艱難時代というのは、教会も確かに艱難を通りますが、それよりはるかに激しく暗やみの勢力が 艱難を受ける時なのです。それは教会にとっては非常に輝かしい時です。教会が最も力を顕す時であり、最も清くされる時であり、最も一致する時であるのです。私は艱難期前の携挙を信じている方に「もし艱難期がクリスチャンが酷い苦しみを受ける時であるとするあなたの考え方もわかります。」と申し上げます。しかし艱難期がどのような時であるかに関して、違う視点を持っていただきたいのです。それは勝利の時であり、すばらしい時なのです。神の裁きを恐れる必要はありません。
終末に関して最もよくある100の質問からの抜粋
*質問:イエスはマタイ24:36で「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」と言っておられます。私たちはイエスの再臨の時を知ることができるのですか?
マイク・ビクル:イエスは「再臨が起こるシーズンや世界の状況、状態を私たちが知ることは出来ない」とは言っておられません。「主が再臨される世代の教会がその日や時を知ることはない」とも言っておられません。
それがいつ始るのかに関しては、御父のことばを捜し求めねばなりません。御父だけがご存知だからです。神は初代教会がその日、その時を知ることは願われませんでした。しかしダニエルと使徒ヨハネは、「荒らす忌むべきもの the abomination of desolation」の出現から丁度1260日後にメシアが来ることを明確に示しています。(ダニエル7:25;12:7;黙示録11:2−3;12:6、14;13:5)
*質問:私たちは時のしるしを知ることができますか?
マイク:はい。終末の時代と時のしるしは、すべての者に理解されるように書かれています。キリスト教の歴史を通してみると、信者のほとんどは無学な庶民でしたから、聖書は彼らにもわかるように書かれているのです。イエスとパウロは終末の預言的しるしを知ることの重要性を強調しています。(マタイ24:32−34;ルカ21:25−29;第一テサロ二ケ5:1−6;第二テサロ二ケ2:1−11)私たちが再臨の時やシーズンを知ることは出来ないというのは、偽りです。
*質問:歴史上のすべての世代が「自分たちは終末の時代に生きている」と信じていたというのは本当ですか?
マイク:「ほとんどの世代が自分たちは終末の時代に生きていると信じていた」というのはよくある誤解です。そのように信じる人たちが各世代にいたかもしれませんが、いたとしてもそれは非常に少数(1%以下)です。世界的にみて、「私たちは終末の世に生きている」と数十年に渡って皆が信じていた世代が一度だけありました。それは初代の使徒の時代でした。
*質問:今私たちが再臨の世代に生きていることがどうしてわかりますか?
マイク:再臨の「シーズン、世代」を指し示している聖書箇所は多くあります。
(マタイ24:4−8) それらの幾つかを挙げます。
1.世界的な祈りのムーブメントの出現(イザヤ56:7)
「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる...わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」
2.知識の増加(ダニエル12:4)
3.花嫁のパラダイムの啓示(黙示録22:17)
4.すべての国における魂の大収穫(マタイ24:14;黙示録7:9)
5.悪の増大(ダニエル8:23;黙示録14:9)
質問:最後の7年がいつ始まるのかはどうして知ることができますか?
マイク:反キリストと国々が契約を結ぶときに始まります。それはパウロが第一テサロ二ケ5:3で預言している「平和と安全」をもたらすといわれるものです。
質問:ディスペンセイショナリズム(天啓時代主義)とは何ですか?
マイク:世界の歴史が7つの異なった時代(ディスペンセイション)に分けられているという考えです。それにはジョン・ダービー(John Darby)によって1830年から提唱され、スコフィールド・リファレンス・バイブルによってポピュラーになった終末論も含まれています。その終末論とは神の民が大艱難の前に「密かに携挙される」という論であり、故に教会は大艱難を通らないことを教えています。ディスペンセイショナリズムの神学の歴史は200年以下です。
質問:艱難期後の携挙(post-tribulation)を信じるとはどういう意味ですか?
マイク: クリスチャンは大艱難時代の最後の時、イエスの再臨の時に携挙されることを信じることです。聖書は明確にこのことを教えています。イエスはマタイ24:15−26で大艱難について説明したあとで、信者が携挙されるタイミングについて述べておられます。(マタイ24:29−31)
「だが、これらの日の苦難(tribulation)に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」
質問:イエスの再臨はいつ起こるのですか?
マイク:イエスの再臨は7番目のラッパが鳴る時です。(第一コリント15:52、黙示録10:7;11:15−19)再臨の行程は3段階に分かれていて、その30日間に多くの出来事が起ります。(黙示録11:2−3;12:6、14;13:5;ダニエル7:25;12:7とダニエル12:11とを比較してみてください。)
1.イエスはまず第一に、聖徒たちを携挙するために空中に現れますが、この時すべての人がこれを見ます。(黙示録1:7)
2.次にイエスはエドムの地を行進します。(現在のヨルダン イザヤ63:1−6)
3.最後にイエスはエルサレムに行進し、オリーブ山で(ゼカリヤ14:4)イスラエルのリーダーたちから公式に迎えられます。
*質問:イエスの再臨の行進が30日間というのはどうしてわかりますか?
マイク:大艱難時代は3年半(ユダヤ暦の一年は360日)、即ち1260日(黙示録11:3;12:6)、42ヶ月(黙示録11:2;13:5)です。大艱難は1260日続きますが、ダニエル12:11には「荒らす忌むべきもの the abomination of desolation」は1290日の間あると書かれています。それは、聖徒の艱難の期間は、地上に反キリストがいる期間より30日短いということです。ではどうしてこの30日間があるのでしょうか? 第一コリント15:52によれば、イエスは最後のラッパ(即ち黙示録11:15の第7番目のラッパ)が鳴るときに再臨されます。それから30日間、聖徒たちはイエスと共に行動します。そして「御怒りの七つの鉢」がぶちまけられます。
*質問:その30日の間、イエスと聖徒たちはどこにいるのですか?
マイク:30日間に幾つかのことが聖徒たちに起こります。マタイ24:31;第一テサロ二ケ4:17;黙示録11:15−18に書かれています。聖徒たちは空中に引き上げられ、復活の身体を受け、イエスからそれぞれ報いを与えられます。そして「エルサレムの戦い」の為に軍隊として調えられます。この戦いは地上のすべての国を勝ち取るための戦いとなります。これはイエスがエドム(イザヤ63:1−6、現在のヨルダン)から「モーセよりも偉大な者」として進軍して来る時であり、終末のパロである反キリストに裁きの鉢をぶちまけるのです。イエスはイスラエルを解放し、反キリストとその軍勢を殺し、それによって「荒らす忌むべきもの」(黙示録19:11−21)を止めさせます。聖徒たちはこれらの事に参加します。教会の携挙から、イエスがエルサレムへ凱旋入城し、王の王として迎え入れられるまでの劇的な出来事が30日間に起こります。
*質問:エルサレムに神殿は建てられるのですか?
