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31 01月

終りの日の勝利者(2-2) ポール・キース・デイビス Paul Keith Davis      2013年2月1日


終りの日の勝利者(2-2)

 

ポール・キース・デイビス Paul Keith Davis

 

それでは1967年より前に同じことがいつ起こったかと言えば、それは1948年と49年です。この1948年はイスラエルが独立国となった記念すべき重要な日です。しかしそうなると、その前に起ったのはいつかと言う当然の疑問が出ます。それは、1948年から300余年も前になり、そのもう一つ前は1493年ローマ・カトリック教派で異端者(特にユダヤ人)を裁判するInquisition と言われる宗教裁判がスペインであった年で、確かにユダヤ人にとっては大きな出来事のあった年です。しかしこのような詮索には余程注意する必要があります。さもなければ2014年とか15年に世の終わりが来るのではないかと憶測し、必要以上に騒ぎ立てる人が出て来かねないからです。

確かに2015年は預言的観点から見た教会史上では重要な変動が起きる(神の)パターンは継続していると言えます。しかし、2015年は何が起るのかは私にはよく分りません。これから来るべき世の終わりの大ハーベストが始まってもいないのですから、少なくとも世の終わりが来るには早過ぎると思います。ところで、2015年にはもう一つの天に現われる徴signがあります。それは、イスラエルにおける二つの新年を祝う祭日に日食が起こることです。神の暦による新年は過ぎ越しの祭りですが、2015年は3月20日です。又ユダヤ暦ではロッシュ・ハシャナの祭日が新年で、それは9月13日。この二つの新年の祭日に同じように日食が起こることになっています。

しかし、それよりも重要と思われることは、この2015年が「第50年目のヨベルの年」Jubileeに当たることです。50年目とは、7年X7回=49年が経った翌年の50年目の年に、自分自身を奴隷として売った負債の義務、あるいは自分の土地に対する負債が無効となり「開放」される年です。2015年がそのヨベルの年となる計算の根拠は、1967年エルサレムを奪還した6月7日から数えて49年、すなわち49年X1年360日=17,640日経った日がちょうど2015年9月23日になり、この日がたまたまその年の「贖罪の日」Day of Atonement・ヨム・キプールと呼ばれる重要なユダヤの祭日の一つなのです。従って2015年9月23日の贖罪の日に何かが起こる可能性が充分あると考えられる訳です。

私にはこの日が何を意味し何が起るのかは分りません。しかし、昨夜のメッセージでカマル兄弟は、2013年から始まる3年間の後には教会は存在しないと言われたのです。

 

それに関して私は、今の時代に残されているレムナントの一団に対する聖書の言葉をみたいと思います。それはハガイ書で「主はユダの総督ゼルバベルの心と、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせた・・・」(1:14)とあります。私は今、主が私たち残りの者を奮い立たせようとしているシーズンにいると信じます。私たちがこれからどこに向かっているのかはわかりませんが、奮い立たせている時は進む時であり、同じところに留まる時でないことは確かです。

私は2013年とはまさしくモーセのように雲の柱に導かれて、これからの時代における「獅子の口をふさぎ、火の勢いを消す」信仰の勇士たちであるひとかたまりのレムナントremnant companyが移動して前進する年であると信じます。このレムナントについて一つ言えることは、彼等は決して「生まれ付き出来上がっていて、苦労しないで来た」人たちではなく、むしろ地獄のような(信仰の)試練の中を通って来た人たちであることです。

 

自分のことを例に挙げるのは気が進みませんが、私にとって今年は困難な年でした。海外に多く出かけ、一年間に186,000マイルも飛行機に乗りました。その結果、言ってみれば私の車輪の一つが外れてしまいました。私はそれまで健康には全く問題なかったのですが、昨年9月の初めに突然気分が悪くなり、呼吸困難に陥って、通常の運動も出来なくなりました。医師に診て貰うと、彼は誤診をして肺炎だと言い、抗生物質をたくさん呑まされた結果、病状はさらに悪化しました。一ヵ月後の再検査で分ったことは、私の病気はサーカドーシスと言う肺と心臓に関する疾患でした。それまでの2-3ヶ月の間は私の脈拍が1分間に140回と言う速いものでした。正確に言えばそれは脈拍を打つと言うより「震えている」状態であると言われたのです。そこで私は三日間入院し、心臓の震えを平常のリズムに戻すためにカーディオバートと言うショック療法を受けることになりました。それを三回やったのですが、最後が10月21日でした。それから12月26日までは私の状態はよかったのですが、12月12日に私はモーニングスターを訪ねました。そこに私の可愛い孫娘イザベラが来ていて(その孫娘の母親である私の娘がモーニングスターで働いています。)私たちに預言を書いたきれいな紙切れをくれました。それにはこう書いてありました。「おじいちゃん、おばあちゃん、神様はあなたを愛しています。このクリスマスには神様があなたと共におられます。」これは二通りに解釈出来ます。(会場笑う)そしてその後に聖書を引用して次のように書いてあったのです。「About 9th hour, Jesus cried out,saying My God my God, why have you forsaken me? 三時ごろ、(9時を指す)イエスは大声で・・・・『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』」(会場は爆笑)それを見て妻のワンダが「あなたは病院でうなってそう言っていたではありませんか。」と言いました。

そうしているうちに12月26日が来て私の病状は急に悪くなりました。家には家族が全員集まり、私の脈は140-185を打っていました。そこで私たちは主に期待して祈ったのですが、何も起りません。その日は夜までずーっと悪く、翌朝はさらに悪化しました。そして私の医師の事務所が開く9時が来ましたので電話をしました。その結果、その翌日に病院でもう一度ショック療法をしてもらう手はずが整いました。医師との話し合いがついた後、9時半ごろでしたか、私たちは孫娘を泊まっているホテルに送って行きました。そこで孫娘が私たちのために小さな祈りをしてくれたのです。

私はその時、前夜自分がどれ程の状態であったかを思い出していました。私はトンネルの中にいて、今にも私は自分の身体を去ろうとしていたのです。それは夜中の三時ごろの最悪の時でした。すると車を降りた孫娘が「おじいちゃん、私は神様がおじいちゃんを助けて下さるようお祈りしました。」と言い、私たちは別れました。それから2ブロックも走った所で私は自分の心臓が波打っていないことに気が付いたのです。胸に手をあててみると私の心臓は全く平常に戻っていました。そこで思い出しました。9歳の孫娘が預言してくれたAbout 9th hour 9時頃、実際は9時半過ぎに私の心臓は癒されていたのです。

 

多くのことを省略しますが、預言的に見て、この9th hour に何かメッセージがあるように思うのです。イエスが十字架上で叫んだ時、その午後三時(9th hour)は神殿で夕方のささげものをする時間でした。その至聖所の前の幕が真っ二つに裂けました。父なる神への通路が開かれた。言い換えれば、その前に一つの命があり、この瞬間を境にして、その後に新たな別の命が存在するようになったのです。私はそれが及ぼす意味についてここでは申し上げませんが、この瞬間9th hourに人間のすべての罪をイエス・キリストが洗われたことによって人間の罪が絶滅され、以降、神の義が私たちが受ける遺産となりました。この9th hourに起こったことによって、人間の歴史に一大変革が起きたのです。

そのほかに、エリヤがカルメル山で450人のバアルの預言者たちと対決たし際に、エリヤが天に向かって祈った時が9th hourでした。神は、その祈りに応えて天から火を降らし、エリヤがささげた全焼のいけにえを焼き尽くしたのでした。(1列王記18:36)その結果、イスラエルにリバイバルが起きました。9th hourを境にチェンジ或いはシフトが起ったのです。

又、捕囚のイスラエルの民が大きな不信の罪を犯しているのを聞いて、エズラがその民の罪に対し涙を流して悔い改めととりなしの祈りを神にささげたのも9th hourでした。その結果リバイバルが起きました。(エズラ記9:5)又、ダニエル書9:21-27に書かれていますが、ダニエルが民の犯した罪を告白しとりなしている時、御使いガブリエルが現われ、ダニエル七十週として知られている重要な知恵(預言)をダニエルに授けたのも9th hourです。これらを見て分ることは、9th hourに神は、非常に意味深い、物事とか時代における「シフト」あるいは「トランジッション」(移り変わり)を起こされているのです。

 

