08 05月
パーパス(目的)とデスティニー(定め)を見つけよ! キム・クレメント 5月8日
パーパス(目的)とデスティニー(定め)を見つけよ!
キム・クレメント
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。」(ローマ12:3、6−8)
エレメント(自分が本来いるべき環境)とは、自分がやりたい事と得意な事とが一致する場所のことです。私たちは一人ひとり自分のエレメントを見つけ出さねばなりません。「彼は自分にぴったりのエレメントの中にいる」という言葉を聞いたことがありますか? それは、回りの完全な環境により、その人が非常に巧くやれることがすべて妨げられることなく、高められ発揮されている状態を表しています。例えば、水は魚のエレメントです。皆さんは又、「彼は陸に上がった魚のようだ」という表現も聞いたことがあるでしょう。それはつまり「彼は自分のエレメントの中にいない」ということです。多くの人は自分のエレメントの外で機能することを余儀なくされて、必要以上に苦しんでいます。そのようなとき、彼らは本来の自分とは違うものにならねばならないというプレッシャーを受けることになります。
預言の賜物は、この事に関して人を大いに助けることができます。預言の言葉を語ってその人に与えられている賜物をわからせることにより、彼がその賜物を用いるにふさわしい環境を捜し始めるようにと強く促し、最終的に自分のエレメントに行き着くように助けます。私の人生の目標、抱負は、私が出会えたすべての人のために、一番ふさわしい環境を造り出すことです。即ち、各々がその中で創造的に成長するように励まされる環境です。
ダビデ王は山野で片手に竪琴、もう一方に石投げを持って過ごしていた時、自分のエレメントの中にいたのです。彼は王として選ばれましたが、その環境は彼にとって生きるのが難しいところでした。ピカピカの大理石や金で造られた宮殿に住んだ彼は、陸に上がった魚のように感じたのです。そして、ついには他人の妻と一緒になってしまい、親友を殺す結果となりました。
やがてダビデ王は山を選んで(険しい山でした)そこを住まいとしそれをシオンと呼びました。彼はその山の上にテントをはり、その中に契約の箱を置きました。そしてこの場所を「ダビデの町」と呼びました。自分が元気を与えられ居心地がよい環境を造ったのです。彼は自分のエレメントに入ることができました。人は自分が本来するべきことをする機会を得て、各々が自分のエレメントを見つけ出す必要があるのです。
あなたのパーパス(目的、目標)は何か? デスティニー(定め)は何か?
パーパスとデスティニーとは実のところ同じではないのです。デスティニーとはあなたのための究極的な神からの選びです。パーパスは現時点での召しです。神はあなたが地上で究極的に何をするように選ばれましたか? あなたの究極の選びは何ですか? あなたが生まれるまえに何をするように選ばれましたか? それがデスティニーです。あなたのパーパスはなんですか?それは今現在あなたが召されていることです。
再びダビデ王の事ですが、彼は竪琴と石投げを手にして神を賛美し、熊やライオンをやっつけながら野原にいるのがエレメントという男でした。ある日、預言者サムエルが来て「あなたはイスラエルの王となる油注ぎを受ける」と言いました。そして、その時点からダビデの内でデスティニーが解き放たれたのでした。ダビデは生まれる前から選びを受けていたのですが、デスティニーが解き放たれたのは、その時が始めてでした。それはダビデに預言のことばがくるまで滞っていたのです。
同じことがあなたにも当てはまります。あなたの内にはまだ閉ざされたままの何かがあるのです。あなたの内には生まれる前から選ばれた自分でも知らないデスティニーがあり、それが突然、聖霊があなたに息を吹きかけた途端に解き放たれ、開かれるのです。そしてあなたは急にそのことを強く意識するようになります。
サムエルがダビデに手をおいて「あなたはイスラエルの王である」と言った途端にダビデは王になったでしょうか? 聖書にはそうは書かれていません。ダビデがまずユダの王となり、後にイスラエルの王になるまでは何年もかかりました。つまり、ダビデは自分のパーパスに仕えながら、デスティニーにそって生きていたのであり、その事実を私たちはしっかり認識する必要があります。デスティニーとはあなたの人生でなすべき究極的な召しであり、パーパスとは、デスティニーにむかって進んで行く過程であなたがするように召されていることです。
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まず、ダビデはイスラエルの王、シオンの王になるように選ばれて、油を注がれました。しかしその時ダビデはまだ青年でした。彼はある日戦場にでかけ、イスラエルの人びとに挑戦している巨人の声を聞ききました。突然、ダビデの中に何かがわき起こって彼は憤り、大胆さが内に満ちてきました。すでに彼のために定められていた権威が彼をつき動かし、羊飼いであり詩人であった彼が言うはずはないようなことを言い始めたのです。そして、 「この割礼をうけていないペリシテ人はわたしがやっつける!」と言ったのです。
ダビデのこの大胆さは、 兄弟たちのうちに怒りと嫉妬を呼び起こしました。彼らは「いったいおまえはなぜやってきたのか?荒野にいるお父さんの羊を誰にあずけてきたのか?」と叱責しました。彼らは嫉妬心をかき立てられました。というのは、デスティニーを持つ人に神の権威が与えられるとき、まわりの人が嫉妬心を起こすことがよくあるからです。そこでダビデは言いました。「この巨人と戦うチャンスを私にください。」と。
この物語はよくご存知ですね。ダビデは万軍の主の名においてゴリヤテをどう始末するか自ら預言し、結果はその通りになったのです!その時点からダビデの召し、パーパスはサウル王の太刀持ちとして仕えることでした。「でもダビデはイスラエルの王として油注がれたのではなかったのか!」と思われるかもしれません。確かにそうです、しかしダビデが究極的な選びによ って王座に着く前に、彼は一つのパーパスのために仕えなければならなかったことを、私たちは理解する必要があるのです。
今、何に召されているか?
