28 09月
これからの三年間に、あなたのために門戸が開かれ、揺さぶりが来る
― チャック・ピアース師(の教会)に与えられた預言
時が刻む音を聞きなさい。主は言われる。わたしは今あなたを三年先の時点へと噴射した。
今月(ユダヤ暦の新年)はわたしが定めた月の中で最もいとおしく大切な月である。わたしは未だかって開かれたことがない門(複数)に向かってあなたを進ませる。過去においてあなたの前に堅く閉ざされて来たこれらの門の扉をわたしは間もなく開けるようにする。あなたのために用意された祝福を今まで閉ざして来た門が開く日が来るまでの毎日、毎月を準備の戦略を立てて着々と前進しなさい。もしあなたがその門に向かって今動き始めるなら、これから三年以内に、あなたは門を入った内側の土地で、大きな宝物の数々を生み出すであろう。
今から三年目に王国間の戦いが始まり、国が国に敵対して立ち上がる。そして又、この世の国々の間にも戦争が起る。わたしは一つの王国を今整えつつある。わたしはこの王国と一人の子孫とその子孫たちを常に覚えて来た。わたしは勝利する王国を持っているのだ。
「この世の国々のすべては神の王国となる」と叫びなさい。「捕われ人たちは解放され、神の家に帰って来る。」と宣言・布告しなさい。その時期、わたしの祭壇は収穫のささげもので溢れる。あなたは周りの人たちを見て「この人たちは違う王国の人たちです。」と言う。しかしわたしはあなたの目を開いて「彼等はわたしの民だ。彼らを招き入れなさい。」と言うであろう。
多くの門の向こうに、わたしは新しいハイウエイ(大路)を造ろう。それは「エジプト」から出るハイウエイの始まりであり、あなたたちが今歩いているハイウエイをわたしは造り直す。
地球上を網の目のように悪の販路を広げた悪霊たちの本拠地をわたしは根こそぎにする。敵がつくった悪の組織で破滅させるつもりであった人々を、これからの近い将来、わたしはもはや敵が止めることの出来ないほどの強力な軍隊として仕立て上げる。なぜならその generation 一族(子孫、世代)こそがわたしのgeneration であるからだ。わたしはその軍隊であるあなたがたを「阻止不可能なわたしの軍隊」と呼ぼう。又、「我が王国の大群」と呼び、地球上のすべての敵国を打ち破る。そして必要なものをその国々から引き出してわたしの王国に持って来る。
国々のリーダーたちでわたしはあなたを驚かす。そのリーダーたちがわたしに対して膝をかがめるようになるからだ。あなたがたは彼らが独自の道を行くと思うかもしれないが、わたしは彼らの足元をすくって彼らが完全に転げ落ちるのをあなたたちに見せよう。その時、彼等は今まで見たことのないような目でわたしを見上げるのを、あなたたちは見ていなさい。
あなたのハイウエイに来るひとたちに好意を示しなさい。あなたたちの多くが「しかし彼等は悪い性質の人たちです。」と言うでしょう。しかしよく覚えておきなさい。この世にいるすべてのパロが、これから先の日々、あなたに好意を示すようにわたしがすることを。
北から西に地震が起るのを聞くであろう
あなたは「北から西に地が揺すぶられる」と聞くでしょう。あなたは、わたしが「アラスカから来てメイン州を揺さぶる」と聞くでしょう。しかしこれを知りなさい。わたしはアメリカ合衆国と呼ばれる国(大陸)の中心部の辺りを揺すぶる。わたしは、今まで隠されて来た、その地域を支配している(地下構造の)力が地を揺すぶり落すことを起こさせる。
わたしはあなたに新しいバプテズマを授けるであろう。そして、わたしの民が「わたしの指」を用いることが出来るようにする。そのわたしの指で民が悪霊を指差せば、悪霊たちは逃げ出すであろう。
この蜜のような新年に、わたしはすべての土地で、わたしの御言葉を求める新しい飢え渇きを人々に与える、と主は言われる。過去にわたしの御言葉を知っていた人たちには、同じ御言葉に対して違った味(意味)と見る目(霊的)を与えるであろう。
この新しい年、あなたは、あなたの将来へとあなた自身を噴射して、あなたのデスティニーへのすべての門に入れる準備をする時として下さい。(終り)
Chuck D. Pierce
Glory of Zion International Ministries
Email: chuckp@glory-of-zion.org
24 09月
ポール・キース・デイビス師:
終末の時代に必要な「空飛ぶわし」の油注ぎ (その2)
坂 達 也
「主を見つめて待つ」祈り
私はデイビス師がコンテンプレィティブ・プレイヤー contemplative prayer の実践者であることが分り、大変励まされております。中世のカトリックの修道僧が始めたと言われるこの「祈り方」をぜひ日本の皆様にも実行していただきたいと言う願いから、私は2003年に「主を見つめて待つ」と言う本を書いて出版しました。その本の中で、この祈り方が日本語で何と呼ばれているのか私には分りませんでしたので、私は勝手に「主を見つめて待つ祈り」と言う名前をつけました。
