Walk With God Ministries
Archive for 5月, 2009:
29 05月
回復の主ニック・ビルマンイザヤ55:8−11「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
私たちはしばしば「主のみ言葉はむなしく帰らない」と宣言し、それが成すべき事を必ず成し遂げると想定してしまいます。しかし、 それはその言葉がただ主のところに帰らないだけだ、ということはあり得るでしょうか? ないと思います。何か言葉を発せられてからそれを無効にすることは、神のご性格にはないことだからです。それでは、ある事のために発せられたのにそれを成し遂げなかった神の言葉は、一体どこに行ってしまったのでしょうか?それらを再び手に入れることはできるのでしょうか?
いこいの水のほとりでのイエスとの出会い
最近のことですが、我が家でのワーシップの時、私は主イエスと出会いました。その時私たちは2時間ほどワーシップをしていましたが、 「いこいの水」という言葉がずっと聞こえ、私は霊の中でおだやかな広い川を見ていました。聖霊に促されて、主が私に見せようとしておられるものを尋ねました。イエスは私をいこいの水のほとりに連れていかれ、「ここで横になりなさい」と言われました。それで私は水際の草の茂みに身を横たえました。そこは秘密の場所のようでした。大変平安で、啓示を受けるにふさわしい親密感のある場所でした。
私はしばらく平安のうちにそこに横たわっていると、主が「あなたは回復されることを望みますか?」と訊かれました。「はい。」と答えると、主は手のひらで水を掬い、私の上にぽとぽとと落とされました。水が私の上に静かに落ちるときに、私はその一滴一滴に言葉が満ちているのが見え、その言葉が何であるかもわかりました。私に水滴が落ちると、私の霊はよみがえり生き生きとしました。
私は主にこの水はどんな風に特別なのか、言葉は何であったのかを尋ねました。主は「穏やかないこいの水はわたしが今までに語ったけれども、まだ仕事を成し遂げていない言葉の貯水池なのだ。」と言われました。
私は、聖書の中で「いこいの水 still waters」という言葉のあるところを調べてみました。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」詩編23:1−3
主が私たちの人生のために与えられた言葉や計画の中で、私たちが手に入れなかったものが、どのようにもう一度新しくなり「私たちのたましいを生き返らせる」のかを、主は私に教え始められました。言葉を変えれば、神は私たち一人ひとりのために夢や願いを持っておられますが、私たちがそれを受け取らない時期があるのです。しかし、主の言葉は常に送られた事を成し遂げるのであり、故にそれらの言葉はあなたや私のためにまだ存在しているのです。
回復の証し
主の宣言や約束はただ消えてしまうということはありません。主はそれらを私たちが受け取る用意ができるまで、私たちのためにしまっておいてくださるのです。それは 地面にしみ込んでいた雨がやがて空気中に戻っていくのは、地を潤すという目的を果たしてからであるのと同じです。
このよい例として、私の人生で、 私と兄との間で最近起こったことがあります。1998年に、私たちはトロントでのFresh Wind Youth Conferenceに参加しました。 それは主の臨在にあふれたパワフルな週末となり、私たち兄弟にとってもすばらしいリニューアルの時となりました。その時までの数年、兄は麻薬中毒と戦っており、私との関係もうまく行っていませんでした。しかしながら、そのカンファレンスで、主は私たちの関係を回復し、また、それぞれの内に働いてくださったのがはっきりわかりました。神は兄に力強く触れてくださいました。
私たちは復活節の日曜日に帰宅し、教会に行き、家族を訪れ、そして家に戻って休みました。その日の真夜中に、母が私を呼ぶ叫び声が聞こえました。廊下に走り出ると、母が兄の部屋のベッドに座って兄を抱き、彼の頬をたたいているのが見えました。ベッドの下に注射針が落ちていました。真夜中に主が父を起こされ、兄の様子を見てくるようにと強く促されたのでした。それによって兄を発見でき、救急車が来て病院に兄を運ぶまで、私たちは兄の命をつなぐことができたのです。
