29 09月
まことの愛は私たちをあるべき姿に完成する
グラハム・クックまことの愛の真髄は、人々を自由に解放することにあります。愛と自由に関してのまことの知恵は「あなたが何かを愛するならば、それに自由を与えなさい。(開放しなさい)もしそれがあなたに戻ってこなかったならば、初めからそれはあなたのものではなかったのです。」ということです。愛は自由を求めます。また、信頼される必要があります。 私たちが恐れずオープンに愛することを学ばなければ、私たちの愛の対象は私たちとの関係に問題(プレッシャー等の)を感じ苦しむでしょう。
愛は人々が彼らの人生とそのアイデンティティーを見つけるための冒険、探検に出かける許可を与え、その途上で間違いを犯すことをも許可するのです。私たちが何かを初めてする時には、それをしたことがないのですから、失敗したとしてもそれは間違いではありません。私たちはすでに起こったことからしか学ぶことができないからです。失敗したとき、私たちはそれから学んだことを自分に適応させ、もう一度やって見るのです。
もし学んだことを自分に適応しないで、同じ事を繰り返し同じ結果になったとすれば、それは明らかに間違いを犯したことになります。もし同じ事をし続けるならば、そこに一つの行動パターンが出来てきます。そのパターンを繰り返すならば、私たちにはあがなわれなければならない歴史が出来上がってきます。その歴史と行動パターンとは違うものです。行動パターンは原因であり、歴史はその結果です。人間関係において、行動パターンは間違いを犯した者の責任ですが、それが作り出した歴史をどのように処理するかは被害者がコントロールすることができます。
人を赦すことは私たち自身のブレークスルーにとって大変重要な部分です。ですからまず第一に私たちは自分のために人を赦さねばなりません。しかし私たちは無理矢理その人を赦すように強要されるべきではありません。多くの場合、赦しはそれ自体が一つのプロセスとしてやってきます。赦しなくしては信頼関係もなく真の愛の表現も不可能です。 しかし赦さなければ恥となると云ってまでその人に赦しを強要するべきではありません。もし赦すことがすぐに出来ないならば、それは傷ついた側に癒される必要があり、それを目的とした(そのための)プロセスであるということです。愛はその人のすべてが癒され、あるべき完全な姿に回復することを望むからです。
時には(間違いが積み重なる)その歴史は比較的簡単に赦すことができるかもしれませんが、私たちはその人の行動パターンが変るまではそれにつきあって暮さねばなりません。もしそれが変らなければ、歴史は繰り返され、その人との人間関係はまた振り出しにもどります。人がその行動パターンを変えるためのステップを確かに踏み出さないならば、信頼関係が失われます。
信頼には、「与えられる信頼」と「 自ら取得する(勝ち取る)信頼」とがあります。「与えられる信頼」とは傷つけられた人が傷つけた人に与える(ことができる)信頼です。「取得する信頼」とは傷つけた者が、良心の呵責の重荷により(悔い改めに導かれ)その後の行動を変えることによって自ら勝ち取る信頼です。どちらが先かは問題ではありません。その状況の中で「自分はどのような人間になりたいか」ということは両者に委ねられていて、それに対してはそれぞれが自分で責任を負わねばなりません。両者が同じ時点から出発する必要はありませんが、両者がそれぞれに成長したあかつきには、やがてもう一度結びつくことが可能です。 すべて人間の状況は一つとして同じということはありません。
私たちが自分の行動パターンを変えるのは、ただ誰かを取り戻すためだけのためではありません。それは私たち自身が変えられた人間になることを選びとるからです。つまりこの変化は先ず第一に自分自身のためでなければなりません。そうでなければ長続きはしませんし、よい態度とその継続が試されるテストに合格することもできないでしょう。すべての人間関係は、様々な出来事によってテストされますが、それこそ私たちが 愛、忍耐、慈しみ、忠実、信頼において成長する道なのです。
私たちが自分の行動を改めていくためには、 次のような愛をもってなされる質問が助けになります。ですからこれは自分にも又、他の人にも聞いてみるべき質問です。
あなたの中の何がこのような行動をあなたに取らせると思いますか?
