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Walk With God Ministries


13 08月

ジュデイス・グルーバー夫人  8月13日


その後の報告です。……

ジュデイス夫人は退院し、目下自宅静養中です。これに先立ちヘンリー師はノースウエスト・カナダの旅を中断して帰宅しました。今は夫人と共に自宅で数日を過ごし、明朝ポートランドに飛行機で引返します。そして2-3日後に日本の大阪に参ります。
医師の診断はcongestive heart failure であることが確認され、心臓から出る動脈が二箇所においてブロックされていることが分かりました。それに糖尿病が関連しているので引き続きインシュリン注入を続けています。 肺に水がたまるのも完全に止まってはいないようです。
今回夫婦二人で主に祈った時に、夫人に「新しい心臓が与えられる」と言う前からの確信を改めて再確認したと言っておりますので、どうぞ引き続きお祈り下さい。夫人はインシュリンによって気分がよくなり、生活上違いを感じるかとの質問に対しては、ほとんど差は感じないと答えていますが、その声には力があり、以前の朗らかさと気力が戻っていることを感じさせます。皆様のお祈りを心から感謝します。
                                               坂  達 也

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11 08月

終末において花嫁が持つ刈入れのための油注ぎ ポール・キース・デイビス 8月11日


終末において花嫁が持つ刈入れのための油注ぎ その1

ポール・キース・デイビス

約束されたメシヤに関する重要な預言の一つがイザヤ11:1-2にあります。この箇所は、人類に新しい時代を開くメシアに宿る油注ぎを、次のように預言的に告げています。

イザヤ11:1-2 「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」

神の「七つの霊」という概念はすばらしい奥義であり、地上における主の御霊の働きをよく説明しています。それは三位一体という神の真理と矛盾するものではなく、神の御霊のご性質(特徴)と能力の全部を表している完璧なる表現です。主の御霊は、知恵と啓示、思慮と力、主を知る知識と主を恐れる知識を持っているのではなく、ご自身がそれらの力そのものなのです。




黙示録には「神の七つの霊」という言葉が4箇所に出てきます。この言葉は二つのギリシャ語から成っています。
Hepta 七つ、七重、七倍より成る
Pnewmata 霊、息、風の複数形、人や物体の単数形としても使われる

聖霊が持つ七つの面は、聖霊の特徴(ご性質)を明確にする助けになります。「主の霊」という言葉は聖霊が誰であるかを表し、知恵、啓示、思慮、力、神の知識、神を畏敬する恐れは聖霊が何であるかを表現しています。

黙示録4:5は次のように書かれています。「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。」
「玉座からいなずま、様々な声、雷が起こった。また玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。」


主イエスのミニストリー

四つの福音書を調べれば、私たちの完全な模範であられる主を通して神の御霊がこれらの力をどのように使われたかをはっきり見ることができます。しかしそれだけではありません!驚くべきことに、主イエスは、父がご自分を遣わされたように、主が私たちを遣わされると預言されたのです。更に、私たちは主がされたのと同じ業をなし、主が父のもとに上られる故にそれ以上の大きな業をすることを、主は強調されました。そして私たちがこの任務を成し遂げるためには、神の七つの霊の油注ぎのすべてを(フルに)いただくことが不可欠なのです。

キリストの花嫁とは、「主の骨の骨、肉の肉」となるものです。からだは頭につながっているべきものです。この終わりのときに私たちは主のミニストリーを完全に遂行し、多くの肢体を持つキリストのからだとして大収穫をもたらすのです。黙示録5:6で、主は七つの角と七つの目(七つの神の霊)を持つほふられた小羊として描かれています。

「さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」(黙示5:6)

七つの霊は主の啓示(七つの目)と力(七つの角)のすべて(100%)を代表し、主が地上でのご計画を達成するために不可欠でした。教会が主と同じわざをしてヨハネ14:12のみ言葉を成就するためには、これと同じ霊の現れが教会の上に留まらねばなりません。主は聖霊と火のバプテスマを授けると約束されましたが、神の七つの霊は火として表されます。

聖化と整えられること

神の七つの霊の油注ぎのすべてをフルに受けるのは、大変大きな責任を意味します。このようにパワフルな霊的力を受けるためには、多くの祈りと準備がまずされねばなりません。そしてこの御霊のマントルを受けたあとは、御霊の導きに完全に忠実に従うことが極めて重要です。終末の油注ぎを受けられるように花嫁を整えるのは、五役者の責任でしょう。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師は次のことのために与えられるのです。

