Walk With God Ministries
Archive for 10月, 2007:
30 10月
5768年はシンプルで新しい出発の年にしよう(1)
チャック・ピヤース
私は長年にわたって年毎にユダヤのカレンダーを取り寄せ、その年の年号の数字の意味を考えます。そして、その年の主のご計画を思いつつ、新しく迎える年をどのように過ごすべきかを祈って来ました。私たちが主に仕え、主の王国のご計画を求めるとき、主は新しい年を迎える毎に、私たち一人一人に新しいチャレンジと新しい喜びを用意していて下さると信じます。ヘブライ数字には数字にそれぞれ意味がありますから、その意味を知ることによって、私と家族それに私と親しい人たちのために主がその年に用意していて下さることの内で、年の初めに何を宣言布告すればよいかを知る助けとなります。
神の御心を知るためにヘブライ語を理解しなければならないとは思いませんが、ヘブライ語では、数字に言葉としての意味以上に、絵としての意味、又音声をも持つのです。と言うことは、新しい主の年2008年に入ったと単に言葉で言う以上に、ヘブライ数字の年号を見るとフルに描写された絵画的理解、見解が得られます。ヘブライの年5768年は、グレゴリアン・カレンダーで2008年に当たりますが、それは「Samekh Chet!の年」であり、それは「一つのサイクルの完了の年―新しい始まりを自分のものと宣言せよ!」という意味です。
時と言うのは興味あるコンセプトです。神は私たちと違って、時の流れの中で生きてはおられません。私たちの父は、私たちの人生の初めから終わりまでのどの瞬間にでも、あたかもそれがいつも現在の時であるかのように立ち入ることが出来ます。私たちが今までに人から見捨てられたり、傷つき、裏切られ、恐れたとき、あるいは、楽しかったり、満たされたとき、又、他のどんな感情とか状態の中にあった時にも、私たちはその時の中に聖霊の力で入っていくことが出来るのです。神を信じる人は、過去に犯した罪を赦されるだけでなく、神と一緒にその時点までさかのぼり、その過去の時点に現在形としてご臨在される神が助けて下さるのを見ることが出来ると共に、敵が悪用しようとした過去を贖ってくださり、回復して下さるのを見ることができるのです。
時の中に足を踏み入れる
永遠と言う時の全部が一枚の大きな紙で表されていると想像して下さい。そこが、時間と空間に全く制限されずに、神がおられるところです。次ぎにその紙の上に一本の線を描いて下さい。その線が、初めと終わりがある「時」を表しているとします。この線は、神がこの世を創造をされて「時」というものを作られた時点から始まっています。そして、神が「これで終わり。それまで!」と言われる時がこの線の終わりのポイントです。人間はその線上で生きています。神はご自身の計画と目的に従って、その線上のどこにでも、いつでも出たり入ったり出来ます。神は常にどの時点をも一度に全部見ることが出来、何かが起るのを待たねばならないと言うことはありません。神にとっては総てが現在として見えているのです。この説明の仕方が時と言う複雑な考えを最も簡単に説明し、ご理解いただけると思います。
しかしながら、私たちは「時」の中で神に応答することを学ばなければなりません。私たちは、自分の生きている時代のキリストの大使として主を代表するように召されております。私たちがする決定と行動は、三世代先まで影響を与えます。ですから、主が私たちに何を望んでおられるかを知り、それに従って私たちが応答するとき、主の栄光が地球を満たし、この地上の環境と霊的大気が主によって変えられるのです。神の「時」とのこの自由な関係のゆえに、神は私たちが祈りの言葉を口にする前にすでに答えて下さることが可能であり、実際、度々そうなさるように思えます。
神は、天から地上に御心をもたらすために必要なリンク(つなぎ)として私たちを選ばれました。神は、私たちが神と親しく交わり、御声を注意深く聞いて、預言的レべレーション(啓示)を得て、それを地上に布告宣言することを望んでおられます。これが奇跡を生み出し多くの神の祝福を放ちます。私たちが神の御声を聞いたなら、それをとりなすことが出来ます。そして、預言も出来ます。預言とは神の心の内とその思いを宣告することです。私たちがいただいた預言的レベレーションを宣告する時、その宣言は大気と環境にむかい「地球上の時間」ではなく「天の時間」の中に放たれるのです。
戦いのシーズン
イッサカル族は新しい時へ移るタイミングを知っていました。彼らは時とシーズンをよく心得た部族でした。ですから、私は今の時代に、この部族をこの地上で代表しようとして来ました。そうすることによって、神の子どもたちが、今生きている時がどんな時であり、何をすれば神のご計画をこの地上で進展させることができるのかを知り、そのための準備を整えることができるようになるためです。私たちはヘブライ暦の5762年に新しい戦いのシーズンに入りました。
