Walk With God Ministries
Archive for 7月, 2007:
27 07月
天の御国は畑に隠された宝
フランシス・フランジペン
1983年に私はあるフェイス・チャーチ(奇跡、癒しが今もあると強く信じる教会)で牧師をしてほしいとの要請を受けました。 それは私がミニストリーから退いて3年経っていたときでしたし、また、フェイス・チャーチというものがどういう教会なのかもよくは分かりませんでした。 しかし、フェイス(信仰)という概念は十分に聖書的であり健全であると思いましたので、私はその仕事を引き受けることにしました。
その教会は一般的なフェイス・チャーチというよりは、教会の前にサテライト・ディッシュを構えているような教会で、そのディッシュには赤いペンキで、「Jesus Is Lord イエスは主である」と大きく書かれていたことを付け加えるべきでしょう。
私が3年間ミニストリーを離れていたのは、自分は失敗者である、という思いを深く抱いていたことが大きな理由であることを、ここでご説明しておいた方がいいでしょう。前に牧会していた教会の一人の婦人がウイルスに感染し、4日間で完全に身体が麻痺してしまいました。私はずっと彼女に付き添い、断食と祈りをしていました。彼女が5日目に死んでしまったとき、私は無力感で打ちのめされ、私の祈りの力に対する自信は砕かれてしまいました。この経験は私が若いミニスターとして受けたもっとも深い傷でした。
その婦人が亡くなってからの私の心の状態は全く荒れ果てたものでしたが、それをどのように取り扱ったらいいのか私にはわかりませんでした。ですから、あたかも自分の信仰は十分働いているように外面的にはよそおっておりましたが、実際はそうではありませんでした。その後何ヶ月も私は引き続き病人のために祈り、実際に信じている人のようなふりをし続けました。しかし、内なる私の密かな叫びは信仰の祈りとは程遠く、「どうか主よ、私の不信仰によってこの人の病がこれより悪化しませんように!」というような哀れっぽい祈りだったのです。
サタンはこの機会を十分に活用して私を食い物にしました。実際のところ私はひどく打ちのめされて、彼女の死は自分の所為だとまで思ったのです。自分はその婦人やご家族、また神ご自身の期待を裏切ったように感じました。 私には自分がエゼキエルが病気の羊を癒さなかったといって叱責している羊飼いの一人のように思われました。(エゼキエル34:4) 私にとって自分に正直に生きるためにはミニストリーを離れるしかありませんでした。
それで婦人が亡くなってからしばらくして、私たち家族はミシガン州を離れてアイオワ州の小さな農家に移り住みました。ミニストリーにもどりたいという願いはありましたが、それは主が再び召してくださるのでなければなりませんでした。
丸3年経ったときに、ついに再び主に仕えるときがやってきました。 このフェイス・チャーチで教えたり導いたりしようとしたわけです。しかし、過去の苦い経験の所為で、私のうちには不信仰という要塞が依然として残っていました。
非常に居心地の悪い月日でした。毎月この教会ではサテライトを使って特別のセミナーをみんなで見ていました。アメリカにいるすべての癒しや奇跡の信仰を掲げる教師たちが、自分の信じる真理を教えてくれました。それはマルコ11:23にある山をも動かす信仰か、あるいは、第三ヨハネ1:2からの繁栄の信仰を基礎にしているかのどちらかでした。
初めは私もまじめに見ているような振りをしていましたが、心の中ではどんどん疑問を持つようになりました。 サテライトからの教えは、偽りかもしくはバランスを欠いた教えであると私は確信するにいたりました。9ヶ月経ったときには、彼らが信仰に関する聖書箇所を間違って使っていると感じて、私は非常にイライラしていました。
プロジェクションTVの明かりがついているだけの暗い礼拝堂の中で、私は主に小さな声で、しかし怒りをもって文句をいいました。「主よ、フェイスを説く説教者はみんなこの聖書の箇所を間違って使っています!」
その途端、稲妻のように聖霊の声が私の心に響きました。「少なくとも彼らはその聖句を引用しているではないか!」
そうなのです。友人の死以来ずっと、それは数年に及びますが、私が教えるときはそのような聖書の箇所を使うのを避けてきました。聖書を読むときにもそこを見ることさえしなかったのです。自分個人の内的な葛藤の故に、神からの偉大な約束を見ても私の心は何も反応せず、その箇所を通りすぎてしまっていたのです。しかしそのとき、私は自分の心にリアルな信仰がなくなってしまっていたことにやっと気がつかされたのです。私の祈りはそれがかなえられることなど全く期待しないで、ただ口を動かしているだけのものになってしまっていたのです。