このパターンが正しければ、今私たちはこれから起ころうとする9th hourのイベントの直前に立っております。その意味は、仮庵の祭りに関連して預言的に暗示されているイベントがこれから現実に起ろうとしていると言うことです。仮庵の祭りは復原restorationの祭りと言われ、神殿が復原された時、仮庵の祭りを祝い始めるようになりました。ソロモンは仮庵の祭りの最中に神殿を完成して主にささげました。その時主の栄光が宮に満ちて祭司たちは立っておられなくなりました。皆さんもそのような経験をしてみたいと思いませんか。私はそれが実現する時に今向かいつつあると信じます。

 

新約の時代では、ペテロとヨハネが9th hourに宮に入って最初の使徒的癒しを行ないました。(使徒行伝3:1)又、最初の異邦人コルネリオが御使いに出会って救いに導かれたのも9th hourでした。(使徒10:30)そうであれば、私たちも「9th hourの遭遇」を祈ることが出来るはずです。私はたった今分ったのですが、このモーニングスターの人たちの中で、私と同じように26日に3人の人が同じような心臓関係の疾患で倒れたと言うことを聞きました。それも何かの意味があるのではないでしょうか。

 

最後にチャンピオンの心臓についてお話をして終わりたいと思います。2002年に私は Book of Destiny と言う本を書きましたが、その本の最後に競馬馬として有名なセクテリアットの物語を紹介しました。皆さんの中でこの馬の映画を見ていない人がおられますか?(ほとんどいない)その馬の心臓については?  セクテリアットは競馬史上最大のレースを走った馬です。それはベルモント・ステーキにおけるレースで、1マイル半のレースを2分24秒で走ったのでした。この馬はアメリカの三大競馬であるケンタッキー・ダービーとプリークネス・ステーキ、それにベルモントの三つをいずれも記録的なスピードで優勝しました。(その記録は未だ破られていません。)

このセクテリアットはベルモントのレースで勝つことはあり得ないと言われていました。なぜなら、身体が大き過ぎてこれだけの長距離レースを早いスピードで走り切ることは不可能と言われていました。下馬評では、このレースの勝ち馬は間違いなくSham と言う馬であると言われていたのです。このシャムと言う名の意味は贋物とか模造品と言う意味ですから、まるで作り話のようですが本当の話です。

レースが始まるとこの二頭の馬は始めから飛び出し、第一コーターの時間は今まで二頭の馬が競走して走ったどの記録よりも速いものでした。しかも第二コーターでは、どちらも第一コーターを上回る記録的猛スピードで通過しました。セクテリアットの騎手は、この馬は自分のペースで自分自身の時間で走る馬であると言いましたが、その日の朝起きると、今日こそは自分の日が来たことを自分で決めたかのように、朝から激しくいななき、直ぐにでもレースに出られる勢いであったそうです。それはあたかも、自分はこの時のために、今日のレースを走るために生まれて来たことを知っているかのようでした。これは何とすばらいいチャンピオンの姿imageではありませんか。どうして分ったのでしょうか。創造者がそのように決めておられたとしか言いようがありません。

第三コーターにかかるとセクテリアットは益々ペースを速め、他の馬を20馬身も引き離しました。実況解説者たちはこぞってスピードを落とせ、こんなスピードで走って倒れなかった馬は今まで一度もないと叫びました。

しかしこれは本当にあったストーリーですが、このレースでの真のヒーローは、エディーと言うこの馬の世話人(馬に親しくささやく人whispererとも言う職業)でした。彼は前の晩から泊り込み、この馬の傍らで寝ていたのですが、彼の書いた本によると、彼は明け方に夢を見たそうです。その夢で、25馬身ほど離して独走しているセクテリアットが、第四コーターを回った後に突然倒れました。彼はそこで冷や汗をびっしょりかいて目が覚めたそうです。彼は咄嗟に何とかしなければならないと思い、必死で祈り始めたました。これこそ絵に描いたような今日のとりなり手の姿です。

25馬身離したセクテリアットは、スピードを落す替わりにもっとペースを速めたのです。騎手が後でインタービューされた時、聞き手が、どうして25馬身も引き離して、勝利は間違いないのにあそこでスピードを落さなかったのかと聞くと、騎手は「私は全く関係なかったのです。(私がどう指示しようと)この馬は全く自分自身のペースで走り続け、私は落馬しないのが精一杯でした」(笑い)と答えました。セクテリアットはその通りに第四コーナーを回ってゴールに向かって走り続けました。ゴールに達した瞬間も、彼はスピードを上げ続けていたのです。

 

セクテリアットは19歳で死にました。死後の解剖で分ったのですが、死んだ時この馬の心臓は全くの健康な心臓でしたが、そのサイズが大きくなっていて、重さ22ポンド、通常の平均より2.5倍大きかったそうです。通常心臓が肥大することは健康とは言えません。しかしこの馬の肥大した心臓はパーフェクトに健康な状態であったのです。‘

 

2002年に書いた本book of Destinyで私は、勝利者の一団a body of overcomers-神のチャンピオンたち-について書いたのですが、その人たちの心臓(英語でハート、そのハートの日本語は心)は他の人たちとは(大きさが)違うことを述べました。私はよく分りませんが、神は今私たちのハート(心)の問題を取り扱おうとしておられるのかもしれません。私は2002年に上記のハート(心)、特にセクテリアットの大きくされた心臓のことを書いた後に導かれた聖書の御言葉が、「わたしの心に適った者」と神が言われたダビデの次の言葉です。「あなたがわたしの心を広くされる(大きくされる)とき、わたしはあなたの戒めの道を走ります。」(詩篇 119:32、口語訳)ここで「心を広くされる」とは心を大きくするenlarge my heartと言う意味です。この御言葉に導かれた時に私はショックを感じました。

 

(ここで祈りに入る。)主よ今朝、どうぞここに集まっている私たちの心を大きくして下さい。そして心のキャパシティーを増して下さいますように。皆さん手を胸(心臓)の上に置いて下さい。主よあなたが今朝私たちの心の大きさについて語っておられます。主よ、今私たちの心のすべてをお受け取り下さい。私たちの心はあなたのものです。私たち自身も私たちのものではありません。あなたが払われた代価で買われています。私たちは私たちの肉の心臓と霊の心をあなたに差し出します。そしてどうぞ今ここにおられる方、又テレビ中継を見ておられる方々の心(心臓)のキャパシティーを大きくして下さい。そして私たちの心を挑発して奮い立たせて下さい。主よ、私たちの心は燃えたではありませんか。イエス・キリストの啓示が今の時にあらわれます。主よ、あなたは神の御前に立っている御使いをこの地上に送ると言われました。どうぞその御使いが私たちの心に燃えている炎をもっと煽って下さいますように。あなたの信仰のメッセンジャーが地上のメッセンジャーを生み出し、あなたの御言葉がその唇に与えられ、あなたのパワーフルなメッセージを声を出して伝えさせ、悪しきものの根を抜き、取り壊し、破壊してしまうと同時に、(信仰を)生まれさせ、建て上げる御言葉も語らせて下さい。エゼキエル36章にあるように、主よ私たちの心にきよい水を振り掛けて下さい。

主は1ヶ月前に、2013年に2012年の荷物を持ち込まないことを、人々に伝えるようにとおっしゃいました。わたしはあなたがたにめぐみの力を与えるので、あなたの過去のすべての汚れたものをきよめて白紙の状態で新しい年を迎えなさいと言われました。今私たちはそれぞれ主にお願いして、汚いもの、よくない決定、よくない行動、よくない態度を取ったことに対してすべてのことをイエス・キリストの血潮できよめられるよう今朝お願いして下さい。そのために主は年の始めに当たってめぐみの断食の時を与えて下さっております。主は、「あなたがたはすべての汚れからきよめられる、すべての偶像のけがれからあなたがたをきよめる、そして、あなたがたに新しい心を与え、新しい霊を授ける」と言われます。どうぞ今、私たちに新しい心を下さいますようにイエス・キリストの御名でお祈りします。(終り)


27 01月

終りの日の勝利者(1-2)        ポール・キース・デイビス Paul Keith Davis        2013年1月27日


このメッセージはモーニングスター・ミニストリーの「ニューイヤーズ・コンフェレンス」の二日目、12月30日(日曜日)朝のメッセージです。

 

終りの日の勝利者(1-2)

 

ポール・キース・デイビス Paul Keith Davis

 

