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Walk With God Ministries


22 02月

魂の静かな刈入れ  フランシス・フランジペン  2月22日


魂の静かな刈入れ

フランシス・フランジペイン


死に面している人の夢を見た

数年前に、私は今にも死ぬという男の人の心の中に自分がいるという夢を見ました。その人はもうかなり昏睡状態が続いていました。彼の家族はずっと彼の救いのために祈ってきたのですが、彼がキリストを受け入れたのかどうかは分かりませんでした。彼らに分っていたのは、キリストを信じるようにと語る家族の説得に、彼が生涯抵抗し続けて来たということだけでした。

夢の中で、私は彼の心の状態がはっきりと分かりました。彼の考え、感情、葛藤があたかも自分のことのように感じられたのです。彼の目はほんのわずかしか開いておらず、回りをぼんやりとしか見ることは出来なかったのですが、彼の愛する人々がベッドの傍らにいるのは見えました。彼は愛する家族の方に手を伸べようとするのですが、彼の腕は全く動きませんでした。

彼は彼らの名前を呼ぶのですが、彼の唇からは何のささやきも出て来ませんでした。 彼の手をとっていた人が「もし、私の声が聞こえるなら手を握ってちょうだい。」と言いました。彼にそれは聞こえたので、自分の指でその人の手を握ろうとしましたが、実際にはその指を少しも動かすことはできませんでした。彼の手はぐったりとして力の入らないままだったのです。彼に意識はありました。彼らの祈りを聞くこともできましたし、彼らが彼の顔に接吻するのを感じることもできました。しかし、それに対してなんらかの応答を身体で示すことは彼には出来なかったのです。

今までの生涯の間心をかたくなにしていたプライドと防衛心は彼からもはや消え去っていました。肉体の破局が彼を圧倒していました。死が近づき、自分が永遠という時間に直面する用意が出来ていないことを、彼は悟りました。外面的には冷静に見えましたが、内面では彼の魂の激しい争奪戦が起こっていたのです。そしてその戦いは主の勝利に終わりました。神の執拗なまでの愛に征服されて、彼はついに平安を得たのです。彼は入院してから、キリストを自分の救い主として受け入れる祈りを静かにしたのです。彼の身体からいのちが無くなろうとするとき、彼が自分は救われたことを何とかして愛する人たちに伝えようとするのを、私は見ていました。

突然、計器の音が部屋の静寂を破って響きました。彼の心臓が最後の鼓動を打ったとき、私は死んだ男の身体を上から見下ろしていました。病室では看護婦が忙しく立ち働き、家族は部屋の隅で抱き合いながら悲しみ嘆いていました。愛する者がキリストを受け入れないで死を迎えたということが、死そのものよりももっと彼らにとっては辛く耐え難いことでした。私の心は動かされ、そのときに夢から覚めました。しかし目覚める直前に主が、「彼はわたしと共にいると、彼を愛する者たちに伝えなさい。」と私の心に語られたのです。

神は慈しみ深い方

私がこの夢を見てからもう数年が経ちましたが、愛する人がキリストを受け入れないまま死んでしまった、という深い心の痛みを持ち続けているクリスチャンが大勢いるという事実に、私はますます気がつくようになりました。勿論私の見た夢がすべての人に当てはまるわけではありませんが、この夢を通して神が語りかけておられる人々がいるのです。そのような人の心には聖霊がその確証を与えてくださるという保証を私は受けたので、この夢を皆さんにお伝えしています。

そして、この夢を人々に早く伝えなければならないという思いに私は駆られています。主はあなた方に重要な仕事をしてもらいたいと願っておられるのです。しかしながら、あなたの愛する人が救われないで死んだということを敵が使って、あなたの魂に疑いの種を蒔いたのです。あなたは愛する人の死を悩むばかりではなく、神の愛や祈りの力に関しても疑いを持ってしまったのです。その結果、神に対する確信が弱くなってしまっています。しかし家族のほかのメンバーのためにも、今こそあなたが確信をもってしっかりと立たねばならない時です。

