Archive for 4月, 2014:
30 04月
コイノニアの推進
リック・ジョイナー
イエスの大宣教命令について語る時、コイノニア(主にある交わり)が非常に重要である理由は何でしょうか? 私たちが大宣教命令をうまく遂行できていない理由の一つは、私たちが弟子を作らずに回心者だけを作るという傾向にあったからです。大宣教命令は弟子を作ることです。もし弟子が作られなければ、私たちはこの任務を果たせていないことになります。
「弟子とは何であるか」については、主がはっきりと定義しています。真の弟子は、今日のクリスチャンの中にはほとんど見つけることができません。その理由の一つは、真の弟子作りはコイノニアなしには不可能だからです。1ヨハネ1:7に「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わり(fellowship, koinonia)を保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。
この箇所からはっきりわかるように、コイノニアなしには私たちは絶対に光の中に留まることはできないのです。それは私たちがきよめられるためにも不可欠です。私はよく冗談のように言うのですが(しかしそれは真実なのですが)、教会生活上のフラストレーションや不愉快さ抜きで、私たちが召されているキリストにある成熟度に達することは絶対にできません。フラストレーション、不愉快さ、傷つくこと、失望は、コイノニアの小さな部分にすぎませんが、私たちの成長のためには不可欠です。コイノニアの経験は勿論ネガティブなことよりもずっとポジティブなことの方が多いのですが、様々な問題は私たちの成熟に役立ちます。
教会生活を理想化したり教会を否定したりすることは、私たちをいのちの道から遠ざけます。真の教会生活、コイノニア、は私たちが経験する最もすばらしいことの一つになる可能性があると同時に、もっとも困難なことにもなり得ます。それはすべての人間関係、たとえば結婚とか、においても同じです。主が種まきの喩えで教えられたように、試練のテストが来たときに多くのものは離れて行きます。多くの者が教会を離れて行きます。現代においては多くの者がテストがきたとき結婚生活からも離れて行きます。テストが来たときに止めてしまうのでは、決してテストに合格することはできません。
結婚の破綻は教会生活の破綻と関係していますし、その反対も言えます。一方を癒すものは他方をも同じように癒すのです。十字架の縦の棒は私たちと神との関係を示し、横の棒はお互い同士の関係を示しています。自分の十字架を負うということは、私たちの人生には両方が必要ということです。勿論神との関係は、人間同士の関係よりずっと重要であり、常にそれを第一とせねばなりません。しかし、それを守って第一としているならば、もう一方も持つことができるのです。ヨハネが書いています。「もし目に見える兄弟を愛していない者は目に見えない神を愛することは出来ません。(1ヨハネ4:20)」
それでは、教会生活の中でコイノニアを推進するために何ができるでしょうか? 第一に、私たちは何よりもまず主の臨在を追い求めねばなりません。すばらしい神殿でも、もしその中に神がおられなかったら何にもなりません。次に私たちは人間関係において、ただ追い求められるのを待っているのではなく、自分から追い求めねばなりません。バルナバはパウロを連れに自分から出かけて行きました。そして彼ら自身の究極的な召しへと解き放たれる前に、二人が 正しい関係に入る必要がありました。
当時これは非常な努力を必要としました。バルナバがタルソまで旅をし、またアンテオケまで戻るには数ヶ月かかったに違いありません。今は教会まで30分運転するのを厭わない人はなかなかいません。何かが「宝」になる要素は、それが非常に希有であるか、もしくは入手するのが非常に困難であるということです。コイノニアとは人生で手に入れることのできる最も偉大な宝の一つです。それは安価でもなく見つけるのも容易ではありませんが、あきらめないで探し続けるだけの価値をそれに認める人によってのみ見つけられるのです。神が建てられている町、すなわち、アブラハムを初めすべての真の信仰の旅人が探していた町は、イエスを土台としたコイノニアで建てられるのです。
主の臨在を求めるということは、主の祝福を求めること(現在の教会はこれを強調することが多いですが)よりずっと深いことです。 主は、ご自身が臨在されないときにも多くのことを祝福されます。主は「二人でも三人でもわたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)」と言われました。この「集まる gather」ということばは、単に同じ部屋にいるという意味ではありません。それは一つの自転車の部品が組み合わされているようにぴったりと組み立てられているという意味です。これが私たちが「いっしょに集まることをやめたりしないで(ヘブル10:25)」と言われている理由です。これは単に集会を休まないようにというのではなく、「しっかりと組み合わされなさい」という召しをおろそかにしないようにという勧告です。
