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Walk With God Ministries


21 11月

何故先祖の罪(を赦す)ための祈りを祈るのか ポール・コックス 11月21日


何故先祖の罪(を赦す、悔い改める)ための祈りを祈るのか

ポール・コックス


私は 度々「先祖の罪を処理するための書いた祈りを祈る(コックス師のミニストリーの一つ)ことがどうしてそんなに重要なのだろうか?」と自分に問うことがあることを告白せねばなりません。つまるところ私たちが主イエス・キリストを全面的に信頼する時点で、私たちは救われるのです。それ以外に何かをすることが必要なのでしょうか。このように問うのは私だけではありません。長年にわたり多くの人が条文化された(書かれた)祈りをする必要はないと言っていますし、それどころかそのような祈りは聖書的ではないと言う人さえあります。 

又、ある人たちは先祖の犯した罪を悔い改めることに関して疑問を投げかけています。多くの人は「すべての業はキリストの十字架において完成されているのだから、他にすべきことは何もない。すべては解決している。私たちに必要なものはすべてある。先祖に関する祈りはもはや必要ではない。」と言うのです。

さて、ここにこの問題の難しさがあります。20年間にわたり、私は多くの人々にミニストリーをしてきました。 先祖のための祈りと文章にした祈りをするように導き、この祈りを通して多くのクリスチャンが主の力で大きく変えられるのを私は見てきました。この変化を通して人々はイエス・キリストとの親密さを増し、更に解放されました。ですから、 十字架において業は完成されたという事実と、 過去20年間の私のミニストリーにおいて見て来た事との間には明らかに矛盾があり、それをどのように一致させればいいのでしょうか。 究極的な権威は私たちの経験にはなく、それは常に聖書にあります。ですから私たちの経験と聖書が一致しないときは、それが何に関することであろうと聖書が勝利するのです。私はそれを信じ実行しています。ですから、聖書が何と言っているのか今見てみましょう。

行ないではなく恵みによって救われる

ここに基本があります。私たちは恵みによって救われるのです。

エペソ2:8—10「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

クリスチャン生活の中の行ないが 真の救いを証明する

ヤコブ2:17−20「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。』行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じていて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」

私たちは恵みによって救われ、 救われたことを証明するのが私たちの行ないであることがはっきりしましたが、このプロセスで私たちが果たすべき役割は何なのでしょうか? ある人たちは私たちの役割は何もないと言い張ります。確かに救いはキリストの業によってのみ存在します。私たちが信仰を持つに至ることさえ、聖霊が引き寄せてくださらなければ不可能です。ロ−マ人への手紙は私たちの聖化sanctificationはプロセスである(その工程にある)ことを明らかに示唆しています。それは私たちの内におられるキリストの働きによって達成され、聖霊の力によって私たちは変えられていきます。ですから次の質問を再びする必要があります。「私たちが栄光から栄光へと変えられていくために、私たちが果たすべき役割はあるのか?」と。(第二コリント3:18参照) 

答えは「はい、あります。」であると私は思います。栄光から栄光へと変えられるための責任を私たちは持っているのです。ピリピ2:12—13を見て下さい。

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」

私たちが考えるべき重要な部分は「自分の救いを達成する」というところです。これはどういう意味なのでしょうか? これは救われるための行ないを意味しているのではないことは確かです。救いは行ないによるのではなく信仰によることは聖書に明らかです。ですから私たちは「自分の救いを達成する」とは何を意味するのかを理解する必要がでてきます。

ピリピ2:12「自分の救いを達成する」とはどういう意味か

この問題は私のミニストリーの基礎となるものであり、祈りに関する本を出版する理由でもあります。もしこのようなミニストリーが聖書に基づかないものならば、それを追い求めることは誤りです。このことを心に留めながら「ベイカー新約聖書注解書」から少し長く引用したいと思います。これは詳細な記述なので読者にかなり集中して読んでいただかねばならないことは承知しております。しかし、 クリスチャンが成熟のために課せられている「自分の救いを達成する」という役割の重要さが明らかにされないならば、この本の意義が全くなくなるのです! そういうわけですので、ピリピ2:12の神学的議論の部分をここに引用いたします。

