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Walk With God Ministries


29 08月

クリエイティブな教会 グラハム・クック   8月29日


クリエイティブな教会

グラハム・クック

(スティーブ・ショルツによるインタビューからの抜粋)

神はエコノミストではない

私たちは教会活動において何かをするときには、能率よく最小限の努力、費用ですることを常に目標にしてしまうという間違いをおかします。一週間のうち数時間の集会で、すべての能力、技術を最大限に用い、最も有利に、最も効率よく、最も多くの人に影響を与えようとします。しかし、神様はエコノミスト(経済家)ではないのです。

私たちは集会にだけ焦点を当ててしまっています。イエスは「わたしはあなたに集会を与えるために来ました。集会をもっと豊かに与えるために」とは言われませんでした。「わたしはあなたに命を与えるためにきた」といわれましたね。教会で今行われていることは、人々を生かし、彼らが神にある人生を楽しめるようにはほとんどしていません。人々にどのようにすれは霊的に生きられるかを教えていません。集会の中でどのようにうまく機能するかを教えているだけです。しかも、その機会さえ与えていないことが多いのが現実です。

二種類の礼拝

聖書を見ると、集会には二つのタイプがあることがわかります。一つはテンプル(神殿)における礼拝であり、もう一方はシナゴーグ(会堂)です。今の教会で行われている礼拝を見てみると、一人ひとりが神と霊的に交わる機会がありません。というのは、私たちがしている礼拝はほとんどシナゴーグ的な礼拝だからです。テンプル・ワーシップというのは、人々が神殿に祈りや生贄や捧げものをするために行くことでした。すべて神を中心とした行為でした。他方シナゴーグでの集会は、人々が教えを受け、他の人々と交わり、ミニストリーを受けるためでした。

今教会で私たちがしていることは、この二つを混ぜ合わせて、両方を一時にしようとしているのです。即ち、まずワーシップをして、そのあとにメッセージを聞くというパターンです。その結果、ワーシップは次の教えのための序曲みたいになってしまっています。人々は集まってワーシップをしますが、本当は教えを聞き、その後でミニストリーをしてもらうためにきたのであり、その前にワーシップを仕方なくするという感じになります。本当は喜び楽しむべきワーシップが仕方なく耐えるものになってしまっている状態です。また、ワーシップをしたい人たちはもっとワーシップがしたいと思います。教えの部分を彼らは我慢して聞いているのです。

ですから、あるときはテンプル・ワーシップだけをする、テンプル・ミーティングをするべきだと私は思います。ただ主をワーシップするためにだけ人々が集まるのです。そしてすべてを聖霊にお委してワーシップの中で自由に働いていただくのです。私たちの教会では、このような礼拝を「Let’s Waste the Whole Evening on God」一晩中神のために時間を浪費する集会、と呼んでいます。人々はワーシップの場に喜びをもって神に会いに来ます。

私たちは人々に神をワーシップする方法を教えます。ワーシップのいろいろな形を教えます。ワーシップそのものについて、敬愛(adoration)について、普通の賛美、高揚した賛美、悲嘆の祈り(lamentation)について、そして主の臨在の中にどのように入っていくかを教えます。また、身体をどのように動かすか教えます。教会で踊る人はあまりいませんが、それは人々がどうやって踊ったらいいかわからないからです。ですから私たちはワーシップのために身体をどのように使うかを教えます。手を上げる、拝する、ひざまずく、くるくる回ることなど、すべての身体の動きは何かを表現している象徴的なものであり、主への全面降伏や敬愛などを表しています。

それとは別に、私はセミナーをするのも好きです。人々を集めて(ワーシップはしないかもしれません)教えのときを持ち、その後に話し合い、祈り、ミニストリーのときを持ちます。そのセミナーは一つのテーマがあり目的があります。

クリエイティブな礼拝

聖霊はご自分が自由に働かれるクリエイティブな(創造的)環境を作られます。現行のほとんどの集会はクリエイティブな環境ではありません。いつも同じ箱の中で何かを創ろうとしています。神はご自分を箱の中に入れられる方ではありません。一度だけそうされましたね。それは契約の箱ですが、神は箱に触れるものは死ぬといわれました。神が箱に入られたときでさえ、人間が触れることはできなかったのです。