実際に、教会のいのち(コイノニア)がある教会を建て上げるためには、会員同士の交わりを意図的に推進していかねばなりません。それにはスモール・グループ、食事会、ミッション・トリップのほか各種の活動が含まれます。しかしながら、本当にコイノニアとなるための集りは、常に主の臨在を中心とせねばなりません。 すべてのことはこの目的のための助けにはなりますが、活動のためにただ集まるだけでは、コイノニアにはなりません。
すべての霊的追求においては次の原則を忘れてはなりません。即ち、「神から約束を受けた場所と約束の地(約束の成就)との間には、必ずと言っていいほど荒野があり、それは約束されたものとは正反対のものである。」という原則です。この荒野は、私たちが約束の地に入る備えができるように意図されているのです。コイノニアを追い求め始めたとき、人間関係の問題があちこちで起り、コイノニアとは正反対のように思えても、動じないで下さい。それはあなたが確実に正しい道を歩いているというしるしなのですから。(終)
22 04月
鳩のような聖霊ーその2−
ビル・ジョンソン
福音のミニストリーとは、単に言葉だけでするものではなく、地上に主の臨在を解き放つことなのです。ある時イエスが道を歩いておられたとき、イエスのされた奇跡を見て興奮した群衆が回りに押し寄せてきました。するとイエスは立ち止まり「わたしにふれたのは誰か」と聞かれました。そして振り返って長血の女を見られました。病気を直すためにすべての財産を失った女でした。彼女はただイエスの衣のすそに触れただけでした。 聖霊の臨在は単なる論理とか教義ではなく、神というお方の実体なのです。聖霊はイエスの上にとどまっておられたので、女が衣のすそに触れたときに、イエスがもっておられた聖霊の実体が流れてきて彼女はそれを受けることが出来たのです。このように聖霊の臨在が自分の上にあることをはっきり自覚し、誰かがそれを求めた時にそれが流れていくことがわかるという敏感さをもって生きるとは、どのようなことでしょうか。神は御霊をイエスの上に無限に与えられていました。ですから誰かが持っていったのでイエスの上の聖霊の臨在がもうなくなった、ということではありません。イエスは常にご自分の上にある聖霊の臨在をはっきりと意識しておられました。イエスと御父との交わりを司るのが聖霊の役目だったからです。イエスは父のすることだけをし、話されることだけを話したのですから、聖霊につねに頼っておられたのです。
ペテロとヨハネは神殿に行くときに、生まれつき足のきかない男を見ました。ペテロは「私は金銀はないが、私にあるものをあげよう。」と言いました。これは非常に意味深い言葉です。ペテロは「あなたのために祈りましょう。」と言ったのではありません。「私はあなたに私が所有しているものをあげよう。」と言ったのです。私たちが、もし自分が所有しているものを自覚せずに生きるならば、神が下さっている銀行口座に見合った小切手を切ることはできません。わずかな金額の小切手というミニストリーをしてしまうのです。お金をことではありません。私たちは自分がどれほど大きなものを持っているかを自覚しないので、ミニストリーにおいて小さなリスクしかとれないのです。神の啓示が皆さんの上に注がれて、神が私たちにどれほど大きなものをすでに下さっているか、分与していてくださっているかを、もっと認識されることを願います。それによってすでに持っているものではなく、私たちにないもの、足らないものを祈り求めることができるようになります。
ペテロは「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って彼の右手を取って立たせました。何が起こったのでしょうか。イエスは神の御国はあなたがたのただ中にあると言われました。イエスは「わたしが話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。イエスは父の言われることだけを話されました。ですからイエスに端を発することばではないのです。ここで思い出していただきたいのですが、イエスはご自分を無にされたので、ご自分では何もできず、すべてを父から受けとらねばなりませんでした。人間イエスとしては何も与える力はなかったのです。主は私たちのためのモデルとなってくださったのです。