マイク:聖書にはこれから二つの神殿がエルサレムに建てられると書かれています。一つ目の神殿は大艱難時代に入る前から用いられるもので、「艱難神殿 tribulation temple」と呼ばれます。この神殿は、反キリストがユダヤ人のすべての生け贄を止めさせ、「荒らす忌むべきもの the abomination of desolation」を打ち立てて自分が神であると宣言するので、この神殿の神聖さは汚されます。(マタイ24:15;マルコ13:14;ダニエル9:27;第二テサロニケ2:3−4)
イエスが再臨された後、主はもう一つの神殿を建てられます。これはエゼキエル40−48章に書かれている神殿で、千年間(ミレニアム)の地上でのイエスの統治の座(ゼカリヤ6:12−13)となります。この神殿は「ミレニアム神殿」と呼ばれます。(終)
21 07月
新しいギター
ダン・ポッター(2014年5月9日モーニングスター カンファレンス)
これは私の新しいギターですが、これが私の手に入ったいきさつをお話します。私はある集会で急に話をするように頼まれました。 ビジネスマンの集会のメインスピーカーが急に来られなくなったので、私に話をしてくれと友人に頼まれたのです。「私は世界一駄目なビジネスマンだから、、、」と断ったのですが、友人は「それなら、ビジネスで失敗する方法を話してくれたらいい」というのです。確かに人生では失敗の仕方を知るのも大切ですし、私たち夫婦は何回も経済的危機に直面して来ましたが、こうやって今ちゃんと生活していますから、ある意味ではうまくやってきたわけでしょう。そこで私は引き受けることにしました。
その集会では女性のワーシップリーダーが借り物のあまり良くないギターでワーシップを導いたのですが、すばらしい主の臨在がありました。ワーシップの時間が終って私の出番になりましたが、私は話に入る前にそのギターをちょっと借りて演奏しました。私の話はまあまあ良かったようで、人々は感動したと言ってくれました。その時、若い夫婦が私のところに来て、「神様があなたにギターを買うように言われたと私たちは思います。」と言うのです。私は「これは私のギターではありません。間違わないでください。私は家にすばらしいギターを持っているのです。新しいギターを必要とはしていません。」と答えました。
けれでも、彼らは「神様はあなたに新しいギターを買うように言われたと確信しています。」と言い張ります。私は「私の家にあるギターは私に合うように特注した特別のすばらしいギターなのです。40年前から使っています。」と言いました。
私の考えでは、新しいギターは本当に全く必要ではなかったのです。そこで私はこの話はもう止めにしようと思い「私はちょっと頼まれて話にきただけの者ですから..」と言ってその場を去ろうとしたのですが、彼らは「私も妻も神からはっきり聞いたのです。あなたに新しいギターを買うようにと。」と言い続けるのです。私は心のなかで、「3万円くらいのギターなど、いらないよ。」と思っていました。私は「どんなギターのことを言っておられるのですか?」と聞くと、彼らは「マクファーソンのものを考えています。」と言うのです。私の頭は「マクファーソン、、、えっ、聞いたことがあるぞ、、、何だっけ、、、、」とぐるぐると回り始めました。
これはビル・ジョンソン師から聞いたことですが、マクファーソンは弓矢の弓を作る人です。彼はある日、神に「新しい弓のデザインを与えてください。」と祈りました。神は天から新しい弓のブループリンドを送ってくれました。それは今私たちが「コンパウンド・ボウ」と呼んでいるものでした。彼はそれを見て大喜びでその弓を作ったのです。それは狩りをするハンターの中では世界で一番有名な弓だと思います。彼は神の御前に再び出て、「神様、この弓のデザインを本当にありがとうございました。このデザインはとても成功しました。本当にうれしいです。」と申し上げました。すると神は「いや、感謝したいのはわたしです。わたしによく聞いてくれました。ありがとう。」と言われました。神に聞かないために私たちは多くの発明をのがしているのではないでしょうか。
彼はマシュー・マクファーソン(Mathew MacPherson)という名前なので、弓はマシューズ・ボウと呼ばれます。彼はギターも作っていて、それも又神から与えられたデザインだったのです。私はインターネットで彼のギターについて調べてみました。そしてそれが非常に高価であることがわかったので、私は例の人に連絡して、「あなたの言うギターがどれほど高価であるか、ご存知ですか?」と尋ねました。彼は「はい。知っています。私は2つ持っています。どうかあなたのために一つオーダーしてください。」と答えてきました。「会社に電話をして、あなたが望むサイズ、材質など、すべてあなたが望む通りのものをどうぞ注文してください。」というのです。「あなたが望むその通りのものを」と。
皆さん、私たちが望むものは月日が経つにしたがって変化していくことをご存知でしょうか。40年前に私にぴったりだったものも、今は合わないかもしれないのです。私の家にあるギターは本当にすばらしいものかもしれませんが、それは40年前に私のために作られたものです。私と同じで「年寄り」で、ちょっと疲れてきていました。だから私はそのギターに対して「そこで休んでいていいよ。一緒に沢山レコ—ドを作ったね。古い友達だね。」という感じで、あまり気にせずにそのまま過ごしていたのです。
私はマックファーソンのギターを注文しました。いろいろと難しい注文をつけましたが、すべて「大丈夫です、できます。」と引き受けてくれました。使用する材木も「はい、ありますよ。」という返事がすぐに返ってきました。
このギターは注文してから出来上がるまでに6ヶ月かかります。最初の3ヶ月はちょっと待ち遠しく感じましたが、その後はほとんどギターのことは忘れていました。するとある日、それが届きました。 説明によると、ギターが完成しますと、それに弦を張って一ヶ月そのまま壁に掛けておくのだそうです。そしてそれをじっと一ヶ月間観察するそうです。すべての細部が変形などせずに注文通りのままとどまるかどうかを見るのです。そしてもしも少しでも注文よりずれたならば、最初から作り直すそうです。興味がありますね。私は彼らの誠実さ、製品に対しての責任感に大変感動しました。
私は届いたギターを弾き始めました。「うーん、私にぴったりだ、すごい、音もすごくいい、どうしてこんなにいいんだろう。」という感じがしました。他のギターでは弾ききれなかったことが出来るのです。気がつくと私は歯を食いしばるのを止めていました。最近私が買ったいくつかのギターを弾くときは、私はどうしても歯ぎしりをしてしまっていたのです。それで私は歯を3本割ってしまいました。そして奥歯も抜かねばなりませんでした。過去17年間、自分に合わないギターを弾くために歯を食いしばっていたからです。
私はそれらのギターに自分を合わせるのにあまりにも忙しかったのです。自分に合ったものを作ってもらえるとは思いも付かなかったのです。主はそれから私を取り扱われたので、私はいろいろなことに気が付き始めました。私はずっと自分を回りの状況に合わせて順応する、その場所に合わせて適応する、ということばかりして来たのです。それはその場所で自分は価値があるということを示したかった、感じたかったからです。しかし神は「今はあなたが人生に適応するのではなく、あなたに合った、あなたにぴったりフィットした人生を、あなたのためにわたしが与えます。」と言われました。
神があなたにそのように言われたときに「わたしは結構です。そんなことはしないでください。私には必要ないと思います。」と言う人が皆さんの中にいるでしょうか?
