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Walk With God Ministries


28 07月

あなたの夢こそが発明の母!         ダッチ・シーツ                2013年7月28日


あなたの夢こそが発明の母!

 

ダッチ・シーツ

 

気が付いておられるかどうかわかりませんが、あなたは夢を描く性質を持っています。その性質はあなたを造られた方から受け継いだのです。神が私たちを神の似姿に造ったのは、 私たちの心が神の心、神の夢を描く心と結ばれて、それが私たちを通して数えきれないほどの表現でこの世にあらわされるためです。あなたは夢を描くようにデザインされているのですから、夢を描かねばなりません。それはあなたのため、そして神のためです。実際、もしあなたが夢を描かないならば、決してデスティニーを達成することは出来ないでしょう。

 

夢のない人生はサテライトのないGPSのようなものです。GPSは作動するかもしれませんが、人を目的地に導くことはできません。同じように、神から与えられる夢で導かれなければあなたの人生は、決して見つけることのできない目的地を捜しながらハイウェイを走るようなものになるでしょう。しかし、神から霊を吹き込まれた夢を持つならば、それは神があなたのために計画されたデスティニーへとあなたを導くのです。

 

あなたをデザインされたお方は、あなたが生まれる前からあなたのための夢を描かれたばかりか、その夢を見つけ出し成就する力をもあなたを造られた時にDNAの中に巧みに組み込んでくださったのです。あなたのための神からのデスティニーは、それらの幾つかの夢を総合したものです。ですから、人生の旅はそれらの夢を捜しだすことが目的です。あなたを創造された方があなたのために描かれた夢を見つけ出すことは、人生に究極の満足感をもたらしますし、人生で追い求めるべき究極のものです。

 

もしあなたが神の夢を見つけ出さないならば、あなたは 間違ったレースを走って人生を浪費してしまうか、もしくは多くの人々のように何のゴールもないままに生きるのです。又ある人たちは、走ることさえ止めてしまって、 正しい出口にたまたま行き当たることを願いながら人生の迷路をさまよっています。何という悲劇でしょうか! あなたの創造者はそのような行き当たりばったりの人生をあなたに意図されたのではありません。あなたはあなたのための神の計画と夢を見つけ出し、確信をもってそれを追い求めることが出来るのです!

 

それは夢から始る

 

地球上の物事は、あなたがそこに生まれ登場したことによって、何らかの変化が起こるはずです。あなたは全体計画、プランの一部です。あなたはある一つの解決策、発明、祈りであり、私たちに必要な何かがあなたの中にあるのです。そしてそれは一つの夢から始まります。

 

「Savior for All Seasons」という本の中で、ウイリアム・バーカー氏(William Barker)は夢を描くことについて語っています。巡回伝道者とキリスト教大学で物理と化学を教えていた学長との間の議論がそれです。巡回伝道者はキリストの再臨と千年王国が間近であると主張しました。その理由は「自然界に関する殆どすべてのものはすでに発見されたし、すべてのことは発明されたから。」というものでした。学長はそれに反論し、もっと更なる発明がなされるであろうと主張しました。

「では例を一つあげてください。」と伝道者は学長にチャレンジしました。

「そうですね、50年以内に人類は空を飛べるようになると私は確信します。」と学長は答えました。

「ナンセンス!」と懐疑的な伝道者は叫びました。「飛べるのは天使だけだ。」

この伝道者の名前はライト(Wright)でした。彼にはオーヴィルとウィルバーという夢を描く二人の息子がありました。ご存知のように彼らこそが発明家ライト兄弟であり、彼らは父親よりも大きなヴィジョンを持っていたことを証明したのでした。

 

夢を描き、プランを立て、創造せよ

夢を描くことは創造性に火をつけます。不可能という言葉は、夢を描く心から流れ出る烈しいエネルギーと創作力に対しては無力です。夢は希望、不屈の精神、創意、発明的工夫を孕んでいます。夢を描くならばあなたは創造するようになるのです。それと反対に、もしあなたが追い求める夢を持たないならば、あなたは実りのない、感激のない、平凡な、想像力に欠ける、工夫のない世界という気力のない淀んだ人生を送ることになります。残念ながら実際殆どの人がこのような生き方をしているのです!



