31 05月
神からのチャレンジ ― あなたは何を見ているか? キャシー・ウォルター 5月31日
神からのチャレンジ ― あなたは何を見ているか?
キャシー・ウォルター
あなたは何を見ているか?
今日、あなたに一つの質問をしたいと思います。そしてこれは神があなたに質問しておられることだと信じます。実際、神はエレミヤにこれと同じ質問をしたのです。さあ、用意はできましたか?
まず、少し背景を説明しましょう。エレミヤが活動を始めたときには、彼はすでに確立されたミニストリーを持っていたわけではありません。つまり、大きな聖会のスピーカーとしてイスラエル中を駆け回ったり、セミナーを開いていたわけではないのです。彼は未だ子どもというか、せいぜいティーンエイジャーにすぎませんでした。
神がエレミヤを説教者として最初に召されたとき、「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを国々の預言者と決めていた。」と言われました。それを聞いてエレミヤはびびってしまいました。それは前にも聞いたことがあることだったのです。なにせ彼の父親は説教者でした。でも私たちは往々にして、「それはずっと先のことで、私がもっと成長したときのことだろう。」という具合に思ってしまうのです。
エレミヤは主に答えて、「ご冗談ですよね。私はまだ子どもです。まだ何もできませんから無理ですよ。」と言いました。これは私の訳ですが、聖書にはそう書いてあります。「そこで、私は言った。『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。』」とあります。(エレミヤ1:6)
神は、「自分は役に立たない子どもにすぎない」というエレミヤの思いを無視され、「そう言ってはならない。わたしは、わたしの言葉を既にあなたの口に与えてあるのだから。」と言われました。そして、神は非常に重要な役目をエレミヤに与えました。
「エレミヤよ、さあ、聖書学校に入って一生懸命勉強せよ。そうすれば、やがてあなたは成長してわたしの働きができるようになるであろう。」と神は言われましたか?違います!神はこのティーンエイジャーに、「わたしはあなたを国々に遣わす。国々や多くの王国の上に任命した。あなたは引き抜き、あるいは、引き倒し、あらゆる力ある業をすることができる。」と言われたのです。神はエレミヤに人々の顔を恐れるな、と告げられ、「わたしはあなたとともにいる。」と約束されました。
エレミヤがその召しを承諾するかどうか応えるのも待たないで、神は突然「エレミヤよ、あなたは何を見ているか?」と聞かれました。エレミヤの父は祭司でしたから、彼は神に関することには慣れていましたが、その時は面食らいました。神は「エレミヤよ、あなたは何を見ているか?」と言われたのです。エレミヤはすばやく自分の信仰を働かせねばなりませんでした。つまり、信仰で見なければならなかったのです。エレミヤ青年はその時、幻を見て、「アーモンドの枝を見ています。」と答えたのです。
アロンの杖はアーモンドの枝でした。それはヘブル語で「目覚めさせる者」という意味を持っています。エレミヤは信仰で自分の将来を見ていたのです。(彼はまだそれを悟ってはいませんでしたが。) 彼は「目覚めさせる者」になるように召されたのです。神は、エレミヤが預言をしてイスラエルの人々に彼らの召しと目的のチャレンジを与えるようにと言われたのです。即ち、神はエレミヤに、イスラエルの人々の目を覚まさせなさい、と告げられたのです。私ならば、誰か他の人を遣わしてください、と神にお願いして、あとは知らんぷりをしていたことでしょう。エレミヤも実はそうしたのです、でも、無駄でした。
ご存知でしょうか?人々は眠りから起されるのをあまり好まないのです。起されてすぐに機嫌のいい人はあまりいません。起されて目を覚ましたとき、あなたは多分うれしくなくて不機嫌でしょう。「目覚めさせる者」というのはエレミヤにぴったりの名前でした。「人気のある者」という形容詞は彼には当てはまりませんでした。
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さて、これが主からのあなたへの質問です。「あなたは何を見ていますか?」 私は肉の目で見えるものについて聞いているのではありません。
ゆっくり時間をとってください。美味しいレストランにでも行き、リラックスして2,3日ゆっくり休みを取ってください。それからイエス様の足元に座ってください。「争う代わりに寄り添いなさい。」とか「もがかないで安らぎなさい。」という言葉が私のお気に入りです。
