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Walk With God Ministries


31 05月

神からのチャレンジ ― あなたは何を見ているか? キャシー・ウォルター 5月31日


神からのチャレンジ ― あなたは何を見ているか?

キャシー・ウォルター


あなたは何を見ているか?

今日、あなたに一つの質問をしたいと思います。そしてこれは神があなたに質問しておられることだと信じます。実際、神はエレミヤにこれと同じ質問をしたのです。さあ、用意はできましたか?

まず、少し背景を説明しましょう。エレミヤが活動を始めたときには、彼はすでに確立されたミニストリーを持っていたわけではありません。つまり、大きな聖会のスピーカーとしてイスラエル中を駆け回ったり、セミナーを開いていたわけではないのです。彼は未だ子どもというか、せいぜいティーンエイジャーにすぎませんでした。

神がエレミヤを説教者として最初に召されたとき、「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを国々の預言者と決めていた。」と言われました。それを聞いてエレミヤはびびってしまいました。それは前にも聞いたことがあることだったのです。なにせ彼の父親は説教者でした。でも私たちは往々にして、「それはずっと先のことで、私がもっと成長したときのことだろう。」という具合に思ってしまうのです。

エレミヤは主に答えて、「ご冗談ですよね。私はまだ子どもです。まだ何もできませんから無理ですよ。」と言いました。これは私の訳ですが、聖書にはそう書いてあります。「そこで、私は言った。『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。』」とあります。(エレミヤ1:6) 

神は、「自分は役に立たない子どもにすぎない」というエレミヤの思いを無視され、「そう言ってはならない。わたしは、わたしの言葉を既にあなたの口に与えてあるのだから。」と言われました。そして、神は非常に重要な役目をエレミヤに与えました。
「エレミヤよ、さあ、聖書学校に入って一生懸命勉強せよ。そうすれば、やがてあなたは成長してわたしの働きができるようになるであろう。」と神は言われましたか?違います!神はこのティーンエイジャーに、「わたしはあなたを国々に遣わす。国々や多くの王国の上に任命した。あなたは引き抜き、あるいは、引き倒し、あらゆる力ある業をすることができる。」と言われたのです。神はエレミヤに人々の顔を恐れるな、と告げられ、「わたしはあなたとともにいる。」と約束されました。

エレミヤがその召しを承諾するかどうか応えるのも待たないで、神は突然「エレミヤよ、あなたは何を見ているか?」と聞かれました。エレミヤの父は祭司でしたから、彼は神に関することには慣れていましたが、その時は面食らいました。神は「エレミヤよ、あなたは何を見ているか?」と言われたのです。エレミヤはすばやく自分の信仰を働かせねばなりませんでした。つまり、信仰で見なければならなかったのです。エレミヤ青年はその時、幻を見て、「アーモンドの枝を見ています。」と答えたのです。

アロンの杖はアーモンドの枝でした。それはヘブル語で「目覚めさせる者」という意味を持っています。エレミヤは信仰で自分の将来を見ていたのです。(彼はまだそれを悟ってはいませんでしたが。) 彼は「目覚めさせる者」になるように召されたのです。神は、エレミヤが預言をしてイスラエルの人々に彼らの召しと目的のチャレンジを与えるようにと言われたのです。即ち、神はエレミヤに、イスラエルの人々の目を覚まさせなさい、と告げられたのです。私ならば、誰か他の人を遣わしてください、と神にお願いして、あとは知らんぷりをしていたことでしょう。エレミヤも実はそうしたのです、でも、無駄でした。

ご存知でしょうか?人々は眠りから起されるのをあまり好まないのです。起されてすぐに機嫌のいい人はあまりいません。起されて目を覚ましたとき、あなたは多分うれしくなくて不機嫌でしょう。「目覚めさせる者」というのはエレミヤにぴったりの名前でした。「人気のある者」という形容詞は彼には当てはまりませんでした。
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さて、これが主からのあなたへの質問です。「あなたは何を見ていますか?」 私は肉の目で見えるものについて聞いているのではありません。

ゆっくり時間をとってください。美味しいレストランにでも行き、リラックスして2,3日ゆっくり休みを取ってください。それからイエス様の足元に座ってください。「争う代わりに寄り添いなさい。」とか「もがかないで安らぎなさい。」という言葉が私のお気に入りです。
あなたは安息に入り、聖霊があなたのために何を見ておられるかを教えていただくのです。あなたの教会のためではありません。あなたの夫(または妻)のためでさえなく、あなた個人のためのヴィジョンです。あなたのヴィジョンはまずあなたから出発せねばなりませんよね。自分のために本当にヴィジョンがないならば、他の人のヴィジョンを信じることもできないでしょう。
 
