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Walk With God Ministries


19 11月

2011年以降は「愛に駆られた信仰の力」の年 マンデイ・マーティン 11月20日


2011年以降は「愛に駆られた信仰の力」の年

マンデイ・マーティン


乱気流の中に入ると「愛に駆られた信仰の力」が起こり、イエスを愛する人たちを燃え上がらせます。過去にリバイバルが起こったときも常に、最初に自分の名声を主の十字架にかけ、その時代の人たちの魂の救いへの止まない(熱烈な)愛をもって立ち上がった人たちがいました。

最近、ウエールスからアメリカに帰る飛行機の中で経験したのですが、途中でものすごい乱気流に出会いました。飲み物は揺れ動き、人々は回りを見回して心配し始めた頃、機長からの放送でシートベルトの着用が発令されました。

私はそのとき私のiPodを通して礼拝の歌に心を傾けながら神の栄光に浸っている最中でしたが、「愛に駆られた信仰の力」が私のうちに強く起こりました。そこで私はすぐ隣席の友人チャールス・シャンプに目をやり「私たちは今神の至福の平安Shalom
of Godの中に入って(激しく揺れ)最高潮に酔いしれている。」と声をかけところ、彼は私の言い様に対して笑いで答えました。その後突然、私は300人の乗客に向かって大声でどなったのです。「乱気流よ、ストップ!感謝します。」

それを聞いた人々は最初、私を少々頭がおかしい(おどけた)男とでも思ったのでしょう、私に向かって笑いました。しかし直ぐシーンと静かになったのです。なぜかと言えば、私が叫んだとたんに風が吹き止んだかのように揺れが止まったからです。そして飛行機は着陸するまで二度と揺れませんでした。飛行機が着陸した後、私は人々にイエスの力が風を静止したのであることを証ししながら、神に栄光をお返ししました。

「主の臨在のとりこになった真のイエスを愛する人たちが、今私たちが生きている時代を動かす」と言うことを主が私の心に入れて下さいました。今までは「恐れの風」が世界の人々を(超自然ではなく)全く普通に生きるようにしばって来ましたが、これからは、今出てきている神の人々が受けている「愛の力の風」がそれに取って代わるのです。このような風の変化に完全に従おうとしている人の前に立ちはだかるのはむなしい(頑なな)宗教(の力)です。


愛に駆られた信仰の力

力強いミニストリーとか教会においてさえ、人々は、人間的な伝統と宗教の霊に隠れて、聖霊の助けに頼るのではなく、自分自身で自分の帝国を築き上げようとしています。ですから、それらの教会の建物の外は、メデイア、音楽、麻薬、アルコールが惹き起こす超自然的現象に魅されてたむろする死にかけの魂で一杯です。彼らはこれらのミニストリー帝国の内側で吹いている「愛の力」こそが、どうせ中毒になるなら、もっともよいものであることを知らないのです。このポスト・モダンの社会に生きる人たちは、キリストとは何のかかわりもなく生きているのです。
幸いなことに、愛の戦いが今起こっていて、聖霊にフルに占有されることを選んだ人たちが、その人格と誠実さをもって世の中の潮の流れの向きを変え、麻薬文化とメデイアに踊らされている社会に変革を起こそうとしています。

今人間的・政治的であることに留まるか、あるいはすべてを聖霊に明け渡して、燃えるような愛の火によって勝利の平安と神にある喜びを勝ち取るか、その中間で迷っている教会を、神の霊がこれから来て圧倒しようとしています。そして宗教の霊が今取り扱われつつあります。神は私たちが神学的知識を持つから動かれるのではなく、むしろその逆でさえあるのです。昔の初期教会の聖徒たちは、使徒の神学(新約聖書)を入手できるようになる前には雅歌に熱中していたということが知られています。彼らに取っては雅歌がバイブルであったのです。なぜなら、この書全体が花嫁に対する花婿の親密な愛について預言的に書かれていることに彼らは気が付いたからです。

