Walk With God Ministries
Archive for 1月, 2010:
26 01月
これからの時に備える
リック・ジョイナー最も(霊的に)高度なクリスチャン生活を送るためには、聖書の深い理解が必要であると共に、深いデボーション(主の御声を聞きもっと深く主を知る)がそれに伴っていなければなりません。私たちが今年学ぼうと決意したことはこの二つのことであり、この二つを達成できたならば2010年は非常に成功したといえるでしょう。
以前にも述べたように、書かれた神の御言葉と神から直接受けるメッセージや啓示との間には矛盾は決してないことを私たちは知っております。 神は偽りのない方であり、又、変ることがない方であると聖書は私たちに告げています。ですから書かれた神の御言葉(聖書)は、すべての預言を正しく判断するための基盤として私たちが信頼すべきものです。神からの預言やメッセージは決して聖書に書かれていることと矛盾はしないはずなのです。
西洋的な考え方は縦の論理を基本にしています。そして、それはしばしば私たちがすべての事に関して原則を作るように強く働きかけます。時にはそれは良いことであり有益ですが、しかし時にはそれがつまずきとなり私たちを 真理から遠ざけてしまうことがあります。勿論、基本的な原則の中には、 私たちが健全な聖書の信仰の道をはずさないように助け、また、私たちが聞いたものが 主の御声か、そうではないかを見分ける能力を与えてくれるものがあります。これに関してはまた詳しく述べたいと思いますが、真理を知り、神の御声を知るために一番大切なこととはそれらの原則(を知り、追うこと)ではないことも私たちは知るべきだと思います。(何故なら)真理とは「人、あるお方」であり、単に事実・真実ではないからです。
ちょっと考えてみてください。私がある人の声について説明したら、あなたはそれがどのようなものかを確実に知ることができますか? 例えば、私の妻の声がどんな声かを言葉で表現するには、何か誰にでも当てはまるような一般的な表現を使うしかないのですが、たとえそうして説明したとしてもとても難しいことであると思います。妻の声を聞いたことのない人が、私の説明する表現だけで彼女の声が分かってしまうことはとても考えられません。しかし大勢の人が話している中に妻がいたとしたら、私は彼女の声を直ぐに聞き分けられます。どのようにして? それは私が彼女とずっと長く暮らして来たからです。それと同じように、私たちが主の御声を本当に知る唯一の方法は主と共に時を過ごすことなのです。
他人を認識する方法は実のところ二つしかありません。顔か声です。特別変った特徴があれば別ですが、 ただ手や足を見るだけであなたが認識できる人が何人いますか? そうです、私たちは人を顔か声で認識するのです。ですから、聖書の御言葉は私たちが主の御顔を探し求め、主の御声を知ることを強く勧めているのです。
私は聖書を何度も読み、主がどのように人に話されたかを深く研究しました。しかし、私が主の御声を知ったのはその研究によるのではありません。私が神の声を認識するのは、 妻の声を聞き分ける時のように耳に聞こえる声のトーンによるのではなく、霊的なトーンによってですが、神の声は宇宙の中でユニークな霊的トーンを持っています。聖書が教えているように、宇宙には多くの声があり、それぞれがユニークです。それではどうやって主の御声を聞き分けることができるのでしょうか? それは主を知ることによってです。
勿論、主はご自分の声を他のものたちが決して真似ることができないような特出したものにすることはお出来になります。そうすれば私たちは主の御声を他のものの中からいつも認識できるわけですが、主は私たちのためにそうなさいませんでした。主の御声の霊的トーンを知るためには、私たちは主の御こころと御思いを知らねばなりません。主ご自身を(個人的に)知らねばならないのです。これは私たちが主を求め主との交わりが深まることによって知ることができるものです。真の弟子ではない人たち、つまり真に主を求めていない人たちは、主の御声を聞き分けることができません。
