Archive for 2月, 2011:
20 02月
預言の賜物はどのように働くか
リック・ジョイナー
今回は預言の賜物が私たちの中でどのように働くのかを学びたいと思います。この学びによって、多分多くの方が、預言の賜物だと気がつかないまま、すでにそれを用いていたことに気がつかれると思います。大切なことは、これは技術ではなく神との関係、交わりであるということです。預言とは「ある一人のお方」の言われる事を聞くことであり、方式とか手順を学ぶのではないのです。
神との友情を通して受ける預言
アモス3:7に「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示されないでは、何事もなさらない。」とあります。主にそうする義務があるとは、律法のどこを探しても書かれていません。しかし、主は何事をするにもまずご自分の友にそのことを話したいと思われるので、そうされるのです。神との友情—これこそ預言のミニストリーの基本的な本質です。預言者とは神と非常に親しくなった人たちのことで、神はそれらの人に話さないでは何事もしたくないのです。
「預言者になるためには神からの召しが必要なのか、それとも自分からそれを求めてもいいのか」という疑問を多くの人がもっています。どちらも真実です。生まれる前から預言者となる召しを受けている人たちもいて、彼らはそれ以外のことは出来ません。又、聖書は私たちが預言を求めることを勧めています。私たちに達成不可能なことを勧められる神ではありません。預言的になることの真の本質は神との友情ですから、神はすべての民がそれを求めることを願っておられます。モーセが「主の民がみな、預言者となればよいのに。(民数記11:29)」と言った理由はそこにあります。
預言者は神の御座の傍近くにいますから、神が何をしておられるかが分かります。御座で起こっていることを見たり聞いたりするからです。よく聞く言葉に「私たちは賜物ではなくそれを下さる方を求めるべきだ」というのがあります。これはあたかも気高く知恵のある言葉のように聞こえますが、聖書で言っていることとは違います。このように聖書の真理から外れた軽薄な言葉に耳を傾けるのは成熟した者のすることではありません。第一コリント14:1には「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」とあります。御霊の賜物を追い求めることは、即ち主を追い求める道なのです。御父は霊と真をもって礼拝する者を求めておられますが、御霊の賜物は私たちがそのような者となるための道です。
勿論、私たちは賜物を下さるお方を第一に追い求めますが、それが御霊の賜物を追い求めることを排除するわけではありません。御霊の賜物は普通私たちが考えるプレゼント、贈り物というようなものではありません。「御霊の道具」と訳したほうがいいかもしれません。御霊の賜物は、何かのご褒美とか、祝福として与えられるのではなく、私たちが主の業をすることができるように(そのための必要な道具として)与えられるものです。主の業とは礼拝です。私たちが主を愛する故にする奉仕の務めです。
真の預言的人物でも間違いを犯すか? もし私が間違ったらどうなるのか?
預言者の基本的な務めは神のために語ることです。ある状況の中で神が語りたいことを代弁するのです。それには究極の信頼関係が必要ですから、未熟な者とか軽卒な者には主はこの務めを与えられません。王からの言葉に自分自身の意見を付け加えようとする者を代弁者とする王がいるでしょうか? ですから、 誰でも預言に用いられることは可能ですが、そのためには十分な成熟さ、誠実さ、預言者の任務を受けるに足る主からの信頼が必要なのです。自分が考えていることは神が考えておられることと同じであるとか、自分が感じていることは神が感じておられることだというように、自分はすべての事に関して神のお考えを握っていると思うのは危険な罠です。このような考えは、自分自身の魂からの言葉を預言するという間違いに人を陥らせます。
それは使徒ペテロが「イエスはキリストである」という最高の啓示を受けた直後に起こったことです。イエスはペテロが御父からこの啓示を受けたことを称えられました。そしてこの岩の上にー即ち、御父からの啓示の上にー主の教会を立てると言われました。そして天国の鍵を与えてペテロを祝福されました。しかし、まさにその直後、ペテロの口から出た言葉は地獄からのものであり、イエスは「下がれ、サタン!」と彼を叱責せねばなりませんでした。(マタイ16:23参照)
