Walk With God Ministries
Archive for 7月, 2010:
28 07月
愛を表すグラハム・クック
イエス・キリストの福音がギリシャの人々に届いたとき、彼らには「無条件の愛」を表す単語がありませんでした。神の愛の偉大さを十分に表す言葉がなかったのです。彼らは神の愛の持つ性質を定義できる言葉を創らねばなりませんでした。それが「アガペ」という言葉です。「愛」に関してもっとも重要なことは、私たちが「愛」をどのように用いるかということです。
「アガペ」とは見返りを期待しない無私の愛です。愛する故に愛するのです。憎しみが確実に憎しみを生み出すのと同じように、愛は愛を生み出します。愛は他人に与えると増えていき、与えないでいると減っていきます。アガペの愛は 神が、神というお方である故に、 無条件で私たちに与えてくださるものです。神はご自分の敵をも100%愛されます。その究極の証拠はヨハネ3:16及びエペソ2:1−10に書かれています。
自分というものを見失ってしまい、それによって他人に対してどのように行動すればよいか分からなくなった人たちをも、私たちは愛します。自己中心な人、高慢な人、人を侮辱する人、欲張りな人、ケチな人、偏狭な人、人を赦さない人等です。愛はすべてを受け入れ、すべての人の心に触れることができます。 難しい人々は、愛によって変えられるために愛を最も多く必要としますので、愛があるかないかを証明するもの、立証するものとなります。よい人たちを愛するのはよいことです。けれども私たちが愛し難い人を愛するとき、 それは私たちが「自分は神に愛されている 」こと(神に愛されている者であること)をよく知っている確実な証拠となります。
愛とは、御父が自分を愛していてくださることを内に感じながら、他の人々を御父が見るように見ることです。ある種の人々を愛するには、とても忍耐が必要です。
私たちは自分が持っている偏見を乗り越えるためには、あるいは、神に自分の心をいつも開いている状態になるためには時間が必要です。そして、どんなに愛そうとしてもどうしても神経にさわってしょうがない人々をどう愛するかにおいて、人生をかける一大決心をするに至るまでには、私たちには時間が必要です。往々にしてクリスチャンは忍耐強く深く考えることが苦手なようです。愛についての説教はよくしますが、実際の生活はこの世的な愛のレベルにとどまっていることが多いのです。
私たちは神の愛で人々を解放し自由にするべきなのに、かえって怒ったり裁いたり責めたりという自分の肉的な習性によって、彼らを牢に閉じ込めてしまっています。愛は人々に代価を求めません。私たちは裁きjudgmentと正義justiceとを混同してしまっています。裁きjudgmentは責め、罰し、咎めます。正義justiceは誠実integrityと尊厳dignityを伴う義righteousnessであり、公正な取り扱い、差別しない公平さです。愛は、それを全く受けるに値しない人々にも益を与えるものです。
このような愛は決して弱々しいものではありません。力強いけれども柔和であり、優しいけれども揺るがないものであり、寛大で義しいものrighteousnessです。柔和さは弱さではなく、自制された強さ(力)です。愛は人々をそのままに放っておきません。愛は人生の軌道を変えます。 自分は無関係だとは言いません。アガペの愛は他の人を引き下ろすことは決してしません。かえって彼らの人生の質を高めることに力添えをすることです。
神が愛されるように私たちが愛するとき、私たちは神が造られた人間本来の真価(自分の真の身分・アイデンティティー)に最も近づきます。神の内に自分を発見するのです。私たちは愛を実践するときが常に一番自由であり、その反対に 罪悪感を与えて人々をその中に閉じ込めるとき、自分自身も一番縛られているのです。アガペの愛は自意識過剰ではなく、神経質ではなく、独善的ではありません。
私たちが真実に愛を実践するとき、それを他人から批判されることを予期せねばなりません。私たちがアガペの愛をもってこの世に神の臨在を顕している時には、その確実な証拠として、私たちが過度に霊的ぶる人や宗教的な人から誹謗されることによってそれが分かります。
私たちは人を愛している振りをすることは出来ません。それは実在しない非現実的なことです。しかし、神のご性質を人々対して実践する練習をすることはできます。そしてそうすることによって、私たちが変革されていくのです。アガペの愛を実践するということは、非常に意識的な選択です。単に即興的に行き当たりばったりですることはできないのです。それは意識的に計画されねばなりません。このような愛は単に感情ではなく決断的な意志による行動です。「自分がどう感じるか」とは関係なく、愛することを選ぶことです。今の自分がどのような者であるかの故に、またイエスにあってどのような者になりたいかの故に、私たちは愛するのです。