イエスは神のことばが肉体となった方であり、イエスが話されるときにはすべてのことばは霊となりました。ロマ書でパウロは、「神の国は飲み食いのことではなく、聖霊にある義と平和と喜び(righteousness , peace and joy in the Holy Spirit)である」と言っています。神の国は聖霊のうちにあるのです。ことばが霊になるとき、神の統治、支配の領域が人間の上に解き放たれるのです。父の言われていることを私たちが言う時に、私たちは神の臨在をこの世に解き放ち流しているのです。声が大きいとか内容がいいとかとは関係ありません。そのことばの源が鍵なのです。父の御心からのことばを私たちが話すときに、聖霊というお方が解き放たれます。聖霊の臨在の中には御国の統治、支配が含有されているのです。ですから「悔い改めなさい。神の御国が近づいた。」と主が言われるとき、主は「わたしが話すとき、そのことばが持つ実体があなたの上に解き放たれて、あなたの回りの環境が変えられ、あなたの祈りの答えは近づいた(at hand)」と言っておられるのです。
イエスに長血の女が触れたとき、力が主から出て女の身体を変えたのです。ペテロは自分の持っているものを知っていたので「私が持っているものを主イエスの名によってあなたにあげよう」と言ったのです。これは初代教会において非常に顕著なことであったので、民衆は弟子たちがどこに行くのかをいつも知ろうとしました。 ペテロが祈りに行く時に通る道に病人を連れてきて、ペテロの影がかかるようにしました。影そのものはなんの実体もないものです。影が癒したのではなく、影がかかるくらいにペテロのそばに近寄ることによって癒されたのです。民衆は教義を教えられなくても、神の人が歩くときには回りの環境、状況、空気が変るということを観察して知ったのです。
陰鬱なクリスチャンが部屋に入ってきても、その影で人が癒されることがないのを私たちは経験で知っています。それは落ち込んでいる人は自分の内側に向いているからです。内側を向いている人は死海になってしまうのです。水は死海に入ってきますが、死海から出て行くものは何もありません。そこにあるすべてのものは死んでしまいます。同じことが私たちにも起こるのです。自分の心配、失望、落胆等にずっと捕われ続け、聖書の真理や解決法を自分の人生に適用しないならば、自分のことだけしか考えない自己中心に陥るのです。あなたは自分を駄目な人間だと遜っているつもりかもしれませんが、自分のことだけを考えているという点で自己中心に変わりないのです。私は何時間も何時間も祈っていたことがありましたが、それはみんな自分のことを祈っていたのです。私は「神よ、私はなんと情けない人間なのでしょうか...」といつも告白していました。私は自分が~でない、ということに心を捕われていて、神がどういうお方であるかに心を向けていなかったのです。そのように自分に捕われていることは、自分がこの世で一番偉いのだと威張って歩く自己中心と実は同じなのです。一方の自己中心はすぐに目につきますが、もう一方は教会の中に知らないうちに毎日忍び込んでいるのです。偽りの遜りは決してあなたを目的地に導きはしません。私が恐れや心配とかで自分のことにだけ捕われている時、私は内に向かっていて、自分から放つべき聖霊の流れを止めているのです。聖霊の流れは愛によって流れ出るからです。
例えば、私が集会である人に預言のミニストリーするとします。私はその人に惹き付けられるような感覚を感じ始めます。それは神から出た愛情です。人間的なものではありません。もしその時私が自分の恐れや心配に心を捕われているとしたらどうでしょうか。私の中から神の臨在が流れ出して回りの環境を変えて行くべきであるのに、それはただ内側で自分を慰めるためにだけ使われてしまうのです。私は死海になってしまうのです。
イエスは3年半の間におびただしい数の人々を癒し解放されたので世界もそれを書かれた書物を入れることができないというのは、私たちには途方もないことのように思えます。イエスのインパクトはそれほどおびただしく、全部を詳細に記録することはできなかったのです。それは一人の人の中で3年半の間、聖霊が消されることがなかった結果なのです。神の臨在が一人の人の上に3年半とどまった結果なのです。
その事実の大切さをペテロはイエスから学び、彼も鳩のような聖霊を歓迎し自分の上にとどまっていただくようになったのです。クリスチャンの内には聖霊がいて下さり、決して離れないと約束してくださっています。しかしそれとは別に私たちの上にとどまる聖霊の臨在というものがあるのです。それは私たちがどれほど主と時間を過ごしているか、どれほど自分を召しのために明け渡しているかということによって決まるのです。ペテロやパウロがそのよい例です。
私は彼らに嫉妬をおぼえます。あなたはいかがでしょうか。このようなことが私にも可能であると知るとき、私の心はうめくのです。イエスは「わたしを信じる者は、わたしのわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」と言われました。それを聞いてあなたは「そんなことはあり得ない」と無視するか、それとも狂ったようにそれを求めるかのどちらかです。私は神に「どうかそのようにあなたの臨在を放ち流していく者にしてください」と気違いのように求めたいのです。(終)