愛する皆さん、人生には分からないことが沢山ありますが、分からないことによって分かっていることまで曇らせてしまってはいけません。神は慈しみ深い方です。神は私たちの罪のためにひとり子をこの世に送ってくださった程に私たちを愛してくださっている方です。イエス様は「わたしを見たものは父を見たのである。(ヨハネ14:9)」と言われました。私たちがキリストを見るとき神を見るのであり、神は私たちを愛してくださる慈しみ深い方であることを知るのです。

又、私たちは愛する人を事故などで突然失うことがあり、そういう場合は悔い改めたり神に立ち返ったりする時間は彼らにはないように思えます。しかし、臨死体験をした人たちのことを思い出してください。彼らは、目のまえに自分の人生がすべて映し出されるのを見たといっています。その時には、時間が止まってしまうかのようなのです。突然の死と思われるようなときにさえ、時間は非常にゆっくりと進むのだと私は思います。この特別な状況の中では、自分の人生をじっくりと顧み、決心し、主の名を呼び求める時間さえも与えられることが確かにあるようなのです。

人生には私たちには分からないことがありますが、一つのことは永遠に真実です。それは、神は私たちを愛してくださる父であるということです。神は人が一人でも滅びることを望まず、私たちの救いのために、私たちの死に瞬間まで戦ってくださいます。ですから、重荷を主に委ねましょう。主は心から私たちのことを思ってくださっているのですから。そして私たちの前に備えられたレースを忍耐をもって再び走ろうではありませんか。なぜならば、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。(マタイ4:16)」と主は約束されているからです。

祈りましょう。
「主イエス様、私の罪のために死んでくださって有難うございます。主よ、多くのことが私にはわかりません。しかし、あなたが良き方であることを私は知っております。私に理解できないことはすべてあなたにお委ねいたします。私の人生をあなたにお任せし、私の愛する者たちをあなたの御手に委ねます。」〔終わり〕


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18 02月

キリストの思い  フランシス・フランジペン  2月18日


キリストの思い―無私の愛の態度―を持つ
フランシス・フランジペイン

Iコリント2:15,16「しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。『だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか』。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」(口語訳)

これは新約聖書の中で最も驚くべき言葉の一つです。私たちが肉的な嫉妬や恐れ、不信仰というような思考から解放されて、その代わりに「キリストの思い」を持つことが実際に私たちに可能である、とパウロは語っているのです。この論理は非常に深く素晴らしいものです。主に関して教訓的な教えや真理を教わるということと、実際にキリストの思考を持つのとは、実際、全く違うことです!
パウロは次のように言っています。

Iコリント2:11-13「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。」

私たちが新生したとき、自分の霊の中に神の御霊を受けます。霊的な人というのは、その人の中で神の霊が優勢になった人のことです。霊的な人はすべてのことをわきまえるdiscern、あるいは見極めるappraiseことが出来るとパウロは言っています。いくつかの聖書はこの言葉を「裁く judge」 と訳していますが、それは非常に残念なことです。というのは、ある人たちは、ここに「裁くjudge」という言葉があるので、批判的になってもいいと受け取ってしまっているのです。そしてそういう批判的な態度こそが霊的であると思ってしまっているのです。

神は私たちが人を裁き批判的になることを喜ばれません。そうではなく、私たちが物事を識別し見分けることを望んでおられます。実際のところ、霊的な人とは、批判的な態度を捨てて、その代わりに人を赦し人の罪を贖っていく態度を持つ人のことであり、それこそがキリストの思いなのです。イエス様はいのちをどのように考えておられるでしょうか? この世界の不完全さをどのように見ておられるのでしょうか?