本朝は、何かが起ると信じております。天が開いて主がここに降りて来られるのを期待します。私の願いは天が開いてヨハネが見たように主を見ることです。私はそのことを一日も欠かさず毎日祈っています。

私は、七つの金の燭台の真ん中に立たれ、足までたれた衣を着て金の帯を締め、その髪の毛は白い羊毛のように、雪のように白く、燃える火のような目を持つ・・・そのような主を見たいのです。その主は、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は太陽のように光り輝くお姿、その右手には神のメッセンジャー(御使い)を抱えておられます。(黙示録1:13-17)皆さんもそのような主を見たいと思いませんか。しかしそのような主を見る前に、私は先ず変えられ整えられ(トランスフォームされ)たいのです。今私たちは、そのような「天の領域」を実際に経験する人たちを生み出すシーズンに入りつつあると信じます。ですから、私たちは今、そのような最も大事な場所と時代(タイミング)に生かされている訳ですから、それを実際に経験出来ると信じるのです。

 

さて、リックと知り合ってから丁度20年になりますが、これまでボブ・ジョーンズも交えて多くの預言の話をして参りました。ところが今までは、いただいた多くの預言が実現するのを信じてそれを信仰で言い続けて来たのですが、多くの預言が実現には至りませんでした。しかし今の時は、それらの預言が成就するシーズンに入ったように思えます。

特に、御国の御子が立ち上がられなすべきことを実行し始める、そしてキリストの花嫁が栄光に輝き、聖められ、七つの霊で油注がれて主と同じ業をするようになる、と言うような重要な預言が実現する、そのブレーク・スルーの時、待ちに待ったカイロス・モーメントが来つつあるのです。

今私たち、特にリーダーの人たちは、信仰の弱い人、真にへりくだっていない人、自己満足と安易な「なまぬるい」信仰生活を送っているラオデキヤの霊に陥っている人々―主はそう言う人を口から吐き出すと言われる通り、クリスチャンがなまぬるいことを最も嫌われます。―そのような人たちを戒め、さとし、整えることによって、主にふさわしい「キリストのからだ」にすることを委任されていると信じます。と言うことで、今朝は黙示録21章を見てみたいと思います。

 

「 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』

すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。』」(黙示21:2-8)(この聖句を読んだ後に祈りが続く。)

 

2010年の終りに、私は自分のやって来たミニストリーの過去を振り返ってみる気持ちになりました。その2年前に私の妻が、夢の中で「あなたがこれから何をするにしても、既に勝利した姿勢ですべてのことを行ないなさい」と言う主の御声を聞きました。いろいろな終末に関する神学がありますが、私たちがすべてにおいて、主にあって既に勝利したことを前提とする信仰の姿勢を持たなければならないと私は信じるに至りました。クリスチャンの信仰の歴史を振り返ってみると、確かに脱落者が出てアポスタシー(背教)が起り中世のダークエイジを通りました。しかしその後に発展的に信仰の回復と(宗教)改革が起り、20世紀の初めに至って著しい聖霊のアウトポアリングを見るに至りました。それが使徒の時代の回復を示す顕著な癒しのミニストリーの再現をもたらしたのです。その癒しのミニストリーの再興に寄与した人の一人にアレキサンダー・ダウイーがおります。私が今回の集会でメッセージを取り次ぐことが決まった時は一週間程しか準備の時間がなく、私は何を話すべきかを主にお伺いしたところ、「アレキサンダー・ダウイーが癒しのミニストリーを開始した時の神による就任式の話をしなさい」とはっきりと言われました。

 

ダウイーは1875年に28歳で120人程の小さな組合教会の牧師に就任したのですが、その翌年に大きな疫病がその地方を襲い、一年で40回の葬式を出すという事態になりました。死者40人のうち30人が彼の教区のメンバーで、その40人目の葬式を終えて帰宅したダウイーの心は悲しみで引き裂かれ、涙ながらに主の前にひざまずきました。その時彼に使徒10:38が示され、聖書を見るとその箇所が輝いて見えたと書かれています。病を起こすのはサタンであっても、それをすべて癒されたのはイエスである、そのイエスは昨日も今日も、永遠に変わることがないことをはっきりと啓示されたのです。それは彼にとってのカイロスの時となりました。主から電撃的な啓示を得たダウイーには大きな信仰の力が沸いて来ました。その時誰かが玄関をノックするのが聞こえたので出てみると、もう一人の病人が死にかけているから直ぐ来て欲しいとの知らせでした。駆けつけたダウイーは死にかけている少女を前にして、医者に部屋を出て行くように命じ、少女を祈りによって瞬時に完全回復させたのでした。その後は死人は一人も出ず、葬式もありませんでした。

 

私はこの話を二日ほど前に読んだのですが、昨日もう一度読むように主にうながされて、読み返してみて気が付いたことがあります。それが起ったのは何とニュータウンと言う名の町であったのです。私は忘れていました。勿論ダウイーの場所は違う国、オーストラリヤの町でしたが、つい最近起ったコネチカット州で惨事が起きた町と同じ名前であることを見過ごした私に、主が気付かせて下さったのです。一体それは何を意味するのでしょうか。もしかして、それはダウイーが使徒の時代の遺産を啓示によって改めて受け継いだように、今度は私たちがダウイーのミニストリーの遺産を主の新たな啓示によって受け継ぎ、信仰によって今の危機の火中に飛び込む、そのような新たな信仰に燃える私たちを通してイエスがあらわされる時が来ようとしているのではないでしょうか。当時癒しの使徒と言われたダウイーは20世紀の初頭にアメリカの癒しのミニストリーのパイオニアとなりましたが、同じようにアメリカでニュータウンの名前が浮上した今、新たな使徒のミニストリーを主がこれから起こされようとして、その啓示を与えようとしておられるのかもしれません。

 

ここで先程言いかけた2010年の終りに、私のミニストリーを振り返り考えてみた時の話にもどりますが、私は当時、過去に自分がして来たミニストリーでは信仰による奇跡とか、主からの啓示を受けることの大切さをいくら強調してもそのようなことに興味を示さない人たちが大勢いる、それよりも(個人)預言を中心とする預言的ミニストリーに転向した方がよいのではないかと言う思いが横切ったのです。それは勿論、単なる私の考えであって、本気でそうする積もりも又その能力もないことは分っていました。

その時私は御声を聞いたのです。主は「もしわたしが『 ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たち(の信仰の行い)についても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。』これがあなたの召しである。」(太字部分はヘブル書11:32-34)と私に語られたのです。ですから今私が読んだような「ライオンの口をふさぎ」「火の勢いを消し」「他国の陣営を陥れる」ことと同等の、信仰による大きな奇跡をこれからする人たちが既にこの世に存在することを私は知っています。その目的を持って、この時のために生まれて来た人たちがいることを私は疑いません。そこで私は、「それらの人たちをどうすればよいのですか」と主に聞きました。

すると主は「あなたの旗印を挙げなさい、すなわち、あなたのメッセージを語りなさい。そうすればあなたと同じDNAを持つ民がメッセージに惹かれて集まるでしょう。メッセージそのものがその人たちを目覚めさせるのです。」と語ってくださいました。主は右手に七つの教会の御使い(メッセンジャー)である七つの星を持って来られ、今こそ私たちが御国のメッセージを世に告げる最も大事なシーズンなのです。

 

ここで私は2008年に主から受けた啓示についてお分かちしたいと思います。昨夜メッセージを取り次がれた兄弟(カマル・サリーム師)が言われたことに追加することになりますが、昨夜彼は、今までこの地球に遣わされたことのない御使いたちが地上に解き放たれると言いました。私はその御使いを見たのです。主はその御使いについて、それがどんな御使いで、どのような使命を帯びて送られて来るのかを語って下さいました。

ここで先程私が読んだ多くの信仰による圧倒的勝利者overcomer のことを心に留めておいて下さい。彼らは世界の基いの置かれる前から主が認知していた人たちでした。そして皆さんも同じようにこの世が存在する以前から主に用いられることが決まっていた人であり、特に今の時代に目的を持って生まれるように(カイロスの時)定められているのです。

 

