26 02月
今回は先週に掲載しました坂 達也による「2013年―2015年の3年間への預言」の続きです。もし前回のメッセージをご覧になっていない方は、ぜひ前回の文章から先にお読みいただくようお願いします。
尚、この二度にわたる私のメッセージは、2012年末に行なわれたモーニングスター「ニューイヤーズ・コンファレンス」においてリック・ジョイナー師を中心に、特にカマル・サリーム師とポール・キース・デイビス師が、今年から始まる三年間に関する非常に重要な預言的メッセージをされました。そのサリーム師とデイビス師のメッセージは私たちWWGMの1月20日、27日、2月1日に掲載しましたので未だご覧いただいてなければそれをご覧下さい。これに対して私は前回と今回で、この二師のメッセージの要点を私なりにコメントさせていただきました。
坂 達 也
前回よりの続きーー
2015年秋に何が起るのか(サブタイトル)
サリーム師は一団の人たちがヨルダン川を渡って約束の地に入るのは、今回は天に向かうと言い、デイビス師はそれは教会がこの世からいなくなることを意味すると解釈しておりました。しかし後でデイビス師は、「2015年に何が起るか自分にはよく分らない」とも言っています。
一方、ジョイナー師は「真の信仰を持つ者たちは、津波が来る直前の今の時は、天の御座の主の元で主と共に過ごす時である」と言う意味のことを言われました。それは霊的な意味であって、今はそれほどまで私たちが主と密接な関係に入る時であることを強調されたと私は解釈しております。
少し違うかもしれませんが、私も昔からブラザー・ローレンスのような経験を持つことが夢でした。現に今生きている人で複数回「霊の形で天に行った経験を持つ」人がいます。私が知っている範囲でも、ボブ・ジョーンズ師を始め少なくとも数人はいますから、世界的な規模からすれば、恐らくかなりの人数の方が、天国体験をされているように思われます。中には継続的に経験されている人もいるのです。しかし、それはあくまで、その人たちの霊が天国に上るのであって、肉の形では未だこの世に留まっている人たちです。
聖書にはパウロもそのような経験者であることが書かれています。2コリント12:2-4に「・・・この人(彼自身)は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。・・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」
実際にパウロは「それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知らない」と言っていますから、そのようなどちらともつかない、しかしリアルな経験があり得ることは確かです。
従ってこれから三年間霊的に準備された一団の人たちが、特に2015年の仮庵の祭りに天から召集され、肉体を離れた形であるのか、あるいは肉体のままで行くのかはともかく、集団として天に挙げられる可能性は充分あり得ると思います。
そこで、私がそう思う理由を申し上げたいと思います。実は、霊的に成熟して大人になった複数の男子が、天の御座に引き上げられることが聖書に書かれているからです。下記に、それを見てみたいと思います。それは黙示録12:1-5です。
「1また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。2この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
3また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。4その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
5女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」
この聖句に関して私は今まで20年近く、その意味するところが何であるかに大きな関心を持って来ました。私の調べた範囲では、ほとんどの注釈書がこの12:5に出てくる男の子はイエス・キリストご自身であると解釈しています。しかし、イエス・キリストがマリヤから生まれて来たのは二千年も前のことであり、最後の時代に起こることが書かれている黙示録の流れの中で、突然イエスが誕生して天に引き上げられると言うのは、どう考えてみても無理があると思います。
そこで、そのような一般の解釈とは異なる解釈をしている方にマービン・バイヤーズ師がおられますのでご紹介します。師はユダヤ系アメリカ人で、聖書の霊的学びに関しては、私たち夫婦の最も尊敬するメンターの一人です。
この方の解釈によれば、1節にある「ひとりの女」とは、ひとりと言う単数形であっても、複数の人数を代表する「教会」を象徴的に表していると言います。そしてその女である「教会」は、単数形の一人の「男の子」をみごもっており、出産直前の産みの苦しみと痛みで叫び声をあげました。この場合の「ひとりの男子man child」は、やはり象徴的に、複数の成熟した男子huiosを表しており(但しこれは男性に限らず女性も含みます。)「鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはず」の人たちです。この「鉄の杖を持つ人」のことは黙示19:15に書かれているように、本来はイエス・キリストを形容しています。しかし黙示録2:26,27に書かれている「勝利を得る者」も同じように「鉄の杖をもって諸国の民を支配する」と書かれていますが、この人たちはイエス・キリストでないことは明らかです。そうであれば、彼らは「イエスに似た勝利者」であり、又「神の成熟した子どもたち」を指していると師は言われます。従って、そのキリストの身丈にまで達した「神の成熟した子どもたち」がキリストと共にすべての国々の民を牧すると言う考え方です。