このことから私たちは、天から直接聞いたとしても、その直後にサタンから聞いてしまうことが容易に起こりえることを見ることができます。これはペテロの未熟さから起こったことですが、預言の賜物を受けた者たちのほとんど全員が未熟さのゆえに経験することなのです。もしこのことでがっかりしたり、間違いを犯すのを恐れるのならば、あなたは預言者にはなれないでしょう。しかし、もし自分の間違いから学ぶならば、あなたは神の声と自分の魂の声、もしくはサタンの声とを見分けることを会得していくでしょう。もしあなたが間違いを恐れるならば、あなたは学ぶことが絶対できないでしょう。
ペテロは新約聖書に書かれている大きな失敗を幾つかしてしまいましたが、それと共に最も偉大な業のためにも用いられました。イエスが天国の鍵を与えられたのはそれ故です。ペテロはその鍵を使うことを恐れなかったのです。そして水の上を歩いたり、死人をよみがえらせたり、彼の影にふれるだけで癒されるような力を持ったばかりか、ユダヤ人と異邦人の両者のための信仰の扉を開いたのでした。
多くの人は、 間違いを避けるために神の御声を正しく知る処方箋が欲しいと願っています。しかし私が知る唯一の処方箋は、キリストにあって成熟するということだけです。人々の頭に手をおいて、たちまち彼等を成熟させるという賜物を私が持っていたらどんなにかいいでしょう。しかしそのような賜物があるとは聖書に書いてありません。成熟するためには経験が必要なのです。また、往々にして間違いを犯すことによって人はより早く学ぶことも本当です。ですから早く成長したいならば、自分の失敗を学ぶ機会として喜んで受けとめねばなりません。これは間違いをしたいと望むということでは決してありませんが、失敗を恐れるあまり信仰の一歩を踏み出せないようなことがあってはなりません。もし恐れるならば、私たちは一生何もしないでしょうし、賜物において成長することもないでしょう。
「新約の真の預言の賜物を持つ」と私が思う人の中で、預言者として成熟する過程で大きな間違いをしなかった人物を私は一人として知りません。一旦預言者として任命を受けたならば、もはや大きな間違いは犯すべきではありませんが、預言の召しを受けるのと預言のミニストリーの任命を受けるのとは違います。パウロがアンテオケで使徒の任命を受けたのは彼が使徒として召しを受けた何年も後のことでした。
あなたは預言者としての召しを受けた時に預言者になるのではなく、任命を受けたとき預言者となるのです。私たちは「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものと」しなければなりません。(第二ペテロ1:10参照)即ち、自分の召しに成熟することを追い求め、ついに 私たちを任命する時が到来したと神が思われるようにしなければならないのです。もしあなたが自分は任命を受けたかどうか定かでないと思われるならば、それはまだなのです。本当に任命されたならば、疑う余地などないほど明確に分かります。それまでは、自分の翼をためす機会を喜び、謙虚に間違いを受けとめ、そこから学んでください。(終り)
19 02月
イエスは言われます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15章)
これで思い出すのは、イエスが病人をみな治し、悪霊を追い出すのを見て多くの群集が彼の後をついて来る中で、一人の律法学者が「先生あなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」と言ったのに対し、イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と答えられました。(マタイ8章)
私たちは目ざましい証には関心がありその後をぞろぞろついて廻る傾向があります。しかし、イエスが本当に求めている人は、少し距離を置いて野次馬的に「後をぞろぞろついて廻る群集」ではなく(それではいつまでたっても他人でしかない)、本当にイエスの中に入り、イエスにいつも滞在して欲しい、イエスと枕を並べ、お互いに心を開いて一夜をあかす人ではないかと思いました。
イエスに気軽に声をかければ、いつでも現れて語ってくださる、そんな気安く親しい間柄になることであると思います。
