Walk With God Ministries
Archive for 4月, 2008:
24 04月
栄光の宮
フランシス フランジペン
神殿に主の栄光が満ちるときソロモンが神殿を主に献げたときのことを調べると、神が教会に何を求めておられるかを知ることができます。神殿が完成したとき、それは壮大な祝典のうちに主に奉献されました。ソロモンは、牛2万2千頭、羊12万頭をいけにえとして捧げました。 そして、王が祈った直後に、神の栄光が人々の目前に顕れたのでした。それまで400年以上もその様な事はありませんでした。
「ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと数々のいけにえとを焼き尽くした。主の栄光がこの宮に満ちた。」と書かれているとおりです。(第二歴代誌7:1)
建物に過ぎない神殿を捧げたときに、主が目に見える形で御自分の栄光を顕してくださるならば、主の生ける神殿である教会の上に、栄光ある御臨在を顕したいと、主はどれほど願っておられることでしょうか?しかしながら、主の栄光が顕れるには、いくつかの条件が整っていなければなりませんでした。まず第一に、ソロモンの神殿が多くの部分を完全に繋ぎ合わされ金で覆われて100%完成したときに、はじめて主の栄光が顕れたことです。それと同じように、私たちの中に主が完全に顕され、それを見て世の人々がキリストを信じるようになるためには、私たちが「完全に一つになって」共にキリストの神殿として建て上げられることが必要です。
次に必要とされる条件は、ワーシップに関することです。主が顕れてくださったのは、歌い手、ラッパ奏者、祭司たちが声を上げて賛美し礼拝したときでした。 私たちが神をワーシップする者でなければならないことは、強調し過ぎるということは決してありません。 現在でもすでにいくつかの教会の礼拝では、主の御前に立ちのぼるまことの(純粋な)ワーシップの故に、微かではありますが、生きている雲のような輝く主の栄光が顕れ始めています。
しかし、神の栄光が顕されるためには、もう一つ別の領域での準備も整っている必要がありました。この必要条件はリーダーたちに関するものです。 「祭司たちが聖所から出て来たとき、・・列席したすべての祭司が各組の務めの順序にかかわらず身を聖別した。…そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」(2歴代誌5:11-14)
祭司たちの組分け(Divisions)は、家系やそれぞれ与えられた任務に従って神によって定められたものでした。それは妬みや争いから生まれた肉的な分裂分派(Division)ではなく、役割り、機能、順序に従った組分けでした。しかし、祭司たちが聖所に入るときは、彼らが「各組の務めの順序にかかわらず身を聖別する」ことを神は命じられました。(11節) 言い換えるならば、神殿を建てて聖所に入るときは、祭司たちはそれぞれの務め(それはある意味で彼らを分けていたものですが)よりも、神の栄光を求めることを優先しなければならなかったということです。そしてそれが彼らを一つにしたのです。 まさにこの時、即ち、彼らが「組に分かれていない」時に、神の栄光は顕れたのです。
今日においても、神は一つの都市に存在する複数の教会に対して、それぞれ異なった働き、恵み、能力を与えておられます。それらは、その都市にある多様な文化的背景の必要を満たすためにすべて必要なのです。そして、教会がそれぞれに異なりユニークであるということは、教会同士が分裂しているのではなく、キリストのからだがそれぞれの働きをもって(一つに)完成されるということなのです。 しかし、もしも神の栄光が教会にもどることを私たちが望むのであれば、各教会に与えられてそれぞれ違う任務よりも、御霊による一致を優先させねばならないのです。
