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Walk With God Ministries


29 06月

眠りの霊の ヴィジョン  キャシー・ウオルターズ 6月29日


眠りの霊のヴィジョン

キャシー・ウオルターズ


最近のことですが、ある朝私が目を覚ます直前に、若くて美しい女性がベッドに寝ている夢(又はヴィジョン)を見ました。彼女はとても気持ちよさそうにしていて、美しく穏やかでした。 彼女は本当に「白雪姫」のようでした。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ1:18)

すると、ハンサムな王子が彼女に近づき接吻するのを私は見ました。彼が手を伸ばすと、彼女は目を開けて微笑みました。そして起き上がり王子と共に去っていきました。 それから私は同じヴィジョンを何度も繰り返し見せられたのです。
夢やヴィジョンの中の「若い女性」は、ほとんどの場合教会を表しています。しかし私は何故同じ場面が何度も繰り返されたのか不思議に思いました。そしてそれが多くの地域、場所にある教会のことだということに私は気がついたのでした。

「眠りの霊、まどろみの霊」は人を欺きます。というのは、眠りの霊が支配する教会や地域では人々が何もしていない、ということではないからです。人々は神のために忙しく立ち働いているかもしれないのですが、眠りの霊のために自分たちの真のアイデンティティーや神から受け継ぐべき遺産に対して眠ってしまっているのです。 御国のために非常に忙しく働いている多くの人々に私は今まで会いましたが、彼らは自分たちがどのような立場にある者か、光なる主の聖徒として受け継ぐべき物が何であるかに対して全く無知なのです。

眠りの霊は悪霊の中でも最も油断のならない、狡猾なものの一つです。というのは、眠りの霊はあたかも自分は神であるかのように装うからです。それによって人々は神に仕え神のために働かねばならないという「良心の呵責」をいつも感じさせられます。ある人たちは休みをとって楽しい時をすごすことさえも罪に感じるのです。しかし主は 「主を喜び楽しむ」ようにと私たちを召してくださったのです。マタイ11:30に「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」とありますが、これはギリシャ語では「わたしのくびきはやさしくてわたしの荷は軽くて喜ばしい。それは厳しくもなく重くもない。」という意味です。宗教の霊はすべてのものを「重苦しく」してしまいます。

親しい友人が最近こう書いてきました。「私はもうすっかり疲れくたびれ果てました。一生懸命努力したり、色々なことを心配したことが主な原因だと思います。『これをしなくてはならない、、何かをしなくては、、』といつも感じるのです。本当にいやになります!」この人は私たちの真の召しが何であるかをよく知っている人なのですが、時として私たちは「頑張って一生懸命働かねばならない」という泥沼の中にまたひきずりこまれてしまうのです。

イエスは あなたを働きのために招聘したのではない

イエスはあなたに100%の資格を与えてくださいました。あなたが何かをして勝ち得る(取得する)ものはもう何もありません。救いは初めから終りまですべてイエスによるのです。主があなたを救い、あなたを召し、あなたを贖い、 御霊をくださいました。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることの出来る方」はイエスです。(ユダ24)

「新しい心と新しい霊をあなた方の内に授ける(エゼキエル36:26)」というのが新しい契約の約束です。あなたは主の勝利のトロフィーであり、作品であり、創造なのです。生ける神の御霊があなたの内に住んでおられるのです。これ以上あなたは救われることが出来るでしょうか?

目を覚ましてください。主が呼ぶ声に目を覚まし、主にあるあなたの召しが何であるかに目覚めてください。王の王、主の主、宇宙の創造者、あなたの天の父(アバ)であるお方の子供とされることは何と素晴らしいことでしょうか。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。(雅歌2:2)」と主は言われています。主は「わたしのために働くように」と言われたのではありません。
 主はあなたを滅茶苦茶に愛しておられるのであって、あなたが主のために働くことを望んではおられません。イエスはあなたをご自分のために働くようにとあなたを招聘されたのではありません。主があなたを喜ばれるように、あなたが主を喜ぶようにと召してくださったのです。

