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Walk With God Ministries


29 06月

神の約束を祈る–ダニエルの不動の信仰  ビル・ジョンソン 6月29日 


神の約束を祈る–ダニエルの不動の信仰

ビル・ジョンソン


ダニエルは特別大きな好意を受けた人でした。ダリヨス王は彼を自分の右腕にしたいと思いました。他の者たちもその地位を狙っていましたが、彼らにはダニエルを誹謗するものは何も見つけられないことがわかりました。何か欠点があったとすれば、それはダニエルの神への愛ということになるでしょう。それはすばらしい欠点ではないですか、ただ完全にイエス中毒になっていることだけというのは。ダリヨス王は隙をつかれて、ある特定の偽りの神以外のものに祈る者は死刑に処するという布告を出してしまいました。

「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。彼はいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」ダニエル6:10

プレッシャーが掛かると、多くの人びとは自分のライフスタイルを変えてしまいます。ダニエルは布告が出されるまで待ちましたが、布告されると家に帰り、寝室の窓をあけ、そのそばでひざまずき、「ああ、神よ。またもやとんでもない布告が出されました。でも私はあなたとの関係を誰のためでも決して変えたりはしません。」と言ったのです。そして、人びとから見えるように窓の真ん前で主の前に日に三度ひざまずいたのです。彼は若いときから一日に三度主の前にひざまずき、感謝と祈りをささげることを習慣としていたのでした。

ダニエルの人生は厳しいものでした。人間的にいえば、地上で一番苦々しい思いを抱く男になっていてもおかしくありませんでした。彼はおよそ15歳のときにユダヤ人の中から連れ去られました。おそらく自分の家族はもう全部失っていたでしょう。彼は宦官にされ、王に仕える者とされました。ダニエルは最も劣悪な帝王を助けるための職を任ぜられましたが、神がすべてのことを回復されると約束された日のために祈りに専念したのでした。

幼い日から老人になるまでの長い年月、一日も欠かさずダニエルを祈りに駆り立てたのは何だったのでしょうか?それは彼が一つの約束によって捕らえれていたからです。それはエレミヤに与えられていた一つの預言であり、神は捕囚の期間が過ぎたらイスラエルを回復されるというものでした。ダニエルはその約束を信じて「とりこ」となり、毎日エルサレムに顔を向けてひざまづいて感謝を捧げていたのです。

イザヤ62:7に「主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。」とあります。ダニエルは購われた者たちが癒されるというヴィジョンにしっかり捕らえられていたのです。彼が子どものときから大人になるまでずっと実行してきたまさにそのことが、非常に困難な状況の中でも彼を安全に守ったのではないかと私は思うのです。彼の命が狙われたときでさえも、約束を信じて祈ることが彼の生活のルーティーンになっていたので、彼は神が言われた約束が成就するのを見るために、必要ならば命をも喜んで投げ出そうとしたのです。(終わり)


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27 06月

すばらしい驚き  グラハム  クック    6月27日


すばらしい驚き

グラハム クック


イエスが感嘆の叫びをあげられたのは、無心で純粋な心で生きている人に主が出会ったときでした。イエスは「見なさい!」(私たちなら「ワー、すごい!」と言うところです)と数回言われましたが、その一つは主がナタナエルに初めて会ったときでした。彼は後に主の弟子の一人となりました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」とイエスはヨハネ1:47で叫ばれました。
イエスはナタナエルの内に何を見られたのでしょうか?主は偽りのない人を見られたのです。主はナタナエルの純心さを見てそれを愛されました。


純粋さは私たちが生まれたときに持っていたものですが、人生の経験を重ねるにしたがって少しずつ失っていきます。「苦い経験」と私たちが呼ぶものを一回するたびに、私たちは純粋さを少しずつ無くしていきます。霊的考え方や物の見方は、私たちが 用心深くなり、うんざりして、不信になり、疑い深くなるにつれてしぼんで来てしまいます。そして更に苦い経験をすると、私たちの「感嘆」という感覚の上にはもう一重ほこりがかぶさってしまうのです。やがて時が過ぎて行き、私たちは自分が純粋かどうかもわからなくなってしまうのです。そして私たちは回りの人たちの悪いところだけをみるようになります。