「しかし、救いの聖書的定義は義認justificationだけに限りません。救われるために、クリスチャン生活の全てが神の購いの業であるのです。ですから、「私たちはすでに救われている」ことは重要な意味を持つことに間違いありませんが(エペソ2:5、8;テトス3:5)、しかし別の意味では、まだ救われていないのです(ローマ5:9—10;1コリント3:15;5:5;2テモテ4:18)。

カルビンは「救いは私たちの召しの全行程であり、神がその完全性perfectionを達成されるために用いられるすべてのことを含み、それは神の選びによって私たちに定められていることである。」と的確に述べています。救いが全うされるためにはそれが私たちの人生のなかで義として表されねばならないので、私たちの行ないは救いの行程の中に入っているのです。私たちはエペソ2章の9 節(行ないではない)と10節(よい行ないをする)が並列されていることを決して忘れてはなりません。ピリピ2章の中で、信者の個人的救いの達成はキリスト教共同体の中の一員としての責任としての形を取ると言っています。即ち他の人のためになることを求める義務です。

この聖書箇所が「救い」の本質を教えていると認める人には、12節を13節によって(あるいは13節を12節によって)意義づけようとする傾向があります。つまり、「神の恵み」を強調することによって「人間の行い」の部分を小さくしてしまう(あるいはその反対)のです。例えば、私たちの意志に反することを神は無理にさせることはないという真理を大変強調し、その結果「神の恵み」というものをほんの些細な霊的助けにしか過ぎないものとしてしまい「神はいつも私たちを助けてくださるのであり、私たち自身が自分のしたいことをしなければならないのだ。」という考えでです。それと反対に、(行いを強調すると)律法主義(だと非難される)恐れが、私たちを多かれ少なかれ聖化sanctificationというものを受動的(消極的に)に理解させてしまい、「私たちの責任は単に神の恵みのうちに安息することであり、神に私たちのうちで働いていただければそれでよいのだ。」と考えます。聖書には、この二つの強調点が並列的に書かれていることから見て、このような結論を出すいかなる試みに対しても大きく反論を叫んでいます。聖書がここで言っていることは、単に人間側と神側の両面があることを強調しているばかりでなく、この一つの箇所で、私たちは両方の要素の重要性が多分もっとも強い聖書的表現で語られていることを見ることができるのです。


まず、パウロの人間的行ないに関する意見を見てください。新約聖書のいくつかの箇所で、救いにおける人間自身の責任がかなり強調されていることはたしかですが(特に2ペテロ1:10「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」)、ピリピ2:12ほどあからさまに言っている箇所はありません。彼がここで「katergazomai」という動詞を選んでいることがまさに注目に値します。クリソストムはこの言葉は「多大な努力をもって、多大な注意をはらって」という意味を持つと説明しています。この動詞自体にそのような意味合いを見つけることはできないのですが、 古代ギリシャの有数な話し手であるクリソストムが、この動詞を「強調されている表現」と受け取っているのを全く無視するべきではないでしょう。従ってバウアー(Bauer)の「到達する、達成する」という訳は、この動詞の意味合いをよく表していると思います。彼はピリピ2:12を「もたらす、生み出す、造り出す」と訳していますがそれは正しいといえます。私たちが聖化されるためには、自分で意識して行動に移らねばならないことをパウロがこの箇所で力説していることは疑う余地がありません。この考えは私たちを立ち止まらせるべきです。私たちの救いは、最初から最後まで神の働きだと私たちは告白するのですが、この箇所では、私たち自身がそれを実行してもたらさねばならないものとして書かれているのです。