多くの初期教会の聖徒たちは、そのような超自然の力をもって歩きこの世を変えましたが、それと同時に、大変な迫害も受けたのです。あなたは最近迫害を受けたと感じたことがありますか?
今ここに、神の恩恵の時が到来しました。主の教会として愛による信仰の力が増しつつあるのです。過去十年間に撒いてきた種が育ち、これからの十年間でその実りが刈り取られようとしています。しかし同時に、神の正しいさばきもなされ、それが私たちをみな驚かすでしょう。神からよい「さばき」をいただくためには、先ず諦めることを拒否する信仰がなければなりません。御ことばと霊による真の教会があらわれ、信じることが先に来なければなりません。


神の家にいて神を愛する愛人たち

イエスはルカ18章に出てくる不正な裁判官のたとえ話の最後を次のように締めくくっています。「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)


神はこれから町の人々がよい行いをするかしないにかかわらず町に来られます。それは主のからだに信仰が立ち上がるからです。社会を変革する主の愛人たちが主の家のワインを飲み始めたからです。雅歌2:4を直訳すれば「彼はわたしを酒宴の家(主の家)に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。」です。

エペソ3:14-19にはこのように書かれています。「 こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」


クリスチャニティーは今、教科書から大きくはみ出そうとしています。もう理論でも観念でもなく、単なる人間のモラルをとやかく言うクラブでもありません。イエスが愛人のところに帰ってくるのです。「どうかあの方が、その口のくちづけをもって/わたしにくちづけしてくださるように。」(雅歌
1:2)の時です。


父よ、今爆発的に広がって行く超自然の愛の革命が起こされていますことを感謝します。それはいかなるミニストリーの人間的な努力に基づいて、導かれ、助けられ、整えられたものではない(ことに感謝します。)

神の栄光が現れる時リバイバルを起こそうとする人間の努力は神の栄光に踏みつけられ、キリストの勝利の再臨の前にすべてのものが回復されることでしょう。栄光の雲が主の家を満たします。聖徒は今全面的にイエスを外にあらわす時です。多くの人は、いずれにしても私たちのやっていることはクレイジーだと思っているのですから、今こそすべての人に愛をもって、イエスを全面的に押し出そうではありませんか。「もし彼らがわたしを迫害するなら、あなたがたおも迫害するでしょう。」と言われたイエスの御言葉を今自分のものとすることが出来るならば、私たちは大丈夫です。

ホーリネスとは、古い時代のパリサイ人のように自分はホーリネスとしてのエリート・ステータスを獲得したと誇らしげに自称する人たちのことではないことを覚えておいてください。そうではなく、単純に言へばキリストの十字架の御業を(心から)祝う信仰者のからだのことです。彼らは信じていることを自らがあらわし、愛に駆られた信仰の力を通して神の栄光でこの地球を満たすのです。

ヨハネ 7:38に書いてあります。「 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

あなたの教会とあなたの町が天によって裂かれるのを待つのではなく、あなたの中から砕かれた教会、砕かれた町が出ますように。そうです、主よ。アーメン(終わり)


原文はNov.18, 2010,  Munday Martin “2011 and Beyond: The Year of the
Faith Force Driven by Love!”
http://www.elijahlist.com から取りました。

 


08 11月

私たちは神の同労者 ビル・ジョンソン 11月9日


私たちは神の同労者

ビル・ジョンソン

 

 

すべての願望desire には父がいる

 

英語のdesireと言う言葉を分解しますとdeがofで sireがfatherですから、all desire is “of father” 「すべての人間の願望は父のもの、父に属する」と覚えておかれたらよいと思います。となると、私たちのすべき質問は「私の願望は神からのものか?」である前に「私は誰と親しく交わってきたかcommunion?」であるべきです。私たちは神と親しい交わりが持てると同じように、敵とも親しい交わりの関係が持てるからです。

 

数年前に私はある人からひどく侮辱を受けたことがあります。それを思い出した時、神がその人を裁いてくれたかどうかに考えがいくのであれば、その人に仕返しをしたいと言う願望が私の心をかき立てます。どうしてでしょうか?それは、私が苦々しく思うことの父と交わってきたからです。そのような願望は、私の心の中でその父の子どもとして存在してきたのです。

 

悪と交わることが私たちの心に悪い思い(願望)をつくりだすとすれば、神と交わりを持つことが、私たちの心にどれ程永遠の思いと究極的に神に栄光を返したいという願望をつくりだすと思われますか。これで気がつくことは、このような願望は命令されて出てくるものではないと言うことです。それは神と交わりを持つから私たちの心にそのような思いが出てくるのであって、これらの願望は神との交わりの関係によって生まれてくるものです。