これが 「小(子供の)羊(lambs)は羊飼いの声を知っている」ではなく「(おとなの)羊(sheep)は羊飼いの声を知っている」と主が言われた理由です。子羊は自分で主の御声を十分に知り、他の声と区別が出来るようになるまでは、自分よりもっと成長している羊の後に付いて行く必要があるのです。
私は昔、ある人が中東地方の丘に座っていた時の話を読んだことがあります。彼は三人の羊飼いが水飲み場に、それぞれ自分の羊の群れを連れて違う方向からやって来るのを見ました。彼は羊の群れが同時に水を飲めば、みんな混じってしまって羊飼いたちはそれぞれの群れを区別することが出来ないだろうと思いました。思ったとおり、羊たちは水飲み場につくと混じりあい、どの群れに属するものかわからなくなってしまいました。
しかし、羊飼いたちは少しも心配する様子もなく、互いに話しをしていました。羊がみんな水を飲み終わると、羊飼いたちはそれぞれの道を進み始め、歩きながら歌を歌い始めました。沢山の羊の中で大混乱が起こりましたが、小さな羊の流れがそれぞれの羊飼いの後ろに付き始め、やがてすべての羊はそれぞれの群れに分かれていきました。すべての羊は羊飼いの声を知っていて他の声と区別ができたのです。どうしてでしょうか? それは羊たちは自分の羊飼いとずっと過ごしていて、彼が歌う声を聞いて きたからです。私たちも主の御声をこのように知り、この世にある他のすべての声と区別できねばならないのです。主と共にいることに代われることは何もありません。
今年のデポーションは、私たちの根をもっと深く聖書の中におろすことであり、主の真理を深く愛して求め続けることです。また、主にもっと近づくことによって主の御声を知ることを追い求めることです。私たちがこのことにずっと集中して求め続けるならば、この2010年は私たちの人生の中でもっとも重要な年の一つとなることでしょう。これからの時は、私たちが真の弟子として、こうした基本的な訓練をどれほど真剣に追い求めて来たかどうかに掛かっていると言って差し支えないでしょう。(終わり)
トップへ戻る
19 01月
2010年 祝福の鍵チャック•ピアス この預言をじっくりと読んでください。あなたの役割は重要です。あなたの奥深くまで手をさし入れてください。解き放たれるべき祝福があります。新しい年を始めるに当たって、私たちの鍵はここにあるのです。
神は言われます。「わたしはあなたの内にある非常にユニークなものをあなたのために組み立てています。あなたが造り出そうと試みたものをわたしが造っているのです。あなたは物事を完成させようと強く願ってきましたが、自分のパズルを自分だけでは組み立てることができないことがわかるでしょう。あなたは自分の回りにいる人たちや彼らのパズルをも完成させようと試みてきました。
しかし、わたしが彼らのために造ったパズルを完成するために必要でまだ見つかっていないパズルの一片は、わたしがまだ握っています。それが分かっていないあなたはうまく見つからないのでいらついていました。あなたは自分に必要なパズルの一片が見つからないまま、正しい一片ではないものを探しつづけ、また、他の人のパズルの見つからない一片をも探しつづけました。しかし、わたしが取り扱って来たのはあなた(自身の全体)だと言う事をあなたは今悟りました。そして今、わたしはあなたというパズルを完成させる最後の一片をあなたに見せましょう、それはあなたに必要な一片です。
今は、わたしがあなたというパズルで残された最後の未完成の一角に磨きをかけ始めるときです。あなたの一部である尖った角の鋭さが今丸く削られようとしています。そのための心の用意をしなさい、あなたの人生がわたしの計画通りに行くために必要な調節作業を、これから数週間のうちに、超自然的に起こるようにしているからです。わたしはそのための色々なしるしを既に天に送ってあり、わたしだけが総ての時(タイミング)をコントロールしているものであることをあなたが悟れるようにしました。あなたの内にわたしが始めたプロジェクトは必ず完成させるとわたしが決意していることを知りなさい。