エペソ4:12-14 「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、」

私たちの前には私たちが見習うべき霊的な先駆者が大勢いました。彼らは主の油注ぎを豊かに(フルに)受け霊的な成熟を遂げた霊的型です。その一人であるジョン・G・レイクは20世紀の信仰の使徒といわれています。彼は魂の救いと奇跡的な癒しや解放で大きな成果をあげたのですが、その後、9ヶ月の断食と祈りのシーズンを経験し、それによってより深い神との関係に進んだと言っています。そこで彼はキリストの満ち満ちた様を発見し、それによって彼はもっともっと高い啓示と力の領域に押し出され入ったのでした。彼の人生の終わりの数十年のミニストリーにはそのことがはっきり現れていました。

彼が神に全面的に服従をし、彼のいう「キリストの人」(Christ-man)となるまでの過程は、メッセージの中で鮮明に語られています。神の七つの霊は、完全に整えられた人には今でも現実にその人のものとなるのです。そのために喜んで代価を払い、迫害に耐えて成熟し、キリストの身丈にまで成長する人は、今までの教会の中ではほんのわずかの例外的な存在でしかありませんでした。しかしこれからの世代には、このような「神を心から畏れる者の群れ」が起こされるでしょう。志のある者はすべてこの群れに参加するように招かれているのです。

神の組み合わせ

神の七つの霊は二つずつの組になって働きます。知恵の霊と悟りの霊、思慮(カウンセル、助言)の霊と力の霊、神を知る霊と神を畏れる霊は、それぞれ二つずつ組となり、調和して共に働きます。そしてそれらすべての霊は、主の霊の顕れから流れ出ているのです。

御霊の賜物は、それが必要とされるときに、御心のままに振り当てられ分与されます。私たちが賜物を持っているのではなく、必要に応じて賜物が現わされるのです。九つの御霊の賜物はすべて、聖霊に満たされたクリスチャンの内で働くことができます。しかし、神の七つの霊は、明らかにそれより量的に大きな御霊の現れであり、成長し(マチュア)聖化さられたクリスチャンを神の深い奥義や力
05 08月

タッド・ベントレーとレイクランド・アウトポアリング 坂  達 也 8月5日


タッド・ベントレーとレイクランド・アウトポアリング

                          
 4月2日からフロリダ州レイクランドにあるイグナイテッド・チャーチ(千人収容)で始まったタッド・ベントレーによる癒しの集会は、全く予期しない速度で膨れ上がった。一時は七千人収容の会場に移ったがそれでも収容し切れず、今は一万人収容のエアコン付テント会場が飛行場の近くに設置され、連日一万人近い人たちが熱心に詰め掛けている。又国外からの参加者も急増し、ある時は外国人が場内の1/3を越えていた。

 このミニストリーの第一の特徴は、TV、インターネット、ラジオ、それにDVD等あらゆる報道メディアが活用されていることである。特にGodTVと言うクリスチャン・メディアによって集会の様子が毎日世界中に実況中継され、百五十万人近い人が視聴していると言われる。勿論日本でも手軽に見られる。これに加えてNBCニュース、FOXニュース等の一般TV局も報道したので、レイクランドの癒しの集会は今全米で注目を浴びているだけでなく、世界的に反響を呼んでいるのだ。こうしたメディアの動員によってアッと言う間に世界に広がったと言う点、今までのリバイバルが一地域に限られて起ったのと比べると、前代未聞の現象である。これは終末の時代にふさわしい、神がオーケストレートされている御業であることに疑う余地はない。

集会では実際に相当な癒しが起っている。既に二日以上死んでいた二六人が生き返ったことが確認されており、「盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。」(イザヤ書三五-五)にあるクリエイティブ・ヒーリングの奇跡が現実に目の前で見られるのだ。恐らく癒されてない病気の種類はないと言っても過言ではない。タッドが口をすっぱくして言うように、それは全能の神がなさっておられるからだ。多くの癒しの奇跡は医師の証明を取付けてあると言う。もっと驚くべきことに、直接会場に行かなくても、メディアを視聴しただけで起こった癒しが毎日何百件(タッドは今は一日千件に達していると言う)も世界中から報告されているのである。又、録画されたビデオを見たり、携帯電話で話すだけで末期がんがいやされたりもした。物凄い「伝染能力」がある。

 このアウトポアリングの第二の特徴は、集会に来た人が主からの栄光の油注ぎを受けて持ち帰ると、主の癒しを世界のどこででも行うことができる点にある。イギリスから来た数人の牧師が本国に帰って集会を開き、最初の夜に100人が癒され、集会は今でも続行されている。集会を訪れた二人の高校生がリック・ジョイナーのモーニングスター・ミニストリーに持ち帰り、そこでもアウトポアリングが起こっている。  
しかしながら、このベントレーのミニストリー程論争と物議をかもしたミニストリーは他に例を見ないと言われる。そのせいもあるのか、人々はレイクランドの現状を未だリバイバルと呼ぶのを差し控え、聖霊のアウトポアリング(溢れるような噴出し)と呼ぶにとどめている。だが、実際には「終末に起るべき大リバイバルがついに起り始めたのではないか」と言う大きな期待が持たれているのも確かである。