新しく迎える年についてお話しする前に、過去の数年について振り返ってみる必要があると私は感じました。そうすることによって、私たちがどのようにして今日に至ったかを知っていただきたいからです。ヘブライ数字の意味を知ることが、私たちが新しくすべきことを布告するための神のレベレーションを察知することになるからです。私たちが一つのことを一度布告すれば、後は神がどのようにそれを実現されるか見守ることが出来ます。レベレーションが王国を建て上げるのです!レベレーションがハデスの門に打ち勝ちます!レベレーションが私たちの手に御国のかぎをもたらすのです。
私は、この戦いのシーズンを前もって見通すことができましたから、「これからの教会の戦い」について書いて来ました。それによって、神の人々が前もって戦いへの必要な心構えが整えられるためでした。ですから、ほとんどの人にとって、今のシーズンは、まさに予告されたことが現実になっていると思います。それでは、下記に今まで私たちが通って来たシーズンのヘブライ的見方を要約してみます。
5762年/2001-2002年 七年間の戦いの始まり。この年はニューヨークのワールド・トレードセンターがテロリストによって破壊された9月11日の悲劇の事件で始まりました。地球上での神の約束の計画の戦いが始まったのです。それは次の世代にマントルを手渡すための戦いでした。
5763年/2002―2003 安息日の年―信仰の増す時、雄牛に乗る年。経済構造が変わり始め、次の五年間でそれが全
22 10月
大いなるトランジション(移行、推移、変化)は始まっている
リック・ジョイナー
「トランジションのときは最もリスクが大きい。故に信仰が最も必要とされる。」
大きなリバイバルが起こったところではどこでも、それが過ぎ去ると、前の状態より悪くなったように思えるのはどうしてでしょうか? この問いに対する答えは、教会がもっといのちにあふれるため、また、教会がリバイバルなど必要がないほどの豊かないのちを保つための、多くの重要な答えを持っています。リバイバルというのは、再生という意味ですから、何か生き返らせるべきものがあるときにだけ必要です。教会が、本来あるべき姿で活き活きと繁栄しているとしたら、リバイバルは必要ではなく、どんどんといのちと力を増し加えていくことでしょう。
箴言4:18に「義人の道はあけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」とありますが、これが本来あるべきノーマルなクリスチャニティー(キリスト教)の姿なのです。どんどんと光が増し加わる中を歩いていき、ついには真昼のように明るいところに到着するのです。残念ながら、現在、真昼のように明るい光の中を歩いているクリスチャンがいないのは明らかであり、また、自分はそうだという信用の置ける人もいないので、私たちがまだこれから、かなりの距離を歩いていかねばならないのははっきりしています。しかしながら、ある人々やムーブメントは、明るさを増していく正しい道を確かに歩いているようです。
ですから、もし自分の歩いている道がだんだん明るくなっていかないならば、どこかで道を曲がり損ねて間違って道を歩いてきてしまったのです。そうならば私たちは、間違ってしまったところまでもどって、もう一度正しい道を歩かねばなりません。これは「悔い改め」ということです。
正しい道からそれることは確かにありますが、そればかりか、間違った道の途中で止まってしまって動けなくなると大変です。多くの人がこういう状態におちいります。彼らは罪を犯すとか律法的になるとかではないかもしれませんが、彼らの道の光は少しも明るくはなっていきません。彼らは立ち往生してしまったのです。その理由の多くは、彼らはトランジションするべき場所にきたのにそれができなかったり、あるいは、するのを拒んだりしたからなのです。
霊的なトランジションの中をどのように進めばいいかを知る能力は、リーダーに要求されるものの中で最も難しいことの一つであり、また、それを持つ人は甚だ少ないのです。トランジションの中を通ることは最もリスクが大きく、それゆえにもっとも信仰が要求されます。私が経験してきたすべての重要なトランジションでは、次の霊的レベルに移行するためには、私の働きの全部の存在がリスクにさらされたようでした。この移行をすれば、ミニストリーはもっと実を結ぶようになるという約束があっても、ほとんどの場合、その前には厳しい剪定の過程が要求されるのです。ミニストリーに人がどんどん集まってきて、すべてが上手くいっているときに導くのは楽ですが、人々が去っている剪定のときに導くのは大変です。そのトランジションの目的や必要性は、往々にして、リーダーたちは理解していても、他の人たちにははっきりわからないのです。
使徒パウロが一世紀の教会に次のように言っています。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒行伝14:22)この法則を私たちは「私たちが神の国にはいるには、多くのトランジションを経なければならない。」と解釈することができます。トランジションは艱難、苦しみです。ですから、全世界が神の御国に推移するときには、一番大きな大艱難が起こるのです。みんな御国に入りたいのですが、その扉を開いて入っていく勇気のある人はあまり多くはないのです。