それは私にとって大きな打撃でした。しかし、これは神の臨在の中でのパワフルな週末の後で、サタンが全力で兄を攻撃をしたのだということを私は理解しました。その日から、私はトロントでの兄のヴィジョンと記憶を私の胸にしっかりと抱きました。そしてそれから始まった兄の麻薬との戦いの凄まじい日々の間、主はしばしばあの週末のことを思い起こさせてくださったのです。
兄はその後、刑務所に入ったり、麻薬中毒の年月を過ごしましたが、数年前にそういう人生から抜け出しすばらしい女性と結婚しました。しかし、まだ本当に主と共に歩くということではありませんでした。ほんの数週間前、私がつくった最新の「Anthem」というCDを彼にあげました。翌日彼から電話があり、「私もこんな情熱を持ちたい」と言うのです。主が私の心を促されたので、「自分は麻薬中毒者であったから、主がトロントで私にして下さったことはもう全部帳消しになってしまったのだ」という敵の偽りを兄が信じることを止めねばならないと話しました。兄は泣き始め、それから私たちは主のことをもっと話し始めたのです。
その幾晩か後に、私はイエスとの「いこいの水」の出会いをし、主は兄のための言葉とヴィジョンをすべてしまってあることと、そしてこれからの兄の人生でそれをスピードアップされることを示してくださいました。私はこのことを兄に話し、神が彼の人生のために計画されたことはもはや手に入れることはできないという嘘を破り捨てました。それからの数週間の間に、彼はイエスとの深い親密さの中に引き入れられ、現在は主に燃え、ますます主に餓え渇いています。私との関
22 05月
オバマ政権のアメリカを憂う 坂 達也 「オバマ政権に変わって僅か3ヶ月、アメリカは今経済のみならず、政治、社会のあらゆる面で、国全体が驚くほどのスピードで完全崩壊(トータル・メルトダウン)に向かっている。世界で最も自由な国であるはずのアメリカで、今や『宗教と言論の自由』を含む多くの『自由』を国民から奪う法案が次々に提案され、自由主義の基盤が脅かされている……それは考えられないような間違った方向、社会主義と全体主義の国になりつつある。」と激しい口調で語るのは、他ならないモーニングスターミニストリーズのリック・ジョイナー師です。(彼のインターネット・メッセージ Prophetic Perspective on Current Eventsと言う Video番組の4,5月分の概要をまとめたもの)
間違った方向の一つの例として、ジョイナー師は、アメリカ政府が今しようとしていることはドルの価値を意識的に殺そうとしているとしか思えない、それは「世界を一つの貨幣に」にするための画策に通じると言っています。
確かにアメリカ政府は、昨年来の未曾有の経済危機への救出策と称して膨大な予算を計上し、破産に追い込まれた主要銀行・保険会社とか自動車メーカーに資金を投入して来ました。そして実際に政府が資金援助した会社なり業界を経営的に支配しようとしているのですから、このやり方が企業の国有化を目指した社会主義政策と呼ばれても致し方ない状態です。その上、その莫大な予算の財源は、税金を上げるか、従来に増してより多くの国債等を発行し、世界各国からの借金を上増しするか、あるいはドル紙幣を印刷するかしかない訳ですから、いずれにせよ、これが世界中にドルを氾濫させ、ドルの価値をうんと下げることになり、それが又とんでもないインフレを引き起こします。そうなればアメリカの経済が完全に崩壊するだけでなく、膨大なドル債権を抱え込んだ世界中の国々の経済も破綻しかねません。そうなると、今既に検討され始めた「世界統一貨幣」の必要性に一層の拍車がかかるだけでなく、世界の経済を一つとして考えるしかなくなるような事態に追い込まれる可能性が十分に出て来ます。実はこのシナリオが裏で画策されていると言うのです。
もう30年も前からでしょうか、世界の銀行を支配する黒幕(団体、秘密結社等)がいて、彼らは「世界を一つの政府、一つの宗教、一つの経済、一つの貨幣(あるいはキャッシュレス・ソサイエテイー)にすることによって世界を完全支配する」と言う陰謀を持っていると言う話が、クリスチャンの間でも真しやかにうわさされ、又多くの本も書かれて来ました。私も少しはその知識をかじり半ば信じていましたが、そのような話には出来るだけ触れないようにして来ました。しかし今年オバマ政権になって以来、それが現実にかなり露骨に見え隠れするに至っては、もはやそれを隠すことは出来ない、むしろはっきりと問題にする時が来たと云う強い思いを持つようになりました。何故なら、この世がサタンの支配下にある以上、世界を支配すべくone world orderによる統一世界政府を造ることはサタンの初めから(バベルの塔以来)の目標であり、そのような画策陰謀があって当然と考えられるからです。(これをある人はバビロン・ミニストリーと言いました)又、それが紛れもない最後の時代に現れる反キリストが試みようとする陰謀であることは、黙示録を見ればはっきり分かることであって、特に黙示13章に具体的に書かれています。