愛は実際に表わされるときに増えていき、表すことを抑えるときに減っていきます。愛とは、私たちをよく思ってくれる人が自分の前に立っているときに自然に起こる感情のことではありません。もし神がまず私たちを愛してくださったとしたら(第一ヨハネ4:19)私たちはアガペの愛を外にではなく自分の内に見つけねばなりません。愛は、御国と同じように、今すでに私たちの内にあるのです!それを信じて受け取り、その中で喜んでください。愛されているように愛してください。
愛を表現する一番の方法は実践することです。愛を与えることはイエスというお方を実際に表現していくことです。アガペの愛は何かを得るためにするのでもなく、自己中心でもありません。愛はそれを使うことによって必ず自分に戻ってきます。私たちはすでに今愛を持っているのですから、他人に与えてください! 誰かから愛をまずもらわなければ自分は愛を持っていないと考えること程、私たちを自己依存させ、自己憐憫に陥らせ、苦々しさを常に持ち、皮肉っぽくものを見て、感情的不具者にさせてしまうものはありません。
私たちは今ある自分からゆっくりとスタートせねばなりません。「自分のアイデンティティーにおいて、自分がどのような人間になりたいのか」を決めていく意識的な行動として愛を実践していくことが非常に大切です。愛は報酬を必要としません。貸し借りの勘定をしません。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えます。愛は、人から認められることを必要とせず、仰々しい言葉や約束、決意も求めません。自分が注目されることも求めません。神のみ翼の陰から愛します。静かに、誰にも知られず、密や
かに。そのときあなたの隠れた愛の行為を見ておられる御父は、アガペの愛をあなたに何倍も与えてくださるでしょう。私たちが愛するとき、私たちは自分自身を祝福しているのです。ですからどうか、ただ実践してください。静かに、神のために!(終わり)トップへ戻る
20 07月
リーダーの出くわす不都合
キャサリン・ブラウン
人生は常に山あり谷ありだと言いますが、クリスチャンも人生の嵐から逃れることはできません。嵐の中でこそ、私たちはキリストの真実により頼むことを更に学ぶことができます。また嵐は、リーダーであることが「都合のよい楽なこと」であることはめったにないことを、もう一度教えてくれます。
私のリーダーとしての経験から学んだことは、リーダーであることは決してリボン飾りのついた素敵なプレゼントをもらうようなものではないことです。それは祝福された特権であると共に、しばしば非常な苦痛を与えるものです。喜びと共に悲しみの旅でもあります。往々にして孤独です。それは日常の生活から神との邂逅という未知の世界へと人を連れて行き、へりくだって神により頼みイエスの衣のふさにすがるという経験をさせます。
それは心もからだも感情も、そして霊的にも非常に過酷な任務です。しばしば、それはキリストとの深い交わりの場所に私たちを連れていき、神の弟子として訓練を受け続けることになります。それは自分に関しても、また人々をキリストと歩む改革的な信仰生活へと導くことにおいてもそうなのです。リーダーになるという恵みによって人々に仕えるのは慎ましい特権ですが、リーダーであることがいつも都合がよいとは私は決して言わないでしょう。
地域の外
私の家族に最近起こったことの 証しをさせてください。みなさんにとって励ましとなることを願いますが、それと共に聖書の真理に当てはまる比喩として役立つのではないかと思います。
子供たちをみんな学校に送りだしてから、私はミニストリーの合間にやっと時間をとって予約をしていた 美容院に出かけました。長い間美容院に行っていなかったので、髪をカットし染めてもらうのを楽しみにしていました。どういうわけか私の美容院は携帯電話の電波が届かないところにあり、そのお陰で二ヶ月に一度のこの時間は、いつもは誰にも邪魔されずに静かにゆっくりできる休息のオアシスなのですが、今回はちょっと違いました。
私が変な格好になったとき( 洋服を汚さないための黒いケープをつけ、髪には紫の漂白剤をべたべたつけられたとき)義姉が突然走り込んできて「ダニエルが学校から家に帰るようにいわれたの。今すぐ帰ってきて!」と叫びました。(ダニエルは私の二番目の息子です。)私があと30分は動けないと言うと、彼女は私の義母にダニエルを迎えに行ってもらうとぶつぶつ言いながら出ていきました。なにせ私の髪はその時化学物質で覆われていて、そのまま長く放っておけば髪が溶けてしまうかもしれなかったのですから!
