Walk With God Ministries
Archive for 3月, 2010:
31 03月
井の中の蛙、大海を知らず
坂 達也(/font>
私たち人間は、神を知らない人だけでなく、知っているはずのクリスチャンですら、ほとんどの人が、所詮「井の中の蛙」であることに気がついていないようです。そこでクリスチャンが「井の中の蛙である」可能性を二つの観点から考えてみたいと思います。一つは人間の持つ「自由意志」の観点から。二つ目は信仰の面からです。この二つは相互に深く関係しています。
創造者なる神が人間を神に似せて造り、神の最もすばらしい特質である「自由意志」を人間に与えた理由と意図は何だったのでしょうか。それは人間が最大限に自由意志・意欲を発揮して、すべてに「自分の中にある最高の可能性を追求する」ことを期待しておられたからであると思うのです。少なくともクリスチャンは、神から自由意志なるものを与えられていることにもっと責任を持つべきではないでしょうか。
人間は自分の「自由意志」が脅かされるとき、つまり、自分が好き勝手に生きることが制約されそうになると、自分の「自由」を主張する傾向があるようです。それでいて、本当の自由とは何であるかをよくは知らないのです。自分の小さな狭い井戸の中で自分の好きなように泳いでいる限り、それが自由であると思い込んで、満足して暮らしています。大海があることを知らず、又特に知ろうともしないのです。
私はクリスチャンの話をしているのです。クリスチャンであっても、なぜそうなるのかと言えば、人間は元来「自分中心」で「自分には甘く」簡単に「自己満足」し、その上始末の悪いことに、自分の考えに頑固に固執する「プライド」だけは大きいのです。これは人間の生まれ付きの罪の性質ですが、クリスチャンになってもそのライフ・スタイルを捨てようとしないからです。
クリスチャンは、信仰を得た最初の出発点である洗礼式で、「自分に死に、よみがえって霊の世界に生まれ変わる」ことに同意したにもかかわらず、何故それを真面目に実行しようとしないのでしょうか。その「死んで生き返る」ことが「井戸を出て、大海に入ること」であることに本当には気づいていないのです。
「新生」しないて、罪の人間のままでは大海に出て真の自由を探求することは出来ません。最初の人間アダムとエバは自らの意志で神に背く罪を犯し、それ以来人間は皆罪人になりました。しかしそれは最初からの神のご計画でした。「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を(先ず)不従順(=罪)のうちに閉じ込められた」(ロマ書11:32)のです。そして、その中から、自分の意志で主キリストを信じるめぐみを得た者だけが、神への不従順という罪から解放され、自由に神の世界(霊の世界)に入って、神と共に自分の無限の可能性を追求して楽しめるのです。
神は、聖書を通して徹頭徹尾初めから終わりまで「自分に死ね」と言っておられます。それは「自分に死ぬ」ことが霊の世界という大海に出て真の自由を獲得する最初のステップであるからです。にもかかわらずクリスチャンは「すべて主に従う」ことがまるで自分の自由意志が損なわれるとでも思うのでしょうか、心からそうしようと思わない人が大半です。
考えてもみて下さい。人間の持つ自由(意志)とは何と小さくて限られたものでしょうか。人間の思考の世界がいかに小さく偏ったものであるかは、子供を例にとれば明らかです。人間は赤ん坊でも自由意志を持っています。しかし、生まれたては、お腹がすいた時とお尻がむずがゆくなる時に泣くことしか知らないのです。それが彼らの持つ自由意志の限度です。
そこで親は子供の意志を尊重しながらも、足らないところを親の意志(良識)で補いつつ子供の面倒をみないでしょうか。天の父も同じです。全知全能で最高の愛の持ち主である神なる父は、子供である私たちをいつも愛し、私たちの自由意志が一番よい形で発揮できるように助けて下さろうとしておられるのであって、私たちの自由と自由意志を損なおうなどとは全く考えてはおられません。
それが証拠に父なる神は、最愛の一人子を罪だらけの私たちの身代わりとして死なせ、そのキリスト・イエスを信じた人に、もう一人の助け主である聖霊を「永遠の後見役」として送り、その人の内に住まわせて下さっているのです。この内住の聖霊が私たちを狭い井戸から、無限の可能性を追求できる自由意志の大海に連れ出して下さるのです。つまり、内なる聖霊が私たちの大海です。
真理はあなたを自由にし、大海に解放する
