Walk With God Ministries
Archive for 1月, 2007:
31 01月
2007年への多くの預言をどのように受け取ればよいか
今年2007年に対する預言を、私たちのインターネットHPで今まで4つ5つご紹介させていただきましたが、年頭に今年ほど多く預言がなされた年は、私としては今まで見たことがありません。今までご紹介したもの以外に今私たちの手元には少なくとも後10程あります。
これ等の預言は皆少しずつ内容が違いますが、それぞれ預言的な方たちが主から個人的にいただいたものであることを私は疑いません。個人的に受け取ったものであれば、その人その人で置かれている状況が異なりますから、主からいただく預言が違って当たり前です。しかし、多くのことで共通しておりますのでそれをまとめてみますと三点あります。
一つは今年は天変地異、地震、大風あるいは大きな災難が起こるという預言。一つは、今年も昨年に続いてより激しい変化・変革が起こり、前進の年であるという点。もう一つは、今年はクリスチャンとして非常に期待の持てる「すばらしい恵み、約束が適う年」であると言うことです。ある預言者たちは「昨年はどうしても出来なかったことが今年こそ実現する」と言っています。
私はこれら多数の預言を見ているうちに、新年も日が経つにつれ私の「霊が騒ぐ」と言いましょうか、いよいよ、風雲急を告ぐ時に入ったという緊迫感が強まって参りました。そして主から示されたのはバプテズマのヨハネのことでした。
マタイ11:12 でイエスは「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と言われましたが、この表現ですと御国が敵によって激しく攻められているように受け取られます。確かにそうなのです。しかし、イエスの言われたのは、その意味も含みながらも、実は天の御国とはそれを激しく求める人たちによって勝ち取られて行くもの―イエスの御国とはそのように激しく求め、激しく戦う人たちによってのみ築き上げられる王国であると言う意味です。言葉を替えれば、キリストの王国の弟子とは「なまぬるいクリスチャン」とは似ても似つかない、徹底して聖く激しいラディカルなクリスチャンなのです。その「聖さ」「激しさ」を身をもって紹介したのがバプテスマのヨハネである訳です。
11節でイエスは「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(新改訳)と言われました。ここで言う天の御国とはイエスの(メシアニック)王国のことです。ヨハネはイスラエルの人たちに、イエスがメシアでありその王国が来たことを正式にアナウンスしました。彼はイスラエル人がイエスを信じ、イエスの王国の弟子となることを勧め、その人たちは「イエスの花嫁」になる人たちであると説明すると共に、自分自身を「花婿の友」と呼びました。(ヨハネ3:29)
しかし主は、ここでヨハネを紹介者ではあっても王国の外にいる〔それ以前の〕人間と位置付けております。その意味でヨハネは人間の中で誰よりも優れた者ではあっても、イエスから直接訓練を受けて王の「花嫁」となる王国の弟子たちとは比較にならないことを明言されたのです。その意図は、キングダム・メンタリティーも持った「王国の弟子・戦士」あるいは「キリストの花嫁」になる人たちの優秀性をイエスが強調されたのであると思います。これは大変なことです。私たちがこれからどんな厳しい訓練を受けるか、又、受けねばならないかがこれから容易に想像出来るからです。
私は現代のクリスチャンであっても、いや終末に生きる私たちこそ、イエスから直接王国の弟子訓練を受け、王の命令を毎日直接聞くことが出来て、総てにおいて王に忠実に従う者にならなければならないと思います。そうでなければ王国の戦士として実戦に出ても使い物にならないからです。
そのような弟子はバプテスマのヨハネよりもっと聖く、もっと激しく求める人でなければならないのではないでしょうか。
ここで見落としてはならないのは、イエスご自身が、事ご自分の御国を建て上げることに関しては、そのような激しく厳しい方であると言う点です。当時のイスラエルの霊的状態と特にパリサイ人を中心としたリーダーたちを、マタイ11:16 ―24でイエスは本当にこれ以上激しい言葉はない程の激しさで責められました。私は今の時代のクリスチャンはまさに当時のイスラエルと似ていると思います。そうであれば私たちは今こそ、この主のメッセージを本当に心して厳粛な警告として受け取らねばならない時であると思います。
特に、昨年まではどんなに宣言しどんなに祈っても起こらなかったことが、今年は実現するという点についてですが、主が示して下さったのは、それは単に手をこまねいていては起きないということでした。本当に夢と幻を実現させたければ、去年の二倍の努力をしなければならないと言うことが私には示されました。
それは先ず、昨年まで一日一時間祈っていた人は二時間、二時間祈っていた人は四時間祈り、熱心に主を求めることです。主により忠実であること、そして、この世的な生き方を出来るだけ排除し、聖く生きることです。そして愛を増すことを示されました。これには相当な決意と「やる気」が必要です。本当に信仰が問われる年であると思います。そうすることによって初めて今年を「やりがいのある年」「何かが起こる年」「勝利の年」とすることが出来ると確信します。
