Archive for 1月, 2011:
22 01月
教会を運営する牧師の働きについて
リック・ジョイナー
牧師の働きについて書かれているのは新約聖書の中で一箇所(エペソ4:11)だけで、教会を立て上げるために与えられている他のミニストリーと共に書かれています。牧師の働きの定義や説明も新約聖書には書かれていません。それにも拘わらず、牧師という一つの働きが三世紀以降、教会の指導権を実際的には握ってきました。この聖書箇所からわかるように、 新約時代にあるべき真のミニストリーの姿はチーム・ミニストリーであり、 本当に調えられた教会になるためにはすべてのミニストリーを私たちは受ける必要があるのです。
ほとんどすべてのプロテスタント、福音派、ペンテコステ派、カリズマ派は、牧師という肩書き、タイトルを持った人によって導かれていますが、彼等の中には聖書的な意味での「牧師」はあまりいません。これは彼等が真のミニスターではないということではなく、ほとんどの人が、本当は教師、伝道者、預言者や或いは使徒であることが多いということです。しかしほとんどのクリスチャンは牧師というタイトルに馴染んでいるので、教会を指導する人は「牧師」というタイトルを持つことになるのです。それはそれでまずまずよかったのですが、これからの時代には私たちは教会の指導力に関してもっと聖書的になる必要があるでしょう。
新約時代の預言者の働きを説明するためには、新約のチーム・ミニストリーがどのように意図されたものであるかを調べる必要があるでしょう。預言者を始めてとして、教会を調えるための他のすべてのミニストリーを本当に理解するためには、ミニストリー同士の相互関係を先ず理解する必要があります。これはすべての新約のミニストリーに関して言えることでもあります。一つ一つは教会に与えられているチーム全体の光に照らして検討されねばなりません。
多くの人は旧約の預言者を新約の預言者のモデルとしてきましたが、それは誤りです。預言の賜物自体は旧約時代、新約時代を通して同じかもしれませんし、啓示のタイプも似ているかもしれません。しかし、その適応が同じではないのです。旧約時代に預言者は、イスラエルが主なる神から離れている事を警告し、又 王たちにさえ度々警告しましたが、それは預言者が単独で行いました。しかし新約の時代の預言者は、キリストのからだを立て上げるチームのメンバーの一人なのです。聖書の中で新約の預言者たちが大きく用いられている場面を見ることができますが、人々を正すのは使徒や長老たちを通して行われたのであり、預言者一人でしたとは一度も書かれていません。
エペソ4:11から分かることは、 教会を立て上げるためのすべてのミニストリーが持つ中心的目的は聖徒を調えることであり、 ミニストリーの働きをするのは聖徒たちであるということです。ですから預言のミニストリーが持つ主要な働きは聖徒を調えるということであり、調えるとは、すべての神の民が神の御声を知り預言さえもできるように助けることと関係しています。第一コリント14:31で「あなたがたは、みながかわるがわる預言ができるのであってYou can all prophesy one by one」と私たちは言われています。クリスチャンは誰でもいつでも預言するように用いられることができ、ほとんど全員が少なくとも一度はそのために用いられるでしょう。
人間が罪に堕ちてから最初に神と共に歩いたのはエノクでしたが、彼は預言をしたと書かれています。(ユダの手紙14節参照)教会の歴史を見れば、「神と共に歩く人はすべて預言をするであろう」と言っても過言ではないでしょう 。神が今も預言を通して語られることを信じていない人が、非常に正確に預言するのを私は聞いてきました。ただ彼等はそれを預言だとは呼ばないだけなのです。
預言のミニストリーは将来のことに関する啓示を受けるだけではありません。しかしこれは預言のミニストリーの重要な一面です。 将来に関する預言的啓示が与えられるのは、神と共に歩いた人たちに与えられてきた特別な伝統的遺産であり、これからの時代にとってはますます重要な賜物となります。預言者は旧約聖書では予見者とか見張り人と呼ばれています。それは「見ること」が彼等の仕事だったからです。イザヤ29:10では、預言者は「目」であると言われています。即ち、彼等はキリストのからだの 「目」なのです。預言者がからだの目なのですから、預言のミニストリーのない教会は事実上基本的な部分で盲目なのです。
使徒パウロがコリントの人々に 警告したように、からだの一部分が他の部分にむかって「おまえは不要だ」と言うべきではありません。しかし実際からだの大部分が今までこのように言ってきたのであり、それは預言者に対してだけではなく、他のミニストリーに対しても「おまえは不要だ」と言ってきたのです。