聖霊はなおも私に語ってくださいました。そして自分を正しいとする私を叱責してこういわれました。「わたしはいつでも不完全な人々を通してあなたに語るでしょう。あなたがそういう人々に対して批判的になった途端に、わたしがあなたに与えるために彼らに与えたものを、あなたは受けることができなくなります。」
その夜私は、自分の不信仰に関してだけではなく、プライドや人のあらさがしをしたことを悔い改めました。すると私の信仰は回復されたのです。それからの一年間は教会で癌の人や耳が聞こえなかった人、神経痛の人たちが癒されました。今でも私は、神がフェイス・ムーブメントを通して私に与えてくださったものを感謝しています。
不完全な人々を通して
主はこの経験を使って私に大いなる奥義を教えてくださいました。それは、私が霊的成長するための学びの多くは神が直接下さるのではなく、不完全な人々を通して神が語られるときに私がどれだけへりくだってそれを聞けるかにかかっているということです。癒しや奇跡を強調する教師たちに行き過ぎはあるでしょうか? 多分あるでしょう。しかし、神はご自分の知恵を色々な人や様々な教派の中に隠すことをよしとされていることを私は発見したのです。私が他の人々に対してへりくだればへりくだるほど、私の神を理解する範囲はどんどん広がっていくのです。
ある人はこう質問します。「不完全な教師からだまされるのが心配ではありませんか?」と。もし教師がまったく間違っているときは、私は直接その人に問い質します。しかし、沢山の聖書学者がこの世にはいて、人々がまっすぐで狭い道からそれないように目を光らせていることを神はご存知なのです。(その人たちをも私は感謝し
20 07月
私たちが整えられること
ウエイド・テイラー
聖書の中に、青年は幻を見、老人は夢を見る、とあります。1950年にイエス様が私の人生の中に来てくださいました。 今までの年月を振りかえりつつ、主に仕えるようにと主から召されたときに受けたみ言葉をもう一度じっくり考え、私がその召しに対してどれほどお応えすることができたかを評価してみました。
私の成績表に主がどのような点数をつけてくださるのかはわかりません。しかし私は、この終末の時代に主が私に達成するようにと望んでおられるミニストリーのヴィジョンをはっきりと持っております。私がすでに知っており理解していることをはるかに超えたもっと素晴らしいものが用意されており、私はそれを緊急に把握する必要があることを感じています。
もうすぐ何かが起ころうとしていることが、多くの人に示されています。今まで誰も経験したことのない何かが起ころうとしているのです。聞く耳のある者たちには今の時代のためのみ言葉が用意され、それを聞くために共同体としてのバプテスマのヨハネが立てられて、そのような人を通して主は今私たちが理解しているものを超えたみ言葉を語ってくださろうとしています。
「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」 ルカ3:2
そのころ神が語ろうと望まれたみ言葉を聞ける者は一人もおりませんでした。そこで主はバプテスマのヨハネを一人召しだし、特別な準備をさせるために荒野に長年おかれました。そして定められた時にイエスをメシアとして世に紹介できるようにされたのです。
今私たちは教会時代の終末に近づいていますから、準備のために長い年月を荒野で過ごす時間はありません。むしろ主は「荒野で呼ばわる声」を調えるためにすばやい業をされようとしています。様々な教会活動から身を遠ざけて、主ご自身だけを求めてきた者たちは、主は自分の存在には気づいておられない、と感じているかもしれませんし、また、自分は取り残されたように思うかもしれません。しかし、そのような場所こそ、私たちが個人的にイエス様と出会う場所なのです、もし定められたときまで忍耐強く待つならば。
主は「今現在の言葉」を持っておられ、それを今語りたいと願っておられるので、それを聞くことができるように私たちを超スピードで訓練する荒野が必要になったのです。
主が訪れられるときは、その前の訪れのときとは全く違うやり方で来られます。ですから、過去に主の訪れを経験し主と出会った人たちが、新しい聖霊のムーブメントに批判的になることがよくあります。なぜならば、新しい聖霊の働きが彼らの経験したものとは違っているからです。私たちもそういう間違いをおかさないように、いつも注意深く主に耳を傾け、自分の既存の理解のレベルに固執せず。それを超えるものを聞く心構えが必要です。
1958年に私は幸いにも主の大いなる訪れを体験することができました。 主の栄光が目に見えるかたちで顕著にあらわれ、私はその中に捉えられて、人生が全く変えられました。私は文字通り「新しいぶどう酒」の中で泳ぎ、それは私の人生に深い影響を与えました。この聖霊の働きは、当時ほとんど起こっていなかったので、多くの人たちはこの聖霊の働きを拒絶し受け入れませんでした。