私たちの教会は大人100人余りの小さな教会ですが、祈りを強調する教会の一つであると思います。毎朝二時間以上祈る人が牧師以下、片手の指の数ほどおります。中に毎朝夜明け前の三時から三時間祈る方がおられ、その方は静かに異言で祈るのですが、聞いてみると、内なる聖霊様に「今日は何をすべきか語って下さい」と祈るそうです。そうしていつも主の御声を聞いているそうです。一つの例を語ってくれましたが、或る時、主が今日はどこどこの病院に行って、こうゆう人がいるからその人のところに行って癒しを祈りなさい、と言われたので、行って祈ったら、助からないと言われていたその人が癒されて、今はその人は私たちの教会員になっております。これこそ100%聞かれる信仰の祈りです。私はその方から大変大きな励ましを受けました。
総てが主を求めることから始まります。そして主と親しくなればなるほど、主がより多くより細かいことまで示して下さいます。主の御声を聞く、そのために今年も一層主に近づき、親しく主と共に歩こうではあり
26 01月
霊の父親の年であり改革・革命・大変動・創造の年、
ダニー・スタイン
天からのメッセンジャー
2006年の12月28日のことでしたが、私が寝る用意をしていると一人の天使が我が家の廊下に現れました。一瞬の間に天使は現れ、又、去っていきました。何か大事なことが起ころうとしているからよく注意してなさいと、この天使は私に知らせに来てくれたのだと私は悟りました。
ベッドに横たわっていると、主が一つのスペイン語を私に語られました。それは「Hecho!」という私の知らない言葉でした。それがスペイン語だということはわかりました。その言葉が私の頭から去りませんでした。起き上がって辞書を調べたところ、少なくとも3つの意味を持つ言葉だと分かりました。そしてそれは2007年のために非常に重要な意味を持っていると私は信じます。
主はこの言葉をスペイン語で語られましたから、スペイン語が使われているコミュニティーで何かが起こり始めるのだと思います。この言葉には「出来事event」、「事実fact」、そして「完成! done!」という意味があります。(これは私のスペイン語の知識から言っているのではなく、神様からの啓示によります。多分私の知らない多くの意味が他にあるかもしれません。)
今、非常に大きな出来事が起ころうとしていると思います。現在の状態が、「以前はそんな風だったね。」といわれるような全く過去のものになってしまう出来事です。それはすさまじい重大な異変であり、世界の地理・地形を変えてしまう、又、政治や教会のあり方をも変えてしまうようなものでしょう。
このシフトはすでに始まっていますが、これからどんどんエスカレートしていくでしょう。今起きようとしている出来事は、現在の状況、自然界、又それに合った必要なものを変革(トランスフォーム)していくでしょう。上記で「事実fact」という言葉が示しているように、これらの出来事は必ず起こることであり、私たちはそれに備えなければならないのです。また、全地が待ち望んでいることをもたらすものでもあります。(ローマ8:22) なぜならば、自然界のもの、動物や植物も病や死の中で苦しんでいて、この偉大な出来事を待ち望んでいることを私たちは知っているのです。
変革、革命、激動、創造
その言葉が私に語られたとき、ダニエル8:19「そして言った。『見よ。私は、終わりの憤りの時に起こることを、あなたに知らせる。それは、終わりの定めの時にかかわるからだ。』も私は聞いたのです。私たちは地上で多くの「カイロス」の時を経験してきましたが、これからはそれがもっと起こるようになり、到達したと思った地点はただの入り口にすぎなかったことがわかるでしょう。
今まで教会において神様がして来られたこと、それは新しいと思われたことも含めて総て私たちが通って来た処は、これから起ころうとしていることを私たちが理解して受け入れられるように主が設けてくださったほんの入り口にすぎないのです。これから私たちが大股で歩むようになる神様の目的に達する道程は、今まで歩いて来た道程の10倍、100倍に相当します。ですから単に「変化」などという言葉では表すことができないほどの大きなことが起こるのです。
それは変革、革命、激動、創造というような言葉の方がぴったりでしょう。創造主なる神は、ただ「方向を変える」だけではなく、新しいことを力強く実行されることによってご自身を現されるでしょう。
民数記16:30「しかし、もし主がこれまでにないことを行なわれて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」
イザヤ42:9「先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」
聖霊が風と火のように下ったり、アナニヤとサッピラが裁かれたり、異邦人にも福音が伝えられたり、死人がよみがえったり、使徒の影で癒したが起こったり、家々で集会がもたれたりというような多くの初代教会の出来事は、その時代のクリスチャンにとっては「新しいこと」であり、それは驚くべき実を結びました。
それと同じように、今年キリストの教会に「新しいこと」が起こり、同じように驚くべき実を生らせていくのです。出来事のあるものはポジティブであり、あるものはネガティブでしょう。しかしいずれにせよその実は、創造主なる神が新しいことをされていることを証明するものとなるでしょう。