ヴィジョンに関すること

昔のテレビジョンを覚えておられますか? テレビが古くなるとブラウン管が悪くなってきます。ブラウン管が駄目になってくると、どうなるか覚えていますか? 映像がだんだん小さくなっていきます。テレビは当時高価なものでしたから、古いものをなるべく長く使おうとして、最後までそのまま見ていました。縮んで見える映像を一生懸命見たものです。

さあ、あなたは何を見ていますか? 実は、ほとんどの人が縮んで小さくなった映像を見ているのです。夫のデイビットは「クリスチャンの多くは射るべき的を定めないままで、矢を放っている。」と言っています。人は自分が見るものにしか、的を定めることはできません。もし小さな召し、小さな目標、小さなヴィジョンしか見ないのならば、それに的を合わせるしかないのです。

私からのあなたへのチャレンジはこれです。それは即ち、神があなたのために見ておられるものを見ることです。神は大きなヴィジョンを持っておられるのです!私たちは大計画の中の自分の町とか、自分の家族、自分の小さな場所だけを見ています。しかし、神は世界の国々、何も隔てのない一つの大きなエリヤを見るのです。神のヴィジョンには限界がありませんし、あなたのためにも何の限界も設けてはおられません。あなたは自分の信じるものを手に入れることが出来、あなたが信仰で見ることができるものならみんな信じることができるのです。あなたは神の信仰をあなたのうちに持っています。それを信じなさい!なぜならば、「おのおのに分け与えてくださった信仰の量り」があるからです。(ローマ12:3)

あなたの冒険は何ですか ?

聖書には、神のみこころは喜ばしいとあります。「私はみこころを行うことを喜びとします。」(詩篇40:8)
神はご自分の願いをあなたの心に入れられます。言い換えれば、あなたが自分の心に従って行うだけでそれが喜びとなり、すばらしいものであり、冒険に富み、神で満ちるようにと、主はご自分の願いをあなたの心に入れてくださるのです。あなたは、ただ聖霊があなたのために見ておられることを教えてくださいとお願いすればいいのです。あなたのために、すばらしくて、驚くべき、大きな人生の目標が定められているのです。

もしあなたが今夜、主に仕えるために何かをしようとしていて、それが喜びでないならば、そんなものは止めてしまいなさい、それはただの業にすぎません。そして、残念ながら、神はあなたの業には何の関心も持たれないのです。主はご自分の業に関心を持っておられるのです。主はあなたの業に油を注がれません。ご自分の業に油注がれるのです。神の栄光はあなたの行いには決して訪れません。栄光は主がなされることの上にくるのです。あなたが努力するのではなく、油注ぎに自分を委ねるということです。

一生懸命努力をして自分で頑張るよりも、委ねたほうが楽じゃないですか? 努力するということは大変困難なことがあります。 神は御国を建てるために、あなたの町を駆けずり回って働き手を募っているわけではないのです。神はご自分の息子、娘が立ち上がって、神の召しにふさわしい者となることを願っておられるだけなのです。あなたはもはや「恵みによって救われた罪人」ではありません。「恵みによって救われた、かつては罪人だった者」であり、今や、全能なる神の息子であり娘なのです。それはあなたが自分で勝ち取るものではありません。その資格は私たちにはありません。イエス様がこの資格をあなたに値なしに相続させてくださったのです。イエス様が死んでよみがえられたときに、もう100%その代価は支払われました。

まず、主を喜ぼう

大事なことを忘れるところでした。あなたの一番の召しは神を楽しむことです。神はまずご自分を楽しむようにと、あなたを召しておられます。もし主を楽しむことがないならば、主のために働こうとしないでください。イエスがあなたに恋しておられることを知っていますか? 主はあなたに首ったけなのです。あなたにがまんしているのではありません。主はあなたを主の聖いご性格で造られました。永遠があなたの中にあるのです。主はご自分の力と義とをあなたに与えられ、麗しい救いの衣を着せてくださったのです。

これが新しい生ける道です。この道を歩いてください。そして主があなたのために見ておられることを見始めてください。(終わり)