聖霊が創造の天才だということを見出しつつある教会が世界中に沢山あります。ポイントは教会のメンバーにいろいろなことを任せることだと思います。多くの教会には非常に賜物のある人たちがいます。あるときは家族中心の礼拝にすることができます。子供むきの話をしたり、劇をしたりできます。また、ワーシップのコンサートと祈りの会にして近隣の人たちを招待してもいいのです。

教会では毎週、つまり年52回も「あなたの人生を変える」メッセージをしながら、誰の人生もあまり変わっていないのが現状です。夕拝もある教会ならば104回ですし、祈祷会のメッセージを入れれば156回です。いったい私たちは何をしているのでしょうか。人々はメッセージを聞いてノートをとることが上手になるだけです。彼らが聞くだけで実行しない者になってしまうのを私は保証できます。

霊で生きることについて

霊で生きることは、オーガニック(有機的)であると同時に、オーガナイゼイショナル(組織的)です。今の教会は後者に偏っています。イエスは聖霊に関して「風は思いのままに吹く」と言われています。それは聖霊を縛ってとどめることはできないということです。自然界のことを研究している人に聞いてみたらわかりますが、昆虫でもなんでもいいのですが、彼らはこう言うでしょう。すべての生命のある集団は、自然に自分たちで組織をつくるのです。すべての被造物、すべて生きているものは、自分たちで組織をつくる、セルフ・オーガナイズするのです。動物の王国であっても昆虫の世界であっても、命のあるものが集まると自分たちで組織をつくるのです。

人々が集まってきて、自分たちの情熱、やヴィジョンを中心にして自然に自分たちの中から組織をつくります。しかし、オーガニゼイショナルな世界では、人々は集会、ミーティングを中心にして組織化されてしまうのです。人々の思いを本当には解放しないやり方で、組織はつくられます。なんと多くの牧師が、自分が個人的に神から受けたヴィジョンを、教会のメンバーに理解させようと押し付けていることでしょうか。彼 らはメンバーの一人ひとりの夢やヴィジョンを生かし達成させることを怠っているのです。(終わり)


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25 08月

ジュディス・グルーバー師夫人―その後の報告とお願い  8月25日


ジュディス・グルーバー師夫人―その後の報告とお願い


ジュディス夫人はその後自宅静養中ですが、彼女が病院で与えられていたインシュリンと心臓のための医薬がどちらも身体に合わず副作用的症状が出ておりました。そこで夫人は、今後一切薬物を取らないことを決意して実行に入っております。

今回病院での緊急の処置として薬物を取り始めましたが、その前の三年間は一切の薬物医療を拒否して主への信仰のみでやって来ましたので、彼女はそれにもどりたいと願い、旅行中のグルーバー師と電話で打ち合わせした上で、夫婦が完全に一致して再び主への信仰のみで生きることを決意しました。医師から心臓のクワドルプル(四重)バイパス手術をすることを提案されておりますが、それもしないことに決意しております。

 二、三日前大阪から帰って来て今ポートランド地区でミニストリー中のグルーバー師と電話で確認しました。グルーバー師は二日後にポートランドを発って自宅に向かいますが、師からは皆様にくれぐれもお礼を申し上げると共に、一層の祈りのサポートをいただきたい旨のお願いがありました。どうぞ宜しくお願い致します。 坂 達也


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20 08月

「突然起る」シーズン、九月に備えよ ダッチ・シーツ 8月20日



「突然起る」シーズン、九月に備えよ

ダッチ・シーツ

9月に備えてください!9月は神の予定表の中で大変重要な時であり、現代の最大の霊的シフトが起こるでしょう。

・「突然起る」シーズンが始まる
・アメリカ(教会も含む)を支配していた混乱と惑わしが取り除かれはじめる
・11月の大統領選挙が神の御こころの方にシフトする
・来るべきアメリカの「大覚醒」は新たなレベルとなる
・「神の臨在を求めるムーブメント」が始まる