2011年に入り、今、多くの人が「主からみことばをもらう必要性」を語っています。いよいよ時が迫ってきているのですね。本当に今年、来年は何が起こるか分からない、思いもつかないことが今既に連続して起こっています。自分の考えとか思いでは、もはや全く、やって行けなくなって来ていると思います。
私は今本を書いておりますが、年のせいで頭の回転が衰えてきており、聖霊の油をそそいでいただかないと何も書けません。本当にそうであることを日に日に切実に感じております。しかし、これはとてもよいことのようです。「次に何を書きましょうか」といちいち聞き、与えられると書きます。静かに黙って主の前で待つか、異言で30分から1時間祈ります。そうすると大概はいただけます。又、今日はリラックスして休みなさいと言われることもあります。
主は必ずしも毎日語って下さらない方であることが分かって来ました。臨在も何も全く感じないのです。行きつけの店に行ってみると、「本日休業」の看板がぶら下がっていてびっくり、がっかりする、あの感じです。
しかし、時に何時間も、あるいは一日ふつか、何も与えられないことがありますが、そういう時は逆にうんと祈らなければならないようです。そのような祈りの後で大きなテーマの変換とか、「めざましいこと」をおっしゃられることが多いので、期待がふくらみます。何事をするにも祈りは絶対に必要であることをひしひしと感じます。
このところ、二度三度、私の思い上がり、いかに私が御言葉の意味を分かっていないか、クリスチャン生活を何年も続けてきて、自分がこんなに焦点がずれているout of focusかを思い知らされました。本当にショックでした。へりくだらされ続けています。ぎゃふんとなり、あるいは感激して一瞬泣きました。
それと、この頃非常に面白くなって来たと思うのですが、主に質問したり祈れば必ず答えて下さることです。この一、二年特に昨年初めぐらいから「お祈りは聞かれる」という思いが強くしております。皆さんもそう言う思いを持たれていると信じますが、いかがですか。
イエスがどれ程の祈りの人であったかをつくづく思い知らされ、自分はもっと祈らねばならないことをひしひしと感じる昨今です。(終わり)
18 02月
2011年が始まった
坂 柚実子
と思ったら、もう2月の半ば。元旦に 娘と主人と私で、今年の抱負を語り合いました。英語では、「New Year’s Resolution」といい、新しい年の決意とでもいうのでしょうか。娘の決意は確か7つほどもあり、本人も覚えきれないくらいでしたが、そのうちの一つは我が家の歴史を書くことでした。主人は今書いている本を完成させること、そして私はこのコラムをもう一度書き始めることとしました。3人とも書くことが入っていたのです。
娘はそれ以来、早速私たちに、両親のこと、祖父母のことなどを聞きまくって、コンピューターに打ち込んでいます。聞かれてみると、私たちも知らないことが多いのに驚きます。今まで家族の中で家族の歴史を語ることが少なかったこと、父母にもっと話を聞かなかったことが悔やまれます。娘はアメリカ生まれですが、それだけに自分がどのような家族の中に生まれたのか、自分のルーツ、を知りたいようです。
主人が今執筆中の本は、ノンクリスチャン向けというふれこみですが、私もまだ1ページも読んでいなので、残念ながら内容をお知らせすることはできません。お祈りくだされば幸いです。
さて、私は何のためにこのコラムを書くかというと、創造主の神に似せて創られた人間は何か創造できるはずである、創造したほうがいい、というようなことを聞いたことがあるからです。それでせめてこの雑文でも書こうと決めました。元旦には月に一度書くと明言したのですが、1月はあっと言う間に過ぎて行ってしまったので、2月が逃げない前にあわててこれを書いています。
今日は私のもう一つの決意をお話しいたします。それは毎朝、グランドを8周走るということです。うちのマンションの向かいは高校で、立派なグランドがあり、誰でもいつでも使うことができます。高校生が体育の時間で使っているときでも、私たち一般人が一緒に使ってもいいのです。若者に混じって私がよちよち走っているのは、きっと傍目にはおかしいことでしょう。でも私も約半世紀前の私の気分にもどって心楽しく走っています。
右のポケットに小さな石を8つ入れておいて、一周まわるごとに一つ左のポケットに移します。つまり左のポケットが達成した数、右があと何周かという数になります。この石はうちのマンションの庭に敷いてあるのをちょっと拝借していますが、小さく白く軽い石です。ある時、走っていると一つそんな石が落ちていました。何かの拍子にポケットから落ちたかと思って拾おうとしたら、それは鳥の落とし物でした。そうです、鳥たちもこのグランドを共有している常連です。