ダニエルは2時間前に学校に行ったのですが、その時には 彼の身体に問題があるようには全然見えませんでしたので、一体何が起こったのか私には見当もつきませんでした。私は美容師に大丈夫だと安心させてから、静かに息子ダニエルのために祈り始めたのですが、その時は彼の病気がどれほど重大な状態になっていたかを知りませんでした。
しばらくすると、義母が真っ青な顔をして震えながら入ってきました。義母は 学校に車でダニエルを迎えにいったのですが、今、車の中にいるダニエルの手は麻痺し、しかも片目が見えなくなっていると言うのです。「私は椅子から飛び上がった」というのは非常に抑えた言い方です。最大の危機に取るべき行動、走るべき方向は、その嵐の目の中に走る込むことしかありません。ですから紫の髪と黒いケープのまま(このような時には他人がどう思うかは全くかまわないのです)美容院から飛び出してダニエルのところに飛んでいきました。彼は車の中で声を抑えて泣いていました。私はいとしい息子に手を置き、イエスの御名によって彼の目が癒され、頭痛が去り、右手の麻痺が癒されるようにと宣言しました。
神の力がすぐにダニエルの癒しに顕れはじめました。私はダニエルに髪の漂白剤を洗ったら直ぐに行くからと約束して、義母にダニエルをそこから直接医者に連れて行き、いきさつを話すようにと指示しました。私は夫に電話をして ダニエルと他の三人の子供たちのサポートが必要かもしれないから家に帰ってくるように頼みました。この出来事に私は衝撃を受けましたが、しかし心は落ち着いていました。それと同時にサタンに対する義憤が私のうちに涌き上がってきました。私は確固たる信仰をもって「サタン、主の御名によって命ずる、おまえが息子に触れることは絶対できない。」と声に出して宣言しました。
私は紫の漂白剤を洗い流してもらって、15分後には医者のところに着きました。驚いたことにダニエルが大変なことになるかもしれない状態であるにも拘わらず、彼はまだ医者に診てもらっていなかったのです。私は受付に行って礼儀正しく、いつダニエルが医者に診てもらえるかと尋ねました。受付の人はちょっと横柄な態度で、ダニエルが後どのくらい待たねばならないかわからないと答えました。この決まり文句のような返答は、その時の私のように緊急事態で思い詰めた親には満足できないものでした。私は一息ついてから受付の女性の目をじっと見て、低い決意を込めた声で「息子はいつ医者に診てもらえるんですか? 息子は突然原因不明の麻痺と目が見えなくなっているんです。」と言いました。すると彼女は医者を探しに行ってくれて、少ししてダニエルは医者に診てもらうことができました。
医者の診断では、ダニエルは重度の偏頭痛の発作に襲われているということでした。(彼にとっては初めてことでした)医者はむかつきを抑える薬を処方してくれて、家に帰って横になるようにと指示しました。もしまた発作が起こったならば、すぐ来るようにと言われました。私たちは家に 帰り、私は愛する16歳の息子をベッドに寝かせ、大丈夫だよと言ってもう一度彼のために祈りました。主人は会社に戻り、私は家族の人たちにダニエルはもう大丈夫だという電話をかける作業にかかりました。みなさんもご存知だと思いますが、悪いニュースは他のどんなニュースよりも家族に早く伝わるものです!私はいろいろと助けてくれたみんなに(美容師にも)お礼をいい、ダニエルはもう大丈夫で危機は過ぎたと知らせるのは大切だと思ったのです。
嵐の中にイエスと共にいる
さて、この髪の漂白剤にまつわる私の長ったらしい話が、リーダーの「 不都合 」と何か関係があるのでしょうか? 大ありなのです! まず、リーダーの介入を必要とする危機というものは、普通、とても都合の悪いときに起こることに気づかれていますか? 危機はあな
15 07月
聖さは輝く
フランシス・フランジペン
クリスチャンの人生に真の聖さがあるとき、それは輝き出てその人の回りは明るくなります。赤ちゃんや幼児は神の臨在にとても近い存在なので、彼らの霊は純粋であり汚されていません。ですから彼らも同じ光を放っています。 彼らの心は透き通っていて偽りがないので、彼らから目に見える光が発せられているのです。そのような聖いランプの輝きを私たちが放つためには、 彼らと同じような透明さと偽りのない心を持つことが必要です。それは神の御国で混じりけのない黄金となる道です。