ところで、上記のジョイナー師の話を裏書するようなイーメールが、実はつい最近私たちの地元ホノルルのクリスチャンの友人から届きました。それは連鎖署名依頼のメールですが、事の起こりは今ワシントンDCでクリスチャン番組をテレビから締め出し禁止しようと言う法案提出の準備が進められており、その団体は既に287,000人の署名を集めたと言うのです。そして同じ団体がこれから全米の公立学校での一切のクリスチャンプログラムを禁止するキャンペーンにも入ろうとしていると言うものでした。これに対抗して全米のクリスチャンが立ち上がり、対抗処置を講ずるべく今100万人の署名を募っているので協力して欲しいと言う内容のものでした。
私は渡米して47年になります。最初の頃私は未信者でしたが、それでもアメリカは間違いなくクリスチャン国であることを肌で感じることが出来ました。その後徐々に変わっは行きましたが、ここに来て突然、火山が噴火したかのように、総てのことが急激に変化しているのです。実感として、ショック以上の、少々大げさに言えば身の毛もよだつ程の戦慄すら感じられるのです。そのことを憂う人は非常に多くなりつつありますが、その一例として最近ダッチ・シーツ師が発表したインターネット・メッセージをご紹介したいと思います。それを下記に要約してみます。
「オバマ大統領は就任演説と、最近のヨーロッパ旅行中の演説の中でと、二度にわたって『アメリカは最早クリスチャン国家ではない』と言う言葉を口にしました。特に就任演説の中で彼は『アメリカは元々クリスチャン国ではない』と取れる発言をしています。又、最近のニューズ・ウィーク誌はそれに同意するかのように『クリスチャンのアメリカは終わった』と言う記事を載せました。
その意味は、アメリカはカルチャー・ワー(宗教の文化戦争)に負けたと言うことでしょうか。それとも、ある時点ではそうであったかもしれないが、今はそうでない、アメリカのクリスチャニティーは失われた、と云うのでしょうか。あるいは、アメリカ合衆国は他宗教が常にミックスされた国で初めからクリスチャン国ではないと言うのでしょうか。
真実がどうであるかを判断していただくために、二、三の歴史的事実をご紹介します。その一つは1892年の合衆国最高裁の公式の記録に残っている文書です。それには『アメリカ大陸の発見以来本日まで、この国はクリスチャン国であることを証言・断言する一つだけの一致した声(世論)があります…』と書かれていて、その当時の国民の一致した声と現大統領とは意見が大分違っていることがこれで明らかです。
その時の最高裁判事長であったジョン・ジェイ氏は『総てのよいことの造り主であり、その授け主である神が私たちにお与え下さった身に余る多くの祝福、特に神の最愛のご子息による救いの御業に対して、私は真にへりくだって心からに感謝申し上げます。』と云っています。これがクリスチャン・ステートメントで
21 05月
伝道の天使がアフリカからやってくるダグ・アディソン
私は2009年3月21日に、Prophetic Breakthrough Ministriesのバーバラ・クラッセンと共に預言カンファレンスのスピーカーとして南アフリカのケープタウンに行きました。飛行機が着陸すると、神がこれから劇的な変化が起こるであろうと語り始められたのです。そして、この変化は連鎖作用を引き起こし、それによって全世界に神の御国を拡大していく大きな影響を与える結果となるであろうと言われました。その後直ぐ、私は天使が訪れる夢を見始めました。カンファレンスでは、天使の活動が活発になっていくのに私は気がつきました。又、神の臨在と力が非常に強く顕れました。奇跡が起こり、人びとは癒され解放されました。それが即座に起こったこともありました。
力の伝道の天使