1周400メートルのグランドを8周ということは、3.2キロです。このくらいは楽々と走れるようになる日を夢見ていますが、今のところやっとこせで回っています。でもそれだけに毎回「やったー!」という感慨を味わうことができます。それにしてもマラソンを走る人たちはすごい忍耐力だとつくづく思うこのごろです。(終)
11 02月
力に先立つ聖さ
フランシス・フランジペン 2011年2月12日
多くのクリスチャンが神の力を得る近道はないかと探しています。近道を行こうとすると、その結果は一番よくてフラストレーションを起こしますし、最悪の場合は偽教師や偽預言者になってしまうことになります。注意して聞いてください。神の素晴らしい力が私たちのために備えられています。しかしそれは聖さなしには得られないものです。力の前に聖さが来るのです。
ヨハネがイエスを見た時
マタイ3:13−17「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』
そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると天が開け、神の御霊が鳩にように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
バプテスマのヨハネという預言者をよく見てみましょう。聖書によれば、ヨハネは「まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされて(ルカ1:15)」いました。又、彼はエリヤの霊と力をもって来ました。歴史家たちによれば、人々の心を貫き妥協を許さないヨハネのミニストリーによって、百万人近い人々が悔い改めました。大群衆がこの預言者の言葉を聞くために市街や町々から荒野にやってきて、神の御国の到来に備える悔い改めのバプテスマを受けたのでした。
堕落した人間の心の状態をヨハネ以上に完全に理解していた人はイエスだけでした。ヨハネの裁きを免れることは、どのような階級の者であろうと出来ませんでした。兵士、王たち、罪人、宗教指導者等、すべての階級がこの「決断の谷」に来たのでした。ヨハネが授けたバプテスマはただ単に水の中に入るだけではありませんでした。ヨハネは人々に義をもたらすだけではなく、彼等が自分の罪を口で告白することを要求しました。(マタイ3:6、8)
心に隠されたものを見る預言者
ヨハネが「預言者以上の者」であることをイエスは証言されました。主は、 女から生まれた者の中で「バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。(マタイ11:9−11)」と言われました。ヨハネは「霊で見る預言者」でした。彼には霊的領域が見えるオープン・ヴィジョンが与えられていたのです。彼は「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。(ヨハネ1:32)」と証言しています。彼は又、「必ず来る御怒り(マタイ3:7)」を予見したり、「天の御国(マタイ3:2)」が近づいているのを見ることが出来ました。
ヨハネは人の心の秘密を見る洞察力がありました。人々から敬われているパリサイ人のうわべを突き通して本当の内面を見ることができました。そして彼等の魂の中に「まむしのすえ」を見たのでした。人々に隠されている事柄でも預言者にはわかるということをよく認識してください。
そしてイエスがバプテスマを受けるために来られたとき、まだ天が開いたり御霊が下ったりする前に、ヨハネの義の尺度をもってしても圧倒されるような何かを彼はイエスの中に見たのです。彼はイエスの心を見つめました。そこには罪や偽り、欲望は一かけらもありませんでした。ヨハネは自分がメシアを目の前に見ていることを知りませんでしたが、 驚いて「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに」と言ったほどの聖さをイエスの中に見たのでした。