あなたには何が必要なのでしょうか? 私はギターを弾くときには、聖霊を聞きたいのです。私の手のために作られていないギターを弾くと、(ネックの長さ、フレットの間の長さ等、すべての細部がとても重要です)それを長く弾けば弾くほど自分に合っていないことがわかります。あまりうまく出来ていないギターは精密、正確に作られていないので、自分の手の位置をいつも目で見てチェックしながら弾かねばならなくなります。その度に私は聖霊の臨在の中から後退してしまいます。 自分がどこにいるのか見失ってしまうのです。
私たちは「自分にはこれが必要なのだ」と自分が思い込んだものにフィットし適合しようと一生懸命努力しながら生活しているのです。つまりあなたは聖霊からいつも自分を遠のかせているのです。あなたはその人生に適合しようとしていましたが、それはあなたにフィットする人生ではなかったのです。私は自分のミニストリーに自分をフィットさせよう、適合させようと努力し続けていました。
私は新しいギターを弾き始めて、だんだんハッピーになりました。いろいろな弾き方が楽にできました。私は主に「どうしてこのギターだととても楽に弾けるのですか?」と訊きました。主は「それがあなたにフィットしているからだよ。」と言われました。
この中で何かとずっと戦って来られた人がいますか?あまりにも長く戦って来たので、自分が戦っていることさえわからなくなっていることがあるでしょうか。あなたは奥歯をぎゅっと噛み締め,歯ぎしりをしながら歯(人間関係)を壊して来たのです。それはあなたが自分を何かに一生懸命に合わせようとしてあまりにも忙しかったからです。
私はミュージシャンですから、いつもフィットすることに気を付けてきました。自分の嫌いな曲を弾くのは本当に嫌なものです。自分の内にある何かが、それをどうしても弾かせようとしません。ある時主が、「あなたは罪という言葉の意味を知っていますか」と訊かれました。そこで私は改めて調べてみました。多分皆さんもよくご存知だと思いますが、まず「的を外す」という意味が出てきました。でもその次に「to feel you do not have a share 自分には分け前、取り分がないと感じること」というのがありました。罪の定義としては少し変わっていると思いませんか。
まず私たちは「この中に私はフィットしてうまく適合していこう」と考え、次に「私は自分を変えて努力して適合したのだから、分け前をもらうべきだ。私はここの一員で、ここに属していると感じたい」と考えるのではないでしょうか? もしそうでないと、自分はここにフィットしていない、私の居場所はない、私の受けるべき取り分はない、と感じてしまうのです。
この新しいギターをもらったことは感謝を通りこしていました。自分の足にぴったりフィットした履き心地のよい靴のようなものです。私はギターの送り主にメールをしました。「本当にすばらしギターです。なんとお礼を言っていいかわかりません。ありがとうございました。あなたは神から私にギターを贈れと本当にお聞きになったのですねえ。」と。
では神は何故私が必要とは思っていなかったギターを、どうしても私に持たせたいと思われたのでしょうか。このギターは後ろと横はローズウッドで、表はシトカ・スプルースという非常に希有で高価な木で出来ています。このように木目の細かいものは滅多にないです。その表面はすこし丸くカーブになっていますが、そうするためにはとても高度の技術が必要です。ネックは本体に直接は触れていないので、本体は完全に響くようになっています。その他目に見えない部分も完璧にできています。内側もキチンと仕上げられています。それは見えない部分なのですが、外側と同じように美しいのです。あなたは自分の内側を外側と同じように美しくしますか? それはイエス様が考えておられることですね。地上の人は決して見ることがない隠された場所を美しくすることです。ネックの幅、すべてのフレットの位置は完璧です。神様はどうしてこのようなギターを私に下さったのでしょうか?
私はクリスチャンや、教会の中で起きてしまっていることがあるように思うのです。神は私たちに完璧にフィットする何かを私たちに与えようとしておられるのです。でも私たちは「謙虚であるのに忙しくて」それに気がつかなかったのです。教会の中で誰かが教えてくれた「クリスチャンのあるべき型」、「キリスト教のあるべき型」にはまることに忙しかったのです。「ここがあなたがフィットする場所ですよ。あなたはこのようにフィットすればいいのですよ。」という具合に教えられたのです。でももし、私たちが教会にフィットするのではなく、教会が私たちにフィットするように意図されていたとしたらどうでしょうか。そんなことが可能でしょうか? 安息日は私たちのために造られたのはないでしょうか? 主よ、教会は私たちにために造られたのですか? 私たちのために、私たちに合うように、フィットするように神は造られたのではないでしょうか?
このギターはすべての音が正確です、ギターを弾くのが又楽しくて仕方がなくなり、何時間でも弾いていられ、少しも疲れないのです。 「あなたにフィットしている時はそうなのですよ。」と主は言われました。
私たちは日曜日に教会に来て、持っている愛を2時間の間に使い果たすのです。そして空っぽになって「もう家に帰ります。もう愛がなくなりました。もう愛せません。」と言って帰るのです。私たちは自分で何かを作りだそうと一生懸命するのです。私たちは礼拝の場所に来て、祝福されるよりも苦しみに来ているのではないでしょうか。事が巧く行かない方が落ち着くみたいなところがあります。あるギターを弾き始めて18分後にその難点を見つけて、「オッケー、ここはちょっと調節して弾かなくちゃ、、」と首を曲げたり腕を曲げたりしながら弾くのです。私の背中は痛くなり、歯は割れて身体がぼろぼろになります。それは私が自分に合わないものにフィットしよう、適合しようとするからです。
でも神は「わたしがあなたの回りに、あなたの手のサイズに合ったものを、あなたに合ったものを、『キリストの愛』と呼ばれるものを形造ろうとしているのだよ。」と言われます。あなたはその中で歩み、生き、一日中その中で楽しむのです。あなたはそんなにも完璧にフィットするものから離れたくないからです。
今私はこの新しいギターでいろんな弾き方を試しています。知らない間に止めてしまっていた弾き方が沢山あったのです。それによって今までなかったこと、今まで届いたことのない境地に私は到達することができるのです。自分にフィットしているものに対する確信があるからです。フィットしないものでは考えも及ばなかったところまであなたは行けるのです。これが「自由」の真の意味です。
クリスチャンは今まで何世紀も、この世の人々がある日目覚めて教会に来るのを待っているのですが、主は「そうではないよ。あなたがフィットする場所に彼らもフィットするようにわたしは彼らを造ったのです。わたしは教会をすべての人にフィットするように造ったのです。」と言われます。私たちはそのような教会をつくることができます。その時この世の人々もそこに来始めるのです。そこが彼らにもフィットするように造られた安全な場所であることを彼らも知るからです。
祈りましょう。「父よ、私たちは今までどうにかして自分を適応させてフィットしようとして来ました。そしてあたかも適応したかのように見せかけていました。しかし、私たちは教会を、又すべてのものを私たちにフィットさせるのです。私たちが合わせるのではなく、それを私たちに合わせるのです。今まで自分が適応しようとして数えきれないほどの無益な試みをしてきたことを赦してください。私たちの救い主を被っていた衣、 縫い目がなく、裂かれることもなく一つに保たれた衣のように私たちも一つにされるのです。それはあなたが私たちをそのようにされたからなのです。あなたは今教会を私たちにフィットしたものとしてくださいます。私たちはまさに『この時のために』生かされているのです。ここから退きません。どうか私たちの祈りを聞き、今までの無益な努力をお赦しくださいますように。イエスの御名において祈ります。アーメン」(終わり)
16 07月
ダビデの幕屋
