Walk With God Ministries
Archive for 2月, 2008:
24 02月
世の終わりに良い麦と毒麦が分けられる
1コリント4:5「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」
最近、私の最初の本である「主を見つめて待つ」の在庫がいよいよ底をついたので、この本の増版を準備することを思わされております。その際に本文で何か変更する部分があるかどうかを調べる意味もあって、もう一度久し振りに読み返してみました。
そして、一つだけ気になったことがありました。それは三章の「天の御国」で、マタイ13:3-9に出てくる「種蒔きの話」を引用し、「神を信じると告白した人には四つのタイプがあること」を紹介しました。それに続いて、次の「良い麦と毒麦」という副題の中で、別のたとえ話である毒麦(マタイ13:25-30)のたとえにおいて、上記の四つのタイプのうちどれが当てはまるのかを考えてみました。そして最初の三つ、すなわち、「道端に蒔かれる=一旦は信じるが、直ぐ悪魔が来てその種が取り去られる人」「岩地に落ちた=聞いてすぐ信じ喜ぶが、困難や迫害が起るとつまずく人」「いばらの中に落ちた=確かに信じるがこの世のことや富に気を取られ、真の霊の実が結ばない人」がそれに相当する毒麦ではないかという疑問を投げ掛け、とどのつまり、良い麦とは四番目のタイプの人「良い地に落ちた=信じて霊的に悟り、三十、六十、百倍に霊的成長の実を得る人」だけであるという提案をしました。
今回読み返してみて、私は、これは少々言い過ぎであったかもしれないという疑念に駆られたのです。そして、言い方をやわらかくする、つまりもっと“あいまい”にした方が良い、そのためにはどのように変えるか、その下書きまで書いてみたのですが、同時にこの本は私が書いた本であっても私が書いた本ではない、聖霊様が私を通して書かれたのである以上、聖霊様に聞く必要があることに気がつかされました。そして祈りました。
その結果、約二週間後に主は次のような答えをクリスティーン・ビーズウォースという方のメッセージを通して下さったので、それをお分かちさせていただきたいと思います。
ビーズウォースさんは、これから終末に向かって毒麦が良麦から分けられると同じように、闇が光から、偽物が本物から分けられる時代に入っていると言います。これは聖書を通しての神のご計画であり、その型は旧約聖書に見ることができると指摘します。
その一つはルツ記に出てくるモアブの女ルツとオルパという二人の嫁の対比です。夫と共にききんのためベツレヘムからモアブに移って来たナオミは、夫に死に別れた後に二人の息子がそれぞれモアブ人の娘を嫁に迎え10年を過ごしましたが、やがてその二人の息子も死んで、未亡人が三人残されました。そこでナオミはユダの地に帰る決心をし、二人の嫁にモアブの母親のところに戻るように強く勧めたところ、オルパはやっと泣き泣きナオミの言うことに同意して去って行きました。しかし、ルツはどうしても姑の後をついて行くといって聞きません。その時ナオミはルツに「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」(ルツ記1:15)
これに対してルツは「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(16,17節)と答えました。
なるほど、この異邦人の女である二人はユダヤ人と結婚して10年間本当の神を知り、言ってみればクリスチャンになったと言う事が出来ます。(私たちの立場と似ています。)しかし、事変が起きた時に、真の神を信じる者としてその神のいる国(御国)に留まるか、元の異邦人(この世)の神に戻るか、この二人はそれぞれ10年間の信仰の試練を受けた後に、その真の本心があらわにされたのでした。神は秘めた心の奥を見ておられ、神に懸命にしがみつく人のみが最後に御国に入ることが暗示されています。
主は十二人の弟子たちにも聞かれました。「あなたがたも離れて行きたいか」 シモン・ペトロがそれに答えて「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と言ったことが思い起こされます。(ヨハネ6:67-69)
