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Walk With God Ministries


09 03月

私たちの霊性を保つためには ウェード・テーラー 2008年3月9日


私たちの霊性を保つためには

ウェード・テーラー


「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」(1コリント2:7)

私たちが受けている最も大きな賜物と祝福は、私たちが霊的に敏感であることと、それに飢え乾くことです。この飢え渇きと油注ぎによって、私たちは神の御言葉を通していただけるより深い啓示を理解することが可能になります。しかし、その飢え渇きは、放っておけば、徐々になくなって行き、ついには霊的に不毛の状態に陥ります。それを防ぐ方法は毎日、日課として神との霊的聖餐(コミュニオン)という個人的交わりを持つことをしっかりと維持して行くことです。

「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ書40:30-31)

私たちが霊性を保つためには、毎日、特定の時間と場所を「主を待ち望む」ために確保しなければなりません。これをすることによって私たちの霊のバッテリー(力)が充電されます。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、……地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

この主のご臨在を待ち望む時を持つことによって、私たちの人間的弱さにとって替る神の力を受け取ることができます。その力と霊的な強さは主のご臨在の中で主と交わる時に得ることが出来るのです。

「主を畏れる人に/主は契約の奥義を悟らせてくださる。」(詩篇25:14)

上記で「主を畏れる」とは主への畏敬の念を持つことであり、私たちが主の御前に出る時に、この畏敬の念によって私たちが集中して気を逸らさず一心に主を見つめることを可能にします。
人生で、私たちは二つの違ったレベルの命を持って生きていることを認めなければなりません。

「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」(1コリント15:44)

イエスと直接の個人的な交わりの関係を持つことによって、私たちの霊の命の働きが増しますが、それにつれて私たちのこの世のものに対する欲望が弱まります。私たちが日頃霊的にものを考えて行動するか、あるいは肉でするかによって、それぞれの命が強められたり弱められたりします。
私たちの霊的なレベルは、私たちがどれだけ主を待ち望むために時間を費やすかにかかっていますが、その主を見上げて主からいただこうとすることが消極的であってはなりません。むしろ主から何かを受け取ることを熱心に期待する積極性が必要です。それは待ち人が部屋に入ってくるのを今か今かと期待して待つのに似ています。主を待つ間、静かに主をワーシップし、又、主への私たちの心からの愛を表明することが大切です。

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。
… わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。」(
箴言8:17,21)
 
私たちが主への愛を心から表明すると主はそれに応えて下さり、このやりとりが私たちの霊的理解をより一層うながし(霊的関係を強め、より親密にする)主のご臨在に対する私たちの感受性を増します。私たちがより大きく主を期待する時に主の実質(サブスタンス)が私たちの中に流れ込んで来るのです。

毎日「主を待ち望む」時間を持つことによって、私たちが霊的に豊かになるために最も重要な霊の命と力の分与(インパーテーション)を受けることになるのですが、これに平行して、私たちの肉の生き方(ソーリカル・ライフ)を十字架にかけることを私たちは忠実に実行しなければなりません。そのような肉の(魂的)生き方は、私たちが主の御前で時間を過ごさせないようにし、それに替るような時間の過ごし方を提案します。このような、あらゆる私たちの霊的成長を阻止するものを総て主の十字架にかけることを決意・実行することによって私たちは霊の命と力を受けて霊的に成長するのです。

私たちが「主の臨在の中で主を待ち望む」ことをしっかり実行して行く時に、十字架にかけるというプロセスを通して、主は、私たちが主の御前に出て静かな時を過ごすことへの妨げとなるものを取り除いて下さいます。私たちは皆このプロセスを通らねばなりません。そうした後に、私たちは主が放たれる霊の命をフルに受け取るという経験が持てるようになります。これこそ主が私たちに望んでおられることなのです。

「主を待ち望む」ことはそれを実行すればする程、その能力が強まって行きます。クリスチャンは他のクリスチャンと親しい関係を持つことは望ましいことであることに違いありませんが、それが霊の飢え渇きを満たすものでは決してありません。私たちの霊は、上に挙げられ、主と縦の関係-親密で主ご自身との個人的な関係-を保持されねばならないのです。私たちが主に近づき主の御前で時間を過ごす時に、主がご自身を私たちに知らしめてくれますから、私たちは主とより親しく個人的に交わることが出来ます。

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)

私たちが完全に一人になって主とだけ時間を過ごす特別の時間を設定することは大変重要なことです。
「…… わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

主の御前で私たちが主を待ち望む時に、私たちの霊は命を与えられ、霊の領域に挙げられます。私たちが自分では何もしないでただ主を待つ時に主が働かれ、私たちのしたいこと(欲望)を正しいものに整えて下さり(リオリエント)、聖霊の領域によりオープンでより鋭敏になるようにして下さいます。しかし、この霊的に成熟するプロセスは、逆に私たちが自分の業で働く時に、主は私たちを待っておられ、霊的になることが妨げられます。

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、…」(ピリピ3:10)

私たちの霊的感覚が鋭敏になると 、主が私たちを主に引き寄せたいと願っておられることがよりはっきりと理解できるようになります。その結果、私たちは主と毎日交わる関係に入ることを熱望するようになるのです。これが発展して行くと、主のからだ(教会)と世界の国々に関する主のご計画に私たちが協力するように導かれます。

主を待ち望む時間を多く持つことによって霊的感性が増すと同時に、自然(肉)の領域における感性も鋭敏になります。しかし、より鋭くものが見えたり、感じたりする時に私たちは直ぐリアクトしたり報復に出たりしがちですが、そうするのではなく、そのより鋭い感受性を自分のうちにじっと持ちこたえることを学ばなければなりません。