この祈りの特徴は、主の御前に出て、自分からは全く何も祈らず、一方的に主が語られるのを待つことにあります。そのためには、自分の心を無にすることが最も重要なキーとなります。空っぽの心で静かに主を見上げて待っていますと、内住の聖霊と私たちの霊の間で一種の霊的オスモーシス(浸透)と言う現象が起きて、神の霊の命、愛、知識とか、その時に主が私たちに語りたい生きた御言葉が私たちの霊に伝達されると言われます。但し、このプロセスは私たちの魂の活動とは無関係に行なわれます。従って、その間私たちは何も感じないことが多いのですが、ある時は主が語られることを受け取った私たちの霊が、その場で私たちの心に伝える場合もあり、その時はその内容が知覚出来ます。そうでない時でも、主から受けたものはすべて私たちの霊の中に蓄積されると言われます。私はこの祈りを曲がりなりにも一日一時間をモットーに、20年近く続けて来ました。
デイビス師はこの祈りをWaiting on God「主を待つこと」と呼んでいます。師は、これから入ろうとしている今のシーズンへの霊的準備として、個人的に毎日この「主に向き合う時間」を持つことは、特に西洋に住むクリスチャンにとって今最も必要な霊的鍛錬 discipline であると主が語られたそうです。
彼は昨年秋に一定の期間中、一日3-4時間この祈りを実行した時の経験を話していましたが、心が空でまるで鉄のようになった時、目が覚めているのにはっきりとした夢を見ることを経験したそうです。彼は、魂の活動を停止させマインドを静めることは、人生で経験することの中で最も難しいことの一つであることを認めています。しかし師は、もしあなたがこれを一日1時間、一月間続けたらあなたの人生、霊的な生活が一変するでしょうと言います。そして、「空飛ぶわし」の油注ぎがこの祈りをより深いものとしてくれると付け加えております。
主の御顔を拝する
モーセはシナイ山上で40日間、神に対面して神と話した後に麓で待っている民のところに戻って来ましたが、その時、モーセの顔の肌は神の栄光を受けて眩しく輝いていました。会見の天幕に入って神と対面して出て来た時もそうでした。ですから、モーセはその後、主と会見する時以外はベールを被るようになりました。
よく考えてみますと、残念なことですが、現代のクリスチャンでモーセのように主の栄光で顔があまりも輝いているためベールを被らなければならないような人は見当たりません。
出エジプト 33:11に「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」と書かれています。又、民数記 12:8では、神が「彼(モーセ)とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。」と言われました。これを見ればモーセがどれ程神と親しい関係にあったかが分ります。そして、モーセには、彼が未だよみがえった身体ではない時に、既に霊の目でかなりはっきりと主が見えていたと思われます。
ところで主は、上記の民数記12:8で「彼(モーセ)はまた、主の姿を仰ぎ見ている」と言われました。私は「主を仰ぎ見ること」がモーセをして顔と顔を合わせて主と話す間柄にさせた理由ではないかと思うのです。と言うことは「主を見つめて待つ祈り」contemplative prayerを多くすることが、もしかすればモーセのように「主の姿を仰ぎ見る」結果を生み出すのではないかと、私はかねがね思って来たのですがいかがでしょうか。
多くのクリスチャンが旧約聖書に書いてあることは律法主義の下にあるものであり、聖霊が下った後の今の聖霊時代には必要のないものとして、悪く言えば、見下げている傾向があるのを私は本当に残念に思います。ですから旧約聖書をほとんど読まないクリスチャンもいる程です。しかし、2コリント10:11で「(旧約聖書に書かれている)これらのことが彼ら(イスラエル人)に起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とパウロが言っていることに御注目下さい。特に「世の終わりに臨んでいる私たち」こそ、旧約聖書をもっと心して読み、そこから多くの教訓を受け取らねばならないとパウロが訴えているのです。その一つが、主の姿を仰ぎ見続けたモーセの姿です。
モーセに率いられて40年間荒野を歩いたイスラエルの民は、テント生活をしながら移動しましたが、その集団生活の中心に神ご自身が臨在され、民と共に移動されました。この神のための「会見の幕屋」は、初め宿営の外の静かなところに設置されましたが、後に正式な神の住まいとして契約の箱を安置して造られた「聖所の幕屋」に代わり、その聖所は民の宿営テント群の中心に置かれました。
驚くべきことに、この「会見の幕屋」へはモーセだけでなく、神にお伺いを立てたい者は誰でも中に入って神と時間を過ごすことが出来たのです。これは私たちのために神が造られた神と神の民との関係を表す、特に終りの時代に住むクリスチャンに神が示しておられる御国の住まい方の「型」であると信じます。
なぜなら今の私たちには神がもっと近づかれ、私たち一人ひとりの中に入って来られているからです。問題は、そのように神と霊的に密接な関係にあるべき今の私たちが、当時のイスラエル人のように、神を中心として神と共に毎日の生活を送っているでしょうか。そうすることが聖霊時代に生きるクリスチャンの基本であるのです。そのためにイスラエルの歴史が私たちにその型をはっきり示していることを忘れてはならないと思います。