「神の小羊(ヨハネ1:36)」であるイエスは、しみも傷もなかったのです。この預言者がイエスの中に見たのは、まさに「しみのない心の純潔さ」でした。キリストの高潔さはヨハネが息を飲むほどだったのです!キリストの聖さが内から強く輝きでているのを感じたヨハネは、自分の欠け、足りなさを直ちに自覚させられたのです。ヨハネがイエスを見たとき、自分より崇高で聖い義を発見したのです。この偉大な預言者はイエスの心の中を見、キリストの聖さの輝きの中で「私にはまだ欠けがある。」と叫んだのです。
私たちも同じなのです。イエスを見る度毎にキリストの純潔さが更に示されるので、 自分の足りなさがもっとはっきり分かるようになるのです。キリストの聖さが 目前に顕されるとき、私たちはバプテスマのヨハネと同じように「私があなたからバプテスマを受けなければなりません!」と叫ばざるを得ないのです。
しかしながら、 信仰の歩みを始めた当初、私たちは物事の成功と達成のために自分の力で自分の技量を信頼して生きようとしました。確かに神に頼ったときもありましたが、それは往々にして悲しみや試煉の時だけでした。しかし、主が私たちを成長させてくださると、以前は自分の強さだと思っていたものが実際は弱さであったことを知るようになります。プライドや自信は私たちを神の助けから引き離していたのでした。 多くの自分のアイディアとか願いという喧噪、騒音が、神の小さく細いささやきをかき消していたのです。人間にとっては最高級の成功でも、神の目から見ればまことに「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸(黙示録3:17)」なのです。
成熟したクリスチャンは聖く、又、力がある
やがて私たちは、すべての真の強さ、すべての真の有効さ(即ち、私たちの聖さそのもの)は、自分に欠けているもの、自分の足りなさを発見したときに始まることを見出します。私たちはだんだん弱くなり、自分の能力に対して自信を失っていきます。自分を正しいとする自己義認の外殻が壊されるとき、聖さと力を 叫び求めるすべての人はイエスご自身が神からの答えであることがわかるのです。
私たちは、「自分には霊的賜物がある」とか「自分は聖い」と思い込んだり、或いは人間的な成功で喜んだりするかもしれません。しかし 、自分を正しいとする自己義認を捨て去ってキリストをはっきり見るまでは、私たちが持てるのは、一番良くてもせいぜい「宗教」でしかないのです。
是非この真理を両手でしっかりと掴もうではありませんか。逃してはなりません。イエスご自身が私たちの聖さの源なのです! 私たちは主のために何かをしようと一生懸命です—自分の内面を変えなくてもいいならば何でもしますと。神は私たちに出来ることなど必要としておられないのです。神は私たちそのものをほしいと思っておられるのです。神は私たちを聖い民にされたいのです。聖くなるプロセスを早めようとあせらないようにしましょう。 私たちの 深い部分を整えられる御業を神にしていただきましょう。イエスは一つの力ある業をなされる前に、30年間の罪のない純潔な年月をすごされました!主の目標は偉大な業をすることではなく、聖い人生をもって御父を喜ばせることでした。
よく聞いてください。それと同じように私たちの目標は強い力を持つことではなく、キリストの臨在の伴う聖い者となることです。自分のキリスト教が効果的であることを望まれますか?それならば、キリスト御自身をあなたの聖さの源、目標として求めてください。あなたの人生のなかに神の力を見たいですか? そうであるならば、キリストの心の純潔さを知ることを求めてください。イエスによって「わたしの民」と呼ばれる者になるためには、私たちは聖さにおいて成長していかねばなりません。成熟したクリスチャンは聖く、且つ力のある者です。しかし聖さが力に先立たねばなりません。(おわり)
Francis Frangipane
Ministries of Francis Frangipane
Email: francis1@frangipane.org
02 02月
ACPEによる2011年の主の言葉
シンディー・ジェコブス
ACPE(Apostolic Council of Prophetic Elders 預言的長老の使徒委員会)は毎年、主から預言を受けることを目的として会合を開きます。 この会は信望ある預言者の集りであり、彼等は使徒行伝13:1−3を模範とすることを信じている者たちです。この聖書箇所は、単一の預言者が聖霊から御言葉を与えられるのでなく、預言者グループの一人ひとりが聖霊によって示されたものを照らし合わせ、それが主からの御言葉であると認めるというプロセスを通して機能していることが書かれています。ですから、これは各自がこの円卓会議にも持ち寄ったものを編集したもので、聖霊が私たちに語って下さった御言葉であるとACPEのメンバーが一致したものです。