「突然」のシーズン

私の人生の中でも、「突然」神が語られるのを聞いたり、経験したりしてきました。しかし「突然のシーズン」と呼ぶべきものは今まで経験したことはありません。しかし私は今その中にいます!今まで神によって整えられることを喜んで受けいれてきた人たちに、新しいシーズンが重要な意味をもって訪れようとしています。

2週間前にチャック・ピアス師が私に対してこう預言をしました。「9月にあなたはThe Mall(ワシントンD.C.)の集会の前に立ち、こう宣言せよ。『「突然」がやってくる!』と。備えよ!わたしは物事を揺り動かし、整えるべきものを整える。」しかし私は彼の預言を受ける以前からすでにそのことを人々に話していました。

このシーズンは多くの変化をもたらす。備えなさい!
混乱と惑わしが破られる


過去2年間にアメリカ教会の内外で私が見てきた混乱と惑わしは、これまでになく大きなものでした。特にキリストのからだの内部においての混乱と惑わしは、私にとって本当にショックでした。混乱と惑わしが起こったことをリストアップしてみると、かなりの数に上ります。大統領候補者に賛同表示したり預言したりしたこと、教義的な間違い、人間関係の破綻、リバイバルの真偽に関する意見の相違等々です。

このリストに加えて、多くの人の中には倦怠感、無頓着(ある有名なリーダーは誰が大統領になってもかまわないとまで言いました。最高裁判事の任命がそれで大きく左右されるのが大事ではないとでもいうのでしょうか!)、幻滅感、混迷などがあります。これらを全部足すとものすごく大きな混乱と惑わしなるでしょう。これらはすべてイラク(即ち古代バビロン)との戦争に関連していると私は思います。バビロンは「混乱」を意味します。イラクの軍隊を負かすのは困難ではありませんでした。しかし、バビロンの霊という主権を負かすことはそれとは全く違うレベルのことでした。

しかしほんの2週間前に私は、聖霊がはっきり「わたしは混乱のもつれた紐を解きほぐそうとしている。」と語られるのを聞きました。それを聞いたとき、このことは9月に起こり始めると、私には強く感じられました。

第二歴代誌20章にあるように、神はイスラエルの賛美を用いて彼らの敵を「奇襲」しました。その結果、敵は互いに滅ぼし合ったのです!この秋、教会から混乱が除き去られ、神に敵対するものへの奇襲が起こり始めるのを期待してください。

11月の選挙

名の知れたキリスト教のリーダー達が、候補者の誰かを推薦したり、預言をして「その候補者が大統領になるのは神の御こころだ」と不用意な発言するのは、全くとんでもない話であり、私はそれに大変問題を感じると言う以上に危機を感じています。しっかり聞いてください。大統領次第で最高裁判事の任命の流れが変り、その結果で胎児殺害を許す法案が通ったり、神の御こころに反する法律を逆流させることになりかねないのです。これこそアメリカがクリスチャン国として神の御心を尊重する国であり続けるかどうかの最も重要な課題であるのですから。(選ばれる大統領次第で大きく影響する)

堕胎を認める裁判官を指名するような堕胎容認の大統領候補者を選ぶことは悲劇であり、アメリカを50年後退させるものです。それと違う預言を誰がしても、又そんなことはないと誰が言っても、決して騙されてはいけません。堕胎を容認するリベラルな大統領を選ぶのは、絶対に神の御こころではありません!