又、1962年に私は「神の息子たちの顕れ」というカンファレンスにある人と一緒に出席しました。 その人は紙と鉛筆を用意して、カンファレンスの中で批判すべきことがあればすぐ筆記できるようにと身構えていました。そして彼は確かに沢山書き留めるべきことを見つけました。彼は批判的な思いで会場を去り、そのカンファレンスから何も得ることはなかったのです。一方私は、主からの深い内なる思いを受けました。その結果、真の神の息子に関するヴィジョンを主からいただくことができました。それは、自分中心の生き方をやめて、イエス様のいのちと働きを現代の世界に表わしていくために自分の身体を捧げるというものでした。 即ち「神の息子たち」は消えて見えなくなり、イエスのいのちがその人から顕れてこなければならないのです。 しかし残念ながら彼らはその代わりに「宇宙を神のために治める」という人間的な計画を抱いてしまいました。
もし、私たちが主から真の霊的いのちとその真髄を分与されていたならば、人々は興味を持って集まってきたことでしょう。 神の息子Sonshipのムーブメントは起こりましたが、それは残念ながら人々が主とのリレーションシップをではなく、地位を求めたために失敗に終わり、「神の息子」という言葉まで不名誉なものとしてしまいました。
イエスとの個人的な関係を深めるには、主の臨在の中で過ごす多くの時間と忍耐が必要とされます。私はある時主に「主よ、私はもっと早く成長したいのです。」と言って主を急がせ、私が霊的にもっと早く成長するようにとしました。けれどもすぐに私はこれがまさに主に反逆していることに他ならないことに気がづきました。私は自分が消化できるよりも早い速度で導いてくださるようにと主に無理強いしたのでした。それからは、私がついていける霊的成長の速度-それは主が一番ご存知なのですーに委ねることにし、知恵と忍耐力が与えられるように祈りました。
現在ミニストリーで成功している人たちが、どのような人生を歩んできたかを私は考察してみました。そして彼らが成功にいたるまでには、それぞれが色々な代価を払ってきたことに気がつきました。みんな「備えのための荒野」で時を過ごし、そこで主と個人的に出会っていたのです。
私たちは今非常に困難な時代に生きています。社会的にも霊的にも真の指導者がおりません。多くの人々は、自分は明確な目標や目的を持って生きていないと感じています。しかし、それに対しても答えはあるのです。私たちは私たちを飲み込んでしまおうとするすべての宗教的活動を離れて、主が用意してくださっている荒野の静けさの中に入っていかなければならないのです。
特に今日イエス様は、人にいのちを与える預言的言葉を、「聞く耳」を養おうとして来た人たちに聞こえるように、語っておられるのです。
イザヤ50:4 「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」
主が私たちを呼び出されている「荒野」は、私たちの住まいの中にもなければなりません。そこは何にも邪魔されずに
18 07月
バプテスマと漬物
聖句の解釈でよく問題になるものの一つにマルコ 16:16があります。
「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」
この聖句の最初の部分を文字通り解釈すれば「救われるためには、信じてバプテスマを受けねばならない。」と言っていることになりますが、この御言葉によって、「救われる」ためには、バプテスマを受けねばならないのか、受けなければ救われないのか、と言う疑問が出て来て、それが色々と議論されて来ました。
私は最近、ストロングのコンコーダンス (用語索引辞典)を見ていて「バプテスマ」の原語baptizo の意味を初めてよく理解することが出来ましたので、今回それをお分かちしたいと思います。
バプテスマbaptizo とはどう言うことかと言えば、ものを水とか液体にずっぽり浸けること、あるいは大波などが上から覆いかぶさってずぶ濡れになることを言うそうです。又、このbaptizo に似た言葉にbapto があります。これは普通「ちょっと浸す」と言う意味で、この二つのギリシャ語の使い方の違いが紀元前200年に書かれた漬物の作り方の文献に載っていたそうです。
それによれば、当時漬物にする野菜は、先ずさっと熱湯に浸し 、直ぐ引き上げてから、酢の中に漬けてしばらく放置すると書いてあったそうです。
熱湯にさっと浸けるのはbapto で、その後しっかり酢に漬けることがbaptizo なのだそうです。この説明で明らかなように、bapto は一時的・表面的に変わっても中身までは変わらないことを表わし、一方、baptizo の方は一旦沁みこむと永久的に中身まで変質する漬かり方であると言うことがわかります。