ナタナエルの内にある純粋さを見てそれを愛されたイエスは、また、イスカリオテのユダが近くにくるのを許されました。イエスご自身の神というお方への新鮮な感嘆の感覚が、イエスがご自分に正直であることや愛しにくい人をも愛すことを可能にしたのです。主は罪人の友となられましたが、罪人によって汚されることは決してありませんでした。

純粋さは常に攻撃にさらされています。しかし、「純粋さ」は私たちが他人に何かされはしないかと心配するのではなく、自分がどう言う人になりたいかを考えるのです。私たちは自分の心を清く保つことに努めると同時に 、不道徳で不謹慎な人びとに注意するのです。

私たちの感嘆の感覚をコントロールするのは自分です。イエスはこのことをマルコ7:6で語っておられます。
主は偽善を次のように定義しておられます。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」
 私たちの心が苦々しく、かたくなで、無感覚になり、皮肉で、疑い深く、嘲笑的で、軽蔑的で、悲観的で、不信で、あざけるようであるときには、私たちは自分自身を傷つけます。これらは純粋さを腐食させていきます。自分自身の純粋さを傷つける度合いは、他人を傷つけるようにもずっと大きいのです。純粋さを失うことは、神の御霊を悲しませます。他人や状況から自分を守ろうとするときに、私たちはもっとかたくなになります。私たちは傷つけられると、次のように聖くない誓いをしてしまうのです。「もう絶対こんな目にあうようなことはしない。」と。そして他人や何かから傷を受けることのないように、直ちに自分の心をまわりから断絶して守ろうとするのです。

ルカ9:46−48にあるように、イエスは常に人びとが何を感じているかを知っておられました。

「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかし、イエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせて、彼らに言われた。『だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。』

私たちは子どものように無邪気で純粋にならなければ、神が見せようとしておられるすばらしい不思議を見る事はできません。イエスは私たちがプライドと自己防御をすてて、真の霊的生活をすることを望んでおられます。(終わり)

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20 06月

韓国と北朝鮮に関する二つの預言 スティーブ・ショルツ 6月20日


韓国と北朝鮮に関する二つの預言

スティーブ・ショルツ

エライジャリスト社のスティーブ・ショルツ氏は掲題に関し、下記の通り、二人の預言者の預言を発表しました。

キム・クレメント師の預言

1.北朝鮮は今、ライオン(米国)を戦争へと挑発するあらゆる手段を講じ、又、オバマ大統領をテストしようとしている。しかし、それは成功しない。一つの死が間もなく起こる。
2.第三次世界大戦にはならない。もう一つの国がイランとの確執の関係に入るが、それは一つの混乱した戦いになるであろう。


デニス・クレイマー師による預言(師の著書「次の百年」からの抜粋)

二つの小国、南北朝鮮が一つとなる。核戦争の恐れがこの半島にあるが、南北に分かれた二つの国は間もなく静かに一つとなる。それはほとんど一日で実現する。それは天で決められた結婚である。

説明の出来ない静けさの中で、この戦いによって裂かれた領土の上にクリスチャニティーが繁栄する。西洋の預言者が、この新しく一つとなったKorean Churchの基礎作りに重要な役割を果たす。西洋からの各国政府と世界の教会がそれを助ける。
共産主義の呪いが除かれ、その結果土地が祝福され、アジアで最も高率の農業生産がもたらされる。この統一されたKorea合衆国には、西側から孤立するように大きな政治的圧力がかけられる。特に、中国はこのKorea合衆国を脅かす。
このKorea合衆国が日本の教会に大きな影響を与えるように神は働かれるであろう。