2008年のある夜でした。私は寝ようとしても寝られないので祈り始めました。妻は既に隣で寝ていました。真夜中12時頃になって、もう祈ることもなくなり寝ることにしました。私の頭が枕に触れるか触れないうちに私は身体を離れて霊の領域にいました。そこは言葉では言い表すことの出来ない、全く別の世界で地球の基いの部分のようでした。そこに道路にあるマンホールのようなものがあり、そこに何とも形容出来ない生き物がいるのが見え、私は恐ろしさで叫び声を上げ、何かを口にしていました。隣に寝ていた妻が私の叫び声と叫んでいることの一部を聞いたのです。この生き物がそのマンホールを開けると、中から黒い煙が立ち昇り、その中に亡霊のようなもの、悪霊がたくさん出て来て、その中にはスターリンとかヒットラーであることが識別出来るような、多くの歴史上の専制君主のイメージを見たのです。地球の奥底から出て来た彼等は、暗闇(悪魔)の世界を信じ、その領域に自らをささげ、その恐ろしいところであらゆる魔術とか、暗闇の術を使って生存することを学んだ人たちでした。私は寝室に出て来たそれらの悪霊に圧倒されついに耐えられなくなりました。

すると大きな音が天からとどろき、「光の子が同じように応えねばならない」と言うのが聞こえて来ました。私が見上げると天にある大きな門が開き、そこからおびただしい数の御使いが出て来ました。彼等は栄光の領域においてどのように歩けばよいかを人々の寝室に入って語り始めたのです。これらの御使いは、今まで地上に送られたことはなく、世界の基いが置かれる前から主の御前に仕えながらこの時を待っていたと説明されました。これらの御使いについてはイザヤ書63:9で「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い・・・」と書かれていると言われましたが、御使いとはメッセンジャーです。その神の御前に仕える御使いが、定められた今の時に地上に送られて来て、これからの時代に「火の勢いを消し、獅子の口をふさぐ」目的で召された人々を、超自然の方法で教える、そのために天で今まで待機していたのです。ですから私は昨夜の兄弟が言われたことに同意し、それは真実であると申し上げたいのです。

私はそのような領域に住みたいのです。私のDNAは、超自然的奇跡を起こす証を聞くことを好むだけでなく、私自身がそれを実際に経験したいと言う願いが強いものなのです。ですから今朝の私の願いは、皆さんを挑発し、皆さんにも同じようにそれを望んでもらいたい、主がそのために皆さんを召しておられると信じていただきたいのです。そのような霊の領域が開かれたら、皆さんと共に私もその領域に入りたいのです。私は、今そのシーズンに来ており、そうなると本当に信じております。

 

2007年に主は私にノアの時代について教えなさい、と言われました。私は気がすすみませんでした。「人の子が来るのは、ちょうどノアの日のようだからです。」(マタイ24:37)とありますが、そうであるなら、終りの日のモデルとなるのはノアの時代しかないことになります。確かにノアの時代とはユニークな時代でした。そうなると創世記6章に書かれていることを取り扱わねばなりません。そこには神の子らが人の娘たちを妻として娶り、出来た子どもが巨人であったとか、少々不可解なことが書かれています。その巨人たちは洪水で死に絶えました。そこで私は自分では出来る限りのことを教えました。なぜなら、主はノアの時代に打ち勝ったのなら、あなたたちの時代にも打ち勝たねばならないと言われたからです。すべての人間社会の悪事は、そのルーツが創世記6章にあるからです。殺人、性的不道徳、魔法、魔術と言った今私たちが直面する社会問題の最も成熟した形の悪の根元は創世記6章にあります。私たちはその悪の背後にある悪い御使いとか、捕らわれの霊、悪霊に打ち勝たねばなりません。それらの問題を調べてるうちに私はたまたまアイザック・ニュートンに出くわしました。ニュートンは「終りの時が近づくにつれ一団bodyの人間が起こされ、人が騒ぎ立て反対する中で、彼等は預言とその文字通りの解釈に多くの注意を払う。」と書いておりました。私は既にその時が来ていると信じます。又、彼は終りの日には多くの新しい真理の海が与えられるとも言いました。今はその時代です。今私たちは、金塊のように貴重な多くの啓示を得ております。啓示が押し寄せる海のように与えられる時がやって来ます。いや、既にそれを経験し始めました。

 

黙示録5章に七つの封印で封じられている巻物が出て来ます。それは贖いの書、御国の奥義、イエス・キリストを啓示する書です。終りの日まで閉じて置かれるようにダニエルによって封印された書が開かれるのです。であるからこそ、今の時、私たちは知恵と啓示の霊によって油注がれていることが絶対に必要であるのです。

この封印された書がいかに大切なものであるかを、ヨハネは黙示録5章で書いています。この巻き物を開くにふさわしい者は天にも地にも地の下にもいないと聞いて、ヨハネが激しく泣きました。すると長老の一人が、ユダ族から出た獅子ダビデの根が勝利を得たのでその書の封印を解くことが出来ると宣言します。ほふられたと見える小羊がその巻き物を受け取った時、四つの生き物と二十四人の長老が小羊の前にひれ伏し、新しい歌を歌い「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、・・・」(5:9)これは世の終わりに起る史上最大のハーベスト、しかもそれは世界中の異邦人が救いに導かれるハーベストを歌っています。そしてその救われる異邦人を「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(10節)と称えており、ここに偉大なハーベストが実現する過程が書かれています。ここにおいて御国の奥義であるイエス・キリストのなさることの全貌が顕されました。キリストが多くの異邦人を贖い、そしてその人々を「祭司とし」、「地上を治めさせる」と言われるのです。(どのようにしてでしょうか。)

 

啓示が来ます。それは「あなたがたのうちにキリストが形造られる」という啓示です。それはどう言う意味でしょうか。それは未熟な私たちをして「信仰の一致とキリストに関する知識の一致とに到達させ、完全におとなに成熟させ、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」ように主がされるので、地上において成熟した「キリストの花嫁」となることであり、又、御国の息子たちsons of Kingdom になることでもあります。

 

最近私はイスラエルの祭りについての理解を深めておりますが、イスラエルの祭りは(神が定めた特別の日で、この日に神は偶然そうなったかのように重要なことをよくされる)デバイン・アポイントメントの(神が定められた)日です。私はこのことを理解し始めたのですが、もし過ぎ越しの祭り(エジプトを大勢で出た日を記念して祝う日)がこの(今の)ディスペンセーション(神の定めの時)において成就されるとするなら、又、ペンテコステの祭り(聖霊降臨)がこの時代に解き放たれるのであるのなら、(今の時の)仮庵の祭りとは何を意味するのでしょうか。それは、神が人々のからだという仮庵に入られること、すなわち、神はご自分の選んだ人々をこれから完全に占有され、その人たちの中に完全に住まわれ、その人のすることを支配されると言うことではないでしょうか。聖霊は、既に手付金として、先ず私たちの中にお入りになられていますが、これから主ご自身が私たち(選ばれた人)の中に入って私たちを完全占拠されるのです。そうすることによって私たちが「祭司」となり、「地上を治める」にふさわしい者「成熟したキリストのからだ=キリストそのもの」になる、あるいはそのようにすると言われるのです。

 

さて私は上記に関する色々な学びと調査をしている中で、リサーチをされているマーク・ビルツ牧師(シアトル在住)を知る機会が与えられました。彼が発見したことは2014年と2015年に二年続けて、過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りの日に月食が起こることでした。聖書によればイスラエルの三大祭(過ぎ越し、ペンテコステ、仮庵)は主に属する祭日(聖日)あるいは記念日ですから、二つの神の祭日に月食が起こること、特に二年続けて起こることには何か重要な意味があることを、神が人々に知らせようとしておられると考えられます。(ここで会場の上部にあるスクリーンにその月食の起こる日にちが写し出される)

   2014年 過ぎ越し 4月15日 仮庵 10月 8日

   2015年  “   4月 4日  ”  9月28日

それでは過去に同じことが起こったとすればいつでしょうか。一番最後に起ったのは1967年と68年でした。

   1967年 過ぎ越し 4月24日 仮庵 10月18日

   1968年  “    4月13日  ” 10月 6日

私はこれを知って、自分でもNASA等のデータを調べてそれが事実であることを確認しました。ところで1967年には何が起ったでしょうか。それはイスラエルが首都エルサレムを取り返したことです。この出来事が終りの日を示す重要な日であることがゼカリヤ書で預言されています。先ず3節で、その(終りの)日に主は、エルサレムをすべての国々にとって(つまずきの)重い石とする、と言われているからです。そして8節で「その日、主はエルサレムの住民のために盾となられる。その日、彼らの中で最も弱い者もダビデのように(強く)なり、ダビデの家(イスラエル)は彼らにとって神のように、彼らに先立つ主の御使い(イエス・キリスト)のようになる。」(新共同訳)