そこで本論に入る前に、先ず聖書的に見て、終末に何が起るべきなのか、そしてそのタイム・テーブルについて考えてみたい。そうすることが、フロリダで起り始めたこの「リバイバル現象」の理解に役立つと思われるからだ。
終末に起らねばならないこと
 聖書によれば、第一に、キリストの再臨の前にキリストのからだ・花嫁である教会の「すべての者が、…信仰の一致と…知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至り」(エペソ四-十三、口語訳)「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会」(同五:二七)に完成されねばならない。この聖句だけから見ても、我々が真にキリストに似た者になるには相当に過激的に変えられねばならないことが分かる。しかもそうなるための残りの時間は少ないのである。

 第二に、「二つのもの(イスラエル人と異邦人)をご自身(キリスト)において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現し」(エペソ二-一五)「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなる」(同二-二一)ことが実現しなければならない。
これは詩篇一〇二-一八、二二で預言された「…後(終わり)の時代のために書きしるされ、(イスラエル人と異邦人が一つとなって)新しく造られる民が、主を賛美しますように。……国々の民や、王国が共に集められるとき、主に仕えるために。」がまさに成就することになるのだ。主が再臨される時には、先ず「異邦人の(救いが)完成」(ロマ書一一-二五)され、次に「イスラエルはみな救われる」(一一-二六)と書かれている。そのためには世界中で未曾有の大リバイバルが起る必要があり、その後に(あるいは平行して)イスラエルが国ごとリバイブされると言うのだから、イスラエル人にとっても歴史上最大のリバイバルが起ることは明らかであり、これこそ名実共に「死者の中から生き返る」(ロマ一一-一五)ことを意味していないであろうか。
 従ってこれから来るリバイバルは、イスラエルとの関連を外しては考えられない。これが今までのリバイバルとの大きな違いだ。主の再臨に向かって起る最後のリバイバルの最終目標は、ユダヤ人と異邦人クリスチャンが一つになることであり、それが今までの全てのリバイバルの集大成でもある。

そのタイム・テーブル


ここで話をレイクランド集会が始まる二週間前の三月二〇日にもどしたい。この日から数日間、リック・ジョイナーのモーニングスター・ミニストリーとポール・キース・デイビスのホワイトダーブ・ミニストリーの共催による「父たちを敬う」 Honoring the Fathers と言うカンファレンスが行われた。
 事の由来は、ジョイナーが昨年主から与えられた夢の中で、主は「今のアメリカは父たちを尊敬していない。そのように父祖を軽視していることは地獄の門が一つ開く原因となり、その門から多くのわざわいが今アメリカに侵入している。その門は、父祖を敬うことをアメリカが回復することによってのみ閉ざすことが出来る。もしアメリカが今そのことを悔い改めれば、六ヶ月以内にわたしはアメリカにリバイバルを送る。」と語られたことから始まった。特に示された「父たち」とは、四〇年代か
03 08月

緊急! お祈り下さい。 坂 達也  8月3日2008年


緊急! お祈り下さい。


先程、今シアトル市にいるグルーバー師から電話がありました。ジュデイス夫人が昨夜遅く呼吸困難を訴え、娘さんが緊急処置として地元オマハ市のクレイトン大学病院に入院したそうです。
主な原因(病名)はcongestive heart failure と言われますが、それと共に肺に液体がたまり、アフリカでも病院でその液体を約2リットル注射器で取り出したとのことです。その際に彼女が咳きをしたため、注射器の針が動いて破裂が生じ、それが液体流出を起しているとのことです。緊急事態ですのでぜひお祈り下さい。宜しくお願いします。 坂 達也


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01 08月

神の見地・・・時間と永遠の合体 キム・クレメント 8月1日


神の見地・・・時間と永遠の合体

キム・クレメント

私たちの自由は状況によって支配されてしまうという思いは、神がひと度語られれば、すっかり取り去られます。しかし、そのためには一つの条件があります。神がそうできるように私たちが神に従順であることです。
最近私は、私たちの「物の見方、見解」 について、そしていかに私たち一人ひとりが「見解」であるかを、考えています。誰もが見解を持っています。私が一つの見解であり、あなたも又、見解です。そう考えると、私たちは自分の信仰体系、教育、霊的理解、個人的歴史(良かれ悪かれ)、そしてとても重要な現在の自分の状況を土台にして物事を見ます。その見解は健全なものであるかもしれませんし、あるいは自分の狭い考えにだけ基づいた見方かもしれません。しかし神が介入してくださると、神の見解で私たちの見方を変えてくださるの