「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。 多くのことが目に映っても何も見えず/耳が開いているのに、何も聞こえない。」(イザヤ42:19-20)

イエスは非常に鋭い霊的感性を持っておられたので、人間の心の中がよく分かりました。しかし、その場の状況に直ぐ人間的に反応(リアクト)することをなさいませんでした。主はご自分が天から来たこと、即ち、天の立場をよくわきまえておられ、総て人間としてではなく、天の父が言われること、父がなさっておられることにのみ従ってことを運ばれました。

私たちは自分の持っている信仰で生きることを学びます。そして霊の領域に上げられ、そこで預言的な理解をもって霊の世界に入って行きます。「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」(1コリント15:46)
「……朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。」(イザヤ50:4)

主のご臨在の中ですばらしい時を過ごすと言うことを始めても、最初は主とか主の臨在をほとんど感じることが出来ません。しかし、それを続ける時に私たちがそのことを期待し続けるがゆえに、肉の領域から霊の領域に入って行き、やがて主と主の臨在をはっきり
感じるようになります。
 私たちがどんなに忙しい生活の中にいても、「主を待ち望む」ための時間を取ることは絶対に欠かせないことです。そして、私たちがそうすることによって失望することは決してないでしょう。(終わり)


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07 03月

主はいかに私たちを愛しておられることか フランシス・フランジペン  3月7日



主はいかに私たちを愛しておられることか

フランシス・フランジペン

私たちが本当にキリストの臨在の中にとどまり憩うためには、神のまことのご性質をはっきりと知ることが大切です。神を愛情深い父であると見るならば、私たちは神に近づいていきます。しかし神を厳しい裁判官として見るならば、私たちは神から身を引きます。実際のところ、私たちの存在のすべては、私たちが神をどのように認識するかによって大きく影響され変えられるのです。

もし、神が私たちをいつも愛し心にかけて下さっていることを信じないならば、私たちは自分のことを自分で面倒を見ることに一生懸命になってしまいます。もし自分は大切な存在でなくて神から無視されていると感じるならば、自分の重要性を世間から認めてもらおうと努力して、くたくたになってしまうでしょう。

しかしながら、神が私たちを心から愛していてくださっていることに気がつくならば、そして神が私たちを常にみそばへ引き寄せたいと願っておられることが分かるならば、神の臨在の中に入っていける扉が私たちの前に開くのです。そして、いと高き方の住まいで私たちは安息し、魂を生き返らすことができます。

神の愛とは、私たちが何かで困っているときに無関心ではおられない、いてもたってもおられないと言う愛しいお気持ちで示されるのです。聖書には、主は「私たちの弱さに同情できない方ではありません。」(ヘブル4:15)とあります。
主は私たちが地上で経験する痛みを、共に感じてくださる方なのです。主は私たちが生きている人生に、参加してくださるのです。なぜならば、「私たちは神の中に生き、動き、また存在している」からです。(使徒行伝17:28)主は私たちの必要から遠く離れてはおられません。私たちは主のからだであり、主は私たちと一つです。

私たちは一人で戦っているのではない、という事こそ真理なのです。しかしながら、もし自分は一人ぽっちだと思うならば(即ち、神は自分のことなど気にかけてはおられない、という偽りを受け入れてしまうならば)、私たちの思いは暗くなり、神の愛のコミットメントから私たちを引き離し孤立させます。

愛する皆さん、たとえ私たちが神に逆らっているときにさえ、神の心は私たちから遠く離れてはいないのです。主とイスラエルとの関係を考えてみてください。イスラエルが罪を犯し、その結果、悲惨な状況の中にいるときも、主は遠く離れてはおられませんでした。聖書には、主は「イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった」ので、解放者たちを立てられたと書かれています。(士師記10:16)神は遠くではなくイスラエルと共におられ、彼らの苦しみをご自身が実際に負っていてくださったのです!

ラザロの墓でイエスは涙を流されました。イエスはご自分がもうすぐラザロを生き返らせることを知っておられました。ラザロを死から呼び戻す6日前に、主はすでにそのことを御存知でした。しかし、それでもイエスが涙を流されたのは、人々が泣いて悲しんでいたからです。

神の御霊は私たちの心の痛みを実際に感じられることを、あなたは御存知ですか? 主は私たちが戦っているときには共におられ、私たちが恐れているときにはそば近くにいてくださるのです。ある人たちは、ラザロの墓でキリストが泣かれたのは、御自分に弟子たちの不信仰を嘆かれたからだと解釈します。私はそうは思いません。ラザロの墓で涙を流されているキリストを見た者たちは、人々の悲しみを共に感じられた人を見たのです。そして彼らは「御覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」(ヨハネ11:36)と言ったのです。

私たちの癒しは、主がどんなに私たちを愛しておられるかを目の当たりにするときに起こります。主が私たちの墓にこられ、名を呼んで死から呼び出されるときに私たちは死からよみがえらされるのです。

私たちは、神の愛を自分個人のものとして受け取らねばなりません。神は、私個人の罪のために御子を与え、私個人を導くために御言葉を与え、私個人に力を与えるために御霊を送ってくださったのです。全能の神が私の味方ならば、誰が私に敵対できるでしょうか?

愛する皆さん、驚きの目を大きく開いて、主がどれほど私たちを愛しておられるかを見ようではありませんか。そして孤立してしまうことから癒されましょう。(終わり)


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