キリストの態度―無私の愛

パウロはピリピ2:5-8で次のように言っています。

「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」

キリストの取られた態度は単純明快でした。主は人類が堕落し神に反抗している状態を見て、それを救うために必要なことをすべてされたのです。この世は裁きを受けて当然だったのですが、「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」と言われました。(ヨハネ12:47)そして、この贖いのわざを広めるために「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われたのです。(ヨハネ20:21)

神の御子はこの世の必要を見られたので、ご自分を無にしてそれを満たされました。神としての存在、特権、力、地位をすべて捨てて人のかたちをとられました。そして更にご自分を卑しくし死にまで従い、私たちの永遠の救いを確保されました。これこそが私たちが持つべき「キリスト・イエスの思い」なのです。
無私の愛という性質から生まれ出るのがキリストの思いです。私たちは人のためにいのちを捨てるために召されているのだ、ということを受け入れた瞬間に、キリストの思いを持つこととはどういう事かを理解し始めるのです。

霊的な人はすべてのことをわきまえ、判断します。彼は必要とそれに対する答えがわかります。そして救いを達成するために必要なものとその答えとの間の橋渡しとなることをためらいません。霊的な人は識別力があります。彼は人間の心の動きを知り、人は悪魔のたくらみに引っかかりやすいことや、傷つけられたときはなかなか立ち上がれないことも知っています。霊的な人は自分に対して神が恵みを下さったことを知っているので、他の人にも解放が来るように自ら犠牲を喜んで払うことができます。

愛する皆さん、あなたの持っている動機が愛であり、希望によって導かれているならば、また、キリストに似たものとなりたいと望み、へりくだることを愛し、人に対して腹を立てずにいるならば、あなたはきっと神の思いを見つけ出すことでしょう。あなたはキリストの心を勝ち取り、所有しているのです。

祈りましょう。
「主イエスよ、私はあなたと同じような考え方をしたいと、どれほど願っていることでしょうか。主よ、あなたの心を持ち、あなたの思いで動かされたいと願っています。主よ、どうかもっと聖霊様のご性格を受けることをかなえてください。神が私の周りでおきていることをどのようなお心で見ておられるかを私は知りたいからです。
あなたの栄光のために祈ります。アーメン」(終わり)


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16 02月

鈴木さんと乙武さん  坂 柚実子  2007年2月16日


鈴木さんと乙武さん

先週「五体不満足」を書かれた乙武洋匡さんがハワイに来られました。
友人の結婚式に出席されるためだったそうで、奥様とご一緒でした。
私はお会いするチャンスはありませんでしたが、教会の鈴木さんにいろいろと様子を聞かせていただきました。鈴木さんのメールをご紹介します。

「乙武さんの写真です。
彼はいつも写真のようにニコニコしています。
車椅子への乗り降りは自分で、ペンは肩と顎にはさんでサイン、
写真はカメラを肩と顎にはさんで舌でシャッターを押します。
食事もフォークを肩と顎にはさんで自分で、車椅子の操作は
私の手元にある木のレバーに顎を乗せ左右、前後、上下の操作をします。
全く見事です。」




乙武さんと写っているのが鈴木さんです。
鈴木さんはハワイで障害者のためのリムジン・サービスの仕事をされています。
彼は心をこめてお客様のお世話をされ、「彼らが障害にめげずに家族が愛し合い助け合っている姿を見ていると、こちらが励まされます。」といつも言われます。
ハナウマ・ベイのツアーもしておられますが、お一人お一人の身体の状態にあわせて様々な工夫が必要なようです。苦労の甲斐あって海に浮かんで海中めがねで魚を見たお客様が大喜びされるのを見るとき、彼の胸も喜びで一杯になるそうです。
鈴木さんの中にあるキリストの愛にきっと多くの方が暖かいものを感じられると思います。
お客さんたちは帰国するときは、みんな鈴木さんの「お友達」になって帰られるそうです。
素敵なお仕事ですね!(おわり)


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07 02月

夢と計画が実現する年ー2007年 ボブ・ホッチキン 2月7日


2007年―夢と計画が実現するように
ボブ・ホッチキン


2006年―自分の考えが死なねばならなかった年

最近私は、主が2007年に何を計画されているのかを尋ね祈っていました。そして主が、今年は「夢と計画が実現する年である」と言われたように感じました。
2006年には、多くのクリスチャンは、主が私たちの心に与えられたことを祈りに祈り、宣言に宣言をし、信じに信じてきました。しかし、多くの者にとっては期待したように物事が起こらず、その経験は様々な疑問や苦しみをもたらす結果となりました。 彼らが、きっとこのようになるだろう、と想像し期待したようなことは起こらなかったのです。

