Archive for 8月, 2013:
25 08月
マンハッタンを祈って歩く (その2)
神と共に歩くとはどういうことなのか
坂 達 也
前回、主と共に歩いた人としてエノクのことに触れましたが、エノクの他には誰がいるでしょうか。聖書で次に出て来る人はノアです。そのノアの歴史を語るに当たって、聖書は「ノアは神と共に歩んだ人」として紹介しています。
「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)
上記でいう「その時代・・・」とは、「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になって」心を痛められた主が「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」と言われたような時代でした。(6、7節)
しかし、ノアだけは、主の心にかなっていました。そこで神はノアに「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている」(創世記6:13)と語られました。
そこで神は、皆様よく御存知のように、唯一人の「全き人」ノアとその家族だけを生存させるために、ノアに巨大な箱舟を作らせ、彼らの家族8人と、後はすべての生き物の中からそれぞれの種類の雄と雌一つがいを選んで舟に乗せるように命じました。そして神は、地球上に前代未聞の大洪水を起こし、悪を極めた人類の残りすべてと生き物を全滅させたのです。
当時の人々は、陸の上で巨大な箱舟を造りながら人々に世の終わりが来ると警告し続けたノアをからかい嘲笑するばかりで、洪水が押し寄せ箱舟のドアが閉じるその瞬間までノアの言うことを信ぜずに死んで行きました。
このノアの洪水と箱舟の話は決して単なるおとぎ話ではなく、本当に起った恐ろしい話です。神はこの世の終わりに、頑なに真の神を拒否し続けるノアの時代と同じような不信仰な人間に対して「最後の裁き」の審判を下すことが聖書では明確に預言されています。
さてここで、私が問題にしたいのは、ノアのどこが正しく、全き人であったかと言うことです。私はノアがすべてにおいて神の言われることに聞き従い、それを忠実に実行したことによって神の目に「正しく、全き人」であったのであると思います。
しかも驚くべきことに、ほとんどノア一人と後は家族数人だけで、全長132メートル、横幅22メートル、高さ13メートルの巨大な何万トンクラスの木造船をこつこつ作り上げたのです。恐らく百年以上掛ったことでしょう。材料の原木を山で伐採して海辺まで運び込み、それを製材機械で加工して、正確に組み合わせて造ったのですから、その方法と製材道具、それに精密な舟の設計図、造船技術に至るまでのあらゆることを、どうして経験のない素人のノアが考え付くことが出来たのか、想像を絶します。
考えられることは唯一つ、ノアは毎時毎分すべてを神に聞いて、神はそれに綿密に答えてノアを指導しながら建造して行ったということです。これは本当に驚くべき神とのチームワークであったと信じます。
私はここに「神と共に歩く」意味があると思います。念のためと思い、私はヘブル語で「歩く」と言う原語を調べてみました。そして分ったことは、この歩くという動詞は、ほとんどの場合、文字通り身体を動かして行く、来る、歩く、旅をすることを指しており、比喩的に使われているとしても、「人が身体を動かしている時は、いつも神と共に、神の御前で、神の御心に従って行動をする」ことを意味しているのです。
と言うことは、私たちが朝起きて寝るまでの間、身体を動かしている時間は、ノアのように、いつも神に聞き耳を立て、分からないことはすべて神に聞いて神の言うことに従うことが「神と共に歩む」ことであると言うことになります。その結果が神が喜ばれる「正しい人」で「全き人」になる訳です。
そこでもう一人の例を見てみましょう。それはアブラハムです。神は彼にノアと同じことを要求しました。
「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』」(創世記 17:1)
新共同訳では、主が言われた部分を「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」と訳されています。
エノクは300年間神と共に歩き、生きたまま天に取られました。それはエノクが神と親密に話し合いながら、言われたことを忠実に実行したから「正しい人で全き人」と言われ、神に喜ばれていたからです。(ヘブル11:5)
リック・ジョイナー師は天で色々な人に出会った中で、エノクと言う人は最もハッピーな(喜びに満ちた)人であったと言っています。それほど「主と共に歩く人」の人生は最高にすばらしい人生となるのです。
主のしもべ Bond servant になる