ACPEは1999年以来会合を持ってきましたが、今年初めて、最近台頭してきている若いリーダーたちも招きました。その結果、今までで最も力強く主を求めることができたと思います。会合の最後にはインパーテーション、霊的分与の時がもたれました。
私たちはこれを「2011年への預言」と呼んではいますが、預言が成就するタイミングはカレンダーの一年という枠にはめられることはないので、むしろ「今シーズンの預言」と言ったほうが適当だと思います。
又、これは人々がこの御言葉にどれほど従順に応答するかどうかによって、私たちが聖霊によって見たよりも、遅延したり、変ったり、修正されたりすることも覚えてください。
変化、 移行の年
今年は天が開かれる、オープンヘブンの年になるか、それとも荒れ狂う嵐、パーフェクトストームの年になるかのどちらかです。
「11」という数は聖書では変化、移行という意味を持っています。2011年は私たちがある場所から他の場所に移行する年です。年が終るときに自分がどこにいるかは、聖霊の導きにどれだけ従順に応答するかに多分に懸かっています。
2011年は大きなプレッシャーとストレスの年になるでしょう。特に、最初の3ヶ月はそれが顕著で、あたかも敵の軍勢と正面から対決するような時となるでしょう。
ティッピング・ポイント( 秤のバランスが傾く転換点)の年
このシーズンのプレッシャーの中で、もし私たちが弱気になり気力をなくすと、 計りのバランスは私たちの反対側に傾き、大きな損失と敗北を経験する可能性があります。
海峡の年
「11」という数は、例えばスペインとモロッコの間にあるジブラルタル海峡のような場所に似ているといえます。私たちはそこで時として窮屈さを感じます。だんだんに狭まって行く場所を通ることによって、もし、私たちがそのプレッシャーに負けなければ、神が今シーズン私たちのために用意しておられる新しい場所に 、私たちを導いてくれるのです。
産道
「11」に関して主が与えてくださったもう一つの比喩は、産道です。生まれてくる赤ちゃんは、心地よいお母さんの胎の中から、圧迫され大変な産道を通って、新しい大いなる人生へと生まれ出て来ます。
夢を見る
ヨセフは自分が見た夢を11人の兄弟(創世記37:9に11の星として表されている)に話しました。そのことは兄弟関係に大きな軋轢をもたらしました。神は今年、夢やヴィジョンの大いなるシーズンを、若い者たちにも与えられます。人間関係に注意して見張り、もし問題が起きても自分の心を常に義しく保ってください。
大いなる期待の年
思いがけないことがきっと起こる年
ヘブル11:11が鍵です。「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実・忠実な方として考えたからです。」
奇跡を期待してください!あなたの人生で、「なかなか叶えられない希望」という名の不妊を神は打ち破りたいのです。多くの者が移り行く時の中で自分の夢をあきらめ、小さなことしか信じられなくなっています。神の御国は拡大し続ける御国であり、神は後退ではなく前進の神です。
今は「神が言われたことはその通りには実現しない」とあきらめる時ではなく、「不可能なことはない」と信じる時です。神は人間のように嘘をつく方ではありません。神がある事をされると言われたのならば、ご自分の心を変えられることは決してありません。
準備の時、神と更に深く交わる時
試煉と火のシーズンの中で退かない者たちには、この変化、移行の年に新しい仕事assignmentsが与えられるでしょう。もっと神の深みに入り、神の臨在から新たな力を汲み出してください。そうすれば前進と油注ぎのある新しい場所に行くことができるでしょう。
箴言20:5「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。」
創造的な奇跡(クリエイティブ・ミラクル)
創造主なる神が創造の奇跡を解き放たれるので、奇跡のレベルが増し加わります。それはヒューマニズムや理知主義に真っ向から立ち向かうものです。
ダビデの幕屋の回復
今年はワーシップが再び大きく強調されます。ワーシップが鍵です!24時間ワーシップをする場所が新しく世界中に沢山出来てきて、その結果として国々の上に天が開き、多くの魂が救われます。今は収穫の時です!
