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15 12月

秋の日本旅行の報告 その4  坂 柚実子 12月15日


秋の日本旅行の報告 その4                                         

私たちは秋には沖縄に行くことを、このところ恒例としています。滞在は10日間ほどで、いくつかの教会でメッセージをさせていただきますが、宿泊はずっとサレム宮里教会でお願いしています。主任牧師の島袋英子先生とは1996年の春、東京でのグルーバー先生の集会にちょうど上京しておられた先生が来て下さった時からの御つきあいです。この出会いはまさに神様のご計画であり、沖縄でのグルーバー先生や、ひいては私たちのミニストリーは、島袋先生をはじめとするサレム教会の方々の御尽力で進められてきました。

1996年の秋には、主人と私がグルーバー先生の通訳として日本に行っている一ヶ月程、私たちのオレゴンの教会の留守番をしていただきました。沖縄の教会を副牧師の伊覇先生にお任せになり、オレゴンの小さな日本人の群れのためにご奉仕くださったのです。その次の年に初めてサレム教会(当時は宮里隣人教会)に行かせていただいた折には、教会の皆様に先生を一ヶ月もお遣わしくださったことに心からお礼を申し上げたのでした。



 写真:島袋英子先生

その2年後でしょうか、グルーバー夫妻と私たちで日本を旅行中、四国から沖縄に移動した時点でグルーバー先生のお母様の訃報が入り、御夫妻は急遽アメリカに帰国されました。沖縄でのミニストリーの予定はすでに組まれておりましたが、すべてキャンセルするしかないと思われました。しかし島袋先生が、主人に「坂先生、あなたがグルーバー先生に代わってミニストリーをして下さい。」と励ましてくださり、他の牧師先生方の御理解のもと、主人が初めて日本の教会でメッセージを取り次ぐと共に、祈りの歩行の指導もさせていただきました。この時の経験は大いに主人を力づけました。それからも、いつも島袋先生は私たちのミニストリーの理解者、サポーターとしてお祈りくださり、暖かく励まし続けてくださっています。

サレム宮里教会は二階が礼拝堂、 三階が先生のお住まい、私たちは一階に宿泊させていただきます。すると夜遅くとかにどなたかが訪ねてきて、先生とお話などされています。後でお聞きすると、以前教会に来ていた方が東京に行くことになり、「先生、お祈りをしてください。」と言って来られたとか、なのです。そんなことが度々で、先生が多くの方の霊的支えになっておられるのがわかります。先生の牧会はキリストにある赦しと憐れみを土台にしておられると、常に思わされます。 信徒の方々もその薫陶を受けて、一人一人が主を深く愛し従って行く信仰を培っておられるのを感じます。
これまで主のために捧げられた先生の人生の収穫 が、これからもますます豊かに実るようにとお祈りします。 (終わり)

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14 12月

御国で必要な全き信仰の祈り(2)   坂 達也  12月14日


御国で必要な全き信仰の祈り(2) 

坂 達也

悪魔との戦い

 これからは、いよいよ終末の終盤の時代に入らんとしている。最近マイク・ビクル、リック・ジョイナー等が黙示録12:9にある「 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は……地上に投げ落とされ……その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」と書かれていることが実際にこれから起こらんとしていることを強調し、又警告した。
それは12節に続く。「12 このゆえに、もろもろの天と、/その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、/お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」

これからしても地上での悪魔の最後のあがきが、どれほど強烈なものとなるかは想像に余りある。いよいよ悪魔との最後の戦いに私たちが望まねばならないのである。この時のために万軍の主は御国の戦士である私たちを「全き信仰」を持たせる訓練をして来られたのだ。
 それはヨシュア記で語られている約束の地における「聖戦」と同じ最後の大「聖戦」がこれから繰り広げられようとしているのである。
御国とは約束の地と言ってよい。その約束の地に渡ったイスラエル軍はヨシュアの指揮の下で、カナン人、ヘテ人等七つの土着の強敵を相手に戦い、これをことごとく制覇した。それには「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)という神からの御ことばによる霊的な士気の高揚を必要とした。しかし今の私たちにこそ霊的な高揚が必要である。何故ならそれは前述したように、悪魔との対決は決して肉では勝てないからだ。