上記で申し上げて来たことが神の真理の真髄であると私は思います。こうして自分の浅はかな考えで生きることが愚の骨頂であることに気が付き、そんな自分に死んで、神に自分の人生の一切を委ねて生きることこそ、自分の自由意志を最大に発揮することになることが納得ゆくはずです。パウロはこの生き方を次のように言いました。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)
そうと決まれば、私たちの人生は常に聖霊に従って生きることに徹すればよい、という結論になります。それは取りも直さず、毎日「神の御声を聞いて従いつつ生きる」ことです。そして、この生き方が、あなたのこれからの人生における最も重要な課題となるはずです。この真理を知ることがあなたを自由にします。
「・・・わたし(イエス)は真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:37)
「・・・もしあなたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたを自由にします。」(ヨハネ8:31−32)
「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。・・・・神から出た者は、神のことばに聞き従います。・・・」(ヨハネ8:43、47)
大海の信仰
クリスチャンは自分の持っている信仰が、やはり井戸の中の蛙で、大海の信仰ではないことに気づくべきです。
先日ハワイの集会に来られたカル・ピヤース師が言っていましたが、人間の脳は通常全体の一割しか使われていないそうです。なぜそうなのかご存知でしょうか。ピヤース師は、神は人間の脳の9割を無駄にするようには造ってはお
られない、その未使用の部分は神の御心と思いが入るスペースで、神の思いがその人の思いとして用いられるためにある、そして、今使われている一割は人間自身の思考であり、神に差し出すべき十一献金のようなものであると言われたのです。
これからの時代は、「キリストの思いが私たちの思いに」(1コリント2:16)ならねばならないのです。そのようなクリスチャンが中心となって、主の多くの終末のご計画が実行されて行くでしょう。そのためには私たちの今持っている信仰は抜本的に変えられなければならず、まさにロマ書12:1−2が実現される必要があるのです。
私たちがもし弱い信仰しか持っていなければ、人間の常識を外れるようなこと、すなわち超自然の奇跡が日常茶飯事で起こることは考えられません。超自然の世界とは霊の世界で普通に起こることなのですから、私たちが霊に生まれ変わった以上、当然その霊の世界での現象が自由に自分のものに出来るはずです。主は今それを私たちに期待しておられます。
しかし現実には、それがなかなか実現していません。その最大の原因は、結局のところ「自分に死ねない」ことにあるように思えます。自分に死ねないから「キリストの思いが私たちの思いに」ならないのです。それは、根本的に「自由意志」に対する私たちの考え方に原因があると私は思います。
皆さんはクリスチャンが「霊的に成熟する」ことをどのようにお考えでしょうか。
「私たちが早く霊的に成熟する目的は、丁度子供が大人に成長して自立するように、早く自分で少しでも多く神の御心が行えるようになることである」とお考えになっていないでしょうか。
もしそうであるとすれば、それは「律法的な生き方」であると思いませんか。この生き方は「自分で出来るだけ御心にそって生きる努力をしてみますが、うまく行かない時は助けて下さい。」という考え方に立脚しています。ほとんどのクリスチャンは、大なり小なりこの考えで「何も悪くない」と思って頑張って生きているのではないでしょうか。その結果自分がぴんぴん生きています。それが人間に自由意志が与えられた理由であると思っておられませんか。
私たちが霊的に成熟することとは、パウロがピリピ3:7−9、その他のところで言うように「イエスキリストを個人的に知ることと主の信仰で生きることのすばらしさに比べたら、肉の自分の一切のこと(自分の名声も考えも、それで生きることも)全く何の価値もない。」という境地に先ず到達することであると思います。そのような「自分で生きる」などとは思いもよらないというへりくだりの境地に達した時、イエスが「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに・・・・」(ヨハネ8:28)と言われる父への愛と従順にとりつかれた情熱で生きる姿になれるのであると思います。まさに「あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるため」(1コリント2:5) にあるのです。このような生き方だけが主の期待しておられる「霊的成熟」であると信じますが、いかがでしょうか。さもなければ、神は私たち人間の中に聖霊ご自身が住まわれ、自分にトータルに死になさいなどとは決しておっしゃらないはずです。