しかし、毒麦と良麦を分けることに関して、旧約聖書にはもっと厳粛な教訓を見ることが出来ます。その代表的なものはヨシュア記です。
ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、ヨルダン川を渡って約束の地に入ることをゆるされた精鋭のクリスチャンばかりであったはずです。その約束の地にはカナン人、ヘテ人、ヒビ人等七つの屈強な異邦人が生存していました。彼らはその強敵を駆逐して自分の相続地を確立せねばなりませんでした。
彼らが最初に勝ち取ったのはエリコでしたが、その時神は、この(異邦人の)町とその町の中のすべてのものを主のために聖絶するように命じ、イスラエルの民は聖絶のものに手を出すなと念を押しました。しかし、アカンが聖絶のものに手を出すという罪(この世に対する執着)を犯した結果、次の町アイで早くもイスラエル軍は敵に背を向けて逃亡するという屈辱を味わいました。
そのアカンに制裁を加え、彼が盗んだものすべてを火で焼くことによって神の怒りは収まり、その後はイスラエルの民の前に主ご自身が闘われることによって異邦人を聖絶する作業は進められました。そしてイスラエルの部族にはそれぞれに安住の相続地が与えられました。
しかし、ヨシュアはイスラエルの民の中に密かに先祖が川向こう、およびエジプトで仕えた神々を捨て切らないでいる者がいることを知っていたので、「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24
23 02月
殉教者の祝福
ローレン・カニングハム(Making Jesus Lord からの抜粋)
「何の代価も払わなくてもいいキリスト教は、即ち、何の価値もないキリスト教だ。」という言葉を聞いたことがあります。イエスご自身は、「主の命令に従うものは天の父に愛され、必ず偉大な奇跡を見るであろうが、それと共に迫害と艱難をも受けるであろう。」と言われました。
ワイワム(ユース・ウィズ・ア・ミッション)創立から最初の16年間は、世界中で何千人というワイワムの若者が危険を伴う状況の中で働いていたにもかかわらず、命を落とす者は一人も出ませんでした。
アナリーとマリアという二人のフィンランドの女性はザンビアの村に宣教師として住みはじめ、土間に敷かれた藁の上に寝袋をおいて寝ていました。一週間の間、寝るときにいつも片方が「何か聞こえない?」ともう一人に確かめました。というのは、微かな物音が聞こえたようだったからです。すると、もう一人が「何も聞こえないわ、大丈夫よ。」と答えて眠りについていました。一週間経って、二人は小屋の掃除をすることにしました。すると彼らが寝ていた場所の藁の下にコブラの巣があるのを見つけたのでした!
また、交通事故も何回か起こりました。車が何回転もするような、死者が出ても不思議ではないような事故の時も、誰一人死にませんでした。バハマのロング・アイランドで、みんなの乗っていたバスのブレーキが突然きかなくなり、道路から落ちてあわや、大木に激突するという瞬間、急にその数インチ手前で止まったのです。みんながバスから降りて見てみると、太い蔓が車軸に何重にも絡んでしっかりとバスをひきとめていたのでした。
16年の間には急病人も出ましたが、医者が必ず間にあうように見つかったり、人里離れたところでもたまたまそこにパイロットが飛行機を着陸させたので、病人を運ぶことが出来たりしたのでした。ワイワムの働き人たちは、宣教活動をして逮捕されたり投獄されたりはしましたが、1960年から1976年までは、全く一人も死ななかったのです。何千人もが働いていましたから、統計学的に言っても誰かが自然死したり、事故で死んでも当然でした。しかし、誰も死ななかったのです。私たちは不思議な世界に住んでいるようでした。
そして1976年に、主が私に語られたのです。その時までワイワムが基礎固めをしていた期間、主は私たちの上に特別の守りを下さっていたけれども、これからは死者も出るであろう、と主は告げられたのです。そして、やがて私たちはキリストのために迫害され殺される殉教者たちも見るようになったのです。
私は主からのこのメッセージを、その年の7月にモントリオールのオリンピック大会での伝道のために集まっていた1600人のワイワムの働き人に話しました。そしてそれから6ヶ月のうちに、最初の二人の死者があり、その後も死者は出たのです。フィリピンで3人の宣教師が殺害されましたし、アフリカでは熱帯病のために死者が出ました。死者が出ると私は遺族に電話をして、その方の愛する娘や息子、又、父や母の死を伝えなければなりませんが、その時の私の心の痛みはいつも大きいのです。