 二、三日前に、これから就任するアメリカのオバマ大統領が暗殺される夢・ビジョン・ことばをこのところ多くの人が見ていること、しかも暗殺によって大暴動が起こるビジョンを見た人も多いことをリック・ジョイナーが取り上げた。

オバマが当選したことは人種問題を克服するための画期的前進である。人種問題RACISMは単にアメリカだけの問題ではなく、世界的な問題である。特にナチズムは第二次大戦をピークに人間の歴史を揺さぶったが、あれこそ悪魔の牙城の一つであるとリックは言う。その通りだ。
悪魔はオバマによってその人種問題の牙城が崩されるのを放置しておく訳がない、故に大きな巻き返しをかけてくるだろうことを教会は予期して、今真剣に祈るべきである、とリックは言う。

そして彼は、今後オバマに対する暗殺・暴動などの具体的な企てに関して主からビジョン・夢・御ことばによって啓示を受けたと確信できる人は、関係当局に必要な処置を依頼するために、ぜひモーニングスターに知らせて欲しい、と世界中の人に呼びかけた。

私はこのような呼び掛けを今まで聞いたことがない。まさに御国の時代に移行しつつある事を痛感した。クリスチャンが世界の政治とその治安にいよいよ参加するのである。神からの啓示はそのために絶対に必要な情報と指示の武器なのだ。それだけではない。このところ、経済危機の問題だけでなく、世界に大きな艱難の時代が来ることを預言する人が増えていることを付記しておきたい。



 さて、ここで「主の祈り」について、先回のメッセージを書いた後に、二つの強調すべき点が示されたので、今回それを先回と同じテーマの続(2)の形で付け加えさせていただくことにした。

 それは主の祈りの最初の部分である「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。」(マタイ6:9)と12節の「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」についてである。


前にトッド・ベントレーを擁護し、今も彼と彼の家族の回復をカンセラーの一人として、又親友の一人として助け続けているビル・ジョンソン について紹介したが、そのビルが、ベントレー事件を通しての教訓は、教団・教派の下にいる教会が、今こそ「御国の天の父」の支配に完全に還らねばならないことを強調している。
彼は、ベントレーに対して他ならぬ多くのクリスチャンの仲間たちが、あまりにも大きく執拗に個人攻撃したこと自体を問題として取り上げた。彼は、今まで私たちクリスチャンの教会がやって来たことを次のように指摘する。
たとえば80年代に起こったことだが、ジミー・スワガードとかジム・ベーカーが罪に落ちた時に、アメリカの教会が取った態度は何であったか。当時教会は、罪に陥った彼らを個人的にかばう代わりに、彼らの失敗と罪をもっとあばいて責めて見せ、その人たちを突き放し、自分たちが作り上げて来たデノミネーシャナリズム(教派主義)とその教団は、そのような人たちとは違うことを世の中に認識させることによって自分たちの組織を弁護しようとした。これは人間的な宗教主義者たちのすること以外の何ものでもないのである。
 それはちょうど、自分たちの義と聖さを強調するために罪に堕ちた兄弟を軽蔑し、憎み、裁いたイエスの時代の律法学者と同じではないか。それは律法学者とヘロデ王で代表される宗教と政治という種入りパンなのである。
 もし自分の息子・娘が罪を犯したらどうするだろうか、とビルは問う。「あれは罪を犯した、良くない人間だ」と自分の子供の罪をあばき立て、「それに比べ私たちは違う」と一線を引き、「私たちは彼らと関係ない」と言って済ますだろうか?