聖化のためには全て神のみ業により頼むことをこの箇所ほどはっきり言っているところはありません。まず初めに、すべて神のみ業が発端となって私たちの業(行い)が起こると見ていることです。私たちの業は神の恵みあってこそ可能であるのです。次に、文の構成が非常に強調的であることです。パウロは単に「神が働かれる」といっているのではなく「働いておられるのは神であり、働きはすべて神である」と言っています。
第三に、神の影響力は私たちの業に及ぶだけではなく、私たちの意志にまで及ぶというユニークな言葉が使われています。この考え方は他の箇所でも暗に示されています。(ヨハネ1:13、ローマ9:16)カルビンは次のようにコメントしました。「すべての行動は二つの主な部分で成り立っている。それは意志と実施の力であり、パウロはこの両者を神に帰している。そうであれば私たちが誇るべき何かが残っているでしょうか?」 
第四に、パウロは 私たちが神の絶対的主権により頼んでいることを「主はみこころのままに全てを行われる=’His good pleasure’」という言葉を遣うことによって強調しています。これは「神の恵み」を云い表すための神学的用語であると言えます。

ポイントは、聖化には意識的な努力とそれへの誠実な集中が要求されますが、私たちの行いは、神の恵みを受けとるためという見地から見て、(自分がするという)律法的なスピリットではなく、むしろへりくだりと感謝のスピリットで行われるのであり、そこにはキリストなしでは私たちは何もできない(ヨハネ15:5)、キリストだけが栄光を受ける方であることを認めるのです。

私たちの内に働かれる神のみ業は、私たちが働くことによって止められるのではなく、また私たちの働きも神が働かれるときに止められるのではありません。神の分担と私たちの分担があって両者が協力してよい結果を生み出すというものでもないのです。神も働かれ、私たちも働くのです。しかしその関係は、神が働かれるゆえに私たちは働くのです。私たちが救いを得るために働くのは、神が私たちの内に働いておられる結果です。ここに私たちがすべきすべての業の説明があるばかりではなく、私たちが喜んで働く誘因と動機があります。…私たちが固執して(意欲的に)働き続けば続けるほど、私たちに力と恵みを与えて下さるのは神であることをもっとはっきりと認識するようになるのです。」( Moises Silva, Philippians, Baker Exegetical Commentary on the New Testament, 2nd ed. (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2005).)

これまでの引用をまとめてみましょう。第一に、 救いのために私たちのうちに働いてくださるのはキリストであり、救われたあと私たちを造りかえてくださるのもキリストです。第二に、救いを完成させるためには私たちがするべきことがあります。第三に私たちの役割はあがなわれたキリストの身体なる教会の中の一員としてのものです。


救いのプロセスの聖書的な姿と筋道

ピリピ書で論理的に述べられていることが、ヨシュア記においては物語として描かれています。「イスラエルの地はイスラエルの人々に与えられた」と主ははっきりと言われました。

「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがた に与えている。」ヨシュア1:2−3

3節にはこのギフトを受けるための重要な条件が書かれています。彼らにすでに 与えられた土地は彼らによって取得されねばならないのです。ヨシュア1:3に「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」とあります。イスラエルの人々はその地を所有するために果たすべき役割があったのです。彼らは単にヨルダン川を渡り、天幕をはり、主が来られるのを待つだけではありませんでした。彼らは自分たちの所有物を獲得せねばならなかったのです。どのようにしてでしょうか? 彼らは自分たちに課せられた責任を「歩く」必要がありました。「あなたがたの足の裏で踏む所はことごとく、あなたがたに与えてある。」と主は言われたのです。

言葉を変えるならば、彼らはその地にあった敵の要塞を攻撃し、それを打ち壊し、その地を勝ち取らねばなりませんでした。これはクリスチャン生活の戦いを表しています。私たちはキリストの血潮により約束の地、即ち神の御国に入りました。「ヨルダン」という言葉は 「裁きをする」という意味があります。ヨルダン川の中を歩いていくとき、裁きは私たちに触れることはありません。主の力によって川がせき止められたからです。私たちは約束の地に入り神の力によって私たちの人生の中にある敵の要塞を打ち壊していきます。神はご自分の役割を果たされ、私たちは私たちの役割を果たします。
私たちの役割とは、霊的な鍛錬をすることであると同時に、自分の意志で出来る限り 古い性質から解放されることであるのです。 ここに先祖代々の罪の赦しのために祈ることが関係してきます。