もう二十年も前になりますが、私は17世紀に生きたブラザー・ローレンスと言う人の本を読んで心を打たれました。彼は、何をしていてもいつも主のことを思い、主を喜ばすこと以外には何もしない人であったと言うのです。主と絶え間なく会話をしながら、主の臨在の中で主と二十四時間共に語り合いながら生きる人でした。夜は4-5時間必ず主と時間を共に過ごしました。
ブラザー・ローレンスを知った後で、私は同じくフランス人で17世紀に生きたマダム・ガイヨンの本を読みました。そして、彼女のように本当にすべてのことを神の手に委ねる決意をしようと思いました。彼女が提案する「主に完全に所有される、possessされたい」と思ったのです。
彼女は言います。「それは全面的に自分の存在を放棄し、神に手渡すことです。具体的に言えば、あなたの人生で起こるすべての事、あなたの身に毎時毎分起っている事の総ては神の御心か、あるいは神の許可を得て起こっていることを心から信じるのです。総てが神から出たもので、総てがあなたに必要なことであると信じなければなりません。」
マダム・ガイヨンは「あなたが主に対してそこまでの信仰が持てるようになれば、あなたの身にどんなことが起ってもそれを安心して受け入れることが出来るようになります。」と言います。これは大変重要なことであると思います。それでなければ、何が起こっても、「いつも喜んでいなさい。」「すべてのことに感謝しなさい。」と言う聖書の言葉はうそになります。
ガイヨン夫人は問いかけます。「あなたは真に心から全面的に神に自己放棄することを願いますか。これがあなたの生涯を通しての心構えでなければなりません。そうすれば、あなたは神によって完全に覆われ、神の支配下に入ります。」
「あなたが何かしたいという思いが来たら、その思いがどんなによいと思っても、自分からの欲望ならばそれを拒否して下さい。これを徹底的に行うことによって、自分には全く無関心にならねばなりません。 本当にそれを実行すれば、考えられないほどすばらしいことが起き始めます。その結果は自分から完全に解放され、後は主の御心だけを熱望するようになります。」「そうなると主があなたを離さなくなり、主と深い深い愛の関係に入ります。」とマダム・ガイヨンは言います。
私自身の話にもどりますが、私は当時、自分を主に完全に放棄することが、自分を主の十字架につけることであると信じました。
そして、私はそれを実行しようと一度は決意をしたのですが、長続きはしませんでした。その後幾度か決心をし直しながら、自分のふがいなさをその都度主に悔い改める年月が過ぎて行きました。つまり、毎日毎時毎分「主と共に歩く」ことはとても出来ないことが分ったのです。
今年になってからも神に possessされたいという思いが私にもどって来ました。そして、徐々に自分がその決意を曲がりなりにも実行出来る日が近づきつつあることを今、感じております。少しづつその目標に向かって主が私を変えてきてくださったからです。
私が主に全面的にpossessされたいと言う願いは、実は新しい考えでも特に崇高な考えでもありません。昔から聖書に書かれていることです。それは「主のしもべになる」ことです。旧約聖書に出て来るモーセとかダビデ、あるいは新約の使徒たちは皆、自分たちを「主のしもべ」、すなわち英語で言うBond servant と呼びました。旧約の時代の古い昔から「奴隷」と言う身分の使用人とか労働者が多くいて、その人たちはお金で売買されていました。
クリスチャンはまさにイエス・キリストが主人であり、クリスチャンになった時にキリストが御自分の血潮で代価を支払うことによって私たちを買われた結果、私たちはキリストの「持ち物」となったのです。自分の一生を主人の持ち物possession として捧げる、自分には何も権利がない、すべて主の命令に従う「しもべ」になることを自らの意思で喜んでなったのです。その代わり主がそのしもべの生活の一切の面倒を見て下さいます。
奴隷は主の命令で「死ね」と言われればそれに従わねばなりません。給料も支払われず、一定期間食べさせてもらって働くだけです。しかし、その義務期間が終了したとき、もしその奴隷が終生その主人に仕えることを自らの意思で選ぶならば、その奴隷は家族共々一生その主人に仕える者となります。その時、その家の門柱にその人の耳を錐で刺して穴が開けられBond servant となります。(詳しくは出エジプト21:5-6を参照下さい。)
御国の時代
今までの時代は、特別の賜物を持つ限られた人がミニストリーをしていた「教会時代」であったとすれば、これからは「御国の時代」に入り、キリストに似た者が100%主の方法でミニストリーをする時代になる、と今多くの使徒的・預言的な方々が言っています。
ある人は、自分に死んで主に100%委ねている人には、聖霊に加えてイエスご自身が霊の形で入って来られ、主が直接業をされると言います。これが主によって完全にpossess された形であるのかもしれません。
