03 04月
「人の子らよ、帰れ。」主に 坂 達 也 2009年4月3日
「人の子らよ、帰れ。」主に
坂 達 也
先週掲載したキャシー・ペルトンの「恐れの根を取り除く」は大変興味のあるメッセージでした。文中で、彼女が折からの経済不況のあおりを受けて家族3人の仕事が無くなり、収入源が断たれたことが書かれています。彼女とその夫は、総てを主に委ねる信仰で生きようとしているすばらしい夫婦です。最初の二、三ヶ月は思いがけない方法で主が彼らに収入を与えられましたが、その後の数ヶ月は何も入らず、ついには貯金も底をつきました。その時点で、彼女は信仰による平安を装ってはいても、夫に仕事探しにもっと精を出すように「ほのめかした」のです。しかし主には(夫にも)彼女の心の状態が分かっていましたから、主は、その「ほのめかし」が神からの声を聞いてそう言ったのか、あるいは恐れ(不信仰)から出た、自分自身の考えであったのかを彼女に問い質されたのでした。
この話を読まれた方の中には、「自分で出来る当然の努力をしながら主の導きを待つと言うやり方がどうして信仰的な生き方ではないのか」と言う疑問を持たれた方も大勢おられたかと思います。つまり、仕事探しを自分の責任ですることは「主の御心の中に入る当然すべき自己努力」と言う考え方です。すると、問題はどこまでを自分の責任でし、どこから神に頼るのかと言う疑問にならないでしょうか。あるいはそう分けて考えること自体が間違っているのかもしれません。
それで思い出すのは神がモーセを通してイスラエルの民に言われた下記の御言葉です。「『あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出エジプト記19:4-6)
神はイスラエルに二つの要求をなさいました。一つは「わたしの声に聞き従う」こと、もう一つは「わたしの契約(律法の書)を守る」ことでした。私たちの願いは勿論、主の御声を聞いてそれに従うことですが、主は同時に、私たちが主との契約を守ることを要求されています。それがどう言うことかをヨシュア記1:8が「この律法(契約)の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」と説明してくれています。
私たちは常日頃、聖書にある「書かれた御言葉」(契約、律法)を聖霊の助けと導きによって精通し、祈りつつ、それを自分の霊と魂に叩き込んで自分の血肉の一部となる程に沁み込ませる必要があると言われるのはこのことであると思います。そうすることによって、私たちクリスチャンは先ず、基本的な主の御心と思いを知り、自分の心と思いが主と同じか、あるいは非常に近いものとなるのです。そうならなければ神と友人のような親しい関係にはなれません。これはちょうど神ご自身の思いを知るための原語である「霊のことば」を憶えるようなもので、それを憶えることによって、主と聖霊が語られる「声の御言葉」がよく理解出来るのではないでしょうか。
私は最近「主の御声を聞く」とはどう言うことかなのかを色々な面で体験させられています。先ず今までの私のフラストレーションは、何故もっと御声が聞こえないのだろうか―にありました。グラハム・クックは主が直接私たちにことばとして語られることはそんなに多くはないと言います。それではどうしてその時の神の御心を知ることが出来るのでしょうか。
神はアブラハムに「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と仰せられました。(創世記17:1)「全き者であれ」の全きと言う言葉は英語でパーフェクトですが、神は私たちが完全な人間になることを要求しているのです。完全な人間とはどう言う人間でしょうか。完全な人間は唯一人イエス・キリストがそうですから、私たちはイエスのような人になれと言われていることになります。そして、それを具体的に言うならば、それがヨハネ5:19、20に書いてあります。「…子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。…」
イエスは父がなさることを常にみな見てそれを行ったのです。(霊的に心の眼で見ることと、心の耳で聞くこととは同じでしょう。)そして自分の考えでは何一つしませんでした。
前述のキャシー・ペルトンは、たまたまその時に恐れを持ったため、これが出来ませんでした。イエスは常に父を見上げて父の指示を待ちました。しかし大事なことはイエスの心が父の心と完全に一致して、通じ合っていたことにあります。
イエスは、一日の生活の中で誰かが突然現れるとか、些細なことも含めて起こることの総てを予期し予知されておられたかどうかは私には分かりません。多分予期されていなかったことも多く起こったでしょう。例えば、ある人から突然電話が掛かってくることは、通常私には予期出来ません。(時々は思いがけない人からであっても、その人からの電話だととっさに「霊感で、虫が知らせる」経験をされる方は多いと思いますが)イエスはほとんどの場合、前から父の予告を受けているか、あるいはその寸前に予知出来たかも分かりません。いずれにせよ、イエスは総てにおいて父の御心がはっきり分かってその通りになされたことは確かです。