夢のない人の世界は小さく閉ざされていて、日々の営みに束縛され抑制されています。彼らにとってのデスティニーは、夢を描きプランを立て創造することではなく、ただ偶然によって支配されます 。しかし私たちのための神の計画は、人生のルーレットがよい所で止まって成功に行き着くことを願いながらそれを回すことではありません。私たちを造った方は、私たちが夢を描きプランを立て創造することを願っておられるのです。

多くの人はただ「絶好のチャンス」を待っていたり、「見出される」のを待ち望んでいます。彼らはチャンスを信頼し、宝くじが当たるのを期待しながら人生をさまよっているのです。それらは「夢」ではなく「幻想」です。神はあなたが幻想の世界で魔法の蜘蛛に咬まれてスパイダーマンになるのを待っているような生き方をすることを望んではおられません。私たちは夢を見るものであっても空想の世界に住むのではありません。

聖書には夢のことが沢山出てきます。そして「夢を描く」と「創造する」という二つの概念が、同じ聖書中の単語に含まれることは何かを私たちに示しています。yatsarという単語は「創造する」を意味し、その単語の変形であるyetserは「想像、考え、着想」という意味です。Yetserは、思いの中で形造られる計画とか目的を指していて、それには勿論夢を描くことも含まれています。Yatsarはその結果としての創造の業です。ですから創造する力は夢を描く力から出発するのです。

これこそまさに神が働かれる方法です。イザヤ46:10には、神は終りのことを初めから告げられるとあります。言い換えれば、神は結果を見たり想像され(yester)、計画やデザインを造るバックアップをして、次に創造(yatsar)を始められるのです。即ち、神は夢を描かれ、次に創造されるのです。

夢を実現させる

同じように、神が人間を神のかたちに造られたとき、 思い描いて創造するという神の能力の一部を私たちに中に入れられました。私たちは思いや心の中で何かを孕む能力を神から与えられています。そしてそれは次に、私たちの中に神が入れられた創造し革新する力を呼び起こすのです。神と同じように私たちは夢を描き、そして次にその夢を創造し生み出すのです。

ところで、 大きな影響力を持つ結果を持つ夢は、大きい必要はないのです。次の「取るに足らない」夢の例を見てください。紙が散らばるのにうんざりしたある人がクリップ(ゼムピン)を夢に描きました。夢は実現するのです!でもそれは何もしないでは実現しません。夢を描くことが創造力、新しい考え、行動、独創性を解き放つ故に実現するのです。もしあなたが夢を描かないならば、あなたは創造しません。もし夢を描くならば、あなたは創造せねばならないのです。

必要は発明の母ではありません。夢こそが発明の母です!(おわり)

 


20 07月

7、8、9月は夢が現実となる ダグ・アディソン      2013年7月20日


7、8、9月は夢が現実となる

ダグ・アディソン

 

夢が現実になる

 

今年の7月から年末までは、神の約束が成就され、夢が現実になる時です。 これらのことは今のシーズンに 神があなたに約束してくださった事と一致しています。私たちは神の御心を知るだけではなく、神のタイミングを理解し悟ることが非常に大切です。そのために効果的なのは神に「何が今起こることですか? 何が後になってからですか?」と訊ねることです。

今は加速と新たな可能性のシーズンです。これから6ヶ月間のテーマは「信じる者にはすべてが可能である」という原則に基づいています。神の愛と力は無限であり、 私たちが聖霊によって出来ることも又、無限です。

 

記録が破られる

私のウェブキャストであるスピリット・コネクションの6月の視聴者数は新記録で、サーバーがダウンしてしまったほどでした。

私たち夫婦は私たちの家の価値が上がるのを今までかなりの間待っていました。家を売ってロス・アンジェルスに戻りたいと思っていたからです。そして神が6月30日までに売りに出すようにと私に言われました。すると7月1日に買いたいと言う人が二人現れて、それも私たちが提示した額を越えた値段で買いたいと言ってきました。実際その額はうちの付近の家の値段では最高記録でした。