リック・ジョイナー(2014年6月29日礼拝説教より抜粋)
聖書の中には主が住まわれる場所として基本的に7つがあげられています。それらは主の宮となるように召されている教会のあるべき姿でもあります。主の住まわれる場所になることこそが教会の目的です。生ける石によって建てられた宮になるのです。神は人々を用いて建て上げられるのであって、規則とか、組織とかの上に建てられるのではありません。最高の組織であってもその中に悪い人がいれば、悪い組織になってしまいますし、最悪の組織であっても偉大な人々がその中にいれば、偉大な組織になるのです。主は人々を用いて建て上げられるのです。システムとか法則とか哲学とかではありません。確かに神はこれらのものを使われますが、建て上げるのには人を用いられます。
主が住まわれる場所の中で一つだけ、主が「建て直す、回復される」と言われたものがあります。それは「ダビデの幕屋」です。使徒行伝15:16に「この後、わたしは帰ってきて」とありますが、それは即ち主が再び帰って来られるときのことです。そして「倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。」と書かれています。すべての人々が主を求めるようになるために、主はダビデの幕屋を建て直すと言われるのです。
もし一番重要で主が建て直されるという御住まいについて理解するならば、そしてそれが主が来られる時というタイミングであることを理解するならば、私たちはダビデの幕屋について是非とも知る必要があります。ダビデの幕屋を理解するためには、ダビデについて理解せねばなりません。イエスもダビデの王座につかれたのです。ダビデについて多くのことを私たちは理解せねばなりません。それが今の時を理解することにもなります。
今という時を理解するためには、私たちはサタンがしていることの10倍以上主がしていることに注意を払わねばなりません。終末に関する資料、本、記事などは、サタンがしていること、しようとしていることに焦点が当てられていますが、それは間違いです。主はサタンよりもっと多くのことをしておられます。黙示録を見ても、最初の言葉は「イエス・キリストの黙示(啓示)」とあり、反キリストの啓示ではないのです。サタンのしていることはレーダースクリーンの本当に小さな点にすぎません。勿論私たちはサタンの策略に無知であってはなりません。私たちはそれらを知り、悟らねばなりません。それらは起こることです。しかしそれよりずっと重要なことは、神が何をしておられるかということ、そして私たちもその働きに入れられているということです。
神はその御住まいであるダビデの幕屋を建て直そうとしておられます。そこでダビデは神とお会いすることができました。仕切りの幕はありませんでした。神と人々とを隔てるものは何もなかったのです。誰でも主の前に出ることができました。あなたが祈るとき、あなたは文字通り万能の神の御座の部屋に入っていくのだということをご存知でしょうか。そこは私たちの理解を越えた栄光あるすばらしい場所です。もし私たちがそれを霊の目ではっきり見始めたらどうでしょうか。パウロが「あなたがたの目がはっきり見えるようになって...あなたがたが知ることができますように」とエペソ1:18、19で言っているのはこのことです。旧約の預言者たちは霊の目で大いなる主の栄光を見ました。天使の軍勢を見ました。私たちも今、そのような啓示へと向かっているのです。霊のリアリティーの中に入るのです。
あなたの人生でたったの一瞬でも全能なる主を喜ばせることができるのなら、その人生は価値あるものです。主の民が祈るとき、主は喜ばれます。今日、あなたは全能なる神に喜びをもたらすことができるのです。私たちが目には見えなくても信仰で御座の部屋に入っていくときに、主は更に喜ばれます。ですからこのようなすばらしい機会を無駄にしないでください。
ユダヤ人は常に知識と悟りを得ようとしてきました。ユダヤ教のラビの資格を得るためには、ものすごい訓練を通らねばなりません。トラーを全部暗記せねばなりません。イエスの時代のパリサイ人たちも聖書を全部暗記していました。もし空で暗唱できなければ、その箇所を知らないのだ、と人々はみなします。そしてユダヤ人が特に学んだのがモーセとダビデの二人についてでした。「ダビデはゴリアテを倒した」以上のことがダビデにはあります。ダビデの幕屋について知りたいならば、もっとダビデについて知るべきことがあります。
ゼカリヤ12:8、9には「その日、主は、エルサレムの住民をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者(the one who is feeble)もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。」とあります。今、主の家でもっとも弱い者たちがダビデのようになる時を私たちは迎えようとしています。ダビデは聖書の中で恐らく一番の勇者だったでしょう。彼はまた一番のワーシッパー(礼拝者)でした。私たちはこの両者が一つになるのを見ると思います。勿論、私たちの戦いは人々を征服するのではなく、人々を解放する戦いです。殺すことではなく、癒すことです。ものすごいワーシッパーと勇者が出てくるのです。
ヘブル12:13には「また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。」とあります。レオナルド・ラビンヒル牧師を私がよく訪ねたときのことを思い出します。彼はその時代の多く信仰者のメンターでした。デイビット・ウイルカーソンも彼に薫陶を受けましたし、キース・グリーンなどもそうでした。彼の家に行くと、多種多様な人たちが集まっていましたが、彼は訪れる人のズポンをたくし上げてその人の膝を調べるのです。それは多くの時間を祈りに割いているかどうかをチェックしたわけです。
私は今膝を痛めています。野球の捕手をしていた時に痛めたことと、モーターサイクルの事故でもっと酷くなりました。でも主はそれを
完全に癒してくださいました。ちょっとした階段も上れなくなって手術をしなければならないと思ったとき、主は瞬時に癒してくださったのです。それから5年経ちましたが、もう一度主に触れていただかねばなりません。でも私はこの膝よりも、霊的な膝が欲しいのです。私たちが主に膝をかがめるのは、主の前に遜るだけではなく、祈るということです。聖書の中でダビデに関してもっとも多く書かれていることは、「ダビデは主に伺った」ということです。
サウロは人々が散り始めたときに自分で生け贄を捧げてしまいました。彼は回りからのプレッシャーに負けてしまいました。彼はレビ人ではありませんでしたから、生け贄を捧げる資格はなかったのです。それが原因で彼は王国を失うことになりました。彼はその後も長く王座に即いてはいましたが、神の御国での役割はその時終ったのです。彼は神よりも人々や回りの状況を恐れたのです。
ダビデはその反対でした。彼は極限の状況の中に置かれました。あまり人が経験しないほどのものすごいプレッシャーを受けました。自分の家族、子供たちが連れ去られ、自分の忠実な部下たちの家族も連れ去られ、怒った部下たちが石を投げて彼を殺そうとしました。大変な時でした。しかしダビデはその時、馬に飛び乗って「敵の後を追いかけて家族をとりもどそう!」とは言いませんでした。そのようなプレッシャーの中でも「ダビデは彼の神、主によって奮い立った He strengthened himself in the Lord his God(第一サムエル30:6)」のです。そして8節にあるようにダビデは主に伺いました。これがダビデとサウロの重要な違いの一つだと私は思います。
主が今私たちを導こうとしておられる祈りのレベルは、ものすごいレベルです。私たちが本当にそれを理解し始めるならば、私たちは神の御座の部屋の中にいるのです。そしてあなた自身がどこにいるのか分からなくても、御座の部屋にいるものたちはあなたを見ることができます。そこに私たちはしもべとして入るのではなく、王の息子、娘として入るのです。王の家族として入るのです。大胆に入っていくように私たちは教えられています。神の恵みの御座の前に大胆に行くようにと言われています。私たちはそのような者となり、そのときかつてなかったほどの影響力を持つ者になると私は信じます。