配属されるのを待ちなさい。あなたの配置を待ちなさい。わたしはこの一片がぴったりとはまる場所を、あなたが自分の内から引き出すようにします。もしあなたが自分の奥深くに手を差し伸べ、わたしにしかその一片をぴたりとはめ込むことのできない場所を引き上げるならば、わたしはそれをはめましょう。
あなたがまだ解き放っていない祝福があります。わたしは言います、『その深いところにある祝福を引き上げなさい。あなたの奥深いところにそれはあります。その祝福があなたの口で形造られ(宣言して)出てくるならば、あなたがずっと待っていた祝福はあなたの上に注がれるでしょう。』
奥深くにある祝福を引き上げなさい。そして、あなたの敵を祝福せよ。
あなたが絶対に祝福できないと思っていた事さえも、あなたはその上に祝福を送ることができるのです。それはわたしが『あなたの敵を祝福しなさい』と言ったからです。 あなたの奥深くに祝福があり、あなたがそれを口で宣言するのを待っています。あなたがたは祝福を解き放つシーズンに入っているのですから、自分の奥深く入っていき、今まであなたの口からは出たことのない祝福をあらわしなさい。
あなたはあなたの敵をわたしがあなたの敵を見るようには見ていませんでした。あなたはあなたの過去を、わたしがあなたの過去を見るようには見てはいませんでした。だから奥深くにある祝福を引き上げてあなたの敵を祝福しなさい。あなたが敵を祝福するとき、わたしはあなたの頭を敵の頭より上にします。しかしあなたの口があなたの敵を祝福するまでは、あなたの頭を高く上げわたしがあなたに見せたいと願うものを見せることは出来ないのです。
わたしはあの大災害があなたの傍にくることを許しました。それはあなたが今までとは異なる成長を遂げるためです。あなたは成長して、今まで見えなかったものに目を開けて見るようになります。立ち上がって今まであなたを悲惨な目に遭わせようとして来ていたものを見なさい。大災難と困難を前にして、あなたがそれによって悪い姿に形造られないように、わたしがあなたを守ってきたのです。前のシーズンではあなたが見ることができなかったヴィジョンを、今あなたは見ることができるでしょう。」
集会の歌い手であるレアン・スクイヤが、以上の預言を聞いて 次のように歌いました。
「今まで見えなかったものが見えます。私の目の前で水が流れはじめました。今まで見えなかったものが見えます。あなたは私の前に道をもうけられました。」
彼女の歌に対する主の答えがきました。
「あなたはわたしが『今の時』を直そうとしていると思いました。でもそれは違うのです。わたしはあなたが行こうとしている未来を調えていたのです。わたしの目はただ『今の所、今の時』を見ているだけではありません。わたしの目はあなたの未来への道を見ていたのです。」
次に主が言われました。「わたしの目は未来へのあなたの道を見ていました。あなたが握りしめようとしていた道は、あなた自身が握りしめていたものであって、わたしが握っていたものではないことが今あなたにわかるでしょう。今あなたはそれをどうやって手放せばよいかがわかるでしょう。今あなたはわたしがあなたに掴んでほしいと願っているものが見えるようになるでしょう。あなたを見えなくしていたものがあなたの周りで砕かれました。あなたの頭をわたしの方に上げなさい。そうすればあなたは上から見下ろして今までは見えなかったものを見ることが出来るでしょう。
わたしは編み合わせリフォームする
わたしは一つの統治機関を今造っており、その各部署はすでに造られています。あなたはわたしが造っている整然と動く軍隊の中で鍵となる者です。ここに上がってきて下を見なさい。そうすればあなたは軍隊のムーブメントとその態勢、そしてあなたが配置される部署を見ることができるようになるでしょう。
あなたのパズルの一片はわたしにとって重要なのです。今わたしがそれをあなたの中にはめ込むのを見なさい。それは今まで欠けていた一片であり、それによって今や祝福を造り出し、その祝福があなたの心や思いの中に流れ始めるでしょう。そしてわたしはあなたを選んで、将来用いられる構成要素の中に配置するでしょう。
あなたの回りの者たちにわたしがしていることを裁いてはいけません。あなたが過去に裁いていた先入観念を基にして、早急に人々を裁いてはいけません。なぜならばわたしは