私たちの受け継ぐものとは

あなたは プリンセスになって舞踏会に行きますか? それとも台所にとどまり召し使いのままでいますか? イエスも「わたしのするわざはわたしのわざではなく、わたしを遣わされた方のわざです。わたしの話す言葉はわたしの言葉ではなく、わたしを遣わされた方の言葉です。」と言われました。私たちもそれと同じなのです。私たちはイエスのために働くために召されたのではないのです。どうかわざという王座から降り、辞任し、退位してください。そして主の油をあなたの内に流れさせてください。それはがんばることではなく働くことでもありません。主の御霊に委ねるのです。主ご自身があなたの内に生きてくださるように主にあなた自身を明け渡し、主に生きていただくのです。

あなたの受け継ぐべき物に目覚めてください。 イエスはあなたが主と同じ遺産を受け取れるようにと十字架につき復活してくださったのです。御霊の領域、超自然の領域、天使、天国を訪問すること等はあなたの人生の中で普通の出来事となるべきです。あなたの遺産はこれです:主と踊り、主の内に宿り、主の内に歩むことです。

私は人々に 「Snuggle, don’t struggle. もがかないで主に寄りそいなさい。 Nestle, don’t wrestle じたばたしないで主に休息しなさい」という言葉を好んで申し上げます。すべての「一生懸命すること」があなたを眠らせ続け、愛する方にある喜びを味わえないようにします。そして「努力し頑張り続けるベッド」の中であなたはまどろみ続けるのです。しかし、あなたに出来ることはただ主に委ねて主を楽しむことだけです。主はあなたが主を楽しむようにと召してくださったのです。主を楽しむとき、初めてあなたは主に仕えることができ、何かお役に立つことができます。

よい知らせに目を覚ませ

申し上げにくいことですが、あなたの「宗教」に心から興味を持つ人など誰もいないのです。でも、もしあなたが何か良いものを持っているならば彼らは興味を示すかもしれません。神の慈しみはあなたの人生の中で人々に見られるべきものです。すべては主なのです! この良い知らせ
18 06月

BPのオイル流出に関する   ジョン•シールスキー   6月18日


BPのオイル流出に関する夢

ジョン•シールスキー


日曜日の早朝、主は私にメキシコ湾のオイル流出についての夢を見せてくださいました。主はそれを聖書の中の長血の女にたとえられたのです。興味深いことに、彼女は12年間長血をわずらっていました。12というのは神の使徒的完成の数であり、神の秩序、神の統治の数です。私たちは現在、 地上における神の統治の代理人であり、神の大使です。(私はこのオイル流出が12年間続くと言っているのでは決してありません。これはシンボルとしてのイメージです。)

長血の女と同じように、教会はその密やかな場所から今もなお血を流し続けているのです。しかし私たちは今までそれを認めようとはしてきませんでした。この「出血」を止めることができる唯一のものは祈りであり、それは即ち主との真の親密さ intimacy です。親密さの目的の一つは(人生のすべての面においてですが)産み出すこと、繁殖、再生、再現であるという事実を私たちは見失ってしまっています。
神は私たちのうちに 御子イエスの命を再生 reproduction することを願っておられます。ところが私たちは、他人にどう思われるかということを恐れてこの「重荷」を負って来ませんでした。その結果、責任を取らないが故に権威がなくなり、権威がなくなったが故に私たちには力がないのです!

どのように共に祈り、天から聞き、天にとどき、天と一致すればよいのか

 聖書には、この長血の女は手を伸ばしてイエスの衣のふさに触れたと書かれています。当時その衣は人が祈るときに頭から被るものでした。イエスが「祈るときは奥まった部屋に入り戸を閉めなさい」と言われたのはこのことでした。ラビ達が衣を被って祈る時、彼らは外の世界を遮断し、邪魔されずに祈ることができ、父なる神の臨在の「密やかな場所」である「祈りの衣」の下で一人になることができたのです。

 神の家は常に「祈りの家」としての役割を持っています。これは最も重要な中心的課題と取り扱われるべきであり、私たちが実際に実行すべきことです。これまで私たちはそれについて議論したり、神学的に取り扱ったりはしてきましたが、キリストの身体とし実際にそれを実践することはほとんどありませんでした。私たちは、祈りとは「そのような召しを受けた」とりなし手たちのグループだけがするものだと感じています。しかし、そうではないのです! 教会はこのような現状なので流れ出す血が止まらないのです。