使徒行伝15:16−17「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」
芸術、芸能界での大いなる収穫
芸能界、映画界で神のものすごい働きが起こるでしょう。大胆で新しい、福音を恥としない声が起こり、多く者が彼等の証しに耳を傾けるでしょう。
アメリカへの言葉
今アメリカは危機的状況への瀬戸際に立たされています。ですから今、祈りや義と公正のために行動することに倦んではなりません。このシーズンが与えるプレッシャーの中で娯楽に走ってしまわないで、今あなたの回りで起こっていることをしっかり把握しなければなりません。
攻撃が来る夢やヴィジョンを多くの者が見ています。私たちはテロリストからの攻撃を注意してよく見張らねばなりません。
私たちに与えられたイラストレーションの一つは「お前はランブルする(戦いのうなり声を上げる、揺り動かす)備えができているか?」という言葉です。これはレスリングの試合が始まる時にファンが熱狂して叫ぶ言葉です。この叫びはレスラーたちに試合開始が真近であることを伝えるだけではなく、群衆の中に高揚した期待感を涌き上がらせるのです。神は今アメリカのクリスチャンにむかって「あなたはランブルする用意ができていますか?」と聞いておられます。試合が始まろうとしています。神がこの国で次にされることを期待する私たちは興奮の頂点に達していなければなりません。
2011年はアメリカの歴史の中で最も重要な危機的な年の一つです。国家の土台、基盤が燃えて破滅する危機にあります。私たちは断食と祈り、又特別の方法をもって天と地を「ランブル 揺り動かす」必要があるのです。
時迫る第11時! 11−11−11
11−11−11という日付は、 第11時(マタイ20:6参照、 即ち、終末に近いとき)である現在にとって、特に重要な意味を持ちます。‘
ヨハネ11:11b「わたしの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
メイフラワー誓約書は1620年11—11に調印されました。神は今、危機に面しているアメリカを目覚めさせるために堅く立って戦うと、神と人に対して誓約する新しい世代の改革者を求めておられます。
箴言11:11「直ぐな人の祝福によって、町は高くあげられ、悪者の口によって、滅ぼされる。」
世界
世界的規模で学生によるボランティア活動が地球上至るところで生まれようとしています。20世紀初頭に学生によるボランティア活動が初めて起こったときと同じように、今回もサタンは必死で戦争を起そうとします。第一次世界大戦の勃発により学生たちは戦場に送られ互いに戦うこととなり、学生のムーブメントは絶たれてしましました。私たちは第三次世界大戦が始まることがないように祈らねばなりません。サタンが自分の目的を果たすために世界情勢を加速度的に悪化させているからです。
詩編110:3「あなたの民は、あなたがその軍勢を聖なる山々に導く日に心から喜んでおのれをささげるであろう。あなたの若者は朝の胎から出る露のようにあなたに来るであろう。」
韓国
韓国のために特別な祈りが捧げられねばなりません。非常に偉大な宣教のムーブメントが韓国から起こることが定められていて、それは地の果てまでとどくでしょう。
私たちは又、李大統領は北朝鮮からの挑発に対して堅く立たねばならないと強く感じました。
中東
私たちが中東へのとりなしを始めなければ、クリスチャンに対する大きな迫害が起こるでしょう。しかし、シリヤ、エジプト、サウジアラビア等の国々の若者から神のムーブメントが起こり、彼等は自分の命さえも惜しまないでしょう。
経済
私たちはハイパーインフレーション(超インフレ)にならないようにとりなさねばなりません。もしそれが起こると人々は世界宣教のために捧げる力をなくしてしまうからです。
知的財産
神から知的財産として アイディアが与えられ、そこから生まれる新しい富が大いに解き放たれます。神の御国の前進のために富を用いる人たちに、新しい創造的アイディアの油注ぎがあります。
子供たち
世界規模の大いなる子供たちの覚醒がまさに起ころうとしています。子供の伝道者が教会や大競技場でメッセージを語り始め、何千人もが救われ癒されるでしょう。(終わり)
Compiled by Cindy Jacobs, ACPE Convening Apostle
Generals International
Email: generals@generals.org