今人々を編み上げてリフォームするプロセスをしているのです。あなたが早まって裁くならば、あなたはこれから現れて輝き始める器を見逃すことになるでしょう。錆びて使い物にならないように見えた者たちをわたしは今この世に顕すからです。わたしは今のシーズンに、多くの者がそれから飲む新しい器たちをわたしは用意しているのです。」(終わり)トップへ戻る
18 01月
霊的な礼拝とは 坂 達 也 礼拝を含めた色々な集会において、濃厚な主の臨在を経験したことのないクリスチャンはほとんどいないと思います。しかし皆様は、主の臨在とは先ず個人的に毎日経験すべきものであるということを信じておられるでしょうか。
私の場合は、毎朝主とお会いしたくて一人で主の前に出ます。主の御前に出て静まり、主と共に時を過ごし始めると、主の平安と愛に包まれていきます。そして顕著な主の臨在が現れてくださることも多くあります。一昨日の朝がそうでしたが、主が来られてお傍近くで直々に親しくお会い出来たときは、本当にうれしくて感激と喜びで一杯になります。
勿論いつも主のはっきりとした臨在が来てくださる(感じる)とは限りません。しかし、たとえ顕著な主の臨在感がなくても、平和で平安な気持ちで満たされていれば、それは御霊の実の顕れですから、主の御霊がそこに臨在されている証拠です。
私たち御霊の内住を受けているクリスチャンは、いつも御霊の臨在と共にあり、その臨在の導きで歩んでいなければなりません。(ガラテヤ5:16)この霊的事実は信仰で受け取ることであり、私たちの肉の感情とは無関係のはずです。
最近の私にとっては毎朝御霊とお会いし、御霊に満たされること、それが大いなる楽しみとなっております。それは主の御声を聞くためというより、主と静かで楽しい時を過ごしたいという気持ちからです。
ジョン・ベルトという人が詩篇23:2「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」を引用して、最近次のように語っています。「私たちは騒々しい音(音楽も含んでの意味であると思います。)の中で暮らすことにあまりにも慣れ過ぎているが、この騒音中毒症状を打ち破らねばならない。私はむしろ、神と共に過ごす「静かな時」を愛することのリバイバルが起こるべきであると願っている。私たちはこの神と共に過ごす「静けさ」にこそ中毒となるべきだ。神は私たちの心の奥深い場所に住まいたいと思っておられ、私たちに静かで平安の場所を約束して下さっている。この心の奥深い静かな場所において私たちは神を知り、親密な関係を築く。そこで主は神の栄光を私たちに顕わして下さる。」
「静かな時を愛するリバイバル」とはすばらしいではありませんか。実のところ、私は誰かがこれを言ってくれることを待っていたように思いました。
私はダビデによる詩篇23を読む時はいつでも、この詩だけが持つ独特の「音色」と言いましょうか、それはダビデの心そのものが溢れるように伝わって来ます。恐らくそう感じるのは私だけではないと思います。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
私はクリスチャンになった頃は英語の聖書に親しんでおりましたので、最初の二節The Lord is my shepherd;Ishall not want. He makes me to lie down in green pastures; he leads me beside the still waters.の方に今でも親しみが湧きます。特に1節でIshall not want は「乏しいことがありません」の意味で全く間違いではありませんが、むしろ「私は主が私の必要な総てを与えてくださるので心から満ち足りており、私自身は何も欲しくはありません。」という英語訳のニュアンスが好きです。又、2節を読みますと、水のほとりにある緑の牧場の光景が「神の平安」に包まれたすばらしい場所であると同時に、神にあっての「静けさ」が伝わって来ます。邦訳にある「いこいの水」とは、多くの英語の聖書で「静かな水still water」と訳されていますが、それは怖い急流でも、よどんで死んだような水たまりでもない、安全で静かな清流のほとりという意味でありましょう。