政治的闘争に入る人たちは、人々の心が変化するので旧態依然とした古いものを民衆が支持しなくなることを知るでしょう。人々は今までの政治家たちを古い型の人間とみなし、新しいリーダーが今までとは違う方法で物事を解決していくのを期待するでしょう。一部の政治家の心に真に臣民を思う王の愛が入り、すべての人がそれを愛と認め歓迎するでしょう。実際、それは効果を示していくので、政党を超えて多くの人々によって支持されるようになるでしょう。これは反キリストの霊ではなく、神と共に歩く神の子供たちによるものであり、彼らは愛をもって着実に導いていくでしょう。
教会に新しいものが与えられる
教会においては、「形式」から「力」へという大きな変化があるでしょう。神の民は、人の手によって水増しされた信仰や人間が作った教義に対して黙っていなくなります。彼らは目覚め、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になっているからです。こういう人々を避けなさい。(IIテモテ3:5)」といわれている人たちに対して大胆に語るようになるのです。その結果として、神が安息されるところを提供するかわりに、神の民に安息の場を提供する人々のところでは、大きな摩擦が起こるでしょう。
いろいろな大組織が持つ建物は、ほんの一握りの人たちに残されてどうにか運営しようとしますが、やがて、不正な者たちに渡されます。しかし、彼らにはその建物の使い道がないので、教会にそれを運営すべく手渡します。最後に笑うのは主です。主の臨在を拒む者も主の力を見ることになります。神は侮られる方ではありません。そして主の教会も笑いものにはならず、主の民は、聖さ、力、愛を持つようになります。
私は次ぎに、「南からくる嵐が、北の金かすを飲み尽くす!」という声を聞きました。南からの風というのは、「暖かさ」がやって来ることを示しています。南風は主の
力をあらわしています。神の力は神の愛の暖かさに方向づけられています。主の愛は北に満ちて、周りに静けさをもたらします。この静けさは「小休止」 となり、このことが、それ以外に今年起こることを引き離して特別に意味深い「出来事」となります。
詩篇78:26「神は、東風を天に起こし、御力をもって、南風を吹かせられた。」
ヨブ37:14-17「これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。 あなたは知っているか。神がどのようにこれらに命じ、その雲にいなずまをひらめかせるかを。 あなたは濃い雲のつり合いを知っているか。完全な知識を持つ方の不思議なみわざを。 また、南風で地がもだすとき、あなたの着物がいかに熱くなるかを。」
天においては「終局」が用意されるでしょう。これから主がもたらすことの多くは、「主が間もなく出されようとしているご馳走」を載せるために「テーブルの上(に載っている今までのもの)を片付ける」ためです。このことは私が何年も前に見たヴィジョンを思い起こさせます。そのヴィジョンの中で、主は教会の中の熱いものと冷たいものとを最終的に分ける決意をされると言われました。そして、その主の決断はすばやく、はっきりと、感情ぬきでされるのを見たのです。
若いクリスチャン達のヴィジョン―すべてのものが参加する仕事
1990年代の初めに私はもう一つのヴィジョンを与えられたのですが、その中で若者達が劇的な救いの回心をするのを見ました。ヴィジョンの中で、私は当時私たちが使っていた倉庫の中にいました。その中の人たちは3つのグループに分かれていました。
最初のグループは外に出かけて、「ベービー」を集めて手押し車に乗せて来ました。彼らは手押し車一杯の赤ちゃんを床に上にドサッとあけました。赤ちゃんは床に落ちるやいなや、すくっと立ち上がって若い女性や男性となり、「完全に訓練されている者」となりました。2番目のグループが彼らの世話をし、訓練する人たちだったのです。
第三のグループはとりなしと癒しのグループで、外に出て行くもののためや、イエスを信じるようになったもの、また、新しいクリスチャンの世話をする人たちのために熱心に祈っていました。キリストの真の教会では、傍観者は一人もなく、すべての人が働くのだと主は言われました。クリスチャンであるということは、「機能する」ということであり、ただ信仰団体に属しているだけではないのです。やがて倉庫は若者であふれるようになりましたが、彼らは若いにもかかわらず成熟していることがはっきりわかりました。彼らはこれから起ころうとしている「イベント」のために用意が完全に調えられておりました。そのイベントによって主の名はこの世に存在する何よりも誰よりも有名になるのです。若者たちが出て行く前に「小休止」がありました。
そのヴィジョンはマンガの形で見せられたのですが、主イエスがすべてのことが調えられているのを見て微笑んでおられるのが分かりました。
主の食卓は調えられた
主は、主の民を養われる食卓を調えられています。ヨハネ4:34-36「イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」
神の民の食物とは、肉の食糧ではなく、天の実なのです。主の食卓は私たちに食糧を与えるものではなく、実に子羊の大宴会…それは永遠に続くもの…なのです! 神からのいのちと繁栄の約束は、私たちの心の中に宣べ伝えられたみ言葉なるキリストに聞き従うことです。天からの声が「これが道である。これに歩め。」
と響いてくるのです。
最も大事なことは、私たちが主の語られるのを聞いて、その声にただいつも従えばよいのです。主が私たちの前に食卓を調えてくださるとき、聖霊が私たちに言われる促しの声に耳を傾ける時がきたのです!