これからは使徒行伝に書かれているような、奇跡と癒し、死人をよみがえらせる業ですら日常茶飯事のように起ることが期待されます。
そこで皆さん、御国の業が出来る人になる第一の資格は何だと思いますか。実に簡単なことです。それはイエスが山上の垂訓で最初に言われた「心の貧しい者」になることです。それは真の主のBond servantとなることに等しいと私は思います。主は「天の御国はその人たちのものだから。」と言われました。
これはどう言う意味でしょうか。それは洗礼を受けたクリスチャンが「よみがえって霊で生きる」ことを本当に実行しようとする時に、最初に気付いて、「主よ、私の中には何もありません。何を始めることも出来ません。」と主に告白することです。
「霊に生きようとしても自分の霊の中には何もない、あるものはみな無益無用 futility なものばかりである」と気付く人です。これは Oswald Chambers 師が言われたことばです。
そのような人は主にすがりつき100%主に頼ります。
これからのミニストリーはこう言う人たちで行なわれると言われます。皆さん、大勢の成長しないベービーばかり作るのが主のお望みではありません。病人が来ればすべての人を癒されたイエス・キリストに似た「弟子」を作り、その人たちが、主以上の奇跡を起こす時代になるのであると信じます。そのために教会の中身と仕事の方法が、これから主によって抜本的に変革されるでしょう。
私はこれから来る世の終わりのさばきの時、あるいは刈入れの時には、ちょうど洪水のさばきの折に「主と共に歩く」ノアだけが用いられたように、やはり「主と共に歩く」すなわち、主の完全な持ち物になっている「全き人」だけが用いられる可能性が充分あると信じます。従って真に御国を「主と共に歩く」皆さんに大いに期待しております。(終り)
18 08月
すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させる
フランシス・フランジペン
私たちはクリスチャンとなり救われて慰めを得ているかもしれませんが、クリスチャンになっても私たちが完全になった訳ではありません。私たちに中にはまだ多くの悪霊の要塞があります。ですから、それらの悪の要塞のいくつかについて考えてみたいと思います。
クリスチャンの中で次のような要塞が一つもないという人は殆どいないでしょう。 即ち不信仰、冷淡、恐れ、プライド、人を赦さない心、情欲、貪欲等であり、他にも多くの要塞を持つ可能性があります。
私たちは自分のことはいとも簡単に赦してしまうので、自分の人生の中の悪いところや横暴なところをはっきり見極めることはとても困難です。 それは私たちの思い、態度、ものの受け取り方に関することです。私たちは自分自身を正当化するのと同じ熱心さで、自分の考え、思いを正当化し防御しようとするのです。「 人はその心の中で考える通りの、そのような人物となる。As a man thinks in his heart, so is he. 箴言23:7KJV」と書かれている通りです。
言葉を変えれば、その人がどのような人物かという本質は、その人の思考の中にあるということです。ですから、どの悪霊からの解放であっても、それが本当に達成されるためには私たちは正直に自分の必要を認めてそれを告白せねばなりません。すべてが大丈夫、うまく行っている、というふりをすることを止めて、へりくだって助けを求めねばなりません。実際、先に述べたように神が一番に取り除かねばならない私たちの要塞はプライドです。自分には解放が必要であることを進んで認めることなしには、決して悪霊の要塞から自由になることはできません。
自分の悪いところ、間違っているところを認識するためには、神の義の基準を知らねばなりません。ダビデが感極まったとき、 ヨブが惨めさのどん底にいたとき、そして、人生について思いを巡らした人たちすべては、同じ問い、即ち「人とは一体何者なのか?」という問いに直面するのです。
ヘブル書の著者も又、この質問をしていますが、彼が受け取った答えは 神の御顔を仰ぐようにと私たちを教え、イエスを見させてくれます。(ヘブル2:9)
御父のご計画として、「人が何者であるか」という奥義は、(人間)イエス・キリストがどのように生きられたかの中に見いだされます。キリストは「多くの兄弟たちの中で長子となられました。(ローマ8:29)」主イエスは天の創始の長子であり、人類のための御父のご計画です。人の奥義を考えるとき、私たちはイエス・キリストを見上げることによってその答えを得られます。主は救い主であるばかりではなく、私たちをご自分と同じ姿にしてくださる内住の主であるのです。(ヘブル2:10、ローマ8:29参照)