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23 05月

主との個人的親密さを生き生きと保つ ウエイド・テイラー 5月22日 2008年




主との個人的親密さを生き生きと保つ

ウエイド・テイラー

主は天に昇られ、イエスの血潮は「とこしえの命の力」となりました。「その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。」ヘブル7:16

イエスは言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」ヨハネ6:53

私たちが主との親密な真の交わりの中で主のいのちに与り、そして聖餐に与るならば、私たちは「朽ちることのない、いのちの力」を受けるのです。ぶどうの木(イエス)のいのちを枝(私たち)が受けるとき、主が備えてくださった豊かないのちを私たちは生きることができるのです。

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ10:10

現在のキリストの教会(あなたや私です)を用いて、主は「終わりの時」のための証を世界に与えようとしておられます。今のところこの世は、教会を笑いものにしたり厄介ものだと考えています。しかし、この世は今まさに激しく揺さぶられようとしているのです。終わりの時のために天に用意されていた使徒的権能がまさに解き放たれ与えられようとしています。天には神の御座があり、天のちからは私たちのためにますます備えられています。しかし、その力を受けるためには、ぶどうの枝が木からそのいのちとちからを受けるように、私たちも木につながらねばなりません。

ほとんどの人が自分の人生で今ほど忙しかったことはない、と言うのではないでしょうか。いろいろな用事で私たちは地上のことに心を奪われ、主のいのちとちからを得るために「上に昇っていく」十分な時間がとれないでいます。これは問題です。そういう人は、最後には取り残されてしまいます。というのは、彼らは永遠のものとの関係を築くことに重きを置かないからです。

「花嫁」と言う言葉がありますが、この言葉が今生き生きとして来ております。私たちが主の「花嫁」であるとは、主に服従する関係にあるということです。この「花嫁」は現在の教会の中にすでに存在し、顔を覆っているベールが上げられる時を待ちながら静かに調えられています。私たちが天の花婿(イエス)に全面的に依存し、主にいのちを明け渡すとき、私たちは自分のアイデンティティーを無くして主のアイデンティティーをいただくのです。

主に服従していくときに、私たちはバプテスマのヨハネのように、主のいのちを顕し、その証人となることができます。「彼は言った。『私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ。」と荒野で叫んでいる者の声です。』」ヨハネ1:23

今主がしておられることを表すもう一つのものは「神の息子たち」という言葉です。「息子」であるということは、主と「協同」あるいは「協力」関係にあるということです。
「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。私たちは朝早くからぶどう園に行きましょう。」雅歌7:11-12a

このレベルに達するコミットメントをした者たちを用いて、主は今の世に主のいのちと力を表されるでしょう。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたは、みな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」ガラテヤ3:28

教会において、「油注ぎの元では」男性とか女性の区別はありません。私たちはみな、全く性別に関係なく、主によって「力を与えられて」機能することができるのです。男性とか女性は主との関係のタイプを表します。私は「花嫁」として「主に依存し」、イエスと「一つ」となります。

また、「息子」として主と「協同」関係になります。そして、私は地上のものより「上に昇り」ます。私は「勝利者」ですから、主のいのちが私の人生を通して流れはじめます。そのとき、私の人生は主のいのちの「証」となり、主のいのちをこの世に表現する(あらわす)ものとなるのです。

私たちは終わりの時に近づいています。それは即ち「教会の時代」の幕が閉じられる時であり、国家に対する大艱難時代における(最後の)裁きの時、そして「神による神権政治」によって人類のすべてが治められる千年王国が設立される時です。
「そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。」マタイ25:10

主といっしょに「婚礼の祝宴」に行く用意の出来ていた者たちは、「新しい歌」を歌うことができます。「彼らは新しい歌を歌って言った。『・・・私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」黙示録5:9a-10 (終わり)


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17 05月

天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び)(2) スティーブ・ウィッツ   5月17日


天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び)(2)

スティーブ・ウィッツ

天国のトリック

神は明らかにパズルがお好きです。どうして神はミステリーを用いるのでしょうか。 私の近著「声:天国の言語を理解しそれに応答する」の中で、私はこの点を探求しました。
第一章に、息子が2歳だったときのことを書いています。彼はどの2歳児でもそうであるように、エネルギーにあふれいつも誰かと遊びたがっていました。私が仕事から帰ってリラックスしようとしますと、彼は私がソファから立ち上がって遊んでくれるのを待っていました。私はソファに座ったままで、彼を呼び、ハグしてくれるようにたのみます。でも彼は「いやだ!」といたずらっぽく言うのです。私はおっくうなので、息子を私のところに来させる方法を考え出し、部屋の向うにいる息子にむかって「ジョシュ、カム セグ モイ ヤム」と言いました。そしてこの意味不明のことばを何度も繰り返したのです。息子は「なんだろう」と思い、少し近づいて来て、私の唇をじっと見て、お父さんが言っていることを分かろうとしました。そしてついには、彼は私のすぐ前に立っているのです!