一つのものだけを見る目
キリストが私たちの内に入って来られた瞬間に、私たちは聖くされ、神のために聖別された者となります。この聖さは、神殿の器物が聖くされるのと同じ種類の聖化です。即ち、器物は主に仕えるために用いられるので聖いのです。器物そのものには何の徳もありません。器物の材質が変ったわけでもありません。キリスト教もその意味において、おおむね、聖いと言えます。
しかし、私たちが求めている聖さは、主のために取り分けられて完全に聖くなるということです。 私たちを通して、天の父なる神の臨在が 回りに映し出されるような聖さを求めているのです。神の御性質そのものと、神のいのちの豊かさを私たちは求めているのです。
真に聖くなるとは、私たちのうちに聖霊のいのちそのものを生み出すことを意味するので、 私たちは聖霊がどのような方であるのかを確実に知る必要があります。神の御霊は愛であって、宗教ではありません。神はいのちであって、形式ではありません。聖霊は私たちが単に異言で話したり、証しが出来るようにしてくださるだけではありません。御霊は私たちをイエスの臨在の中へと導いてくださるのです。私たちは聖さをその臨在の中で受け取るのです。即ち、イエス・キリストと一つになり、交わりを持つときに聖さを受けとうことが出来るのです。
又、私たちの求める聖さは、律法的な一連の規則でもありません。それはキリストご自身のいのちそのものです。聖霊は私たちのうちに働いて「もっと人を愛したい」という新たな願いを生み出すのではないのです。そうではなく、御霊はキリストご自身が持つ愛そのものを分与してくださるのです。 ただ単にイエスに対する自分の信仰を強くされるのではなく、主の持っておられる信仰を受け取って、 イエスが信じるように実際に信じ始めるのです。
私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神ご自身です。揺り動かされましょう。そして私たちが居心地のよい枝から振り落とされて、大いなる恐れと大いなる喜びをもって、深い礼拝と聖なる恐れをもって、ご自分の意志と目的をもって私たちを召してくださった神というリアルなお方に近づこうではありませんか。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか?」(第一コリント3:16)
神の御霊が私たちの内に住んでおられるのです。ですから、昔からされてきた「人とは何であるのか?」という質問を自分にしてみようではありませんか。私たちは自分が他人にどのように映るのかは知っています。しかし、もし神が本当に私たちのうちにおられるのならば、 天使や悪霊にはどのように見えるのでしょうか? 私たちは霊の世界でどのような者なのでしょうか。私たちの回りの輝きはどんなでしょうか。私たちは目に見えない世界にむかってどのような栄光を輝かせているのでしょう。「見てご覧なさい。気をつけて。神の子が歩いてきますよ!」と彼らは言っているのです。考えてみてください。始めに人間を神のイメージに造られた方、創造者の御霊があなたの中におられるのですよ、、、、まさに今。
聖さとは身体全体が明るいこと
しかしこれには限定があり、条件があります。あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。あなたは光と闇とに、罪と義とに、自分と神とに兼ね仕えることはできません。あなたの内には光がありますが、闇もまたあります。私たちの世界は闇の世界です。私たちの先祖は闇の子供たちでした。私たちの肉的な思いは今も尚、闇が暗躍する舞台のままになっています。つねに選択をせまられる世界で、私たちは光を選ばねばなりません。成熟した光の子となるためには私たちは決して二心であってはならないとイエスが教えられた理由はここにあります。主は「からだのあかりは、あなたがたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)」と言われました。