私(彼、彼女、彼ら)の中の何があなたにこのように行動してもよいのだと思わせるのですか?
あなたに自分の行動は正当だと感じさせるのは、私(彼、彼女、彼ら)をどのような人間だと思っているからなのですか?
この関係においてあなたはどうやって信頼関係を回復しようと考えているのですか?
ある人が自分自身を破滅させ、又、他人を傷つけるような言動を深く考えもしないでする場合、私たちはそれを止めさせ回復させるために動き始めねばなりません。 森の木を伐採して空き地を作るように適切な質問をすることによって一息つけるスペースを与え、その人が新しい方向、道を見出す可能性を与えることができます。
勿論、私たちもこのような言動に陥らないように気をつけねばなりませんし、同時に、そのような行動パターンが止められることを望みます。愛は自由を求めます。もし私たちが誰かの行動パターンの被害者であるならば、私たちは正しく愛される自由を求めねばなりませんし、又、その時の私たちの態度も愛に基づくものでなければなりません。その時に作られる「息の出来るスペース」で、私たちは愛が(初めからではなくてもいずれは)回復されるのを許す空間を確立させねばなりません。それは感情という銀行口座にどのくらい「信頼」が貯蓄されていたかがポイントとなるでしょう。
私たちはその人の行動は是認しなくてもその人を受け入れることはできます。神は始終そうされています。神でさえ私たちを変革させるためにプロセス、段階を用いられます。第一段階は 神のみこころにかなった自分に対する嘆きの心を持つことであり、それが私たちを悔い改めに導きます。自分の考え方を変え、その新しい考えに添って行動すること、それが悔い改めの始まりです。そして悔い改めの完成は、信頼が回復され、変革が達成されたときに起こります。これはかなり長いプロセスであり、和解(与えられる信頼)と、関係の回復(勝ち取られた信頼 )とが含まれるのです。
悔い改めには結末が必要です。そうでなければ完全ではありません。悔い改めの初めはた
20 09月
自己憐憫(2)
チャック・ピヤース自己憐憫は自分の権利を主張する!
自己憐憫は自分の権利を主張します!私たちの自我が支配してしまうとき、 自分のやり方と権利を要求してそれによって何かを確保しようとします! 自分に与えられた分を感謝して受けることが出来ないと、自分が受けるべきでない分まで受けるべきであるかのように私たちは感じてしまうのです。「権利がある(entitle))とは、即ち「タイトルを付ける」ということです。タイトルとは「それは自分の所有である」という証拠ですから、「 entitle」とは「所有する権利を主張する」という意味になります。私たちの肉の性質に同調する悪魔によって、多くの家族やミニストリーが分裂させられてきました。権利の主張は自己憐憫と共に働いて「それは私のものであるはずだ」と要求するのです。
ヒューストンに私たちは親しい友人がおります。彼女は非常に多くの賜物を持っている人ですが、また、自分自身を深く知るために力を尽くす人です。彼女は自分自身を知ろうと願うばかりではなく、どうして神は自分を造られ、神が一見黙しておられるときに自分が神に対して不満を持つのは何故なのかを知りたいと思っています。彼女は自分の反射的な行動(リアクト)は何故起こるのか、そして神が彼女にどのようにリアクトするのかをキチンと理解することが、彼女が求める人生の探求のすべてなのです。彼女は「自分には権利がある」と感じることに関しての理解を求めているとき、次のような手紙をくれました。
最近、私は自分が「権利主張」という言葉をよく言っているのに気がつきました。(それは勿論自分に関することではなく、他の人に関してですが..)私はこの問題で悩んでいる人たちのことを心配していたのです。ですが勿論、主は私自身にもその問題があることを示してくださいました。 この問題が私の人生の中で醜い頭をもたげてきたのを感じていたので、このことに興味を持っていた事も確かです。いつも私をいらつかせる食べ過ぎの問題をどう対処すればよいのかを友人と話していた時に、彼が「それは、自分は食べる権利があると思う感情と関係があるのだ」と言いました。全くその通り! 彼がその言葉を口に出した途端に彼がこの問題の的を射ていたことがわかりました。