ヘブル10:35に「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」とあるように、確信は私たちに報いを与えてくれます。確信と傲慢の違いを知る必要があります。多くの人は高慢、傲慢になるのを恐れて確信を持たないことがあります。神は遜るものに恵みを与えてくださいますが、聖書の中で最も偉大な恵みを受けたのは
ダビデだと思います。しかしダビデは高慢だと思われていました。彼の兄弟たちさえ彼がうぬぼれていると言いました。しかし、ダビデはそのような批判に怯まず、確信を持って巨人を倒しました。人々はゴリアテを「大きな巨人」として見ましたが、ダビデは彼を「大きな標的」と見て、絶対に当たる、と考えたのです。彼は王のよろいをつけましたが、自分の身体に合わないといって脱ぎ捨てました。私たちはダビデのように高慢にならずに確信を持つ事を学ばねばならないと思います。
どのような分野においても確信、自信は重要です。スポーツチームのことを考えて見てください。確かに高慢になったときにそのチームは倒れてしまいます。しかし確信をもたずに勝つことは絶対できません。リーダーを信頼して確信を持ち、作戦に確信を持ち、チームメイトに確信を持つ必要があります。確信には様々なレベルがあり、私たちはそれを理解する必要があります。何よりも主に信頼し確信を持つことが大切です。ダビデは自分の王がどのようなお方であるかを知っていました。クリスチャンはこの世の誰よりも確信をもって人生を送るべきだと思います。恐れをもって人生を歩んではいけません。信仰をもって生きるのです。
私たちは「圧倒的な勝利者 more than conquers」となるべきです。この世の偉大な勝利者たちを思い出してください。私たちはそれらの者を越えた勝利者であると言われています。今人生で起こっていることは、すべて私たちが勝利するための機会、チャンスであると考えるべきです。征服する機会なのです。すべての試煉、すべてのテスト、今直面しているすべての問題を見て、勇士たちは勇み立ち興奮するのです。私たちは勝利を得たいと思いますが、戦わずに勝利を得ることはできません。大きな勝利を得たいならば、大きな戦いをせねばなりません。真の勇者たちは戦いのラッパが聞こえたときに逃げるのではなく、ラッパの音に向かっていくのです。「もう一つ試煉がきたぞ。問題が起きたぞ。」と言ってわくわくするのです。使徒行伝14:22でパウロは「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない。」と言っています。即ち、すべての苦難、すべての試煉は私たちが天国へ入る門だということです。ヤコブが「私の兄弟たち。さまざまな試煉に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」と言っているのはこのことです。これからそのような勇者たちが起こされてくると思います。彼らは凱旋、勝利を見ます。そして圧倒的な勝利者になるのです。
第二コリント2:14に「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」とあります。私たちは「いつでも」勝利に導かれるのです。ローマ8:37には「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことにあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」と書かれています。勝利を確信して歩む人々が起こされてきます。敗北などはありません。
詩編18:28、29でダビデは「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。」と言っています。第二テモテ1:7には「神が私たちの与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。」と書かれています。正義は獅子のように勇敢です。私たちは獅子の子ですから、私たちも獅子なのです。
モーニングスター教会は7月は安息の月で、すべての礼拝、集会は休みになります。家族の礼拝や、個人的に主と交わる時を持つためです。
祈ります。「主よ、どうか皆があなたに近づくための時間を持つ事ができますように。どうか天との邂逅がありますように。どうか夢を、幻をお与えください。天使の訪れをお願いいたします。どうか私たちを引き上げてくださり、あなたの御座を見せてください。あなたを仰ぎ見てあなたの栄光を見ることができますように。どうかあなたの民から臆病さを取り去ってください。自分にばかり目を向けていることから抜け出して、御座におられる方に目を向けることができますように。上にあるものに私たちの目を注ぐことができますように。何よりもあなたに目を注ぐことができますように。あなたがどのようなお方であり、どこに座しておられる方かを知ることができますように。どうかあなたの栄光を見せてください。ただの教義を知識として知るだけではなく、この真理の中を生きて歩むことができますように。そして私たちが召された者へと変えられていきますように。どうか自分の失敗からくる恥を取り除いてください。私たちは皆失敗し、間違いを犯しました。どうかすべての恥をあなたの十字架の力によって取り除いてください。あなたの十字架がその代価を払うのに充分であることを悟らせてください。あなたの贖いの生け贄により代価は支払われたので、私たちの罪がどれほど深く悪いものであっても、大胆にあなたの御座の前に進み、恵みを頂くことができることを信じます。自分ではできません。あなたの恵みが必要です。私たちがあなたの恵みを頂いていることを心から感謝いたします。圧倒的な勝利者となるための恵みを頂いたことを感謝いたします。自分を見て何とかしようとすることを止めて、自分の足りなさではなく、あなたの勝利を見てあなたの安息に入ることができますように。あなたの義が私たちの義であることを、あなたが成し遂げられたことは充分であることを、自分の失敗ではなくあなたの勝利を見て栄光から栄光へと変えられていきますように。死んだ自分を墓から掘り返して生き返らせようとするのではなく、それは埋めたままにして前進して行くことができますように。私たちには新しい命があり、新しく造られた者であり、私たちの命はキリストとともに神のうちに隠されているのです。私たちはあなたの中に隠されているのですから、新しい創造としてのいのちを生き始めさせてください。もはや古い創造の足かせにつながれることがありませんように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン(終)
08 07月
信仰の歩みの中で起こる疑い
キャシー•ペルトン
「もしかして〜だったら」
この「もしかして私の思っていたことが〜間違いだったとしたら?」というような否定的な疑いの思いが浮かんでくることがありますが、それをたとえてみれば、肥沃な信仰の土壌に埋められた恐ろしい地雷のようなものと言えそうです。それは信仰深いクリスチャンがまさに眠りにつこうとしている時とか、或いは何か新しいことを信仰で始めようとする時に、サタンが最も好んで投げつける疑いの言葉の一つです。あなたが主の麗しさや慈しみを享受しつつ、希望と平安を感じ始めたまさにその時、この「もしかして...」という言葉は、あたかもあなたの動脈に突然、氷水が注入されたかのように、あなたをゾクッと身震いさせたことがないでしょうか。
「もしかして私が聞いたと思ったのは神の御声ではなかったとすれば、、、」
「もしかしてうまくいかないで失敗してしまったら、、、」
「もしかして私が見たと思ったヴィジョンは、神からのものでなく、ただの想像だったとすれば、、、」
「もしかして神が言ったと信じたことが実は神が言わなかったとすれば、、、」
氷水!