今日、集会、カンファレンス、祈祷会、あるいはコーヒーを飲みながらの一対一の交わり、また、教会の祭壇の前、町全体の伝道集会などという様々な場所で、「組分け(教団教派等の)に関係なく」キリストのもとに帰ってくるクリスチャンが、ますます多くなっています。 実際、ここ数年で何万人もの牧師たちが神に飢え乾き、自らを神のために聖別し服従することを新たに誓っています。彼らは神の栄光を求めているのです。その結果、何が起こったでしょうか? キリストのからだなる教会は「組み合わされて成長し・・・主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたもともに建てられ、霊の働きによって、神の住まいとなるのです。」(エペソ2:21-22)と聖書に書かれている姿へと組み合わされつつあるのです。
「組み合わされて fitted together 」「ともに建てられ built together」ということばに目を留めてください。まことの主の家は、「所属する組に関係なく、ともに組み合わされる」ときに、現われてくるのです。そうなったときに初めて教会は主の神殿、即ち「神の御霊の住まい」として真に姿を現わします。栄光の源「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ17:22-23)
イエスは、教会組織の新しい形とか、新しい教義やプログラムを与えるために来られるのではありません。主は、「ご自分の聖徒たちによって栄光をうけ、信じたすべての者の驚嘆の的となられる」ために来られるのです!(第二テサロニケ1:10) 「主イエス・キリストの栄光を得させる」ためにこそ、主は私たちを召されたのです!(第二テサロニケ2:14)
私たちが持っている現在の教会の定義をはるかに超えたものを、神が今すでに建てておられるのですから、それをしっかり見ようではありませんか。神は私たちを共に組み合わせて、まさに主の栄光が顕れる「主の聖なる神殿」を建てておられるのです!次の祈りの言葉をよく考えて見てください。 神殿を建てようと主が私たちを召しておられますが、この祈りはその召しに対する私たちの応答です。各々の特徴、召命はそのまま失うことなく、しかし、教団教派にとらわれずに私たちが共に組み合わされて一つのものを建て上げることができるようにと、神は今私たちを召しておられます。あなたも主の神殿を建て上げた
17 04月
あなたの嵐はどこからきたのか?
ビル ジョンソン
人生に起こる嵐は、奇跡と同じく、私たちが成長するために計り知れないチャレンジとチャンスを与えてくれます。しかし、あなたが面している嵐の種類によって、それには大きな違いがあるのです。ある種の嵐は、それがサタンから送られてくるにもかかわらず、私たちを鼓舞し、すでに自分が握っている神の真理を使うようにと促します。そういう嵐は必ず奇跡を生み出します。マルコ4:35-41に書かれている嵐はそのようなものです。
『さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』(マルコ4:35-41)
しかし、これとは違う種類の嵐もあります。次の有名な聖書の箇所に書かれているように、神は私たちが間違った方向に進んでいることを教えるために、嵐を送られるのです。
ヨナ1:4-6 「そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」
ここで私たちは、二種類の嵐とその異なる二つの目的を見ることが出来ます。一つは神によって、もう一方はサタンによって送られました。そして両方とも舟の中で眠っている人が登場します。一人はいやな現実から逃げ出す途中で意気消沈して寝ていました。もう一人は御国に住む人でしたが、御国には嵐はないのでぐっすり眠っていたのです。
一体、あなたが面している嵐はどちらの種類なのでしょうか? あなたはその嵐を神が望まれる方法で取り扱っているでしょうか? 過去にあなたに起った様々な奇跡で信仰が強く育まれ、それによってこの嵐のチャレンジを信仰で受けることができましたか?