主は終りの日に、最も(へりくだった)弱い者が集められたイスラエルの軍隊が、ちょうど(主に対してへりくだった)ダビデのように強くなって戦い、その先頭に立つ主イエス・キリストのようになると預言されているのです。私は主に「ダビデの家は彼らにとって神のようになる」とはどう言う意味なのかを尋ねました。すると主は2週間ほど経ってから「わたしの花嫁はわたしに非常に近いので、花嫁が語る時にはわたしが語るように語る。」と言われました。(会場が沸き立つ)(以降は翌週に続く)


21 01月

2013年は変革の年 カマル サリーム Kamal Saleem         2013年1月20日


 

2012年12月29-31日に行なわれたモーニングスター・ミニストリーの「ニューイヤーズ・カンファレンス」の中から、主な講師のメッセージをこれから3週間に渡ってご報告させていただきます。訳者 坂 達也

 

 

2013年は変革の年

 

カマル サリーム Kamal Saleem (12月29日夜)

 

 

リック・ジョイナー師によるサリーム師の紹介

 

私たちのミニストリーの人たちはカマルを愛しています。彼が日曜日の礼拝メッセージを取り次いだ後に、今まで聞いた福音の説教 gospel presentation のうちで最もすばらしいものであったと言うコメントが私のところに殺到しましたが、私自身もそう思っていたところでした。これほどすばらしくてパワフルなイエス・キリストの福音の提示(証)は聞いたことがないと思いました。この方は本当に主を愛し、神の民を心から愛する方であると信じます。彼は元テロリストでした。しかし今は悪魔側に対して強烈な霊的テロを行なっている人です。彼は毎日福音のために自らの命を危険にさらしています。彼の著書「小羊の血 Blood of The Lamb 」は福音の証の書として最もすばらしい必読の書の一つであるだけでなく、今私たちが関わっている多くの重要な課題についての深い理解を与えてくれている良書です。この方は私たちが大好きな人の一人です。それではカリーム・サリーム師をご紹介します。(拍手)

 

サリーム師のメッセージ

 

時が来ました。サタンは時が迫って来ていることを知っています。この世は大きく変わりつつあります。アメリカは自らの歴史で、かつて進んだことの無い未踏の道を進み始めました。しかしすばらしいことに、その道は、神を信じる者にとっては、もはや我々の道(アワーウエー)ではなく、神の道(ヤーウエー)であることです。

 

マルコ13章でイエスは、神以外には何がいつ起こるかは誰も分らないが、神は聖書で、起こるべき時を知らせる前兆を示しておられると言われました。今の時代の著しい前兆は惑わしが多く起こることです。そして、キリストの名を名乗る者が大ぜい現れることです。今の時代には新しいバイブルが出て来ています。それはキング・ジェームス・バイブルではなく、クイーン・ジェームス・バイブル(笑い)です。それはゲイ(同性愛)に属する教会のための聖書で、彼らも世の中が変わりつつあることを信じでいます。今日いわゆるクリスチャンと言われる人たちの半数(50%)が神の代わりにこの世の王を選ぶようになりました。

次に主は、戦争が起り、そして飢饉が起ると言われました。神がこのような災難が起るのを許される目的は唯一つ、神の栄光が現れるためです。

モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民が追いかけてくるパロの軍隊と海に挟まれた時、神はモーセに杖(木)を上げなさいと命じました。杖(木)はイエス・キリストとその十字架を象徴します。そして大きな奇跡が起こりエジプトは神の栄光を見たのでした。

 

今日、中東は再編成されて10のイスラム国家が興りました。彼らの目的はイスラエルとクリスチャン国を滅ぼすことです。神はそのことを詩篇83篇で語っており、それは神の栄光が現れるためです。今、中東では三つの戦争が起りつつあります。イランの戦争、サウジアラビアの戦争、そして最後の戦いとなるトルコの戦争です。トルコはこれから出て来て反キリスト迎えるその座となります。今トルコはイスラエルと平和を保っているように見えますが、私がこれから紹介しようとしている「反キリスト」であるモハメッド・アブドラ・メヘディ―をトルコが受け入れ、彼がイスラエルとクリスチャン国を滅ぼし、世界に新しい国家体制「イスラム」を建てようとしています。これはすべて聖書に書いてあることと一致するのです。そのためにイスラムは核の力(イラン)を備えようとしていますが、トルコは世界で中国とアメリカの次に大きな軍隊を整えつつあります。アメリカは今自国の軍隊を弱体化しようとしており、来年末にはそうなるでしょう。そうなればNATOは今までのアメリカに頼って来た体制がくずれ、一番大きなトルコ軍が中心となります。トルコが西洋諸国(ヨーロッパ)の平和を保つ(その逆の意味で)支配体制を造りつつあるのです。

 

2011年に、神は私に、非常にはっきりとした声で、「教会をこの世から切り離し、その間に距離を置く」と語られました。そして2012年には、「教会を教会から切り離す」と言われました。箴言6章で主の憎むものの一つに「罪のない者の血を流すこと」が書かれていますが、アメリカでは今、あちこちで何の罪もない子ども(学校)とか、ショッピングセンターで銃を乱射して人々を撃ち殺す事件が起っていて、銃の保持の規制が取り沙汰されています。その一方で、一日に3千-5千人の胎児が殺されていることには何も言いません。この国の教会の50%の人たちが、神よりも、そのように堕胎を容認する王(国家指導者)を支持するのであれば、神はそれをそうさせて置きます。サムエル記に書かれていますが、当時神から任命された最後の神の預言者・最高裁判官(士師)であるサムエルに対し、大半のイスラエルの民は自分たちにも他の国と同じように国王を立てて欲しいと願い出たので、神はそれを許されました。アメリカがまさにそうです。50%のクリスチャンが神よりも王を選んだのです。

2013年は、「政府から政府を切り離して移す」と主は言われます。それは神がこの世の政府から神を信頼する教会に政治を移すと言う意味です。今年は飢饉が多く起り、世の破壊が益々ひどくなり、民衆は悲鳴を上げます。神は2013年はトランスフォーメーション・変革の年であり、主が来られて栄光を現す年であると言われました。今、その主が来られる徴しが非常に多く現れています。主は「わたしを選ぶ人は祝福される」と言われます。飢饉が来る時は、神はヨセフのように教会を引き立てると言われます。エジプトで牢屋に繋がれていたヨセフは権威の座に引き上げられ、彼の権威により金のカップで世界の国々に食料を分け与えました。それと同じように教会が権威の座に上げられるのです。ヨセフのように教会によって世界中が神の祝福を受ける時が来ようとしています。

 

ヨハネ14:12で主は「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。」と約束されましたが、主はあらゆる病人を癒され多くの祝福を与えられたのですから、それ以上、私たちに何が出来ると言われるのでしょうか。

主は終りの日に、今まで地上に送られたことのない多くの御使いを送ると言われました。彼らは今までにはない賜物とか知識、ものすごい栄光と力、今までの私たちには理解出来ないような新しいことをする、そのような力を地上の私たちに持って来ると言われたのです。今年はおちおち寝てはおられません。なぜなら今年は「突然事が起る年」だからです。(Year of suddenly) そのような神が今既に来ておられるのです。ところが私たちは用意が出来ていないのです。今年、神は突然素早く動かれると言われました。2013年は、今までに見たことのないような神の栄光がもたらされる年です。それを聞いて私は本当に興奮しました。

 

この世の王と祭司と人々が失敗する時、神は全く違ったことをなさいます。神は全く新しい祭司―ロイヤル・プリーストフッドと言われるイエス・キリストを送られます。又「王の王」を送られます。ですから今、私たちはその方を受け入れる用意が出来ていなければなりません。神はアメリカに今までとは全く違う新しい方向を与えられようとしています。神の偉大な栄光が顕される前には、神は多くの悲惨なことが起こるのを許されます。どうしてそれが分るのでしょうか?