けれども、落胆してはいけません。神は私たちを無視されたのではありません。私たちを忘れたのでもありません。私たちを捨てたのでもありません。主はご自分がどのような方であるかを示す、より大きな啓示を受けられるように私たちを整えておられたのに過ぎないのです。もっと大きくて素晴らしいものを受けられるように、私たちを準備しておられたのです。

2006年は、私たちが「神はこのようにされるであろう」と考えていた自分勝手な思いが死ぬのを、神が許された年だったのです。
私たちが信じるように主が与えてくださった夢や計画が死んでしまったのではなく、ただ、主はこのような方法でこのようにしてくださるだろう思い描いていた「自分の考え」が死んだのです。それは主がもっと大きくて素晴らしいことをなされるためです!

しばしば、自分の計画や約束が実現しないとき、その約束は反故になってしまったと私たちは思ってしまいます。そうではありません。それは、私たちが神をもっと偉大な方として見ることができるようにと、神がそのように事を動かしておられるのです。神は私にいつももっと大きな規模で神は事をなすことを期待するようにといわれますが、それが「どのような方法で」、「どのように実現するか」を自分で決めてそれを期待してはならないといわれます。とかく私たちは、神はこのようにすべきだとか、いつそれをすべきだ、とか知っているように感じてしまうのです。

「神はこういう方である。」、と私たちが決めてしまって自分自身を閉じ込めてしまっている箱の中から、私たちを解放して、主はとてつもなくすごい方であり、無限な方であることを、主は私たちにもう一度知らせたいのです。なぜならば、ただ単に神の約束が実現することではなくて、神が約束を実現してくださるとき、それによって神ご自身がどれほど偉大な神であるかを知ることが、私たちの心の奥からの真の願いであると、主は知っておられるからです。

主は私たちを驚かすのが好きなのです。主は約束されたことを、ご自分がどのような方であるかをもっともよく表す方法で実行したいと思っておられます。私たちが「主の道は我々の道より高い」ことを知って信仰にとどまり、祈りと賛美をもって神を敬い続けるならば、2007年こそ「夢と計画よ、出て来なさい!」と主が叫ばれるのを聞く年となるのです。そしてその現われ方は、神の素晴らしい新しい一面を私たちに示すものであり、それによって私たちは以前にも増して、主を称え、愛するようになるでしょう!

ラザロの復活

ヨハネ11章にラザロの復活の話があります。ラザロとその姉妹マルタとマリヤはイエスの親しい友でした。主は何回も彼らを訪れています。マルタはイエスのために料理をしました。マリヤはイエスの足元で主をあがめて座っていたり、また、香油をイエスに注いで自分の涙と髪の毛で主の足を拭いこともありました。この家族は心から主を愛していたのです。そして彼らは主から愛されていることも知っていました。実際、ラザロが病気になったときイエスのもとに遣わされたものは、「あなたが愛しておられる者が病気です。」といいました。(ヨハネ11:3)

彼らは、主を愛していたばかりではなく、主をよく知っていました。彼らは主がメサイヤであることを知っていました。主が神であることを知っていました。そして、彼らに助けが必要なときには、主は必ず来てくださることを知っていました。ですからラザロが病気になったとき、マルタとマリヤは、私たちと同じことをしました。祈ったのです。つまり、主に言葉を送ったのです。彼らはイエスが自分たちを愛しておられること、主が癒し主であること、主がよい方であり神であることを知っていたので、マルタとマリヤは主がすぐに来られて助けてくださると期待しました。