私たちは何かが起こる、あるいは人から何か言われると直ぐリアクションしてしまいます。このリアクションとは通常自分の肉がこの世的に反応する、とっさの感情からのリアクションが多いのです。(例えば、ムッとするとか)しかしイエスは私たちのように罪の性質でこの世的に反発・反応されることはありませんから、恐らくとっさに思い浮かぶのは 全き父のお考え、父の思いであると思います。そして、それが正しいことである確認を父は瞬 間的に与えられるのであると思うのです。
詩篇85:10に「恵み(愛)とまこと(忠実さ)とは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。」とありますが、これは父と子の関係をよく表していて、ここで言う義(の心)とは「子は総て父に従う」緊密な交わりの関係そのものであり、それに父は常に愛と平安で応えられることを表していると思います。父と子のやりとりは、「阿吽の呼吸」とでも言いましょうか、イエスは自然に「父だったらこうお話しになる」と言うような適切なことばとか考えが、状況に応じてほぼ自動的に出て来るのではないでしょうか。
勿論大きなこと、例えばラザロが死にかけているので早く来て欲しいと依頼されても尚二日間も行かれなかったのは、大きな奇跡を起こされるご計画があったからですが(ヨハネ11章)、このような場合は前以て父と子は入念に打ち合わせされていたと思います。
私は最近、勿論イエスのようにではありませんが、私なりに、相手に答える言葉が何か自然に口に出て来て、後で、それが神がそのことばを私の思いと口に入れて下さったのであると言うことが結果として分かったことが何度かありました。それは神の御声を聞いたからそれをしたと言う感覚ではなかったのです。結果的にそうなったのですが、その時一つ私が気が付いたことは、私はずっと平安のうちにいたと言うことでした。
主との阿吽の呼吸と言うのは、時に「待つ」ことを教えてくれます。主は私たちの信仰を強めるために敢えて私たちを待たせることが多くあります。しかし、その時に平安を下さいます。ですから真に信仰のある人は安心して待てるのです。これをキャシー・ペルトンに当てはめれば、彼女の夫は「今は主の指示を待つ時である」こと、自分では何もしなくてよいことをはっきり感じていたのであると思います。キャシーもそう信じていたのでしょうが、彼女の場合は「恐れ」によって神とのコミュニケーション(親密な関係)がつい途切れてしまい、あわてて自分の考えで行動してしまったのではないでしょうか。
これからの世の中は益々暗くなり、患難を迎えます。今こそキャシーが受けたような信仰の訓練を私たちもしっかりと受け、患難に立ち向かう時です。
このようなしっかりとした信仰の土台を築き上げるためには、先ず常に天におられる父を徹底して求めることにあると思います。ダビデは「神ご自身の心を求めてやまない人」でありました。これが神の義の心であると思います。「 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)詩篇の86:3-4でダビデは「 主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」と叫びました。
そのダビデが「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。『わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。』と。」(詩篇91:1-2)とうたっています。隠れ場とは秘密の場所、それは主とあなただけが密会する秘密の場所です。そこにいつも宿り住む者は全能の神のご臨在に常に覆われ、これ以上安全なとりではなく、どんな敵も近づくことは出来ません。そのような主との密接な交わりの関係にいつもいれば(主の御前に住む、宿る)、あなたは神の御声が聞こえます。又、たとえ聞こえないと思われる時でも、主はあなたを導き、あなたの足はいつもしっかりと守られています。
少年であったサムエルはまだ神の御声を聞いたこともない時に、ある夜、神のともしびがついたままで主の箱が安置されている主の宮で寝ていました。(1サムエル3:3)これは主のご臨在の前で彼が安らかに眠っていたことになります。すると初めて主がサムエルを呼んだその御声を聞いたのでした。
今厳しい職場の困難な状況の中で夜遅くまで働いておられる方、毎日が戦場のような牧会生活に疲れておられる牧師の皆様に私は申し上げたいのです。主とだけの時を出来るだけ多く過ごして下さい。主に安息することはどんなに忙しい時でも可能です。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。 あなたは人を塵に返し/『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」(詩篇90:1-3)
私たちが、自分(の考え)を塵のようにへりくだらせ、神に帰って、罪のないエデンの園でアダムとエバがしていたような、主との深い交わりを持つことを神は望みつつ、私たちを待っておられます。(終わり)
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