ギデオンの時代に、イスラエルはミデアン人とかアマレク人等の強敵に囲まれ、今にも完全に滅ぼされようとしていました。その時主はギデオンを選び、彼に「立ち上がれ。軍隊を立ち上げよ。」と命じました。そして集まった人々の中から神はどんどん人数を減らし、本当に敵を恐れず主を畏れる人、自分のことよりも神ご自身の心だけを求める人たちを選びました。水の飲み方でテストして犬のように飲む者を帰し、最後に残った者は僅か300人となりました。ギデオンは恐れました。神は彼に、「恐れてはならない、わたしは彼らの力ではなくわたしの力で、圧倒的多数の敵を打ちのめすのを見せるためにこうしているのだ」と言われました。そのような時に神のものすごい栄光が下ります。

神は今、教会を同じ状態に置かれようとしておられます。教会の中が分けられるのです。イエスは花婿を待つ10人の娘を区別されました。充分油を用意している5人とそうでない5人に分ける、50%と50%です。

 

皆さんは今どちらの方に属しておられますか。誰を信じていますか。(この世の王ですか、神ですか。)その後で主は、私に特別でユニークな(聖書にある)範例を示されました。それはモーセがイスラエルの民をヨルダン川に近い(モアブの地にある)シティムまで来た時、そこで長い間民を逗留させたことです。当時その近辺の部族を打ち破って敵に恐れられ、何事もうまく行っていたので、イスラエルの民は安心して気の緩んだ状態にありました。その後ヨシュアが民を率いてシティムを出発し、ヨルダン川を渡る前にそのほとりで三日間留まらせました。その目的はイスラエルの民をきよめ気の緩んだ状態を引き締めるためでした。この「三日間」-非常に重要な三日の間に、神は民の罪を一切きよめ、しみもしわも無い状態にしようとされたのです。これは今の時点の教会に当てはまります。(「三日間」を「今年からの三年間」としてみる。)

神はそのとき、誰も行ったことのない約束の土地にヨルダン川を渡って入ろうとしている選ばれた民を、先ず聖別し神にささげさせたのです。神はここで再び木で造られた(十字架を象徴する)契約の箱(イエス・キリスト)を先頭にして、その後に民がついていくように命じました。川は氾濫していましたが、箱を担ぐ祭司たちの足の裏が一歩川の水に浸かると同時に川は堰き止められ、民は渇いた地を歩いて渡りました。

私たちは今、最後の時に来ています。約束の地へ渡ろうとしています。主はあなたの十字架を毎日担いで歩きなさいと言われました。(十字架、すなわち、木の箱を担いで約束の地へ入れ、という意味)十字架にこそ力があります。あなたが自分を十字架に架ける時、あなたの内におられる主があらわれます。そこにはものすごい主の力と栄光が現れ、すべての敵は撃破されるのです。

 

次の三年間はそのための準備の期間、私たちは徹底的にきよめられねばなりません。なぜ三年なのでしょうか。私は調べました。しばらく前にジョン・へギー師とかその他の人が「血のような月」の話をしていましたが、聞かれたことがありますか。日食とか月食により光が暗くなることです。自分たちは神の民であると信じるユダヤ人は、月による暦を使用し、神は陰暦によって色々な徴しを彼らに示されると信じています。なぜなら、彼らは神の光を反射する民であるからです。つまり、神の民であるあなた方は神の光が反射して輝く民なのです。いよいよ暗闇がこの地上を覆います。

イザヤ書60:1-3で主は「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」と言われます。この世が最も悪くなる時こそ、この世の人たちは私たち神の民(クリスチャン)を求めて来るようになると言われるのです。それはこの世が暗闇になる時にこそ私たちが輝かす神の光が彼らを惹き付けるからです。彼らはみな私たちのところに集まって来ます。あなたは彼らを受け入れる用意が出来ていますか。あなたは今の時のために準備が出来ていますか。今、私たちは川を渡ろうとしている特別な時にいるのです。

2013年は最早あなたが考えているような普通の年ではありません。神が私たちと共におられ神の栄光が満ちる時なのです。これから私たちが置かれる時(事態)と言うのは、私たちがひたすらキリストの十字架を担いで歩く時であり、たとえクリスチャンがこの世の王の前に引き出されても、何を言うかを心配しなくてよい、主がその時々に話すべき言葉を与えて下さる時となるのです。あなたはその王たちに対してミニストリーし、彼らの前で神の栄光を宣言する時なのです。

これからの時はいよいよ主が私たちに特別の好意を与えて下さるようになります。今私たちは、その神の特別の好意を受け入れる準備をしなければならない特別の時です。私たちは7年間、神のめぐみを受けて来ましたが、これからはいよいよ私たち教会が国々を祝福する時です。

 

多くの牧師達は機会を逸しました。(神のみを求める代わりに)この世で「政治的に正しい」立場を取り、自己を満足させる安易な生活に走りました。教会に通う多くの人たちもそれに習って、互いに安易な生き方でよいと納得し合いました。今こそクリスチャンは主の前に立ち返り、これからの生き方の指示を仰ぎ、とりなして祈る時、主の前に(もう一度)自らをささげ、聖められる時なのです。なぜなら、主は私たちが今までに見たことも経験したこともないようなことをされようとしておられるからです。

私たちは今、どうしてもしなければならないことがあると信じます。それは神に真剣にとりなすことです。私たちの救い主以外の救い主はなく、他の方法もないからです。ノアを通して人類が生き延びるようにされたのは、方舟と言う木(イエスの十字架)によってです。モーセの導きでイスラエルの民が救われたのも木(杖)によってでした。洪水のヨルダンを渡れたのも木(箱)によってでした。その木のいのち(自らを十字架につけて死ぬことによって生きる)が今私たちの上に置かれています。イエス・キリストがいのちの木です。わたしから食べる者は二度と死ぬことはない、とイエスは言われました。そのいのちの木なるキリストが私たちのうちにご自身を顕されました。私たちがどのようにヨルダン川を渡るのかは分りません。主に聞く必要があります。今回渡るのは天に向けてです。天の領域が間も無く私たちを受け入れようとしています。私たちはそれを待っているのですが、その前にやらねばならないことがたくさんあります。今こそ教会が立ち上がらねばなりません。

 

以上が2013年に対して神が私に下さったメッセージのすべてです。今夜私は、皆さんが今までに聞いたことがないか、或いは味わったことのない何かをお分かちさせていただいたと願っております。しかし祈らなければなりません。ご一緒に主にお祈りしたいと思います。(メッセージの終り)

 

 

サリーム師のメッセージの後、ジョイナー師が受け継いで約30分ほど語りましたが、その中で上記のサリーム師のメッセージに関して次のようなコメントをしており、その要旨は下記の通りです。

 

1)カマル師は2013年からの「三年間」が非常に重要であると強調しましたが、これは今一番必要な主からの預言の言葉として理解すべきです。

2)この世の政府から主は油注ぎを取り去られ、それを神の政府に移すと言うことにカマル師は触れましたが、これは既に起こっています。今は世界中の政府(政治)経済がかって無かったほどに揺れています。

3)今は天のドアが開いていて「ここに上がって来なさい」と主は私たちを招いておられます。あなたが天にある御座に主と共に坐るなら、主の持つすべての権威と力を私たちが主と共に用いることが出来る。第一のリバイバルの波は既に来て、次に津波のような第二の波が今来ようとしています。津波が来る時には先ず潮が引きますが、それは警戒警報であり、私たちは今、皆高いところに避難しなければならない。その高いところとは天にある主の御座に主と共に着くことです。

4)カマル師が最初に触れたのは、終りの日には惑わしが来ることでしたが、まさに今は、主が言われ、使徒たちが何度も警告した「惑わし」が起っています。(終り)

 


14 01月

主と同一であること ナンシー・テイラー・ワーナー      2013年1月14日


主と同一であること

 

ナンシー・テイラー・ワーナー

 

第一ヨハネ4:17「わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは、私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあって キリストと同じような者であるからです。」(口語訳)

何というパワフルな言葉でしょうか! ヨハネは、私たちの内に主が働かれ愛が私たちの人生の中で完全にされることによって、私たちの存在、又 行動のすべてが、主イエス・キリストのいのちそのものを映し出すと言っているのです。主のように私たちもなるのです! それ故に私たちが御座の前に立つ日には、恐れることなく確信をもって立つことができるのです。

 

私たちクリスチャンの神の召しとは、ただ主がそうであるように「ある be」ということです。決して証しを「する do」ようには召されていないのです。私たちは「地の果てまで」、或いは私たちが置かれたどのような場所、状況においても証人で「ある be」ようにと召されているのです。(使徒行伝1:8参照)