ミステリィーの罠にかかって私の膝に乗ってしまったことを知らない息子を、私はくすぐりはじめます。彼は悲鳴をあげて母親のところに行きます。このように、ミステリーはあなたをひきつける力があるのです。神はそれを私たちが神に近づいて神の計画を知るために用いられます。あなたは天の「カム セグ モイ ヤム」というような言葉を聞いたことがありますか? 私たちの多くは、時間をかけて声を探すという代価を払うことをしようとしないことが多いのです。

求める心が必要

モーセは荒野で40年を過ごしました。彼の人生は燃える柴から聞こえてくる声により、あっという間にひっくりかえされました。聖書には、彼は「あちらへ行って(turned aside)、この大いなる光景を見ることにしよう。」といい、次に「主は彼が横切って(turned aside)来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。」(出エジプト3:3-4)と書かれています。この場面では、単なる「あちらへ行ってturned aside」という行為が啓示を受ける戸口になったのです。燃えつきない柴というミステリーは、ほんの少しの時間を使って考えることによって解けたのです。神はそれを見られ、応答されました。多くのミステリーを解くためには「意図的に解こうとすること」が必要でしょうか? もし私たちがちょっと立ち止まって理解したいと望むならば、人生のミステリーは解けるのでしょうか? 私たちの多くはいらいらして、「もし、神が本当に私にそうしてほしいならば、はっきり示してくださるはずだ。」と言います。福音書をちょっと読んでみれば、イエスの弟子たちはイエスの意図が何であるかに関して、多くの場合混乱していました。「そして彼らは主の言われることがわからなかった。」という箇所がよく出てきます。イエスは、主が去られ、聖霊が来られる(ルカ24:49)というような、次々に展開する神の御計画の次の段階を知らせることに関しては、なぞめいたコミニケーションで弟子たちの好奇心を高めています。

使徒行伝2章では、イエスはすでに去られ、弟子たちは忍耐をもって…ミステリーの到来を待っていました。120人が屋上の間に集まり、わくわくして、心を合わせ、そして多分何が起こるかと興味津々で待っていたのです! 聖霊が特別の顕れとともに力を伴って来られました。キリストの弟子たちは、炎のような舌を経験し、酔ったようになり、17の異なった言語で話す能力を与えられました!神の御国の新しい時代のミステリーが明らかになったのです。

二つの重要な問い

初代教会に起こったこの歴史的な日は、二つの重要な問いをもたらしました。「これは一体どういう意味なのか?」と「私たちは何をしなければならないのか?」という二つの問いです。

ミステリーが起こったときには常にこの二つの問いに対して教会は答えなければなりません。今日も、人生に起こるすべてのミステリーに対して人々はこれと同じ二つの問いをいだくのです。

現代の社会に教会が与える影響力の大きさは、教会がこの質問にどれだけ答えられるかによって決まります。 質問に答えるためには、知恵が要りますが、深いレベルではやはり預言的な人が必要となります。神から聞くことができる人々が最後には治めるのです。彼らは光となり、道しるべとなるでしょう。今日の社会には多くのジレンマがあります。西洋医学がいいのか、東洋医学がいいのかという論争は、ますます激しくなっています。オーガニックな食料が記録的に増えていますし、いろいろな代替治療法が紹介されています。環境保護とビジネスが一つとなって問題に取り組んでいます。以前は両者が敵対していましたが、今は共に協力してミステリーを解こうとしています。