 又、ビルはワインスキン(皮袋)とワインの話を紹介した。皮袋とは教会の中身であるワインを入れる外側の皮の部分であって、五役者を含む教会指導運営組織に当たるもの。しかし重要なのはあくまで中身のワインであって、新しいワインに聖霊が働いて美酒へと醸造されるプロセスの間に、中身は熟し膨れ上がるが、それを包む外皮が破れたり、ほころびたりしないでしっかり守り育てる役目をするものである。ところがワインの成熟を指導する教団・教派組織である皮袋が中身よりも自分たちを重要視しているとすれば、それは忌々しき問題であると言うのだ。

今は現在の教会の中からパン種を取り除くシーズンであるとビルは言う。彼は教団・教派的教会組織を完全に父に還すことを叫ぶ!「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。」
 今は父に帰る御国の時代。教会とは元々一人の父の元にいる家族なのだ。人間的デノミネーショナリズムの規律に属するもの
13 12月

神の癒しの力—創造的奇跡を起こす8つの秘訣  マット・ソーガー  12月13日


神の癒しの力—創造的奇跡を起こす8つの秘訣

マット・ソーガー


癒しの力

あるスタジアムでの集会中、そこら中で癒しが起こっていたのですが、12歳の女の子がステージに上がってきた時のことを私は決して忘れないでしょう。その集会で主は私に、耳が聞こえない人の耳を開く祈りをするようにと導いておられました。神の臨在と栄光がその場に満ち、今まで聞こえなかった人々の耳が開き始めたのです。
癒された人々が次々に証をしているときでしたが、私のミニストリーチームの一人がある 少女をステージの上に連れてきました。彼女は生まれつき耳がなく、頭の両横に小さな穴があっただけでした。神の油注ぎが彼女の上に臨んだとき、 耳の中ではじけるような音がするのを彼女は聞いたのです。 主が創造的な奇跡を起こされ、突如彼女の頭の中に鼓膜が形造られ、生まれて初めて耳が聞こえるようになりました。
この奇跡は、私が起こしたのでも何でもないことが私にはわかりました。私の役目は、ただ会衆を賛美に導いて神の栄光を迎え入れただけであり、そのあとのことはすべて神に委ねたのでした。それはメキシコでの集会でしたが、その夜は神の力による多くの癒しが起こり、いくつかの身体障害も癒されました。

コミュニオンとインティメシー

私がすばらしい癒しの力を初めて見たのは14歳のときで、私の母が癒されたのでした。しかし、それからの数年間、そのような癒しが 教会の毎週の礼拝で 起こらないので、その理由が私にはわかりませんでした。 祈っても何も起こらない祈りにうんざりしていました。
誰かのために祈ったならば、何でもいいから、何かが起こって欲しかったのです。私はこのようなフラストレーションと共に、私の霊は聖霊とのもっと深い関係を求め飢え乾いていました。若い私の中に二つのことが起きていました。神は私が現状に満足しないようにされ、私の心に霊的乾きを起こさせ、その乾きは私を聖霊との何時間にも及ぶ交わりへと 駆り立てたのです。

過去20年間、私は神と共に歩むことを学んできました。神は霊的力に満たされて生きる生き方に関して多くのことを教えてくださいました。神は数えきれないほどの人々の人生に何千回も御力を顕してくださり、私にその証人となる特権をくださいました。御ことばに深く根ざし神と親しく歩むことは、神が私の人生を通して ものすごい力を解き放ってくださるのを見るための基盤となりました。
キリストがあなたの心に入った瞬間から、あなたは御霊によって生き始めることができます。神の力の中で生きるには20年間クリスチャンでなければならないということは決してありません。