ちょっと待ってください。これは聞いたことがあるような言葉ですね!聖書の中に最初に出てくる蛇の話はこうです。
「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。』」(創世記3:1)
これが私たちにとって、最初の「もしかして、、、」であったのです。
私は最近そのような経験をしました。一晩中「もしかして...?」という否定的な思いで悶々と過ごしたのです。実は私たちの家族全員が(すでに結婚している子供たちとその伴侶も含めて)別の州に引っ越すという大きな出来事があったところでした。この引っ越しは私たちが「神の声を聞いたから」と信じたことに100%基づいていました。この引っ越しを正当化する目に見えるしるしは何もありませんでした。引っ越し先には仕事の保証もなく、友人や知人もなく、何の招きも約束されたチャンスもなかったのです。
私たちは主からの言葉を聞きました。ですから、主の御声と信じる信仰によってのみ、その声に従ったのです。「神はほんとうにそう言われたのかしら?」という疑いが私を一晩中攻撃したとき、私はタイタニック号が氷山に衝突した時のように感じました。「信仰で水の上を歩いていた」のに、一瞬にして真っ暗な氷の海に沈んでいったのです。しかも速く。
敵は人を恐れさす質問で矢継ぎ早に攻めてきます。それは従順なクリスチャンを心(信仰)から頭(理性)へと素早く後退させるのです。「もしかして...」という思いは、クリスチャンの頭の中で機関銃のように鳴り響きます。感情の地雷が炸裂し始め、信仰の防御壁をずたずたに切り崩します。
もしあなたがこのようなことを経験したことがあるとすれば、安心してください。というのは、もしあなたが本当に主の御声を聞いていないのならば、敵がこのような質問で攻めてくることはほとんどないからです!
あなたが実際に神の御声を聞いて、それに従う時に、敵は「神は本当にそう言われたのですか?」という攻撃を始めると考えて間違いないでしょう。
それはする価値のあることです!
私にとってこのことだけは確信があります。即ち、神の御声を聞いてからあなたが取るすべてのリスクに対しては、神が「物質的な必要を十分に満たしてくれること」とあなたの行く手には「驚くような機会に通じて開かれる扉」で満ちているということです。敵が「もしかして〜だったら」とか「神は本当にそう言われたのか?」と言ってあなたを恐れさす時には、ただ一つの答えかあります。それはこれです。
それは、「もし私が神の御声を聞いたのではなくて、御こころではない計画を自分で立ててしまったとしても、その計画の中で神は私の歩みを正しい方向へと導いてくださる」ということです!
このことを裏付ける聖書箇所があります。
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。』(箴言16:9)
私は主の御声を聞く自分の能力を信頼しているのではありせん。私は主を信頼しているのです!神は信頼に足る私のお父さんであり、信頼すると私を救い出して確かな道へと私の歩みを導いてくださるのです。私は神は信頼できる父であることを知っています。私の歩みと計画を神にすべて委ねるとき、神は私を確かな道に歩ませてくださるのです。私たちは自分の賜物や自分が聞いたこと、或いは自分の従順さにさえも信頼しないで、むしろ、私たちが愚かな人間であるにもかかわらず、神は忠実で誠実な父であるという事実に信頼を置くのです。それは、私たちが神のために捧げるすべての愛の小さな始まりを、神は尊重し喜んでくださることを知っているからです。
あなたのするすべてのことを主への礼拝の行為として行ってください。私たちが先月引っ越しをした時は重労働でしたので疲れ果てました。その時、痛い足で歩く一歩一歩を、荷物をつめる一箱一箱を、かかる費用の一ドル一ドルを、主を礼拝する行為とすることに私は決めたのです。それがどれほど仕事をはかどらせたかは言い表せないほどです。
主の御声に従う道はいつも簡単であるとは限りません。しかし、それは常に最良の道です。昔私たち家族が異国に移り住んで、すべてを神に頼るという信仰で生活していた頃、まだ小さかった子供の一人がひどいホームシックにかかったときのことを思い出します。子供たちをこれほどに悲しませてまで他国に来る価値はあったのかと、私は悩みました。その日曜日に私たちの教会のワーシップチームがリタ•スプリンガーの「Worth
It All することのすべてに価値がある」という歌を歌い始めました。その瞬間、御声に従う事によって直面するすべての苦しみ、疑いの声に打ち勝つためのすべての戦いには価値があることを私は悟ったのでした。今の新たな信仰の旅路を後になって振り返るならば、私はきっと同じことを言うに違いないと思います。しかし、私は信仰によって今「これをすることには充分な価値がある!」と宣言します。
「もしかして...」を逆転させる
先月、疑いや迷いと戦っているとき、私は友人から素晴らしい励ましの言葉を受け取りました。それは否定的な「もしかして...」を肯定的な「もしかして...」に変えたらどうか、という提案でした。あなたが前進しようとする時、もし敵に「もしかして...」という言葉で攻撃されたならば、地雷の原っぱを夢の野原へと変えるのです。次のように考えてみてください。
もしかして私がずっと望んでいたことが成就するのかも...」
「もしかして私は失敗するのでなくて飛躍するのかも...」
「もしかして神の御計画は私の夢や期待を遥かに越えているかも...」
「もしかしてこれが私の人生最高の旅になるかも...」
「もしかして私の想像を越えた素晴らしいことが起こるかも...」
「もしかして私の行く手にはいつも恵みがあるかも...」
どうか神と一緒に夢見てください。あなたのしようとしていることはする価値のあることです!
私は子供たちが夢や願いを話してくれるのを聞くのは大好きです。私は彼らの夢や願いを否定することなど絶対しません。大きな夢を描くように励まします。彼らの夢が叶うのを一緒に見ることが出来るのは本当にうれしいものです。もし私が子供たちの夢を愛するとすれば、神は私たちの夢をそれよりもっと愛しておられるに違いありません。すべての夢はリスクを伴いますし、すべてのリスクは戦いを伴います。人生はリスクに満ちていますが、あなたが主からの御ことばを持っているならば、「リスク」は「保証」に変えられます(アップ・グレードされます)。
「信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)
ヘブル11:1には、信仰に伴う約束が書かれています。この約束によりあなたは、敵が疑問を投げ掛けたとき保証と確信をもって答えることができるのです。あなたが望んだことすべてが叶えられるという保証の中を、信仰をもって前進してください。あなたを決して離れず見捨てないお方から目を離さないでください。主は誠実なお方です。(終わり)
Kathi Pelton
Oceans In The Desert
Email: jkpelton@sbcglobal.net
Website: oceansinthedesert.co
02 07月
ワーシップと主の臨在
ダン•ポッター(2013年10月モーニングスター•ミニストリー•ワーシップカンファレンスにて)
15年くらい前のことですが、神が私の人生のいろんなボタンを押し始めました。私は押して欲しくなかったボタンだったのですが、神は私の人生を変えていきました。私はフォークソング・シンガーで、のんびりとした甘い歌を歌っていました。そしてクリスチャンになったのですが、同じように甘いクリスチャンの歌を歌っていこうと思っていました。やがてモーニングスター•ミニストリーに来るようになり、そこでリック•ジョイナーと出会いました。皆さんもご存知だと思いますが、彼は社交辞令を言うような人ではありません。非常に預言的なので、霊的にあなたを揺さぶる人です。
モーニングスターで6日間のカンファレンスをすることになり、いろいろなスピーカーによる集会がありましたが、3日目の日曜の夜にコンサートのようなものがありました。数人のミュージシャンが集まって順番にステージに立ちました。ジョン•エリオット、ジュリー•ジョイナーやスジーもいたと思います。私の番は最後でした。それらの人々が次々に演奏したり歌を歌ったりしたのですが、本当にどんどん素晴らしくなっていくのです。皆さんはそのような時、「そんなに上手だと困るなあ...」と思われたことがありませんか?-自分はその後に演奏しなければならないのですから、それよりうまくないとちょっと困るのです。私は自分の演奏曲目を頭の中で何百回も並び替えました。
私がステージに上がる番になったので、私は甘いフォークソング風のクリスチャンの歌をギターを弾きながら歌い始めました。それは人生で一番惨めな経験となりました。サタンが私の耳もとで「おまえは何をしているんだ。死んでしまった方がいいのではないかい?