主と共に大海に出る信仰を目標に掲げ、主にそれを毎日願い、自分の自由意志で「自分で生きる権利」を放棄することを宣言し、毎日私たちが主を見上げ、主の御声を聞いて従う、主の御心で生きる努力をし続ける時に、たとえそれが今は不完全であっても、主はあわれみをもって私たちに力を与え、信仰を引き上げて下さると確信します。やがてはそのような私たちを、神は超自然の奇跡を起こされるべき器に育て上げ、大いに用いられることを信じて疑いません。そのようなクリスチャンを今主は求めておられます。(終わり)
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28 03月
まず神が愛された故に
グラハム・クック
神が私たちに求められるものは、すべてまず最初に神が私たちに与えられます。 キリストによって私たちの内にすでに与えられているものでなければ、神は決して私たちに要求されません。私たちの持ついかなる啓示もそもそもは神によって与えられたものです。私たちが神に捧げるワーシップも、神が私たちの内に置かれたものです。神に捧げる私たちの愛はすべて、神がまず私たちを愛してくださった故に存在するのです。私たちが神に捧げる栄光はすべてもともと神から来たものです 。私たちがすることは、神がすでに与えてくださったものをそのまま神にお返しするだけなのです。
このように御霊のうちに生きることは、直感的、直覚的なことです。私たちが神に頼って生きることに喜びを持つようになると、 常に期待し待ち望むという姿勢で生きることができます。クリスチャンは決しておどおどと人生を恐れて生きるようであってはなりません。常にイエスに夢中で魅了されっぱなしの人生を送るべきです。
私は期待感でわくわくしながら人生を過ごしたいのです。 周りで起こっている様々な状況に脅かされることなく、神ご自身と神がなさることにいつも魅了されて生きることを私は今学んでいます。 私は自分の人生の毎日の出来事、問題、課題の中に神を見出したいのです。神は毎日四六時中、何かを計画されておられることを私は知っています。私はそのご計画に参画したいのです。私が毎日置かれている状況の中で、神がご自身(の性格)をもっと私に教え、あらわしてくださることを知りたいのです。私はローマ人への手紙8:28の「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という法則をしっかり信じて実践したいのです。
私たちが幼な子のようなシンプルさで生きるならば、私たちを打ち負かせるものは何もありません。「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とローマ8:37でパウロは言っています。勝利者とは、自分一人が解放されるだけではなく、他の人々をも自分と同じライフスタイルで生きる自由さへと解放することです。
まだクリスチャンになっていない人に「伝道しよう」とすることは、私たちができることの中で最低、最悪のことです。神は私たちに「伝道する」ことを要求されてはおりません。そうではなく、私たちの周りの人たちが、私たちの中にある神のご性質のよさを見て興味をそそられるような生き方をすることこそ、神が望んでおられることだと私は思います。そして人々が神に関して、あるいは私たちを見て感じることについて何か質問された時には、いつでも答える用意が出来ていなければならないと思います。私たちは常に神がしておられることを見張っていて、神のその時のご計画に従って神と共に歩いて行かねばなりません。これこそイエスが神の愛を人々に伝えた時に用いられた方法であり、主はヨハネ5:19で次にように説明されておられます。「まことにまことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」
神がある一人の人をあなたに示されて、その人に何か特別のことをしなさいとか又は言いなさいと告げられるときは、神はすでに私たちがその人に与えようとするものを私たちの心に与えておられるのです。それをその人に伝えることによってその人の心が変えられる、その心と私たちの従順さが神のもとに返されるのです。マタイ10:8でイエスは「あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と言っておられます。伝道とは、神がある人の人生の中に始めたいと思われるサイクル(コミュニケーション)の一端を担うことです。