長血の女がイエスの衣のふさに触れたとき、彼女は実際に永遠の命に触れ、それと一つになったのです。永遠の命とは、即ちイエスが持っておられた御父との個人的な霊的交わりであり親密な関係です。(ヨハネ17:3参照)その時、彼女の血の源はすぐに止まったのです。

同じように、祈りについてイエスは次にように教えておられます。「まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19、20)

 私たちが共に祈り天から聞くことを始め、天が語り天が願っていることに関して一致するならば、神は、メキシコ湾の現在の事態の当事者たちの心と思いの中に、超自然的な知恵と理解を解き放って、オイルの流出を止める方法がわかるようにしてくださる、と主が言われているように私は感じたのです。

見方を変える:神の慈しみと憐れみのうちの希望

 今まで私たちが感じてきた一つの大きなジレンマは、すべての出来事を地球に対する「神の裁き」であると解釈していたことにあります。起こっていることはすべて神の裁きだという見方をするならば 、祈ろうと考えることさえ神の御こころに反する非生産的なことのよう思えます。
 それは愛と信仰を相殺して(二つの電流を)ショートさせることになり、私たちを 弱く無力で希望のない気持ちにさせます。しかしよい知らせがあります! キリストが私やあなたの中に生きておられる限り、神の栄光を見る希望も私たち一人ひとりの中にあるのです!私たちを通して全世界が希望を見る事ができるように、この希望を解き放たねばなりません!

もし私たちがそうすれば、この事態に対処する力のある人たちに素早く解決策が与えられるばかりではなく、今後このような大事故を阻止する発明や技術に関する新しいアイデアが天から解放されると私は信じます。この問題を解決する創造的アイデアは、悪いものを良いものに変えるという意味において最高のものです。ですからそのように祈ろうではありませんか!

もう一つ皆さんに祈ってほしいことがあります。それはこの事故に関連したすべての人たちが適正に裁かれるだけでなく、主の光の前に導かれることです。皆さん、私たちにはこのような権威が与えられているのです! 今はつぶやいたり不平をいうのを止めて、権威の中に歩むときです! しかし先ず私たちはその中での自分の役割、或いは責任を負わねばなりません。そうです、私たちが御国の住人となったのは「この時のため(エステル4:14)」なのです!

私たちの「長血」とは?

私たちの長血の問題とは、つまるところイエスの血潮と、それによって表された御父の愛を私たちが本当に理解し受け取っているかどうかの問題であると私は思います。 このような大きな愛を、私たちは自分の心やおもいの中にまだ完全には受け入れることができないでいます。その結果、私たちの見るものはすべて曲がったり歪んだりしてしまうのです。それは 御父との真の交わり、親密さを私たちが経験することを望んでおられる御父の思いまでも歪めてしまっています。あわれみは常に裁きに打ち勝ち、最後に勝利するのです!

メキシコ湾のオイル流出は私たちの密やかな場所からの血の流出と平行しています。私たちは「初めの愛」から離れてしまったのです! 私たちみんなが 、祈りと一致により「イエスの衣のふさ」に手を伸ばして触れることを始めるならば、私たち自身の血の流出が止まるだけではなく、メキシコ湾の環境大惨事も解決されることでしょう。(終わり)


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14 06月

主の言葉を聞くことの飢饉 ボブ・ジョーンズ 2010年6月8日


主の言葉を聞くことの飢饉

ボブ・ジョーンズ 2010年6月14日

「見よ。その日が来る。—神である主の御告げ。—その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見出させない。」アモス8:11−12

これは預言者アモスの言葉ですが、現在のアメリカの教会に直接当てはめることができるものです。教会は神に対して不従順を続けてきた結果として、知覚麻痺、無感覚の霊に支配されているのです。

この地の飢饉とは、御言葉を聞くことを妨げている霊がキリストのからだなる教会を毛布のように覆ってしまっていることです。 今の世はめまぐるしいスピードで動いていて、御言葉を聞くための手段も数多く提供されています。 テレビ、書籍、CD、DVDなどです。ですから御言葉の不足が問題なのではなく、御言葉をどのように聞くかということに問題があるのです。それは、御言葉があたかも聞こえない耳にむかって発せられているようで、 その結果、「語られる御言葉であるイエス」を人々が理解することに混乱を招いているようです。丁度エデンの園で蛇が 神の語られた御言葉をねじ曲げてエバに告げたようなものです。