主の軍隊の兵士の中に死者が出ないとは、主は決して約束しておられません。イエスは弟子たちを伝道に遣わすときに、主と福音のために彼らは死をも経験するであろうと言われました。人のために命を捨てることほど大きな愛はない、とも言われました。また、地に落ちた一粒の麦のように、落とされた命は人のために100倍の実を結ぶであろうと言われました。
マイクとジャニス・シェリングは殉教者となった夫婦でした。マイクはニュージーランドの出身、ジャニスはアメリカのミネソタ州の出身でした。彼らはワイワムのフィリピンの働きの中で知り合い、恋におちて結婚しました。そして、フィリピンの山の中で2歳の娘と3ヶ月の息子と共に暮らしていました。その近くに住んでいる部族に福音を伝えるチームのリーダーとして働いていたのです。
ある夜、マイクとジャニスは彼らの家で殺害されました。翌朝、宣教師の仲間が血に染まった彼らの死体を発見しました。3ヶ月の赤ちゃんは2階のベビーベッドの中に無事でいました。2歳の女の子は母親の死体の上で眠っているのが発見されました。多分、彼女は夜が明けてから両親を探しに階下におりてきて、母親の体を見つけたのでしょう。この事件の犯人は見つかっていませんが、残された証拠から、多分、彼らが宣教しようとしていた部族の中の一人の仕業であろうと考えられています。
マイクとジャニスの訃報を聞いたとき、私はニュージーランドにいました。私は押しつぶされそうに感じました。2歳の子供が母親を探してあて、その上で丸くなって眠っている姿が脳裏から消えませんでした。私は主に叫びました。それは、特別の守りを取りさると主が告げられてから9年後のことでした。
「主よ、あなたの守りはまったく無くなってしまったのですか?」と私は主に叫びました。それから数日後に、主への問いかけに対するドラマティックな答えを私はいただくことができたのです。
7人の医療関係の働き人がカンボディアとの境界線にそってタイ側をワゴン車に乗って次の任務地へと走っていました。突然、黒装束のゲリラたちが道に踊り出てきて、機関銃で車に銃弾を浴びせてきました。明らかに境界線あたりで戦っている徒党の一群と彼らを見間違えたようでした。私たちのメンバーは車の床に伏してじっとしていましたが、窓という窓はすべて壊され車体も蜂の巣のようになりました。伏しているみんなのすぐそばを銃弾が音をたてていくつも飛んでいきました。
やがてすべてが静かになったので、みんなが車からそっと出て調べてみると、怪我をしたのは一人だけで、それも頭を銃弾がほんの軽くかすっただけでした。みんなは自分たちの車を見て驚きました。車体は穴だらけで、座席はすべて弾でずたずたにされ、エンジンも壊れていました。それなのに、彼らは全員無事だったのです。私がこの報告を聞いたとき、それは主が「ローレン、ほら、わかっただろう。ワイワムの人たちはまだ私の守りの中にいるんだよ。」と言われているように感じました。
ヘブル人への手紙の11章は偉大な信仰の章です。そこには命を得る信仰、紅海を分ける信仰、富を投げ出す信仰、エリコの城壁を崩す信仰、ライオンの口をふさぐ信仰等を持っていた人たちのことが書かれています。また偉大な信仰をもって死に面した人たちのこと、即ち、石打に
14 02月
あなたが今何を信じるかをはっきりさせなさい
キャシー・ウォルターズ
ナイアガラの滝のヴィジョン
神の偉大なムーブメントのことを考えると私たちはわくわくします。その時には「魂が救われ、癒しや奇跡が起こり、神の臨在が顕れる」と思うからです。1948年から1952年にかけて起きたスコットランド西部ヘブリディーズ諸島リバイバルでは、実際に神の臨在が人々を追いかけ、その結果、町中が救われたのでした。(詳しくは私の著書Bright Shining Revivalを参照ください)
数年前、神がこれから始まる神の働きはナイアガラの滝のようであることを見せてくださいました。その幻の中で私は激しく渦まく水の中に立っていたのですが、その渦の勢いでだんだんと滝のほうに引き寄せられていきました。滝つぼに近づくにしたがってゴウゴウという音は激しくなり、私は恐ろしさを感じました。神が「滝の下に入るのはどうですか?」と私に訊かれました。