神はすべての人が解放されるのを望まれる

私自身の経験から言うのですが、祖先の罪からの解放とか文章化した祈りを祈ることを信じない人たちは、どのような理由や証拠を示しても満足しない(聞く耳がない)ことを私は知っています。牧師として 解放のミニストリーを数ヶ月始めた時に、数人の教会の執事が私のところに来て、彼らが心配していることを話してくれました。その話し合いは時として激しいものとなりました! ついに一人の執事が言いました。「じゃ、もしそれが真実ならば、どこにそのミニストリーの実があるのですか?」 私は彼の要求を満たすことにしました。彼に実を見せるために、それまでに先祖代々の罪の赦しの祈りによって非常に助けられ解放された幾人かに、主がどのように彼らの人生に触れてくださったかを証してもらう礼拝を日曜の夜に計画しました。私がこれらの人々に解放のミニストリーをするようになったのは、私が彼らを牧会するようになってから9年ほども経ってからなので、彼らの証言は特に意味深いものでした。彼らがまさに解放のミニストリーによって変えられたことは明らかでした。

礼拝の後、例の執事が私のところに来て「この人たちが何と言おうと私には関係ない、私はこのミニストリーを信じません。」と言いました。次の執事の集りのときも議論は続きました。ついに私はいらいらして言いました。「私が人々を助けるのが嫌だというのなら、あなた方が彼らを助けてください!」それに対する彼らの応答は私を驚かせました。彼らはみんな手を上げて「私たちには出来ません」と言ったのです。ここにこの問題の核心があります。このミニストリーを信じない人たちは、それを信じないだけではなく、苦悩の中で苦しみ続けるクリスチャンを助ける他の解決法や答えを持っていないのです。彼らの応答はその時点までの彼ら自身の経験から出たものであると同時に、 人のために祈ることに関する彼らの聖書的神学的理解から出たものでした。

このような議論は、聖書を知っている人にとっては驚きではないはずです。イエスご自身もいやしや解放のミニストリーに反対する宗教的な人々に遭遇しました。聖書の中でもっとも驚くべき箇所の一つはラザロの復活です。

「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。『われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。』 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何もわかっていない。 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」(ヨハネ11:43-53)

驚くべきこととは何でしょうか。イエスが一人の人を死からよみがえらせました。ラザロや彼を愛する人々の喜びを考えてみてください。しかし宗教的な人々はそれを見ようとしませんでした。彼らは自分たちの関心事と信念 だけしか眼中になかったのです。真理が問題ではなかったのです! ラザロをよみがえらせたことに対する彼らの唯一の反応はイエスの死を企むことでした。

私と教会の執事との会合は、最終的に全会衆の会合に行き着きました。議論は果てしなく続きそうでした。ついに私はその教会を去らねばならないと決意しました。会合の直後の会話を思い出すのですが、私は一人の友人にこう言いました。「私はミニストリーでしたいと思ったのはただ人々を助けたいということだけです。そして今やっと人を本当に助けることが出来るようになったのに、執事たちは私にそれをさせてくれません。」私は失意のうちにその教会を去りました。しかし主は私をそのままにはされませんでしたし、解放のミニストリーもそこでおしまいにはされませんでした。主の御心は人々が解放
07 11月