私もクリスチャンになって間もない頃に、何回も神の力を経験しています。その経験が今の私を形つくっています。神のタイミングは完璧であり、神によって整えられることが不可欠です。整えられることのよって油注ぎが保証されるわけではありませんが、それは油注ぎを持続させます。 神の力と賜物について一つ学んだことは、それは神の恵みから溢れ出るものであり、信仰によって活性化されるということです。しかし、その源はすべて神にあり、神の天よりの栄光を受ける資格は、ただ神の恵みにより与えられるということを忘れてはなりません。自分の努力や行いとは全く関係がないのです。もしそうであれば、私たちもすこし認められてもいいでしょう。しかし、そうではないのですから、すべての栄光は神にあるのです。 内なる徳が高められ キリストに深く根ざすときに、神は私たちの人生の中に計り知ることのできない神の力を注ぎこんでくださいます。

今日は、神の創造的な奇跡の力によって働きための8つの秘訣をお話したいと思います。これらの原則を生活に適応するときに、私たちはしるしや不思議が私たちを通して起こるのを毎日見ることができるようになると信じます。

1.あなたの人生に神の臨在を培う


神の栄光がすべての奇跡の源です。聖霊が働きやすい環境をあなたが培えば培うほど、あなたは神の臨在をもっと持ち運ぶことになります。そして主の臨在をもっと持ち運ぶほど、もっとあなたに力が与えられるのです。聖霊というお方とその臨在を感覚的にも感知しながら、できるだけ長く時を過ごすことによって達成されるのです。 どんな小さなことでも罪を犯した時や 、ほんの少しでも霊的に心が暗闇の方に向いてしまった時は、すぐに告白し悔い改めてください。

異言でたびたび祈っていください。イエスの血潮で覆われなさい。み言葉を黙想してください。歌や祈りで神を礼拝してください。 聖霊に、感覚的に感じられる方法で来てくださいと、できるだけ何度も絶えずお招きしてください。聖霊を悲しませることを避けなさい。 あなたの人生が聖霊で満たされていくとき、奇跡、しるし、不思議が自然にあふれてくるのをあなたは見るようになるでしょう。

2. 心に神の信仰を培う

真の超自然の信仰は、私たちの霊から流れ出て私たちの思いに影響を与えます。その逆ではありません。信仰は、理論や自然界の現実を 超えて、私たちをもっと高い霊的現実へと導きます。神がすでに霊的に達成されたことに、目に見える世界を合致させていきます。
私たちはみ言葉の中に生き、常に思いを新たにしていかねばなりません。 信仰は心に啓示が与えられたときに生まれます。聖霊とみ言葉によって真理があなたの思いと心に啓示されるとき、信仰があなたの内で生きてきます。
ヨハネ8:32に「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。常に思いをみ言葉の上に置いて、あなたの思いと霊を神のみ言葉に浸しなさい。そうすれば、真理が啓示され、超自然的な信仰が心に生まれでるでしょう。真理が啓示されることによって生み出される心の信仰が、神の力で働くために究極的な鍵です。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル12:2

3. 信仰に行動を加える

力の油注ぎに関して正しく理解しておかねばならないことは、それは ある意図された目的のために理由があって注がれるということです。
イザヤ61:1には次のようにあります。「神である主の霊が、わたしの上にある。 主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げるために。」

癒しと奇跡のための力の油注ぎは、あなたが病人が癒されるようにと祈っ ているときにだけ顕れます。私たちは力の油注ぎが必要な機会を意図的にいつも求めていなくてはなりません。行いのない信仰は死んでいるのです。(ヤコブ2:20)
力の油注ぎは、人々を超自然的な方法で助けるために与えられるものであり、そのときに神の御こころと御性質をも彼らに明らかに示すことができるのです。決して失望してはいけません。一心に集中して粘り強くなければなりません。目に見える状況がどうであれ、自分のヴィジョンを高く持ち、神の御こころと真理を知って理解し、神の信仰によって動かされなさい。この行動が神の力を解放し、奇跡を生み出すのです。