この詩篇は神をこよなく愛したダビデが、神と自分との関係を表した心からの主への愛の讃歌であり、主への信頼、感謝、喜びに満ち溢れたものです。このダビデの心はまさしく主キリストの心と一致しております。
主の心、思いと一致する
今の私たちに最も必要な「主の御前に立つ祈り」とは、私たちの心と思いが主の心と同じになる、主の思いと一つになることにあると思います。そうなってこそ心が通じ合い、主の心の思いと「静かな小さな声」が伝わってきます。これが主と親しい間柄になるということです。
私たちの身体の総ての細胞が声を持っている
心が一つになるとはどう言うことでしょうか。ジェシカ・ジョーンズ師は次のように言っています。
「私たちは皆声を持っています。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったものです。・・・すべてのものが音を出します。この音の振動がすべての人、すべてのものから発せられているのが私には見えます。すべてのものは物体ではなくて音なのです。・・・創世記にはすべてのものが神の言葉によって創られたとあります。・・・私たちが話したり歌ったりする言葉には力があるのです。しかし私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があります。・・・私たちは自分が造り出している音(サウンド)のバイブレーション(振動)に責任を持たねばなりません。・・・すべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、それは肉の目を通して見る色とは違います。・・・この音の振動が発せられて、他の全ての人が発する音の振動と一緒になることを想像してみてください。その音の振動は(大きな)力 forceとなります。ふたりの人が一致するならば、言葉の大きな力 forceを生むのです。その音は神の御座にまでとどき、神はふたりの霊、心、思いの一致によって動いてくださいます。・・・ 一致の色は白です。白という色は実はすべての色が(一致して)合わさったものであり、反対に黒はすべての色が無い(一致した色の欠如)ものです。白は義の衣の色です。 この一致した音の振動はパワフルな力です。
10 01月
新しい年に期待する 坂 達 也2010年はどんな年になるのでしょうか。新年を迎えて早々にアメリカでの良いニュースをお伝えします。
昨日のモーニング・スターのインターネットの番組でリック・ジョイナー師がトッド・ベントレー師と共に映像に現れ、この5日MSU(モーニングスター大学)の授業が開始された日の若者中心の集会で予期しなかったアウト・ブレークが起こり、これが12時間続いた後、翌日の夜も同じような癒しと奇跡を伴うアウト・ポアリングが起こったそうです。従って、急遽これから少なくとも2週間は火曜日から土曜日まで毎夜集会を持つと発表しました。
既に謹慎の身から解かれて、モーニングスターでの集会にミニスターとして参加し始めていたトッド・ベントレー師のところへ、年明けにボッブ・ジョーンズ師が訪れました。その目的はジョーンズ師が主からの特別の「訪れ」を受け、トッド師の上にあるのろいを打ち破るように指示を受けたからでした。そこで師は3日のモーニングスターでの日曜礼拝において、トッド師に按手して祈りました。その時彼の上にあったのろいが解かれ、フロリダのアウトポアリング時に受けていた癒しと奇跡の霊に立ち返ったような「天が開いた状態になった」とトッド師は語っています。
尚、ジョイナー師は、今回のアウト・ブレークはベントレー師だけによるものではなく、モーニングスターのリーダーチームと学生たちの中からも主に立てられた人たちが出て来ていることを強調しています。これをリバイバルと名づけるのは早すぎるが、何か大変なことが起きる始まりであることをひしひしと感じていると言い、二人とも大変興奮しておりました。