私は現在の大統領立候補者の一人が、4年前にした演説を聞く機会があったのですが、私が今まで知る中で最も群集を欺いて感動させる非常に強い力を彼が持っていることがわかりました。彼の「賜物」は大変恐ろしいものでした。そのときに、彼は2008年の大統領選挙に立候補するつもりだということが私にはわかりました。幸いなことに、彼の惑わしは9月に破綻しはじめ、選挙の流れがそのときに決まっていくでしょう――それは教会が祈れば、です。どうか熱心に祈り、彼のカリズマやチェンジという空ろな約束に騙されないでください。

神の臨在を求めるムーブメントとカンファレンス

これから起ころうとしている霊的覚醒は、祈りのムーブメント、使徒のムーブメント、預言のムーブメント、教えのムーブメント、奇跡のムーブメント、賜物のムーブメント、神の栄光のムーブメント、等とは違います。これら全部の要素を含みはしますが、その最も主要な強調点と特徴は、主の臨在です。神ご自身が(主のあらわれとか賜物ではなく)中心です。

コロラドスプリングにある私たちのミニストリーは(勿論、他の多くのミニストリーと共にだと信じますが)このムーブメントを産み出す特権を神から与えられました。6月15日に聖霊が私たちを訪れ、「聖霊の臨在を90日間、24/7で迎え入れ(礼拝して)ほしい」と言われました。それはオベデ・エドムが契約の箱(主の臨在の箱とも呼ばれた)を受け入れたのと同様でした。(第二サムエル6:10-11参照)

そして私たちは、主をお迎えすること以外のことをすべて中止しました。クラスも(日曜日を含めて)すべての説教、一切のプログラムを止めて、ワーシップだけをしたのです。それは私たちを打ちのめしました!集会での主の臨在は時としてあまりにも圧倒的で、どうすればよいのか誰もわからなくなるほどでした。今までのような「ノーマルな」キリスト教(のすること)を私たちはもう出来なくなってしまいました。

主の臨在をお迎えするというこの任務は、アメリカ全体のためであることが私たちに明瞭になってきました。私たちは今まで、いわば社会から隠れた秘密の場所で神と時を過ごし、聖霊が私たちのワーシップの上を覆い「臨在のムーブメント」を産み出しました。しかし、主の臨在によって特徴付けられるこのムーブメントが、9月からは国中に広がりはじめることを、主が預言的に語られました。

私たちはそれを促進させるために、90日間の最後の3日にあたる9月11-13日にはもっと大きな場所に移って、多くの人
14 08月

終末の収穫のための花嫁の油注ぎ パート2 ポール・キース・デイビス 8月14日


終末の収穫のための花嫁の油注ぎ パート2

ポール・キース・デイビス

聖書には、主イエスが洗礼を受けたときに天が開け、聖霊が鳩のように下ったと書かれています。これは主が力をうけた瞬間であり、神の命令と使命を果たすために神の七つの霊を実際に受けた出来事でした。主の内と主の上に聖霊が来られ、知恵と悟り、思慮と力、主を知る知識と主を恐れる御霊を現したのは、まさにこのときでした。この事実は使徒行伝10:38に次のように書かれています。「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」

地上でのミニストリーのために、イエスには特有の油注ぎと力が与えられたのです。そして今、主に与えられたのと同じ御霊の分与(インパーテーション)が、同じ使命を持つ花嫁の群れにも分与されようとしています。私たちは「主の骨の骨、肉の肉」になる主の軍隊なのですから、同じ御霊により病人を癒し、悪霊を追い出し、死人さえも甦えらせねばならないのです。

型と影

幕屋の建設の計画がモーセに伝えられたとき、彼はすべてのものを「天にあるものの写し、影」として作るようにと言われました。聖所の主要な器具の一つは七つのともしび皿を持つ燭台でした。それは神の幕屋となる人々に内住される聖霊とその働きとを予表するものでした。パウロは第一コリント3:16で、次のように強調しています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」
更に、預言者ザカリヤは地上における神の御霊の働きを、驚くべき言葉を駆使して表しています。

ゼカリヤ4:2-6「彼は私に言った。『あなたは何を見ているのか。』そこで私は答えた。『私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。』さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。『主よ。これらは何ですか。』 私と話していた御使いが答えて言った。『あなたは、これらが何か知らないのか。』私は言った。『主よ。知りません。』 すると彼は、私に答えてこう言った。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。』」
一つの燭台の上で燃えている「七つのともしび皿」とは、神の七つの御霊です。また、全世界に遣わされた神の七つの御霊であり、全地を見渡す主の七つの目でもあります。これは旧約にある神の七つの目と、黙示録にある七つの角の描写です。この神の七つの御霊については、ヨハネが受けた啓示によって私たちは更に知ることができます。