4.熱心に霊の賜物を求めよ

第一コリント14:1には、霊的賜物を熱心に求めよ、と書かれています。私は祈りのときに手を自分のお腹の上に置いて、聖霊が活発になって 賜物が自分の中で顕著に顕れるようにと求めます。癒し、奇跡、知識の言葉、信仰という御霊の賜物はすべて、奇跡を行うミニストリーのためには非常に大切なものです。 あなたが活発になるようにと神に願うと、主はそうしてくださるのです。御霊の賜物はギリシャ語ではカリズマと呼ばれ、「恵みの賜物、何の働きもなしに受ける恵み」のことです。それは神の恵みの顕れです。受けるために働いたり努力はできません。救いがそうであるように、それは聖霊によって値なしに与えられるものです。求めれば求めるほど、もっとあなたは受けるのです。そしてすべての賜物を受けることができます!

5.断食と祈りの訓練


マタイ17:16には、弟子たちが癲癇の少年を癒すことができなかった記事があります。イエスは 質問されたとき、癒せなかった理由は弟子たちの不信仰だと言われました。神の御心に問題があったのではありませんでした。また、イエスは少年の信仰に焦点も当てられませんでした。弟子たちの心の信仰のレベルが問題だったのです。
しかし、もう一つの重要な要素は祈りと断食でした。祈りと断食をする中で、あなたの肉体と肉の思いが神の心と思いに全く服従し、神の信仰があなたの疑いにとってかわる時があるのです。祈りと断食は、神の信仰を私たちの内に解き放つ助けになります。奇跡を生み出すのは私たちの内の神の信仰であり、断食ではありません。この場合、断食と祈りは神の心に存在する信仰の満ち満ちた様にまで私たちの心を導く道として働くのです。
もう一度言いますが、奇跡は私たちの行いではなく、私たちに差し伸べられた神の信仰と恵みによって起こるのです。

6.神の声を聞くことを学ぶ

超自然の領域で働くためには、聖霊なるお方に対する鋭い感覚を発達させねばなりません。神はクッキーの型のように判で押したようには働かれませんし、いつも同じ方法で働かれるのではないからです。これはいらいらさせられることかもしれませんが、事実です。
このことはイエスにも見ることができます。主は毎日の生活の中でしるしや不思議が起こるのを 見られました。しかし主は 同じように祈られたことはほとんどありません。ある時はイエスは人々に手を置かれましたが、ある時はある 行動をとるようにと指示されました。又ある時は非常にかわったことをされました。
例えば、地面につばきして泥を目に塗りました。主は型破りであり御霊に導かれておられました。その鍵は、主は天の父がしておられるのを見てそのことだけをされたと言うことです。(ヨハネ5:19)

父の行動を見たり聞いたりする主の能力は、主が祈りと交わりにおいて父と過ごす時間の中から生まれたものです。もし私たちが霊的目と耳を敏感にしたいならば、神を見たり聞いたりできる場所に自分を置かねばなりません。そのためには「寂しい場所」に行って、自分の心と思いを神にだけむけることができるようにせねばなりません。自分で話すだけではなく、神に耳を傾けることを学ぶことによって霊的感覚を訓練するならば、あなたは御霊によってすばらしい神の力の顕れを見るようにと導かれるでしょう。

7. 油注ぎのあるところに行く

神の力の新しいレベルへと私が進むことができた大きな鍵は、神の動きのある場所に行ってもよいことを学んだことでした。ある人たちは、「神が私に何かくださるのなら、私の部屋に来てくださる。どこかに行く必要はない。」と考えています。勿論、神は私たちの部屋に来てくださることはできますし、実際そのようなことはよくあります。しかし、それだからといって、神が動いておられる場所に行くことによって油注ぎを文字通り「キャッチ」できるという事実がなくなるわけではありません。