神は私たちが「主は必ず助けてくださる。」、と期待することを望んでおられます。主は信仰に報いてくださる方です。しかししばしば、主の方法とタイミングは私たちにとって初めは理解しがたいときが多いのです。
イエスはこの家族を愛しておられました。主が私やあなたを愛しておられるのと同じように、完全に永遠に、そして熱情をもって愛しておられたのです。ヨハネ11:5には「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」とはっきり書いてあります。 主は彼らを真に愛しておられた故に、彼らが助けを求めたときに(主が彼らの祈りを聞かれたとき)主はすぐには来られなかったのです。(ヨハネ11:6) これはちょっとおかしいのではないでしょうか。私たちにも、マルタやマリヤにとっても不可解なことでした。しかし、神にとっては「全くよいこと」だったのです。


イエスはマルタとマリヤを心から愛していたからこそ、彼らの祈りに対して彼らが予想したような対応をされなかったし、また、彼らがいいと思うタイミングにはされませんでした。主は彼らを愛していたのでラザロがこの病気で死んでしまうまで待っておられたのです。それがマルタとマリヤにとって(勿論ラザロにとっても!)大変な事態であることを主はご存知でした。彼らが予想し期待したのとは全く違う事の展開であることも知っておられました。主のご計画は、彼らが主とはどう言う方であるかを、もっと深く知るための啓示をもたらすことにあったのです。

神は、このように私たちが困難な苦しいときを経験することを許されるのです。主は私の祈りを聞いてくださらなかった、答えてくださらなかった、信じてきた主の約束は死んでしまった、と感じる苦難のときです。それは、主が私たちが想像もしなかった方法で現れてくださり、主が私たちにとってどのような方であり、どのようなことをしてくださるかをもっとよく知らせるためにそうされるのです。

マルタとマリヤは、イエ
03 02月

愛の道具   坂 柚実子  2月3日


愛の道具

私はインターネットで楽天家庭農園のサイトを見ています。ハワイに来てから畑をしているので参考にさせてもらっています。畑で野菜や花を作っている人たち同士の会話は、お天気や土つくりの話等で、ややこしくなく心が和みます。人が土や野菜と語りながら時間をすごくことは、心のバランスを保ってくれるようですね。

私の母の畑は、花や野菜と共に、雑草も同じように愛されて大きな顔をしているような畑でしたが、私たち5人の娘(私は末娘です)はみんな花を愛し土と親しむことを教えてもらったようです。
先日一番上の姉からこんなEメールが届きました。

「 おはようございます。
この花は教会へ行く道に咲いている素心蝋梅(ソシンロウバイ)
です。もちろん知っていますよね。とてもよい香りです。
教会に行く時、立ち止まって見ていたら、その家の方が
枝を切ってくださいました。教会に持っていって、ピンクの
チューリップといっしょに花瓶にさしました。
その日は寒かったのですが、会堂の中は春が来たようでした。」




      


姉がこの花を何分立ち止まって見ていたのか知りませんが、お家の方が気がついて枝を切ってくださったなんて、本当に素敵ですね。
ちょっと映画の一こまのような、ほのぼのとした気持ちになりました。

これで思い出したのが、オレゴンの友人夫妻のことです。
彼らは自分たちの家の農地のように広い敷地に野の花の種を沢山蒔きました。花が一面に咲いたころ、柵に「Make Your Own Bouquet どうぞご自由に花束をお作りください。」という看板をかけ、花ばさみもかけておきました。その道を通る人たちが大喜びで好きな花束を作っていきました。そして多分誰かが持っていってしまうだろうと思っていた花ばさみも、なくならなかったそうです。彼らの純粋な心が人々にも通じたのでしょう。

「小さなかごに花をいれ さびしい人にあげたなら
 部屋に香りみちあふれ くらい胸もはれるでしょう
 愛のわざは小さくても 神の御手がはたらいて
 悩みの多い世の人を  明るく清くするでしょう
                    グラント・テュラー」

マザー・テレサは「小さなことを大きな愛をもってしなさい。」といわれたそうです。花は愛の道具として神様が作ってくださったのかもしれませんね。(終わり)


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