パウロは「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」とロマ書8:19に書いているように、終末にこの「神の成熟した子どもたち」が現れることを期待しております。そうであればこの「神の成熟した子どもたち」を産んで育てたのが「教会」であると言うことになります。{それがコロサイ1:27で言う「あなたがたの内に(生まれて成熟した)キリスト、栄光の希望」です。)
この成熟した神の子(子どもたち)が「神のみもと、その御座に引き上げられた」と12:5で書かれているのですから、これを文字通り取れば、その人たちが主がおられる天の御座にまで引き上げられることが起こるはずです。
天空の徴
ここで、デイビス師の言われる天空の徴し、特に月食、日食が二年続けて2014年と15年のユダヤの祭日、特に仮庵の祭りに起こると言われたことを思い出して下さい。そのことついては、NASAの資料等で調べても間違いのない事実のようです。
又、主イエスが誕生された時も天に異例な徴が現れたことを併せて思い出して下さい。この二つのことから、あるいはその他の聖書に書かれている多くの天の徴のことも含めて考えられることは、天に異例の徴が現れる時は、イスラエルあるいはイエス・キリスト、教会に関する重要なことが起こることは充分にあり得ると言うことです。
そこでもう一度黙示録12:1を見てみますと、天に「巨大なしるし」が現れることが書かれています。「太陽と月それに12の星を身に着けた」女が先ず現れます。
それ以降にバイヤーズ師の解釈を当て嵌めてみますと、「女」とは「真の教会」で、産みの苦しみの後に、ついに真のイエスに似た、イエスのように鉄の杖ですべての国民を牧する「神の成熟した大人の子どもたち」を産みます。(12:5)その生まれた「神の子どもたち」が天に上げられると言うのですから、私はこの黙示録12:1-5は終末に起こる最も重要な事件の一つであり、無視出来ないと思うのですが、いかがでしょうか。バイヤーズ師の解釈をもっと詳しくご紹介したいと思いますが、今回はこのあたりでとどめます。
しかし、それが文字通り起るのか、あるいは霊的な意味であるのか、それはデイビス師が言うように私にもよく分りません。しかし、もし起るとすれば、それが天に徴が現れる2015年の秋の「仮庵の祭り」に起る可能性は充分にあり得ると思います。
但し、この「御座に引き上げられる」ことが一般に言われる「携挙」ではないことは恐らく間違いないと信じます。なぜなら、天に上げられるこの勝利者たちの一団は教会の一部であって、地上に残る教会が存在するからです。そのことが12:6に書かれています。
そこで、この選ばれた一団の教会がもし一度天に挙げられるとしても、彼等は地上での最後のハーベストに主の軍隊として実際の刈入れにたずさわる人たちですから、もう一度、地上に戻って来なければなりません。それについては、私の知る限り、聖書は触れていないと思いますが、考えられることとしては、黙示録7章と14章に出て来る144,000人がそうではないかと言う可能性です。
その理由は「 彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」(黙示録14:4、口語訳)と書かれているからです。「女にふれたことのない者」とは、この世的なものに一切興味がない霊的に純潔をキリストにささげる人たち、と言う意味でしょう。又、「神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者」とある「初穂」が12:5で天に上げられる「神の子man child」を意味するにふさわしい人たちであり、同時に、長男と穀物の初穂は神にささげられねばならないという律法に(出エジプト記13:13、22:19、23:19)マッチするからです。
又、この144,000人がイスラエルの12部族の人たちであるとはっきり書かれている点ですが、それは肉のイスラエル人だけではなく、霊的に接木された異邦人のイスラエル人であっても霊的・質的にイスラエルのそれぞれの部族のルーツにふさわしい人である限り含まれる、そして数的にも神は人数制限をしない方ですからこの数字より多くなっても問題ないと解釈出来ると思います。(少なくともバイヤーズ師はそう言います。)
その144,000人が黙示録14:1で「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。」と書かれているのですから、これが主と共にこの人たちが最後の刈入れの前にシオンの山に帰って来ることが充分あり得ると私は思います。
但し、以上のことはバイヤーズ師の聖書解釈に私の考えを「一つの可能性」として述べさせていただいたものに過ぎません。(バイヤーズ師は必ずしも12:1-5で、神の子man childが天に上げられるとは言っておりませんし、144,000人がそうだとも明言はしていません。)ですから、私もデイビス師と同じように「よく分りません」と申し上げておきます。