ある日の夜の集会の直前に私は、御国の経済政策の超自然的注入としか言いようのないものを受けました。私がメッセージを語ると、非常に大きな天使が訪れましたが、彼はビジネスマンが御国のための経費を作り出す油注ぎを携えていました。これを 「ヨセフの油注ぎ」という人もいます。創世記41章にヨセフがパロの夢を解きあかし、経済が下り坂のときに繁栄するための方法を預言的に示したことが書かれています。その集会では、ビジネスと経済のための戦略がその場で示されるケースが多く見られました。私自身のミニストリーの経済的必要に関しても、その夜祈りの答えを受け取りました。
次の集会にもその天使が訪れ、出席者がほとんど全員解放され、傷心や権威者から受けた傷を癒されました。その次の集会でも同じ天使が来て、ほとんど全員が身体に聖霊の顕れを経験し、電流や熱、ぴりぴりという感覚を身体に感じました。何十人かはその晩身体の癒しを受けました。翌日には自殺を考えていた人がミニストリーを受けて救われるという超自然的な変化の報告等が入ってきました。
私はこのように強い神の力の顕れをしばらく見ていませんでしたし、このような天使を見たのは始めてでした。人びとに必要なことが何であれ、この天使は即座にそれに応答する油注ぎを解き放つのでした。私はアメリカにいるボブ・ジョーンズという友人に電話をして、彼がこの天使のことを知っているかを聞きました。ボブはこの天使は「力の伝道」という天使で、私がアメリカに戻ってリバイバルをもたらすために私に遣わされたのだと話してくれました。
集める天使たち
その夜、私は一つの霊的経験をしました。それが夢であったのか、実際に起こったのか、ヴィジョンであったのかわかりません。その経験の中で、私はカリフォルニアで高速道路101号線を車で走っていました。道路のわきに数十人のカリフォルニア交通局の労働者がいるのに気がつきました。じっと見ると、彼らの顔は燃えるような目をした古代アフリカ人の顔に変っていきました。彼らは草むらの中から白い光の玉を手で掬いあげるのに忙しくしていました。他の人たちが見過ごして無視していた光を彼らは見つけることができたのです。その瞬間、私は神への畏敬を感じ、彼らが大リバイバルの際に集めるために神によって遣わされた天使であることに気が付きました。(ルカ10:2、マタイ24:31参照) この天使たちはアメリカにリバイバルをもたらすためにアフリカから来たのだと言うことを私は悟ったのでした。
力の伝道の天使と集める天使たちが今カリフォルニアで、全地に訪れようとしている偉大な神のムーブメントのための備えをしているのです。彼らの働きの対象は、社会からのけ者にされている人や、神に召されているにもかかわらず人びとからは見過ごされている人たちでした。この神のムーブメントはカリフォルニアから始まっていますが、そこにとどまらず地球上全域に広がります。神からの様々なタイプのヴィジテイションやアウトポアリングが今地上で起こっています。これはその一つに過ぎません。
白い羽根
南アフリカのカンファレンスで多くの預言者たちが、アメリカのリバイバルのために、私に天使が一人遣わされると告げました。これは非常に重大なことなので、何かそれを確証するものを私は神に求めました。すると次の集会中に「白い羽根」が空中に 現れ、会衆の面前で私の手のひらに舞い降りてきました。その時、神の力が会場に強く現れました。私は椅子から滑り落ち、床の上で使徒行伝10:10にあるようなトランス、夢見心地になりました。天使が私の手を取り、私は深いレベルの啓示を受け始めたのですが、それは今も続いています。
ニュートンの法則とリバイバル
南アフリカを出発しようとしていたとき、私は神から預言の言葉を受け、今起きていることは、ニュートンの「運動の第三の法則」と似たものだと言われました。その法則とは「物体が他の物体に力を及ぼす時、その物体は同じ大きさの反対向きの力を他方の物体から受けている。」というものです。南アフリカからの天使がアメリカに与えるアクションは、南アフリカでも同じ規模の聖霊のリアクションを起こさせるのです。世界のいろいろな所でリバイバルが起こると共に南アフリカでもリバイバルが起こるのです。旅行から戻ると、私は霊で南アフリカに連れて行かれるという経験をして、一つの分裂を神が癒しておられるのを見せられました。南アフリカや世界において、一致を妨げるものを取り除く神の策戦が天から解き放たれているのです。クリスチャンの一致がリバイバルや神のムーブメントを保つための鍵となるのです。