黙示録5:6「さらに私は、御座・・そこには、四つの生き物がいる。・・と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」

ヨハネは、主が七つの目と七つの角を持っている小羊として表わされているのを見ましたが、これも又、父なる神が御子を通してどのように働かれたかという寓意的な描写です。角というのは力と権威の象徴です。七は完全を表す数です。このことから、主は地上でのミニストリーのために、聖霊を通して完全で絶対的な啓示と力を与えられていたことがわかります。

神を表す

神の七つの霊とは、聖霊が天の目的を地上で成就するための七つの完全な働きを表しています。そして七つの目とは、すべてを刺し通す啓示的洞察力(父の心だけではなくすべての人の心がわかる力)を表しています。生ける御ことばなる主は、ヘブル4:12にあるように、すべての人の心の考えやはかりごとを判別することができるのです。

キリストの花嫁が、主と同じわざや、又それ以上のわざをするためには、私たちの内や私たちを通して主と同じ霊が働くことが不可欠であり、それが神の約束です! 主が私たちの内に、又私たちを通して生きてくださり、人間の形をとって地上におられたときと同じわざを花嫁を通してしてくださるのです。それほどに私たちと神とは完全に一つになることが可能なのです!

イザヤ11:12は明らかにメシアの描写であり、イエスの生涯とミニストリーを特徴づける霊的な力を預言的に描いています。イエスは、ご自分は父から遣わされたと言われましたが、私たちは主から遣わされるのです。もし主イエスが神の七つの霊によって働いておられたのならば、キリストの花嫁も、完全に成長をとげるならば、これと同じ神の力によって働くべきなのです。

七つの霊とは:
主の霊
知恵と悟りの霊
思慮(助言)と力の霊
主を知る知識と主を恐れる霊

御霊は二つずつ組み合わされていますが、それはそれらの機能が相互に関連しているからです。今回は思慮と力の霊について考えたいと思います。

思慮と能力の定義

思慮(counsel)とは、神の計画と目的達成のためのリーダーシップをとり、適切な決断を下すための助言や計画や訓戒を与えることです。思慮という言葉は社会的、人間的思慮をさすこともありますが、主に聖霊から受ける思慮のことをさします。

イザヤ9:6によれば、主ご自身が「驚くべき助言者(Wonderful Counselor)」と呼ばれています。助言者(カウンセラー)とは、アドバイスを与える者、又は一つの目標を達成するために計画を立てる者です。思慮の霊は神の御座からアドバイスを受け、ある命令を達成するための正確な計画や策を与えます。主は単に思慮があるだけでなく、思慮の霊そのものであられるのです。

一方、力(might)は、能力、強さ、勇気、勝利や剛勇を生み出す武力と定義されます。力の霊は聖霊の驚くべきわざと奇跡的な威力を現し実証するものです。

この二つの霊は聖霊を通して一致して働き、アドバイスや助言を与えて、神の力あるわざや奇跡の威力を示す計画を作りあげます。

霊の模範

私は20世紀のキリスト教のリーダー達の研究をしましたが、そのうちの幾人かが他の人よりも霊的にはるかに優れた力と権威をもって活動していたことがわかりました。マリア・ウッドワース・エッター、ジョン・G・レイク、ウイリアム・ブラ ンハム等です。彼らはそれぞれの人生のある時点で、自分の人生を完全に主に明け渡しました。その時以来それまでとは違う霊的領域に彼らは突入し、人生で最もすばらしいミニストリーをするようになったのです。彼らはヘブル6:5に書かれていることが現実でることを発見し、「神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わった」のだと私は信じます。

彼らのミニストリーを霊の模範として学ぶことによって、私たちは霊の働きの基本を知り、花嫁の群れとして同じよう働けるようになるのです。ウイリアム・ブランハムのミニストリーに起こった一つの出来事は、御霊の驚くべき顕れであり、これから起こることの前ぶれとして私の心を打ったことを覚えています。