ほとんどの教会は自分たちが盲目であることを知らないかも知れません。なぜならば彼等は動いていず、どこにむかっても進んでいないので、暗いところでもつまずかないのです。しかしながら、そういう教会がもし動き始めたならば、預言的ヴィジョンがなければつまずいてしまうでしょう。まあ、手探りで這いずりながら進むことはできるかもしれません。しかしこれからの時代には、その教会やミニストリー、ミッションが預言的ヴィジョンがあるかないかの差が非常に大きく顕れるでしょう。
使徒行伝2:17−18には、「終りの日」に主が聖霊を注がれることが書かれていますが、その結果はヴィジョン、夢、預言という形で預言的啓示が与えられるということです。これは「終りの日」には必要とされることなのです。なぜならば、終末に近づいている今、私たちはこれまでよりもっと預言的導きを 必要とするようになるからです。(終)
16 01月
イスラエルの二度目の回復
リック・ジョイナー
イザヤ11:11「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。」
これは私の2011年最初の文であり、又、今私たちは神の御声を知り神が教会に与えられた預言の賜物について学んでいるので、今回はクリスチャンが多分一番多く受け取っているメッセージの一つについて話したいと思います。私が最も頻繁にされり質問は、「11−11は一体何を意味しているのか」というものです。時計を見ると丁度11時11分だったことが何度もあるとか、その他のことにおいても、多くの人々が過去何年にもわたって「11−11」を与えられているのです。今年の元旦は1/1/11、あるいは1-1-11でした。これは普通2度目の機会、チャンスを指していて、それが又、イザヤ11:11のメッセージでもあります。なぜならば、神はイスラエルを彼等の地に2回目に回復させることを約束されているからです。
今はイスラエルが台木—神ご自身—に再びつぎ合わされる時
イスラエルがイザヤ11:11のメッセージを受けた時は、彼等の地からまだ一度も散らされたり集められたりしていない時でした。終りの時のしるしについて人々がイエスに質問したとき、主が言われたことの一つは、いちじくの木—これはイスラエルを象徴していますがーをよく考えなさいということでした。イスラエルは際立った預言的メッセージの一つであり、預言者たちは常にイスラエルをじっと見つめ観察しています。
イスラエルは人類のバロメーターです。イスラエルの内や外で絶えず紛争があります。紛争があまりにも長く続いており、人々は平和を強く願うあまりに、 平和が得られるならば自分たちの小さな国土の大半を差し出してもいいとさえ考えるようになってきています。しかし、それは平和を生み出すことにはならず、彼等が差し出した土地は彼等を攻撃する基地になってしまっています。彼等の平和は人間の手によってもたらすことは決して出来ず、神によってしか実現しないものなのです。そして、良い知らせは「平和は神から確かに来る」ということであり、それがイザヤ11章の最も基本的なメッセージです。
神が私たちに与えてくださったものをあきらめて手放すことによっては、平和は決してきません。そうではなく、神が与えてくださったものに「人との平和」以上の価値を見出し、神の目的を命よりも価値のあるものとみなすことによって、平和は来るのです。今はイスラエルが台木—神ご自身—に再びつぎ合わされる時です。彼等がその地に再び集められはじめている時ですが、それよりももっと重要なことは、彼等が主のもとに再び集められるということなのです。
イスラエルは神がご自分の言葉に忠実であられるということのしるしです。エレミヤ31章で主は、イスラエルに対する主の約束が成就されないことがあるとすれば、その前に太陽、月、海の波に定められている法則がまずくずれるであろうと述べておられます。多くの人は、「霊のイスラエル」である教会において神の言葉は成就していると信じています。確かに多くのことに関してその通りなのですが、しかし、神の約束が「肉のイスラエル」のためでもあるということを否定することはできません。主はご自分のみ言葉の多くの箇所で、これらはアブラハムの肉の子孫への約束であることを明確に述べておられます。使徒パウロの「新しい契約の神学に関する最も重要な書簡」、即ちローマ人への手紙の9章から11章を読むと、彼がこのことを断固として主張していることが明かです。この箇所で警告されているように、私たちが「もともとの枝に対して高ぶる」ことは大きな誤りです。(ロマ11:18参照)