弟子たちが遭遇した嵐は、彼らを神の御心から離れさせようという目的でサタンが送りました。ヨナの嵐は、御心に彼をもどすために神によって送られました。ある人たちは、神が右に行けというのに左に行ったため嵐に会いました。神は憐れみをもって彼らを引き戻すために嵐を送られるのです。
また、ある人たちは、神の御心の只中にいるが故に嵐に出会います。主は嵐を好まれるわけではありませんが、あなたがすでに与えられている嵐を静めるための道具を使うように訓練したいと思い、嵐を送られるのです。
私たちは嵐の中に立たされると、すぐさま神に介入していただいて、私たちの苦境を変えてくださいと叫び求めるのが、私たちのなすべきことだと思ってしまいます。しかし、それが嵐の目的ではないのです。もし私たちが神に叫び求めるだけだったならば、奇跡の業に参与する特権を私たちは放棄してしまうことになります。神は嵐を静める道具を私たちに与えないで嵐を起されることは、決してありません。神は私たちがそれらの道具を使って奇跡的な結果をもたらすことを望んでおられるのです。
あなたを去年襲った最大の闘いや危機的状況を考えてみてください。少し考えれば、その問題に対処するために神が与えていてくださった道具が何であったかが分かるはずです。神が私たちの人生に問題が起こるのを許されるのは、私たちがいつも神に泣きついてばかりいないで、問題に打ち勝てるようにしてくださるためです。勝つための道具は舟にちゃんと積まれているのですが、敵が恐れの風を巻き起こし、私たちが道具のある場所を忘れるように仕向けるのです。
私たちの多くは、嵐が来ると眠っているイエスに弟子たちが言ったのと同じ祈りをしてしまいます。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか!」と祈るのです。すると、イエスは起き上がって彼らの祈りに答えられました。神が祈りに答えてくださると、私たちはそれで喜び満足します。弟子たちは置かれた状況の中で当然するべき正しいことをしたのだ、と私たちは誉めさえするかもしれません。しかし、イエスは彼らを見て「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われたのです。
「何ですって!」と弟子たちは思ったかもしれません。「私はあなたのところにきてお願いするほどの信仰を持っていましたよ。そしてあなたは私が願ったことを聞いてくださったではありませんか。私の役目は祈ることで、あなたの役目はそれをしてくださることじゃないんですか!」と。
違うのです。じゃま物に向かって「出て行け!」と命令するのは、私たちの責任なのです。ほとんどのミニストリーがしていることは、神にお願いしてどうにかして地上の問題を解決していただくことです。しかし、本当は私たち自身が嵐に「静まれ!」と命令すべきなのです。私たちは周りの状況を天の御国の視点で見て、主の御ことばを宣言するのです。後はそこに天の支配が来るのを見ていればよいのです。
私はとりなしの働きに対して、絶大な愛と尊敬を抱いておりますし、私の妻は素晴らしいとりなし手です。しかし、多くのとりなし手たちは、うめいたり嘆いたり泣いたりして、絶えず重苦しい気持ちでいることを「とりなし」と呼んでいます。彼らは祈るときに、決して信仰に立つことをしません。私はそれがどういうものか知っています。というのは、私の人生の中でも、とても長い時間、すごく真面目に、すごく勤勉に祈っていたときがあり、もし祈った時間を記録していたならば多分みんな感心するくらい熱心だったことがあるのです。神は私が真心からそうしていたことを御存知だったので、私
11 04月
預言的ワーシップ(2)
ローレン・サンフォード
第一コリント14:24-25 「しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。」
預言的ワーシップは私たちを祝福すると共に、私たちの心の中に秘められたものを明らかにすべくかき乱すので、そこから逃げたいという思いを起させます。それは罪が示されるからかもしれませんし、また、私たちの中にある聖い願いを明らかにするからという場合もあります。私は1996年にトロントで行われた「キャッチ・ザ・ファイヤー」というカンファレンスに出席しましたが、そこではデイビッド・ルイス師が5000人ほどの人のためにワーシップを導いていました。そのワーシップには預言的なものが多分にあって、神は私の心の中をかき回し、引き抜いたり植えたりされました。