「こう書いている通りです。『神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。』」ローマ11:8


メキシコ湾のオイルの流出は、この国がこれから迎えようとしている問題のほんの始まりにすぎません。アメリカのただ一つの希望(確信のある期待)は、現在の霊的麻痺あるいは無感覚状態から目を覚まして神に叫び求めることです。教会が膝まずいて祈り神に憐れみを乞い求める時、神は正しい者の祈りを聞いて地を(そして海も)癒してくださいます。

この国の救いは神をおいて他にはありません。私たちはメキシコ湾のオイルのパイプを塞いでくださいと神に叫び求めねばなりません。塞ぐことが出来るのは神お一人だからです!そして神は教会が叫び求めた時にその事をしてくださるのです。

神の民への約束

「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。(共同訳)」第二歴代誌7:14

これは 教会にとって(ノン・クリスチャンにとってではありません)力強い御言葉です。これは、「わたしの名をもって呼ばれているもの」、即ち神の民への約束なのです。クリスチャンはキリストの権威と力の中に歩む者です。私たちが叫び求めるとき神はそれを聞き、応答してくださるのです。

アメリカの教会が目を覚まして神に叫ぶならば、神が私たちに大きな裁きを与えないですむような選択を、私たちが神に与えることになるのです。私たちに今残されている唯一の解決方法は、神がご自分の民の祈りに答えて下さることだけです。人々が無感覚から目を覚まして、天からの声を聞き始めるように、どうか神に叫び求めてください。

この国を覆う無感覚、無関心、麻痺の霊が打ち破られるように祈ってください。御言葉が不足しているのではありません。人々が本当に霊で聞いていないのです。そして御言葉を聞いたならば、従ってください! 天は第二歴代誌7:14にある通りの応答をしようとして聖徒たちの祈りを待っているのです。聖徒たちは今ひざまずいて祈らねばなりません!

端的に言うならば、主にあがなわれた者がそういうのを神は待っておられるのです!(終わり)

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07 06月

新しいサウンドの到来  レイ・ヒュウズ  6月7日


新しいサウンドの到来

レイ・ヒュウズ

(2010年5月24日 モーニングスターミニストリ−ズでの話の一部 )


今日はダビデの幕屋について話したいと思います。この話は、いつもはワーシップに関わるミュージシャンたちに対して話すのですが、今日は牧会者、リーダーの立場にある人たちに対してお話したいと思います。というのは、私はリーダーたちがこのことを理解するのが今非常に重要だと感じるからです。それは現在御国 (キリストのからだなる教会)の中で劇的なシフトが起こっていて、今まで聞いたことのないサウンドが始まろうとしているからです。今は新しいサウンド、新しい歌へと移行する時です。

ダビデの時代には詩編は「150編」からなっていたのではありません。詩編全体がダビデの幕屋で32年間の間、24/7で、絶えることなく歌われていた一続きの音楽の表現だったのです。
詩編の番号というものは後の時代になって付けられたものです。番号以外にも多くのことが後になって付け加えられたのですが、それによってダビデの幕屋の時代にあった美しさと力、権威が取り去られてしまいました。

「 praise(賛美せよ)」という言葉は詩編には存在しません。「praise」という英語に訳されている言葉は、ヘブル語では7つの異なった言葉があります。私たちは英語の「praise」という言葉を見ると、みんな同じことを表しているのだと思ってしまうのですが、そうではないのです。まずこのことを知っていただきたいと思います。

7つのヘブル語はそれぞれ、私たちが主にむかって身体を用いて行う全く異なる行為を指しています。それは32年間のその時その時に、人々がどのように生き行動すればよいか指し示したのです。
24組の音楽隊が交代で絶えず仕えていました。そして 新しい理解、新しい預言的言葉、新しい言葉使いが、常に新しい音楽的表現が、新しい楽器、新しいリズム等によって表わされ、それが丁度映画音楽のように、神の御こころのサウンドトラックとして使われたのです。即ち、神がその瞬間に語って おられることを表現したのです。映画のサウンドトラックのように、その時の神の言葉、御思いを強調してその効果を高め、聞く人々や回りの霊的環境への影響力を非常に強めたのです。 今、神の御国に新しいサウンドが解放されようとしていますから、このことを学び、理解し、親しんでおくことが非常に大切なのです。