なぜなら、終末に何がいつ起こるかと言う期日の憶測はクリスチャンとして慎むべきであると信じるからです。私は、主が言われた再臨の時を含めた「世の終わり」が来る「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」(マタイ 24:36新共同訳、使徒1:7参照)と語られたことを尊重します。しかしその反面、主はマタイ24:32、33で「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」又、24:44で、「だから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのですから。」と言われるように、時に聡くありたいと願っております。それ故に、今がどんな時であるか、特にこれからの三年間の重要性を皆様と共に祈って正しく理解したいと願うものです。
それに、もし2015年秋にこの選ばれた「教会」が肉の形で天に上げられなくて、この世に残る(但し霊的な形では天に一時的に集められる)としても、それこそこの世にとどまり彼らがイエスの栄光を輝かせるのですから、教会全体にとって彼らは大変大きな祝福となります。
最後に、どうぞ皆様、黙示録12章につきましては、これは聖書に書かれた世の終わりに関する重要な解釈の問題として、ぜひお祈りしていただきたいと思います。(終り)
22 02月
2013年―2015年の3年間への預言
坂 達 也
今回のモーニングスター「ニューイヤーズ・コンファレンス」においてリック・ジョイナー師を中心に、特にカマル・サリーム師とポール・キース・デイビス師が、今年から始まる三年間に関する非常に重要な預言的メッセージをされました。サリーム師とデイビス師のメッセージは私たちWWGMの1月20日、27日、2月1日に掲載しましたのでご覧下さい。そこで私は下記にて、この二師のメッセージの要点を私なりにコメントさせていただきたいと思います。
抜き身の剣を持つ主の前に立つ
サリーム師は、2011年に主が「教会をこの世から切り離し、その間に距離を置く」そして2012年には「教会を教会から切り離す」と主が語られた言われました。そして今年2013年から始まる三年間で、切り離される真の教会が徹底的にきよめられ、しわもしみもない状態に主がされると言われます。彼はヨシュアに引き入れられて契約の箱を先頭にヨルダン川を渡ったイスラエルの民の話をし、私たちも今最後の時に来ていて、約束の地へ渡ろうとしていること、主はあなたの十字架を毎日担いで歩きなさいと主が語っておられると言います。そこで私にはイエスが語られた次の御言葉が思い浮かびました。
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)この聖句ば非常に厳しいものです。しかし今こそ私たちは、この御ことばを本当によく噛みしめて自分のものとすべき時であると信じます。
剣と言えば、フランシス・フランジペン師は、ヨシュアの前に剣を持って現れた聖なる戦士の姿が、終末に来られる主の姿ではないかと言われ(ヨシュア記5:13)、私もそれに賛同します。「ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。『あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。』」
終末に来られる主はこの世を最終的にさばくために来られます。それはこの世を支配して来た悪魔とそれに従う人間の集団を一括してさばき、切り離すと共にし、主を信じる人たちを主の御国に集める作業です。これを聖書は「地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」(黙示録14:5口語訳)と説明します。この最後のハーベストの時に実るものは、よい麦ばかりではありません。毒麦も実ります。刈り取りを実際に行なうのは「真のキリスト者」の精鋭からなる軍隊です。特に毒麦の刈り取りは、主の指揮の下で、天の御使いに助けられながら行なわれる壮絶な戦いとなります。又、よい麦の刈り取りは終末の大リバイバルですが、これをするにも抵抗する悪魔軍と戦いながら行なう訳ですからやはり闘いが伴います。しかしその前にその収穫のための働き人が選ばれ訓練されます。それがこれからの三年間に行なわれると言うのです。
ところで「抜き身の剣」は私たちの戦いの武器の一つですが、それは肉のものではなく「御霊の与える剣である神のことば」であるとパウロがエペソ6:17で述べています。神のことば生きていて力があります。ですから、私たちクリスチャンが霊的に成熟すればするほど、霊的な剣がどれだけ必要であるかがわかって来ます。
そして主が、終末に生きる私たちを用いて「平和の神は、すみやかに、あなたがたの(私たちの)足でサタンの頭を踏み砕いてくださる」(ロマ書16:20)ご計画をお持ちなのですから、私たちはこの世の王である悪魔に完全に勝利するまでは、主と共に戦わねばならないことをこの際改めて認識していただきたいと思います。
そこで、前に立っておられる主を見た時、ヨシュアは主に向かって「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」と聞きました。「剣」は衝突する者同士の闘いを表し、又、その間を分けて切り離すための武器を象徴しますから、まさに今の時代は剣を持たれた主が、先ず働き人の精鋭を選ぶために「教会の中から教会を分けて切り離す」ことにも当て嵌められると思います。