神にすべてを頼り委ねる生き方の喜びとは、どのような状況も私たちの内の神の働きを止めることは出来ないということです。イザヤ54:17に「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。」とあります。私たちの内にある神の力は、それだけで何事をも克服することができるのです。 私たちが神の真の偉大さを見るとき、 驚嘆の思いに満たされるとき、 幼な子にようになるとき、私たちは神が見られるように自分自身を見ることが出来るようになります。即ち、 誰も止めることができない(神の)慈愛と善の推進力として自分を見るようになるのです。(終わり)トップへ戻る
23 03月
あなたを熱く追い求める神
ライアン・ワイアット 2010年に入ってから、神が御自分の民に特別な呼びかけをしておられることを私は感じています。「今この時」が恵みのシーズンであることを私は強く確信しています。私たちが生かされている「今」と言う時は、神のご計画の中で教会がそのデスティニーに向かってさらに突き進んで行く シーズンであると私は確信しています。今こそ神が勝利を明らかに顕され、私たちの人生を前進させてくださるシーズンです。
しかし勝利し前進するためには、 条件が一つあることも私は感じています。前のシーズン、そして過去数年間は多くのクリスチャンにとって波乱に満ちた困難な時でしたし、また世の中においてもそうでした。ここではっきり申し上げたいのですが、このような激動や苦難がこれで終わりを告げるとは私は考えていません。実際多くの場面でこの傾向は更に増加すると思います。
それはそうなのですが、 今は神の民が前進する時であることには間違いないのです。今は神の民が、意気消沈、絶望、失望、無関心、自己満足から抜け出し立ち上がる時です。今は神の民が 新たな希望、新たな期待、新たな大胆さと勇気をもって勝利のうちに立ち上がる時なのです。今こそ神の民が敵に奪われてしまっていたものを取り返す時です。再び信じる時です!
向きを変え道をそれて火に入れ
今年勝利をもって立ち上がるためには一つの条件があります。神は「向きを変え道をそれて火の中に入れ」と言われています。私はテネシー州のノックスビルでハビテイションという教会を導いています。2010年の初めから、教会の人々の間に大いなる心の高まりがあり、 神の臨在とブレークスルーの感覚が一週一週どんどんと強くなっていくのを実際に感じてきました。これはノックスビルだけに起こっていることではありません。カンサス・シティーのIHOP(国際祈りの家)やノースカロライナ州シャーロットのモーニングスター・ミニストリー、その他世界中の多くの場所で神の霊の覚醒、鼓舞、奮起、傾注が起こっていることをすでに多くの方はご存知でしょう。何かが起こっているのです!
そしてこのところ神は、出エジプト記3:1−5にあるモーセの話から私に語られています。
モーセがいつも通りに仕事をしていたとき、何かを感じ何かを見たのです。彼は燃えているのに燃え尽きない柴を見ました。モーセが「なぜ柴が燃えていないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」と言った事実に神は私のために光を当ててくださいました。 聖書ではその次に「主は彼が道を横切って(道をそれてー新共同訳)見にくるのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。」と書かれています。神はモーセに召命を与えたいと思われました。しかし聖書によると、 モーセが燃えている柴の方に道をそれて行こうと決心したのを見るまでは、主はモーセに語りかけられませんでした。
今、リバイバルの音が霊の中に響いています! 今、覚醒の音が霊に中に響いているのです! この招きを感じている人、この高まりを感じている人、そしてこのシーズンに「道をそれる」意志のある人を神は探し求めておられるのだと私は信じます。神は何をしておられるのでしょうか? 主は私たちが向きを変え道をそれて主の炎の中に入るようにと私たちを招いておられるのです。
非常に多くのクリスチャンがこれまでのシーズンでは幻滅を感じたり失望したりしてきました。非常に多くのクリスチャンが冷たくなり希望を失いました。非常に多くのクリスチャンがヴィジョンを失い、無気力で自己満足に陥っていました。神は私たちが今までの決まりきった日常から向きを変えるようにと招いておられるのです。日常の生活という道からそれるようにと招いておられるのです。今まで私たちを阻んできたものから離れるようにと招いておられるのです。向きを変えて主の炎の中へと入るようにと招いておられるのです!