それは1930年、彼がバプテスト教会の牧師になる按手を受けて間もなくの頃でした。彼が祈っているとき、突然自分がある病院の一室におり、自動車に轢かれてタイヤの下敷きになった黒人を見下ろしているのが見えた、という啓示的な幻から始まりました。その事故でその人は重傷を負い、何本も骨折し内臓も損傷を受けているようでした。折れた骨の何本かは、心臓や肺の近くで、それをさわることは死を意味するので、手の施しようがないようでした。

診断は非常に悲観的なものでした。牧師は幻の中で、ベッドの片側に立ち、その男性を見下ろしていましたが、その人の症状は全部わかっていました。次に、二人の白人が病室に入ってきて、彼の反対側のベッドのそばに立つのを見ました。その瞬間にブランハム師は幻の中の自分がその男性は癒された、と宣言し、男性がすぐにベッドから飛び出して服を着て病院から出て行くのを見ました。幻はそこで終わりました。
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数日後に、ブランハム師はその男性が実際に幻とおなじ事故にあって同じ症状で入院していることを知りました。彼は友人を一人連れて病院に行き、もうすぐ黒人の男性がこういうスーツを着て、帽子を手に持って病院から出てくるから、病院の前で待っていてくれるようにと頼みました。

ブランハム師は病院に入り、幻で見たとおりの部屋を見つけました。そこに幻で見たとおりの男性を見つけたので、幻で見たのと同じ位置のベッドの傍らに立ちました。しかし、幻で見たとおりに二人の人がベッドの向こう側に立つまでは祈ることができませんでした。彼が立っていると男性の奥さんが症状は非常に重いということと、彼は動かすと内臓の損傷によってすぐにでも死んでしまうと医者たちが告げたことを話してくれました。

ついに二人の人が部屋に入ってきてベッドの反対側に立ちました。その二人は男性を轢いてしまった車に乗っていた人たちだということがわかりました。彼らが入ってきた時、神の人は癒しを祈るだけでなく、癒しを宣言しました。すでに幻で見せられていたのです。祈るとすぐに男性は掛け布団をはずして「私は直った。」といいながらベッドからとび出しました。

言うまでもなく医者たちや看護婦は男性が直ちに死ぬのを恐れて、彼を押さえつけようと必死になりました。でもすばらしいことに、彼は完全に癒されたのです。彼はクローゼットに行き、幻の中と同じ服を着て、ブランハム師が説明したのと全く同じように友人の前を通って病院から出て行きました。この出来事は思慮と力の霊の働きを明瞭に表すものです。

私はこの証が特別に好きなのですが、それはつい一世代前に起こったことだからです。イエスのミニストリーや、旧約時代の預言者や初代使徒たちによる奇跡の話を読むのもすばらしいことです。しかし、私たちと同じような普通の人たちを通して現代教会の時代に行われた奇跡は、私たちにも手が届くというような気持ちがして特別に好きなのです。

主の思慮に従うことが力を解放する

神からの言葉は、病室に行ってある状況が整うまで待つことでした。その言葉に忠実に従うことが、奇跡を生み出す力の霊を開放しました。これは主イエスやこの霊によって働いた旧約の預言者たちにおいて見られるのと同じく聖書的モデルです。

ナアマンは預言者エリシャによってヨルダン川に七度浸るように指示されました。そして思慮の言葉への従順が、彼のらい病を癒す力の霊を開放しました。イエスは男の目に泥を塗りある池に行って泥を洗うようにと告げました。この言葉に忠実に従うことによって男が見えるようになるという力の霊が開放されました。このほかにも思慮と力の霊の働きを示した聖書の話は沢山あります。