神の力とは圧倒的なものであって、私たちが自分の意心地の良さの範囲内にとどめておくことは出来ません。神に全く明け渡している人たちがいれば、たとえ主の働きを拒む頑固な人が少しいたとしても神はそのような人たちを無視して働いてくださいます。しかし、過去のリバイバルを見てみればわかるように、もし人々が神に逆らい続けるときには、主はやがてその地を去っていかれるのです。すべてのリバイバルは人間がコントロールしようとしたときに終わりをつげ、神の霊は逆らい続けるものがいるところから身を引かれるのです。私たちは神の御心が何であるかを見分け、神が私たちのためにされようとしていることを知らねばなりません。敵は神の御心とは反対の方向に私たちを連れていこうとします。私たちの生き方やライフスタイルが変わらないようなリバイバルなどありえないのです。
今年は多くの「突然」が起こるでしょう! 備えをしてください。常に戸のすぐそばにいてください。戸はすばやく開かれ、すぐ閉ざされるからです。あなたに神が「突然」戸を開けてくださったとき、躊躇していてはいけないのです。あなたがそこから入ることをやっと決心したときには、もう戸が閉められているかもしれないからです。
隠されたこと、特異な出会い、聖霊の動き
神が現われるときは勿論奇跡も起きますが、それと同時に多くのものが揺り動かされます。その一つとして、今まで隠されていたり眠っていたいろいろなことが、表面に現れてきます。すべてのことがうまくいっていて、人々も幸せそうであり、何も問題がないかのように見える教会に行ったことがあります。しかし、神が顕れはじめると、それまで肉の目では見えなかったことに神の光が当てられて、多くのことが突然はっきり見えるようになります。そしていろんなことが揺さぶられはじめます。毎週日曜ごとに教会に来て幸せそうに見えた人たちが、今までは見えなかったものを見て突然腹を立てたりします。ある人が罪を告白し始めると、人々はとても居心地が悪くなります。ある人がしくしく泣き始めたり笑い始めたりすると、それで居心地が悪くなる人たちもいます。
何年も前、主人のディビッドと私はある団体のカンファレンスで奉仕をしていましたが、そこで神の顕れが大いにありました。霊的なリバイバルの中に私たちは誕生させられ、主の臨在を何度も見ることができたのです。イギリスの南の海岸沖の島にあるキリスト教のゲストハウスに私たちは滞在し、それに付随しているホールで集会を開いていました。神が動かれ私たちはすばらしい時を過ごしていました。日曜の夜の集会がすんだので、ほとんどの人はゲストハウスにもどり、お菓子を食べていましたが、若者たちが数人ホールに残っていました。彼らは輪になって立ち、主を礼拝していました。そのうちの一人は、その朝救われたばかりのティーンエイジャーの青年でした。
私たちがゲストハウスでお茶を飲みながら談笑していると、ホールの方から走ってくる足音がして、「ディビッド、キャシー、早く!」と叫ぶ声がしました。私たちがホールに入っていくと、若者たちはまだ輪になって立っていましたが、救われたばかりの若者は床に膝まづいて右手をのばし、輪の中の一人一人を指さしていました。彼が腕を動かして、輪の中のある一人を指さすと、指差された者は床に倒れ、神の霊に動かされて罪を告白しはじめました。他の若者たちは逃げようとしましたが、足が床に張り付いて動けませんでした。私たちは最後の一人が床に倒れるまでただ見ているだけでした。神によってこのように用いられた若者は、何が起こったのかを後で何も覚えていませんでした。
私たちはゲストハウスにもどり、ホールで起こったことを数人に話しました。人々はまだお茶やコーヒーを飲んだりお菓子を食べていました。突然、私たちはある音を聞きました。それはどんどん近づいてくる列車のように聞こえました。ホールを覆っていた神の臨在が、いまゲストハウスのほうに動いてきたのです。人々は神の臨在に覆われる前にあわててコップやお皿を置こうとしていました。(この現象を私は説明できませんが、人は神の臨在に覆われるのを察知することは確かなようです。)神の臨在(列車)が人々を覆ったとき、彼らは床に倒れ、泣きはじめ、お互いに罪を告白し始めました。しばらくたって神の臨在は去りました。人々の顔は涙の跡で汚れてはいましたが、輝いていました。神の栄光が彼らの上にありました。