これは、トランスフォーメーション と言う言葉(英語)の動詞であるトランスフォームと言う言葉の原語には”metamorphoo” と”metaschematizo” の二通りあり、最初の”metamorphoo”の意味は「内側が変わること(変質)によって外側・外見が変わる」(ロマ書12:2)ことをさし、一方 metaschematizoは、中身が変わらないで外見だけが一時的に変貌・変装する(2コリント11:13-15)と言うのに似ています。
要は「変えられる」と言っても、私たちは見せかけだけ変わる(成長したように見せる)クリスチャンであってはならない、身も心も永久的に質的変化を遂げた(中身が霊的に成長した)クリスチャンにならなければならないと言うことです。そして、中身が変わるから、外見も変わって来るのです。
バプテスマを受けると言う意味もこれに似ています。洗礼とは、肉の人間から霊の成熟した人間に変える(トランスフォームする)、あるいは「イエスに似た者にする」ためのプロセスです。大根をぬか漬けにすれば単なる野菜の大根ではなくなります。つまり肉の人間を色々な霊の液体に浸けて「霊の漬け物」としてキリストのからだに完成させるのです。
これを作る漬け方の一つのレセピーはバプテスマのヨハネによる漬け方で、マタイ3:11に書いてありますので、それを下記にご紹介します。
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けてい ますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」
真の救いを得るためには、先ず徹底的に「悔い改める」ことによって人間の古いアク(悪)を取ります。そのために「アクぬき」の方法として水に漬ける(水のバプテスマ)のです。これは漬物の素材をよくするためです。次に聖霊と言う液体にどっぷり漬けて「聖霊漬け」にします。霊の漬物とは基本的に「聖霊漬け」です。これに漬ける時間が長ければ長いほど上質な出来上がりとなります。そして最後は火に漬ける(通す)洗礼でしめて完成させます。これは一切の不純物を取り去る最終的な仕上げのプロセスです。
その他聖書では洗礼についての色々な漬け方を教えてくれていますので、その主なものを下記に二つ三つ挙げてみます。
1コリント10:2によれば、「みな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け」と書かれていますから「モーセにつける(結びつける)洗礼」があることが分かります。又、ロマ6:3によれば「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 」とありますから、「イエスにつく水のバプテズマ」とは「自分を死に浸す」バプテズマであることが分かります。
又、ガラテヤ3:27では、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(新共同訳)とあるように、私たちキリスト者の最終目標は「キリストに結ばれ」「キリストを着る」ことにあります。あるいは次の28節にあるように 「キリスト・イエスにあって、一つ」になるバプテスマを受けるのです。
要するに私たちは基本的に「聖霊漬け」にされつつあるのですが、その目的は「キリストにどっぷり漬けられる」「キリスト漬け」であり、長く浸けられる間に、私たちの中身がキリストに変質しなければなりません。
結論から言えば、マルコ16:16は全くその通りなのです。私たちはイエス・キリストを心から信じるだけではなく、聖霊によって、私たちの中身がキリストに似た者に変質されるまで「キリスト漬け」にすると言う長いプロセスのバプテズマを受けて救われる、と書かれているからです。
ところでマルコ16:16は、一般に「イエスによる大宣教命令」( the great commission)と言われるマタイ28:19のマルコ版です。ですからマタイ28章に出てくるバプテスマとマルコ16章のバプテスマは同じ意味です。
そして、マタイ28章でイエスは、弟子たちに世界に出て行って、彼らを弟子とし、 「父、子、聖霊の御名によってバプテズマを授け...」と書いてありますが、「この御名によって」の「よっての」の部分の原語はeis ( 英語でinに当る )です。先程引用した1コリント10:2とかガラテヤ3:27でも同じeis が使われていますが、英語ではそこはinでなく into, untoと訳されています。ですから、マタイ28章でも厳密に言えば、単に「御名において」と言うより「御名(その神のご性質を代表する)につく」「御名に結びつける」「御名と一つにする」と訳した方が意味としてはより分かり易いと思います。
と言うことはバプテスマとは一回水に浸かればよいと言う単なる儀式だけのものではないのです。
皆さんはキリスト漬けが進んで、
18 07月
確固たる権威の中を歩むと敵もそれが分かる
カル・ピアース