時は迫っている  坂  達 也   2009年11月7日


時は迫っている

                          坂  達 也


 「聖書が何を要求しているかを一言で要約せよ」と言われれば、私は躊躇することなく「創造者の父なる神の御声に聞き従え」であると申し上げます。「聞き従うなら祝福を、従わなければのろいを」(申命記11:27,28)が聖書の単純明快な中心テーマの一つであり、それをこの世で最も忠実に(死に至るまで)実行して私たちのために模範を示されたのがイエス・キリストでした。一方従わねばこうなると言う見せしめを、私たちはイスラエルの長い歴史を通して知ることが出来ます。

 そのことに気がついている人は本当に幸いです。今の時代、世の終わりが刻々と近づいて来ていますが、それは人間が自分の思いで自分のために生きた時代、云ってみれば「個人の野心の時代」が終焉すると言う意味です。このことは、当然ながら、自分のために生きるのが通常の未信者の世界に当てはめられますが、私はそれ以上にクリスチャンに向かってそれを申し上げたいのです。

真のクリスチャンとは

 クリスチャンが今最も厳しく反省しなければならないことは、「自分のしたいことをして、何となく自然体で生きている」姿勢です。クリスチャンと云えども放っておけば自然に流されて「個人プレーのかたまり」のまま人間的に生きてしまいます。そのような生き方の正反対が「主の御声に聞き従った毎日を生きる」生き方です。

 そのためには多くの場合人間が自然に生きる生き方に逆らって生きねばならず、それには大変な信仰による決意と努力が必要です。まさにヨシュア記1:8にある「この律法の書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。」の「律法の書」を「御心を知りたいと云う願いと祈り」に置き換えて実行することにあると思います。それは主のご計画にのみ従って生きることをとことん「思い詰める」ことです。

 そのような願いと思いで日夜を過ごせば、常に主に飢え乾き、主を求める生き方になるはずです。いや、逆に真に飢え乾く人でなければそのような願いと思いは持てないのかもしれません。いずれにせよ、それ以外の生き方をしている人は主イエスの後を追っている真のクリスチャンとは云えません。この生き方のためにこそ私たちはイエスの後を追って自分の(自分に死ぬ)十字架をかついて生きねばならないのです。そしてこれを実行し本当に主の御声を聞く人だけが主に助けていただいて「死ねる」のであると思います。とどのつまりは、人間関係において「自分に死んで主に生きてもらう」ことをどこまで実行するか、実行できるかの問題ではないでしょうか。 

 イスラエルの民は、自分たちが直接神の御声を聞いて死ぬといけないから、モーセが聞いて民に話してくれるように頼みましたが(出エジプト20:19)、これはある意味ではていのいい「逃げ」であり、現代のクリスチャンの多くも教会生活を通してそうしているのではないでしょうか。私たちクリスチャンは誰でも主の御声を直接親しく聞く特権があるだけではなく、それを実行する義務があり、重ねて申し上げますが、そうしなければ基本的にクリスチャンとは云えないのです。

 今「先を急いでおられる」主はそのような人だけを求めておられます。なぜならそうでない人は使いものにならないからです。主に用いられるかどうかは主の御声に忠実に聞き従うかどうかの一点にしぼられます。

 しかし「何かをする」ことがクリスチャンの究極の目的ではないと反論される方もおられるでしょう。その通りです。私たちは「イエスのようになる」あるいは「イエスを頭とした一つのからだの一部になる」、「イエスの花嫁になる」ことが最終目的です。つまり「すること」ではなく、「なること」です。
 しかし、その最終のゴールに達するためにこそ、主は私たちを召して修行させます。それが主の御用をすることであるわけです。その一番卑近な例が教会形成(あるいは特別な目的を持ったミニストリー)とその運営にあります。主は私たちそれぞれに役割や仕事を与え、それを私たちが逐次御心に従って忠実に実行する時に成果を挙げさせ、成し遂げさせます。実は「・・・になる」ためには「・・・をする」と言うドリルを通して訓練されるのです。