コロサイ 3:1-3 に、キリストを信じる私たちは「キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」と書かれております。そうであれば私たちが毎日、主を見上げながら主と過ごす多くの時間を持つことが絶対に必要であることは明瞭であると思います。
そして、その後の3:4に「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(新共同訳)と書かれています。これはキリストの再臨の時のことを指していて、私たちはその時、よみがえりのからだに変えられますから、栄光に顔も身体も包まれていると言うのです。しかし、それではむしろ遅すぎる、キリストの再臨の前の今から、私たちはモーセのように顔が輝いていて当然であると私には思えるのです。
そこで、1ヨハネ 3:2 をご覧下さい。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき(主の再臨の時、私たちはよみがえりのからだに変えられていて)、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(新共同訳)
上記のみ言葉についてデイビス師は、上記の最後の部分「そのとき御子をありのままに見るからです。」を「その時まで私たちは御子を見続けて来た」と過去完了形で解釈していることに私は気が付きました。すなわち師は、再臨の主と会う時だけでなく、その以前から日頃いつも主を見上げる結果として、御霊の働きによって私たちの内側が霊的に変えられて行き、「主に似た者」になっていると共に、主とお会いする時までに、主のより深い内面を見ることが出来るようになっているべきだと言われるのです。
そのことは、2コリント3:18 で「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と言う御言葉が説明してくれます。
又、Ⅰコリント 13:12では 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時(再臨時)には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と書かれていることも参考になると思います。
しかしそれでは、皆様は多分、長い間この祈りをして来たと言う私の顔が、今もモーセのように輝いていないのはなぜかとお聞きになりたいかと思います。その答えは、マタイ5:8に書かれています。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」
正直なところ、今の私は上を見上げても栄光の主の御顔が未だはっきりと見えません。それは私がモーセほど主を見上げていないからであり、その結果として、私の心が未だモーセのようにきよくなっていないからです。ですから、上記に挙げた1ヨハネ3:2の御ことばに続く3:3に「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」と言うみ言葉を私はもっと心掛けねばならないと思っております。
デイビス師は、そのことについて、バプテスマのヨハネが荒野を住まいとし、「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」と書かれていること、彼はイエスご自身がぶどう酒を飲んでいる時に、お酒を口にすることもせず、全くこの世と無縁の生活をしていたことを挙げます。そして、私たちも世にどっぷり浸かる生活の中で、例えば、ゴルフをすることは罪ではありませんが、そのゴルフをして3-4時間つぶす時間に(師はゴルフをします)contemplative prayerをすることを思い立つてゴルフを少し控えるとか、テレビを見るのを控えるとか、何かで自分を自制して、率先してこの世をエンジョイする生活を控えることは「霊的になることに役立つと思います」と言われます。但し宗教の霊からそう言っているのではないことを重ねて断っておられます。確かに霊的な人として知られる人の多くは spiritual disciplineをされていることに気がつきます。
そして、これからの世の終わりの時代に生きるクリスチャンは、格別の自制により「自分を清くする」ことに努力する人が主の栄光から栄光へと変えられ「キリストに似た者」になるとデイビス師は言われています。(終り)
14 09月
ポール・キース・デイビス師:
終末の時代に必要な「空飛ぶわし」の油注ぎ
坂 達 也
私たちが今生かされている時代が、キリストの再臨をまじかに控えた「最後の時代」であると信じるクリスチャンにとって、聖書の最後に書かれている「黙示録」に関心の無い人はいないと思います。しかしこの「黙示録」は聖書の中で最も難解な書の一つと言われるように、その解釈についての見解は、歴史的に見ても本当に多義多様に分かれております。