(クレーマー師は今週ならび来週、韓国のハーベスト・シャローム・チャーチを訪れる予定であり、更なる預言が与えられるかもしれない。) 以上


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16 06月

神の御心は喜ぶこと ビル・ジョンソン 6-16-2009


神の御心は喜ぶこと

ビル・ジョンソン


使徒行伝16:22—28 「群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。」

1986年に私と妻のベニは、教会の人たちと一緒にイスラエルとイタリヤへの旅に出かけました。その時に訪れた場所の一つはある地下牢でしたが、それはただ地面にあけられた穴でした。それは使徒パウロが実際に入っていた地下牢でした。今まであなたが持っていた牢獄のイメージを捨てて、ただ地面にあいている穴を頭に描いてください。 かび臭く、冷たくてじめじめしているのです。囚人たちはそこに文字通り投げ入れられたのです。使徒パウロは実にこの穴でピリピ書を書いたのです。それは牢獄に入っている者が書くにはおよそ似つかわしくない「 喜び」というテーマを持っていました。ピリピ4:4には次の言葉があります。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい!」

使徒行伝16章を見ると、パウロの「喜び」は並大抵ではない試煉に会ったことがわかります。さて、もし私が牢獄に入れられていた時に地震が起こり、私の手足から鎖がはずれ扉が開いたならば、私は「ジェホバ・ジャイラ、神はまたもや私のために道を備えてくださった!」と叫んでいることでしょう。これは神の御心だということは明らかですから、私はものすごいスピードでそこから逃げ出して行くでしょう。「主を賛美します!私の賛美はやっぱり効果があった。牢獄を揺るがした!」と言いながら。

しかし、パウロはそうしませんでした。彼が神を礼拝していると地震が起こり、その力が非常に強烈だったので手足の鎖が解かれ、彼らは地に倒れました。扉が開き、パウロは「私はここに入れられていたが、真の自由を所有し、囚人ではなかった。今扉が開いたが、それで私がもっと自由になるわけではない。今、魂の収穫が起ころうとしているようだ。捕まえられる魚がいるようだ。私の人生の一番の目的は魚を捕まえることなのだから、この魚場(穴場)は確かに風変わりだけれど、ここに留まる事にしよう。あの、もしもし、自殺しようとしているのですか?私たちは皆ここにいますよ。」というように考えたのでしょう。これは十分な信仰の証しとなりました。看守もイエスを知りたいと願い直ぐにイエスを信じ、全家族も救われました。超自然的な喜びには、大変 素晴らしい貴い実を結ばせる何かがあるのです。

聖書の中にはいくつかの喜びに関する箇所がありますが、私にとってはこれが最高にユニークで顕著なものです。

数年前に聖書の中の3節を6ヶ月の間、実際どのように実行すればよいのかを学ぶようにと主から示されたように感じました。それは1テサロニケ5:16—18です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」私はこの3つの命令をいつも思い巡らし、実行するようにと努めました。

私は一日中この聖句を暗唱したり黙想したりしていました。「いつも喜んでいなさい。」私はどんな時でも喜ぶことを選び、それを表すように努めました。それが簡単に出来る時も、また難しい時もありました。それから「絶えず祈りなさい。」です。このためには私は常に主との交わりを保たねばなりませんでした。次に「すべての事について感謝しなさい。」ですが、これは本当にすべての事なのですから大変です。間違う余地はありませんでした。この3つのことを常にするのです。すべてのことに関していつも感謝し、いつも喜び、いつも祈っているのです。

人びとは私のところに来て「 私の人生に対する神の御心を知りたいのです。」と言います。

私はこう答えます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト*イエスにあって神があなたに望んでおられることです。」

「まあ、そうですけど、、、でも私はこの仕事をするべきか、ポートランドに住むべきか、サンホゼに住むべきかを知る必要があるのです。」と彼らは言います。しかし、もしあなたがいつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝するならば、あなたがどこで何をするかはあまり問題ではないのです。