申命記30:14-20「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。 見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。 私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、 きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、 あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。私たちがしなくてはならないことは、神が私たちの人生に与えてくださった召しと目的を放棄しないことです。
II歴代誌13:10-11「しかし、私たちの場合は、主が私たちの神である。私たちはこの方を捨てなかった。また、アロンの子らである祭司たちが主に仕えており、レビ人が仕事をしている。 彼らは朝ごとに夕ごとに全焼のいけにえを主にささげ、かおりの高い香をたき、並べ供えたパンを純金の机の上に整え、金の燭台とその上のともしび皿には、夕ごとに火をともしている。私たちは、私たちの神、主の戒めを守っている。それに反し、あなたがたはこの方を捨て去った]
私たちは神へのささげものを神からのものではないものとごちゃ混ぜにしないで、清い純金の机の上に置かねばならないのです。イエスが神殿で両替人の机をひっくり返したのは、神殿を清めて「祈りの家」にするためでした。
光と暗やみは共存することはできません。光は暗やみを照らしだし完全に追放します
16 01月
2007年には変化の激しい風が吹く
キャシー・ウォルターズ
去年11月の末にアイルランドにいた時のことですが、私は一つのヴィジョンを見ました。それは、ある街に非常に強い風が吹き始めるというヴィジョンでした。その街を一人の女性が歩いていました。その女性は赤いコートを着て、頭には赤いスカーフをかぶっていました。赤いコートを見たとき、私はその女性がイエスの赤い血で覆われた教会を表していることが分かりました。赤いスカーフは彼女のライフスタイルを表していると感じました。私たち教会は王冠をかぶっていなければならないのです。
すると強い風がその女性の後ろから吹いてきて、彼女を道のはずれまで吹き飛ばし、曲がり角を回らせました。女性のスカーフが吹き飛ばされると、女性は軽やかに笑いはじめ風を楽しむ様子でした。次の日にアイルランドでは、時速80マイル(128キロ)の風が実際に吹きました。
2週間前に主がアメリカで同じ言葉を下さったときも、翌日にアメリカ北西部では時速80マイルの風が吹き荒れたのです!
揺れ動く中で賛美せよ「揺れ動かす方の中にとどまれば揺れ動かされることはありません。」
地震や嵐、その他多くの自然災害のニュースが毎日のように入ってきます。ですから神のみ心の中にとどまるのが一番安全です。
パウロとシラスが「奥の」牢に入れられていたとき、(これは牢の中の牢ということで2重に悲惨な所でした)足かせを掛けられ、背中からは血が出ていたのですが、彼らは主に賛美の歌を歌っていました。
賛美の力で何が起こったと思いますか。地震です! 獄舎の土台が揺れ動き、扉が全部開き、すべてが揺れ動く只中で看守が救われました。すべてが揺れ動くときには揺り動かす人の中にとどまるのが一番です! 主の中にいれば揺り動かされることはありません。
変化の風
話を風にもどしましょう。変化の風がすでにあなたの周りで吹いています。神はあなたのヴィジョンを変えて拡大しようとされているのです。主はあなたを整え、偉大なる目標に向けてあなたを解き放ちたいのです。
主はあなたが自分自身を見る目を全く変えてしまいたいのです。風が吹いてくるとあなたは物事の全貌を見ることができるようになります。あなたは風に吹き飛ばされて角を曲がり、方向を変え、過去においては少ししか分からなかったことがよく分かるようになります。全貌のわかる大きな構図の中へとあなたは歩み始めるからです。
エレミヤのことを考えてみてください。エレミヤという預言者はまだティーンエイジャーでした。まだ若僧だったのです。まだ経験も浅く、ミニストリーも大きく発展してはいませんでした。実際、彼は預言者としての召しが恐ろしくて、逃げ出したかったのです。彼が「私は何者でしょうか。まだ子供にすぎません。」というと、神は恐れてはならないと言われました。(エレミヤ書1章)