しかしながら、教会やムーブメント、ミッション、そして会社や国家でも、発展の途中の段階で止まってしまうと、成長が止み、前進しなくなり、いのちがなくなっていきます。いのちの川はその名の通り川であって、湖や池ではないのです。川はいつも流れ、動き、どこかに向かって動いています。「同じ川に2度入ることはできない。」というのは、そういうことです。川はいつも変わっているのです。好むと好まざるにかかわらず、それが健康ないのちがある基本的な証拠です。いのちの道は義の道とも言われますが、それは道であり、道は必ずどこかへと通じているのです。
聖書の中には、神の偉大な働きを推し進めて行こうとするときに、人々が私たちと同じ問題にぶつかったことが書かれています。一つの顕著な例はエズラ記4:24-5:2にあります。
「 こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。 さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。 そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。」
ハガイとゼカリヤが預言したように、エズラ記には残りの者たちが神殿を再建するために、エルサレムにもどったことが記されています。しかし、基礎工事が終わった時点で、彼らは自分の家を建てるのに気を取られて、神の家のことをなおざりにしまいました。これは、まさに教会が今日ある姿を預言的に表しています。過激的で聖書的なキリスト教、新約の教会を回復させたい、と志す者が大勢立ち上がりました。そして、そのための基礎は据えられました。しかし、その後、働き人たちは気を散らされてしまい、おのおの自分の「家」、ミニストリーを建て上げるために行ってしまったのです。
今ある多くのミニストリーは、御国建設のために真の目的とヴィジョンを持っているものはほとんどなく、みんな個人の目的、ヴィジョンを中心に成り立っています。エズラ記によると、人々は預言者が現れて預言し始めるまで、自分のことだけに気を取られていました。今日主が、預言のミニストリーを立て上げておられる主な理由がここにあります。即ち、主の家の修復を完成させ、教会を神に召された通りの栄光ある姿にするために、人々が再び働きはじめるようにするためなのです。
過去20年の間に、キリストの身体なる教会のより多くの人が、預言のミニストリーを受け入れるようになってきました。
11 10月
神の御性質にあずかる特権(2)
ポール・キース・デイヴィス
神に使われるための11の必須条件(先回からの続き)
1.弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさらない
マタイ10:24-25「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。」
私たちは「さらに大きなわざ」を行う世代が現れることを約束されています。しかしながら、これはまず、イエスがされたのと同じわざをもっと多くの人がすることを表しています。誰が自分の師よりもまさることを望めるでしょうか?今は何千人という人がイエスと同じ油そそぎを受けて、イエスがされたのと同じ業をしながら世界を回っています。そのように、マタイ10:8「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」を本当に受け取るならば、マタイ10:18-25に書かれている迫害に耐える備えもしなければなりません。
私たちは師よりもまさるものではないのです!もし人々がイエス・キリストを迫害したのなら、私たちがイエスと同じ業をしたときには、人々は私たちをも迫害するのです。奇跡を求めるならば、それと同時に人から誤解されたり、嫌がらせを受けたり、個人的な攻撃を受けたりすることを覚悟しなければなりません。そして、迫害されたときは、キリストがされたように対応せねばなりません。それが、超自然的人生を歩むための条件としてアレン師に与えられた第一のものでした。
2.弟子は師にまさるものではない。しかし、完全な者は師と同じになる
アレン師はこう言っています。「第一の条件の言葉を聞いて、私の心はへりくだらされ砕かれた。しかし、神が次に言われたのは、私は師よりまさることは決してないが、師のようにはなれるということであり、それを聞いたとき私の心は急に栄光の炎の中に高く上げられた。」
ルカ6:40「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」