また、昨日はいろいろな請求書の支払いをする日でしたが、お金を管理するのが私にとってどうしてこんなに難しいのかを考えていました。するとまた「権利 」という言葉が心に響きました。私は、自分はお金を使う権利があると思っているのです。そのことを私は心の隅ではわかっていたと思いますが、それを正面から見つめたことはありませんでした。一体私は何の権利があるというのでしょうか? それは私の人生で当然起こるべきことが起きなかったこと)に対する払い戻しです。
何と悪魔的なことでしょうか! 払い戻し? 私は生ける神の子、キリストの花嫁、契約の子、神の友なのです。そして私に払い戻しを受ける権利があるですって? 勿論、そんなことはありません。実際、私は何が起こってもすべてのことに「主よ、感謝します」と感謝に満ちた人生を送るべきです。キリストと共に生きる人生では、以前のようには出来なくなったことが多くあります。例えば、以前楽しんでいた事が、今はしずらくなり、昔していた事や昔の習慣をむさぼるかわりに、 本当には悪くないことー食べることとかーということをするようになります。 昔していた事がもう出来ないので、食べることくらいはする権利が自分にはあると感じるのです。そして過度に自分を甘やかす結果、ほどほどにすべきという一線を越えてしまうことになるのです。
律法によってではなく、恵みによって生きなさい! 愛は自分の利益を求めません!豊かに受けたのだから豊かに与えなさい!
「私のものだ! 私のものだ!」 社会における問題の根!最近、 孫のクローが一週間泊まりにきたので、 ずっと2つのものだけを見ていました。「自動車」と「ファインディング・ニモ」の映画です。12回目に見たときでも私は両方とも大変楽しみました。
「ファインディング・ニモ」 では、ニモがお父さんに従わなかったので危険な目に会います。彼は海から出てしまってオーストラリアのシドニーの歯医者の水槽に入ってしまいます。お父さんと友達は彼を探しに出かけます。彼らはニモを見つけ、住んでいた家に戻ろうとします。しかしカモメがいたのです。カモメは魚が好物です!映画の中では、カモメ達が獲物を見つけるたびに「私のだ!私のだ!私のだ!」と叫んで争奪戦を繰り広げます。‘
肉的、物質的な世界において、私たちはそれと同じことをしています。 賞を取るために努力をするのではなく、ただ賞の取り合い競い合いをするのです! 自分が欲しいものを手にいれる権利 があると思うので、互いに闘争し戦うのです。ペニー・ジャクソンさんが「権利」ということに関して次のことを話してくれました。
お金の使い方に関しては私の状況はよく似ています。私が一線を越えてしまって借金ができてしまわなければ、お金を使うこと自体は別に悪いことではありません。しかし ショッピングをしているとき、私は自分が欲しいものを買うことは全く正当だと感じます。それは自分が当然 持っているべきだと思うもの(人生における権利として)を持っていないのだから、欲しいものを買う権利はあると思うからです。そこで、この自分の権利主張の問題をよく見極めて、その中の偽りを見つけることが私の重大な課題となりました。実にこれ(権利主張)は地獄の臭いがする「考え方」です。
それでは 私たちに権利を主張させるものは何なのでしょうか? アメリカ人は生まれたときから自分の権利を主張するのが当然なこととして育っていると思いますが、そのことがこういう考えの入口になっているのかもしれません。 アメリカに住んでいるのだから、私たちの人生はこうあるべきだ、というある期待を持っているのです。そしてそのうちに私たちアメリカ人は、自分は優しい夫、又は妻を持ち、言う事をよく聞く子供たちと木立のある住宅地に素敵な家をもつ権利があるという考えを持ってしまっているのではないでしょうか。