キリストの身体なる教会が勝利を得るためには、神が我々に主権(支配権)を与えておられる事実を把握しなければなりません。創世記1:26に、神は人をご自身のかたちに創造され、人が地を支配するようにと言われた、とあります。詩篇115:16には、神は地を人の子らに与えられた、とあります。神は創造されたものを支配するようにと人間にこの地を与えられたのです。この命令を神は今も撤回されてはおられません。
この支配に対する神の考えは変ってはいませんが、人の立場はアダムの罪によって変わってしまいました。けれども第二のアダムであるイエス様が、人をのろい(創世記3:13)から贖い出し、再び支配権を持つ者として回復させてくださいました。これはマタイ28:18で主が、「わたしは天においても、地においてもいっさいの権威が与えられています。」といわれたことでも明らかです。
イエスはその手にすべての権威を持たれ、その権威をご自分の身体なる教会に、再び与えられたのです。それは教会がこの世を支配するためです。このことはエペソ1:22-23に書かれています。「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
また、エペソ2:6には「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあります。ルカ10:19には、私たちは「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」を与えられたとあり、ローマ9:17には「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と書かれています。
神が私たちに権威を与えられたのは、私たちが地を支配し治めるためです。エペソ1:22にいっさいのものはキリストの足の下に従わせた、とあるのを見てください。私たちはキリストの身体なのですから、いっさいのものは私たちの足の下に従っているのです。これが私たちが地上で持っている絶対的な権威です。
私たちは敵に服従するのではなく、敵が私たちに服従するのです。私たちはこの真理を知らねばなりません。それによって私たちは自由になれるからです。(ヨハネ8:32)
この真理は私たちを真にあるべき正当な位置に就かせ、それによって私たちの周りの状況は変えられます。私たちがそこに堅く立って不動であれば、周りの状況が変わるしかないからです。私たちが、自分は絶対的権威を持っていてその権威の中を歩むのだ、という真理を把握するとき、敵もそのことを察知します。
敵は常に、あなたが自分をどのように見ているかによってあなたを量るのです。あなたが交差点に立って普通の服で交通整理をし始めたら、一体どうなるでしょう? 車に轢かれてしまうかもしれません。でもあなたが警察署に採用されて交通整理用の制服を支給されたならば、交差点に立って手を上げれば車は止まるでしょう。それはあなたが交通整理の権威を与えられているということがみんなに分かるからです。
あなたは権威の下にいるときにすべての権威を持つことができます。神はあなたに神の権威の武具を与えてくださいます。あなたがその武具を疑わずに確信をもって身につけるとき、もはや敵はあなたを動かすことはできません。 あなたはもう敵の支配によって影響されることはありません。 あなたこそが支配力を持っているからです。この真理に私たちは目ざめ心を一新させねばなりません。さもないと、私たちは神ではなくこの世に調子を合わせてしまいます。(ローマ12:2) しかしクリスチャンが権威の中を本当に歩めるかどうかは、私たちが自分の生活の中で、神にどれだけ権威を与えるか(神の手にどれだけ私たちの生活を委ねるか)によって決まるのです。
自分に権威が与えられていることを信じなければ、神の力を具現していくことはできません。権威がなくては支配することはできません。敵を征服する方法は、あなたが神によって征服される(完全に従う)ことなのです。パートタイムで神に従って、フルタイムで神の権威を経験をすることはできません。Blessings! (終わり)トップへ戻る
17 07月
神に忠実な義なる者は何度も転ぶが必ず起き上がる
リック・ジョイナー
教会の真の力とは、そこに集う人々がいかに強いかによって示めされるのであって、そこの牧師がいかに良いかによって示されるものではありません。近代の教会の最も大きな弱点は、エペソの4:11-16で教会に命令されているように、信徒をよく整えてミニストリーの働きに参加させることを教会がほとんどしていないことです。もし信徒が整えられているならば最も力強い教会が出て来ているはずです。下記の御言葉は教会における真のミニストリーのすべきこととその結果を最も簡潔に、又分かり易く説明してくれていますので、これをご一緒に読んでみましょう。
エペソ4:11-16 「 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」