預言には私たちの願いや意図の中にある良いものも、又、悪いものも明らかにする働きがあります。その頃私は自分の教会の状態について大層惨めな気持ちでおりました。私の両親はインナー・ヒーリングに関しての素晴らしい働きの先駆者として有名です。私の教会のメンバーのある人たちは、両親が実際に何を教えているのかはよく理解せずに、教会を巨大なカウンセリング・センターのようにするという期待を私に押し付けてきました。そして両親の教えを誤って適応した結果、メンバーたちは自分の内面ばかりを厳しく見つめる、病んで何もできない人たちの集まりのような教会にしてしまっていたのです。
カンファレンスでのワーシップの時、主の御霊が私のうちに流れこみ、私はこう叫んでいました。「主よ、あなたの民を牧し、あなたに仕えたいと思っていましたが、それが一生同じ人々の手を取り、同じ人々を何度も何度もカウンセリングし、そして彼らが自分にばかり焦点をあてて自分の臍ばかり眺めているだけならば、主よ、私をもう御許に行きたいです。死なせてください。もう十分です。」と。 私は本気でそう思っていました。それに対して主ははっきりと答えてくださいました。「あなたは何がしたいのですか?」と。そして私は本当に初めて「私は預言的伝道者になりたい。私は魂を勝ち取りたい。」という自分の気持ちがはっきりと分かったのです。この啓示を受けて、私は涙を流しながら妻に倒れこみました。彼女は私に何が起こったのか全くわかりませんでした。
続けて主は「それならば、家に帰って教会の人々に『私を両親の油注ぎから開放してください』と告げなければいけません。」と言われました。 そして、私はその通りにしたのです。教会の人たちは自分たちの態度と焦点を抜本的に変え、それによって数ヶ月後にみんながトランフォームされるリバイバルが起こりました。未だにそれは続いています。預言的ワーシップは、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、また植えさせるのです。端的にいえば、あなたをかく乱するのです。私の人生を変革するあの出来事が起こってから2年あまりの間に、私は全く別人になりました。そして私はそれを喜んでいます!
預言的かき乱しが始まったとき、たとえ心の中の泥が沢山かき混ぜられるように感じても、そこから逃げたり、心を霊的、感情的に閉ざしてしまいたいという誘惑に負けてはいけません。池というものは、掃除を始めるまでは本当に澄んでいるように見えるものです。でも掃除を始めると、コンクリートの底にたまっていた泥が水を濁し、随分汚れていたことが分かります。その泥を見て混乱してはいけません。私たちの中に隠されていたものや汚れた根が引き抜かれるときに泥が出るのです。それは神があなたの池を掃除されていると言う意味なのです。そうなったら最後までその過程をやり通してください。十字架のもとに行き、イエスに近づくのです。あなたの中の解決されていない罪をかき立てる力が働いていたのです。その力はあなたをその罪から解放するためにも働いてくださるのです。あなたの罪がかき立てられたのはそのためであり、あなたを自由にするのが目的だったのです。罪の根を引っこ抜くことができる力は、又、植えることもできます。それが預言の働きでありプロセスなのです。
1998年に、神は私の中に新しいレベルのワーシップに対する解放(自由さ)を与えてくださいました。自由に踊ること。自由に表現すること。主の歌を歌うこと。これらは私に対する預言のことばの結果として起きたことではありませんでした。自分でそうしようと思って起こったことでもありません。それはその年に私たちの上に注がれ始めたある種の預言的ワーシップの結果生まれてきたのです。それは私の中に新しい何かを植えました。それは私の中で眠っていたか、あるいは存在しなかったものを建て上げました。預言的ワーシップには他にはない特別の次元があります。その油注ぎのもとにいて変えられないでいるというのは不可能なのです。
預言的ワーシップとは