どう応答すれはよいか
私はこの記事を書くことを非常に躊躇しました。私はこれが過去の神のムーブメントと同じようなレベルの影響を与えるとか、 現在起こっていることは私のミニストリーだけの成果だとか言っているのではありません。ただ私は自分が経験したことをお話し、分与し始めねばならないと感じているのです。私はセンセーショナリズムは嫌いですので、今まで自分の超自然的な体験のほとんどを小さく扱ってきました。しかし、今回のは特別です。家に帰ってインターネットで調べたところ、いくつかのミニストリーがここ数日に起こった天使の出来事の記事を出していました。 この数年来私は、教会史上最大のリバイバルがやってくると言ってきました。
私が気づいたのは次のことです。これらの天使と彼らがもたらす油注ぎが解き放たれると、私たちがすでに持っているものをもう一段高い新しいレベルへと引き上げます。ですから、あなたが既に召されているものをもっと増し加えて
16 05月
時を知るリック・ジョイナー
世界の国々の政府や様々な機構の土台が崩れていることを表す出来事が、毎日のように起こっています。聖書の預言は、この時代の終わりには「大艱難(マタイ24:21、黙示7:14参照)」と呼ばれるものが起こり、その最大の原因は、人類の起こす問題が人類の解決能力を超えてしまうことであると言っています。今、揺り動かしが増大するにつれて、人びとは次のような疑問を投げかけるように増々なっています。「私たちはそれらの土台が崩れないように手を差し伸べるべきであろうか? 地の塩である私たちはそれらが崩れないように助けるべきであろうか? それは必ず沈む運命にあるタイタニックの船体の穴につぎをあてるのと同じではないであろうか?」と。
これらの疑問に答えを出すことは非常に重要です。一つの国家の運命はまさにその国の教会が正しい答えを出せるかどうかにかかっているからです。即ち、真理に向かって進み真理によって自由を得るか、又は、瞬く間に悪、偽り、束縛に堕ちてしまうかです。教会こそが、それぞれの国家がどちらに向かうかを決定する要因なのです。教会が召されている通りに地の塩、世の光として立ち上がるならば、その大小に拘らず、その国家はいのちの道に向かう事ができます。もし教会が眠っていたり、又は今の時代に預言的にかかわることを拒絶するならば、その国家は失われます。
どうしてこのように重大な結果が教会のあり方にかかっているのでしょうか? 教会は今までも常にその国の将来を決定してきたのですが、今は 終末の時代であるという緊急性の故に、その影響が増幅されるのです。私たちは地の塩となるように召されています。もし私たちに塩気が無くなれば、国は保存されません。私たちは世の光となるように召されています。もし光が輝きを失えば、国は暗闇に落ちていくのです。
多くのクリスチャンがどのような道を選択するかは、彼らの終末に関する聖書預言(エスカトロジー)の理解によって大きく左右されます。本当はそれが要因になるべきではないのです。というのは、終末に関する聖書預言はすべて、忠実なる真のクリスチャンたちによる最高最大の福音伝道と行動を喚起するものだからです。それは、ダニエル11:31−32に書かれている反キリストが現れても何だ変りはありません。
神を知っている人びとは揺るがされることなく、必要な行動を起こすでしょう。しかしこれは常にそうなのです。 しかし受け身の姿勢では、召されているような地の塩、世の光となることはできません。ただ教義を信じるだけでなく、キリストご自身に真に従う者は主に似た者とされ、主と同じ業をするのです。イエスが地上におられた時、当時の最大の暗闇と対峙されましたが、主は妥協も撤退も決してされませんでした。それがキリストの御性質であり、主の御霊にある者たちの性質であり、私たちの性質であり、決意でなければなりません。
教会の目を覚まし、受け身の信者たちを今の危急の任務に召されている軍隊へと変えていこうではありませんか。(終わり)トップへ戻る
15 05月
主の臨在を迎えるビル・ジョンソン私たちの人生に与えられた最大の特権の一つは、神が留まられる者になることを習得することです。勿論、主は既にすべてのボーンアゲインしたクリスチャンの内に住んでおられます。しかし、主はその人たち全員の上に留まってはおられません。そのことは次のような言葉で表現できるかもしれません。