福音派と聖霊派の壁もだんだんに消滅してきて、区別がつけにくくなってきました。過去20年間、記録的なペースで多くのミステリーが解かれてきました。教会こそが、革命的な様々な発見の最前線にいる必要があります。天国の声を聞ける人々はどこにいるのでしょうか? 神は人生の謎を解くようにと私たちを召してくださっているのです。ネヘミヤはエルサレムを再建するための計画を持っていました。ダニエルは王と王国の未来に関する啓示を受けました。 ヨセフは飢饉のときエジプトを救い、ユダヤの民を守りました。最近の「Evan Almighty」という映画は、聖書の話を現代に置き換えたものです。それは21世紀にノアのような召しをうけた新国会議員エバンの話です。ユーモアがありますが、同時に預言的でもあります。人生に対する神の御心を理解すればするほど、エバンは物事が明確に分かるようになります。私たちも神からのコミニケーションを聞いて解き明かし、現在の自分の人生に用いていくのでしょうか? 長い間耳を澄まして待ち、「あちらへ行ってturn aside」」、天の声に応答するでしょうか? この質問にどう答えるかで、私たちの未来が決まるかもしれません。ミステリーの中には、それを解明するのにもっと長い時間を必要とするのもあります。今日、そのチャレンジは非常に複雑で、それを解くためにはソロモン級の知恵が要求されるものもあります。非常に深いミステリーに私たちはどう対処したらいいのでしょうか?
 私は第一コリントにその答えがあると思います。全く分からない外国語にぶつかったとき、あなたはどうしますか?コリント
08 05月

天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び) スティーブ・ウィッツ 5月9日


天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び)(1)

スティーブ・ウィッツ

「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」 箴言25:2

自然界のミステリー現代の伝説の一つに、ミツバチは本来飛べるはずがない、というものがあります。羽を持つ昆虫のユニークな飛行能力の仕組みを、科学者たちは解明できないでいます。でもミツバチが飛べることは明らかです!これは一種のミステリーなのです。私の家の後には何百羽ものアヒルとカモが住んでいます。そのうちの何羽かのアヒルはうちの小さな池に入れるために私が購入したものです。数年前に、そのうちの一羽を一マイルほど離れた別の池に移したいと思い、大きな白いアヒルを捕まえて箱に入れ、車に乗せて新しい池に連れていきました。

箱から出されたアヒルは、新しい自分の家を見ていぶかしく思ったようですが、大丈夫適応できたように見えました。 私はしなければならない仕事があったので、働きながら時々畑の向うのアヒルをチェックしていました。一時間ほどしてから、アヒルは大分慣れたかな、と思って見てみるとアヒルが見えないので、狐か大きな亀に食べられたかと心配になりました。それであたりをもっとよく見回しましたが、やはりアヒルは消えていました。私はアヒルを失ったことや、アヒルのために払った15ドルを損したことを嘆きながら、そこら中を探し回りました。私は仕事を終えて家に戻りました。妻に今日起こったミステリーを話ながら、アイス・ティーのコップを手にもってリラックスするために裏のデッキに向かいました。すると、放蕩息子の白いアヒルが私の椅子のそばにいるではありませんか! 

アヒルは道路を越え、流れを越え、野原を一マイルも歩いて(太りすぎていて飛べないので)家に戻ってきたのです。これに似た話を前に聞いたことはありましたが、自分の周りに起こったのは初めてでした。 まさにミステリーです。ビールのなぞ去年の夏、私はなぜかビールが飲みたくてしょうがなくなりました。私は日頃ビールを飲んでいるわけではなく、好きでもなかったのです。おかしなことに、私は特定のビールが飲みたくなりました。ギネスビールです。味わったこともないものを、飲みたくてしょうがなくなるということが、一体あるのでしょうか。 でもそれが起こったのです! これは家族の間のジョークとなりました。 

私は実際に買う気はありませんでしたが、数週間の間、ギネスビールを飲みたいという思いは続いたのです。すると、金曜日の朝7時15分に、私の友人のマーク・デュポンが(彼は預言の賜物がありました)電話をしてきました。彼は2008年に関する神の言葉を私に話しはじめました。そして最後に、ある本を読むことを薦めてくれました。私はその本の題名、「時ならぬ預言」を書き留めてから、著者の名を尋ねると、彼は「ギネス、オス・ギネスだよ」と答えたのです。それは不思議な瞬間でした。 これもミステリーです。数日後に私はその本をむさぼり読みました。それは私の人生を変えるような力がありました。神はこのように不思議な言語を使って話されるのでしょうか。飛べるはずのないミツバチがそれでも飛ぶ、アヒルは地図がなくても自分の家に戻ることができる、飲みたくてしょうがなくなったものが、読むべき本の暗号である・・・。主は隠され、私たちは見つけるのです。主は秘密にされ、私たちは探すのです。