16 04月
鳩のような聖霊
ビル・ジョンソン
イエスがヨルダン川で洗礼を受けたときのことを、マルコ福音書は「そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ』」と記していますが、そこには私たちが目を留めるべきことが表されています。
私たちはしばしば、天が開くようにと祈ります。それはよい祈りです。イザヤ64:1にあるように「天を引き裂いて降りて来てください」と祈ります。私たちは主に餓え渇いているからです。私たちは町や国の上の天が開かれるように祈ります。それは大切な祈りです。
私たちは往々にして、何を自分はすでに持っているのか、何をすでに与えられているのかを知らずに暮らしていて、どうかそれを下さいと神に祈ります。しかし、すでに持っているものを祈り求めるとき、その祈りが答えられるときの喜びを私たちは得ることができません。なぜならばその祈りはすでに答えられているからです。
私たちの祈りは、それが答えられてブレークスルーが起こることによって、クリスチャン生活がいつも喜びにあふれるようにと、 神がデザインされたものです。イエスは「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。...求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われました。
もしブレークスルーがなくて喜びが得られないとき、私たちは祈りを一生懸命することから喜びを得なければならなくなります。祈りから喜びを得ようとし始めるとき、私たちは実体ではなく形、形式を尊ぶことになります。ここから「宗教」が形成され始めるのです。ここでいう宗教とは、力のない形式のことです。私たちは 満足感、充足感を様々な宗教的活動を長時間することから得ようとし、それによって自分は主を愛し主に仕えていると思い込むのです。
しかし、イエスが意図されたのは、「わたしたちが父にお願いすれば 、それによってあなたの喜びが満ち満ちるように、父はそれをかなえてくださる」ということです。喜びは途方もなく偉大な天の宝であり、そのすばらしさは私たちには到底理解できないほどです。父がその喜びをイエスが十字架の苦しみに耐えることへの報酬として取っておかれたように、極めて貴重で希少価値のあるものです。「イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び...」とあります。喜びは苦しみに対する 報酬で、イエスの従順に対して父が与えたものであり、極めて高い価値のあるものです。聖書には、あなたが祈りの結果として得るブレークスルーこそが、あなたに満ち満ちた喜びを与える絶えざる源であると言っているのです。
問題は、私たちがすでに持っているものを祈り求め続けていることです。 すでに得ていることを知らずに、そのことを祈り続けるならば、私たちは決してブレークスルーを経験することが出来ず、魂の高揚も喜びも経験できないのです。これは些細な問題ではありません。「主よ、今日私たちとどうか共にいてください。」という祈りを私たちは何回するでしょうか。主は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを見捨てない」と言われたではありませんか。ですから、主はこの私たちの祈りに答えることはできないのです。実際、私たちがしているのは、主の約束に対して挑戦していることになるのです。これは問題です。私たちの心と思いが、神が宣言されたことに対して戦いを挑んでいるのです。主は「わたしは決してあなたを離れず、見捨てない」と言っておられるからです。
主がバプテスマを受けて水からあがられたとき、天が裂けたと書かれています。これは原語では神が天をバリバリと切り裂いたという意味です。そして聖霊が降りてこられました。イザヤ64は「天を裂いて降りてきてください!」と言っています。イエスのバプテスマの時起こったことは、天が切り裂かれて聖霊が降りて来て、そこに開かれた天が造られたのです。ほとんどのクリスチャンにとって「閉ざされた天」は、その人の耳と耳との間にあるのです。人が自分の思考パターンで信じる通りに物事を起こすことを、神は暗やみの権力に許可しているのです。聖霊はあなたの中に住んでおられますね。聖書には「父は私たちの内にいる聖霊を妬むほど愛しておられる」とあります。父は天を切り裂いてくださいました。天の父とあなたの内なる聖霊との交わりを阻止するのは一体何でしょうか。どのような領域の悪魔の力もその交わりを切り離すほどの力はありません。ですからあなたはすでに開かれた天の下で生きているのです。