その中で私は最近、ポール・キース・デイビス師の考え方に非常に興味を持ち、目下師のインターネット・ウエビナーのシリーズを聞き始めておりますが、その一部を私の考えと共に御紹介したいと思います。
この「黙示録」は、皆さんがよくご存知のように、その著者である使徒ヨハネが、当時のアジア・マイナーと呼ばれる地域(現在のトルコ)に実在した「七つの教会」に向けてこの書簡を送ると言う形で書かれております。
デイビス師はこの「七つの教会」を、キリスト教の約二千年の歴史上において、それぞれの教会が広い意味で「七つの時代」を代表していると言う見解の元に、その区分について詳しく述べていますが、今の時代は、七つ目で最後の教会である「ラデオキヤの教会の時代」であると言います。
そこで、この最後の教会時代の特徴を一言で言い表すならば、それは霊的に「なまぬるい」時代であることです。それは主御自身がこの教会に対して「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」(黙示3:16)と言われたことばに象徴されます。
つまり、最後の時代のクリスチャンは、霊的にあまりにも「なまぬるい」ので口から吐き出したくなるようだ、と主がおっしゃるっているのです。
私自身も、今の時代がラオデキヤの教会のような時代であることに関しては、デイビス師と全く同意見ですが、主が言われるように、私たちは「霊的になまぬるくなっている」ことを抜本的に反省し悔い改めなければならないと思います。
なぜ現存のクリスチャンの多くがそうなったのでしょうか。それは今が最後の収穫の時であるからであると思います。収穫の時とは、良いものも悪いものも実る、すなわち、良いものも究極の形で実りますが、悪魔の働きも究極の頂点に達する時です。ですから人間の不信仰と反キリストの霊が最も強まり、悪魔の「惑わし」が最大限に横行する時となります。そのことは聖書の多くの箇所に書かれています。
黙示3:17、18に、ラオデキヤの教会がいかに惑わされていたかがこう書かれています。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
この「なまぬるさ」に完全に打ち勝つにはどうしたらよいのか、それをポール・キース・デイビス師は「黙示録4:7に書かれている天の御座の中央とその回りにいる四つの生き物のうちの四番目の生き物である『空飛ぶわし』の油注ぎを受けるしかない」と言います。そして一度この油注ぎを受けた人は、いかなる形でも「霊的になまぬるい」状態にいることは絶対に我慢できなくなる、それはちょうど光と闇が絶対に交じり合うことがないのと同じであると言い切ります。
聖書には、その後の黙示録6章で、白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬と言う四つの馬が出てきます。この馬が4章に書かれている前述の四つの生き物とそれぞれ対応していることが分ります。
その四つ目の生き物「空飛ぶわし」が出てくる時が「青ざめた馬」の時です。「青ざめた馬に乗っている者の名は『死』といい、その後にはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」(黙示6:8)と書かれているように、まさにこれからの時代は、世界中が戦争と飢饉と死病で多くの人が死ぬことが預言されている時代です。その中に生きる「なまぬるい」クリスチャンが最も必要とするものが「空飛ぶわし」の油注ぎを受けることであると師は言われるのです。
「空飛ぶわし」の油注ぎ
最後の時代とは、地上における悪魔と勝敗を決する最後の対決、総決算の時です。敵は最後の青ざめた馬を解き放つことを許されます。そのような戦いにおいては、単に人間の知識とか魂のレベルの知恵ではもはや絶対に勝ち目はありません。従って私たちは、鷲のように天の領域まで高く飛び、天の領域に私たちのために用意されているあらゆる霊的な情報と神の指示を得ることが絶対に必要であると師は言われるのです。
この終末に用意されている特別の油注ぎは、単に賜物と言う以上の、霊によるインスピレーション、啓示、夢、ビジョン、解き明かしが与えられ、これ等を通して神との密接なコミュニケーションを得ることが出来るのです。
そこでこの油注ぎですが、それを心から求めるクリスチャンであれば、誰でも得られるものであると師は言われます。勿論、特別の使命を受けている使徒とか預言者は、より多くの啓示が示されるかもしれませんが、基本的には、主を心から信じ、聖霊に満たされ、主の御心を求め、主と親しく交わり、とことんそれを願うクリスチャであるならば誰でもいただけるものであるのです。
ただ私たちは、それを熱心に desperately 死に物狂いで求めなさいと師は言われます。主の賜物にしても、力にしても並みの程度では満足しないで、究極のものを執拗に求めること、そのことが神からの最高の賜物の一つであると師は言います。