今年は失われていたものを回復する時である
イスラエルの国が再び集められることに関して私たちが受け取るべき中心的メッセージは、神はご自分の言葉に忠実な方であるという事です。私たちが忠実でないときでも、主は忠実であられます。そして主は忠実であられる故に私たちにもう一度チャンス を下さるのです。イザヤ11章全体は、地球が最初創造されたようなパラダイスに回復されることについてであり、それは全地球にとって2回目のチャンスなのです。即ち、イスラエルが「2回目に」集められるというのは、この回復が間近であるしるしなのです。イエスが地上におられたとき以来神の民がずっと祈り求めてきた「神の御国」が間近に来ているのです。
今年は失われていたものが回復される年です。多くの約束が成就する年、バックスライドしていた人たちが戻ってくる年です。それは祈り、とりなし、そして多くの場合断食から始まります。ダニエルはエレミヤの預言からイスラエルが彼等の地から散らされている期間は70年であることを知りましたが、彼は「帰る時が来た!」と言ってただ喜んだのではありませんでした。彼は神の言葉が成就するように断食と祈りを開始したのでした。
神が約束されたことが成就するために、どうして私たちのとりなしが必要なのでしょうか? 詩編115:16に「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」と書かれています。主は地上での権威を人に委任されました。それが「私たちが主に願うまで主は地上のことは何もされない」理由なのです。これは又、イエスが人となって地上に来られ仲介者となられた理由でもあり、地上では常にご自分を「人の子」と言われた理由なのです。イエスは神の御子でもありましたが、人が失ったものを回復するために地上に人としてこられたのでした。
ですから、今は神の約束が成就される時だと知ったならば、私たちは祈りと断食をもって天と交わり、「いつも生きていてとりなしをしておられる」イエスと一致してとりなし手となる必要があるのです。(ヘブル7:25参照) イエスは永遠にメルキゼデクの位に等しい祭司であられますが、私たちも同じ位の祭司なのです。この理由により、神の民の持つ最も重要なメッセージと務めとは、私たちが召されているその祭司職を回復することでしょう。(終わり)
Rick Joyner
MorningStar Ministries
Email: info@morningstarministries.org
10 01月
栄光の焦点
スタン・スミス
神は今、どんどんと「オープン・へブン/天が開かれる」という体験を神の民に与えていてくださいます。即ち、イエスのヴィジョンを見る、天使が訪れる、神の栄光にまみえるというような体験です。これらのことは以前にも時々は起こっていましたが、 神は現在、このような体験をもっと頻繁に、そしてもっと多くの人たちに与えておられます。
これはイザヤ60:1−2に書かれていることであり、この世が大いなる闇におおわれる時代に神の栄光が訪れるという約束の成就なのです。今の時代のために神が持っておられる目標、ゴールは、教会が光輝くことです。これを実現させるために、神はご自分のより大きな光を私たちの人生の中に注ぎこんでおられるのです。
私たちの多くにとってこれは今までになかった新しい体験なので、それを誤って解釈してしまう者も出てきます。天使を見た経験をすると、そこからオーバーな期待を抱いてしまう事もあり得ます。また見当違いな見方をしてしまうこともあります。しかし聖霊の賜物を聖書に基礎をおいて解釈しなければならないことを私たちが学んできたのと同じように、天が開くという体験もそれと同じ扱いが必要であることを私たちはこれから学んでいくことでしょう。
私自身が神との出会いを体験してから、私は聖書を新しい目で見るようになりました。それは3、40年前にカリズマ・ムーブメントが始まり教会が聖霊の賜物に対してオープンになった時に私たち多くのものに起こったことを想起させるものです。私たちはそのことが起こる以前に読んでいたのと全く同じ聖書を読んでいたのですが、なぜかそれは新しいもののように思えました。それまで象徴的に受け取っていた聖書箇所が、突然生き生きとして文字通りのものとなりました。
今それと同じような感覚があります。聖書に書かれていることは、私たちが思っていたよりも、文字通り真実であることを今私たちは見出しているのです。