神はエレミヤに「あなたは何を見ているのか。」と尋ねられました。エレミヤは「アーモンドの枝を見ています。」と答えました。神は「わたしはお前のヴィジョンを好ましくおもう。そのようにしよう。」と言われました……というのは、私の私的解釈ですが、み言葉によると「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」と神は答えられました。(エレミヤ1:12)つまり、エレミヤが信仰で見たことを神は行われたのです。
あなたに次の質問をさせてください。「あなたは今日、何を見ていますか? あなた自身に関して何を見ていますか?」と。まずあなた自身のことから始めねばなりません。そして、それを信仰の目で見なければならないのです。聖霊があなたのために見ておられるものを、あなたも見ることができるようにお願いしなさい。そしてあなたもそれを見て、それに同意し、それを追求していかねばなりません。
古い昔のテレビを覚えていますか。ブラウン管が古くなると映像がだんだん小さく縮んでいきましたね。あなたもそれと同じように縮んでいる映像を見ているのです。私たちは主が見ておられるような縮んでいない映像を信仰によって見なければならないのです。主はあなたに全体像を見せたいのです。信仰でそのビッグ・ピクチュアーを見なさい。
ほとんどの人が見ている自己像は、周りの環境や家族、学校、先生、牧師、大学、そして友人というようなものに影響されて小さくなってしまっています。
あなたは神があなたを召してくださったことをする能力があるのです。そしてそれは、あなたが思ったよりもずっとずっと大きいことなのです。
私たちが毎月給料日から給料日まで余裕なく、食べるだけで精一杯のあくせくした暮らし方で生きるのが神のみ心ではありません。食べる以外になすべきこと、行くべきところがあるのです。神は御国を建てるために単なる労働者を求めておられるのではありません。主は、主の息子、娘たちが立ち上がるのを待っておられるのです。油注ぎはあなたが自分で(あくせく)しようとしている業の上に注がれるのではなく、(主にゆだねた)あなたを通して主がなさる業の上に注がれるのです。
変化をもたらす風はあなたをもっと大きな場所に連れていきます。神があなたに約束されたものは曲がり角を回ったところにふんだんに用意されています。角を回るということは、あなたが方向を変えねばならないということです。神はあなたに6ヶ月前に言われたことを、今も言われているとは限らないのです。
マタイ4:4でイエスは、私たちは「神の口から出る言葉」によって生きるべきであると言われました。それは「神の口から今日出てあなたに語られる言葉」という意味です。昨日とか一年前とかではなく、「今日語られるみ言葉を聞くこと」によって生きるのです。今日与えられる言葉によって進む一歩ごとに、あなたは(元からある、完成された姿である)「あなたのヴィジョン」に近づいていくのです。
あなたの見ているものを恐れずに信じる
もう一つ質問させてください。「あなたは何を見ていますか? 信仰で何を見ていますか?」 もしあなたが神に委ねた生活をしているのなら、神はあなたの心に神の願いをあなたの願いとして入れてくださったのです。その願いはただ夢見るためのものではありませんし、また、「いつか、ある日」という漠然としたものでもありません。それは今、この時、今年実現できる願いのことなのです。
神の与える変化に対
してあなたは2つの態度をとることができます。
一つは、変化することに抵抗することです。それをすれば非常に苦痛に感じるでしょう。慰め主(Comforter)ほどあなたに苦痛を与え居心地悪く(uncomfortable)される方はありません。
あるいは、変化することを歓迎してそれを楽しむことです。変化を喜んで受け入れて冒険に挑むのです。これを読まれるほとんどの方は、過去に、今にも折れそうな細い枝の先にまで追いやられた経験を持っておられると思います。しかし、本当のチャレンジはあなたがしがみついているその枝の元を切るのこぎりの音が聞こえたときにやってきます。そして神はそのためののこぎりを沢山もっておられ、それを使う天使たちも沢山用意されているのです。
ゆっくり考えてください。神があなたの心の中に入れられたことがはっきり表れるのを待ち、それを見たときには恐れずに信じてください。他の人が、またはあなた自身が自分を閉じ込めてしまった箱の中から外を眺めてください。それから脱出するには、あなたにそれをする能力があるとか、ないとかとは全く関係のないことで、主の霊があなたの中やあなたを通して動くことにあるのです。
イエスは死んでよみがえったとき、あなたがそれをする資格を100%与えてくださいました。あなたが信仰で見ているピクチュアの中に進んでいくのを引き止めるものは、あなたの不信仰以外には、なにもないのです。
2007年をあなたの年とする
風の音が聞こえますか?バルサム樹の林の上に風が吹いているのが見えますか?