人生には多くのミステリーがあります。神ご自身が最大のミステリーであり、私たちの運命もすぐその次くらいにミステリーに満ちています。神がどのようにコミニケートされるかを解くのは、私たちの人生に与えられたチャレンジです。それはわざと難しくしてあるのでしょうか? それは多分、あなたが神をどのような父であるかと見る見方によって変わってくるのだと思います。 見つけやすい場所私の子供たちは今はもうみんな大きくなりましたが、小さいときにはよく私に「かくれんぼ」をしてくれといったものでした。

 彼らは小さい手で目隠しをして、数えはじめます。私はすばやく見つかりやすいような場所に隠れます。大抵は窓のカーテンの後で、足を下からわざと出して立ちます。するとたちまち小さな子供たちは私を見つけ、大喜びでカーテンの外から私に抱きついてきます。愛情深い父親は隠れるのが好きですが、わざとそんなに上手には隠れないのです。見つけてほしいからです!かくれんぼは確かにミステリーですが、そんなにむつかしいものではありません。だれでも参加できて、みんなが勝つことができるのです!神もまた、愛情深い父親であり、同じようになさいます。つぎの聖書箇所を考えてみてください。

申命記30:11-14 「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」

神のミステリーは必ず解くことができるのです。目的があるのです。それは目的や計画、戦略、戦術を啓示するためのものです。神はそれを遠いところに隠すことはせず、私たちにそれを解くようにと招いてくださいます。神は「探せ、求めよ、戸を叩け」というような表現を好まれる方なのです。 父を信頼すること私の父も似たようなゲームをしてくれました。 父は玄関のドアの内側に大きな古い水差しを置いていました。毎日仕事から帰ると、父はポケットの中の小銭をその中にみんな入れたのです。バケーションの時になると、みんなでその中のお金を数えて、何か楽しいことのために使うのでした。私が本当に仕事らしいことをしたのは、16歳のときが最初でした。私が初めて給料をもらって帰ってきた日のことですが、私がうきうきしているのを見て、父は私の財布の中に給料が入っていることを見抜きました。父は、「財布の中にいくらあるのか?」と聞きました。私は正確には分かりませんでしたが、「30ドルくらいだよ。」と答えました。すると父は「お前の財布の中身全部と水差しの中身全部を交換してあげよう。」と言いました。こういうことは珍しくなかったのです。リスクの ある事をすばやく判断する訓練を私にするために、父はこのようなことをよくしました。私は水差しを手に持ってみてもいいかと聞きました。というのは、この前いつ中身をあけて使ったかを思い出せなかったので、今はどのくらい入っているか私は分からなかったからです。それは駄目だと父はいいました。私はリスクを取らねばならず、その決断を迫られました。早く決断せねばこの取引の話しはご破算になると父は迫りました。私は水差しを見て、父の目をじっと見、再び水差しを見て、答えました。「取引成立!」私は父に30ドルを渡し、水差しのところに飛んで行き、中身を調べました。 ざっと見て大丈夫だと感じましたが、ゆっくり数えたときにはっきりしました。私は大儲けしたのです。水差しの中には125ドル以上ありました。どうして私が取引をしたか、お分かりでしょうか? 父が私を愛していて、私はそのことを知っていたからです!父が私の益にならないような取引の話は絶対にしないことを、私は知っていました。愛情深い神はご自分の息子や娘をからかったり、だましたりはしません。父と私は長年このような取引を何度もしたのです。 父の愛は私にリスクをとらせる力を与えました。父は私のジレンマを和らげてくれました。それは父が私を愛していたからです。

「・・・しかし、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行う。」ダニエル11:32b
クリスチャンは全員、「解き明かしのクラス」を受ける必要があります。神に関して、あるいは、人間の目的に関して質問があるならば、その答えを得なければなりません。自分が見た夢や状況をどう解釈すればよいかわからないために、人々が失望、落胆してしまうことはよくあります。神は私たちを発見する人生、ミステリィーを解く人生へと招いておられます。そのクラスを取った者の人生には、主の顕現や栄光ある啓示が与えられるでしょう。多くの結婚が、親密な関係を保つ努力を怠った故に失敗に終わっています。結婚にはミステリィーが満ちていますから、それを探し出さねばならないのです。それには時間もエネルギーもかかりますが、何でも価値のあるものには必ず投資する必要があるのではないでしょうか。現在の社会には恐れの感情が深く蔓延っています。テロリズムへの恐れ、サブプライム・ローンの問題、全般的に不安定な経済、あるいは、モラルの低下などがあり、多くの人々を心配の牢獄につないでいます。アメリカで急成長している製薬事業は、睡眠薬関係です。映画俳優ヒース・レジャーが睡眠薬を複数摂取したために死亡した最近の悲劇的な事故は、現代を象徴しています。人々は安息がないのです。 疑問を抱えています。 安息への道を知り、他の人々にも示すことができるようなパイオニア精神を持つ人を人々は求めているのです。