私は普通一年に200くらい、はっきり憶えている夢を見るのですが、この6月だけで50くらいの夢を見ました! それらの夢の一貫したテーマは、神は私たちが不可能と思っていたことを打ち破られているというものです。

 

7−8−9

これからの3ヶ月で起こることは、それぞれの月のナンバーの預言的意味と関係していると神は私に語ってくださいました。(7は完全、完成を意味し、8は新しい出発、9は収穫をあらわします。)

7月=7は物事が完成されることを期待できる時です。物事が一つにまとまり益となっていきます。 あなたの内にねむっている賜物が活性化されてあらわれるのを見てください。

8月=8は新しい始まりのシンボルです。8月は新しいプロジェクトを始める時です。目に見える領域や霊的領域で多くのムーブメントを見ることでしょう。活動場所の移動や、その他いろいろな変化があるでしょう。

9月=9は今まであなたがして来たことに対する大きな見返りの収穫がある時です。

 

抑えられない波

数週間前、私は津波のように巨大な波が私たちの上に押し寄せるヴィジョンを見ました。 そして「これから来ようとしているものは誰も止めることはできない。今まであなたが人々のためにして来たすべての良き業に対して、わたしはあなたに報いる。」という神の声を私は聞きました。

神は私たちが人々のためにして来たことに対して今、報いてくださるのです。あなたは蒔いたものを刈り取るのです。(ガラテヤ6:7)今は良い物を刈り取るシーズンです。

マタイ25:40「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」

人々を祝福するライフスタイルを持つ人は、大いなる報償を受けるでしょう。

 

更なる恵みを与える時

私たちは今、更に大きな恵みと愛を人々のために持つ必要があることを、神が繰り返し言われるのが聞こえます。あなたの回りの霊的空気を変えることが出来るものが3つあります。

1.恵みを与える:自分とは異なる人々を愛し、人々をこき下ろすのではなくいつもより寛容、寛大になる。

マタイ7:12「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことはほかの人にもそのようにしなさい。」

2.感謝する:文句をいわず感謝することは、あなたに祝福をもたらす道を大きく開く。

ピリピ4:12「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」

3.気前よく与えること:お金だけではなく、あなたの時間、エネルギー、愛、そしてあなたが持っているものすべてを。

ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人人は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

以上3つのこと、そして 「あなたが蒔くものをあなたが刈り取る」という霊的法則により、もしあなたが常に恵み、感謝、気前よく与えるということを蒔くならば、必ずあなたの上に天の窓が開かれることでしょう。

 

5つの眼鏡

私は、読書用の眼鏡を紛失してしまった時、突然5つの眼鏡がポケットの中に超自然的に現れる、という夢を見ました。今は 古いものの見方を捨て去る時です。そのためには恵みを頂く必要があります。

今神がされていることは今までとは違うことです。神は、過去の経験によって傷ついたクリスチャンたちに働いておられます。非常にかわった人たちが急にあなたの話を聞きたいと言って来ても(あなたにオープンになる)驚かないでください。それは彼らにとびぬけた恵みを示すために神が与えておられるチャンスなのです。(終り)

 


15 07月

天の御国の弟子となる   リック・ジョイナー           2013年7月15日


天の御国の弟子となる

 

リック・ジョイナー

 

 

霊の目で見る

 

マタイ13:52「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

 

ある者たちは他の人間の弟子になり、またある者たちはあるムーブメントやある教派、或いはある教義を強調することの弟子となります。弟子となった学者たちに言及している聖書箇所でイエスは、彼らは「天の御国の弟子」になるのであると明言しておられます。主は明らかに彼らは地上の者や地上の事柄の弟子になるのではなく、主の天の御国の弟子になるのだということを強調しておられるのです。

 

この世のものを霊的な目で見る

 

使徒パウロは天の御国の弟子のよい見本です。彼は当時最も学識のある者の一人でした。イスラエルで最も敬われていた教師の一人であるガマリエルに師事していました。パウロは知識人でありそのエリートでした。当初その事が災いして、パウロは自分が仕えていたと思っていた神と真っ向から対立し、主の真理を激しく迫害する者となったのでした。ある人間とかある一派の弟子となったときに私たちが行き着く先はまさにそうなるのです。そして、多分歴史上最もよく知られている劇的な回心により、パウロは今まで滅ぼそうとしていた福音のために最もパワフルに戦う者と変えられたのです。どのようにしてそのような事が起こったのでしょうか?