ミニストリーの働きが、多くの場合、人々によってではなく、建て上げるプログラムによって妨げられていることは証明済みの事実です。しかし、教会のミニストリーが真の新約のミニストリーになる時、ミニストリーをするために人々を整えることによって私たちは教会が次のような成果をあげることが期待できます。
― 信仰の一致
― 神の御子の知識
― 完全に大人になって(霊的成熟)
― キリストの満ち満ちた身丈にまで達する
そうなると教会全体が強くなり成熟し、
― 私たちがもはや、子どもではなく、未熟ではなくなり、人の悪巧みや、
― 波にもてあそばれたりすることがなく
― 人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、
― 愛をもって真理を語り、
― あらゆる点においてキリストに達するように成長し、
― からだ全体が備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、
― 一つ一つの部分がその力量にふさわしく機能し、
― からだ全体が成長して、愛のうちに建て上げられるのです。」
私たちは、自分自身と人々がそれぞれ違った計画と戦術、企画を持っているので、お互いが疲れ果ててしまいそうではあっても、教会がからだ全体として成熟すべき姿に建て上げるためにはこれが唯一の方法であり、それを成功させるためには教会として実際にどのような整えをして行けばよいのでしょうか。
第一に、整えることとは成長のプロセスの四番目のステージ(段階)であり、と言うことはその前の三つのステージが既に達成されていなければならず、又最後のものもその次に達成されねばなりません。これらのステージとは、
― 動員するMobilizing
― 教えるTeaching
― 訓練するTraining
― 整えるEquipping
― 展開させるDeploying
ほとんどの教会は最初のステージを大きく越える段階にまでは達していません。彼らは信徒を教え始めますが、ほとんどが実際に訓練するまでに至っていません。教えることと訓練することとは違います。飛行訓練士の一人として、私は実際に飛行機に乗り込んで生徒を実地訓練する前に、飛行機の操縦において何をすればよいのかを時間をかけて先ず教えます。それと同じように、彼らが召されているミニストリーについて教える必要がありますが、それだけでは充分ではなく、実地訓練をしなければなりません。イエスはそれをなさらなかったでしょうか。
イエスは教会のリーダーであることを忘れないで下さい。キリストに従う総ての真のリーダーはイエスがされたと同じことをするはずです。どうすべきかを教えるだけでは充分ではないのです。彼らを実地訓練しなければなりません。イエスはそれ故に先ずご自身で実際にやって見せて教えました。イエスが弟子に教えたことで実際にデモンストレートして見せなかったことは一つもなかったのです。
教え、訓練することの後に整えることが来ます。私の飛行機操縦クラスの生徒たちは授業で教えられ、その知識を私が実際に飛行機に乗ってデモンストレートし、次に彼らが同じことが出来るかどうか、実際に彼らに飛行機を操縦させて私は彼らの習得した技術を見ます。しかしその後で私は、彼ら一人一人に飛行機を与え、自分だけで操縦するソロ飛行のチャンスを与えます。しかし、自分一人で飛行機を操縦すると言う画期的なことですら、実は彼らの飛行トレーニングのほんの始まりに過ぎないのです。飛行訓練の教師が生徒の学んだ技術を信用して一人で飛行させることは、確かに注目に値し励ましを与える点で画期的なアチーブメントではありますが、それでも熟達したパイロットになるまでには大変な道のりが待っています。
この「ソロ飛行」は、主がルカ10章で、弟子たちだけで旅立たせ、ゴスペルを説き、病人をいやし、悪霊を追い出す経験をさせたことに似ていると思われます。彼らは自分たちだけでミニストリーを実行できたことで大きな励ましを得たに違いありません。喜び勇んで帰って来ました。私たちは人々が目の前で信徒によって神の御業がなされるのを見て本当に励まされることがあります。しかしそれは、実際に神に用いられて神の仕事に携わることとは大きな違いがあるのです。
奇跡とか他の神の御業をコンスタントにデモンストレート出来る聖職者たち(ミニスター)には多くの人が励まされ、人が集まりますが、それよりも一般信徒の人たちが働き人として解き放たれ用いられるのを見るときはもっと励まされます。霊的なものあるいはその飢え渇きを持つ人であるなら誰でも、最終的にはそのように用いられるのです。
私たちが普通の信徒を放ってミニストリーをやらせてみると、まずへまをすると言う恐れを持つ人たちのことをも考慮しなければなりません。はっきり言ってその通りです。彼らは私たちがへまをしたと同じようにへま