又、聖書には次のようにも書かれています。「かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。しかし、聖書は何と言っていますか。『奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。』こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」(ガラテヤ4:29-31)これはアブラハムの子を産んだ奴隷の女ハガルの子イシュマエルと、自由の女サラから産まれた約束の子イサクのことを指しており、同じアブラハムの家に二人の子どもを相続人として共存させてはならないと言われているのです。つまり、同じ教会の中に肉の子どもと霊の子どもが共存してはならない、肉の子どもを追い出せ」と命令されているのですから「教会」から肉的クリスチャンの「教会」(員)を切り離すことは聖書的であるのです。
従って「切り離して分ける」基準は、私たちが100%肉の人間から、先ず肉のクリスチャンになり、更に100%霊的なクリスチャンに変えられねばならないと言うことになります。それが上記のマタイ10章に書かれている「どんな近親の者(肉の者)より主をより愛し、それどころか、肉の自分自身を完全に捨てて、毎日を主のためにのみ生きる者になっているかどうか」の一点にかかっています。それゆえに、主は「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」と言われます。
これで明らかなことは、私たちが地上のクリスチャン生活の最後に、この一点だけが問われるとしても全く不思議はありません。しかし完全な霊的クリスチャンにならなければ地獄に落とされると言うことではありません。
考えてみれば、私たちクリスチャンはそれが最終目標であることを承知し、覚悟の上で洗礼を受けたはずです。パウロは「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」と言いました。(コロサイ2:12.新共同訳)
勿論よちよち歩きの信仰の弱いクリスチャンがこれを本当に自分のものとするまでには時間が掛かることを、主も充分承知しておられます。しかし、キリスト者たる者、最終的にはそうならねばならないことに変わりはありません。もし、いつまでもそうならない者が出て来るとすれば、そうである者とそうでない者とがはっきり区別される時が来ることを、私たちは当然覚悟しなければならないと思います。言ってみれば、いつか決算の「つけ」が廻ってくるのです。そのことを、残念ながら、多くのクリスチャンは安易に忘れ去り、見逃して時を過ごしていないでしょうか。主は、いつまでたってもそのような「主にふさわしい者にならない者」をこの世的で自分が生きている「なまぬるいクリスチャン」と言われました。(黙示録3:16)主はそのようなクリスチャンを口から吐き出す程にお嫌いであるとおっしゃるのですから、私はその御言葉に身震いを感じます。
よく考えてみれば、「自分の十字架を常に背負って主の後について来る」姿こそ、真に夫に尽くす「キリストの花嫁」の姿です。歌を忘れたカナリヤではありませんが、自分の十字架を忘れたクリスチャンは真のクリスチャンではないと主がはっきり言われているのです。その大きな原因は、クリスチャンになれば誰でも「花嫁である」と言う安易な御言葉の解釈が一般的に通っていることにあるように私は思います。
つまり、キリストの花嫁とは肉のクリスチャンから霊的成熟が実り切って「キリストに完全に似た者、まるでキリストそのものになっているような人たち」であり、それでこそ真の「キリストのからだ」あるいは「キリストの弟子」であると言えないでしょうか。
教会からより分けられる「教会」は勝利を得る者
この世の終りに、剣を持って立っておられる主と出会いその後に従う者とは、教会の中から選ばれた「真の教会」の一団であることが今回、二人の講師によって強調されました。その人たちは背に自分の十字架を負い、手に抜き身の剣を携えている人たちであると私は認識します。その人たちが最終的に悪魔に打ち勝って御国を闘い取る「主に似た」者であり、デイビス師が強調する「勝利を得る者」の姿です。聖書は言います。「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」(黙示録17:14 新共同訳)又、主は「勝利を得る者」について、黙示録2:7,11,17,26、3:5,12,21と7回も語っており、特に3:21では「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」と言われていますから、真の教会、キリストのからだ、花嫁、それに加えてパウロがロマ書8:19で言う、単なる神の子どもたちではなく「成熟した神の息子たちhuios」が、主と共に「勝利を得る者」であることに間違いありません。そうであれば、私たちクリスチャンの全員が「勝利を得る者」になることを目指さねばならないと思います。なぜなら、この霊的戦いを通して、神が私たちを霊的に成熟させ、キリストにおいて私たちを完成させるための訓練であるからです。
さて、そこでサリーム師は10人の花嫁の話(マタイ25:1-13)とギデオンの軍隊の話(士師記7章)をして、これからの三年間に教会の中から「真の教会」が選出されることを示峻しました。