もしあなたが心と思いをもって神にのみ焦点を当てているのならば、あなたのからだには光が満ち、神の栄光が完全にあなたのうちに顕れるのです。しかし、もしあなたが二心であるならば、もしあなたが罪深い、あるいは悪い考えを持っているならば、あなたの光はだんだん暗くなり、遂にはからだ全体が真っ暗になるのです。イエスは続けて「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)」と警告されています。
もしあなたが救われたにも拘わらず、神を求めず、或いは神に従わないとしたら、あなたは闇の中にいるのです。「いつか、どうにか、自分はきっと良くなる」というような空しい希望で自分を慰めないでください。はっきりした決意で身を固めてください!もしもあなたの内の光が闇の中にあるならば、その闇はなんと恐ろしいことでしょうか!光の子よ、あなたは闇を憎まねばなりません!暗闇は地獄の実体であり、神のない世界なのです!
しかし、私たちは光に希望をおいているのであって、闇ではありません。あなたの足は義の道を歩んでいるのであり、その道はだんだんに明るく真昼のようになるのです。「もしあなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。(ルカ11:36)」という節は、 聖さが完成した時の姿をはっきり表しています。それは、ちょうどランプが明るく輝くように私たちの身体が栄光で輝いている姿です。なんという素晴らしい希望でしょうか。私たちが神の臨在によって全体が明るく輝き、私たちの内には「何の暗い部分もない」という姿です!
霊的に成熟した神の聖徒には、光と栄光に輝く衣が用意されています。それは山上の変貌の時のイエスの衣のようです。ただ永遠の世界のためだけのものではなく、この世で着る衣です。「曲がった邪悪の世代にあって」も「彼らの間で世の光として輝く」の
です。(ピリピ2:14、15)
「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8)
この言葉は単なる比喩ではないのです! 神の栄光があなたの内に、あなたの回りにあるのです。それは霊的にリアルなことなのです。しかしあなたの中にまだある暗さはどうでしょうか。パウロは続けて言っています。
「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。、、、けれども明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされるものはみな、光だからです。」(エペソ5:11、13、14)
あなたの暗やみを明るみに出してください。それを擁護したり弁解したりせずに正直に告白してください。それを憎んでください。断ち切ってください。暗やみが暗やみの中に留まるかぎり、それはあなたを支配します。しかし光の中に出せば、それは光になります。あなたの密かな罪を大胆に神の恵みの御座に持っていき告白するならば、神はすべての悪からあなたをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)もしまた罪を犯したならば、もう一度悔い改めてください。何度でも、あなたの中の罪の性質が砕かれるまでそうするのです。
昔の探鉱者のように、 あなたのために取り分けられた混じりけのない黄金を守るために、 御国にあるあなたの土地のまわりに杭を打って確保してください。(黙示録3:18)そしてあなたが恵みの御座にじっと座り続けるならば、永遠な何かがあなたの中で輝き始めるのです。それは溶解炉の熱い石炭のようなものです。あなたが全能なる主と共に留まるとき、主の臨在の聖なる火は、あなたが持っている木や草やわらのようなものを燃え尽くしてくださいます。イエスが持っておられた力があなたの内に奥深くに宿るでしょう。あなたの金が精錬され、あなたの衣が光り、あなたの人生が聖くされるので、天使たちも驚嘆して立ちすくむでしょう。(終わり)トップへもどる
07 07月
イエスの血潮による住まいの大掃除
坂 達也