それ以前に、既にご存知の方も多くおられると思いますが、昨年から同じような学生(IHOP大学)中心のアウトブレークがマイク・ビクル師のIHOPでも既に起こっております。ここでは既に毎週水曜日から日曜日の夜まで午後6時から12時までの集会が持たれており、顕著な癒し、救い、開放が起こっております。最近IHOPを訪ねたヘンリー・グルバー師によれば、「すばらしいことが起こっている、会場には多くの日本人・東洋人(多分韓国人)が来ていた」と言っておりました。詳しくはIHOPのインターネットHPをご覧ください。
さて日本では、2010年はどのような年になるのでしょうか。既に日本でもあちらこちらでリバイバルの兆しが起こり始めていることを昨年来聞いて参りましたので、私たちも大いに期待しております。
新年はブレイクスルーの年であると多くの方が言っておりますが、たまたま私個人がジェシカ・ジョーンズ師から受けた預言においても、今年日本に大きなブレイクスルーが起こり、日本を被う頑固なサムライ・スピリットが打ち破られ、そのサムライ軍団の刀は地に落とされること、そのためのブレイクスルーという言葉が何度も何度も強調されておりました。期待します。
一方2010年への政治情勢への不安もこのところ一気につのって来ております。昨年末クリスマスの日にデトロイトで未遂に終わったアルカイダの飛行機爆破事件と、12月30日にアフガニスタンの米軍基地で起きたCIA工作人による自爆テロ事件が世界中を再び2001年の9/11当事のテロへの恐怖に引き戻し、特にアメリカでは緊張した年明けとなりました。
テロとの戦いはこれから益々激しくなると予想されますが、昨年12月初めにキム・クレメント師が今年の中頃に米国大統領暗殺事件が起こると預言しています。(この預言はジャンポール・ジャクソン師も預言しておりました。)これにより大統領自身と共に、アメリカの情勢は一変すると預言されていますが,良い方向に変革されることを切に望んで止みません。ぜひ大統領とその救いのためにお祈りください。(終わり)トップへ戻る
09 01月
2010年は豊かな実と増加の年パトリシア・キング 私たちは主にあって常に増加、拡大 するように定められていることはずっと理解していましたが、 それは単に足し算的な増加ではなくかけ算的な増加であることに、私は最近まで気がつきませんでした。ある日祈りの中で 、かけ算的な収穫の増加を期待するようにとのチャレンジを 私は主から与えられました。かけ算の中で最も低いレベルは2倍ですが、あなたが今すぐ2倍の収穫を得ることを想像してみてください。どのようなことになると思われますか?
創世記1:28で、主は人類を祝福して 「生めよ、ふえよ。」と命じられました。(訳者注:英語ではBe fruitful and multiply.と訳されており、Multiplyは原語においても、倍数的にものすごく増えるという意味です。)あなたの人生の上には「生めよ、ふえよ」という主の御ことばが置かれているのです。この祝福を信じて自分のものとして 受け取るとすれば、あなたの人生に神が与えておられる目的にあなたは間違いなく従っていることになるのです。
申命記1:11でモーセは、イスラエルの人々が今の千倍になるようにと祈りました。人生に神の祝福が千倍にも増えるということは、すばらしいことであり、このことは私たちがしっかりと心にとめて、自分のものとすべきことだと思います。
主は私に「豊かな収穫を得る秘訣の鍵」を教えてくださいましたので、お分ちしたいと思います。それはとどまる、剪定、種まき、刈り取りの4つです。
とどまるAbiding
イエスは、このように素晴らしい祝福と増加の中で生きるための鍵を私たちに教えていてくださいます。それは即ち、とどまる、剪定、種まき、刈り取りです。私たちが実を結ぶのは「主にとどまる」ことからきます。(ヨハネ15:1−8)私たちがボーンアゲインするとき、キリストの霊が私たちの内に来て下さり、私たちは新しく造られた者とされます。また私たちも主の内に入ります。私たちはボーンアゲインするときに「キリストの内に生きる者」になるのです。主は私たちの内に宿り、私たちは主の内に宿ります。