私たちは都市の上の天が開かれるのを願っています。しかし私たちが忠実に私たちの上に開かれた天の下で信仰を実践し権威をもって歩むならば、私の上に開かれた天は広がり続けるのです。あなたが部屋に入っていくならば、部屋全体の霊的空気が変るのです。私は「自分は神の息子だ、娘だ」と言って自分の事ばかり考えている信者を作りたいのではありません。聖霊はすべて信じる者の内におられます。しかしながら聖霊はすべての信者の上にとどまっているのではありません。ヨハネ福音者ではイエスがバプテスマを受けられた時「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私はみました。」と書かれています。
これは非常に意味深い記述です。鳩というのはとても繊細であり、少しでも驚かせると飛び立っていきます。もし私の肩に鳩がとまっていたとして、それが飛び立たないようにしたいならば、私は階段を降りるときどのようにするでしょうか。つねに鳩のことを考えながら細心の注意を払って降ります。聖霊はすべての信者の中に永遠におられますが、すべての信者の上にいつもとどまってはおられません。信者の目標は、つねに聖霊の臨在をもてなし、自分の上にとどまっていただくことであり、行くところすべての霊的空気を変えていくことを学ぶことです。私たちの上に聖霊がとどまられる場所を設けることは可能です。それによってあなたが入っていくだけでその場所の霊的空気をシフトさせることができるのです。私はこれをもう何年間も試しています。あなたが「自分はそれを持っている」とはっきる自覚し認識するならば、あなたは現実にそれを顕していくことが可能となるのです。(続く)
10 04月
ボブ・ジョーンズ師の「シャロンのバラ」の預言
マイク・ビクル(2014年2月23日)
私がボブ・ジョーンズ師とはじめて会ったのは1983年で、今から30年前のことですが、私がカンサス市でまだ若い牧師だった時でした。その時ボブが私にした預言や話してくれたことは、当時の私にとってあまりに突拍子もないようなことで、全く理解ができませんでした。勿論、後になって彼の語ったことはすべて正確であり真理であったことがわかりました。
これは1983年にボブが話してくれたことですが、私はどう考えればよいのか全くわかりませんでした。彼は 「私は自分の死を見ました。自分の墓石を見ました。」と言いました。皆さん、自分の墓石を見るとは、どんな人なのでしょうね。(ジョーンズ師は2014年2月14日に亡くなりましたから)実際に死ぬ30年も前にそれを見たのです。
彼は続けて話しました。「墓石には『ボブ・ジョーンズ』と書いてありました。すると墓の中から美しい花が一つ咲き出てきました。非常に香りのよい美しい 花でした。そして主が『あなたの人生から美しいシャロンのバラが咲く』と言われたのです。」
皆さんは雅歌2:1にある「私はシャロンのバラ I am a rose of Sharon」という言葉をご存知だと思います。30年前私は雅歌についてあまり知識がありませんでしたが、このことは知っていました。そこで私は「ボブ、シャロンのバラというのはイエスのことですよね。」と言いますと、彼は「違います。あなたは間違っています。有名な歌の中に『イエスはシャロンのバラ』という歌詞があるのは私も知っていますが、それは間違いです。シャロンのバラと言うのは,キリストのからだの中で、 神の麗しさの香りが第一の戒めを通して溢れている姿なのです。」と答えました。
私は「本当に? 確かですか?」と半信半疑で聞くと、彼は「そうですよ。私はイエスご自身から直接聞いたんですから。」と答えました。私は「そうですか、私はあまり雅歌を知らないんですよ。そうなんですか。まあ、そういうことにしておきましょう。」という感じで会話を終らせました。
「主が再び来られるときの世代は、第一の戒めを回復させ、世界中のキリストのからだの中でそれは第一のこととなる。主は第一の戒めを第一のものとして確立される。」ということを、主はボブを通してはっきりと語られたのです。しかし、私は自分が死ぬ前に自分の墓石を見たり、シャロンのバラがそこから咲いたりという話はあまりピンと来なかったので、そのことはあまりその後考えないままでおりました。
それから5年後の1988年のある朝、私は教会のオフィスにおりました。そしてある結婚式のカードを読んでいたのですが、そこには雅歌8:6が書かれていました。カードには「私を封印のようにあなたの心臓の上につけてください。 set me as a seal upon your heart」とありました。その時、非常に尋常でないことが起りました。雅歌は当時そんなになじみがなかったのですが、何故か私はその時、その言葉を心の中で霊に動かされて祈ったのです。雅歌は愛の歌で、結婚の麗しさを歌っていますが、ご存知のように、それと同時に霊的な歌で、花婿なるイエスと花嫁なるキリストのからだとの愛の関係を歌っています。私が6節のことばを祈ったとき、神の御霊が非常に特別な形で私のうえに下り、私は泣き始めました。そんなことは私にはあまり起こらないことでした。 私は「イエス様、私の心の上の火の封印となってください。あなたを愛します.....」と言いながら泣いていました。2.3分経ちましたが、聖霊はまだ特別な形で私の上に下っていました。そこで私は内線電話で教会の受付に「非常に変ったことが私に起こったので、誰からの電話でもつながないでください。邪魔が入らないようにお願いします。」と頼みました。そんな願いをしたのは今までの40年間でその時だけです。