「主が私の内におられるのは私の益のためである。主がわたしの上に留まられるのは、みんなの益のためである。」と。主が私たちの上に留まっておられるとき、特にその影響を大きく受けるのは私たちの回りにいる人たちです。
イエスが水のバプテスマを受けられたときの出来事は、このライフスタイルのお手本となります。
イエスがバプテスマを受けて水からあがられると、天が開け、父なる神が語られました。そして聖霊が鳩のように主の上に下り、留まられました。「またヨハネは証言して言った。『御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。』」(ヨハネ1:32)
もし、実際に本当の鳩が私の肩に留まっていて、その鳩が飛んで行ってしまわないようにするためには、私は一体どのように生活するでしょうか? 一歩一歩いつも鳩のことを念頭において歩くことでしょう。
主の臨在をどのように迎えればよいのかを誠実に学ぼうとするときに、私たちの前には 二つの現実があり、両者は緊張関係にあることを十分理解することが重要です。即ち、主は私たちに御霊を無限に与えてくださったのですが、毎日の生活の中で私たちが享受するものは、私たちの信仰に応じて「はかられて」いるということです。言葉を変えれば、私たちは神の 臨在を無限に受ける可能性が与えられているけれども、主は信頼に値しない人にご自分を委ねることはされないということです。どれだけ御霊を与えられるかは、すべて私たちの出方によって決められるのです。即ち、主は私たちが熱心に守りきる決意があるだけの臨在を私たちに委ねてくださるのです 。
私たちは主が留まられる場所(そこから天の御業が成し遂げられる場所)になるべきです。なぜならば、主がある人に留まられると、その人が行くところはどこででもアトモスフィア(空気、環境、状態)のシフトが実際に起こるからです。
ペテロの影が人びとを癒したことをあなたはどう思われますか?私たちの影というものは、 私たちを上から覆っているものの力を放つのです。主の臨在を迎え(共に過ごす)ことを会得すると、あなたが意図する時に起こるブレイクスルーよりも「たまたま偶然に」(意図しないで)起こるブレイクスルーの方が、もっと頻繁に経験するようになるでしょう。それは毎日すべてのクリスチャンに起こり得ることなのです。
主の臨在を迎えることを学ぶ中で 私たちは多くの葛藤に遭遇しますが、その一つは過去のシーズンで学んだこと自体にあります。驚くべきことに過去に(聖書から)学んだ霊的原則自体が、私たちの上に実際に留まっておられる主の臨在に向かって戦いを挑んでくることがあるのです。私たちは通常意識的に(聖書で学んだ)原則に従って生きていますが、実際には一刻一刻を臨在によって生きることを学ばねばなりません。もしその二つが衝突するならば、臨在は原則に常に勝利します。
一つの例をあげます。人生に対する神の御心を積極的に探し求めることが私の習慣になっていたとします。そして私にとって一番重要な聖書箇所は、マタイ11:12の「…天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」だとしましょう。原則によって生きようとすれば、私は今までに学んできた「激しく攻める信仰」を適応しようとします。しかし、神の臨在は今、ルカ18:17の「子どものように神の国を受け入れる」ことを促しているかもしれません。
もしあなたが原則だけで生きているならば、あなたはその時点やそのシーズンにおいて、 激しく攻める信仰こそが完全に聖書に基礎を置いた正しいものだと推論するでしょう。しかしその推論は聖霊が言われることと一致しないのです。この例では「激しく攻める信仰」と「子どものような信仰」どちらも聖書的です。私たちがあるシーズンやある状況の中でどのような対応すればよいのかを知っておられるのは聖霊だけなのです。
私たちは神がすでに語られたことにしっかりと土台を置かねばなりません。それによって今主が語られていることを見分けていくことができます。存続しつづける信仰を私に与えて下さるのは神の臨在です。それは、「信仰は聞くことにより、聞くことは神の言葉によるからです。」(ローマ10:17)
神の臨在と共に過ごすことを学び、会得することによって、信仰で生きることが自然で普通になる、そのような心の状況がつくり出されてゆくのです。
私たちが、神の留まられる場所になるように決意しようではありませんか。(終わり)トップへ戻る