又、主イエスだけがイエスでありえる(主以外の人は誰もイエスのようには、イエスにはなれない)ことも認識し悟ろうではありませんか。私たちがますますイエスに服従し明け渡し、 私たちが主の内にとどまり、主の御ことばが私たちのうちに留まるとき、主はただ「主のいのちに似ている」というだけではなく、「主のいのちそのもの」を私たちに内に造りだしてくださるのです! キリストご自身が私たちの内に生きるということが、神の永遠の目的である「人をキリストと同じ姿にすること」を成就させます。
私たちの内に主イエスの臨在(イエスそのものであるその方)が来られることが、 悪の要塞を打ち壊すための私たちの武器を大いに力強いものとし、私たちの命ずる言葉に真の権威を与えるのです。
ですから、私たちは自分のどのような思い、考え、態度であっても、それがイエスに似ていないもの、イエスの教えと違うものならば、それを客観的に吟味することを学ばねばなりません。そして、そのような思いをつかまえて虜にし、間違った態度を十字架にかけねばなりません。そして私たちの内に主が来られる道を開けねばなりません。主の臨在(主ご自身)がどんどんと増し加わり、それが私たちの霊のなかに全くと言ってよいほど吸収され浸透し切る、それによって、私たちはただ主を信じるだけではなくて、主のようになったと信じるようにならねばなりません。主の愛と、主の思いと、主の願いそのものが私たちの内から自然に流れ出す――それは単に「似たもの」としてではなく、ちょうど、ぶどうの実がぶどうの木から自然に実るように、です。
自分の内にある悪霊の要塞が何であるかをはっきり認識してそれを打ち壊そうとするとき、二番目に打ち壊さねばならない要塞が私たちにはあります。それは不信仰という要塞です。その要塞は私たちに「キリストと同じ姿になることなど不可能である」と告げ、すべての霊的成長を虜にして止めてしまうのです。この嘘と私たちの心をしばる鎖を、私たちの人生から打ち砕かねばなりません。なぜならキリストの似姿になるのは可能であるばかりか、それは私たちのディステニーであるからです。
ですから今祈りましょう。聖霊があなたの心を満たし洪水のように溢れてください。「キリストのようには絶対なれない」という不信仰の要塞で苦しめられているならば、その偽りは今から打ち砕かれ始めますように。
祈り「主イエスよ、あなたに従います。私は、すべてのものを従わせるあなたの御力により、私の戦いの武器は要塞を打ち砕くほどに力強いものであることを、神の御ことばによって今宣言します。(第二コリント10:3−4参照)『私は絶対にイエスのようにはなれない』という偽りを、私が罪を犯し妥協する言い訳に用いていたことを悔い改めます。イエスの御名によって私の不完全な、罪深い、古い性質を断ち切り、神の恵みと聖霊の力によって私の心にある不信仰の要塞を打ち砕きます。イエス・キリストの完全な贖いにより、私は新しく造られた者となりました。そして主と共に主の恵みのうちに歩むとき、私は栄光から栄光へとキリストの形imageへと絶えず変えられていくことを信じます。アーメン」(終り)
Adapted from the book The Three Battlegrounds, by Pastor Francis Frangipane.
Francis Frangipane
Ministries of Francis Frangipane
Email: francis1@frangipane.org
Website: frangipane.org
12 08月
お金を通して語られる神
キャシー・ウオルターズ
数年前のことですが、私が自分の予定表を見ると一週間空いていることがわかりました。私はフロリダのオーランドにいるジョイ・ストラングさんに会いに行けたらすばらしいな、と思いました。彼女にメールすると、どうぞ来てください、という返事でした。でも私は一応主に「今週、あなたが私に行かせたいところがありますか?」と訊ねました。もう行くところは決めていたので、主から返答が来るとは思っていませんでした。でも驚いたことに、主は「そう、イスラエルに行って欲しいです。」と言われたのです。「フロリダに行くことになっているのですが...」と私は答えました。主に伺ったのはただ礼儀上だったのですから。でも主は「イスラエルに」と再度言われました。
勿論主に「行きません。」とは言えませんでしたので、イスラエルに行って友達のジュイニンに会うことにしました。彼女はその時イスラエルに住んでいました。彼女は当時すばらしいミニストリーを、特にアラブの村々でしていたのですが、一週間の間、私は彼女と一緒に行動しました。
私は彼女に付いて回っただけで、自分ではあまり何もしませんでした。ジョージアからイスラエルに発つとき、ある人がイスラエルまでの航空券を買ってくれましたので、みんなにはもうお金は必要ないと告げたにも拘わらず、いろんな人がお金を送ってきてくれました。そのお金はジュイニンがアパート代を払うのに必要であったことがわかりました。
それはよかったのですが、唯それだけのために、神は私をイスラエルに送ったのでしょうか?