あなたの召しは何ですか? あなたのパーパスはなんですか? 今現在、何をするようにと召されていますか? ダビデはサウル王の太刀持ち、及び詩人、楽人となる召しをうけました。それは彼の一時的なパーパスでした。パーパスというものは常に一時的なものであり常に変っていくものですが、同時に常にあなたのデスティニーを推進していくものです。あなたの現在のパーパスは決して恒久的なものではありません。それを理解することは重要です。今あなたがしていることはある一定の時のためだけかもしれません。なぜならば、神はあなたをデスティニーへと導いているからです。しかしもし現在の召しを果たさなければ、あなたはデスティニーには決して到達できないかもしれないのです。
その次のダビデの「召し」は何だったでしょうか?それは荒野に入って追放の身となることでした。サウル王はダビデに嫉妬し、彼を追いかけ、王としての油注ぎは自分のものだとして抹殺しようとしました。ダビデの召し、パーパスは荒野や山にいることでした。彼はそのような所に留まらねばならなかったにも拘らず、自分の召しとパーパスを果たしていたのです。
又、ヨセフは油そそがれ、王権をとる夢を見ました。兄弟たちは嫉妬し、腹を立てました。何故でしょうか? それはヨセフが口を開き、大胆に「私の見た夢はこれです。」と言ったからです。お分かりでしょうか、大胆さは人がデスティニーに解き放たれた時にのみ与えられるのです。人が自分のデスティニーに解き放たれると、自分でもわからないうちに、すでに彼の中に存在していた何かを口から発しているのです。多くの人はそれに対して腹を立て怒るでしょう。
兄弟たちに奴隷として売られたヨセフは、ポティファルの家に住むようにと「召され」ました。それから牢獄に入れられましたが、彼には目的があったのです。その目的とは献酌官と調理官を助けるというものであり、ヨセフはそれを遂行しました! 聖書はヨセフが監獄で成功したと言っています。これが 現時点における自分のパーパスであり、 このパーパスが究極の選びへと自分を導くものであることを悟るならば、どのようなところに閉じ込められていたとしても、あなたは栄えることができるのです!
あなたは鉄格子の中にいても制限されるとは限りません。また、人びとの言葉によって閉じ込められ制限されるとは限りません。また、憎しみや嫉妬、競争心によって閉じ込められる必要はありません。たとえどんな場所に入れられたとしても、あなたのデスティニーが今の状況を用いるですから、あなたは栄えることができるのです。自分の目をデスティニーから離さずに、今現在のパーパス(現在するように召されていること、どこかで床掃除をするとか、些細な仕事であっても)を成し遂げて行けば、人生の終着点までの旅路は必ず楽しいものになることをぜひ理解してください。
第二ペテロ1:10「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。」
自分の召しと選びをしっかり把握していれば、決してつまずかないのです。この「つまずく、stumble」という言葉は、罪をまったく犯さないとか、間違わないという意味ではありません。転ぶことはあるかもしれない、間違うかもしれない、しかし、最終的には起き上がり歩き出すということです。なぜならば、あなたの召しとデスティニーがあなたを回復させるからです。
2009年の目的があなたの召しである
皆さんに自分のエレメントを見つけていただきたいので、言い方を変えてもう一度説明したいと思います。あなたが喜びをもって得意なことをすることができる場所にいることを私は望みます。陸に上がった魚のようであって欲しくないのです。あなたの召しと選びとは同一ではないことを忘れないでください。あなたの召しは2009年のあなたのパーパス、目的です。2009年のあなたの目的は何でしょうか?
「私はラジオのアナウンサーになるように召されています、、、今は清掃人として召されていますが、しかし、いつかは億万長者になります、、、セールスマンとして成功します、、、起業家になります、、、」等々あることでしょうが、是非あなたの召しと選びが何であるかをはっきり把握してください。第二ペテロ1:10−11で驚くべきことは、「これらのことを行っていれば(もし自分の選びと召しを知っていれば)永遠の御国へ入る恵みを豊かに加えられます。」と言っていることです。これはどう言う意味でしょうか?
誰でも御国に入りたいと思っています。死後に天国に行くことを言っているのではありません。神の御国に入るとは、この地上で神の目的のために、すべての点で効果的で、力強く、影響力があり、豊かであることです。ペテロは「永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられる」と言っています。神の御国とは神が支配されているところであり、私たちはそこに入らねばなりません。ペテロはまた、「もしあなたがたが自分の召しと選びを知っていれば、永遠の御国に入る戸が開かれるでしょう。」と言っています。
ダビデが洞窟に隠れているときに、どうして詩編57:7「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。」と言えたのでしょうか? 彼にこの大胆さを与えたのは何だったのでしょうか? 彼は全軍から憎まれていました。サウル王は彼を殺そうと狙っていました。彼の回りには少ない数の者しかいず、しかも信頼に足る者たちではありませんでした。彼は洞窟で惨めな状況と環境の中に置かれていて、「私の心はゆるがない」と言える理由は一つもありませんでした。しかし彼は自分のパーパスは何か、自分の選びは何かを知っていました。それ故に「私の心はゆるぎません。私はほめ歌を歌います。」と神に向かって歌うことができたのです。
たとえ人が牢獄に入っていたり、大きな負債を負っているときに、「私の心はゆるがない。私は不安ではない。私は主を賛美します。」と言うことが出来るならば、その人は平安であり堅く立っているのです。それはその人が回りの状況とか出来事にではなく、ただ一つのことに確信を置いているからです。それは、「私を召された方は真実であり、必ずそれを達成される。」という確信です。ダビデは自分がイスラエル