 

主がダマスコへの途上でパウロに顕れましたが、これは誰にでも起こることではありません。けれども、パウロの回心において、天の御国の弟子になるすべての人に共通して起こらねばならないことが一つ起りました。それは、パウロは霊の目で見るようなるために一時的に肉の目を盲目にされたことです。

これは肉の学びをするなとか、自然界に関する学問をするなと言っているのではありません。パウロが学んだ哲学や様々な学問は、後に彼が福音を理解し伝道するための助けになりました。しかしパウロは、肉的な目で霊的なものを見るのではなく、 霊の目で肉のものを見ることを先ず学ぶ必要があったのです。天の御国の弟子となる鍵はまさにここにあります。

 

変革transformationされる

 

肉の目で霊的なものを見ようとするのではなく、霊の目で肉のものを見ることが非常に重要です。第一コリント2:14−15にそのことが書かれています。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」

クリスチャンがキリストの身丈まで成長するのを妨げる最たるものの一つはこれです。パウロが経験したような変革を経験した人は殆どなく、又その必要性を理解する人も非常に少ないのです。それではどのようにすればその変革を遂げることができるのでしょうか?

パウロを霊的に盲目にしていたものを打破するために、神は彼を馬から落とさねばなりませんでした。私たちのためにも神はこれと同じことをせねばなりません。しかしその結果を出すのはパウロの経験ほどにドラマティックな出来事である必要はありません。同じ結果を得るために殆どの人が通る道があるとすれば、その方がいいかもしれません。それは、主 からへりくだらされるのではなく、自らへりくだるという道です。自分を吟味しへりくだるならば、主が手をくだす必要はないと私たちは聖書から教えられているからです。

 

パウロは肉体的な視力を取り戻しましたが、その直後に霊の目が開かれたわけではありませんでした。彼自身が言っていることですが、彼は11〜13年間荒野に退いていました。その後使徒職に任じられてからも彼の変革は続いていきました。彼の長い伝道期間を通じて、大きな絶え間ない変革が彼に起こっていたことを私たちは見ることが出来ます。それは恐らくすべての人にとって一生涯続くプロセスでしょう。私たちが常に天の御国の弟子であり続けねばならない理由はここにあります。

 

膨大なこの世の知識を持ち、この世的な訓練も受けていたパウロがこの変革を通るために、他の者よりも大きな衝撃とより厳しい懲らしめ、訓練を受けたかもしれません。ある人たちは生まれつき霊的な傾向があり、霊的に物事を見ることが容易であるかのようにも思えます。しかし、ここでのポイントは、私たちはみなこの変革というプロセスを通らねばならないにも拘わらず、それを経験する人が非常に少ないということです。私たちがこの世のものの弟子ではなく天の御国の弟子にならねばならない理由はここにあります。

 

大いなる任務

間違った視点からの学びが導く先は所詮間違いであることをよく悟った歴史上の人物の一人がパウロです。彼は真理と衝突し、その結果、クリスチャンを迫害し、それによって主ご自身を迫害することとなりました。その苦い経験により、彼は「何が真理に導くのか」に関して歴史上恐らく最も偉大な教えをコロサイ1:9−20で書き記しています。

「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされ、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配のなかに移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」

すべてイエスなのです。御国への鍵は「イエスがどういうお方であるかをよく知ること」です。イエスは、私たちが天に上り、天のリアリティーを証明するものと地を支配する権威を携えて地に戻ってくるためのヤコブのはしごです。