デイビス師は、黙示1:13-17から、今は「天の領域」を実際に経験する人たちを生み出すシーズンであると語り、ヘブル書11:32-34に書かれている大きな信仰の人たちが行なったのと同じような奇跡を行なう人たちで、既に存在するその人たちが、これからの三年間にそのような信仰の成熟に達するための訓練を受けた結果、終末の時代に主と共に働く「勝利者」の一団として選ばれると語りました。
又、ジョイナー師は、次の津波のようなリバイバルの最後の大波が来る直前に潮が引く際に、高いところに上がる人たちの話をし、それは天の御座に主と共に着く人たちであると言いました。
とどのつまり、この三師は皆同じことを言っています。
そこで、10人の花嫁の例では、5人が選ばれ5人が失格します。ギデオンの軍隊召集の場合は、初め三万二千人から最終的に三百人に絞られたことの意味をよく考えてみたいと思います。その合格率は決して多くはありません。ご存知のように、キリストはそのことを厳しく警告しています。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)この御ことばを本当に真剣に考えねばならない時がついにやって来たと私は思います。皆さんはどう思われますか。
聖書の話の中に出て来る例話とか、あるいはたとえ話にしても、意味のないお話は一つもありません。極論を言えば、旧約と新約を通じて聖書の預言と例話は、多くのことが終末に起こることへの預言、あるいは教訓として受け取るべきであると信じます。(1コリント10:11)
又、聖書に書かれてあることはすべて実現する、特にイエス・キリストご自身が言われた厳しいお話はすべていつか必ず起ると考えなければならないと思います。私たちはこの世的になって「奇跡が起こらないことにあまりにも慣れ過ぎた」せいか、多くの聖句を頭の知識としては知っていても、それが実際に起ると言う信仰につながっていないと言う気がします。私たちは先ずそのことに気が付き、心から悔い改めることから始めなければならないと思います。
又、信仰とは自分の肉の力で大きくなるものでは決してないと思います。あくまで主にいつも飢え乾き、熱烈に願って、主からいただくものであると信じます。そのように熱心に願う人に対して、主は、主のタイミングと方法で、そのような人の願いを聞き届けて下さいます。
又、「主のようになりたい」とか「主の御言葉を常に聞いて主の御心だけで生きたい」と願うことも同じで、自分の力で出来るものではありません。しかし本当にへりくだって、それを毎日執拗に願い求めれば、主がそうなるための訓練をして下さり、願いは必ず聞かれると信じます。
再臨の前に主は先ず、私たち主の宮-仮庵-に入られる
掲題について、デイビス師は非常に興味深いことを言われました。「神が人々のからだと言う仮庵に入られること、すなわち、神はご自分の選んだ人々をこれから完全に占有され、その人たちの中に完全に住まわれる・・・聖霊は既に手付金として、先ず私たちの中にお入りになられていますが、これから主ご自身が私たち(選ばれた人)の中に入って私たちを完全占拠されるのです。そうすることによって私たちが『祭司』となり、『地上を治める』にふさわしい者『成熟したキリストのからだ=キリストそのもののように』なる」と言われました。
私はこのことを2コリント5:4-9に見ることが出来ます。「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」
パウロが書いたこの文章そのものがすばらしいですね。この文章の前後をぜひお読み下さい。そこで、上記で下線を引いた「その保証として御霊を下さいました。」の「保証」とは英語で言うアーネスト・マネーつまり不動産売買の時に使われる「手付金」のことです。私はそれで思ったのですが、もし私たちが主を信じた時に、神から聖霊を「手付け金」としてもらったのであるなら、早く残りの全額を払って下さる様に主にたってお願いしたらどうでしょうか。
しかし考えてみれば、もし主が初めから私たちの中に100%お入りになるとしたら、肉で罪だらけ、霊的には全くのベイビークリスチャンである私たちは、主の栄光と聖さに一瞬なりとも耐えられないのではないかと思うのです。従って神は、私たち自身が少しずつ聖められて行くに従って「キリストが私たちの中に形造られる」のを待っておられるのではないかと思います。それは女性の懐妊で幼児が母親のお腹の中で育って行くのに似ています。
これと同じプロセスのために、私たちは教会に所属して、教会とその指導者によって霊的に育てられる―「弟子訓練」を受ける必要があるのです。となれば、私たちにとって「教会」が母親であると言えます。そのことをパウロはガラテヤ4:19で「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と丸で自分が妊婦であるかのように形容して言いました。
そして母親役の教会の最終目標は、エペソ4:13でパウロがこう言います。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」これはすごい御ことばではありませんか。私たちは最終的に完全に育てられ、成熟して、キリストが100%満ちている、キリストと同じ背の高さにまで成長する、と聖書が言うのです。先程も言いましたように、聖書に書かれていることは必ず実現可能であることをお忘れにならないで下さい。すなわち、教会がこのような主の身丈まで達した信仰を持つ完全な霊的成熟者を生むと言うのです。