私は「イエス様、私の心をあなたの愛で封印してください...」と祈っていました。主への私の愛は、主から私へのギフトなのです。私たちが主を慕い求める願いは、主が私たちの心に入れくださったものなのです。すると電話が鳴ったのです! 「どんなことがあっても電話はつながないようにと言っておいたのに..」と思って、私の心は一瞬にして霊的な高みから肉的な思いになってしまいました。「信じられない! なんていうことだ!」という感じでした。霊と肉の間を 私たちは何と超スピードで移動することでしょう。私は電話を取って努めて優しく「なんですか?」というと、受付の人は「ボブ・ジョーンズ師からお電話なんですが、、彼はあなたへの神からのことばを耳ではっきり聞いたと言っておられます。ですから、あなたは多分お聞きになりたいと思ったのです。」と言いました。私は「勿論、勿論。ボブが神のことばを聞いたという電話ならいつでもつないでください。」と答えました。
私は床にひざまずいて雅歌8:6を見ながら泣いていたので、うまく声が出なかったのですが、「ハロー」と低い声で言いました。ボブは「たった今、神の声を耳ではっきり聞きました。主は雅歌8章6節を語ってくださいました。」と言うのです! 私は本当に驚きました! ボブは続けて「今私は1分しか時間がないのですが、主が今すぐあなたに電話をして伝えるようにと言われました。主は神の恵みを解き放ち、主が再び来られる日まで、雅歌8:6の油注ぎを世界中に与えます。キリストのからだ全体が 『Yes!』というほどの世界的な油注ぎ、恵みです。」と言うのです。
その時は60秒の会話でした。私は電話を切ってからも泣き続け、「主よ、どうか私にもそのようにしてください。」と祈りました。
2週間ほど経ってから、ボブと詳しく話すことができました。
彼は「この雅歌8:6こそが第一の戒めなのです。第一の戒めを実際に毎日生きるための油注ぎです。聖霊は第一の戒めを第一に回復させ確立する油注ぎを、世界中のキリストのからだに与えるのです。地球上の何百万人の人たち、人間的には弱く傷ついた人たちがこの油注ぎを求めるならば、主はそれを与えると言われているのです。」と説明してくれました。私はこの真理を知って大変興奮しました。皆さんもそうだと思いますが、私も神を愛したいと願います。しかし、神を愛するには神の力が必要なのです。それは私にもあなたにも出来ないことであり、神を愛そうと決心することは必要ではありますが、いくら決心したからといって出来ることではないのです。
ボブはこう言いました。「雅歌8:6の愛の炎、即ち第一の戒めのための油注ぎこそが、私が5年前の1983年にあなたに話した『シャロンのバラ』なのです。私の人生はその花が咲くようにキリストのからだを成長させることですが、花が咲くのは私が死んでからだということを私は知っています。しかし、私のミニストリーはそれを助けることであることを知っています。」
第一の戒めは、申命記6章にあるようにモーセが神から受けたもので、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」です。そしてマタイ22章でイエスは神がモーセに言われたことを引用していますが、主はそれに説明をつけ加えています。即ち「これがたいせつな第一の戒めです。This is the first and great commandment.」です。主は「first 」と「great」という形容詞を付け加えられたのです。それが意味するのは、この戒めが神にとって一番のプライオリティーであるということです。
人は私に「神は今何をしておられますか? 何を言っておられますか?」とよく聞いてきます。私は「神はいろんなことをされていますが、主が一番にしていることと最もしていることを私は知っていますよ。神は人々が第一の戒めを第一とするように働いておられるのです。」と答えるのです。
また、主はこの戒めは偉大であると言われました。私のところに若い人たちが来て、「私の召しを神様から受けたい!」というのです。私は「あなたの偉大な召しを知っていますよ。」というと、彼らは期待しながら「何ですか?」と聞きます。 「それは第一の戒めを守ることであり、それを生きるための油注ぎを受けることです。」と私は答えるのです。