勿論、すべての状況がブランハム師の幻のようにはっきりとは示されないでしょう。しかし、それが祈りを通してであれ、書かれたみ言葉を通してであれ、預言の言葉を通してであれ、私たちが神の助言のみ言葉にしっかりと従うならば力の霊が解き放たれ、すばらしいことが起こるのです。私たちが神の導きにいつも従うならば、この時代の霊やすべての霊的攻撃に打ち勝つ勝利の人生を生きる力が与えられ、主が打ち勝たれて父と共に御座に座られたように、私たちも主の御座にともに座ることができるのです。(終わり)

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14 08月

プレイヤー・ショール


プレイヤー・ショール


私たちがホノルルのメシアニック・ジューの集会に集うようになってから三ヶ月ほどが経ちました。私がその昔結婚してアメリカにきたときに、幼い甥が「ゆみこおばちゃんの目はもう青くなった?」と姉に聞いたそうです。それと同じで私たちが何か「メシアニック・ジュー」という違う人種、違う種類のクリスチャンになったように思う人もあるかもしれませんが、そんなことはありません。

「メシアニック・ジュー」とはイエスをメシア(キリスト)と信じるユダヤ人のことです。イエス様の12弟子もみんなメシアニック・ジューでした。私たちは異邦人ですから、本来の意味でのメシアニック・ジューではありませんが、霊的にはそうである、という人もいます。

この集会はいわゆる「教会」ではなくて、ミニストリーという形を取っていますので、メシアニック・ジューの見地からの学びをしたい人が自由に出入りしています。集会の時間も金曜の夜ですので、日曜日には普通の教会に集う人たちも多くいます。リーダーは牧師ではなくラビといいます。ラビであるダニエル・バーガス師はもともとアセンブリー・オブ・ゴッドの牧師だったのですが、ご自分もユダヤ系アメリカ人であり、ユダヤ人に対するミニストリーを始めるためにラビの資格をイスラエルで取得されたのです。

まず集会で気がつくことは、多くの人がタリートという祈りのためのショールをかけていることです。早速私はニューヨークの息子に頼んで「母の日のプレゼント」として買ってもらうことにしました。ニューヨークはユダヤ人が多く、きっとそんなお店もあるだろうと思ってのことでしたが、息子はインターネットでイスラエルに注文したそうです。息子には「ハワイは暑いから、ウールとかではなくて涼しげな薄い生地にしてちょうだい。」という注文を私は出したので、二週間後にイスラエルから送られてきたものは、かげろうの羽のように透き通るものでした。

プレイヤー・ショール(Talith)の意味を調べてみました。Talithとは小さなテントという意味で、モーセが神と会った会見の幕屋の小型だそうです。ショールを頭からかぶることで一人用のテントを作り(密室ですね)そこで祈りを唱えて親しく個人的に神と出会うことができるのです。これで思い出したのが、ジョン・ウエスレーの母スザンナのことです。彼女は沢山の子供(19人いたそうです。そのうち8人は夭折。)を育てる多忙な生活の中で、祈るときはエプロンを頭にかぶって密室のかわりにしたということですね。子供たちはお母さんがエプロンをかぶっていたら話かけない約束だったとか。

私の透き通るショールでは、あまりテントの役に立たないようなので、がんばって裏をつけました。めでたし、めでたし。

その他にも、ショールの房のついた四隅は「翼」と呼ばれ、マラキ4:2の「その翼には癒しがある。」はそのことであり、イエスの衣のすそにさわった長血の女はそこに癒しがあることを信じていたこと、マルコ6:56でも病人がイエスの着物の端にさわって癒された、など、興味深いことがわかりました。

申命記22:12に「身にまとう着物の四隅に、ふさを作らねばならない。」とあるように、昔はショールではなく衣に直に房をつけたようです。

また、男性が自分の「翼」で女性をおおうことは結婚を意味し、ルツ記3:9に「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。」とはそういう意味であるそうです。今もオーソドックス・ジューの結婚式では花婿が花嫁をプレイヤー・ショールで覆い、これから花嫁を守ることを表すそうです。

ですからプレイヤー・ショールが必要だったのは、私ではなく主人だったのですね。早速主人のために大きなプレイヤー・ショールを注文しました。私をおおって守ってもらうために。(おわり)













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