御言葉は私たちに、この世の霊に打ち勝って生きるようにと語っています。私たちの決断の仕方、考え方、生活様式は、この世からの影響を受けることなく、聖霊と完全に調和して生きることが可能なのです。このことは、主が私たちに命ずることが、必ず実行可能であることをよく表しています。そして、それは聖霊と完全に一つになることによってのみ可能となります。
アレン師はこのように書いています。「この言葉は先の言葉よりも、もっと私を驚かせた。絶対これは無理だ!人間が完全を望むなんてことができるだろうか。でも確かに神は私ができないと知っておられることを、やれと言われる方ではない。そして疑いもなくこれは神の声なのだ。私は天の父にパンをお願いしたのだから、石をくださることはないはずだ。…この言葉が聖書の中にあることを知ったとき、私の心は嬉しさでふるえた。それはマタイ5:48で、『ですから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。』とある。」
3.天の父が完全なようにあなたも完全でありなさい
この条件が示していることは、私の著書「Thrones of Our Soul 魂の王座」の中で書いたことと深くかかわっています。それは霊、魂、体の完全なる全き聖化と関係しているのです。私たちの霊は新生したときにあがなわれました。次に知性、意志、感情が神の御言葉にしたがって聖化されていきます。そして私たちは、アダムが罪を犯す以前の状態へと形造られていくのです。神はアダムの霊、魂、身体の中に君臨され、完全にアダムを支配しておられました。それは、最後のアダムである主が、この世に生きておられるときもそうでありました。そしてその主が、私たちも同じように神とそのような関係になる道を備えてくださったのです。
4.キリストが私たちの模範
第一ペテロ2:21-23「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
アレン師へのこの条件は、私たちの毎日の生活に関することで、私たちの日常の心の思いを問題にしています。しばしば、私たちは難しい問題にぶつかったり、裏切られたり、身に覚えのないことで告発されたりします。クリスチャンとして私たちは表向きは人を赦すと言いますが、心の中では恨みを抱き、密かに主が彼らを懲らしめるようにと願うのです。しかし、純粋なキリスト教は、言葉だけでなく心から相手を赦し、何のこだわりもなく真心からその人を祝福できるものです。そして、これが私たちが御国の真の子供である証拠です。
5.自分を捨てる
ルカ9:23「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
イエスが歩まれた道は自己否定の道でした。アレン師に示された自己否定の課題は、個人的な生活様式や自分の好きなプロジェクト(それはつい時間を取りすぎてしまうもので、そのような時間はもっと実を結ぶことに使うべき時間です。)に対するもの(自己否定)でした。アレン師にとって、それは祈りと断食の犠牲的な生活の訓練を意味していました。他の人にとっては、別の訓練があるかもしれませんが、そのいわんとするところは同じです。私たちは時間を真の実を結ぶことに使わねばならず、時間とエネルギーを私たちから奪う霊的なブラックホールを避けねばなりません。
しばしば、クリスチャンとって自己否定とは、神と時間を過ごすために楽しい仲間や個人的な興味から退くことを意味します。私たちが神に近づけば、神は私たちに近づいてくださると約束していてくださいます。
6.十字架
いくら自己否定をしても、もし十字架を背負いイエスについていかないならば、何の役にもたちません。ルカ9:23に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十
字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。
イエス・キリストの十字架は、世の初めから計画され隠されていた奥義です。新生したすべてのクリスチャンは、自分の信仰がはっきり革新されるためには、十字架のヴィジョンを見ることが必要です。私は以前、主がエルサレムの通りを十字架の重みに耐えながらゆっくり歩まれるヴィジョンを見ました。そして、主が力尽きて倒れられたときに、それはクレネ人シモンにとっては運命として定められていた場所でしたが、シモンがそこに立つのを私は見ていました。
シモンは、世の初めから、まさにその場所に、その日に立つように定められていたのです。彼の運命は史上最大の人間のドラマの中で、カルバリまでの残りの道のりを主の十字架を背負うということでした。私はこのヴィジョンを見ていましたが、私がその十字架をあの時にかつぐという光栄にあづかりたかったと、私の心が叫んでいるように感じました。けれども、紀元33年にその栄誉をいただいたのは、この男一人でした。私はシモンが主の流された血潮にまみれて十字架をかつぐのを見ていたのですが、その時主が「わたしの十字架はそれをかつごうと願うもののために、いまも備えられている。」と言われるのを私は聞いたのでした。