神の見解

神が語られる言葉は神から見た物事の説明であり、その事に対する神特有の見解の完全な説明であり解釈です。なぜ神は物事に関してある特有の見解を持っておられ、どうして私の見解はそれと一致しないのでしょうか。これはよくあることです。神が私たちに語られるときのもう一つの重要な要素は、私たちが主のみ言葉を信じるならば(私たちは時間と空間の中に生きているので、そこから疲れ、病気、圧迫、異なる意見等の制約を受けながらも)、主はそれを実現させることがお出来になるということです。 

あなたは、こう質問されるかもしれません。「神は神であるのだから、なんの制限も受けないのではないですか?」と。その答えは簡単です。神は永遠、つまり時間のないところに生き存在しておられ、人間を時間と空間を司るものとされました。永遠からほとんど助けを借りることなく人間がそれを管理し、時をあがない、空間を占めています。制限のある人間の世界に永遠の力をもたらす助けとなるのは、彼らの信仰だけです。

信仰は山をも動かすことができます。イエスが一本の実のない木に語ったところ、翌日にはそれは枯れていました。主は風や嵐に静まれと命令されました。キリストがされたことは、主の血液の中に存在していた永遠の力を使って主のその時の制約(時と空間)を修正したのです。私たちは主と同じ制約を持っています。しかし、私たちが主と聖霊を受け入れるならば、主と同じ力を持つことが出来、私たちが人生の目標を達成するのを縛る制約は何もないはずなのです。

マタイ16章に書かれているシモン・ペテロの話をご存知でしょう。彼は他の弟子と一緒にいて、イエスの質問に答えようとしていました。「人々は私を誰だと言っていますか?」とイエスは聞かれました。彼らはみんなオウム返しに人々の意見を主に伝えました。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」するとイエスは、明らかに彼ら自身の見解を知りたいと思われて、次の質問をされました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

主は彼らの意見とか人間的な見解を聞いておられるのではなく、永遠の見地からの答えが何かを聞いておられるのです。誰も何も言いませんでしたが、とうとうシモン・ペテロが答えました。「あなたは、生ける神の子キリストです。」これにイエスは心打たれシモン・ペテロに言われました。「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉(時間と空間/意見)ではなく、天にいますわたしの父(永遠)である。」また続けていわれました。「シモン・ペテロ、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。」

突然私は一つのことがわかりました。「神からの啓示」が私たちの思いと交じり合って言葉となって口から出るとき、天(永遠/制限がない)と地(空間/時間/制限)とのハーモニーが作り出されるのです。シモン・ペテロは「神」からの見解を受けたゆえに、地上のこの世の状況の中に、つないだり解いたりすることによって永遠が入るように命ずることができたのです。

一時的 対 永遠

ここにジレンマがあります。一時的なことと永遠とは相反するものです。制約された空間的見解を捨て去って、永遠の見地の啓示を受けた者が、否定的な制約された意見からくるネガティヴなエネルギーの満ちたこの世の空間に向かって、啓示によって受けたその永遠の見解を宣言し解き放つ、そのような者を神は見つけ出そうとしておられます。
私の祖母がよく言っていました。「人の意見はお尻のようなものだ。誰でも持っていて大抵臭い。」と。 でも少し皆さんを慰めたいと思います。聖書は伝道者の書の3章で、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」とありますね。この「心」とは正確にいうとDNAのことなのです。

ですから、限られた時間と空間にいる私たちが持つ制約を克服できないはずは絶対ないのです。あなたのDNAに永遠があるということは、ほかの永遠に生きる人や永遠の物と接触したいという思いにあなたを駆り立てます。そしてもし見つからないと、一時的なものを見つけてその人や物を永遠のものにしようとするのです。

奇妙に聞こえますか? では、このことを考えてみてください。モーセはイスラエル人をエジプトの圧政者から助け出しましたが、400年間圧政のもとにあった何百万人かのイスラエル人の不信、恐れ、怒り、侮辱に取り囲まれていました。彼らの思いは、400年間の奴隷生活、抑圧、苦痛の歴史によって支配されていたのです。

彼らの前に突然ある一人の人が現れて、いくつかの奇跡をして見せ、ついには彼らを自由へと旅立たせました。彼らの信仰や期待感は低かったので、モーセが奇跡を行うことは困難だったといえます。しかし、モーセは神からみ言葉を受けていました。それは即ち、自分の中に永遠の命令は持っていたということです。
神の言葉は一時的ではなく、永遠で、決して死ぬことはありません。モーセは民の中に永遠なるものを見つけようとしましたが、そこには人間的な制約された見方しかありませんでした。あるとき何百万というイスラエル人は旅の途中水が無くなり、神に話して何とかせよ、とモーセに怒って迫りました。神はモーセのそばにあった大岩の中に水があると告げます。これはとんでもないことです。岩の中に水はありません。時間と空間という制約の中においてはありえないことですが、神の見地から見ればあるのです!

ですからモーセがしなければならなかった事は、神からのみ言
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