もう家に帰ったらどうだ? これは預言的カンファレンスだよ。おまえは本当にバカだね。」とささやき続けるのでした。
私は2曲目の半ばまで歌ったときに、あまりにも霊的に乾ききりそのドライさがひどいので、もうやめて帰ろうと思い、歌うのを中止してこう言いました。「皆さん、こういう機会を与えていただいたことは感謝しているのですが、こんなにひどい苦しみに会った経験は初めてです。敵がひどく私を攻撃して来ており、どうしてもそれを振り切ることができないのです。私はこれ以上我慢することができません。私と同じように敵に腹を立てている人はいますか?」すると、そこには2200人くらいの人がいたと思うのですが、みんなが一斉に立ち上がり、叫びながらステージの前に走りよってきました。それには私も驚きました。
しかし、私の背後にいるドラマーのマイク•メイプルはずっとたたき続け、レオナルド•ジョーンズはベースギターを弾き続けました。私が何をしたからではなく、天がその場を支配し始め、霊的戦いが始まったのです。人々は叫び、ドラムはなり続け、私はギターをかき鳴らし続けました。甘い歌を歌うつもりだったのが、もう何の歌を弾いているのかもわからなくなっていました。ただ天からの油注ぎを受けてそれに押し出されるよう弾き続けていました。少し騒ぎが収まるのに2時間かかりましたが、それで終わったわけではありませんでした。私は何度も終わらせようとしましたが、止められません。人々がこれほど敵に腹を立てていたとは知りませんでした。サタンのネガティブな声を聞いて苦しめられていたのは私だけではなかったのです。
そういうことがあったので、リックがワーシップ•カンファレンスをしようと言い出しました。そのカンファレンスは最初「ダビデのこころ」というタイトルだったのですが、最終的には「ワーシップと霊的戦い」に変えられました。ワーシップは戦いだからです。そして驚いたことに、そのカンファレンスに大勢の人が押し寄せて来て、会場はあふれてしまったのです。
それは全くクレージーなカンファレンスとなりました。聖霊が主導権をとったのです。神が介入されたのです。私は自分がすることや自分のやり方には飽き飽きしていました。神にやって欲しいのです。皆さんはどうですか?
今教会で行われているワーシップに退屈している人はいませんか?それを認めるのは罪ではありませんよ。もっと高いものに対する飢え渇きを持つのはよいことです。飢え渇きがないときには退屈にはなりません。飢え渇きがあると、「私はもっと欲しい。私は絶対にもっと必要だ、欲しいのだ。」という思いがわき上がってきます。
その後数年の間、私は多くのカンファレンスを経験し、私の人生は神によって変えられていきました。しかし私の中である一つの小さなことが起こっていたのです。これはほとんど気がつかないうちに起こっていました。
最初の「ワーシップと霊的戦い」のカンファレンスの時、臨在の雲が舞台の上に立ったことがありました。勿論みんな大喜びで興奮しました。モーニングスターはその臨在の雲のおかげで有名になりました。多くの人がワーシップ中に聖霊に満たされたり癒されたりしたときに、そのワーシップをリードしているミュージシャンたちが、「これは自分たちとは全く関係なく起こっている」と考えるのは大変難しいです。どうしても自分の演奏と主の臨在とを関連ずけてしまうからです。
その年の秋にまたカンファレンスがありました。なんと、舞台に雲を立たせるのは「私の責任」という感じになってしまったのです。(笑)そんな試みにどのくらい成功率があると思いますか?
生ける神の臨在の雲を呼び起こすことなど、人間には到底できることではないのですが、しかし、人々はそれを私に期待したのです。私は胸が張り裂ける思いでした。人々の期待に答えるために何かをした経験のある人はいますか?
主はその時こう言われました。「今日のワーシップは全くドライになるよ。あなたは何もできないのだから。」と。
私は臨在の雲を現そうと必死にワーシップを導きました。非常に苦しい経験でした。会衆はとても好意的でナイスで、私の音楽に合わせて歌い踊って「とてもいいね」と楽しんでくれていました。でも霊的には非常にドライでした。ついに神は私に歌の途中で演奏をやめるように言われました。「これはわたしではない。」と言われたのです。私は「これは神様、あなたではないのなら私ということですね、わかりました。あなたではなく私なのですから、これは本当にどうしようもないですね。どうしたらよろしいでしょうか。」と申し上げました。すると神は「『わたしに赦しを乞う』ことをしてはどうか。ワーシップを止めて、人々に『神様に何かさせようとしていたことを悔い改めましょう。』と提案してはどうか。」と言われたのです。自分の力で主の臨在をもたらそうとした経験は、きっと皆さんもあるのではないでしょうか。
私はもう主の言葉に従うしかないところまできていました。それで演奏をやめて自分が自分の力で演奏していたことを人々に告白し、悔い改めました。人々は泣き始め、私を赦し、また彼らも「神ぬきで御国を現そうとしていたこと」を悔い改めました。「御国を来たらす」ことを自分たちの力でしようとしていたのです。でもそれは絶対に起こりません。そこで私たちはしばらくの間悔い改めの時を持ちました。すると主が顕われてくださいました。2、30分の間です。そしてまたアイオワに行ってしまわれました。(笑)その残りのカンファレンスの期間は引き続きとてもドライでした。私たちはどうにかしようとして戦い苦しみました。いろいろとしましたが、うまくいかないことが沢山ありました。
神の御国には統制・管理するガバメントがあります。クリスチャンは自分たちは信じているからガバメントは必要でない、みんなそれぞれの方法で神に従えばいいのだ、と考えがちです。私たちはナイス-いい人です。でも神はナイスではありません。神は親切で慈しみ深い方ですがナイスではない。ナイスというのは、うそをつくことです。神はうそをつきません。私たちはナイスなので、誰かに「やめろ!バック・オフ!」と言うことなど考えられないのです。
神が次ぎのように言われた時のことをよく覚えています。礼拝が始まる前、ミュージシャンたちと祈ったときに、私はこのように言いました。「私は今日のワーシップがどのように進んでいくのか実際のところ予測できません。」するとみんなは「オーケー」といってそれぞれの位置につき、好き勝手に演奏し始めました。私が舵をとらなかったので、他のメンバーたちが思うようにやり始めたのです。私がいてもいなくても全く関係がなかったでしょう。私は心の中で「エー、一体何が起こったんだ!」と思いました。すると主が「あなたがワーシップがどこに向かっていくか知らないからといって、それはあなたがリードしないということではない。」と言われたのです。神の御国にはガバメント、統制、統率があるのです。ガバメントが必要であり、それは確立されねばならず、人々はそれに従わねばなりません。それがないとき、主はワーシップタイムを祝福されません。主はそこには来られません。あなたが「主よ、来て下さい!」と一生懸命にお願いするのは自由ですが、主は来られませんよ。