I歴代誌14:15「バルサムの木の上に行進の音が聞えたならば、あなたは行って戦いなさい。神があなたの前に出てペリシテびとの軍勢を撃たれるからです。」 ペリシテ人は盗人でした。収穫物を毎年盗んだのです。盗人(サタン)にあなたの収穫物を、また、ヴィジョンを盗まれてはなりません。
2007年はあなたが箱の中から出て、偉大なものの中に足を踏み入れる年になりえるのです。よく聞いてください。「キリストのからだ」である教会に今、油が注がれています。壇上に並んでいるほんの一部の人の話をしているのではありません。神が召されているのは一握りの人だけではないのです。神はあなたがた教会を召しておられるのです。風があなたの上やまわりに吹いています。あなたはその風に身を委ねなければなりません。今は、あなたの時なのですから。(終わり) トップページへもどる
12 01月
いにしえの油注ぎの目覚め
デニス・クレイマー
2007年は記念すべき年となる
このことを覚えておいてください。2007年は記念すべき年となります!世界の国々はもはや霊的に眠ったりまどろんだりしなくなります。2007年に国々は目を覚まし、神の御国になるという最終ゴールにむかって進んでいくでしょう。アブラハム、イサク、ヤコブの神が永遠のご計画の中で、個々の国にために定められたユニークな姿を目指して進みはじめるのです。たとえある国々はどのような宗教を今日まで信じてきたとしても、すべての国家は神のなさろうとしているこのみ業から逃れることはできません。そのみ業とは、それぞれの国が神から与えられた元々の存在目的に向かって歩み出すようにと聖霊を通して働きかけられることです。
すべての国に対して、一つ、又一つと次々に神はそのプロセスをはじめられるでしょう。それは超自然的な出来事であり、しばしば国中に影響が出るような規模のものでしょう。そして、そのうちのある出来事はよいことであり、また、あるものはあまり良くないことですが、すべての出来事はその国が持っている「いにしえの油注ぎ」を呼び覚ますために起こります。それぞれの国を呼び覚ますための的確な標的があり、神の弓矢がそれをはずすことはありません! もう一度言わせてください。神は決して的をはずしません。その国がキリスト教やユダヤ教、イスラム教やヒンズー教、神道、また、たとえ無神論の国であったとしてもです。
すべての国が神の的
それでは「その国のいにしえの油注ぎを目覚めさせる」とは、どういうことでしょうか? 先ず、「目覚めさす」とは、「喚起する、奮起させる、意識をとりもどさせる、鼓舞する」 という意味です。2007年には、全能なる神はまさにそのことをされるのです。国々を霊的意識不明の状態から目を覚まさせ、鼓舞し、奮起させて、霊的覚醒へと導くのです。
それでは何に目覚めさせるのでしょうか?その国に与えられているユニークな存在目的、目標を成就させるために目覚めさせるのです。新たに見出した神の国としてのアイデンティティーをもって、神が持っておられる計画へと奮起させます。そうです、神はすべての国に「神の御国のご計画」を持っておられるのです。彼らがそれを知っているか知らないかにかかわらず、また、彼らが現時点でそれを求めているか否かにかかわらず、神はすべての国を神の王国にされるのです。
次に、「油注ぎ」という言葉は常に、はっきりとした目的のもとに、神の力を伴って顕わされる「主の臨在」を示しています。そしてそれは聖霊を通して現れます。すべての国家は誕生の時、即ち、国が存在し始めたときに、神からユニークな「油注ぎ」を受けました。神のその国に対する「油注ぎ」、即ち、その国のためにだけ確保されている神の特別な顕われ、顕在こそが、その国を他のすべての国の中で特有なものにしているのです。
二つとして同じ「油注ぎ」を受けた国はありません。一つの国の「油注ぎ」は伝道かもしれません。その国は力強い伝道者たちを育て世界中に送りだすでしょう。また、他の国の「油注ぎ」は、しるしと不思議かもしれず、世界中から人々が神の生生しい力を体験するためにその国にやってくるでしょう。また、他の国はある種の霊的指導者たちを生み出すために存在しているかもしれません。たとえば、ある国は牧師を立てあげることができたり、またある国は預言者を、またある国は使徒をという具合にです。そしてそのすべては国家的な規模で起こるのです。
なぜならば、2007年には、それぞれの国に特有な油注ぎが以前より明らかとなり、それは神の御国の発展に大いに役立つのです。その国の油注ぎを無駄にするということは全く残念なことであり、神は決してそんなことが起こるのをお許しになりません。これからは世界の国の動向から目を離さないでください!それぞれの国の油注ぎが今からもっとはっきりしてきます。神のみ業は、人の目につかない片隅で行われるのではないからです。(使徒行伝26:26参照)
第三に、「いにしえの」という言葉は、ずっと存在してきたもの、長い間持続してきたもの、時の初めから確かに存在してきたものであることを表しています。それは、もう時代遅れであるとか、もう通用しないとかでは決してありません。いにしえからのものとは、初めからあったものであり、今それを再び取り戻して、これから適応していかねばならないものです。2007年に、神はまさにそれを開始しようとしておられます。神はそのプロセスを始められて、多くの国家が彼らの(それは即ち神の)元々の目的(計画)にもどるように、「かれらのいにしえの油注ぎ」を生き返らせるようにされるのです。
年を経た方(The Ancient of Days)
イエス・キリストが油注ぎを解き放つ鍵をもっておられます。年を経た方であられるイエスが今年国々のいにしえの油注ぎ(ancient anointing)を解き放ち始められるでしょう。それが出来るのはイエスだけです。イエスだけがすべての国々のために当初からの霊的目的を呼び覚ますことができるのです。「いにしえの油注ぎを目覚めさせる」とは、建国以来存在していたけれども、失われてしまっていた主の力ある顕在を呼び起こし、劇的に目覚めさせ、生き返らせることです。
それは、とりもなおさず、主があなたや私を使って国家的な規模で悪魔が盗んでいたものを取り返し始めるということです。思い出してください。地は主のものであってサタンのものではありません。すべての国は神に属しています。神の地所を霊的に横領するという何世紀にも渡ってサタンが犯してきた犯罪は終わるのです。神は多くの人々をサタンの暗やみと絶望から解放してくださるので、サタンはすべての人々をコントロールしてきた権利を今放棄せねばなりません。盗人(サタン)は、盗み、殺し、滅ぼすために来ました。イエスは国々が主のいのちをもっと豊かに得るようにするために来られました。イエス・キリストはこのサタンとの戦いに必ず勝利されます。見ていてください!