自分のために定められている運命を達成するために、日々十字架を負ってキリストについていくのは、私たちの特権です。
7.私は衰えねばならない
ヨハネ3:29-30 「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
アレン師は次のように記しています。「この7番目の条件において、神は私のプライドを扱い始められた。私はそれまで、自分はプライドが高いと感じたことがなかった。プライドに関して、誰かの説教を聞いて示されたり、誰かに直接指摘されたり、あるいは聖霊からの真摯な取り扱いを受けたりしたことはあった。しかし、自分にはプライドがあるかもしれない、と少しでも感じたときは、私は、多くの人がするように、それは『自己尊重』であり『威厳』であり、『育ちのよさ』、『気高さ』なのだ、と言い逃れをして問題をそのままに放置してきた。けれども、神はそれを『罪だ』とはっきり言われた。箴言21:4に『高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である。』とあるとおりである。
神は、私がいかに神なしでは何もできない存在であるかを、はっきり示してくださった。私の努力など何の役にも立たないことも。私は今まで認識していなかったのだが、私の最善の努力さえ神なしには取るに足らないことであると知らされた。神は、私の人生のすべてを神のコントロールに委ねることを要求された。そうするには、私のタレント、知識、能力が、それが何であれ、すべて神の前で覆い隠されねば(衰えなければ)ならなかった。」
8.あの方は盛んにならねばならない(ヨハネ3:30)
アレン師の言葉です。「大草原の中を車で走っていて、遠くに山があるのに気がついた、という経験をあなたはお持ちだろうか。初め、その山はとても小さく見える。でもなおもドライブをして山に近づいていくと、山が急速に大きくなるのに驚くであろう。勿論山が大きくなるのではない。山は最初見たときと同じ大きさなのだけれど、あなたが山に近づいたので、大きく見えるのだ。これこそ、神が「盛んになる」ということと全く同じ現象なのである。神はすべての人にとって同じ神だ。しかしある人々にとっては、神は小さく縮んだような無能な神で、何か重要なことをしてくれることなど期待できないように見える。その理由は人々が神から遠く離れて暮らしているからなのだ!私たちが『神に近づきなさい。(ヤコブ4:8)』と教えられている理由はここにある。
多くの人は、自分と神との間に沢山のものが入り込むのを許してしまったゆえに、神とひどく離れてしまっている。ある者たちは、口先は神に近づいているけれど、心は遠く離れている。(マタイ15:8-9) 神は『彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。』と言われる。神に近づく唯一の方法は、あなたと神の間に入ってしまっているものが何であるかを、真剣に、本気で探し出して、それらを除くことだけだ!」
9.無駄な言葉、愚かな話をやめる
マタイ12:36 「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」
「本当の霊性を持っていないことを一番暴露するのは、愚かな話や冗談や、無駄な言葉だ。絶え間なく愚かな話をしたり、馬鹿げた冗談をいう事ほど、その人が人の魂の苦しみに無関心な浅薄なクリスチャンであることを示すものはない。大抵の人は、そんなことは些細なことだと思うかもしれないが、これほど破壊的で人の間で伝染していく霊的病気は他にあまりない。」とアレン師は言っています。
10.からだをささげる
ローマ12:1 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
私たちの中で、神にすべてをお委ねしていない部分が大きければ大きいほど、敵は私たちの魂に取り入ってくることができます。使徒パウロは私たちが完全に神に委ね、服従する生き方のすばらしさを教え、勧めています。
ウイリアム・ブランハムは、あるとき、彼の霊的賜物の中で一番すばらしいものは何かと、人から聞かれました。多くの人は、彼はきっと霊的な識別力や知識の言葉、あるいは、癒しの賜物を彼が挙げるだろうと思っていました。けれどもそうではなく、彼は『私の一番の賜物は、私が横に退いて主に座を譲ることができる能力です。』と言ったのです。これは、終末の時代の御国の子供として神を求める人々の特徴となり目印となるでしょう。
11.神の御性質を持つ者となる
第二ペテロ1:4 「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
私たちが主の御性質にあずかる者となる、というのは神の約束であり、他の総ての聖書の約
束とおなじく、私たちはそれを信じなければなりません。恵みによって救われた罪人である私たちが、天国に行けるだけではなく、この世でも欲のもたらす滅びを免れることができるというのは、全く驚くべきことのように思えます。けれども、それが私たちへの約束であり、義しい人々はその約束の成就を見るようになるのです。偉大な十字架の力により、弱く罪ある人間も、神と結びあわされることによって、肉体があるままでこの地上で神の御性質といのちにあずかることができるのです。