という訳で、私たちはひどいワーシップを続けました。人々はすごくやさしく親切で、私たちのワーシップがドライであることを非難したりしませんでしたので、私たちはわからないままに演奏を続けたのです。幾度かのカンファレンスがそんな具合でした。
しかしとうとう、バンドが集まり、みんなで私のところに話にやってきました。彼らは私の権威のもとに従うと言って来たのです。言っておきますが、それは私にそのような価値があったからではありません。私たちのワーシップチームのミュージシャンの中には素晴らしい才能をもった人たちが沢山いました。誰でも問題なくワーシップリーダーを務めることはできました。けれども理由はわかりませんが、神は私をリーダーに選ばれたのです。彼らは「私たちはあなたに従いますから、どのようにすればいいのかを言って欲しい。」と言いました。
それからみんなが、私のリーダーシップに従う訓練をされたのです。
神は後ろで歌っている人に霊の歌を与え、それと同じのを私に与えられて、後ろの人をいらいらさせることがあります。スージーが「神が私に歌を与えられて私が歌おうとする前に、どうしてあなたが歌い出すの?私のチャンスをあなたは奪ったわ!」と言って怒ったことがありました。私は「どうしてかわからないけど、多分、神様はあなたがじっと神からのタイミングを待てるかどうかテストしたんじゃないかな。」と言いました。
ステージの上で起こることの半分は、人々の中でも起こることです。ワーシップチームはキリストのからだの中で起こることを目に見える形で表すものかもしれません。あなたが耐え忍ぶことができるか、あなたが主と一致することができるか、神はみんなをテストしているのでしょう。あなたがガバメントに従うことができるか、自分をしつけることができるか、と。これは難しいことです。でも私たちは今までのように生き続けてはならないのです。一歩前進せねばならないとあなたは感じておられるでしょうか?
音楽は音楽であり、どこででも聞くことができます。しかし神が音楽を使われるとき、私たちが神の音楽をどのように取り扱うかを知らなければなりません。
主は私たちのワーシップにすばらしい油注ぎを与えてくださいました。ジャクソンビルで起こった時のことですが、ある集会に朝9時に出掛けました。神が「今日わたしはある事をします」と言われました。私は「それは素晴らしいですね。それで一体何をされるんですか?」と聞きました。勿論神は教えてくださいませんでした。私に教えたらすぐにみんなにその秘密を吹聴してしまったことでしょう。
そこに着いて、私が作曲した「Who Do You Say I Am あなたはわたしを誰と言うか」という歌を演奏し始めました。この曲を演奏したのはその時が初めてでした。歌い始めて「あなたはキリストです」と叫ぶ部分にきたとき、突然停電になり、真っ暗になってしまいました。5秒くらいで電気はついたのですが、全員がこれは停電ではなく神がされたことに気がついたのです。神がそこにおられました。その教会の人が言っていたのですが、そこには私設の発電機があって停電には絶対ならないということでした。停電になることは不可能だったのです。
停電になったとき、人々の叫びと共にいろんなことが起こり始めました。神が私に「わたしは誰が本当の勇士であることを示します。」と言われました。停電になったとき人々は慌てふためき、ミュージシャンは床に座りこんでいました。でもドラマーのマイク•メイプルはドラムを叩き続けていました。ベースのレイノルド•ジョーンズも弾き続けていました。そして、私もギターを弾き続けました。すると主が「これらが勇士たちです。」と言われました。他の人たちは全部床の上に座りこんでいました。しかし勇士たちは油注ぎのパワーの中でも機能し続けたのです。私たちはそのことを学ばねばなりません。
「油注ぎが激しくて人々は驚いて右往左往しています。」そうです。でもあなたの役目はなんですか。演奏を続けることです。「でも人々はたじろいでおろおろしてますよ。」そうです。でもあなたの仕事は何ですか。歌を歌い続けることです。「でも癒しがそこかしこで起こっています!」ええ、でもあなたの仕事は曲を演奏し続けることです。
油注ぎが激しく下ったとき、キチンと演奏することを投げ出してしまうことが何度あったでしょうか。その時主の臨在は去ってしまうのです。私たちは主の臨在をもてなしてその中で演奏を続けることが出来なかったのです。ですからどんなことがあっても演奏をやめてはいけません。主が「ストップ」と言われるまでです。簡単でしょう?
神のパワーが下るとき、おろおろしないで、もっとしっかり演奏を続けるのです。
10分くらいの大騒ぎのあと、やっと人々が落ち着き始めました。その時に10歳の女の子が救われました。それは溺れそうになっていたのが救われたのです。湖でボートに乗っていたときに水中に落ちたのですが、ちょうどそれは電気が切れた瞬間だったのです。電気がついたとき私たちは救いの歌を歌ったのですが、私は霊で感じて「誰かが救われた!」と言ったのです。その時にその女の子は水の中から救われました。それはその教会の駐車係をしていた人の娘でした。
このような小さなことの関連性はまったく無意味だと思われるかもしれませんが、神がされることはすべて重要なことで、神の目的があるのです。その目的が何であるのかをあなたは知らないかも知れません。あなたの歌う歌がまだ教会に来ていない人の耳に神が届かせているのかもしれないのです。
物事を統率するガバメントがあなたの教会においても確立されねばなりません。頭の中だけで賛成しているのではいけません。「私はガバメントに反対ではありません...私がボスでいられるかぎり。」とかね。(笑)でも一つの秘密を教えましょう。イザベルとう人物がいましたね。コントロールをする女性のことだと普通考えてしまいますが、そうではありません。それは聖書の言葉をあなたが生きている時代に合わせて変えてしまう霊のことを言うのです。彼女は「律法はすばらしい、私に適応されない限りは。」と考えたのです。「それは私には適応されないから、私は私の好きなようにするわ。」という霊なのです。
同じ霊が今の教会に来て「あなたたちは恵みによって救われたのだから、何をしてもいいのよ。不品行をしたり、偶像に供えた肉を食べてもいいのよ。」と言うのです。今教会でそれが起こっています。そしてその多くはミュージシャンを通して来ています。ミュージシャンはガバメントの下に従うことを拒否する傾向にあるからです。