あなたが今のシーズンで向きを変え始めると、神はあなたの心を暖め溶かしてくださいます。あなたが向きを変え始めると、神はあなたの渇いた土の心に浸透し、あなたを目覚めさせて新しい情熱を与え、 主を炎のように熱く求めるようにしてくださいます!これはあなたが自分で自分を奮い立たせるということではありません。今シーズン主があなたに求めておられることは、ただ向きを変えて主の臨在の炎の中で時を過ごすということだけです。神の炎がことをなしてくださいます。神の火のような臨在があなたの心に広がり、あなたを呼び覚まし生き返らせてくださるのです。
神はあなたを熱く求めておられる
今神が私に強く示してくださっているもう一つの箇所は、ルカ24:13−34です。二人の弟子がエマオへの道を歩いていたときに復活されたイエスが彼らの横に来られました。弟子たちは復活された主が誰なのかわかりませんでしたが、一緒に歩くうちに自分たちの心が内に燃やされ始めたのを感じました。夕暮れになり町に近づいたとき、聖書にはイエスがそのまま 先に行かれる御様子だったと書かれています。二人の弟子は強く願って 主が「向きを変え道をそれ」その夜一緒に泊まられるように頼みました。彼らの強い願いの故に、イエスは彼らの家に入られ、食卓につきパンを裂かれました。その時、弟子たちの目が開かれ、この方が復活の栄光の姿のイエスであることがわかりました。
これを書いている今でさえ、私は神の臨在が私を覆うのを強く感じています。 御自分の民に「今あなたが進んでいる道をそれ、そしてよく見なさい。」と強く招いておられる神の御心を私は感じるのです。あなたがひどく渇いていたとしても 、自分が餓え渇いていることを認めて神の臨在を求めるという決意をするならば、あなたの心は再び生き生きと潤い始めるでしょう。すべての失望を捨て去ることを選びとってください 。すべての落胆を捨て去ることを選びとってください。もう一度信じることを選びとってください。もう一度希望を持つことを選びとってください。神の慈愛と火のような臨在があなたを再び目覚めさすことを期待することを選びとってください。
神はもっと多くのことを語っておられますが、今日は次の言葉をもって終わりにしたいと思います。あなたが神を求めるよりももっと神はあなたに飢え渇き情熱をもってあなたを求めておられます。神はあなたを熱く追い求めておられるのです!あなたが主の臨在の炎で燃え上がることを主は望んでおられ
ます。最近あなたを阻んでいたすべてのものから完全に自由になることを神は望んでおられます。今日自分を神とアラインさせることを選びとってください。今日「向きを変えて」神の臨在の炎の中に入ることを選びとり、今シーズンのための新たな希望、新たな勇気、新たなヴィジョン、新たなエネルギー、新たな油注ぎを受け取ってください!(終わり)
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16 03月
時に備える
リック・ジョイナー
私たちのミニストリーにおける肩書きは、自分のミニストリーを理解してもらうのに確かに役立つときがあります。しかし最近では霊的肩書きの濫用や不適切な使用が霊的価値をひどくひき下げてしまう結果となっています。ミニストリーをしている人々のうちには、自分は使徒であるとか、ビショップ、又は 預言者であるという人たちが大勢いるのです。そういう人に あまりにも頻繁に会うので、「私は牧師です」とシンプルに言う人に会うと、その謙虚さの故にだけでも その人に尊敬と信頼の念を抱くのです。