次に聖霊は、子供たちがすでに寝ていた2階へと移っていかれました。聖霊は彼らの上に臨まれ、起し、彼らの心を取り扱われました。子供たちは突然、泣きながら階段を走りおりてきました。ついでに申し上げますが、神は子供をのけものにすることはありません。小さな聖霊というものは存在しないのです。私は前に部屋中の大人たちと同様、部屋一杯の子供たちが霊で天国に上げられるのを見たことがあります。神の臨在の中では大きな喜びがあります。主は御霊によってあなたを連れ去りたいのです。
ヘブリディーズ・リバイバルの中で、とりなし手たちに肉体離脱が起りましたが、それが一度起ると一週間も自分の肉体を離れていました。これこそ「アバンダンメント(すべてを放棄して神に委ねきること)」です!(先述の拙著に詳しく書かれています)私はこのような聖霊の働きを何度も見てきましたが、こういうことが起きたとき腹を立てる人がいるのです。それは大抵、宗教の霊や古い考え方のせいです。ある人たちは、人間が神に全面的にコントロールされることに不愉快な気持ちを持ちます。神
が完全に支配されるとき、いかなることも起こりうるのです。
アバンダンメントの霊を持て~そして何を信じるか今決めなさい
アイルランドで5世紀から6世紀にかけて、ペレグリニと呼ばれる修道士たちの群れがいました。彼らはアイルランドの海辺から小さな舟に乗っていろいろなところに行っていましたが、その舟には舵も櫂もなく、ただ帆だけがついていました。神の御計画の場所に着くように、神が必ず風を送ってくださることを信頼しきっていたのです。そして彼らは驚くべき数々の冒険をし、神との出会いを経験しました。これを私は「神の目的のための霊的アバンダンメント」と呼びたいと思います。もしあなたが、本当に神の力が訪れてほしいと望むならば、この姿勢をとることが必要です。別に舟に乗る必要はありませんが、神の目的のためには同じアバンダンメントの霊を持たねばなりません。自分が神にむかって、何を、どのようにするかという指示をしようとするばかりではいけないのです。神に本来あるべき神になっていただくのです。
神はご自分の息子、娘たち―彼らはいと高き神の息子、娘です―が立ち上がり神が召された姿になるのを待っておられます。主はあなたが主のためにただ働くことを望んではおられませんし、世界中を駆け回られて御国の働き手を雇おうとしておられるのでもありません。どうか真の油注ぎの中に入り、油注ぎの中にとどまることを学んでください。なによりもペレグリニたちのように、主のすばらしい目的のために主にすべてを委ねるアバンダンメントの霊を持ってください。あなたが必要なものはすべて、あなたの人生に注がれる神の油の中にあります。神は御自身の願いを既にあなたの心の奥深くに入れておられますから、あなたがあなたの人生を完全に主に委ねるときに、既にあなたの心の中にある御心に従うことが、あなたにとっての喜びとなるのです。詩篇の作者が詩篇40:8で「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。」といっている通りです。
私の友人であるアラスカのアラン・ライデン牧師は、最近、自分が乗っていた船が転覆して、10メートルの荒波の上を10時間漂流していました。彼をやっつけてしまうのが間違いなくサタンの魂胆でした。彼がこの事故に遭遇する前に自分は何を信じるかをすでに決めてあったことは幸いでした。自分の置かれた状況について疑問をもったり答えを出そうとする時間は、彼にはなかったのです。彼はその時、ただ神にすべてを委ねました。
自分が一番願うことは何なのかを決めるのを、神が強く動かれるまで延ばしてはいけません。何を信じるかを決めるのを危機に襲われるまで延ばしてはいけません。自分が何を信じるか、今決めなさい。癒しに関してどう信じるか決めるのを、病気にかかるまで待っていてはいけません。自分の人生に神の川が流れるのを望むかどうか決めるのを、神が動きはじめられるまで延ばしてはいけません。その時あなたは神の川に飛び込まないで、何が起こっているのかを見極めようとして土手に突っ立ったまま貴重な時間を費やしてしまうことでしょう。川は時として、静かな流れではなく荒れて恐ろしく見えるかもしれません。でも神がされていることなら、絶対大丈夫ではありませんか?