 

私たちの内での主の働きに明け渡すとき(それはしばしば日常の生活の中で起こることですが)、私たちは証人で「ある be」こと、或いは証人に「なる become」ことができま‘す。私たちがある状況に対応するとき、主を喜ばせるように対応するならば、キリストのいのちそのものが私たちの最も奥深い部分に吹き込まれ生きるのです。このプロセスを通して私たちは主のように「なる become」のです。私たちが主と一つとなるとき、主はご自分が望まれることをしてくださり、私たちの内だけではなく私たちの人生を通して御自身をこの世にあらわされます。

 

主がそこまで来るようにと私たちを召しておられる主と同一になることの極みがあります。そこでは主の御心が私たちの中に形造られるので、もはや「私」ではなく、私の中におられるキリストが生きているのです。(ガラテヤ2:20参照)私たちが主と一つになることによって、キリストの御性質そのものが私の性質となり、私が自分のやり方で応答するのではなく、主が応答されるように応答することを学び、そうする時に私は主との一致へと導かれていきます。私はキリストの人生、いのちそのものを経験するようになります。

その結果、人々は私を通してキリストのいのちを見ることができるのです。

 

神の友

 

アブラハムの人生にこの事があらわれています。彼は多くの試煉を通して神の御心そのものを知るようになりました。その結果、ソドムとゴモラに主の裁きが下ろうとしているのを知ったとき、彼は神の御心をあらわすことができました。

 

主が来られたときアブラハムは天幕の入口に座っていました。(創世記18:1)彼にはまだ成就されていない神の約束がありましたから、それに関して主に訊ねることもできました。でも彼はそうはしませんでした。そうではなく彼はすぐに主をもてなしたのです。(5節)

アブラハムが自ら進んで主をもてなした時、主はアブラハムの人生にこれから成就されるべき約束を宣言されました。(9節)そればかりではなく、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と考えられました。(17節)そして主がソドムとゴモラを訪れようとしておられることをアブラハムに話しました。主はアブラハムにソドムとゴモラが犯している罪の故に大いなる叫びが主のもとに聞こえている事を話されました。(20節)主は出かけていって実際にそのような罪が犯されていうかどうかを見にいくのだと、アブラハムに告げられました。(21節)

 

アブラハムは、それらの町には大いなる罪があることを知っていたので、主がそこを訪れたら何をご覧になるかを知っていました。彼は神の義を知っていましたから、神の裁きが下されることも知っていました。しかし、アブラハムは又、神の御心も知っていたのです。主の訪れが裁きとなることを知り、それと同時に神の御心を知っていたので、アブラハムはとりなしを始めたのです。彼は裁きが下される時に、罪人と一緒に義人が死ぬことがないようにと祈りました。聖書には、裁きが下る前にロトが町から脱出できたのはアブラハムのとりなしの祈りの故だったとあります。(19:29)

 

聖書にはアブラハムは「神の友」であったと書かれています。(ヤコブ2:23参照)彼の人生を見ると、彼は主の臨在を識別しすぐさま礼拝という行為で応答した人でした。彼は聞く耳を持っていたので、神は彼に語ることができました。彼は神の御心を知っていたばかりでなく、その神の御心と同じ心になってそれが叶うようとりなしの祈りを進んでしたのでした。それで神はロトを救うためにアブラハムを用いることが出来たのです。

 

何が起ころうとしているかをアブラハムが理解した時、彼は自分の思いや考えだけで行動しませんでした。彼は神の御心に従って自分の立場を決めたのです。彼は神の御心と一つとなり、それに従ってとりなしをしたのです。ロトが救われたときのアブラハムの喜びはいかばかりだったでしょうか。

 

喜びを分かち合う

 

今、私たちは神と同じように人々のことを思い愛するという経験へと 召されています。それは神の愛が、私たちの祈り、優しい言葉、親切な行為などの生活を通して目に見える形となることによってです。私たちが人々のために自分の人生を捧げ、それによって彼らの必要が満たされた時の彼らの喜びを共に分かち合う、その喜びは、自分が人々に捧げたことよりもずっと優って大きいのです。

 

第一テサロ二ケ2:19−20「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。」新共同訳

 

私がワシントンDCの近郷で牧会をしていた時、大雪に見舞われたことがありました。雪かきをしてもすぐに又積もってしまいました。教会の男性たちが手伝ってくれたのですが、彼ら自身の家の雪かきもせねばならず、また道路はすべりやすく教会に来るのは無理になりました。

 

私の父(ウエイド・テイラー)はその週末に行われる予定だったカンファレンスのためにうちに来ていました。私たちは分かる限りの人々に電話をしてカンファレンスには来ないようにと連絡しました。しかし万一来る人があるかもしれないので、私たちは教会に行かねばならないと考えました。でもそのためには家の玄関から道路までのドライブウェイの雪かきをせねばなりませんでした。

 

除雪車が道路の雪を両側に寄せて行ったので,私のドライブウェイの入口には雪が山のようになっていました。父も外に出てきて雪かきを手伝おうとしてくれましたが、聞いてみるとやはり彼の体力では 無理で苦しいと言うので、私は「心配しないで。私は雪が好きだから、中に入ってください。私がしますから。」と言いました。私とシャベルだけが残されました。父は家の中に入ってきっと祈り始めたのだと思います。

 

シャベルで雪かきをしながら、 除雪機を頼むとドライブウェイとパーキングの除雪で300ドルかかると言う事を思い出していました。そんなお金はありませんでしたので、私はシャベルを動かし続けました。湿った重い雪でした。必死でしてもほんの少ししかはかどりませんでした。祈りながら雪かきをしていると、雅歌の言葉が私の思いの中で動き始めました。

 

雅歌7:11−12「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って.....そこで私の愛をあなたにささげましょう。」

私は主が今私のいるところに召してくださったことを知っていましたし、私が主のぶどう畑に共にいることも知っていました。「そこで私の愛をあなたにささげましょう。」という言葉が私の心の中に響いていました。「主よ」と私は言いました。「雪かきが嫌だというわけではありませんが、私には荷が重すぎるのです。あなたの愛を私に見せてくださいませんか? 除雪機を送っては下さいませんでしょうか?」

 

その時、私が上を向くと、目の前に黄色い除雪機を載せた白いトラックが道路の向かい側を通って行くのが見えました。その時聖霊が私の内で働くのを感じ、私はそれによってジャンプさせられ、礼拝する時のように両手を上げて「おお!」と言わせられました。トラックの運転手は私が彼に手を振っていると思ったようでした。彼は引き返してきて何も言わずに私のドライブウェイの除雪を始めました。彼が巧みに仕事をするのを見て私の心は沈んでいきました。300ドルの料金のことを思い出し「なんてことをしてしまったんでしょう?」と思ったのです。

 

すると、トラックの後ろにクリスチャンのバンパースティッカーが貼ってあるのに気がつきました。仕事を済ませた時、彼はお金を受け取ろうとしませんでした。私が受け取ってほしいと何度も言うと、彼は次回はもしよかったら25ドル払ってくださいと言いました。私がその家に住んでいる間、大雪はもうありませんでした。私はこの出来事を思い出すたびに、事の成り行きに驚き、主に感謝しています。

 

この出来事を教会の人々に話すと、みんなとても喜んでくれましたが、 雪かきを手伝ってくれた人たちが特別喜んでくれました。シャベルで手伝ってくれた彼らには、除雪機がどんなに役にたったかがよく分かったからです。

 

私たちが人々のために祈ったり助けたりする時に、主がその人たちのためになさる事によって起る喜びを主と分ちあうことが出来ます。数年前に私たちの知り合いの牧師夫妻がより高いミニストリーの仕事に引き上げられたことを聞きました。それを聞いてすべての人が喜びましたが、私は本当に大喜びをして興奮しました。というのは私は彼らのためにとりなし、祈っていたからです。後になって彼らは「これはあなたの祈りの結果です。」と言いました。それはどうかわかりませんが、私もその一部であったことは確かなので、私は大きな喜びを与えられたのです。

 

主の御心と同じ心になる

 