使徒パウロはエペソ5:18-19でこれに関して次のように語っています。「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
預言的ワーシップにおいては、それに気がついていないかもしれませんが、 主に向かって語ると共にお互いに対しても語り合うのです。これは、ワーシップ・チームが舞台の上でただパーフォーマンスをしているようなワーシップでは絶対いけないという理由の一つです。ある人たちは「でも、私はただ聞くのが好きなんです」と言って異議を唱えるかもしれません。いいでしょう。しかし、会衆ワーシップというものは、誰かが楽しむためのものでは決してありません。私たちが一緒に歌うときは、互いに語り合い、互いに励まし合い、高め合うのです。あなたの隣の人が歌うのを聞き、隣の人はあなたの歌うのを聞き、そしてみんなの声が一緒になって神の御前に立ち上っていくときに、私たちは歌の中で互いに語り合い、共に主の臨在や、時には主の御ことばをお互いに分かち合うのです。会衆全体のワーシップは預言的な要素(次元)を含むことができますし、また、含むべきなのです。
エペソ5:18-19には、3つの歌の種類が述べられています。最初は詩で、これは、聖書の御ことばをみんながよく知ってい
るメロディーで一緒に歌うものです。2つ目は賛美歌です。「何百年も前の古い歌で、多くの現代人を退屈にさせ、その上とても高いピッチで歌われるのでソプラノの人しか歌えないような歌」という賛美歌のイメージをあなたの頭の中から追い出してください。 賛美歌はそれ以上のものです。古いものも新しいものもありますが、賛美歌とはある人の心の中に生まれた詩やメロディーで、教会が一緒に歌うことを学んできたものです。クラシックな賛美歌も預言的ワーシップの中で使うことができますし、今でも私たちに霊の息吹を与えることができます。しかし、私たちのニューソング教会では、おもに新しい賛美歌集にある現代の歌を歌っています。それが、私たちが福音を伝えようとしている人たちに最も適切に語りかけるものだと信じるからです。
主が教会に預言の油注ぎを注いで望まれるときは、私たちが詩や賛歌を歌うときも預言の力は私たちを貫くことができます。ワーシップ・リーダーが主の御霊の指示に従い、詩や賛歌をこのように歌いなさいという御霊の導きのもと、会衆をもっと主の臨在に深く導き、高揚させ、又静まった所に誘うことができます。主が人々の心から情熱を引き出し今までとは違う高いレベルまで高揚されることもあります。ポイントは、今まで数え切れないほど何回も歌ってきた古い歌が、新しい油注ぎを受けて私たちの心を新たに貫き、今まで感じたことがないことを感じさせるのです。その場の空気は神の臨在で満ち、神が主権をもって一人一人を啓示によって取り扱いはじめられるのです。神は私たちを変え、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、こわし、建て、また植えるのです。預言的ワーシップは私たちを変えますし、もし私たちが逃げないでそれを許すならば、少なくとも私たちが変わるようにと私たちの霊に働きかけます。
第三番目は霊の歌ですが、これは人間の心からではなく神の御霊から来るものです。(それがある人間の心を通して表されることもあり、その場合はその人の心の色を反映することはあります。) 霊の歌は、私たちが歌ったことがある歌とか、みんなが知っている歌ではありません。神ご自身が私たちのワーシップの流れにより、そのときに霊の歌を誰かに歌わせるのです。それは神御自身が何かを語りたいと思われたり、あるいは、私たちのうちに何か事を成し遂げられたいと思われるからです。それは神ご自身の歌であり、主の歌なのです。
それはある目的をもって発せられるものですから、預言的なのです。その中で、神は何かリアルなことを成し遂げられるのです。ある時には、その言葉は神が会衆の中でその時にしておられることを宣言します。癒しとか招き、また人の霊の中で働く悪の力を打ち破ることなどです。またある時は、空中にいる悪の力に向けられた神の勝利を宣言する預言かもしれません。神を妨害し、私たちをくじくものを叱責する言葉かもしれません。あるいは、もっと神の臨在深くに私たちを引き寄せてくださる招きの言葉かもしれませんし、悔い改めを促す言葉かもしれません。預言的な歌は、度々私たちの生活のある領域に祝福を与えてくれますし、時には、罪やある状況に直接対決することもあります。