しかしながら今私たちはそれらのミニストリーが教会に回復されてきている時代に生きているのであり、そのことを期待しないというのでは主のご計画を見失うことになってしまいます。私たちはそれらの人々を認め受け入れることをしていかねばなりません。私たちが預言者を預言者だとして受け入れるならば、私たちも預言者の受ける報酬を受けるのです。しかし預言者をただ教師として受け入れるならば、私たちは教えだけしか受けとることができません。 これはすべてのミニストリーにおいて同じことが言えます。もし使徒を教師としてだけ受け入れるならば、私たちはその人から教えだけしか受け取れません。しかしながら、もし 教師を使徒として受け入れてしまうならば、私たちは恐らく 間違った悪いリーダーシップを受けることに なってしまうでしょう。ですから、ミニストリーの責任者には「自分たちの中で働く者をよく知る」責任があるのです。
パウロは自分が使徒であることを声を大にして弁明しました。確かにミニストリーの肩書きはそれを使うべき時や必要性がある時もありますが、パウロの弁明は自分のためではなく人々のためのものでした。彼の弁明は自分を売り込もうとか大言壮語するというのではなく、 パウロの子供たちを教える父親としての心から出たものでした。それは恵みと威厳、崇高な知恵に満ちていました。そしてそれらの徳は王なるイエスに遣わされた真のメッセンジャーとしての品質保証であることを私たちは知ることになりました。
それと同じように、主からの啓示や夢、ヴィジョンにはそのような恵みと威厳が備わっています。今の時代、主は 命令されるのではなく 招かれることによって 私たちを導かれています。主はご自分が願われることを実行する権威をもっておられますが、黙示録3:20にあるように、主はご自分の教会の外に立って戸を叩かれ、それを聞いて戸を開く者があるかどうかを待っておられるのです。その理由は、今は主と共に共同相続人となる者たちを主が探しておられる時だからです。共同相続人とはただ強制されて従う者ではなく、真理を愛するが故に主に従う者たちです。ですから、私たちがある真実な預言的啓示を受けたとしても、 それを直ぐに行動に移さねばならないというプレッシャーを決して感じるべきではなく、むしろそれは主からの招き(召し)であると感じるべきです。何かに対する警告を主から受け直ぐに行動を起こさねばならない時もありますが、それも必ず主の恵みと威厳も伴ってくるはずです。それはヤコブ書3章にあるように、プレッシャーとしてではなく私たちがそれに応答することを招いているものなのです。
何かを急いでするようにとせき立てられているように感じるとき、それは主からのものではなく、その時私が取ってしまう行動は大抵大きな間違いとなるということを私は学びました。主は始めから結末を見ておられるので、私たちにあわてて何かせよとせき立てる必要を感じられることは決してないのです。聖書には「主を待ち望め、忍耐せよ」という勧めは沢山ありますが、あわてて何かをせよと言っている箇所は一つも知りません。私は多くの経験をし、多くの間違いをしてきたので、本当に主が語られ導かれるときはどのようにであるかという事を学ぶことができました。
さて、真のミニストリーには 重要な必須条件が一つありますが、これは私たちがミニストリーのやり方として普通考えているものとはかなり異なると思います。それは、聖霊は「助け手 The Helper」であり「実行者 The Doer」ではないということです。「私たちのミニストリー には自分たちが混じってはいない、すべて主です」と人々が言うとすれば、それが 真のミニストリーであるならば、彼らは誤解しているのです。そのミニストリーの人たちが「混じっている」ことは悪いことではないばかりか、必要なことです。 主がすべてのミニストリーに私たちを全く混じ入れさせないで100%主がなさると思われたのであるならば、主はこの世を去りはしなかったでしょうし、誰にも何もさせなかったでしょう。
ルカ10章において主は弟子たちを二人ずつ遣わし、福音を語り、病人を癒し、悪霊を追い出させました。弟子たちは非常に素晴らしい成果をあげたので、彼らが戻ってきたとき主は 「わたしはサタンがいなづまのように天から落ちるのを見た」と言われました。しかし弟子たちがイエスに祈り方を教えてほしいと頼んだのは次の11章になってからの事でした。彼らはこれらすべての業が出来たにも拘わらず、まだ祈り方さえ知らなかったのです。