天使が「目を覚ませ、目を覚ませ、目を覚ませ!」と叫びながら飛ぶ
2007年はまた、多くの国々が先ず揺り動かされ、それから目覚めさせられるでしょう。ある国々は、芯から激しく揺さぶられます。どうしてでしょうか?それは多くの国が何世紀にも渡って、まがいものの文化、即ち、彼らの創造主である神によるのではないサタンの文化の中で生
05 01月
2007年―み言葉の解き明かし、預言、夢、ヴィジョンが拡大する年
リック・ジョイナー
私たちが勝利するために特別に延長された恵みの期間
2007年には、クリスチャンが新年に抱いた抱負・希望事項を実現するための恵みを神は再び与えてくだいます。2006年には多くのものが打ち破りを経験し、長年の間敗北し続けてきた事柄にも勝利することができました。しかしながら、主の恵みを自分のものとする努力をしなかった人たちも沢山いました。けれども主の恵みは2007年にも引き続き与えられます。信仰と忍耐をもってこの恵みを獲得するものは、勝利を得て、敗北でなく勝利の新しい人生を生き始めることができるのです。
2007年には多くのクリスチャンが「勝利メンタリティー」をもって歩き始めるので打ち破りが起こり、多くのものが解放されていきます。あらゆる問題を克服していくことがクリスチャンとしての顕著なしるしであると、この世の人々は認識するようになります。
2007年にまで延長されたこの特別な恵みは、今まで私たちを抑えてきた悪の要塞を打ち壊すために与えられるのですが、そのためには私たち自身の鍛錬、努力も必要です。御霊の実である自制心を持つことは、私たちが真に主に従順に従っていくことを望んでいるかどうかを証明するものです。
「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」(Iペテロ1:13-16)
主の恵みは弱さのうちに完全に現れます。そして、主は私たちの弱さをご存知であり、心から解放されたいと願うものには恵みを与えてくださるのです。私たちにその願いが本当にあるかどうかは、私たちの献身、決意、訓練の態度によって証明され、それらの上に主は恵みを加えてくださいます。そして、私たちが一つのことに勝利するだけではなく、すべての事に完全に勝利するまで、主は恵みを与え続けてくださるのです。
平安、喜び、啓示が与えられる
「主の多くの秘密が主の預言者や主の忠実な友たちに示される。」
2007年は勝利の年となるだけではなく、あなたの人生で最高の年となる可能性を持っています。今年は多くのものが勝利のうちに平安と喜びを経験するようになり、それは周囲の人にも影響を与え、平安と喜びは広がっていきます。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14:17)
私たちが主の目にかなうことを行い、正しく生きるならば、恐れと苦しみが満ちているこの世の中でも、超自然的であると人々が思うほどの平安と喜びを私たちはますます経験することができるでしょう。主に心から従うものは、この世のものとは違う霊で活動していくので、社会の中で劇的で説得力のある方法で人より抜きん出て活躍することができます。
2007年はみ言葉の啓示、預言、夢、ヴィジョンが拡大していく年になります。多くの者が突然別世界に移されて神の国のヴィジョンを見たり、地上にこれからもたらさようとしている事柄を見たりします。主の多くの秘密が主の預言者や主の忠実なる友たちに啓示されますが、それよりも偉大なことは、多くのクリスチャンが主ご自身を探し求めて、主を見出すようになることです。
流れる川のヴィジョン
「クリスチャンはその愛によって知られる」
私は、金と銀が液体となって流れる川が主の御座から地上に流れているヴィジョンを見ました。この川を見つけてそこから飲む者は、非常に飢え乾いて神を求めるようになり、その流れの源までたどっていき、御座に座る方のところまで行き着きます。そのように主の方にむかって歩き始めたものは光をさらに見ることができ、歩むべき道がもっとはっきりと見えるようになります。
銀は贖いを表す
この川の銀は、私たちに流れこむ贖いの恵みを表していて、もし私たちがそれを受け取るならば、私たちの人生のすべてのものを贖いはじめます。人間関係や今まで犯した間違い、また私たちや私たちの愛するものたちが事故や敵の攻撃によってうけた傷をも癒してくれます。神を愛し、主の目的のために召されたもののために過去のすべてのことを主は益としてくださるのです。
金は神のご性質を表す
この川から飲むものは、飲むうちに神のご性質に変えられていきます。型にはまったようなマンネリの霊的状態の中に落ちこんでいたものも、そこから這い出し、自分を長い間縛っていた悪の要塞を克服し、真に御霊の実を表すようになります。クリスチャンはその愛によって知られるようになります。