霊の歌は、個人的な感情や必要を延々と述べるものであってはなりません。そのようなものは自分の家でしてください。教会でのワーシップは神の民に関するものでなければなりません。
私はワーシップを導いているときに、主の歌が起こってくるのを感じるならば、少しばかりそれに耳を傾ける時を持ちます。その感覚は、まだ実際には聞こえないけれど感じることが出来る歌を心の中で「聞く」という感じです。それはまた、私の内から、私ではないものが湧き上がってくるのを感じるというような形でやってきます。その時にそれが聖霊であることが私にはわかるのです。
多くの場合、私はそれまで歌っていた歌のコードにしたがって楽器奏者たちにそのまま続けさせます。私が主を待っているときにみんなの気が散らないようにです。私は聖霊に聞きながら、しばらく異言で歌ったりします。イエスの御霊が何を言っておられか、という感覚をつかみ、これから始まるメロディーの少なくとも一端が分かるまでじっと聞いて主を待ちます。また霊の歌の始まりの言葉もはっきりといただくまで待ちます。「主よ、私が感じているものの内容は何ですか?」とお聞きするのです。少なくとも最初にいうことが分かったときに、私は口を開いて歌い始めます。その後は流れるように出てきます。
しばしば、私ではなくワーシップ・チームの中の一人に預言的な歌が与えられているのを感じることがあります。その場合、私は誰かが歌い出すまで待っていたり、誰なのがかわかるときはその人に声をかけます。これは、チームのメンバーがお互いによく知り合っているときにうまくいきます。チームに不和とかつぶやきがあると、このような預言の流れはすぐに止められてしまいます。
このような過程で霊の歌が与えられると、ある場合には会衆がじっと聞けるように一人がソロで歌います。又ある時は、会衆もチームと一緒に歌うようにと招かれます。会衆も一緒に歌うと、その歌の持つメッセージの力がみんなの内に盛り上がり、主の御ことばが植えられ確立されていきます。言葉の節は会衆がついていけるように短く簡単に覚えられるものでなければなりません。みんなでそれを何度も繰り返すと、その歌は私たちの心の中に根を張り、その真理が私たちのうちにリアルになり、みんなが神の力を知るようになるのです。
黙示録15:3に、同じようなことが書かれています。この節には2種類の歌について書かれています。「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌っていた」とあります。
一つは人間であるモーセから来ましたが、もう一つは小羊なるイエスからです。預言的ワーシップは天からのものと地からのものの両方を含んでいます。言い換えれば、この節は、人間の心から生まれた歌と共に、イエスから直接来た歌のことも表しているのです。つまり、詩、賛歌、霊の歌を表しています。
申命記31:19 「今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。」
これよりも預言的なことがあるでしょうか? 神が歌を送ってくださり、主のしもべモーセに民に教えるように命じ、この歌によって彼らの罪を示し、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、植えるようにせよ、といわれたのです。
詩篇40:3 <
b>「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」
神の預言的な歌は事を成し遂げられます。主ご自身が詩人の口に歌を与えられ、それは預言の力と共に出て行き、人々を主のもとに引き寄せ、彼らが神に信頼し敬うようにさせたのです。詩人はこの歌を多くの人が聞いたり見たりできるように、公衆の前で歌ったことに目を留めてください。外部の人々も神の民による預言的ワーシップに触れる必要があるのです。聖書によれば、預言的ワーシップは預言的かつ伝道的な力強い働きをすることができるのです。
詩篇32:7 (あなたは)救いの歓声(songs)で私を取り囲まれます。