「たしかに、、、でもどんな仕事をすればいいのかわからないのです。」と彼らはいうでしょう。でも、ガソリンスタンドで働いても、医者になってもいいのです。でもいつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝していてください。これが神の御心です。他のすべての事はこれに較べたらどうでもいい事です。どこで何をしても勝利です。ただいつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝していてください。(終わり)


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09 06月

あなたの一日の指揮をとる シンディー・トリム 6月9日


あなたの一日の指揮をとる

シンディー・トリム


「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」詩編90:12


あなたの未来は一日ずつやってきます。それは神からあなたへのプレゼントです。それをどのように使うかは、あなたから神へのプレゼントです。時間の使い方、タイムマネージメントは毎日の一瞬一時を有効に使うための技術です。あなたはただ時間を過ごすのではなく、一つ一つのあなたの行動や思考や話を神の言葉に従わせることによって、あなたは時に投資をするのです。

、あなたは、あなた自身の人生を傑作として創造する機会を与えられているのです。エペソ5:15—17にはこの法則に関する基本的な鍵が書かれています。
「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」


時間を投資する鍵

毎日、神は御国を拡大する機会を私たちに与えてくださいます。すべての機会を最大限に使うための鍵は、主の御心をしっかりと把握することです。これがあなたの心を神の御言葉によって絶えず一新することが非常に大切である理由です。あなたは自分の思考と言葉を神のものと毎日一致させていかねばなりません。イエスはヨハネ15:7で、すべての状況をうまく取り扱っていくための基本的鍵となるものを教えています。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

神はあなたが、1テサロニケ2:13の「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」(神のことばを信じて頼り従う人は、神の超人間的力を用いることができること)の御言葉を黙想するように教えておられる理由はこれなのです。神のことばは見いだす者にはいのちとなり全身を健やかにします。(箴言4:20—22参照)
詩編90:12で、モーセは次にような願いを述べています。「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」

一日を秩序正しく過ごすためには、プライオリティーを決める事が必要です。何がわずらわせること(しかしやらねばならないこと)であるのか、何が御国の仕事であるのかを見分ける能力が必要です。効果的なタイムマネージメントをするためには、何が時間を投資するに値することか、何に費やすべきでないか、に関する神のみこころを知る必要があります。経済的投資をする場合と同じように、あなたの時間の投資によってどんな利潤(投資効果)を得られるのかを問わねばなりません。使われた時間はコストであり、あなたが費やしているコストに対してどのような利益を得るのかを把握している必要があります。

神は効果的なタイムマネージメントと秩序の究極の例を創世記の中で教えておられます。神は6日で地球とその中のすべてのものを創造され、そして7日目に休まれました。すべては計画どおりに進みました。神がいつ、どのようにすべての生き物とその種族を順序よくつくられたかには秩序がありました。神はご自分の資源、特に時間、を浪費されませんでした。神が地球にいのちを造られたとき、神はそれぞれにはっきりと目的を与え、それらを簡潔に実現されました。

あなたの一日をよく管理せよ!

しっかり時間を管理することによって与えられる報酬を逃さないようにしてください。秩序ある生活が、あなたを創造的にする自由を与えてくれます。神からのインスピレーションを受ける超自然的周波数にあなたが波長を合わせるため(チューニング)に必要な心の平安を、秩序ある生活が与えてくれます。秩序がないと、この世の生活の諸々の世話や心配によって心が乱されるため、心を静めて神の声を聞くことができなくなります。

忙しすぎたりストレスがたまると、自由に想像したり心に夢を描くことが出来なくなります。創造的な夢を描くことに投資し、 あなたの人生というキャンバスに目的をもって絵を描くための時間を確保するためには、 時間を計画的に使わねばなりません。立ち止まって考えてください。神があなたのために前以て用意された(召命)傑作を創造するために必要な時間と平安を持つために、一日一日計画を立てて秩序をもって過ごしてください。祈り、黙想、神のことばを読むこと、プレイズとワーシップのための時間を計画することを決して忘れないでください。あなたの毎日と人生のうちに秩序が保たれる事をお祈りします。(終わり)


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