しかし、今の教会の状態からすれば、後三年の間にキリストと同じ身丈にまで霊的成熟する人が多く出るとは、正直なところ、とても考えられないと言う気がします。そう考える方は恐らく私だけではないと思います。そうなると、これからの三年間で急成長して「かなり良い線に達している」霊的クリスチャンを、神が何か超自然な方法で、最後に引き上げることが必要と思うのです。そのために主は、今まで一度も地上を訪れたことのない優れた特別の御使いを用意されていて、その御使いたちを地上に送ることによって、選ばれた人たちの信仰を強めるご計画であると、デイビス師とサリーム師は言われました。
その結果、その人たちは「わたし(キリスト)の行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行なう」(ヨハネ14:12)ことが実現すると言われるのです。
しかし主は、それ以上のことをされると言う気がします。それがデイビス師が言うように、終りの時に主ご自身が来られて選ばれた「ほとんど完成に近い人たち」のからだ(仮庵)の中にお入りになると言うことではないでしょうか。私はマラキ書3:1に書かれている「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所(宮、神殿)に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者(キリスト)/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(新共同訳)と言う御ことばがそれを預言していると信じます。私たちが待望している主が、突然、主の宮である「私たちのからだ」に入られると言うのです。
そうであれば、私たちがキリストと同じ身丈にまで成熟することは可能ではないでしょうか。と言うよりも、パウロが、ガラテヤ2:20で言っていることが実現することになると信じます。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
2015年秋に何が起るのか (以降は次回に続く)
18 02月
宗教の霊に打ち勝つ
リック・ジョイナー
パート1.宗教の霊を識別する
神の第一の命令は神を愛することであり、それが私たちに与えられた最高の賜物です。第二の命令は隣人を愛することです。律法全体はこの二つの命令を守ることにより成就されると主は言われました。即ち、この二つの命令を守るならば、すべての律法を全うできます。(マタイ22:34−40、ローマ13:8参照)
もし私たちが主を愛するならば偶像を拝みはしないでしょうし、もし隣人を愛するならば、妬んだり、盗んだり、殺したりはしないでしょう。ですから、この二つの「愛しなさい」というポジティブな命令を守ることによって、 すべての「〜するな」というネガティブな律法を成就することができます。
もし神への愛があるならば、それだけで私たちの心の中の殆どの悪を克服することができるでしょう。そしてそれこそが世の中の悪に対する最もパワフルな武器です。神を愛することが私たちの最も崇高なゴールであり、それが人生の第一の焦点であるべきです。サタンの教会に対する最大の偽り、致命的な打撃の一つが、この究極的な追求の道から私たちをそらすことである理由は、実にそこにあるのです。敵の策略は、私たちが人生の「悪」にばかり目を留めるように仕向けることであり、それによって私たちは、自分が見つめるものに似ていくことを敵は 知っているからです。(第二コリント3:18参照)私たちが「悪」だけを見ている限り、敵は私たちを自分の支配下においておくことが出来ます。私たちが主を見つめ主の栄光を見るならば、私たちは主の似姿へと変えられていきます。
これは私たちが人生の罪や間違いを無視するということでは決してありません。実際に聖書では、私たちは自分自身をよく吟味して、いつも信仰に立っているかどうかを吟味するようにと命じています。問題は罪が見出されたときに私たちがどう対処するかというところにあります。善悪の知識の木に答えを求めるのか、それともいのちの木に行くのか、です。即ち、自分を改善することによって神に近づこうとするのか、それとも、イエスの十字架のもとに行き、赦しと罪に打ち勝つ力をそこに見出すのか、ということです。
敵の一番の策略は、私たちが(人の)悪にばかり眼が行くように仕向け、それが善いとか悪いとか言う知識の木から食べるようにすることであり、そうすることによって、私たちが主の栄光と十字架から目を離れさせることにあります。この敵の策略が「宗教の霊」という形でやって来ます。これは、私たちが神への真の愛と礼拝をしているかのように見せかけ、そう思わせる偽りの悪霊です。この悪霊は恐らく、 ニューエージやすべてのカルトが今まで教会に与えてきた打撃を全部合わせたよりも大きな打撃を、教会に与えて来ました。
宗教の霊の特質
宗教の霊とは、私たちが宗教的な活動を多くすればするほど、それが私たちの人生を通しての聖霊の働き(そのもの)であると思わせる「代替え、すり替え」の悪霊であり、その一番の目標は「見えるところは敬虔であってもその実(power)を否定する者(第二テモテ3:5)」と教会を貶めることです。使徒パウロはこの箇所を「こういう人々を避けなさい」という言葉で結んでいます。宗教の霊は「パリサイ人とサドカイ人のパン種(マタイ16:6)」であり、主が弟子たちに警告されたものです。