ですから、私は神の恵みによりこの油注ぎが必ずくることを知っています。しかし今、ボブ・ジョーンズ師の死によって示されることがあるのです。彼はシャロンのバラが彼の死のあとに咲くのを見たのです。彼は、自分が40年間預言のミニストリーを通してしてきたことは、キリストのからだが神のこの召しに正しく応答するように私たちを強め養い育てることであったことを理解していました。
この油注ぎこそ、私が一番求めるものです。そして聖霊も人々にそのように召しておられると思います。もう一度言いますが、神を愛するためには 神の力が必要なのです。神からの力が私たちのうちで働くときに、私たちは神を愛することができるのです。
今60秒間、心を主に開いてみましょう。これは一回すれば主から油を注がれるというものではなく、少しずつ養っていくものです。
祈り
聖霊よ、来てください。あなたは私たちの心を火で封印してくださると言われました。御父よ、お願いいたします。人々のいのちの中にどんどんと燃える火をください。今、火で心に触れてください。夢や幻、御ことばの啓示で、第一の戒めを人々の心の中に強めてください。ミュージシャン、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師、すべての人がこの第一の戒めを守る油注ぎを受けることができますように。(終)
01 04月
クリスチャンの生き方
リック・ジョイナー(礼拝説教からの抜粋)
神からの知恵を受ける必要
私たちは「これが問題だ」「これが障碍だ」「もっと資金がいる」「もっと教会全体の協力がなければ…」とかいうのではなく、神の御前に出て何かすばらしいアイディアをいただこうではありませんか。そして、もっと創造的な工夫ができるようになろうではありませんか。
これから来ようとしている時代には、それが必要となると思います。「Small is next big.=小さいことは次に大きいことになる。」ということばがありますが、私はそれを信じます。
私は1987年に大収穫のヴィジョンを見ましたが、その中で75人の小さな教会に一週間に千人の新メンバーが加えられていました。しかし何千人ものメガチャーチには一週間に100人の新メンバーしか加えられていませんでした。私は「収穫の時にはメガチャーチには何万人、何十万人もが加えられると思っていました。」と主に申し上げました。
主は「メガチャーチは収穫の準備が出来ていなくて、小さい教会の方がずっと収穫のための準備が出来ていたのです。」と言われました。それは彼らが時間や資源をいろいろな行事やプログラムにではなく、人々を育て上げるために用いて来たからです。神の建てるものは、人々を土台にするのであって、プログラムを土台にするのではないのです。良いプログラムはいろいろあり、勿論それも大切ですが、私たちは人々を育て調えることを忘れてはなりません。
私たちは常に柔軟性を持ち、今神が言われることに従って動かなければなりません。ともすると私たちは直ぐに「古い皮袋」になってしまいます。「神はこの前はこのように動かれた。今回もそうだろう。」というように考えて、柔軟性を失い、新しいぶどう酒を無駄にしてしまうのです。
終末に用いられる「力のメッセンジャー」
敵は、予測できる動きしか出来ない者を容易に打負かすことができます。創造的な思考能力がある人はとても少なくなってしまいました。私はクリスチャンになってすぐにヴィジョンを見せられたのですが、終末になると「力のメッセンジャー」が起こされるのです。主はこれがどのような人たちかを教えてくださいました。驚いたことに、彼らはすべて問題だらけで社会から外れたような人でした。彼らがどうやってこの世の中で生き延び来られたのか私にはわかりません。しかし、聖書の父祖たちもそのような人でした。彼らは天の故郷をあこがれていましたが、この世では旅人であり寄留者でした。今からの時代に「力のメッセンジャー」となる人たちは非常に変人で、すごく問題のある人たちでしょう。彼らは多く赦されたので、多く愛すのです。ですからそのような人たちが皆さんの前に現れた時に驚かないでください。
私はヴィジョンで見たのですが、本当にひどい人たちでした。ヤコブは天使と格闘をして変えられる前は、人を騙す策略化であり、嫌われ者でした。神は私に「あなたが受け入れられるだけ、どんどんそのような人をあなたのミニストリーに送りこみます。」と言われました。私は「O.K.」と答えました。(笑)
あなたはその様な人たちを受け入れる用意ができていますか。私たちの中には、ヤコブではなくエサウを選んでしまう人が多いのではないでしょうか。エサウは人と巧くやっていける好感のもてる人物でした。私たちはともすると神のご計画を見逃してしまいます。一番問題のある人や、全く適合していない感じの人が力を発揮するようになるのです。
シンプルライフの勧め
私たちはシンプルに生きるのがよいと思います。数年前のリサーチの結果では、私たちの物質的豊かさが私たちの幸せに占める度合いは、驚いたことに「ゼロ」でした。「少なくとも1パーセントか5パーセントくらいは物質的豊かさが幸せにしている」と思いますよね。しかし実際のところ財産の豊かさは、ほとんどの場合人々を不幸にするのです。