世の中が激しく変わる - ジャクソン師の預言

 オバマ大統領は、アメリカを変えるCHANGEを提唱し圧倒的人気で大統領になりました。そして、ノーベル賞選考委員会までが、彼がアメリカだけでなく世界を変えることを期待して、未だ全く実績のないオバマ大統領を本年度の平和賞受賞者に選んでしまいました。それほど世の中がCHANGEを期待し、むしろ焦っていることがこれでよく分かります。そのオバマ氏は今やっきとなって「世直し」をしようとしていますが、あの手この手と打つ手がほとんど総てうまくいっていないようです。
 それはなぜなのか?一言で言えば、彼はすべてを人間的に変えようとしているのであって「神の御声に聞き従う」ことを全くせず、それとは正反対のことをしているからであると云えます。

 先程神は「急いでおられる」と言いましたが、オバマ大統領もその中に含まれます。「アメリカ国民が神に頼る代りに、そんなに人智によるCHANGE を望むなら・・・」と、神は今国民が選んだオバマ氏にやらせて見て、人間の知恵がどんなに浅はかなものであるかを「急いで」世界に見せようとしておられるように思います。オバマ大統領の人気は急に落ち始めました。そして世の中はよくなるどころか、どんどん悪くなっております。

 先回私はチャック・ピアース師の預言をご紹介しましたが、師は8月22日に当HPに掲載したメッセージの中で「経済的シフトが8月の終わりまでに起こるのに気をつけていてください。8月24日から10月17日の間に、金融システムに大いなる変化があるでしょう。銀行のシステムの変化はまだ全部完了していないことに注意してください。これから構造的なシフトが加速度を増して起こります。政府機関は人々の見ている前で再編成されて行きます。」と言いました。この預言はその通りとなり、2009年10月末現在のアメリカの中小銀行の破産が106行に達し、その上破綻の可能性がある不良銀行が現在400以上もあるとのことです。昨年の主に大手銀行の破綻28行に続いて、金融界の膿みはまだまだ出ることがこれで暴露されました。それにも増して、国の財政赤字が急増していることや、失業率が遂に10月末で10%を超えたと発表された
04 11月

雲の柱は動き始めた ポール•キース•デイビス 11月4日


雲の柱は動き始めた

ポール•キース•デイビス 



神がご自分の言葉に更にコンファメーション(確認)を与えてくださるのは実にうれしいものです。9月11日頃非常にある鮮明な夢が与えられ、それ以来私はその夢によって励まされています。その夢の中で、 開いた聖書を持った手が私に向かって伸ばされ、聖書のある箇所を開いて読むように告げられました。私が数節読み進むと、「増加、増加、増加、増加、増加」と 書かれている“聖句”に行き当たりました。

勿論聖書にこの通りの箇所はないのですが、それはこれからの時代にどんどんと恵みを増し加えて与えたいという神の願いを象徴的に表しているものでした。私が読んでいたのは民数記10章でした。正直なところ、このところ私は民数記には焦点は当てていず、むしろ黙示録やダニエル書、ゼカリヤ書、ヨハネ福音者などを中心に読んでいました。ですから民数記を読んだのは偶然のようで、あまり意味がないようにも思えましたが、その夢が主からのものであることははっきりわかりました。

それで、もし何かコンファメーションが与えられれば、これが主からのものであるという確信を持つことが出来ると考えて、それまではこの聖書の箇所を誰にも告げないことに決めました。次の週はテネシー州ノックスビルでのカンファレンスに参加しましたが、預言者のボブ•ジョーンズも参加していました。私は主がボブの啓示的な賜物を用いて民数記10章から私に語ってくださるのではないかと期待しました。しかしこの箇所については何も語られないままカンファレンスは終了してしまいました。

私はノックスビルから直接テキサス州ダラスに行き、チャック•ピアスとグローリ−・オブ・ザイオン主催のロシュ・ハシャナ・カンファレンスに参加しました。私はこの集りに参加することにわくわくしていました。私が一年前にチャックに伝えた主からの預言を素早く成就してくださった聖霊への感謝の気持ちで一杯でした。その伝えた預言とは白い大きなテントの中で、50年代に起こったリバイバル にも匹敵するようないやしの油が注がれるというものでした。