 

この本を書いた主な目的は、クリスチャンが神と本当に親しい交わりを持ち、その交わりの中で生まれた願望で生きることをみなさんにお教えし、そのよな生き方をお勧めしたいからです。多くの信者は、自分の願望(欲望)というものの価値をうんと割り引いて、あまり値打ちのないものと考えています。そして、自分が神にすべてをささげていることを実証しようとし、自分の欲望はすべて自動的に否定し排除しようとします。それは確かに宗教的にアッピールします。しかし、自分をなくそうとするセルフレスなアプローチが行過ぎると、「自分のしたいこと」が神の御心である場合(神から来たもの)でさえも否定しようとします。こうして実際に、神とは、信者に夢とそれをかなえる力を与える父であるという事実を否定してしまうのです。

 

多くの人は、神の御国に入ることと神の国での生き方との違がよく見えていません。私たちは「自分の思いではなく、神の御心がなされますように」と言いながら、まっすぐで狭い道を通って御国に入ります。入り口は一つイエス・キリストです。真のいのちを見つける唯一の道はキリストにあり、自分を完全に主に差し出して中に入るのです。

 

しかし救いの狭い門を通って入った後の神の御国の中での生き方は全く違うのです。この中に入ってからは、主は私たちに「わたしはもはやあなたがたをしもべとは呼ばない・・・あなたがたを友と呼びました。」(ヨハネ15:15)と言われるのです。そしてその意味において「何でも欲しいものを求めなさい。あなたがたのためにそれがかなえられる。」(ヨハネ15:7)と言われたのです。

 

ここでの強調点は「何でも欲しいもの」にありますが、確かにイエスの言われることには重要な前提があることをよく理解しなければなりません。さもなければ、キリストを信じる信仰告白をさせることによって、もっと多くのセルフィッシュな人を造り出すことになりかねません。

 

十字架がよみがえりの前に来るように「自分を捨てて主の御心に従う」ことが「神が私たちの欲しいものをかなえてくださる」ことの前に必ず来なければなりません。

しかし、そのことの強調のし過ぎは別の危険性を生み出します。「自分を捨てること」を強調し過ぎると、クリスチャンは自分の願望が全く叶えられない者であると誤解されてしまい、それでは、この地上において私たちが真のキリスト(の福音)を正確にかつ効果的に伝え広めることが出来なくなります。

 

いのちの木

 

箴言13:12に「・・・望みがかなうことは、いのちの木である。」とあります。これはソロモン王が書いたと言われますが、まさにこの世で「望みがかなった」ことの例としてソロモンの右に出る者はいないでしょう。ソロモン王は「思っていた(心に願っていた)すべてのことを見事に実現した。」と2歴代誌7:11に書かれています。勿論、ソロモン王の人生の後半で彼が神に不従順な生き方をしたことの結果から学ぶことも出来ますが、それ以上に、彼の最初の頃の神への従順な生き方を喜ばれた神が、彼の望みのすべてをかなえられたという事実からこそ、私たちはより意義深い教訓を学ぶことが出来ると思います。

 

ソロモンの物語から創世記(エデンの園)にあるいのちの木とアダムとエバが持っていた永遠のいのちとの関係が思い起こされます。ここでキリストを信じる者がいのちの木によって「すべての望みがかなえられる」経験をすることが書かれています。キリストにおいて「すべての望みがかなえられる」ことの味を知った人は、永遠のいのち(を生きること)の前途perspectiveとそれが意味するアイデンティテイーが見えてきます。自分を捨てること、個人的トランスフォーメーション、自分の望みがかなえられること、という三つのプロセスが、私たちがキリストと共に永遠に支配するための訓練の場となるのです。

 

ヨハネ16:24で主は、私たちの望み(祈り)をかなえたいと言うお気持ちから「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われました。

道理で今の教会には喜びがありません。私たちの回復された心で祈る私たちの祈りが、地上において私たちが参加する神のご計画をあらわすのです。そして、その祈りが神によって聞かれて、かなえられる時に私たちに喜びが来ます。特に、神の超自然の力を必要とする祈りの場合には、それがかなえられた時の私たちの喜びは大変に大きいはずです。