リーダーシップ・ジャーナルという雑誌の冬の号に、イスラム教徒がキリスト教に改宗する理由に関する興味ある記事が載っていました。その記事はある一つのテーマで貫かれていました。イスラム教徒はクリスチャンのライフスタイルに興味をそそられるようです。「女性を大切にし、神を愛し、愛に満ちた、超自然的な」ライフスタイルは、真理を捜し求めている人たちを磁石のように惹きつけるのです。神は、今まではミステリーだったものを、今彼らに明らかにしています。クリスチャンの生活は、神をイスラム教のように「罰する神」として見るのではなく、「愛の神」として見ることを強調していることを彼らは今発見し始めているのです。今まで多くの人にミステリーだったことを、神はいま明らかにされておられます。多くのクリスチャンが見出してきたこと、即ち、イエスが来られたのは「復讐の日」ではなく「恵みの年」を宣言するためであったことを彼らは発見しているのです。(恵みの)年と(復習の)日の比率は365対1です。イエスは裁きよりも恵みの主であられます。(次週に続く)


Steve Witt 師は新しく教会を設置して行くチャーチ・プランターの仕事を三十年やって来た人で、元々はカナダのヴィンヤード系のリーダーの一人。現在は米国オハイオ州クリーブランド市にあるメトロチャーチ・サウスの牧師を勤めている。
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01 05月

霊的な生活 ロン・マクガトリン 5月1日 2008年


霊的な生活

ロン・マクガトリン

私たちは、前いた場所に今はいない 今いる場所に将来はいない

私たちが今までいた場所は、人間中心であり、欲と煩悩に振り回された堕落した世界です。これからいくところは、神中心であり、義と平安に満ちた贖われた世界です。
今、私たちは、古い世界から贖われた新しい世界へと移るために旅をしている途中であり、それは時には荒れ狂う嵐に遭遇する長い道のりです。

聖霊は私たちに、「さあ、立ち上がって歩きはじめなさい」と、明らかに語っておられます。なぜならば、今の場所に座ったままでいると私たちは死んでしまうからです。私たちの生活様式の基礎を抜本的に変えなければ、私たちの今持つ弱点が国家を破滅する可能性があります。

聖霊は今、「強さと力と知恵を得て、世界が進む方向を変えよ。」と、私たちに語っておられると信じます。

ホーム・チャーチなどで、教会のやり方を少しばかり変えたとしても、それで最終的にうまくは行かないでしょう。選挙で違う政党を選んだにしても、それで世界を変えることはできません。税金をもっと少なくしても、多くしても、あるいは、もっと低い利息でもっとお金が借りれるようにしても、それで私たちの経済の危機を救うことはできません。現実的に見て、私たちの国家や世界がどんどんと下降線を辿っているのを変えるために、肉の人間ができることは何一つないのです。どんどんと悪くなっていく世界を回復するために肉の人間が考えつく最高の方策でさえ、愚かなことなのです。生まれつきのままの人間では、私たちが今どこにいて、何が起こっているかを全く理解できず、ましてや解決方法など分かるはずがないのです。自分は賢いと主張はしますが、現代の肉の人間の思いはむなしく、心は暗くなってしまいました。

ローマ1:21-22「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、」

第一コリント2:14-15「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」

御霊により知恵と力が現われ、超自然的に地球上の生命を基礎から変える

高いプライドを捨てさり、へりくだって自分たちの父祖の道から天の父の道へと御霊によって変えられていく聖なるレムナントを、神は今召し出されておられます。聖霊の助けにより地上のあらゆる分野で神の栄光を輝き出させる聖なる人々は、史上最大の収穫をもたらします。神はこれらの聖なる人々(年寄りも若者)と共に、あるいは彼らを通して、国家や世界の進む道を変えるように超自然的に働かれます。御霊により私たちはすべてのことが可能なのです。すべての被造物を支配しておられる神の愛と力と栄光が、キリストの御霊を通して流れ出るのです。