あなたのディボーションのとき、意識的にイエスが「宿っておられる臨在」abiding presence of Jesusを経験し活性化することができます。あなたは自分で集中することによって力を得ることができるのです。もし内なるキリストの臨在に集中するならば、主の命の力が与えられます。あなたは自分だけで実を結ぶことはできません。枝であるあなたが実を結ぶのは、木にとどまるからです。イエスが木です。樹液のように、あるいは身体の中を循環する血液のように、主のいのちはあなたの中を流れるのです。
私はディボーションのとき、イエスをお招きするために時間をとることを好んでします。目を閉じて 主が私にとって素晴らしい方であることを 感謝します。そして「イエス様、私はあなたの内にいます。あなたは私の命です。私の力です。私の健やかさであり活力です。私の知恵、私のきよさです。私の義であり必要な備えです、、、。」と真理を宣言します。
私の内にあるキリストの命を5分ほど黙想meditatingすると、私は主の臨在の力を感じ始めます。そして 主とのもっと深い交わりの中に入っていきます。私は自分の思いと必要を主にお話しします。 主を待ち望み、主が語られるのを聞きます。主がご自分の思いと願いを語られるのを 聞きます。私は主に尋ね、主が私の心に語っておられると 信じることを日記として書きとめます。
ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」で、もし私が主にとどまるならば、主の御言葉(主の臨在の中で私が受け取る言葉)は私にとどまり、私が願うもの(主が語られたことに沿うもの)を求めることができ、それは必ずかなえられるとイエスは約束されています。 このようにして実は成るのです。 結実と増加はキリストのうちにとどまることによって生み出されます。
剪定
増加は又、人生の剪定のシーズンを通して起こります。イエスは実を結ぶ枝はすべて、もっと実を結ぶように剪定すると言われました。(ヨハネ15:2参照)多くの場合剪定は、 現在のシーズンに対する主の目的に私たちが一致するように施されます。主は私たちにもっと聖くなることや、時には縮小し、余分なものを取り除くことを求められます。私たちが縮小したり余分なものを取り除いたりするのは恐れからするのではなく、主に対する信仰と従順からするのです。剪定によって 実りが減少するのではなく、それはやがては偉大な増加をもたらし、多くの場合私たちを新しい任務に着くようにと招くものであることを知っているからです。
私たちのミニストリーセンタ−の前に、夫のロンが毎年一回剪定していた木がありました。ある日私がセンタ−に車で行くと、その木がほんの少しの枝を残すだけで、あとはすっかり剪定されてしまっているのを見つけてショックを受けました。夫がこの木を駄目にしてしまったと思って私はびっくりしたのです。その木は本当にあわれな姿になっていました。剪定のし過ぎだ、と私は思いました。ロンは一生懸命に大丈夫だと私に説明しましたが、信じられませんでした。ほとんど切り株だけになってしまっている木が、どうやってまた育つのでしょうか?しかし数ヶ月後にはその木は盛り返しました。葉っぱは豊かに茂り、まったく見事で多くの人たちが賞賛してくれました。
種蒔きと刈り取り
豊かに結実するためのもう一つの鍵は、御国の種蒔きと刈り取りの法則の中に見いだすことができます。創世記8:22で、神は 変ることのない約束を人間にしておられます。神は「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、、、はやむことはない。」と言われました。地はまだ続いていますね。ということは、種を蒔く時があり、それにともなう収穫を刈り取るときがあるということです。
マルコ4章で、イエスは蒔くことと刈り取ることについて教えておられ、種を蒔く土地の質の大切さを強調されています。もし良質な地に種を蒔けば、それは育ち多くの実を結びます。収穫は常に種よりも多く、収穫の中にもっと種があります。もし一粒の豆を蒔いたならば、それが豆の木に育ち沢山の豆をあなたは収穫することになります。蒔いたものより必ず多くのものをあなたは刈り取るのです。刈り取ったその多くの豆を蒔けば、次のシーズンにはもっと沢山の豆