 

喜びに満ちたハッピーな人たちと一緒にいることは楽しいことです。ですから、イエスは罪人たちの友達仲間であると言われ(ルカ7:34)彼の周りにいる人たちと大いに喜び楽しんだことがうかがい知れます。いつも毎日、イエスは一緒にいる人たちと、祈りが天の父によってかなえられる日々を過ごしたのですから、その喜びは特別に大きなものであったのです。イエスの喜び方は極端なものであったと言われますが、主の喜び方は、「叫び、飛び上がって喜ばれた」と書かれています。

そのようなイエスの近くにいるだけで喜びに満たされるのです。イエスを懐妊していたマリヤが近づくと、バプテズマのヨハネは彼の母親の胎内で喜び踊りました。

 

マルコ11:24に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と書かれていますが、私たちは祈っているときに神の臨在に満たされます。そのような臨在の中で浮んで来る願望に私たちは心を留めるべきです。主と深く交わっている時に何かが起こり、主が私たちの夢想したり願ったりする能力にいのちをくださるのです。主のご臨在に出会うことによって、私たちの心は新しくされ、その完璧にされた心のキャンバスの上に主が絵を描かれます。

神の地球におけるマスター・プランを具体化するために、私たちは神の同労者(一緒に働く者)co-laborersになるのです。私たちの持つ夢は神から独立したものではありません。むしろ神ゆえに存在するのです。神はご自身のご計画を設計し、それが「天で行われるごとく地でも行なわれる」ように私たちに示され、私たちがそれを実行して実現に至らせるのです。

 

私たちが主とより親密な関係を持つようになると、私たちの人生で起こることの大部分が、私たちの願望が実る結果として起こるようになります。それは単に天からの具体的な命令を受けてそれに従った主への従順の結果から起こることを超えたものです。神は私たちの望みとか願いを建上げていくことを好まれる方であるからです。

 

このクリスチャンのデスティニ-(究極の生き方)は、イエスの血潮が私たちにそのような生き方を可能にしてくださったずっと以前にダビデによって下記のように言い表されました。

 

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇37:4)         (終わり)

 

[訳者注:このメッセージはビル・ジョンソン師の著書Secrets to imitating God「神に似る者になるための秘訣」から抜粋要約したものです。]


07 11月

ココ・クレーター 植物園  11月8日 



 

 

ココ・クレーターは私たちのマンションの直ぐ前500Mの処にあるココヘッド山の真ん中が火山の噴火で大きくえぐられて出来た噴火口で、その中に植物園があります。そこまで行くのに車で裏側に廻らねばなりませんので約10分位かかりますが、ここは観光客も少なく私たちはよく散歩がてら出掛けます。入場料只で、中を歩くと一時間弱位で廻れます。今回はほんの一部をご紹介しますが、ここの見せ物の一つはたくさん植わっているプルメリア林です。

今朝散歩がてら柚実子と久し振りに行って来ましたが、今は冬でプルメリアの木にはほとんど花がついていません。遠くに歩いて行くのは柚実子ですが、この木がかなり大きなものであることがお分かりいただけると思います。(マウスで写真をクリックすると写真が大きくなります。+印の時に押すともう一つ大きくなり、ー印の時に押せば小さくなります。)

 

満開に近いプルメリア

左上の写真は昨年春に撮ったものです

左下の花が典型的なプルメリアですが、その下の花は私の好きな黄色のプルメリアです。春先花が咲き始めるととてもよい香りがこの植物園一体にただよいます。ハワイではこの花びらをレイに使うので最も重宝がられる花の一つです。

 


02 11月

ダビデがエルサレムを勝ち取った時 フランシス・フランジペン 11月3日


ダビデがエルサレムを勝ち取った時

フランシス・フランジペン


教会が犯す大きな間違いの一つは、自分たちが持つべき信仰と目標の基準を、自分たちの(先人の)過去のやったことを基準に置いてしまうことです。イエスの再臨までに未だ多くの約束が成就されねばなりません。聖書は終わりの日には困難な時代がやってくると言い(2テモテ3:1)、又リニューワルと回復の時も来ると書かれています。(使徒2:19-21)
これから起こる世界的な闘争の中で、地上における神の御国は天の御国に一致したものとなるまで、更新・回復されていかねばなりません。多くの実りと神の栄光と力が発揮されていかねばなりません。そのために、私たちが獲得することが出来なかった色々な約束は私たちの子どもたちに与えられると信じることも大切です。