詩編33編を見てみたいと思います。
「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。」とあります。真に正しくないものが喜ぶということは出来ません。正しい者(righteous)な者だけが主にあって喜ぶことが出来るのです。即ち、人がもし父なる神と正しい関係にないならば、喜ぶことはできないのです。この「喜ぶ(rejoice)」という言葉は大変素晴らしい言葉で、実はコマ独楽のようにくるくる回るという意味なのです。

神は私たちのために喜んで独楽のようにくるくる回っていると言われます。ゼパニヤ3:17に「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎをあたえる。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」とあります。

それは神が激しい感情をもってくるくると 私たちの回りで回ることを表しています。神は私たちに歌を歌ってくださると共に、丁度地球が軸を中心にして回るようにくるくると回られるのです。 しかも情熱的な愛情に満ちあふれて神はご自分と正しく結ばれている者たちの回りでくるくると回られるのです。
勇士であられる神が、あなたがたのただ中でそうされるのです。

ちょっと言い換えてみますと、「私のただ中におられる主なる私の神は勇士だ。神は私に歌い、私を喜ばれる。」ということです。ですから私たちのうちからほとばしり出るサウンドは、神が私のただ中におられるのですから、神の権威と創造とに直接的に関与しているのです。詩編全体を通じて多次元的な表現があり、絶えず動きがあり、絶えずサウンドがあり、その日の神の言葉に対する応答があるのはそのためです。

ワーシップチームがステージに上がってダビデの幕屋式に演奏を始めるとしましょう。仮に私がダビデだとして、私が「さあ、この歌を土曜日の4時まで歌いましょう。」と言ったとします。今(月曜日)から土曜日の4時までこの詩によって歌い、それを回りの霊的環境に絶えず解き放っていきます。するとついには歌っていることがその時に現実となり、神が「事は完了した」と言われるのです。

第一歴代誌16:42に「へマンとエドトンの手には、歌う者たちのためにラッパとシンバルがあり」と書かれていますが、ラッパとシンバルの響きは今までの歌を止めてチェンジせよ、という合図でした。その合図があると、今までの歌を止めることが許可され、今新しく神が言われ、されていることに移るのです。これが即ち「新しい歌が解き放たれた」ということです。

次に「主を賛美せよ」と言う言葉があると、新たな賛美が神の民の中で起こり始めますが、それは今までしていた賛美の表現とは異なるものになるのです。それは新しい歌であり、神が新しく民のただ中で「今」しておられることに関する賛美になります。歌い手たちが賛美の召命と油注ぎを受けている人たちであり、これらの事をよく理解し、訓練された人たちだったということは明らかです。

彼らは自由で安全な環境の中で、思う存分に創造的に表現することを許されていたのです。それは治世に関わることであり、又、霊的なことでもありました。ですから彼らはギリシャ的な音楽(言ってみれば、それは数学、科学、幾何学と楽器とを絡ませていろんな音符、記号をつけたもの)という枠の中には閉じ込められていませんでした。彼らの音楽はギリシャ的な音楽を越えたものでした。それは彼らの心からほとばしる情熱であり、神の臨在の中で完全に表現されたのでした。

ダビデが「主を賛美せよ!」と言う時、その「賛美」という言葉はヘブル語の「ハラウ」だったかもしれません。ハラウとは、「馬鹿げた、気が違ったような、輝く、叫ぶ」というような意味を持っています。「ハラウ(賛美) ヤ(神)」は、即ち「ハレルヤ」です。又、ハラウは 澄んだはっきりした音であり、「輝く」とはそのことを指しています。それは音よりもむしろ光と関係があって、音と光の架け橋となるものと言えるでしょう。つまりハラウとは、音楽、サウンドによって神の栄光を人々の上に輝きださせるということなのです。