神を持ち運んでいる人やミニストリーを見つけて、そばに行ってください。私たちは交わりを通してお互いから学び、 分与を受けます。このように他の人と一緒に神と交わることは、密室での個人的な祈りを通しての神との交わりにとって代わるものでは決してありません。それは個人的な礼拝に付け加えられるものであって、神との関係を補強するものにすぎません。私は現在最も油注ぎを受けている人たちの幾人かと共に交わるという祝福を受けています。彼らとの交わりは私の信仰を燃やしてくれたばかりでなく、私の人生やミニストリーの中に知恵、啓示、力を与えてくれました。

油注ぎのある交わりは、あなたの人生に油注ぎを養うために絶対に必要です。そのような交わりはコーヒーを飲みながらの一対一のものでも、また油注ぎのあるメッセージのCDやビデオ、また集会で共にワーシップするということでもできます。神が臨在される場所に行くことによって神の力に触れてください。

8.愛を動機とする


このことに関して一番重要だと私が思うものは、そして往々にして欠けているものは、愛です。イエスは憐れみの心で病人を癒されました。(マタイ14:14)私たちの心に神の愛が大きく注がれなければ、私たちは全く力がありません。
愛が私たちがするすべてのことの基礎でなければなりません。愛が霊的力を受けたいという願いの基盤でなければなりません。愛がないときに、力はプライドや自慢になってしまいます。実際のところ、人々への神の愛が私たちの心にないならば、力はむなしいのです。(第一コリント13:2)
愛は事実神の力の最も偉大な顕れです。イエスが全き従順の中を歩まれたのは愛の故でした。罪の力とサタンに打ち勝ったのは愛 でした。私たちが互いのために自分の命を与えるのは愛によってです。愛が私たちの信仰を動機づけるのです。(ガラテヤ5:6) 愛によって私たちは御霊の内に生きるようにされるのです。愛が一番偉大な徳 です。信仰がなければ神に喜ばれることはできません。しかし、愛がなければ、神を知ることは全くできません。
真理で満たされた愛は、罪、誘惑、怒り、不一致、病、圧迫、霊的腐敗、死に対する究極的な霊的武器です。愛はすべてを克服するのです。 これらの原則をあなたの人生に適応して神と共に歩めば、神の栄光ある力と油注ぎがあなたを通して解き放たれるに違いありません。

奇跡が起こるのを待っている人が、ほら、あそこにいますよ!(終わり)


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08 12月

秋の日本旅行の報告 その3   坂 柚実子   12月8日


秋の日本旅行の報告 その3

10月18日の朝、私たちは愛知県知立市の馬場純平宅を訪れました。馬場夫妻はその昔、オレゴンの大学に留学中に知り合い結婚されたのですが、一時、私たちの家の離れに住まわれたこともあり、又、マウンテンパーク教会での伝道活動も一緒にしてくださったので、家族のように親しい間柄となりました。

日本に帰国されたのは20年ほど前ですが、二人のお嬢様を与えられました。
長女の言葉(ことは)さんは現在東京の大学で美術を専攻されています。
今年18歳になった次女の理歩(りほ)さんは先天的な筋萎縮症というのでしょうか、筋肉が全く成長しない病気をもって生まれ、医学では手の施しようがないのですが、奥様の富久美さんを中心として家族中で理歩さんのお世話をしておられます。富久美さんのご両親も同居しておられて、理歩さんが通う特殊学校への送り迎えなど、献身的な愛をもって仕えておられます。



ある意味では、理歩さんが家族の中心であり家族を愛で一つにしているといえるでしょう。彼女は言葉さんと共に数年前に洗礼を受けましたが、身体が不自由な代わりに霊が強く成長しているのがよくわかります。彼女は話すことはできませんが、すべてのことを理解し、また、神と人に深く霊で交わることができるのです。

理歩さんは喉に痰がたまると自分の力でそれを出すことができないので、45分毎くらいに器具を使って吸引せねばなりません。ですから誰かがいつもそばにいなければならず、家族の負担が大きいのが分かります。その他、理歩さんが自分ひとりでできることは全くないと言ってもいいでしょう。しかし、それに対してご家族は「大変だ」というようなことは一言も言わず、神様の癒しを信じて明るく過ごしている信仰の姿には、心から感動させられます。医者からこの病気の人の寿命は長くて18年と言われていたのですが、今はそれを毎日更新中です。どうか皆様も理歩さんのために、またご家族のためにお祈りください。(終わり)