神の御性質を知ることは、神の力を知ることであり、そのとき私たちは神の祝福を運んでいく管になることができるのです。(終わり)トップページへ戻る
11 10月
クリスチャンという名のコイン
ある朝、主の前に出ていると、通貨であるコインが示されました。そして、主は「わたしがコインの表側は造るが、裏側はあなたたちが造るのです。そのように両面が完成しなければ、そのコインは使いものにならないのです。」と言われました。
そして、直ぐ思いに浮かんだのが「十字架」という名のコインでした。そのコインの表側は、主イエスが先ずご自分を十字架にかけてその御業を完成されましたが、裏面は、そのコインを差し出された私たちが、自分をその十字架につけて歩まなければ完成されません。
次に、招かれる者と選ばれる者で一枚のコインが造られていることが浮かんできました。マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とあります。招かれるのも選ばれるのも父なる神ですが、真に選ばれた者になるためには、私たちが主を「選んで」「婚礼の礼服を着て」(マタイ22:11)選びにふさわしい者にならなければ裏面が完成されません。
信仰という名のコインもそうです。表側は、主のすべての「命令」の御言葉で造られていますが、それを聞いて忠実に従って実行しなければ、そのコインは完成されません。
愛というコインも同じですね。表面は「神が先ず私たちを愛してくださる」のですが、裏面で、その愛を受けた私たちが神を愛さなければそのコインも完成されません。
コインには色々な種類があります。金貨、銀貨、銅貨、ニッケルで出来たものもあります。この世の中でコインさえ持っていれば、どんなに額が大きくても小さくても、総ての支払いが出来ます。
通貨としての機能から見れば、どのコインも皆必要です。特に、一番小さな一円のニッケル製コインがなければ、多くの場合支払いに支障をきたします。小さな額のコインほど、それがなくては通貨としての用が足せませんから、その重要さに私は気がつかされました。そして、「キリストのからだ」であるクリスチャンも同じではないかということにも気がつかされた次第です。
その通貨としてのコインはすべて神が造られるものです。しかし、神は裏側の字の彫り込みは私たちに委ねておられます。裏面を私たちが完成させなければ、そのコインは「使いもの」にならないのです。(終わり)トップページへ戻る
09 10月
主人の本
主人は過去3年間、人から「今は何をしておられるのですか?」と聞かれると、「本を書いています。」と答えてきました。 本を書き上げる時間は、本の長さにもよるし、書き方にもよって千差万別でしょうから、みなさんその答えで一応納得していただきました。今回、とうとうそれが出版の運びとなりました。今月末には完成予定です。
この本は主人にとっては2冊目の著書となり、前作「主を見つめて待つ」が薄い本だったのに比べれば、これは「大作」なのでした。2年前に一度主人はこの本に関しては「できた!」と叫んだのですが、それからまた新しいことを学ばされたので、かなりの部分が書き直しとなりました。タイトルは「キリストの弟子」で、タイトルの上には英語で「The True Disciple of Christ」、下には副題の「教会の完成をめざして」が入ります。
私の役目は主人が書いたものを批評、批判するとともに、言葉使いや「てにをは」等を直すという非常に名誉ある(?)仕事でした。主人は私からの意見を神妙に聞いて、かなり素直にそれを考慮し、取り入れてくれました。娘にむかって主人は、「非常に苦しいことではあったが、お母さんの言うことを私は聞くようにしたんだよ。」と涙ながらに(大げさ)訴えていました。でも確かに、自分の書いたものを人に直されるというのは、プライドがあると、とても大変です。私のこの雑文でも、主人が直すとあまり気分はよくありません。ですから、私のささやかな意見をじっと聞いてくれた主人に、私はとても感謝していますよ、本当に。
私たちの仕事は、書いたり翻訳したりですので、どうしてもお互いにチェックしないと、誤字、脱字、勘違い、その他様々な間違いがあり、その点、二人で互いにサポートしあえるのは感謝なことです。(それでも、まだ間違いはあると思います。すみません。)
さて、私たちは10月11日から一ヶ月日本に出かけます。
ヘンリー・グルーバー先生の通訳は、今回も森章先生が大部分を担ってくださり、感謝です。 私たちは、グルーバー先生の通訳は主に東北地方を受け持ちますが、その他の日はグルーバー先生とは別行動で、夫婦でいくつかの教会に行かせていただきます。どうかグルーバー先生、森先生、そして、私たちの働きのためにお祈りくださいますようにお願いいたします。 (終わり)トップへ戻る