どうでしょうか。もしかしたら、テレビが白黒だったときにやっていたホームドラマの遺産でしょうか。「パパは何でも知っている」とか「ビーバーにおまかせ」を考えてください。自分の親がドラマの中のような人物ではなかったので、私はがっかりしたものでした。親はあのように完全なはずではなかったのでしょうか
20 09月
神の臨在(続) - ブラザー・ローレンスのこと
坂 達也
先回書きましたように、私は久し振りにブラザー・ローレンスの本を手にする機会にめぐまれました。英文で95ページほどのこの高価な宝石のような小冊子を一度手にするとそれを簡単に下すことができません。惹き入られて読み進むうちに、再びぜひご紹介したい箇所がありましたので下記に訳してみました。
「ブラザー・ローレンスは、彼の霊的生活の基盤となるものは、神(の存在)を最も高揚された地位の方として心から(愛をもって)崇拝する彼の信仰にあることを私に打ち明けてくれました。このことが彼のこころの奥深くに確立されてからは、彼は日常のすべての行動を、ただ神への愛のために行うことが楽にできるようになりました。神に対する彼のこのような確固(熱烈)たる信仰は神に大きな栄誉をもたらすことであり、主が彼の祈りに答え、より多くの祝福を与えるためのドアをより大きく開くことになりました。」
ブラザー・ローレンスは「クリスチャンが、心のあまりこもらない日ごろの小さな祈りを機械的に繰り返し祈ることで毎日を過ごすとすれば、それは未だ弱い信仰である」と言います。そして、彼の言う確固たる信仰とは一日中一切を主に委ね切ることであると下記のように云っています。
「もし誰かが、自分自身と自分のすることのすべてを神にゆだね・ささげ・手渡す(surrender)なら〔それは神のためにすべてのことをすると決意することですが〕主はその人を、一切のまどわし、ごまかし、迷わすものdeception から守るであろうと言います。そして、主はそのような人が試練の苦しみに長く遭遇することを許さず、それに耐えることができるように脱出の道を備えてくださると言います。(1コリント10:13)」
つまり、そのような毎日を主と共に過ごす人には、神はすべてのことにおいて神の御心で彼が生きれるように導き、守り、平安と喜びの人生が送れるようにされると言うのですからすばらしいではありませんか。
そして、そうなるにはどうすればよいかについて、彼は「一日を通して、主のご臨在と共に過ごすためには、いつも主と話をする(主に話しかける)ことが必要である」とその秘訣を語ってくれます。この本ではブラザー・ローレンス自身が書いた部分と、彼の親友であるヨセフ・ド・ビューフォーが彼の云ったことを書いた部分がありますが、彼の友人はブラザーローレンスはこの「いつも主に親しく話しかける」ことの重要性を主張してやまなかったと言っております。
確かに私たちクリスチャンのうちには主が内住して下さっている以上、私たちにとって最も大事な「お客さま」で「共同生活者」である主にいつも親しくお話をするのは礼儀としても当然です。私は「主と個人的に深い交わりを持つこと」とはまさにこのことであると信じます。
私たちは「信仰が足らない、御声が聞こえない」と嘆くよりも、毎日傍におられる主ご自身に、本当に敬愛する親しい方として、何でも気が付いたことを気安く話しかけ、質問し、お願いする毎日を過ごすことを自己訓練することはそれ程難しいことではないと思います。勿論主に対する愛がなければできません。しかし後は堅苦しく考えないことです。
私の経験から言えば、たとえば私の好きな大リーグの野球、特に松井秀樹選手の出るロスアンジェルス・エンジェルスのゲームをテレビで見たい時は、私は主をお誘いして一緒に見てもらいます。そして、私なりの試合のコメントを主にお話したりします。最も親しい家族の長である父親以上の方ですから一緒に野球を見ることは、時と場合をわきまえてさえいれば、悪いことでも、主に怒られることでもない、むしろ主に喜んでいただける、より親しくなることであると信じるからです。