科学者であるデービッド・ヴァン・コエバリング氏は、1970年代にレーザー光学を利用した音楽楽器を発明しました。彼は物質には記憶のメカニズムがあることを利用し、シルバー・オキサイド酸化銀のフイルムの上に音を録音し、その音をキーボードから再生音として出させるキーボード楽器を開発しました。 物質には記憶のメカニズムがあることを彼は下記の聖書から引用しています。
「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」(ヨシュア記24:27)
テープレコーダーやコンピューター、或いはカメラで使うメモリー・ステイック、メモリー・カードを見れば分かるように、物質は目の前で起こっている話し声とか映像を記憶することが出来ます。音声だけでなく、すべての光・映像のソースからは光子が放たれていて、それが物質に記録されるからです。
そうであるとすれば、私たちの日常会話とかやっていることは皆、私たちの住まいとか事務所の天井、壁、床、家具等あらゆる備品が見て聞いていることになり、その音声と映像(コエバリング氏はそれに加えて「思い」もと言っています)をちょうどDVDか撮影機で撮った映画のように記憶しています。そしてそれがよいことであればすばらしい祝福となりますが、罪とか悪いことであれば、のろいとなって残り、そこに住む人々に大きな影響を与えるのです。
ここで思い出して下さい。ろばに乗ってオリーブ山のふもとに近づかれたイエスにむかって弟子たちの群が大声で神を賛美しました。それに反対し抗議するパリサイ人に向かって、イエスは答えて言われました。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(ルカ19:40)
「石は叫ぶ」のです。石がそうであるのなら、あなたの家の床、壁、天井も叫ぶことが出来ないでしょうか。あなたがご自宅でいつも神を賛美していれば、あなたの家全体が神を賛美していることになります。
又、あなたが悪いことを言い、罪を犯しているなら、それを記憶しているあなたの家ではその呪いがいつかは叫ばれることになりませんか。これは恐ろしいことです。
それでは一体どうすればよいのでしょうか。あなたの家を部屋毎に廻り、床、壁、天井、家具備品の上に記録された一切の悪いこと、罪と呪いの記録をイエスの血潮とイエスの御名によって丁寧にぬぐい去る宣言をすればそれは消されます。これしか方法はありません。これによっても、イエスの血潮がどれ程力のあるものであるか、お分かりいただけると思います。
又、得体の知れない処で作られた土産物、あるいは人からいただいた形見の遺品に至る迄、そのものには生産者とその地の人々が関わる罪とのろいが掛けられ残っている可能性は十分あります。又、遺品の場合はその残した人の良いもの悪いものが記録されていますから、やはりそれも霊的に「きれいにすべき」です。
ですから皆さんにぜひお勧めします。皆さんは時々家の霊的大掃除をして下さい。又、友人とか家族の人が病院に入院しているような場合は、その病室を訪ね、その部屋全体を小声で結構ですから、イエスの血潮と御名できよめて下さい。そして出来るだけ多く信仰で励ましの言葉、神様のお話をして上げて下さい。教会の人たちと行って賛美をするのも大変よいことでしょう。
ところで話は変わりますが、過去の記憶と言えば、私が最近経験したことをお分ちしたいと思います。しばらく前でしたが、一週間のうちに二、三夜ほど昔の仕事をしている当時の夢を見ました。全く同じ内容の夢ではなく、又取り立てて何かが起こった時を思い出すような夢でもなかったのですが、当時私の事業の末期であった頃の何か重苦しい感じの、どちらかと言えば、とりとめのない夢でした。
三日目の朝でしたか、どうしてそんな昔の夢を続けて見るのかなといぶかしく思ううちに、ハッと気が付いて私は膝まずき、私の事業をしていた時期に私が犯した様々な罪を出来るだけ具体的に思い起こしては、それを改めて悔い改める告白をしました。そして、イエスの血潮でそれら一切の罪をぬぐいさり、赦す宣言をしました。するとその後は、当時のよくない重苦しい夢を見ることはなくなりました。