主は喩えを用いて教えられることがよくありました。宗教の霊はパンの中のパン種のように作用します。パン種はパンに栄養を増し加えることはなく、ただ膨らますだけです。宗教の霊もそれと同じことをします。教会にいのちや力を増し加えることは全くなく、ただ単に人のプライド(これは最初の罪の堕落やそれ以来のすべての堕落のもとになっているものです)を膨らますだけです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる(ヤコブ4:6)」という真理を、サタンは教会よりもよく理解しているように思われます。神はプライドによって膨れ上がった人の業の中には住まわれないこと、神ご自身がそのような業を退けられることを、サタンはよく理解しています。ですからサタンの策略は私たちに(自分で事を行なうことに)プライドを持たせることであり、それが良いことに関してのプライドであっても、例えば聖書を自分はどれだけよく読むとか、証しをするとか、飢えた人に食物を与えるとかということに対するプライドであってもプライドであることに変わりありません。もし私たちが神のみ心をプライドを持って行うならば、その業はかえって神の御国を阻むものとなり、ついには堕落への道になりえることをサタンは知っています。
サタンは又、一旦パン種がパンの中に入ってしまうと、それを取り除くのは非常に困難であることも知っています。プライドはそれが持つ性質により、取り除いたり矯正したりするのが最も難しい要塞となります。宗教の霊は、「神の御心や今神が言われておられる事、又何が神を喜ばせるかという事を自分はすでに知っている」と私たちに思わせることによって、私たちが神の御声を聞くことを妨げます。この惑わしは「神は私たち人間と同じような方である」と私たちが思うことに由来します。宗教の霊は又、「聖書の中にあるすべての励まし、叱責、矯正の言葉は、自分のためではなく他の人々のためである」と聖書を理解させるように働きます。
もし、宗教の霊があなたの問題であるならば、この本をここまで読んで来て「このメッセージは誰それにとってとても大切だ」と多分すでに考え始めておられることでしょう。この本はあなたに必要であるからこそ、神はあなたに渡されたのだ、ということなど思いもつかないのです。しかし実際は私たちすべてにとってこのメッセージは必要であり、宗教の霊という敵は私たち全員が程度の差こそあれ 戦わねばならない相手です。この破壊的な力を持つ偽りの霊から解放され自由になることは私たちにとって不可欠であり、そうなるまでは私たちが主を霊とまことで礼拝することは出来ません。
この悪霊の非常に強力な惑わしから私たちがどれだけ解放されているかという度合いが、 私たちがどれほど力強く真の福音を語れるかどうかを直接左右します。教会が宗教の霊に立ち向かう戦いは、終末の時代における大きな戦いの一つとなることでしょう。すべての人がこの戦いの中に突入し、一人ひとりがどちらの側に属しているのかがこれから決められていきます。自分が暗闇から解放されていなければ、人々を解放する権威を持つことは出来ません。この膨大な敵を克服し始めるためには、主が私たちの上に光を照らしてくださるように願い、宗教の霊がどのように自分と関わっているかを示していただかねばなりません。主がパリサイ人たちと常に戦わねばならなかったことから明らかなように、教会が始めから最も戦ってきたのは実はこの霊であるのです。パリサイ人の性質の中で最も顕著なものは、自分自身の欠点には盲目であるのに、他人の対しては悪いところばかりを見ることですが、宗教の霊は私たちをそのようにしむけます。(続く)
10 02月
益々強くなる主の臨在
フランシス・フランジペン
悔い改めようとしない世界が大艱難を受ける運命にある事を私たちは知っています。しかし、いのちがあり真に祈っている教会は、もし人々がキリストに似る者にされていくならば、 真のクリスチャンには携挙が起こる前に地上で大いなる栄光のシーズンが訪れるのです。
この聖なる目的をご理解いただくために、私が1973年に主と出会った時のことをお話させてください。 私はハワイで小さな教会の牧師をしていたのですが、それは神に近づくための激しい祈りと長い断食をした月のことでした。この期間が終るとき、夜中に主が来られ、私は起されました。主の姿を目に見える形で見たというのではありません。私は主の栄光を見、主の臨在の強烈な炎で圧倒されたのです。直ぐに私は死んだようになり、指一本動かすこともできませんでした。しかし霊においては、私の意識・感覚はそれ以来経験しなかったように高揚しシャープになっていました。私は黙示録にある「その回りも内側も目で満ちている生き物(4:8)」になったようでした。
私は「内側の目」で、自分自身の義の真の姿を見ました。私がその時まで祈りと断食をしていたことを思い出してください。私は自分は満更でもないと感じていました。しかし突然私の人生の中の欠点が耐えられないほどに鮮明になり、途方もなく罪深いことがわかりました。私の罪は「時々犯してしまうもの」ではなく、私は絶えず罪深いことがわかりました。もっと愛情深く、もっと親切で、もっと人の気持ちが分かるべきであった時のことを沢山私は見せられました。又、私のほとんどすべての行動がいかに自己中心であったかも見ました。
しかし私のうちの大いなる闇にも拘わらず、主からの叱責や断罪を全く感じませんでした。私の罪を告発する天からの声もありませんでした。 断罪する唯一の声は私自身の声だけでした。主の臨在の光の中で私は自分をさげすみました。(ヨブ42:6参照)