この箇所で言っていることは、私が私の心から出てくる個人的な歌で自分自身を取り囲むのではありません。ここでいう歌とは神の心から出る預言的な歌のことを言っているのです。主よ、あなたが私を取り囲まれます、と言っているのです。そしてその歌は預言的である故に預言的力を持ち、救いをもたらすことが出来ます。その歌はリアルな何かを成し遂げるのです。それは敵を引き抜き、私やあなたを植えつけてくれるのです。
預言的な音楽は、以上述べたようなダイナミックなすべての働きにより、クリスチャンを助けるばかりでなく、未信者のたましいをも勝ち取ることが出来るのです。ボブ・ディランが彼の預言的といわれる歌で世界の若者に影響を与えることが出来るとすれば、聖霊の力を持ってすれば、どれほどの力を与えることが出来るでしょうか。教会に来ていない人たちに理解できないキリスト教の専門用語や表現で満ちた歌ではそんなことは絶対出来ないでしょう。もしもう一度世界に手を差し伸べたいと思うならば、私たちはもう一度人間になることを学ばねばなりません。そしてこの世の人々が理解できる歌詞で、共感できる情熱をもって歌わねばなりません。
端的にいえば、クリスチャン・ミュージックはスタイルでも霊的意味においても大きくシフト(変革)する必要があるということです。 シフトなしには、私たちがしているのは聖歌隊に説教するだけのようなものです。教会全体が喜んで歌える歌を作曲し歌い方をも教えてくれるミュージシャンが召し出されるように私たちは祈る必要があります。少し変わったものとか、創造的、革新的ものをたくみに締め出してしまう今のクリスチャン業界の閉鎖的なシステムが解放されるように祈らねばなりません。これは私たちがしていかねばならないことですし、神が望まれることだと私は信じます。ですから神は必ずそれを達成させてくださいます。
最後に申し上げますが、主は誰にでも、どんなときでも、どこででも、一人一人個人的に、私たち自身の預言的ワーシップを下さると信じます。もし私たちが急がないで、時間をかけてそれにじっと耳を傾けるならば、きっとその力が発揮されるのを私たちは見ることが出来るでしょう。そして、多くの壊れたものが修復され、大いなる勝利が主のために勝ち取られていくでしょう。未信者が主を畏れうやまうようにと招かれるでしょう。それが私たちの戦略なのです。(終わり)トップに戻る
06 04月
イスラム圏に今起っていること
ジョエル・C・ローゼンバーグ 2008年イースター更新
(2008年3月24日ワシントンDC)-「私は教会を建てます、そして地獄の門もその教会には打ち勝つことはできないでしょう」とイエスは言われました。(マタイ16:18)
この週末の時事問題に詳しい「ドラッジ・レポート」のトップ記事は、イスラム教からカトリックに改宗した著名なエジプト人の作家に、教皇が洗礼を授けたことでした。 そしてこの記事には、トップ扱いになる理由が充分あったのです。 これはイタリアやイスラムの世界ではとてつもなく大きな話題、特にオサマ・ビン・ラディンが、教皇はイスラムに十字軍を仕掛けていると非難した、その週にこの記事が出て来たのです。 然しながら、この特別な洗礼は、氷山の一角に過ぎません。
2001年9月11日以降、報道機関がアフガニスタン、イラクそして中東について先例のない程多く報道していますが、本流のメディアではほとんど語られていない、大きな話題がひとつあります。 何十万人ものイスラム教徒が福音的キリスト教に改宗しており、広範囲に及ぶ迫害や、まさに現実味を帯びた死の脅威の渦中にありながら、今年彼らは初めてのイースターを祝うのです。
私はアメリカ合衆国と中東で、36名余のアラビア人とイラン人の牧師と福音教会の指導者にインタビューをした後、2005年にこの話題を 初めてリポートし始めました。 然しながら、この3年間私はイラク、ヨルダン、エジプト、ヨルダン川西岸地区、トルコそしてモロッコを旅する機会に恵まれました。 加えて、私は200人を越えるアラブ人、イラン人、クルド人、スーダン人そしてその他牧師やキリスト教の指導者達に会い、インタビューをする光栄にも与りました。 更に多くの資料を入手することで、その傾向がより鮮明になりつつあり、この話題はさらに私達を興奮させております。