私たちは、神に対してアバンダンメントの霊を持たねばなりません。私の集会に来る人たちは、神に対して「主よ、なんでも、どのようにでもしてください。」といって神にすべてを明け渡しています。そう言うのはとてもいいことですから、これからもそう言っていてください。「なんでも、どのようにでも」という心を持っていてください。結果は必ずすばらしいものとなります。今こそ備えをするときです。今こそ自分が何を信じるのかを決めるときです。(終わり)トップへ戻る
08 02月
2008年は人々をその人に定められた人生のゴール(最終目的地)へと解き放つ年
キャロル・ケリー
新しい年、新しいシーズンを迎えるのは心楽しいものです。昨年の初頭には、主はたくさんの預言者を通して、2007年は多くの人々にとって変化と移り変わりの年になると言われました。ボビー・コナーは「急速な変化が起こることを予期せよ」と預言しました。私は「変化」を特に好むわけではなく歓迎するわけでもありませんが、昨年はこの預言の言葉を心に受け止めて、これから起こるであろう変化にうまく適応できるよう、力を与え助けてくださいと主に祈りました。
そして実際2007年には私と私の家族の上に多くの変化が起こり、その中で主は私の祈りに誠実に答えてくださいました。喜ばしく記念すべき出来事もありました。長男の結婚や次男の大学卒業、末の娘が18歳になり高校を卒業したこと等ですが、それがすべて2ヶ月の間に起こりました。また、私の母の健康状態が急激に変化しました。彼女はアルチハイマーと闘い、骨折もし、そして命を脅かすような感染にかかり、ついに12月4日に天へと卒業していきました。
人々を解き放つ
今月の初め、主が私に語られました。2007年に起こった多くの変化・・・結婚、卒業などで子供たちが人生の次のページへと進んだこと、母の容態が悪化して死を迎えたこと・・・は、すべて人々を自由にし、それぞれの人生のゴールへと解き放つことと関係があると主は言われたのです。2007年に人々を解き放ったのは、主に目に見える世界で起こったことだけれども、2008年には霊的な領域で人々をゴールへと解き放つことが加速度を増すであろうと、主は言われました。昨年、目に見える形で起こったことが、新しいシーズンに起ころうとしている霊的なことへの準備となったのです。
第一コリント15:46に「最初にあったのは、血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」とあります。
神は聖霊の力と賜物を、今までよりもますます大きく解き放たれておられます。それを聞いてあなたは喜ばしいと思いますか? それとも他の人と自分を比べて、神は自分を見過ごされていると感じ脅かされますか?