人間に与えられる最も偉大な賜物は、神への飢え渇きであり、神の道を知りたいという深い願望です。神を探し求めるものにはその飢え渇きが増していきます。もし、あなたがこの飢え渇きに応答するならば、あなたは主と主の声をもっとよく知るようになり、今までよりもっと忠実に主に従うようになります。主の平安と恵みがあなたの上にあり、あなたの人生でもっとも生産的で収穫の多いときとなるでしょう。
主と時をすごす
「主のみ言葉だけではなく、言葉そのものである主ご自身の声を聞くことを求めなさい。」
今の風潮であるなまぬるさを打ち捨てて、自分の人生に対する主のみ心を心から求めるものの上には、劇的な変化が起こるでしょう。しかしながら、これらの劇的な変化は少しずつ起こっていくでしょう。もしあなたが祈りの中で主と1時間すごすようにと示されたけれども実行するのが難しいならば、5分から始めなさい。どんな仕事も小さいステップに分けさえすれば実行可能であることを忘れないでください。1日1時間しようと思うとくじけてしますが、誰でも5分ならばできるのです。1日5分間すれば、祈りと主の臨在のすばらしさがだんだんに分かり、やがて10分、20分と時を過ごすようになるでしょう。そして1年経つ頃には、1時間でも足りないと思うようになっているでしょう。
祈りと同じように、すべてのクリスチャンは毎日聖書を読むべき
だと思います。そうでないとあなたの霊的生活は、よくても貧血状態になってしまいます。しかし、あまりたくさん読まないようにしてください。1日1章から始めてください。み言葉への飢え渇きが増すにしたがって徐々に増やしてください。主のみ言葉だけでなくてみ言葉なる主ご自身の声を聞くように求めてください。
多くの人がテレビをしばらく見ない(テレビ断食)をすることによって人生が変えられることを経験しています。ある人たちはそれによって非常に変えられたので、テレビをもう捨ててしまったほどです。もしテレビが、あなたが主や家族と本来は過ごすべき時間を奪いとって、あなたの命を吸い取っているならば、1週間に1日だけでもテレビを消してその時間を主と過ごしたり、家族との団欒に使ってみてください。あなたの人生や家族の人生は変わることでしょう。
そして1週間に1日から始めると、もう1日テレビなしにしたいと願うようになることでしょう。やがてほとんどテレビをつけない自分に気がつき、テレビを見るとしてもただ何かやっていないかとチャンネルをあちこち回すのではなく(これは霊的生活が空っぽで目的がないときの症状ですが)本当に見たいものだけを見るようになるでしょう。
人々の人生があるべき秩序に戻される
今年主を求めるものたちは、主があなたの人生を主との関係においてあるべき位置にもどしてくださり、主のご計画があなたの人生に実現されるようにしてくださることを経験するでしょう。このためにはあなたの人生にいろいろな変化変更が必要となります。住む場所や仕事を変える必要が起こるかもしれません。確かに変えるということは困難を覚えることですが、それだけの価値はあるのです。それは、主が私たちを再び柔軟性のある人間にするためになさることが多いのですが、私たちが主の霊という新しいぶどう酒を入れられるやわらかい皮袋になるためなのです。
主が御座から流される川によって多くの新しい教会やムーブメントが、今まで乾いていた場所で始まります。砂漠に川が流れはじめるのです。主を求めて飢え乾いた魂はすべて、主の命を新たにフレッシュに味わう年となります。
預言的な働きの前進
私は主が預言的な賜物を持っている人たちに沢山の卒業証書を渡しているヴィジョンを見ました。一つのレベルで忠実に働いてきた人たちがすぐに次のレベルへと上げられました。 ほとんどの人は初級から中級へと上げられていましたが、それは意義深い成長であり、やがて教会での預言のミニストリーは広く信頼されるものとなっていくでしょう。このことは多くの地方教会に喜びと希望をもたらすものとなり、彼らも主の業を大いに進めることができるようになります。
艱難の中を祈り通す
私はこの世の艱難を示す温度計が上昇してくのを見ました。多くの問題、とくに自然災害が増加し、また、国家間の紛争も増えます。しかし、今年主の民の祈りも増えていき、その祈りによって艱難が神の定められた許容範囲を超えないように主が抑えられます。人々が祈らないために多くの問題が起こることを主は許され、それを見て人々は自分たちに与えられている祈りの権威に目覚めます。
妄想や心配をやめて、その代わりにとりなしの祈りを始める人たちは、自分の人生が変えられるだけでなく、他の沢山の人生を変えていきます。これからの2年間、神の民たちは、毎日の食事のように祈りの時間を不可欠なものとして求めるでしょう。そしてやがては祈りは酸素のように彼らが生きていくためには不可欠となり、彼らが息をするときは祈りも必ず口から出てくるようになるでしょう。
主の家は祈りの家となるのです。(終わり) トップページへ戻る