第一歴代誌15:22に「ケナヌヤは
03 06月

「神の子」と「人の子」  坂  達 也 6月3日


「神の子」と「人の子」

                坂  達 也


皆さんはクリスチャンとして、自分が「神の子ども」であると同時に「人の子」であることを、どれほどはっきり自覚しておられるでしょうか。
「神の子ども」であると言うことは、文字通り「全知全能の創造主の子ども」と言う意味であり、「自分はそのような力と権威がある神の家族の一員で後継者」であることをしっかりと自覚していると言うことです。

勿論、私がそのように「身構えた」質問をすれば、皆さんも「身構えて」 神学的な建前として「そうです」とお答えになる方も多くおられるでしょう。しかし実質的な話として本当にそれを自覚して毎日を生活しておられるでしょうか。
何故今更そんな質問をするかと言いますと、今、これが真剣に問われる時代に来ていると思うからです。

私たちクリスチャンは,既に神の御子イエス・キリストを信じ、霊に生まれ変わることによって神の子どもになりました。しかしそれはどう言う意味でしょうか。
 先ず「神の子」と言う名称についてですが、英語の場合は単数形の子(息子)である Son of God と書かれます。この単数形の「神の子」は三位一体の神【父と子と聖霊】の二人目の神としての「子」であるイエス・キリストを指しますが、新約聖書ではその意味で37回使われています。通常この呼び名は神としての「ご性質」を表し、父なる神と同等であることを意味すると言われます。

人間は元々アダムにおいて「神のかたちに神に似せて造られた」と書かれていますが、神は人間を少しだけ神に似るように造られたのか、それとも全部似るように造られたのでしょうか。創世記1:26 -27に下記のように書かれています。

「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身の形として創造された。」
 
神は元々人間を造るに際して、大真面目で本当に「自分の子供」を造る思いで造られました。ですからアダムを神に似せて造られたのは当然と言えば全く当然です。
アダムがどれほどの権威と力を持ち、どれほど創造者の神に似ていたか、生まれながらの罪人である今の我々には想像もつかないことであると思います。しかし、そのすばらしい力の一端を知る資料として創世記2:19、20があります。

「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが...」

動物とか鳥に「名前を付ける」と言うことがどれほど重要な仕事であるかご存知でしょうか。これこそ三位一体の創造者の神がなさった創造そのものに参加すると言っても差し支えないことであるのです。
被造物を創造するにあたって、神である「子」は、「父」の意図を汲み取り、造るものの全ての特性から遺伝形質とか性格に至まで、その動物の特質の全てを 言い表す言葉で命令し、それを受けて「聖霊」なる神が具体的に必要な細部の構成分子とか原子を組み立てて具体的な「創造」が行われました。

ヘブライ語で表されるユダヤ人の名前はその人の性格とか「人となり」を象徴的に表します。従って名前を付けると言うことは、その人なり動物の性質にぴったりの名前でなければなりません。名前によってどんな性質かが公表されるのです。

三位一体の神は恐らく固唾を飲んでアダムがどんな名前を付けるかを見守ったことでしょう。アダムは「子」であるキリストが創造した動物の性質そのものを象徴するような名前を付けねばなりません。これがうまく出来るかどうかは、最初の人間アダムの出来具合いをテストする重要な機会であったのです。

アダムは的確な名前を付けるために、創造者その人であるキリストがそれぞれの動物をどのような性質に造ったのかを聞いて知る必要がありました。そこでアダムは全てをうかがい、それに対して主キリストは的確に答えて教えられたことでしょう。この霊による質疑応答のコミュニケーションは心と心が密接に通じ合う親密な間柄の人間関係においてなされます。主とそのような関係にあったアダムは神の意向を全て理解した上で、それぞれに適切な名前を付けて発表しました。

父と子と聖霊の神は、恐らく顔を見合わせて満足され喜ばれたことでしょう。アダムはテストに合格したのです。それと同時に、総ての動物は最初の顔見せにおいて、アダムに従属する主従関係にあることを理解しました。この儀式によってアダムは地球上の全ての被造物の上に君臨する権威とリーダーシップを確立したことになります。