今ここで私は、一つのなじみ深い聖書箇所が 、今教会で起こっている「天が開かれる体験」という光に照らされるときに新しく異なったものに見えることをお分ちしたいと思います。それは私たちが一つのものだけに焦点を当てることの重要さを語っています。分かりやすくするために、この聖句を4つのポイントに分けて書きます。
キーポイント#1:神にあなたのランプを灯してもらいなさい。そうすれば、神があなたを正しい場所に配置される。
イエスは言われます。「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」(ルカ11:33)
誰がランプを灯すのでしょうか? もし私たちが自分で灯すのならば、それが光る場所に私たちが自分で置かねばなりません。神が灯すならば、神が私たちを配置されます。
マタイ5:14で、イエスは私たちは世の光だと言われました。ヨハネ8:12では、イエスはご自分は世の光だと言われました。私たちは主から光をもらわなければなりません。主が私たちのランプに火を灯してくださるのです。イエスが燭台の上にランプを置くと言われたとき、その時それを聞いていたユダヤ人たちは神殿の聖所にある7つの灯皿のついた燭台のことを思い浮かべたかもしれません。聖所の火は何世紀も前に神によって与えられましたが、それを燃え続けさせるためには、祭司たちが灯芯を調え灯皿に油を満たすという務めを遂行せねばなりませんでした。
私たちのある者は神の火を何年も前に受け、それ以後はその火によって自分が用いられ影響を与えられるような場所に自分を配置する事に時間を費やしてきました。私たちのある者は油が少なくなり、その灯芯はくすぶっています。私たちはバーンアウト、燃え尽きているのです。しかし私たちはレビ人ではありません。私たちは新しい契約の保持者であり、イエスは私たちのランプにもう一度火を灯すことができるのです。それは実際にはどのような事を意味するのでしょうか?
キーポイント#2:あなたの目はランプである。あなたが何に焦点を当てるかによって、あなたがどれほど明るく輝けるかが決定する。
「良い目」とは、単純にただ一つのものを見つめる純粋な目のことです。それは私たちが真心をこめて純粋にイエスに焦点を当てるという意味です。イエスは「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いとからだも暗くなります。」と言われました。(ルカ11:34)
何年も前のことですが、私は謙遜になろうと努力しました。しかし、それは勝ち目のない戦いでした。そしてやがて私は自分自身を見るのではなくイエスを見ることを学び始めました。主は謙遜なお方です。主に従っていくうちに私は主のように行動することを学びました。これは助けになることの一つです。
しかし、もう一つ私が謙遜について学んだことは、もし私が自分の心のうちを探るならば、謙遜は不可能になるということでした。ある時には私には謙遜がないことがわかりました。それよりもっと悪いのは、確かに自分には謙遜があることを発見しましたが、それを称賛した途端に私の謙遜はもう消えていくことでした。
何年も経ってから、私は 信仰に関しても同じことを学びました。自分は本当に信じているのかと自分の心を探ると、信仰は逃げていってしまいます。私が自分と自分が祈っていることの不可能さから目を離し、イエスを見上げると、信仰が自然に起こります。私たちがイエスに焦点をあてると、私たちのからだは謙遜と信仰の光で輝くでしょう。私たちが何かイエス以外のものに焦点を当てるときに、問題が起こるのです。
キーポイント#3:イエス以外のものに焦点を当てることは私たちの光を弱める
主にだけ焦点を当てていることは努力のしがいがあることです。間違ったものに焦点を当てるならば、私たちのうちは暗やみで一杯になるでしょう。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」と言われました。 (ルカ11:35)
私たちは全員このようなことを経験してきました。ミニストリーのあれやこれやの様々な問題に焦点を当ててしまうと、私たちの灯火は暗くなるのです。イエスに焦点を当てれば、明るく輝くのです。
時には霊的戦いをする中で、私たちに見えるのはサタンがしていることだけになってしまいます。私たちはダビデのようでなければなりません。彼は自分の肉の目を巨人に向けていましたが、心の目はヤーウェに焦点を当てることによってゴリアテに打ち勝ったのです。
私たちがイエスに焦点を当てるとき、私たちの霊的感覚が開かれます。しかし私たちが他のものに心を捕らわれてしまうとき、それを想像するようになってしまいます。それはちょうど静電気が起こると私たちの(神の御声を聞く)聴覚が妨げられ、曇りガラスを通すと私たちの視覚が曇るのと同じです。神からの指示をもっと明瞭に知るために、あなたの集中力をイエスから逸らすものは容赦なく断ち切ってください。