そこで、イスラエル滞在の最後の日に私たちはエルサレムの旧市街を歩きましたが、その時、私は主に「確かに友達に会えたのはよかったのですが、それだけではこの旅行はあまり意味がなかったように思えます。」と少々文句を言っていました。私がそこにいる必要性は全くなかったし、私が行きたかったフロリダなら6時間のドライブで行けましたから。
その時私たちはたまたま旧市街にいてある宝石店の前を通っていました。皆さんは私が宝石、特に古い骨董品的な宝石が好きで、その中でも特にローズゴールドが好きだということを御存知ですね。そのお店は私の好きなミカル・ネグリンの作品を扱っていました。彼はイスラエルのデザイナーです。
「このお店をどうしても見たい。」と私はジィイニンを引っぱりました。店に入るとバービードールのようにきれいでスラッとした夫婦がいました。
私は素敵なブレスレットやネックレスをジュイニンと一緒に見始めました。素敵な夫婦はこの店のオーナーでしたが、店の反対側に行ってしまいました。私の英国なまりを聞いて私に興味を失ったようでした。 英国からの旅行者は「見るだけ」で実際に買うことは少ないという評判だからでしょう。
私はこのお店の宝石がとても気にいりました。ダイヤモンドやエメラルという宝石ではなく、デザインされたものでしたが決して安物ではありませんでした。ミカル・ネグリンの宝石を買うチャンスを逃したくなかったので、私はジュイニンに「ブレスレットを1つ買うわ。」と言いました。ところが主が私に「ブレスレットを4つ買いなさい。そしてジュイニンにも何か買いなさい。」と言われたのです。
そこで私は主に「ここのものは安くはないですよ。ご存知でしょ。」と答えたのですが、主は同じことを又言われました。
そこで、私は4つブレスレットを選び、ジュイニンに一番好きなものを選ぶように言いました。オーナー夫婦は私が「これと、これと、、、」と選んでいる気配に気が付き、又、ジュエリンが「私はこのネックレスがいいわ!」と言うのを聞いて、急に私に興味を持って私たちのそばにやって来ました。
私はブレスレットを4つとジュイニンのためのネックレスを買いますと彼女は「主を賛美します!」と言いました。オーナーのご主人が「おや、あなた方はボーンアゲインの人たちですか?」と聞くので、私たちは勿論「そうです。」と答えました。彼は次のように説明してくれました。「スエーデンからの宣教師が数ヶ月前に店に来て救い主イエスのことを話してくれました。彼女はそれ以来毎週メールしてきて、イエスのことをもっと教えてくれています。今朝も彼女からメールが来て、今日誰かがこの店に来て救い主のことを私たちに語るだろうと言って来ました。あなた方のことに違いありません。」
そこでジュイニンが彼らを主に導き、共にお祈りをしました。
店を出るとき、彼らは次のように話してくれました。「イエスをもっと前に受け入れなかった理由は、もし受け入れたら、イエスはビジネスを取り上げて私たちを貧乏にすると思っていたのです。私たちは成功したいと思っていますから。」
クリスチャンや宣教師から彼らは間違った考えを受け取っていたのです。それで私がブレスレットを4つとネックレスを1つ買ったことが、彼らの救い主イエスとお金の関係について持っていた間違った考えを彼らから消し去ったのです。
その後、彼らはとてもビジネスに成功し、他に2つの店舗を開いたそうです。神は御ことば、預言者、牧師を通して語られます。又、しるし、不思議、香り、その他様々な顕れによって語られます。神は又、お金を通しても人々に語られるのです。ですから心を開いていてください。神はご自分が語られるために用いる器をいつも探しておられるのです。(終り)
04 08月
マンハッタンを祈って歩く
坂 達 也
皆さん、世界で最初にPrayer walkをした人は誰であると思いますか。
はっきりした形でそれをしたのは、アブラハムであると思います。創世記 13: 14-17で神はアブラムに次ぎのように仰せられました。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。・・立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