ここで非常に重要なことが分かります。それは、最初の人間であるアダムは確かに被造物ではありますが、むしろ創造者側に属する「創造者」でもあると言うことです。「名前を付けて見なさい」と言われ、それが出来たのですから、アダムは神の「仲間」に加えられたのです。名を付けると言うことは創造的行為です。つまりは、人間は創造者になるように造られた唯一の被造者であると言うことです。

それに関連してもう一つ重要なことがあります。それは三位一体の神は、三人で一人の神と言われますが、何故そうかと言えば、御三人の心と行動がものの見事にいつも一致しているからです。お互いの意志と思いがいつもピッタリ通じ合っているのです。私はこれが、神の神たる最も重要なご性質、あるいは特質であると思います。
従って神に属し、神に似る(仲間入りをする)ように造られている人間は、その心と行動において、何としてでも神と一致し、同じでなければならないと言うことになるのです。神が人間に対して徹底的に「神への従順」を要求する理由はここにあります。当然ではないでしょうか。

ところがそれ程神に似ていたアダムが、神に背いて罪を犯してしまいました。その結果として、神との関係が断たれてしまい、「神のかたちとして、神に似せて造られた」性質と特権を失ったのでした。

神学者のアーサー・カスタンス氏によれば「神のかたちに」の「かたち」は英語で image と訳されていますが、この言葉 image は主に同種・同族の「属する関係」を表すと言い、又「神に似る」の「似る」は、英語の likeness で、同じ性質を持つと言う意味であると言っております。

それはちょうどイエスがカイザルの肖像が付いたコインを持って 来させ、「これはだれの肖像 image か、だれの銘か。」と聞きました。人々が「カイザルのです。」と答えると「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」と言われた通り、人間には元々神のイメージが付いたスタンプが押されていたのです。(マタイ22:19−21)

そうであるなら人間は神に属する「子ども」として造られ、しかも性質も似ていると言うのですから、人間は本当にただ者ではないのです。
それを今のように無力で、むしろ全く神に似つかわしくない悪い性格になり下がってしまったのは、アダムが罪を犯した後、総ての人間がサタンの言いなりになって来たからです。

ですから神は、初めから人間が罪を犯すことを見越して、創造の前から「子」であるイエス・キリストを十字架に付けて罪に堕ちた人間を救出ることを計画しておられたのです。そしてイエス・キリストは罪の無い人間「第二のアダム」としてこの世に来られ、十字架の御業によって人間と神との関係(押されたスタンプ)を回復されました。

そのイエスを信じることによって私たちは神の子どもとして復縁し、性質が神に似るようになるために、神から今厳しい愛の訓練を受けております。私たちには、神の子どもと呼ばれる権利とそうならねばならない責任が戻って来たのです。
まさに「私たちが神の子どもと呼ばれるために、———事実、いま私たちは神の子どもです。御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(1ヨハネ3:1)です。ハレルヤ! 

処で、救世主イエスは「神の子」Son of god であると共に「人の子」Son of Man とも呼ばれています。特に新約聖書では43回もイエスを指してこの「人の子」と言うタイトルが使われています。その意味は、主イエスの「ご性質」が、神の造られた最初の人間、罪を犯す前のアダムが持っていた「完全な人間」の性質であると言うことです。少なくとも私はイエスを「人の子」と呼ぶ意味をそのように解釈しております。

イエス・キリストは第二のアダムと言われますが(1コリント15:45−48) それを裏付ける聖書箇所としてルカ3:38があります。そこでは「アダムは神の子である」と、イエス以外の人間としてアダムだけが一度だけ単数形で「神の子」と書かれています。
罪を犯したアダムを救い出すために、キリストが第二のアダムとしてこの世に来られたのです。従って、第一と第二のアダム、つまり人間と人となられたキリスト・イエスは同族・同種であると言えます。

私たち人間は、今はまだまだ罪の影響が残る弱い人間でしかありませんが、元々意図されたパワフルな「神の子供たち」に本当になれるのです。いや、そうなるようにこの世に生まれて来たのですから、それが私たちのゴールです。

いつも主の御声を聞いて、主を見上げ、主に従う毎日を送ることは、私たちクリスチャンが名実共に「キリストの花嫁」となって、真の「神の一族」に加わると言うデスティニーであるのです。(終わり)

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