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06 12月

奇跡の乗法的増加のシーズン ギャリス・エルキンス 12月6日


奇跡の乗法的増加のシーズン

ギャリス・エルキンス


最近のウォール街での株価の値下がりは、多くのアメリカ人に家計や将来に対する不安を抱かせました。経済安定の基礎が今、揺るがされています。

この世の王国は、普通の足し算や掛け算の数学を基盤に動いている組織です。それは、人間の目で実際に見ることができ、人間の頭で理解できるものからのみデータを集めるシステムです。しかし神の御国は、今まで知られてきたものを侵略し、普通の足し算掛け算の法則を「奇跡の掛け算」によって覆すものなのです。

奇跡の掛け算によって変えられる地

聖書の中でもっとも興味のある物語の一つに「5千人の給食」があります。マルコ6章によると、イエスは一人の子供のランチを取り、多くの群衆(女性や子供もいたことを考えると、2万人以上だと思われる)への奇跡のご馳走に変えられたのです。

6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。35 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。36 みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」


この群衆は何時間もイエスの後に付いて来ていたのですが、そのための食料を何も用意していませんでした。私たちが何かがなくて大変困惑するのも、しばしば人里離れた何もないところにいるときだということに気づかれましたか?マルコ6章ではまさにそれが起こったのでした。キャンプ用具が入ったリュックサックもありませんし、食料を買う店もありませんでした。群集はイエスについて田舎を歩いていたのです。町からは遠く離れていたのに必要はとてつもなく大きかったのです。

弟子たちは大群衆の大きな必要を見て、自分たちなりの解決法を考えました。彼らはイエスに「人々を解散させてください。」と言いました。つまり、「私たちは疲れてお腹もすいたし、もう忍耐力も尽きてきました。この群衆に関する問題を無くしてください。」と言ったのです。しかし、イエスは今から起こそうとしておられた奇跡に、弟子たちも参加するように招かれたのでした。

奇跡的掛け算は今持っているものから始まる

6:37 すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」

これは自然界の普通の足し算と掛け算から発せられる言葉です。「何を食べさせるのか?」という言葉は、見渡すかぎり何もないへんぴな場所で、奇跡は見えるものを通してだけ起こると私たちが考えてしまっているときに、口から出てくるのです。

イエスは38節で一つの質問をされました。
6:38 するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」」

あなたの今の人生の中で、へんぴで何もない場所はありますか? 老後のための資金が急速に減ってしまいましたか? 結婚生活が危機に面していますか? ミニストリーの支援者が減っていますか? 次にどの方向に進めばよいかわからなくなっていますか? 今の必要を満たすには程遠いほんのわずかの物しかない、しかもへんぴな場所に立っている自分を、あなたは発見するかもしれません。

奇跡の掛け算は、今すでに持っているものから始まります。人里離れたところに何千人もの空腹な人がいたのです。弟子たちはどのくらい食料があるか調べてみました。その結果、いわしのような小魚が2匹と、マフィンのようなパンが5つ見つかりました。これだけの大勢の群衆の中で、見つかったのはこれだけでした。

6:39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。40 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。42 人々はみな、食べて満腹した。43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。44 パンを食べたのは、男が五千人であった。

奇跡の掛け算的増加は驚きと喜びの叫びを起こす

50人とか100人のグループが全部でいくつあったかを考えてみれば、この奇跡のごちそうを全員に配るには数時間はかかったとみるのが妥当でしょう。奇跡が起こっているのだ、ということが人々に分かり始めたときの喜びと興奮の渦を想像してみてください。この奇跡の掛け算的増加は一瞬にして終わったのではなく、次ぎから次ぎへと続いたのです。