ローマ12:6-10には次のように書かれています。「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
また、ピリピ2:3-4でパウロは次のように言っています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」
イエスは弟子たちに、主に従おうとするものをたとえそれが子供であってもとどめてはならないと言われました。(マタイ19:13-14、マルコ10:13-14、ルカ18:15-16)十二弟子の一人のヨハネは、自分の仲間ではないという理由で、悪霊を追い出している人を止めようとしました。その時イエスはヨハネに「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」と言われました。(ルカ9:49-50)
ヨハネは自分の仲間以外の者に対して競争心があったばかりではありませんでした。彼と兄弟ヤコブの二人は、神の御国で他の弟子より勝った特別な地位につきたいと願いました。(マタイ20:20-24、マルコ10:35-41)しかし主は、私たちの人生のうちに働いてくださっているように、ヨハネの人生のうちにも働いていてくださいました。長い年月が経ったとき、ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれるようになっていました。それは、彼が主と主の子どもたちに対する偉大な愛を持っていたからでした。
ヨシュアの人生
私たちはヨシュアが神の民を導いた偉大なリーダーだったことを知っています。しかし、彼も自分に自信がなく不安な気持ちを抱いていた時があったということは忘れがちです。彼がまだモーセの従者として「訓練中」だったとき、ヨシュアは他の者たちが預言をするのを妨げようとしました。(民数記11:24-29) 29節でモーセは「あなたは私のためを思ってねたみを起しているのか。主の民がみな、預言者となればいいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるといいのに。」とヨシュアに言っています。
もし他の人をねたんでいると、彼らに与えられた能力や賜物が神の目的のために用いられることを阻むことになります。主が私に言われたのですが、少しでも他の人へのねたみ心が自分にあると感じたならば、すぐに彼らを神から召されているゴールへと解き放ち、同時に、彼らが私よりも認められたことを妬んだり威嚇されたと感じる「権利」をも私が放棄せねばならないときなのです。
主は私たちの人生のうちに働いておられると同じように、ヨシュアの人生のうちに働いていてくださったのです。ヨシュアがイスラエルの民に約束の地を継がせることを、神は預言的に語られました。(ヨシュア1:6)ヨシュアはイスラエルの民がヨルダン川を越えて神が約束された新しい地を見出すのを助けました。(ヨシュア1:13,15 および3章)
ヨシュアは探検家でした。他の11人と共に彼はモーセによってカナンの地の探検へと遣わされました。(民数記13章)それからほぼ40年後に、今度はヨシュアがジェリコの町を調べるためにスパイを送りました。(ヨシュア記2章)パイオニアや開拓者が行く前に探検隊がまず行き、そこで発見したものをみなに告げて、彼らが勝利を得るための作戦計画を練ることができるようにするのです。
私たち全員がヨシュアのように国家や教会、または聖書研究会を導くのではないでしょう。しかし、私たちは全員、人々が神から召されたゴールに到達するように彼らを助けて解き放つことはできます。彼らが神から召された通りの者になれるように解放するのです。それは尊敬、愛、サポートを示し、主から与えられているすべての賜物を祝福し、励ますことによって出来ます。ヨシュアは神からの召しを達成するために、主だけではなく他の人々からも励ましとサポートを受けました。
モーセはイスラエル人全
02 02月
冷えた愛という要塞
フランシス・フランジペン
あなたの愛は、ますます成長していて、よりやさしく、より輝き、より大胆で、より顕著になってきていますか? それとも、より一層分け隔てをし、計算づくで、自分を守ることに一生懸命で、出し惜しみをしていますか?これはとても重要な問題です。なぜならばあなたのキリスト教信仰のリアルさは、あなたの愛がどれだけリアルであるかにかかっているからです。あなたの愛する力が、もし明らかに減少しているならば、それは冷えた愛という要塞があなたの中に作られている証拠です。
赦さない思いから身を守れ!