聖書が神の家に関して最初に語っているのは、ヤコブが天にとどくはしごと神のメッセンジャーがそれを上り下りする夢を見たときのことです。この神の家に関する最初の箇所は又「神の家」と呼ばれる教会の第一の目的を啓示する箇所でもあります。即ち、私たちは神のメッセンジャー が天の領域に上り、天国の証拠と地への権威を携えて地に下ってくるための道とならねばなりません。

ナタナエルに会ったときイエスは、「神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます」と言われました。イエスは私たちが天に上るための「ヤコブのはしご」なのです。私たちが天に上っていく道である「イエスがどういうお方であるか」という啓示がどんどんと与えられていくのです。万物はイエスによって造られ、イエスのために造られ、イエスによって成り立っています。「その道 The Way」とは「このようにすれば出来る」というような方法ではありません。それは「一人のお方」なのです。私たちはただ霊的に成熟することを追求しているのではありません。キリストにまで成長することが私たちの目標です。

 エペソ1:10に「いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる」とあります。イエスが神の究極の目的です。御父は、造られたすべてのもののうちに、ご自分の一人子を探しておられるのです。神はご自分の息子を私たちの中に見つけようとしておられるのです。ですから、神が私たちの人生の中でされること、又私たちの人生の中に起こることを許されることのすべての究極の目的は、私たちをキリストの似姿に変えることです。

イエスがすべての創造の究極の目的であることを理解することなしには、私たちはこの世界を正しく把握することはできません。使徒たちが語った福音は「イエスと死者からの復活(使徒4:2)」であった理由はここにあります。私たちがイエスをすべてのものの目的であると理解するときに、すべてのものが明らか理解されます。「イエスがどのようなお方か」を顕す以上の崇高な啓示、深い真理はありません。(終り)


01 07月

顔のおおいを取りのける            フランシス・フランジペン              2013年7月1日


顔のおおいを取りのける

フランシス・フランジペン

 

私たちは、技術を真似るとか本を読んで学ぶとかで神の栄光を見出すことはできません。主の臨在は、マニュアルに従う時にではなく、インマヌエルなるお方に従うことを学ぶときに顕れます。

これまでの教会は、私たちが未熟であったために、様々なことをして人々から認められようとして来ました。そして自分の教会がユニークであるとか、ある事に関して力を入れているとかで知られたいと願いました。ある教会は異言で話すことで知られたいと願い、あるいは立派な教会堂や伝道集会のプログラムで知られたいと願いました。又、ある教会は教会運営に独特な方法で秀でることと特別講師を定期的に招くことを掲げて宣伝して来ました。

 

主との親しさで知られる教会

 

このように人々に知られ認められたいという願望は、多くの非聖書的な伝統を教会の中に作り出して来てしまいました。そしてそれらの伝統は教会同士を引き離したばかりではなく、私たちと神とを分離し疎外してしまったのです。しかしながら今日の弟子たちは、ただ次の一事において知られるようになるでしょう。それはイエスを真に知っていることと、主との親しさによって知られるのです。主の臨在が、-それは単に主に関する教義を持っことではなく、真に主の御霊の臨在に溢れ、その人たちが主に似た者となっていること―溢れるほど多くの「小羊なる主に従う者たち」を招き伴うようになるのです。

彼らの焦点はただ主にだけ向けられているので、神は遂には彼らの人生に大いなる力でが伴うようにしてくださいます。彼らが病人に手をおくと、直ちに癒しが起こることが普通のこととなります。これらの奇跡はイエスを愛することを一番にした人生へのほんの小さな報いにすぎません。

私たちの救いは、私たちが何かをする事にではなく、イエスが私たちにとってどのようなお方となるか、即ち私たちとイエスの関係に基づいています。キリストのみが私たちの義であり、徳であり、力です! 私たちがミニストリーをする時、それはイエスの力によってでなければなりません。そうでなければ実際のところ時間の無駄です。私たちの確信は主にあるべきであり、自分自身の能力にあるのではありません。信じる者にはすべてのことが可能ですが、主から離れては何もすることが出来ないという認識に、私たちはしっかりと基盤を据えねばなりません。

 

聖なる御臨在

 