神はレビ人にウリムとトンミムを与えて民を導くようにされました。この二つの言葉は文字通り「光と廉潔 lights and integrities」
という意味です。光は神が与える啓示です。廉潔は心の潔癖さ、単一さであり、動機の純粋さです。
イエスは父からの光と 一つのことを見つめる潔癖さとで生きておられました。主は当時の「宗教の霊に捕らわれた人たち」に抵抗されましたが、宗教家たちの堕落に焦点を当てられることはありませんでした。そうではなく、主は常に父がしておられることだけをじっと見ておられたのです。主は一つのことだけを見ておられたのです。
キーポイント#4:神の戦術は私たちをもっと明るい光にし、その光を輝かすことの出来る場所に私たちを配置すること。
自分を配置するのは私たちの仕事ではありません。私たちの仕事は主に焦点を当てることであり、そうすれば私たちのからだは光で一杯になります。もしサタンがやって来ても、サタンが「俺のものだ」と言える暗やみを私たちの中に見出すことはできません。
「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかり(ランプ)が明るく輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」ルカ11:36
私たちはイエスをどのくらいはっきり見ることが出来るでしょうか? どのくらい頻繁に? どのくらい一貫して? これが私たちの明るさを決める鍵でしょう。そしてその明るさによって神が私たちを配置される場所が決まります。神が天を開いておられる今、私たちはイエスに焦点を当て続けることに心しなければなりません。いろいろな現象が起こってくるでしょう。使徒行伝に書かれているようなことが。オープン・ヴィジョン、天使からのメッセージ、大きな奇跡など。それらが起こったときはそれを楽しみ、そこから力を得てください。しかし、それよってあなたがイエスから目を逸らせてしまうようなことは決してあってはなりません。主を見つめることがあなたのランンプを燃え続けさせるのです。(終わり)
03 01月
あなたの口を見張る天使
チャック・ピアス、バーバラ・ウエントロブル、キース・ピアスによる預言
主が言われます。「海のようにあなたを覆うことができる多くの祝福をわたしは備え持っています。これらの祝福があなたを覆うから、入ってきなさい! もしあなたがわたしと共に座し、わたしとお茶を飲みながら私に語るならば、あなたはそれを味わい、それを見ることができるでしょう。祝福を味わい、見てごらんなさい。海よりも大きな祝福があなたを覆い尽くすことができるのですから。
今あなたが自分の口を開いて声を発する言葉に気をつけねばならないシーズンに入ろうとしています。わたしは、今のシーズン、あなたがどのようにあなたの口を用いるかをじっと見守っています。わたしはあなたがどのように喜び祝うかを見守っています。わたしはあなたの口を見張る天使を遣わします。
わたしはあなたが自分に必要なものをどのように求めるかを見守るでしょう。あなたは信仰によって必要なもの求めるでしょうか? あなたは礼拝の心をもってそれを求めるでしょうか? それとも自分に必要なものを得るためにあくせくするでしょうか? わたしはあなたが必要なものを得るためにどのような言葉を発するかを見守るでしょう。わたしはあなたが必要なものを得るやり方を今変えようとしています。ですから今週あなたは心を取り乱してはいけません。今週、あなたは言葉を発して、それによって蜜と水が出てくるのを見てごらんなさい。
今は怒りをもって攻撃する時ではありません。わたしは 『語りなさい!』と言っているのであって、『攻撃しなさい』とは言っていません。攻撃するのではなく語るのだということに、よくよく気を付けなさい!もしあなたが攻撃するならば、何も出てこないでしょう。しかしあなたが語るならば、水を注ぎだすことになります。立ち上がってあなたの手で口をふさぎなさい。そして『(主である)わたしが、あなたの中で打ち壊されねばならないものは何であるかをはっきりと口にして、わたしの名によってそれが出て来るようにと命ずる。』とわたしに言わせなさい。
「わたしにわたしの山を与えよ!」
「怒りの感情を持ってはいけません。むしろ喜びを持ちなさい。あなたの感情は適切に表現されねばならないからです。あなたの置かれている状況のただ中であなたの感情を涌き上がらせなさい。そしてその岩にむかって語りかけ、その山にあなたが勝ち突くと告げなさい!