あなたがうなじのこわい神の民であるならば、御霊があなたの上に臨んでくださり、あなたの暗くなった思いをキリストのリアリティーで超自然的に満たしてくださるまで、神の御前に顔を地に伏せて昼も夜も泣き叫びなさい。

神の御前で長い間地に顔を伏せて聖霊を豊かに受けた者は、今立ち上がり御霊によって歩み、神が御霊によって示された力ある業をしなさい。御霊によって聞いたり見たりしたことを御霊のうちにしなさい。

父なる神の愛に包まれて、砂場ではしゃいでいる者は、もうふざけるのをやめて立ち上がり真剣になりなさい。おもちゃを捨てて道具を手にとりなさい。あなたが手にした道具は、聖霊によって力を与えられた動力機具となる。信じればすべてのことは可能だ。神にむかって子供っぽい応答をするのを神は喜ばれない。しかし幼子のような信仰と信頼は神を喜ばせる。

人々よ、我々は再び全く新たな日を迎えているのだ。それは偉大な力と光に満ちた日であり、夜をすばやく昼に変え、愚かな人々を闇から光へと呼ぶ。神のおられる天を見上げ、礼拝し信ぜよ。なぜならば、多くの者にとってこれが最後のチャンスだからだ。あなたは過去の霊的未熟さを早く捨てて、神が人間に対して初めから定められた最終目標の域に入らねばならない。その目標とは、あなたが召された仕事に神の愛と知恵を注ぎ込むことである。

御霊に歩む聖なる主のレムナントに注がれる神の大いなる力は、リバイバルという言葉では表せないほどに力強い。その力はどんどんと爆発的に大きくなり、神の栄光は邪悪な者の上に注がれ、聖なる者はきよめられる。

そこには喜びで満ち神の栄光にあふれるきよく心地よい平安がある。そこには偉大な光と共に偉大な闇がある。人間の歴史上最も極端な時代がもうすぐやってくる。

イザヤ60:1-2「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。」

過去を忘れなさい。あなたの将来のための自分勝手な計画を捨てなさい。神の栄光が来ようとしている。他のことは問題ではない。これは過激という以上のものであり、私たちの想像を超えたものである。地上が騒がしいときに完全なる平安がある。人々の心は恐れで震える。しかし、物事が激変する嵐の中でも完全な平安がある。

神は聖である。悪によって建てられた高いプライドの城、愚か者たちは立っていることはできない。高慢な宗教と高ぶる者の塔は、粉々に砕かれる。プライドの高い者は消えてなくなり、きよい聖なる火が人の邪悪な愚かさの刈り株を燃やし尽くす。

イザヤ2:11-18「その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。 まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。 高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。 偽りの神々は消えうせる。」
イザヤ5:15 「こうして人はかがめられ、人間は低くされ、高ぶる者の目も低くされる。」
イザヤ26:5-6「主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける。」
貧しい者と乏しい者の足が踏みつける

木、藁、刈り株は火で燃やされる。しかし、神の宝石は神の栄光を映し出して輝く。地には平和、人にはめぐみがある。イエスの死と復活は無駄ではなかった。それは、全地が神の栄光で満たされるからだ。

第一コリント3:11-13「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」

マラキ4:1-3「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。・・万軍の主は仰せられる。・・しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。・・万軍の主は仰せられる。・・」

マラキ3:17「「彼らは、わたしのものとなる。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」

弱い者に強いと言わせよ。立ち上がって神の力強い息子となるように準備せよ。世界の定められた終末が今あなたの前にあるからだ。あなたはこのために生まれてきた。先に来て神の都を探すために命を捧げたすべての者が、成熟した神の息子達が立ち上がり力強い主と共に地上の御国、贖われた世界へと入っていくのを待ち望んでいる。御国の力と天の軍勢は、へりくだって立ち上がり、大きな叫びとともにキリストのからだである花嫁として、かしらなる天と地の王、キリスト・イエスに迎えられ、完全に一つとなる時を待つ者達と共にいる。主の御名に栄光あれ!主はすべての栄光を受けるにふさわしい。 ハレルヤ! 主の偉大なる御名に栄光あれ!

愛を追い求めなさい。愛は決して絶えることがありません。(終わり)


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