私たちが探し求めなければならないことは、自分たちが陥っている人間的伝統に気が付き、それに安眠して来たことから目覚めることです。即ち、生き生きした神の臨在を追い求めその中に入ることです。万能の神は、私たちひとり一人に天からの特別の召しを与えておられ、その霊的な目標に向かって私たちは成熟するように召されているのです。

 

この希望は、憶測とか理不尽な期待とかに基づくものではなく、神の言葉から直接私たちに語られているものです。

第二コリント3:17−18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

ここに私たちの召しに対して栄光の希望があります。私たちはみな「おおいを取りのけられた顔」でキリストを見つめるのです。ここでパウロは「私たちは皆・・・主の栄光・・・を見る We all …behold…the glory of the Lord」と言っています。神のご計画の中によれば、預言者や幻を見る人や聖人だけではなく、あなたも私も「主の栄光を見る」人の中に入れられているのです。私たちに与えられたこの「聖なる特権」とは、私たちを神の臨在から隔てている「おおい」を取りのけることです。こうして私たちには主の栄光を仰ぐことが約束されているのです。

旧約では二つの「ベール(幕、おおい)」について語られています。一つは神殿の聖所と至聖所とを分けていた厚い幕のことです。聖所では神の定められた儀式に則って毎日捧げものがなされました。しかし至聖所には神の聖なる臨在が宿り、大祭司が年に一度贖罪の日に入るだけでした。それは非常に恐ろしいことでした。

イエスが息をひきとられた時、そのベール(幕)は上から下に真っ二つに裂かれました。それはキリストの購いにより、私たちが聖なる臨在に入ることができる新しい道を保証するものでした。幕が上から下に裂かれたという事実は、キリストの生け贄は私たちのための完全な購いとなったことを示しています。幕が裂かれたのが、キリストが息をひきとられたまさにその時であったということは、御父がどのように熱い思いで私たちを神の家族に迎えてくださったのかを語っています。(マタイ27:51)

しかしもう一つのベールとして、モーセが神の臨在を離れるときに顔につけたベール(おおい)がありました。これは神の栄光を見ることに耐えられなかったイスラエルが願ったことでした。神の栄光はモーセの顔から少しずつ消えていきました。しかし、このベールの必要性も又、キリストにあって取り去られました。神はもはや特別な一人の人だけが聖なる所に入り、他の者たちは離されているということをよしとされませんでした。新しい契約は、私たち皆を栄光の一団としたのです。—「私たちはみな、顔のおおいをとりのけられて、主の栄光を反映する」のです。

ベールとは一体何なのでしょうか? それは見えるべきものを隠す障害物です。前述のように、 宗教的伝統ではあっても神の臨在を招かない伝統はベールになる可能性があります。神のためにしているまさにその宗教的伝統が、私たちを神から遠ざけている障害物かもしれないとは、なんと残念で恐ろしいことでしょうか。

第二コリント3:14「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至まで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、とりのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。」

宗教的伝統が私たちと神の臨在との間のベールになってしまっているかどうかを、どうすれば識別することができるのでしょうか?  今まで遵守するように教えられて来た間違った伝統や人間(文化)的伝統の殻を、実際どうやって打ち破ることができるのでしょうか? その答えは、私たちがどれほど神の御ことばを愛しているか、そして私たちの心が主の御声にどれほど開かれているかにあります。私たちが主の御声に聞き従うとき、神への回帰が始るります。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。(第二コリント3:16)」今、あなたは一人で神の御前にいます。「主に向く」というシンプルな行為があなたのベールを取り除くのです。

聖書は、誰でも聖霊によらなければ「イエスは主である」と言えないと言っています。今言ってください、「イエス様、あなたは私の主です。」と。

あなたの心を主に向けてください。恐れないでください。神殿の幕を裂いたのは主のお考えであったのを思い出してください。主はあなたが近づくのを願っておられるのです。あなたが心を向けた瞬間に「おおいは取り除かれる」のです。

祈り「主イエス様、私が持っている様々な伝統をお赦しください。主よ、特にあなたの御声から離れて生きていることをお赦しください。私はベールを今取ります。今あなたの生きた臨在に私の心を向けます。」(終り)