「わたしは今の時、カレブの世代を起こそうとしています。カレブは『わたしの山を与えてください!』と言いました。彼は山にむかって語りかけ、彼の所有物となるように山に命じました。カレブのように語ることができ、わたしが彼等のものとなるとすでに告げたものを獲得してゆけるカレブの世代をわたしは今立ち上がらせています。今までのシーズンでは、つぶやいたり文句をいうだけで主が約束されたものを手に入れずに終っていた世代であっても、彼等は『今だ!』というでしょう。今の時、わたしはカレブの世代を起こします。わたしが『これは彼らのものだ』と宣言したものを彼らは獲得していくのです。カレブのように、『これは私のものだ、私の所有物だ』と語り宣言しなさい。この世代は立ち上がり主の備えられたものを宣言し勝ち取っていかねばならないのです。」
あなたの現状をよく考えよ!
先週の日曜日に主が私たちに、ハガイ書から明確に語ってくださいました。ハガイは復興の預言者でした。彼は人々に向かい、彼らが始めた事業を完成させなさいと叫びました。ハガイという名には、「お祭りのような」とか「祝祭の」という意味があります。今のシーズンのための「タイミング」「復興」「祝い」に関して理解を得るためには、ハガイ書が一番ふさわしいものです。私たちはハガイ書を7日間読んで聖霊からの洞察を受けることにしました。
これはリンダ・ハイドラーがハガイ書を読んで得た洞察です。
人々は神を中心とし神の臨在が留まる場所を立てるということを最も優先することを忘れおろそかにしていました。ハガイ1:5には「今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。」とあります。「 consider よく考える」という言葉は3つの言葉から成っています。「consider よく考える」には、「指定し、呼びかけ、言明し、定め、決意する」という意味があります。これはこころ(heart)の状態をあらわす言葉です。「heart」とは実際の身体の器官でもあり、また人間の一番深いものを表す言葉でもあります。「consider」のもう一つの言葉の意味は「越えて、上に、むこうに」という意味です。
この「あなたがたの現状をよく考えて見よ。」という箇所を見ると、これは「あなたの心を現状よりも高いところに呼びなさい。今あなたがしていること、生き方、あなたが選んでいることに関しての理解と認識を、もっと高いレベルにしなさい」という意味です。あなたは物事をまわりの状況からだけの低いレベルで見ているかもしれません。ですからもっと高いレベルの理解を持たねばならないのです。あなたの持つ将来への見通しは小さく限度があるものかもしれません。これがあなたの人生で起こっている事柄の全貌を見えなくしている可能性があります。神があなたのうちに始められた神による最高の計画・目的(目標)から、あなたのプライオリティー、優先順序がずれているかもしれません。
欠乏があなたを盲目にすることがあります。間違った将来への見通しは、あなたの欠乏の本当の理由を見えなくしているかもしれません。問題は食べ物や着るもの、お金がないということではなくて、あなたの心が天国の目的ではなく地上の低いレベルに置かれていて、神のことではなく地上のことに心が奪われているところにあるのです。あなたの心をもっと高いレベルに引き上げてください。あなたの心を神とあなたのために用意された神のご計画の上に定めてください。
今月は遅れを取り戻す月であることを忘れないでください。もし私たちが主を毎日求めるならば、御国の祝賀の集まりセレブレイションに間に合うでしょう。
私は妻のパムに何か書くように頼みました。以下が彼女の書いたものです。
私の思い出
パメラ・ピアス(注:チャック・ピアスの奥様です)
1968年は嵐のような年でした。ベトナム戦争が激しくなっていました。マルティン・ルター・キングやロバート・ケネディーが暗殺され,ソ連がチェコスロバキヤに侵入し、リチャード・ニクソンがアメリカ合衆国の大統領に選ばれました。
その年は私の家族にとっても別の意味で意味深い年でした。ベトナムでの戦争が激しくなり、私の養父であるクリント・ヒューズ軍曹はタイのコラット空軍基地に遣わされ、養母のベティーはニューハンプシャーの家に4人の子供と共に残されることになったのです。それで私と養母との小競り合いは休戦に入らざるをえなくなりました。