もし、与えられない人がいるとすれば、それはクリスチャンとは名ばかりで、あくまで主を親しく知ろうとしない「宗教的な」人たちであると師は言います。なぜなら、主と個人的な親しい関係に入っていない人、主と一つとなっていないクリスチャンは「なまぬるいクリスチャン」であって、主が吐き出したくなる人たちであるからです。
主を熱心に求める人
熱心に心から主を求める人には主がこの特別の「油注ぎ」を与えることが、ラオデキヤの教会に向かって次のように書かれていることからも分ります。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示3:20-22)
今は特別の時です。主があなたのところに来て、あるいは預言者を通して、あなたに御声をかけられるのです。その時にあなたは目を覚ましていて、すかさずそれに答え、あなたの心のドアを開かねばなりません。そうすれば、それ以降あなたは、入って来られる主と親しく話し合い、いつも食事をする親密な関係に入るのです。
ここで大事なことが書かれています。それは主が言われる「勝利を得る者」という言葉です。この「勝利を得る者」と言う言葉を、主は黙示録の2-3章で七回も繰り返しておられることに御注目下さい。その意味は、クリスチャンは最終的に完全なる「勝利を得る者」にならねばならないからです。それには悪霊や病気との闘いに完全に勝利することを含みます。
多くのクリスチャンが「主を心から信じていればそれでよい。悪魔との闘いとか、癒し手にならなくてもよい」と言いますが、そのような人は、主が最終的に期待しているクリスチャンではありません。
特に師は「今の時代に病気が癒されないで死んで行くクリスチャンがあまりにも多いことに私は耐えられない、クリスチャンなら皆病気から癒されるのは当然であり、そのような癒し手たちがこれからどんどん現われる」と言います。なぜなら、クリスチャンがそうならなければ、天で主と共に主の御座に着くことが出来ないからです。主は、「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。」とおっしゃっています。
私は最近このデイビス師の言うことに特に注目しているのですが、師はものごとを、特に聖書に書かれていることを、今の時代においては曖昧にせず、言うべきことはきちんとはっきり教えるべきであると言います。さもなければ、本当の真理をはっきり教えないばかりに、よいクリスチャンをも惑わす結果になりかねないからです。
その一つの例として、師は、「キリストの花嫁」になる人は、「しみもしわもない」完全にきよくなることを目標としているクリスチャンであって、クリスチャンであれば皆が「キリストの花嫁」になれるのではないことをはっきり指摘すべきであると言います。終末の時代には、たとえ人間的な常識では不可能と思われることでも、聖書が約束していることはすべて、必ず実現すると師ははっきり言っています。そのために神は、そのような「完全な」人になりたいと死に物狂いに望み、真剣にそれを目指す人を求めておられるのです。このようなクリスチャンが、最後の時代に出て来る良い方の究極の域に達する人たちです。
私自身も、過去においてそのことに触れたことがありますが、例えばエペソ4:13-16に書いてある「 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」を例にとってみれば、パウロが大真面目に言うように、ここに書かれていることは、主が来られる前に必ず実現すると信じて疑いません。しかし多くのクリスチャンは、その域に達するとは思いもせず望みもしないので、その領域に達しないのではないでしょうか。
そのような「完全におとなに成熟した神の息子・娘たち(ギリシャ語で fuios )」がこれからの御国で主に用いられる人々です。そのためにこの「空飛ぶわし」の油注ぎが不可欠であることを師は何度も強調しています。そして、そのような人のために、天には特別のドアが開かれていて、いつでも天に入って行ける時が来ると言われます。
間も無くこの世に帰って来られる主の元で効果的な御国の働きをするには、「神が何をされているのか」を知り(ヨハネ5:19,20)、天の「御国の見方を知る」ことが肝要であり、主と一致していないのでは決してよい仕事が出来ないことは明白です。本当に「なまぬるい霊」に打ち勝つにはこれしかないのです。
「空飛ぶわし」の油注ぎは「霊的に見る目と、聞く耳と、それを理解する心を」与えるものである、と師は指摘します。
この「霊的な目と耳と、心」を持つか持たないか、あるいは与えられるか与えられないかは、神への信仰に関して、聖書を通じての最大の課題の一つであると私は信じております。この問題については、旧約、新約聖書を通してモーセ(申命記29:4)、イザヤ(イザヤ6:9,10)、イエスご自身(マタイ13:13、マルコ4:12、ルカ8:10、ヨハネ12:40))パウロ(使徒28:26、ロマ11:8))を含む、少なくとも八回も取り沙汰されていることから見てもその重要性が理解できます。特にイスラエルの多くの民にそれが与えられなかったことが問題となっているのですが、デイビス師は、終末の最後の時代のクリスチャン(全部ではありません)にそれが与えられると言われるのです。(続く)