あなたは安息に入り、聖霊があなたのために何を見ておられるかを教えていただくのです。あなたの教会のためではありません。あなたの夫(または妻)のためでさえなく、あなた個人のためのヴィジョンです。あなたのヴィジョンはまずあなたから出発せねばなりませんよね。自分のために本当にヴィジョンがないならば、他の人のヴィジョンを信じることもできないでしょう。
ヴィジョンに関すること
昔のテレビジョンを覚えておられますか? テレビが古くなるとブラウン管が悪くなってきます。ブラウン管が駄目になってくると、どうなるか覚えていますか? 映像がだんだん小さくなっていきます。テレビは当時高価なものでしたから、古いものをなるべく長く使おうとして、最後までそのまま見ていました。縮んで見える映像を一生懸命見たものです。
さあ、あなたは何を見ていますか? 実は、ほとんどの人が縮んで小さくなった映像を見ているのです。夫のデイビットは「クリスチャンの多くは射るべき的を定めないままで、矢を放っている。」と言っています。人は自分が見るものにしか、的を定めることはできません。もし小さな召し、小さな目標、小さなヴィジョンしか見ないのならば、それに的を合わせるしかないのです。
私からのあなたへのチャレンジはこれです。それは即ち、神があなたのために見ておられるものを見ることです。神は大きなヴィジョンを持っておられるのです!私たちは大計画の中の自分の町とか、自分の家族、自分の小さな場所だけを見ています。しかし、神は世界の国々、何も隔てのない一つの大きなエリヤを見るのです。神のヴィジョンには限界がありませんし、あなたのためにも何の限界も設けてはおられません。あなたは自分の信じるものを手に入れることが出来、あなたが信仰で見ることができるものならみんな信じることができるのです。あなたは神の信仰をあなたのうちに持っています。それを信じなさい!なぜならば、「おのおのに分け与えてくださった信仰の量り」があるからです。(ローマ12:3)
あなたの冒険は何ですか ?
聖書には、神のみこころは喜ばしいとあります。「私はみこころを行うことを喜びとします。」(詩篇40:8)
神はご自分の願いをあなたの心に入れられます。言い換えれば、あなたが自分の心に従って行うだけでそれが喜びとなり、すばらしいものであり、冒険に富み、神で満ちるようにと、主はご自分の願いをあなたの心に入れてくださるのです。あなたは、ただ聖霊があなたのために見ておられることを教えてくださいとお願いすればいいのです。あなたのために、すばらしくて、驚くべき、大きな人生の目標が定められているのです。
もしあなたが今夜、主に仕えるために何かをしようとしていて、それが喜びでないならば、そんなものは止めてしまいなさい、それはただの業にすぎません。そして、残念ながら、神はあなたの業には何の関心も持たれないのです。主はご自分の業に関心を持っておられるのです。主はあなたの業に油を注がれません。ご自分の業に油注がれるのです。神の栄光はあなたの行いには決して訪れません。栄光は主がなされることの上にくるのです。あなたが努力するのではなく、油注ぎに自分を委ねるということです。
一生懸命努力をして自分で頑張るよりも、委ねたほうが楽じゃないですか? 努力するということは大変困難なことがあります。 神は御国を建てるために、あなたの町を駆けずり回って働き手を募っているわけではないのです。神はご自分の息子、娘が立ち上がって、神の召しにふさわしい者となることを願っておられるだけなのです。あなたはもはや「恵みによって救われた罪人」ではありません。「恵みによって救われた、かつては罪人だった者」であり、今や、全能なる神の息子であり娘なのです。それはあなたが自分で勝ち取るものではありません。その資格は私たちにはありません。イエス様がこの資格をあなたに値なしに相続させてくださったのです。イエス様が死んでよみがえられたときに、もう100%その代価は支払われました。
まず、主を喜ぼう
大事なことを忘れるところでした。あなたの一番の召しは神を楽しむことです。神はまずご自分を楽しむようにと、あなたを召しておられます。もし主を楽しむことがないならば、主のために働こうとしないでください。イエスがあなたに恋しておられることを知っていますか? 主はあなたに首ったけなのです。あなたにがまんしているのではありません。主はあなたを主の聖いご性格で造られました。永遠があなたの中にあるのです。主はご自分の力と義とをあなたに与えられ、麗しい救いの衣を着せてくださったのです。
これが新しい生ける道です。この道を歩いてください。そして主があなたのために見ておられることを見始めてください。(終わり)
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