私は自分の過去に犯した罪とその呪いを取り去る祈りを、思いつく度に時々して来ました。ですから今回私がしたことで特に変わったことをした訳ではなかったのですが、一つだけ新しいことと言えば、私の事業をしていた40年近い期間を一つのひっくるめた期間として、その全体にイエスの血潮の充分なる覆いを掛け、私の心の中できっぱりと整理・清算したことです。
その時期と言うのは、私がアメリカに渡って仕事を始めて約10年後にクリスチャンになり、その後に試練の時期に入ってやがて倒産するに至りました。その事後処理を通して私が神に頼り切るつもりでも全く頼り切れず「人間的に苦しみあがいた」格闘の期間でした。(今はそれを卒業したと言う意味で申し上げている訳では決してありません。)
その当時経験した様々な仕事上の人間関係と仕事の処理の仕方において、自分が犯した様々な罪と自分の至らなさは、既に悔い改め、赦すべき人は赦して来たつもりでいましたので、今では全くと言ってよいほど当時のことは忘れ去っていました。しかし、主は私の中に未だにその頃の罪意識が残っていて、私自身を縛り、完全に解放されてはいないことを気づかせて下さったのであると思います。
過去の悔やむべき思い出は完全に消し去らなければなりません。そのようないやな思い出は、 自分には最早何のトラウマとはなっていないと思っていても、意識下で罪悪感の痕跡が残っているのです。「以前は 自分も悪魔に属していた」と言う私たちの古傷を持ち出してきて私たちの罪悪感を煽り、悪魔の暴力団からは二度と足を洗えないと言う嘘の言い掛かりを付けて脅迫してきます。
これは悪魔の典型的なやり口です。私たちの罪は私たちが考える以上に巾広いもの、そして根の深いものであると思います。
それには、自分の罪は既に完全にイエスの血潮で消え去られていると言う確固たる不動の信仰を持っていなければならないのです。
人間の脳細胞、特に記憶する機能の細胞、いや、あなたの身体全体があなたの過去に起こったこと、見たこと、聞いたことを全部記憶し、それを引き継いで抱え込んでいると
06 07月
「人を裁くこと」からの断食
フランシス・フランジペン
もしあなたが長期間の断食をされたことがあるならば、それが人生を変えるほどの経験であることがお分かりだと思います。断食(fast)には多くの種類があります。ニネベの王は国民と共に食物と水を断ちました。神は彼らの真摯な悔い改めを見て、国を滅ぼすことをやめられました。そしてニネベの人々を断食と祈りが持つ力を世に示す者とされたのでした。(ルカ11:32参照)
断食はリバイバルを呼び起こす強い道具ともなりますが、又それとは逆に、ほとんど何も霊的な意味を持たないただの形式的な宗教的行事へと堕落してしまうこともあります。パリサイ人たちは週に2回断食をしましたが、それは人々に賞賛されるためでした。彼らの断食はプライドの故だったのです。断食の目的は 自分の目指す霊的目標に早く到達するためであり、ですからファーストFast(早い)といわれるのです。
イエスは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と言われました。私たちが断食をして飢え渇く目的は、正義が勝利をおさめるためです。それは私たち個人に関すること、また家族、教会、市町村、国に関する事柄において正義が勝利することです。断食(fast)はその目標により早く(faster)私たちを到達させるのです。
しかし、断食が自虐的な罰にならないように注意せねばなりません。断食は「肉体の苦行(コロサイ2:20−23)」ではありません。あなたの肉体に栄養を与える代わりにあなたの魂を養うのです。主にもっと近づくのです。神の御言葉を読み、聖句を暗唱し、自分のためや愛する者、又教会のために祈るのです。
イザヤ58章では、断食は神の愛を人々に示すものであるとも言っています。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。(6、7節)」と主は言っておられます。
ですから(食を断って)断食をするときは、困っている人や苦しんでいる人を助ける方法も考えてください。断った分の食事のためのお金を困窮している人たちを助ける援助団体に寄付することもいいかもしれません。