この集会は預言が成就し、彼らがテキサス州デントンの郊外に取得した土地で開催した初めてのテント集会でした。到着してみると、それは私が一年前に霊的経験の中で見たものと全く同じテントでした。私は民数記10章が示唆するものを理解したいという願いをまだ持ってはいましたが、その夜礼拝が始まったときにはそれが一番の関心事ではなくなっていました。

けれども驚いたことに、ワーシップが終るとチャックはラッパの祭りとロシュ・ハシャナ(イスラエルの新年)を迎えるために銀のトランペットを持った二人の人を前に呼びました。勿論これは民数記10:1−3に書かれていることであり、イスラエルの聖なる会合を招集する時や移動を告知するときに吹き鳴らすものです。

「銀のラッパを二本つくりなさい。すなわち、打ち物造りとし、それで会衆を呼び集め、また宿営を進ませなさい。この二つを吹くときは、全会衆が会見の幕屋の入口に、あなたの所に集まってこなければならない。」

もっと驚いたことには、チャックが来るべき神のシーズンへの預言的告知として民数記10章から短い教えをすると言ったことです。それこそ私のためのコンファメーションでした!

神と共に動く

民数記10章は、神の民が主の臨在の雲と共に移動し、約束の地に入るための指示が書かれています。臨在の雲が次の場所に移るときの、非常に詳細な指示がモーセに与えられています。これを預言的に洞察すれば、 キリストの身体なる教会は聖なる会合へと招集されていて、主の臨在の動き(移動)に従う備えをするようにと言われていることが明らかです。雲の柱は動き始めたのです!

「増加、増加、増加、増加、増加。」と夢の中で私が読んだ箇所は民数記10:28で、そこには「以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序であって、彼らはそのように出発した。」と実際には書かれています。

これから起こる「増加」に関連して私がこの聖書の箇所から理解することは、私たちは聖霊を通して神から厳密に指示されている秩序に 完全に従う必要があるこということです。主の祝福と恵みが私たちに伴うためには、主は私たちが 従うべき主の望まれる秩序を定めておられ、私たちはそれに忠実に従って主と一致(アライン)する必要があるのです。そのときに増加がどんどんと進みます。主の秩序の多くはイザヤ66:1−2に見ることができます。

「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。−主の御告げ。— わたしが目に留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。』」

これからの時代に神と一致(アライン)するためには次の3つのことが役に立ちます。

1.へりくだりの霊
2.砕かれた悔いた心
3.神のことば(レーマとロゴス)を敬虔と畏れで震えるように謹んで受け取る

賛美、時とシーズン、主が住まわれるところ

イスラエルが宿営を出発するときに、幕屋に先立ってまずユダ族、イッサカル族、ゼブルン族が出発するようにと主は明確に指示されました。(民数記10:14—16)

ユダ族のシンボルは普通、獅子です。明らかに主はご自分をユダ族の獅子として表されています。主はまず飼葉おけに生まれて来られ、ご自分をほふられる小羊として捧げられました。しかし今度は、キリストの花嫁となった人々を通して圧倒的な勝利を収めるために復活の力をもって吠え威る獅子として主は来られるのです。「賛美(ユダ)」がまず私たちの先に行かねばならず、そしてイッサカルの祝福の中に示されている「時とシーズンをはっきり悟る」ことがそれに伴わなければなりません。

私たちは今、特に「失った相続財産」を取り戻すために前進する「定められた時」に入ろうとしているのです。ロシュ・ハシャナのあと行った南アフリカにいたとき、申命記33:18−19にあるモーセのゼブルンに対する祝福に関して非常にはっきりした啓示的洞察が与えられました。

「ゼブルンについては言った。『ゼブルンよ、あなたは外に出て行って楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。彼らは国々の民を山に招き、その所で正しい犠牲をささげるであろう。彼ら