神は、地球上で唯一の神の王国となるイスラエルのために「約束の地」を定め、その中心に位置するべテルの辺りの小高い丘の上にアブラハムを立たせました。そして「見渡せる全部の土地を永久にあなたとあなたの子孫(私たちクリスチャンも含んでいます)に与える」と宣言されました。そしてアブラハムに最初に命令したことが「その地を縦と横に歩き回りなさい。」であったのです。これは「約束の地」を神の御国にするための聖書にある最初の歩行であったと思います。
神はアブラハムをイスラエルの父祖として選ばれ、彼は信仰の父と言われました。神はそのアブラハムに地を歩かせて、アダム以来人間の犯した罪で汚れ呪われている土地を聖め、神の御国として悪魔から取り返す redeeming the land をさせたのでした。これで「祈りの歩行」が神の王国を打ち立てるために必要欠くべからざる最も重要な仕事の一つであることが明らかです。
どのように縦と横に歩いたのか、聖書に詳しいことは書いてありませんが、これこそ、まさに私たちのしている縦と横の通りを歩く「祈りの歩行」の元祖であることは確かなようです。
私は、今年に入ってから私たちの住むニューヨーク市のマンハッタン島を祈って歩いております。この地を歩くことが私に課された重要な主からの任務 assignmentの一つであると認識しておりますが、一日1時間半から2時間(それにそこまでに行く往復のバスと電車の時間を入れると3時間から4時間になります。)の歩行が非常に楽しく、身体が疲れるどころか、かえって主から力をいただいております。
今年の正月過ぎに島の南端にあるファイナンシャル地区から始めて、現在はセントラルパークの真ん中より少し上の辺りに達し、ほぼ60%程の道のりを終えたところです。今は少し足を痛めてこの一ヶ月ほど休んでおりますが、今年中には全島を歩き終える予定です。
私たちは息子夫婦が行っているRiverという名の教会に今属しております。この教会はウォール街に近く、例の2001年に旅客機が衝突した事件で爆破されたワールド・トレード・センターの跡地に新しいツイン・タワーがの建設中ですが、その直ぐ隣に建てられているオフィスビルの40階を日曜日だけリースをして礼拝を行なっています。
このビルの40階から展望する景色は実にすばらしく、そこからマンハッタンがほぼ全景見渡すことが出来ます。
私はその教会の場所から、アブラハムのように、マンハッタンを北と南、東と西のほとんどを見渡した後に、自分がアブラハムの子孫の一人として、この地マンハッタンを私たちの王国に取り返すはっきりとした意図を宣言して歩き始めました。
御存知の方も多いと思いますが、マンハッタンはかなり整然とした碁盤の目のように縦横の道路がはっきりしており比較的歩き易い街です。
しかし、ここで再び創世記を見てみたいと思います。と言うのは、アブラハムより先に最初に「神と歩いた人」は、アダムを除けばエノクであることが書かれてるからです。創世記5:24によれば、エノクは三百年神と共に歩きました。勿論この「歩く」という行為は霊的な意味として解釈されていますが、彼は神と名実(肉と霊)共に地の上を「歩いた」最初の人であると言えるかもしれません。そうであれば、それがどこであるかははっきりしていませんが、エノクが歩いたところはアダムの罪によって汚された地ののろいが聖められていたことになります。
重要なことは、三百年神と共に歩いた後にエノクは「神が取られたので」いなくなったと書かれていることです。この「取られた」あるいは「移された」と言う原語は、70人訳聖書Septuagintによれば英語のtranslate 或いは transformと言う意味のギリシャ語が使われています。
このことに就いては、6月に御紹介した「信仰について」(1-2)でリック・ジョイナー師が触れています。「信仰が私たちを変えますtransform。エノクの信仰が彼を天に移したのですtranslate。終末の時代に生きる私たちは今、信仰の成熟によって、エノクのように天の領域にtranslateされる時代に入ったのです」と師は言います。師は(1)の終りで「それは私たち(の霊的成熟)が天の領域と同じレベルにまで追いつくと言うことです。私たちは常に主と共に歩き、主と共に生きているはずです。」と書いています。
私たちの「祈りの歩行」の主目的は、私たちの住む地域を肉の形で歩くことによって御国に変え、御国の領域を広げることにありますが、理想的な形としては、歩行者が神との関係においてエノクの域に達することではないでしょうか。毎日を霊的に主と共に歩み、主と共に生きながら、御国を取り戻す歩行をするのが最も望ましいと思います。