続いてブラザー・ローレンスの本を見てみましょう。
「ブラザー・ローレンスの心からのゴールは神以外に何も考えないことにあります。しかし、もし彼がある時間、神のことを考えないで時を過ごしていることに気が付いた時に、彼はそのことですぐ腹を立てないようにしました。そして時を待ち、神に自分の弱さを心から告白することによって、前よりももっと自信と喜びを持って神のところに返ることができました。又、その神の臨在から離れていた期間、彼自身が楽しく満足できる心の状態にいなかったことに気が付くのでした。
又、もし彼にあまりよくない考えが頭に浮かんだり、彼がそれに誘惑されそうになるとき、彼は直ぐにはパニックになったり、あるいは誘惑に勝てない自分を不甲斐ないと思わないようにします。なぜなら、過去の経験から、神を呼ぶべき時間が来るまでは慌てないで待ち、正しいタイミングで神を呼ばわることが、忠実なる神の助けが得られることを彼は知っていたからです。その時が来て神に声をかけると、その悪い考えは直ぐに消えてなくなります、とブラザー・ローレンスは言います。
神が一切の面倒をみてくれるという信頼のゆえに、ブラザー・ローレンスが外に出て(苦手で)慣れない商用をしなければならなくなったとき、彼は全く心配しませんでした。神は必要なときにどうすべきかを、刻銘に正しく鏡に映して見えるほど鮮明な絵にして見せてくれることを彼は経験していたからです。彼は前もって心配しなくても、神がいざという時には絵にして見せてくれることを既にかなりの間経験していたのです。このような経験を持つ前の彼は、自分自身の力で前もって対処方法をできるだけ細かく準備して出かけていました。
今は彼のするすべてのことが(神の御心にそって平安のうちに)静かに起こり、それによって、彼はますます愛する主の臨在に近い関係になっていきました。
この世の仕事を忙しくしている時であっても、神とのコミュニケーションを中断せずに神を意識し続ける習慣がついている彼が、たまに神から心が離れるような場合は、神から彼に注意信号の「呼びかけ」が届きます。それは、神が彼の心に神のイメージを溢れさせるのです。それによって彼は神が彼を呼んでいることに気が付かされるのでした。このようなときに彼の心は主の前で火のように燃え、喜びに満たされて、主に賛美の叫び声を上げて歌い、踊りたいような衝動にかられるのでした。
ほとんどの人にとっては、日常生活の忙しい行動が神とのコミュニケーションの妨げとなるところを、ブラザー・ローレンスは、むしろそれを通してより神に親密になると感じていたのです。彼にとって考えられる最悪の事態とは、神の臨在の感覚をなくすること
でした。」
ブラザー・ローレンスが上記で言っていることは、あるいはイエスキリストが「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。...」(ヨハネ5:19-20)と言われたことに通じるのではないでしょうか。
主は、ブラザー・ローレンスを通して、人間の私たちにもイエスご自身と同じ生き方が出来ることを示して下さったのであると信じます。
私は創世記6章に出てくるエノクが
「神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(6:24)と書かれていますが、神とエノクの関係はブラザー・ローレンスが神と持った親しい関係と同じかそれ以上のものであったと思います。そしてあまりにも親しく、いとおしいエノクを、神はもっと近くに来てもらいたくて天に挙げられたのでありましょう。私たちも神とそれ程の親しい関係になれるのです。そうすれば、私たちもサタンの治外法権の世界で神のみに従って生きる「神の子」となれるでしょう。(終わり)
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