私たちが奇跡的掛け算の環境の中で生きることを始めると、あの日丘の上で響いていたに違いない声が聞こえるようになるでしょう。それは、神の奇跡の御業を見て驚き喜ぶ人々の叫びです。

神の愛をまだ知らない人たちの間で喜びの叫びが起こるシーズンがやってこようとしています。神はまず教会に奇跡的掛け算をもって与えてくださり、次にそれが街へと広がり、スーパーナチュラルな福音伝道が起こるのです。

街の広場で奇跡的掛け算の御業が起こったならば、街全体がどう変えられるか想像できますか? 御国について人に知らせるには「神の慈しみ」を用いるのが最善の宣伝方法です。聖書には「神の慈しみが人々を悔い改めに導く」と書かれています。

奇跡の掛け算的資源は天に用意されている、見上げなさい!

自分がへんぴで何もないところにいると分かったときに私たちがとる姿勢には、2つの選択枝があります。
1. 下を向く。イエスは人々に食物を与えるようにと弟子たちに言われました。私たちも弟子がしたように下を向いて、手に持っているランチを見、「一体何を食べさせるのか?」とつぶやくこともできます。膨大な必要性を目の前にして、自分の欠乏だけを見てしまうのです。

2.上を見上げる。イエスは別の姿勢を示されました。主は上を見上げました。マルコ6章で、イエスは少年のランチを手に取り、天に上げ、祝福してから人々に与え始められました。主はそのへんぴで何もない場所から上に手を伸ばされて天に触れたのです。

私たちの資源 は、自分の手に持っているものではありません。また、ウォール街が告げるものでもありません。私たちの資源は天にあり、私たちがそれを掴み取り自分の人生の中に取り込むために用意されているのです。私たちの存在すべて、また、必要すべては、神の御座の周りにあるのです。

もしも自分の資源は現在の不景気な世の中にだけあると思うならば、私たちはその限られた資源に手を伸ばすでしょう。しかし、神は私たちが、経済問題、病気、崩れた人間関係をすべて天に向かって上げて祝福することを選びとるようにと願っておられるのです。自分の必要を天に上げて祝福すると、その必要は神の栄光と結びつけられるのです。

主の栄光こそが私たちの持っているわずかなものを溢れるばかりの豊かさへと変えるものです。私たちの必要が天の衣のすそにひとたび触れるならば、それは天の栄光を帯びて地上に戻されるのです。少年のランチが神に捧げられないならば、それは手の中でランチのまま残り、奇跡の大宴会とはなりません。

へんぴな場所でもうなすべき術がないと思えるようなとき、私たちは神からの奇跡が必要です。教会はこの世と同じように恐れの中で生きることも出来ます。しかし、愛なる天の父が私たちが持っているわずかなものを、神の栄光によってスーパーナチュラルなトランスフォーメーションのために変えてくださることを期待して、それを天に差し出して祝福することも可能なのです。

今日、あなたの必要を満たすものがどんなにわずかであっても、それを天に上げて祝福することを選びとってください。そして御座に上げられたあなたの必要に神が触れてくださるように頼んでください。そして、その必要をへんぴな何もない場所に戻して、それを人々に分け与え始めてください。あなたが持っているものに天が触れてくださるのは、あなたが所有するためではなく、周りの人へ解き放っていくためです。あなたが与えるものは増え続け、それはやむことのない供給源となっていくでしょう。

あなたの中で恐れが頭をもたげようとするときには、いつも恐れに向かってこう宣言してください。
「私は今の状況を天にすでに差出し、神が私の必要に触れてくださいました。私は天から私が持っているものの奇跡の掛け算的増加を引きおろしています。この世が不可能だというところで奇跡が起こることを私は知っています。神にとって不可能なことはないことを信じています。少年のランチを奇跡的掛け算の宴会に変えることさえも可能です。」 (終わり)


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