05 03月
「この世は揺り動かされ始めた」 坂 達 也 2009年3月5日
「この世は揺り動かされ始めた」
坂 達 也
1.「真理とは何か」
これはピラトがイエスに聞いた有名な質問です。(ヨハネ18:38)普通の人間で、この質問について考えてみたことのない人は恐らくいないと思いますが、古今東西の哲学者、宗教家、科学者は皆この「真理」を探し廻って来ました。「宇宙の大真理とは何ぞや」から始まって、「人生とは何か」、あるいは広い意味では「どうすればよいのか」「何が良い方法であるのか」と言う実生活における真理に至るまで、人間は真理を求め続けて来ました。本当に真理とは何でしょうか。
先ず真理を辞書で見れば「正しい道理。だれも否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実。」(ヤフー辞書)とあります。英語ではTRUTHですが、「証明された命題・定理・真実・事実、あるいは実存、正確なもの」と説明されています。
それでは聖書はどのように言っているのでしょうか。興味のあることに、へブル語中心の旧約聖書とギリシャ語による新約聖書では概念的に少し違いがあることに気が付かされます。旧約聖書では、その人が本当に信頼に足る人か、どれだけ忠実・誠実であるか、その行いが善か悪か、その人が正直で事実・真実を語っているかどうか、と言うようなモラル面に重点が置かれ、人間が対象にされています。
それが新約聖書では、知的(論理的)・客観的・観念的な事実とか法則に重きが置かれるようになりましたが、イエス・キリストにおいて新旧約聖書両面の真理に対する考え方が集約され一つになったと言えます。すなわち、創造者の神(父、御子、聖霊)こそが永遠に存在する方で、不変であり、常に正しく、しかもその方の性質も、お考えも、言われること、なさることの総てが真実で、「永遠不変の絶対的な真理」そのものであることを示しております。
それをイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。…」(ヨハネ14:6)と言い表されました。「真理とはイエスご自身である」と言われたのですから、これ以上の明確な答えはありません。しかしキイは「わたしは道であり」にないでしょうか。
時を超越した永遠に不変の存在である神は絶対に変わることはありませんが、タイム(時)とスペースの移り変わりの中に住む私たちは、それぞれの時と状況下において数ある多くの神の不変の真理のどれをどのように適用して行くべきかを知る必要があります。これは神からの「知恵」と呼ぶことが出来ますが、それを常にご存知なのがイエスである訳です。
イエスは「恵みと真理とに満ちている方」であり、(ヨハネ1:4)イエスの御霊が私たちを「すべての真理に導き入れ」(ヨハネ16:13)て下さるのです。そして、そのイエスが「あなた(父)のみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)と言われる通り、私たちは聖書に書かれた御言葉(恒久的真理)と、聖霊を通して時とスペースの中で適切に語られる父の御言葉(預言、啓示)の両方を常に必要とし、その真理を理解しなければなりません。
イエスはそのことを別の御言葉で次のように説明されました。「…わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:37)ポイントはいつもタイムリーに「わたしの声を聞く」にあります。
さて、人間が真理を追いかけて止まない理由は、この世には真理でないものが余りにも多くあるからです。その「真理でないもの」とは神に不忠実なものであり、それが「罪」です。人間を罪に導いたサタンの総ての業は「うそ」「ごまかし」であり、神にたてつくものです。従って私たち人間が作り上げたこの世の社会は「真理でないもの」で充満しています。
2.今のシーズンに神がなさろうとしていることは何か
それは人間の中でも、特にクリスチャンの持つ罪と罪の性質をより集中的に洗いきよめることにあると私は信じます。勿論、私たちのみならず、どの時代に生きたクリスチャンでも皆この「きよめ」のための長いプロセスを通されて来ましたから、そのこと自体は特に目新しいことではありません。しかし、神は今それを加速されようとしておられます。しかも、もっと激しく徹底的に訓練をされようとしておられるのです。なぜなら、いよいよその総仕上げの段階、完成の時が近づいて来たからです。
黙示録22:11に「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」とありますが、いよいよそれが実現する、この世の終末における最終段階に入ろうとしています。同じことをダニエル書では、終わりの時に「多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。」(ダニエル書12:10)と言われました。
神に従順な者と逆らう者がふるいいにかけられ区別される時がいよいよ目前に迫って来たのです。それはクリスチャンが真に「キリストに似た者」となり「小羊の妻である花嫁」として完成されるためです。
「あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」(へブル12:26-29)
上記で「天をも揺り動かそう」と言われたのは、黙示録12章に書かれている「天に戦いが起こって、悪魔とその使いどもが地上に投げ落とされる時」を意味しているように思えます。そして大患難を迎えます。確かに大患難の中を通ることは、神を信じない者にとっては懲らしめ、あるいは「さばき」です。しかしクリスチャンにとっては最後の総仕上げの大訓練であるのです。そのことがダニエル書3章に書かれています。
王の像にひれ伏して拝むのを拒んだシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対して怒ったネブカデネザル王は、彼ら三人を縛って普通より七倍熱くした火の燃える炉の中に投げ込みました。すると火の中で三人ではな