主が弟子を信頼しものすごい権威をお与えになったとき、彼らが 完全ではなく成熟もしていなかったことは明白です。しかし、彼らに癒された人や解放された人、 御国が来るという福音を聞いた人たちの中にそのことで不平を言った者はなかったと思います。イエスが十字架に架かられる直前でさえ、 誰が一番偉いかと言う事で弟子たちは言い争っていたのです。そして その数週間後には教会が形成され始めるという最も大切な時代のリーダーに彼らがなろうとしていたのです。それから何年も経ってからさえ、弟子のうちにはまだ大きな失敗を犯している者もいました。 ペテロはアンテオケにおいて一番若い使徒から「彼に非難すべきことがあったので」と叱責されねばなりませんでした。
ミニストリーやリーダーリーダーシップに対して(それがいかに成熟しているものであっても)完全を求めるのは愚かなことです。私たちは「土の器」に希望をおくのではなく、器の中にある「宝—聖霊」にこそ希望をおくべきなのです。もし私たちが正しく聖霊を信頼するならば、 人々に頼りすぎたり失望させられたりはしないでしょう。ミニストリーやリーダーたちが真に主のしもべであるならば、 自分が信頼されることを求めないで、人々が主にこそ信頼することを望むでしょう。 イエス御自身が崩れることのない土台なのです。も
06 03月
あなた自身の脂肪を燃やせ!
チャック・ピアス
私たちは新しい 栄光 の 領域 へと入ろうとしています。今は非常に重要な時であり、主は 私たちが「主の栄光を見るように」と 召しておられます。 私たちは今 、新しいシーズンのために 新しい 自分のアイデンティティーを築き上げつつあるのです。私たちは栄光を着るのです。そのためには新しい預言を求め、それを実行するに必要なより高レベルの供給が与えられることを主に願ってください。富と栄光は切り離せません。この一週間、主は私たちが前進するために助けとなるいくつかのパターンを私に示してくださいました。私たちは現在自分が立っている場所をしっかり把握 し、それより更に進んで行かねばなりません。
先週の集会で主は次のように語られました。「あなたは今までいた所よりも更に進んでいきます。一つのシーズンにおいてあなたは火を持っていましたが、今はそれを越えて、あなた自身が次のシーズンの火となるのです。あなたは弓を引いて、今までに行った場所を越えた所に矢を放ちます。あなたは浅瀬や渦を巻いているところを渡りながら水の中に入っていくでしょう。あなたは水嵩が増してもひるまず、どんどん進んでいくのです!」
私には見えます。あなたはまるで吹雪の中で道を失い、どうにかしてそこから抜け出したいと懸命になっている人のようです。もうすぐ深い森から出られそうなのですが 、あなたは疲れ果てて横になって眠ってしまいたいと感じています。私は主が言われるのが聞こえます。「あなたの中に火がやってきて、今のシーズンにあなたを眠らせようとしているものを溶かし去るでしょう。あなたは『魂の活力』を失いました。しかし、わたしはあなたの魂を再び燃え上がらせさせます。なぜならばあなたの中には 今のシーズンに燃える熱い火というアイデンティティーがあるからです。その炎の門を通って、あなたは加速の勢いがつくのです。その勢いの瞬間を掴みさえすれば、あなたが今までずっと待ち望んできた事を実現に持って行く ことができるでしょう。あなたは過去に『その事が私から逃げて行く』と言いました。しかし、 わたしが 今 あなたの魂に火をつけて爆発させ 、そこで眠ってしまっていた起こされるべきわたしの栄光を呼び覚ます瞬間を捕らえなさい。