そのことに就いて、ダビデ王の生涯から私たちは励ましと導きを得ることが出来ます。彼の時代は今の私たちの時代に似ています。へブル人は約束の地にいましたが、そこには未だ打ち勝っていない敵が共存していました。ダビデが王に就任すると、彼は自分たちがそれまでに勝ち得た以上の主からの約束が未だになされないまま残っていることを知っておりました。特に、エブス族が今のエルサレムの地を占領していること、これを打ち負かすことが残っていました。ダビデがもし、彼の先人たちの成功(不成功)の成果を自分の標準に当てはめるとしたなら、ダビデはエブス人を襲うことを企てなかったでしょう。エブス族は山地に強い獰猛な民族であるという定評があったからです。今までこの民族は倒さねばならない相手のリストに載ってはいたのですが、誰も倒してはいませんでした。


考えてみてください。ヨシュアから士師記の時代を通してイスラエルには偉大なヒーローは多く出ましたが、誰もエブス人を征服していないのです。ですから、ダビデが彼らの要害であるエルサレムを乗っ取りに来ると聞いて、彼らは軽蔑を込めて「あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる。」(2サムエル5:6)とあざ笑いました。


ここで二つのことが学べます。一つは、神が約束されたことは実現されねばならない(必ず実現する)と思う人は誰でも、過去の例から見てそれは無理であると恐れてはならないと、主が言われていることです。すなわち、あなたが今まであなたの教会とか都市とか国において神の力があらわされていないからと言って、神が一夜にして事態を変えることが出来ないと思ってはならないと言うことです。
二つ目は、私たちが打ち負かされるとすれば、それは多分悪魔自身によってではなく、不信仰なクリスチャンの神の導きではないアドバイスに起因する可能性が大きく、これに気をつけなければならないと言うことです。エブス人の嘲弄を思い出してください。「めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる。」と言ったのです。
私たちは霊の悪き者に対してはしっかり立てる信仰を持っているかもしれませんが、教会で私たちのすぐ隣に座っている霊的に目の見えない人やあしなえによって打ち負かされることにこそ気をつけねばならないのです。
「霊的なめくら」とは誰でしょう。端的に言えば、あなたの持つビジョンが見えない人たちのことです。神があなたの心に入れてくださった「将来に目が向いている信仰」にめくらになっている人のことです。そのような人があなたの霊的カンセラーになることを許してはいけません。気をつけてください。多くのクリスチャンがそのような「霊的めくら」の人たちに(意外に)同情的・同調的なのです。僅かであっても彼らの不信仰のパン種が、必要で重要な戦いの時にあなたの信仰を弱らせるのです。


霊的めくらと共に感情的あしなえが挙げられていますが、この人たちは過去に何か(あるいは誰か)によってつまずいた人たちです。彼らはもはやキリストと歩調を合わせて歩いていない人たちです。皮肉屋と言われる人たちとあなたの夢を分かち合うことに気を付けてください。そのような“感情的あしなえ”の人の警告を聞いていると、彼らの言い訳が私たちの(霊的な)力をそぐことになるのは時間の問題です。私たち自身も必要以上に慎重になり過ぎ疑い深くなります。私たちは他のクリスチャンからのカンセリングが必要ですが、又、私たちは常に人を赦すこと、そして私たちに反対する人たちにもやさしい態度でなければなりませんが、霊的に目が見えない人と感情的あしなえの人が私たちのガイド役となることを許してはなりません。


私たちの世界での真の敵は、人ではなく、社会に悪い影響を与える霊的な力(フォース)です。覚えておいてください。もし私たちが「あしなえ」とか「目が見えない」のであればイエスが癒してくださいます。しかし、事実先程のエブス人のように、サタンは私たちの以前にいたクリスチャンの多くの失敗を見張っています。町全体とか国家的リバイバルのために牧師やとりなし手が祈るときに私たちは悪魔の冷笑とさげすみに気がつくことがあります。この悪魔の侮蔑に実質的な力がないのではありません。