私と妹のパウラがベティーおばさんとクリントおじさんの所に行き一緒に暮らすようになったのは1965年のことでしたが、それは一時的な処置のはずでした。以前にも母がアルコール中毒と精神病で施設に収容されたので、私とパウラは親戚に預けられたことがあったのです。しかし今回は状況が少し違うことが私たちにもわかりました。この時、私たちの父(社会的には機能できるけれどもアルコール中毒でした)は、遠いニューハンプシャーに住む私たちが今まで一度か二度しか会ったことのない親戚に私たちを送ったからです。
初めのうちは、すべてうまく行っているように思われました。私はホワイト山脈を見渡せる自分の部屋を与えられました。私たちが住んでいた農場は深い森や草原、所々に突き出ている岩、清く冷たい小川のあるパラダイスでした。ずっとロスアンジェルスとヒューストンの市街に住んでいた私は、この田舎暮らしに大喜びで飛び込んだのです。
しかし 私が好むと好まざるとにかかわらず 、言われたことをしなければならない状態であったことから、問題は起こり始めました。クリントおじさんがイギリスのポーツマスの空軍基地に行っていたとき、私はベティーおばさんが私に頼むことにことごとく反抗しました。困り果てたベティーおばさんは、ついに私を里子に出すことをおじさんに相談しました。パウラは言うことを聞くとても良い子だったのでそのまま居ていいということでした。
クリントおじさんが私の救出に乗り出してくれたのはその時でした。他人の家に私を預けるかわりに、おじさんはこう言いました。「私にパムを任せてくれ。どうなるか見てみようよ。」と。それで私は1965年に空軍軍曹であるおじさんの「新兵訓練部隊 ブートキャンプ」に入隊したのです。それは私の人生に起こった最良のことでした。次の2年間、おじさんは気ままでしつけのなっていない赤毛のわがまま娘の私を訓練し、役に立つ家族の一員へと変えてくれたのです。おじさんは朝食用のパンの作り方や、家畜の世話の仕方、自分より上の権威を尊敬する事、人に仕えることを教えてくれました。目的を持ち役に立つ人間になることが、どれほどすべての事を変えることが出来るかを、おじさんは教えてくれたのです。
1966年の春、私の実父が亡くなり、実母は親権をおじさんとおばさんに譲りました。私とパウラは養女となり、私たちの苗字はローリーからヒューズに変わりました。それ以後は私を里子に出すという話は全く出なくなりました!
父(おじさん)が1968年の初めにタイに出発する前に、 部屋の隅に私を連れて行って二人だけで話をしました。
「パム、私がいない間、お母さんを助けることを頼んだよ。」と厳かに言いました。「毎朝、お母さんが起きる前にコーヒーを沸かしてパンを作り始めるんだよ。」
「はい。お父さん。」と私はうなずきました。
「それから、お母さんと言い争いはもうしないように。お母さんが頼むことを素素直に聞くんだよ。そうすれば大丈夫だからね。私
がいなくなるのはお母さんにとってとても辛いことなんだからね。わかるだろう。」
お祝いをすることの大切さ
父がいないことは私たちみんなにとってとても辛いことでした。しかし、感謝祭が近づいて来たとき、私たちは東南アジアからのよい知らせを受け取りました。父が11月に短い休みをとって家に帰ってくるというのです。もっと長くいて欲しかったのですが、その短い期間を最高のものにしようと私たちは決意しました。
そしてその年、私たちはクリスマスを感謝祭のときに祝ったのでした。妹と二人の兄弟、そして私の4人は、家の後ろにある森までそりで行き、樅の若木を切り倒し、雪の中を家まで運んで来ました。その夜、私たちは感謝祭ツリーの飾りつけをしました。木曜日(注:感謝際は11月の第4木曜日)の夕食後、みんなはピアノの回りに集まってクリスマス・キャロルを歌いました。父にクリスマス・プレゼントを渡し、本当に12月25日であるかのようにお祝いをしました。次の日、父はタイにむけて出発せねばなりませんでした。
私たちは神様のスケジュールに合わせてお祝いをしなければならない時があるのです。そのような時は自分たちの計画を横に置いて、父なる神のご計画通りに従わねばなりません。神のタイミングは完全であり、神はお祝いすることの大切さ、価値を、私たちにはとても理解できないほどに分かっておられます。神のカレンダーは常に正しいのです。(終わり)