自己義認や欺瞞もない全くの裸の状態で、私は自分がいかに主の栄光にはほど遠い者であるかを見ました。人類がどうしてキリストの血潮を必要としているのか 、又いかなる努力をしても私がキリストのようになることは絶対に不可能であることが分かりました。心の奥底からキリストのように生きることが出来るのはキリストだけだということを理解しました。神のご計画は私を改善することではなく、私はとり除かれ、主イエスご自身が私を通して実際に生きてくださることであったのです。(ガラテヤ2:20)主の内住 にのみ、私が主のようになる希望はあるのです。
そして外側の「回りの目」で、 寝室のビリビリと電気が走っているような空気は、本当は非常に遠くにあるものから発っせられていることが分かりました。しかし、遠くからではあってもキリストの臨在から発せられるものは、私の意識では、燃える火のように強烈に感じられました。天の生きものの行進が夜空から下りてきました。私は天が地上に下りて来ているのをかいま見ているのであることが分かりました。
列の先頭にはあらゆる種類、階級の天使がいましたが、それぞれが特別の輝きを放っていました。先頭から三分の一ほど後ろに主がおられ、主の後ろには数えきれないほどの聖徒がいました。しかし私は主の栄光を奥深くまで見ることができませんでした。というのは、主に従っている者たちが主のからだの一部となっていたからです。
主は地球を裁くためだけに来られたのではなく、この世を主の栄光で満たすために来られたのです。繰り返しますが、主は遠く離れておられましたが、主の臨在の輝きは私の意識上で生きて燃えている火となっていました。そのエネルギーは痛いほどでした。
すると、何の前ぶれもなく行列が近づいてきました。私に近づいたというだけではなく私たちの次元に近づいたのです。それはあたかも一つの時の線が越えられたようでした。直ぐに私は主の臨在の激しさに全く圧倒されてしまいました。もう一瞬たりともこれ以上主の栄光が激しくなるのを耐えることはできないと感じました。私の存在そのものが主の輝きの熱風で燃え尽くされてしまうようでした。私は今までに口に出したこともない深い祈りで、主に私を私の身体にもどしてくださりと懇願しました。すると直ちに、憐れみによって、私は再び私の感覚が慣れた世界に、私の寝室にいました。
これが意味するもの
夜が過ぎ明け方になりました。私は早く起きて服を来て外に出ました。一歩一歩、私はヴィジョンのことを思い巡らしながら歩きました。太陽が東の空に上った時、それに目を止めるようにと主が促されました。太陽を見たとき私は、太陽の光と主の栄光との共通点がわかりました。詩編19:1の「天は神の栄光を語り告げる」という言葉を今までとは違う意味で悟りました。
太陽は地球から9300万マイルも離れているにも拘わらず、私たちはその熱を感じその光の中で生きています。考えられないほど遠いけれど、そのエネルギーはここにも届いています。それは私たちを暖め、その光のなかでこそ私たちのいのちは存在しています。天にある主の栄光のからだから発せられる主の臨在も、それと同じようなのです。物理的には主は遠くにおられるのですが、時として私たちは主の臨在の光線をここで感じるのです。私たちは実に主の愛によって暖められているのです。太陽の光のように、キリストの栄光は、主が天にいて私たちから離れておられるならば「安全」です。
でも想像してみてください。もし何十年かの間に太陽が徐々に地球に近づいてきたらどうでしょうか。ラディエーション(放射エネルギー)、熱、光は劇的に増加します。近づくにつれて、今の世界は激しく変化するでしょう!
それと同じように、主イエスご自身と主の千年王国が近づくならば、この世界は霊的に劇的に変化するでしょう。主の臨在の輝きは私たちの世界をつつむ霊的領域にどんどん増し加わって注がれるでしょう。そして「天の万象が揺り動かされる(マタイ24:29、ヘブル12)」だけでなく、今までの世界そのものも劇的な変化を経験するでしょう。
もし太陽が近づくならば、熱と光が増し加わり、私たちはもうそのことばかり考えるでしょう。義人は主の臨在により「栄光と誉れと平和(ローマ2:10)」を経験しますが、その栄光は悔い改めのない世界には恐ろしい「艱難と苦悩(9節)」をもたらします。邪悪な者達は山や岩にむかって「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りから、私たちをかくまってくれ。(黙示録6:16)」と叫ぶのです。
罪の中でかたくなになった者たちは、恵みによって悔い改めるか、もしくはパロのようにもっとかたくなになるでしょう。しかし粘土をかたくする太陽は、バターを溶かすこともできます。ですから主が近づかれるとき、義人の祈りは「私たちを小羊の臨在で満たしてください!」というものとなるでしょう。キリストの臨在だけがこころを満たすものとなるのです。主を愛する者は主の喜びをもっと味わい、天の蜜を味わうでしょう。主を喜ぶ者も主に敵対する者も、すべての人の心は神への思いで一杯になるでしょう。
マラキ4:1−3にある通りです。
「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。—万軍の主は仰せられる。—しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。—万軍の主は仰せられる。—」
同時に二つの出来事が地上で現実となるでしょう。その二つともが「永遠の源」による結果です。ますます増加する臨在が悪者の上に怒りをもたらし、義人の上には神の栄光を顕すのです。私たち主を恐れる者のためには「義の太陽」が上り、その光には癒しがあるのです。(終り)