一般的に言って、私たちの霊的祖先たちはその町の悪の要塞を取り崩すことに成功していなかったのです。と言うことは過去の歴史はまさに悪魔側に有利なのです。しかし神は私たちに、他から影響を受けて変わったりしない不変な御ことばを下さっています。それが神の約束です。


「この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバカク2:3-4)


「信仰で生きる」とは、神から与えられたビジョンが実現するまで神を信じ続けることです。歴史がエブス人側に味方しているにもかかわらず、私たちは読みます。「しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町(エルサレム)である。」(2サムエル5:7)


エブス人に勝利するというゴールを持ち続けることに、実はダビデは彼の若い頃から心引かれるものがあったようです。聖書によれば、ゴリアテを殺した後、彼はそのペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰ったと書かれています。(1サムエル17:54)当時エルサレムはエブスと呼ばれ、エブス人が住んでいました。ダビデはあたかも彼らに「よろしい。私は今はただの若者だ。しかし私はこのペリシテの巨人を征服した。よく覚えておけ。私は必ずあなたたちのところに帰ってくる。」と言っているようです。20年足らずの後、ダビデはイスラエルの王となって帰ってきて、ゴリアテと同じようにエブス人の要塞を征服したのでした。そしてその町エルサレムを「ダビデの町」と命名したのです。

これは私たち自身ではなく神の御ことばが実現・成就したというお話です。神のことばが成就せずに終わることは決してありません。ダビデはエブス人の侮蔑のことばに不信仰によってひるむことはありませんでした。彼の先祖の失敗の歴史に信仰を失うこともありませんでした。そうではなく、-これが重要なのですが-ダビデは、エブス人との戦いは神の約束のための戦いであると信仰で理解したのです。それは主がアブラハムに約束したように「あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」(創世記22:17)の実現でした。ダビデは神の約束は絶対に彼を味方すると信じて行動したのです。


キリストを通して地域社会に神の圧倒的な影響力を及ぼして都市を勝ち取っていくことはアブラハムの霊的子孫が受け継いだ世襲財産であるのです。これは私とかあなたがが言っているのではなく、全能の神の約束です。神がそう言ったのであり、それを神が果たされるのです。神の民は彼らの敵の門を勝ち取り占領します。私たちの住む都市を、私たちよりも悪魔の方がより強く保持したいと望むのであれば、それは私たちクリスチャン教会にとって非難されるべき恥かしいことです。エルサレムをダビデが望んだのは神から出た願いでした。それはキリストから来た願いです。神の町になるためなのです。


ダビデは単純に神の約束を信じたのです。私たちもそうでなければなりません。主は「もろもろの国はあなたの光に来る。」(イザヤ60:3)と誓われました。
私たちは誰を信じるのですか?霊的に目が見えない人の助言ですか、それとも神が言われた約束をですか?イエスご自身が言われます。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)
あなたは信じますか?それとも、あなたは単に教会に集う良き不信仰者ですか?


もし私たちが失敗したら、大恥をかくのではありません。私たちは霊的ヒーローであった私たちの先人たちの仲間入りをするだけです。私たちの先人とは「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでした・・・」(へブル11:13)と言われる人たちでした。確かに、疑いを持って生きるよりは信仰を持って死ぬ方がよいでしょう。
しかし、考えてみてください。もしも町を勝ち取ることに成功するとしたら、どうなるでしょうか?私たちが神を信じ切るプロセスにおいて、主がキリストの忍耐強さとそのご性質を私たちに分与してくださり、その中において、主が私たちを助けて私たちの地域を主にお返しすることを実現させてくださるとしたら、どうでしょうか?
主は諸国の民が私たちの光であるキリストに来ることを約束してくださいました。それなのに、私たちが先人も出来なかったのだからと、先人の失敗を例に取り、信仰で戦い取る努力もせずに気迷う私たちの信仰のなさをどうぞおゆるしください。

私は今、主が私たちの国に偉大なことをしてくださると信じます。ダビデが信仰によっで偉大な町エルサレムを果敢に勝ち取ったように、私たちもダビデに従い、あなたの約束が必ず敵を敗北に追いやることをイエスの名において信じます。アーメン(終わり)