聖書の神は中東で、未曾有の数の男性、女性、そして子供を神の心に引き寄せ、神の家族にその人達を受け入れるために、力強く働かれているのです。 より多くのイスラム教徒がこの30年間に– 特にこの7〜10年間に– 人間の歴史に於いて他のどの時代よりも多く、イエス・キリストを信じるようになりました。 昔からのカトリック教会、コプト教会そしてカルディア教会の間でリバイバルが起きています。 今日キリスト教会は、それが生まれたところで、まさに復活しているのです。
最近明らかになった事実について考えてください:
アフガニスタン– 例えばアフガニスタンでは、アルカイーダがアメリカ合衆国を攻撃する以前には、福音派のクリスチャンはたったの17人しかいませんでした。 今日、1万人を優に越えるアフガニスタン人がキリストの信奉者となっており、その数は堅実に増えています。 教会の指導者によれば、アフガニスタンのイスラム教徒は、今までにはなかったほど心を開いて、福音のメッセージを率直に聞いていると言っています。現に毎週数10人もの人が受洗しています。 聖書やその他のキリスト教関係の本が刊行されたり、アフガニスタンに持ち込まれるや否や、人々はそれらをひったくるように手に入れています。 ルカによる福音書に基づいて、キリストの生涯を2時間のドキュメンタリードラマにしたジーザス・フィルムが、ある都市ではテレビにまで放映されましたが、その直後に放映したテレビ局全体が警察に閉鎖されました。 「神はアフガニスタンでとても敏速に動かれるので、私達はただ遅れないように努力するだけなのです」と、あるアフガニスタン人のクリスチャンの労働者が、匿名を条件に話してくれました。 「指導者を養成することが、今いちばん必要とされています。 私達はこれらの新しい信者全員を世話するためには牧師を訓練する必要があります。」
*ウズベキスタン– ウズベキスタンでは、1990年にはキリスト教に改宗したイスラム教徒はいませんでした。 でも今は3万を越える人が改宗しています。
*イラク– 私がイースターの朝に「フォックス&フレンズ」というテレビ番組で話したように、イラクでは、サダム・フセインが全権を掌握した1979年には、キリスト教に改宗するイスラム教徒は、ほんの一握りでした。 然しながら、元々イスラム教であった7万を越えるイラク人が、今日イエスを信じています、そして1990ー91年の第一次湾岸戦争の後、ヨルダンに亡命した約5万人がキリスト教に改宗し、そして別に2万人がサダム・フセインが陥落してからキリスト教に改宗しました。 ジョシュア基金の幹部役員であるジョン・モーザーと私は、イラクの5つの州への9日間の旅から戻ったばかりですが、 私達は福音教会の指導者である19人のイラクの人達にお会いしました。 私はバグダッドからの100人を越える、元々イスラム教徒でイエスを信じるようになった人達の教会で、伝道する光栄に与りました。 そしてその教会は、バグダッドが解放される以前の2002年には存在だにしなかったのです。 そしてまた私達は、キリストに帰依し、今では牧師で教会を新しく作っている、たくさんの元イスラム教聖戦テロリストに会って、インタビューをする光栄に与りました。
*カザキスタン– カザキスタンでは、1991年にソ連が崩壊する以前には、福音派のキリスト教信者は、たったの3人しか知られていませんでした。 今日では1万5千人を越えるカザフ族のクリスチャンがいます。 そして、すべての民族を合わせると、10万人を越えるクリスチャンがいます。
*エジプト– エジプトの教会の指導者によれば、過去10年余の間に100万人を越えるエジプト人がキリストを信じるようになりました。 エジプト聖書協会の人たちが言うには、1990年代初頭には年間およそ3000本のジーザス・フィルムを販売していたものが、2005年には60万本を販売し、加えて(アラビア語の)テープに収められた聖書のコピーを75万本とアラビア語の新約聖書をおよそ50万部販売したそうです。 「エジプト人は神の御言葉に益々渇望しています」と、エジプトのクリスチャンの指導者は私に言いました。 昨年のクリスマスに、私は中東で最大のキリスト教の集まりを訪れる光栄に与りました。 そしてそれはカイロ郊外のとてつもなく大きい洞窟で行なわれました。 1万人余の信者が毎週末にそこで礼拝をしています。 2005年5月に開催された祈祷の会議には、2万人余の信者が集まり