「あなたの魂は渇ききり叫び求めていました。しかし今日あなたの魂の中に勢いよく水が流れる音が起こり、それがあなたの魂を癒すだけではなく、目が見えるようにします。あなたは自分の魂の奥底を見ることができ、それによって自分のアイデンティティーがはっきりあらわされるでしょう。わたしの御座から川が流れ出て あなたの魂に流れ込むのを止めないようにしなさい。そうすればあなたの魂は前進していくための新しいエネルギーを受けて、わたしの中で生き生きと生き返るでしょう。あなたの魂は今こそ見えるようになるのです! あなたの奥深くにある願いを映し出す自分のアイデンティティーを今まであなたは見た事がありませんでした。しかしわたしは川を流してあなたが今まで見たことのないものが映し出されるようにします。」
「地上にいるわたしの民のアイデンティティーは今変わりつつあり、彼らが未来へと渡って行くときには異なるアイデンティティーを持つようになるでしょう。わたしを映し出さない(わたしのものでない)ものは取り除きなさい。過去においてあなたがわたしの言葉を消化するのを妨害するいろいろな言葉が発せられてきました。それらの言葉によってあなたは恐れを抱き、わたしがあなたに進んで行けといった場所に進むことができませんでした。しかし、妨害の言葉は今やあなたの中の川と火によって押し出されていくので、あなたは大胆さをもって「今のシーズン、私はこのような者だ」ということが出来るようになります。
かつて燃えていた(生け贄を焼く)火が再び燃え始めたので、わたしが求めている生け贄の香りがわたしの民から立ち上っています 。あなたは過去に燃える香りは嗅いだことがありますが、火を見たことはありませんでした。燃える匂いを嗅いでじっと見ていなさい。わたしが火の上に息を吹きかけているから、今火が燃え上がろうとしているからです。あなたには燃えた匂いがついているが、今や あなた自身の中に火があかあかと燃え上がるでしょう。わたしの民の中に新しい火が起こされねばならないのです。わたしにその火の門を開けてくださいと願いなさい。そして今まで数ヶ月間あなたを清めるために燃えてきた匂いが今新しく燃え上がる火となるようにとわたしに願いなさい。
脂肪が火の中に入れられようとしています! 今まであなたは肉の力で自分の体重を減らそうとしてきました。あなたは重さをなくそうとしてきましたーそれは身体のことだけではなく霊的な重さもですー 今、その脂肪が火の中に入っていきます。天の火の門が 開かれ、今脂肪が火の中に入っていきます!あなたは川に向かって 川を越えるべく進んで行き、今までのシーズンにあなたがいた水嵩を越えて 更なる深みへと進んでいきます。
集会にいたレアン・スクイヤが次にように言いました。「脂肪に関する一つのことは、すべての毒素がそこに貯まることです。神がすべての脂肪を火に投げ込みなさいと言われたのはすばらしいことです。私はパウロが蛇に咬まれたときそれを火の中に振り落としたことも思いました。主は言っておられます。『今までのシーズンであなたに貯まってしまった脂肪 の中には様々なものがあり、あなたはそれをわたしに捧げなければならないとわたしは言います。なぜならば、その中には蛇(複数)がいるからです。わたしがそれをわたしの祭壇の上のわたしの火によって焼き尽くせるように、それを振り落とすことをわたしはあなたに願っています。』」
「わたしに生け贄を持ってきなさい。そして今まであなたがいた所を越えて前進しなさい。あなた自身を生け贄としてわたしに持ってきなさい。あなた自身を生け贄として捧げる時、今まであなたを抑えていたもの(あなたの中でもやもやしていたもの)があなたから出て行き、あなたに解放がやってくるでしょう。わたしがあなたに立ってほしいとずっと願ってきた場所に自分がしっかり立っているのをあなたは発見するでしょう。解放の業が今や始まったのです。洪水の門、解放の火の門、が今開かれ、解放がわたしの民の間に起こっているのです。彼らはわたしに新しい方法で生け贄を捧げています。わたしがあなたの中に火を付ける瞬間をじっと見守りなさい!」(おわり)
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