しかし、やはり究極の「祈りの歩行」をした人と言えばイエスご自身であると思います。イエスは「すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」とマタイ9:35に書かれています。これこそ御国に於ける最高の祈りの歩行であると言えないでしょうか。
イエスは又、12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊どもを制する権威を授けた後に、彼らを遣わし「行って、『天の御国が近づいた。』と述べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊をおいだしなさい。」(マタイ10:1、7-8)と命じていますから、この「宣教歩行」こそが、これからの時代の究極の歩行であると信じます。これに関してですが、ある時私が歩いていますと、この宣教の御業をする「祈りの歩行」が「・・・天の御国は激しく攻められています。激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11:12) に通じることが示されました。私たちは12弟子と同じように、これから主より権威と力をいただいて、本格的な激しい「宣教歩行」を実践する時が近づいて来ていると感じております。
マンハッタンの歩行で示され、学びつつあること
私は今マンハッタンを歩きながら、主から「祈りの歩行」の重要性を再認識させていただいています。
中でも特に最近示されたことの一つは、肉の歩行をしながら、それが「主を見つめて待つ」祈りを実行するよい機会であることです。
事の起りは、最近忙しくて早朝「主を見つめて待つ」祈りをする時間が少なくなって来ていることに私が危機感を持っていることを御存知の主が、ある時、路上で私に「2時間の歩行をする間中、わたしを見上げて祈りながら歩きなさい」と言われたのです。それ以降、本当に歩きながらでも、主が色々と語って下さるようになり歩行が一段と楽しくなりました。そこで歩いている最中に語られたことを、忘れる前にすかさず持ち歩いている携帯電話にメモとして吹き込んでおくことを始めました。
土地ののろいを断ち切る
御存知のように、私たちが行なう「祈りの歩行」の主要点は、イエスの流された血潮をその土地に実際に充当することを宣言して歩くことです。それによってその地が癒され、きよめられ、それをサタンの手から取り上げることが出来ます。(その地が正式に王国に返還されたことを天の法廷で承認されます。)
私の最近のやり方は、交差点の街角に立ち止まり、私の立っている地と周りの建物に向かってイエスの血潮を降り注ぐことを宣言します。
それは、イエスの血潮によって、この地で今までに犯されて来た過去の一切の罪の呪いを断ち切り、そこに生活する人々を今までサタンの闇の世界に縛って来た枷 yokeから開放します。それと共に、イエスが地上にお帰りになるまでに犯される将来のすべての罪とその呪いも、今ここに置くイエスの血潮によって赦されるように血潮が街を覆うことを宣言します。これによって街が御国に変えられます。
その後で、私はイエスが十字架上で叫ばれたことば「父よ。彼ら(ここに住み生活する人たち)をお赦しください。彼等は何をしているのか自分でわからないのです。」をイエスを代表する者の一人として心の中で叫びます。
又、私はその通りと、その周りの土地と建物、樹木等一切のものに「イエスの福音Good Newsを住民と歩いて通る人たちの心に語り伝えなさい。」と命令します。するとある時、「同時にそのGood Newsを聞いてそれに応えない人は、それ程遠くない将来にそのめぐみが閉ざされることも警告しなさい。」と言う御声が聞こえました。
先日ダッチ・シーツ師が「これからはすべての力が強くなる時、メガ・パワーの時代」とチャック・ピアス師の集会で語っているのを聞きました。「そうだ、イエスの血潮の力、その叫びの力も物凄く強くなる時だ」と私はメッセージを聞きながら思いました。
私たちは今激しく攻める者として町々を巡り歩き、イエスの血潮の力によって福音 Good Newsを伝え、あらゆる癒しを行ない御国を奪い取り返す時が来たと信じます。皆さんもそれぞれが与えられている地域を、癒しの御業をしながら主と共に歩かれることを大いに期待しております。(終り)