世界で一番幸せな人たちというのは、往々にして一番貧しい人たちです。彼らはシンプルな生活をしています。真の幸福は、物ではなく、人間関係の上に築かれるのです。私たちは足に絡み付く余分なものを捨てて身軽にならねばなりません。必要以上の荷物を捨てねばなりません。必要ではないものを捨ててください。これからの時代はシンプルに生きる人が生き残れるのです。自分の持ち物を管理するのにエネルギーを使うのは愚かです。神の指示が出たときに余分な荷物があると素早く動くことができません。
私もそのようにしています。私の夢は一文無しで死ぬことです。すべてを神のために、福音の為に、魂の救いのために使い果たして死にたいのです。私たちは今まで最大の神のムーブメントを迎えようとしています。この機会を見逃してはなりません。
エリヤとエノク
私はこのところエリヤによく会います。預言的経験の中ですから、実際のエリヤに会ったのか、霊的な経験だったのかはわかりません。エリヤはもうすぐ来ます。それはエリヤの霊がキリストのからだに来るということです。
しかし、エリヤが私に「あなたはエノクに会うべきだ」と何回も言うのです。エリヤは又、「私とエノクは死を経験しませんでした。それは、終末の時の最後の神のムーブメントのときにキリストのからだに大きな霊的分与をするためです。あなたはエノクに会わねばなりません。」と言いました。
私も会いたいと思っていました。それは私がまだクリスチャンになったばかりの時、主がエノクの預言を教えてくれたからです。「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。(ユダ14)』」
エノクはアダム以来はじめて主と共に歩いた人です。彼がこの終末の力ある者たちについて預言しているのです。そして私はついにエノクに会うことができました。彼は私が想像していた人物とは全く違いました! エノクは私が今まで会った人の中で比べ物にならないくらい最もハッピーな人だったのです。いつも一緒にいたいと思うような人でした。彼が持っている喜びは信じられないほどでした。彼は地上に暗やみが広がっていた時代に生きていました。ネフィルムもいたし、人の悪が増大した時代であったにも拘わらず、エノクは最高にハッピーで喜びに満ちていたのです。
エノクと会ったすぐ後で私はまたエリヤに出くわしました。彼は私に「エノクと会ってどう思いましたか?」と聞きました。「彼は私が会った中で一番ハッピーな人でした。驚きました。」と私が答えると、エリヤは「何か質問がありますか?」というので、「ええ。あります。どうしてあなたはエリヤのようにハッピーじゃないのですか?あなたはずっと天国にいたのに、どうしてもっとハッピーじゃないのですか?」とぶしつけな質問をしてしまいました。どうしても聞きたかったのです。
エリヤは答えてくれました。その答えは私に非常な衝撃を与えました。「どうしてか話しましょう。あなたが地上で生活する間に、天国に行ってからあなたが永遠にどのような人になるかが決められるのです。天国に行けば、あなたの苦しみ、悲しみ、嘆きはすべて取り去られます。私もエノクのようにハッピーになることは可能でした。でも私は地上にいる時、暗やみの方にばかり焦点を当てていました。『私だけが残って他は誰も主を信じるものはいない』というように悲観的になった事が多かったのです。私はもっとエノクのようになることもできたのです。そしてあなたもそうなれるのですよ。
エノクはどんなに地上が暗くても神と共に歩き、神に焦点を当てていました。彼の中で神はどんどん大きくなって、まわりの様々な問題や状況はどんどん小さくなりました。主の臨在の中では喜びが満ちるのです。」
エノクは主の臨在の喜びの頂点に達したのだと思います。だから天に上げられたのではないでしょうか。そして今も喜びに満ちているのです。
勿論、私たちは天国に行けば皆ハッピーです。天国で一番ハッピーでない人でも、地上で一番ハッピーな人よりもっとハッピーです。それは確かです。でも私たちは今、自分の永遠の性格を決めているのです。エリヤは言いました。「あなたの信仰を増し加えるために一日も無駄にしてはいけません。神の喜び、神の平安へと成長できる時を無駄にしないでください。聖霊の実は育てられてだんだんに大きくなるものです。私は多くの日を無駄にしました。」
私も今のチャンスを逃したくありません.主の喜びが、これまでよりはるかに大きくやって来ようとしています。私たちには考えられないような喜びに満たされハッピーになるのです。主を間もなくお迎えしようとしているのですから当然ではありませんか。主の臨在の中で私たちはハッピーになるのです。いいえ、ハッピー以上のものー喜びです。ですからあなたの試煉を無駄にしないで下さい。 一日も無駄にしないでください。私たちは今、永遠に自分がどのような者になるかを決めているからです。(終)