「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24:12)
敵が教会に挑んできている大きな戦いは、教会同士の関係です。サタンは、分裂した教会は立つことができないことを知っています。私たちは一時的には祝福を受けたり、ブレークスルーを経験するかもしれません。しかしイエスは今、町を勝ち取るために町全体の一致団結したキリストのからだを形成しておられます。そしてこの一致団結して勝利を勝ち取っていく「教会」は、愛を貫くコミットメントを旗印としているのです。しかしながらこの終わりの時、不法が増し加わるためにクリスチャンの真の愛は手痛い打撃を受けることになるでしょう。
愛のないところには霊的一致もなく、故に永続的な勝利もありません。愛とは、一つになりたいと願う情熱です。それと反対に、苦々しい思いは愛の欠如を明らかにあらわしています。冷めた愛はサタンの要塞です。今の世の中には冷めた愛がますます広がっています。冷めた愛は祈りの力を閉ざし、癒しとアウトリーチの流れを止めてしまいます。人々の心や教会の中に赦さない思いがかたくなにこびりついていると、実際に悪霊(の世界)はそこに自由に出入りすることができるのです。
聖書は、苦い根はたとえ小さなものであっても芽を出して多くの人を汚すと警告しています。(ヘブル12:15参照)苦い思いは、報復をしたいのにそれが出来ないときに心に生まれます。人の気持ちを考えない人とか情け知らずの人から容赦のない言動を受けると、私たちは深く傷つくことがあります。この世はますます世知辛く残酷になってきていますから、傷つけられることがどうしても起こるでしょう。その時に、もしも傷つけた者に対する怒りを自分の霊のうちにずっと抱いていると、それは必ず私たちから愛する能力を奪ってしまいます。気づかないうちに、私たちは終末の時に警告されている愛が冷えてしまう大半のクリスチャンの一人になってしまうのです。
苦々しい思いがあるのは、あなたの心の中に冷えた愛の要塞があることを端的に示す症状です。冷えた愛への対処は、悔い改めて自分を傷つけた人を赦すことです。あなたが痛手を受けた事件は、敵を愛することをあなたに教えるために神が許された事だったのです。もしまだ赦していない人がいるとすれば、あなたは神のテストに失敗したのです。幸いなことに、それはただのテストであり卒業試験ではありませんでした。私たちは神のような愛を成長させる機会を神が与えてくださったことに心から感謝すべきです。あなたの人生が苦いしい思いや(傷つけられたことに対する)憤りに飲み込まれなかったことを神に感謝してください。毎日、何百万という魂が苦々しい思いから逃げる望みもなく、永遠の裁きへと向かっているのです。しかしあなたは、痛みに対する神の答えをいただいています。神は逃れる道を与えてくださっているのです。それは愛することです!
私たちが神の愛を胸に抱きキリストのように人を赦し始める時に、私たちは自分の心の中の冷えた愛の要塞を実際に打ち壊わしているのです。そしてこの経験を通して、私たちは以前よりもっとキリストの愛を持つ者となります。
コミットメントのない愛は愛ではない
マタイ24:10-12「そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」
はっきり言わせていただきますが、コミットメントのない愛などというものは存在しません。その人の愛は、相手に対するコミットメントの深さによって測られるものです。「私は以前愛したこともありましたが、傷つけられました。」とか「教会のために働いていましたが、人々は私を利用しただけでした。」というような言葉を私たちはよく聞きます。もしあなたがコミットメントをやめるならば、それは即ち愛することをやめることなのです。コミットメントが冷えるのではなく、愛が冷えるのです。そういう人は一見、愛が冷めたようには見えないかもしれません。 以前と変わりなく教会には出席し、賛美を歌い、「よいクリスチャン」のように見えるかもしれません。しかし、内側はかたくなになり、他の人々との交わりを持たなくなります。彼らは愛から身を引いてしまったのです。そういう人のコミットメントは浅いので、些細なことで気分を害します。
イエスは「つまずきが起こる事は避けられない・・・」(マタイ18:7)と言われました。毎日の生活の中で、たとえ善良な人であっても調子の悪くなる日は必ずあるものです。地上で生きている限り、あなたの歩いていく場所につまずきの石が全くなくなることはないでしょう。私たちは大きな岩ではなく小石、些細なこと、につまずくのです。つまずくとは、歩くのをやめて転んでしまうことです。あなたは最近誰かの弱さや罪につまずいたことがありますか? あなたはすぐに起き上がって前と同じように愛し続けましたか?それとも、愛のうちに歩くことをやめてしまいましたか? 私たちの心の愛を純粋に保つためには、自分をつまずかせた人を赦さねばなりません。
人を赦すことを拒んだり、人の弱さを見逃してあげない度に、あなたの心は彼らに対してだけではなく、神に対してもかたくなになっていくのです。ある人に対して否定的な思いを持ち、それが心の中で固まってその人に対する態度となってしまうことを、あなたは自分に絶対に許してはなりません。もしそれを許せば、その度にあなたの心のある一部分が神に対して冷えていくのです。「自分は神に対して心を開いている」とあなたは思うかもしれません。しかし、聖書ははっきりと言っています。「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(第一ヨハネ4:20) たとえあなたがその人