私たちの召しは人々を建て上げ恵みを与えることです。人生の中でその人の必要が周りの人にも明らかされるときがあります。そして又、現代のライフスタイルの中には多くの異なるものがあり、その中には極端なものもあります。主は私たちがそのような人を裁いたり断罪するようには召しておられません。そうではなく彼らを愛するようにと召してくださっているのです。神が私たちを愛してくださっているのと同じ愛で、私たちも人々を愛するように神は私たちを召してくださっているのです。この愛が私たちの霊の中に形造られ、私たちが主の御性質に与るものとなるのを主は望んでおられます。主が人々を愛する愛を主と共に分かち合い、それによって主の喜びをも分ち合えるようになるのを主は望んでおられるのです。

 

第一ヨハネ4:16「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

「神とはどう言うお方であるか」―愛―を真に理解し、その次元に自分を置くことが私たちを完全に変革してくださり、私たちの考えを根本的に変え、主との一致へと導いてくださいますように。 祈りに時間を割くこと、やさしい言葉をかけること、親切な行為をすることなどで、自分の人生を喜んで(主のため、他の人のために)捧げようではありませんか。私たちのうちから聖霊の働きが溢れ出て、神の愛が私たちを通して外に流れ出ますように。アブラハムのように主を知り、主の臨在に素早く応答する者となりますように。神の御心を知り、神が語りかけることの出来る者となりますように。とりなしの祈りにより主と、そして主の御心と同じ心をもって完全に一致する者と私たちがなりますように。

 

裁きが下る前にロトが救い出されたように、終末の収穫が来ようとしています。 この時に対する神の御心を喜んで見つけ出し、とりなしをもって主の御心と同じになることによって、私たちも収穫の一端を担ったことを知るならば、私たちはどれほど喜びに満たされることでしょうか。

 

一緒に祈りましょう。

「主よ、あなたが愛されるように、私たちも愛したいと願います。それが可能となるために私の人生をあなたに捧げます。今現在私が置かれている状況に対してあなたが持たれている(思いと)御心を教えてください。私が共に生活し働いているすべての人たちに対してあなたが与えようとしておられるいのち(生き方)と願いを私が表現すためには、あなたの御心を知る必要があります。私の中にあなたの愛が形造られ現れるようにしてください! この国、そして世界の国々に対するあなたの御心を教えてください。主よ、私はここにおります。終末の収穫の働きの一部となりたいのです。どうかあなたの御心に私の心を加えて一つにしてください。貴い主イエスの御名によって祈ります。アーメン(終り)

 

Nancy Taylor Warner
Parousia Ministries (Wade Taylor Ministries)
Email: wade@wadetaylor.org

 

Nancy Taylor Warner 師は, 故Wade Taylor 師の娘さんで、長年お父さんのミニストリーを助けて来られましたが、現在は父の跡を継いで  Wade Taylor 師のParousia Ministries の責任者となっておられます。又、彼女は自身のAgape Fellowship in Christ教会の牧師でもあり、ペンシルベニア州ハリスバーグに在住されています。


05 01月

新年のご挨拶     坂 達也             2013年1月5日


新年のご挨拶

                     坂  達 也

 

 

明けましておめでとうございます。

 

2013年元旦に私の心に浮かんだ御言葉があります。それは、イエスが言われた「・・わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる・・・」(ヨハネ 14:20、新共同訳)と言う御言葉です。

考えてみれば、「イエスはクリスチャンのうちにいる・・・そして私たちも主イエスのうちにいる(住む)」と言えば、未信者には何のことだか訳の分らないことであると思います。しかし、クリスチャンにとってはこの言葉以上に重要な言葉はないと私は言い切ります。その理由は、先ず第一に父なる神とイエスとの関係がまさにそのようなものであるからです。

 

ヨハネ14:10で主は「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」と言われ、次の11節で「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」と言われました。

ここで明らかなことは、御父とイエスの間ではすべてが通じあっていて、全く同じ考えと思いで「ことば」を話し、聞き、それを「わざ」として実行しておられると言うことです。

イエスは後日、弟子に15:4で「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。・・・わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」とも言われました。これはどう言う意味なのでしょうか。

 

そもそも主は最初の出会いから、弟子たちをご自分の住まいに招かれました。それは、この世における肉の「かたち」として「住み込み同居の関係」で生きなければならないことを、主は弟子たちに敢えて実行して見せたのです。なぜなら、神と私たちの究極的な関係―それは霊的かつ永遠の関係―では、「神が霊的に私たちの内に住む」ことが不可欠の条件であることを初めから徹底的にたたき込むためであったからです。それが私たち(父の息子・娘)と父との「霊的、永遠の親子関係」であるのです。

 

実はこのことを、主は弟子たちに更に「大宣教命令」として明確に命令されました。マタイ28:18-20で、イエスは弟子たちに近づいて来て、こう言われます。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 

もう一度申し上げますが、イエスの弟子たちは当時、自分の職業も何もかも捨ててイエスの元に走り、住み込んで、一切の行動をイエスと共にしたのでした。ですから彼らにとって「イエスの弟子になる」とはイコール「同居してイエスと共に行動する」ことであったのです。従って、主から「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命令された時、それが「神と同居する関係に育て上げる」意味であることを充分に理解していたのです。私たちは本当にそのことを理解しているでしょうか?

 

私はクリスマスにあたってフランジペン師の「キリストに似た者になること」の一文をご紹介しました。その中で、フランジペン師は創世記1:27「神は人をご自分のイメージimage にかたどり、神に似せてlikeness 創造された。」を取り上げ、「神のイメージとはキリストである」こと、従って、そのキリストのイメージに似ることが私たちの存在目的であると言われたのです。

私たちは「キリストに似た者にならなければならない」と言う意味はまさに、私たちと主との関係が、密着した「住み込みの関係」でなければならないと言うことです。全クリスチャンをそうなるように育てなさいと言うのが、主からの「大宣教命令」であって、単に信者にすればよいのとは全然違います。

 

さてそこで、今まで私が言わんとしたことが黙示録19:10に書いてある「・・・イエスのあかしは預言の霊です。」の意味に通じることを申し上げたいと思います。

イエスを証しすることとはどう言うことなのでしょうか。この御言葉は、色々に解釈出来ますが、元来、旧約聖書の預言も含めて預言とは、イエス・キリストを証しすることであり、イエスにすべての栄光を帰すると言われます。であれば、新約の時代でイエスの福音を語ることも預言のうちに含まれます。すなわち私たちクリスチャンは広い意味で皆預言者であり、私たちの言動のすべてがイエス・キリストを証しするのです。

預言とは何でしょうか。「神のことばを言われた通り忠実に人に伝えること」です。そうであれば、イエスこそが最も忠実で最高の大預言者です。なぜならイエス・キリストは「神のことば」そのものだからです。(黙示録19:13)

同時にイエスは父のことばをその通り実行されました。それが「わざ」です。それでは「預言の霊」とは何でしょうか。それは聖霊を指し、その聖霊が私たちの内におられるのです。

と言うことは、イエスはすべて父が語られたことをそのまま語られ、実行したように、私たちも同じようにしなさいと言われているのです。すなわち、私たちもイエスから与えられた預言のことば、あるいは、イエスに関する福音を伝える際に、預言の霊である聖霊により、その時に与えられたことばをその通り忠実に人に語り、必要な「わざ」をすることです。それが「イエスを証しする」ことなのです。最初に引用したヨハネ14:10、11で、「ことば」と「わざ」が使い分けられていますが、ことばを伝え、それがなされるのが「わざ」であることを示しています。

 

そのために、私たちはキリスト(の霊)と同居する「真の弟子の関係」にならなければ、本当には「預言の霊」で人に福音の話をし、あるいは「わざ」でもって「イエスの証し」をすることは出来ないと思います。私たちクリスチャンはそこまで「自分の中に住まれるイエス」と親密になり、一致していなければならないと主が言われるのです。勿論私などは、まだまだ程遠いと感じていますが、主は私たち誰に対してもに「そうなれるのだからやってみなさい」と要求されておられます。一見出来そうもない私たちを助けて下さる方が万能の神である聖霊です。そうである以上私たちクリスチャン全員がやってみるべきで、これが主からの命令であるのです。実行することによってのみ、私たちは主が期待する信仰に到達出来るのではないでしょうか。

 

 皆さんがよくご存知のように、上記のヨハネ14:10,11はその後に次のように続きます。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。・・・」 (ヨハネ14:12-14)

 

2013年は「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」と、主が約束され、私たちに期待されていることが実現し始める年となりますようにお祈りしております。そのためには私たちの内におられる聖霊と私たちが一つとなることが今年の最大の課題であると信じます。(終り)