とりなし手の断食
人生に最も顕著な変化をもたらす断食は、私がとりなし手たちに勧めているものかもしれません。私は彼らに、一月間の「裁くことから断食」を要請するのです。それを聞いたときの彼らの反応には実に興味深いものがあります。「じゃ、何を考えていたらいいんですか?」と彼らは訊くのです。 私が言いたいことは、皆さんの思いが 人を裁くことで決着するのではなく、むしろ憐れみをもってその人のために祈る結末となるようにと申し上げているのです。
すぐに他人を裁き批判するという性質は教会におかれた呪いであり、私たち一人ひとりに死をもたらします。「呪い? 死? 」と思われるかもしれませんが、そうなのです。私たちが裁く度に、 私たちは同時に神から裁かれているのです。他人を罪に定める度に、私たち自身が罪に定められているのです。(マタイ7参照)
多くのクリスチャンは祈り、霊的戦いをし、サタンを叱責します。しかし往々にして彼らが戦っているのは悪魔からのものではないのです。それは当然受けるべき報いなのです。私たちの人生は、自分が人々に対応する態度によって計り返されるのです。常に人々を裁いているので、自分も常に裁かれる立場に立つ結果となっているのです。(マタイ7:2参照)
「裁くことから断食する 」と言っても、それは物事を判断し、見分け、識別することをやめることではありません。しかしながら、人を裁くことは識別とは違います。人のあら探しをするのは御霊の賜物ではありません。私たちが何か間違いを見るときに、ただ批判的になるのではなく、その状況に対する憐れみを祈ることを学ばねばなりません。確かに間違いはキチンと見るのですが、その時に自分の怒りを抑え、キリストの愛の力によってその間違いを贖うことを求めるのです。
イエスは「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。(マタイ5:7)」と言われました。私たちが裁いたり罪定めをしたい衝動に打ち勝って、あわれみを祈るとき、驚くべきことが起こります。 あわれみの新たな扉が私たちの前に開くのです。お分かりでしょうか。日ごと一刻一刻、私たちの前には二つの扉が置かれています。一つはあわれみの大波を私たちの人生にもたらす扉であり、もう一つは困難と障碍だらけの人生への扉です。あわれみの扉にどうやって入るのでしょうか? 神のあわれみの祝福を受ける人生のかぎは、私たちがまわりの人々にあわれみを施すことです。(マタイ18参照)
私は霊的成長がもう何年も止まっているクリスチャンを知っています。彼らは教会に出席し、十分の一献金を捧げているのですが、人を批判的に見て裁く態度を常に持っているのです。彼らは他人を批判する言葉に事欠きません。それによって彼らは自らを神の裁きのもとに置いています。他人に対してあわれみを示さないので、神からのあわれみを受けることが彼らにはできないのです。
ヤコブは 「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみはさばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)と書きました。これは厳粛な言葉です。あわれみを示さない者への裁きはあわれみがいただけないのです。
「自分はクリスチャンなのにイエスが約束してくださった豊かな人生をどうして経験できないのだろうか?」とあなたは思っていますか?(ヨハネ10参照) 多分それはあなたがあまりにも批判的で人を裁いているからです。でもよい知らせがあります。あわれみは裁きに打ち勝つのです。あなたが自分の人生には間違っているところがあり、自分は罪人であるとわかっていても、あわれみ深くなろうと努力するならば、神はあなたが他人に対応するようにあなたに対応してくださると約束されています。あなたのこころの中であわれみを必要としている部分は、神があわれみ深くしてくださる人生の中にいやしを見つけることでしょう。
愛する皆さん、これからのあなたの人生に変化をもたらすことが出来るのは何であるか、熟考してみてください。多分それはあわれみによる断食をすることではないでしょうか