31 12月
新しい年を迎えるにあたって 坂 達也 12月31日
新しい年を迎えるにあたって
イエス様のご誕生をお祝いする日が、どうして12月25日になったかについては古来色々な議論がなされて来ました。しかし最近、私はクリスマスの7日後に新しい年の元旦を迎えることには大きな意味があるように思えてなりません。
それは新しい年を迎えるにあたって、その直前に主イエスキリストの誕生というクリスチャンとしての一つの重要な原点に立ち返り、そこから改めて自分の置かれた現状において悔い改めるべきことを悔い改め、新しい年に対する主のご計画を祈りを通して信仰で受け取る機会が与えられるからです。今年のクリスマスはその意味において私は大変重要な新年に対する指針を主からいただきました。
それは主のご誕生の6ヶ月前に生まれたバプテズマのヨハネに就いての新しい霊的理解が得られたことです。
いつもクリスマスを迎えるとルカの最初の2章を読みます。今年もクリスマスのメッセージをいただくために私は幾度も主の前に出ましたが、ある時ふと私の心に疑問が浮かびました。それは、何故聖書はイエス様のご誕生の前にヨハネが誕生する物語をこれ程詳しく伝えねばならないのかという疑問です。(ルカ伝1章)又、主が宣教を開始するにあたっても、先ずヨハネがイスラエルの人々の前に現れたことに関しても同じ疑問(その必然性に対する再認識を求める気持ち)を持ちました。(マルコ伝とヨハネ伝は冒頭からヨハネのことで始まり、マタイ伝も3章で詳しく触れています。)とどのつまり、何故バプテズマのヨハネという人物がそれほど重要なのかということを再確認したいという気持ちに駆られたのでした。
勿論それに対する多くの答えはマタイ3章に書かれていますが、特に2-3節にご注目下さい。
[「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。]
ここでバプテズマのヨハネとは『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐに(する人)』であることが分かりますが、具体的にそれがどう言う意味なのかに関して、私は今回、特に下記の三つのことが示されました。
その第一は、彼がイエス様に洗礼を授けたことです。そもそもヨハネという人は「悔い改めの洗礼」をイスラエルの人々に施すためにこの世に生まれて来たといっても差し支えないと思いますが、彼がこの世に遣わされた重要な目的の一つは、イエス様ご自身に洗礼を授けることであったと私は信じます。
しかし、罪の無いイエス様が何故ヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。それは、イエス様が私たちと同じ洗礼を受けることによって、罪人の私たちと一体となる、一体であることを示すためであったと考えられます。それは同時に、主の後を追うべき私たちがイエス様を見習って洗礼を受けるようにと、先ず主ご自身が洗礼を受ける見本を示されたと思います。
これについて言えることは、私たちクリスチャンとは、信仰でイエス様の十字架に架かることによって既に罪赦された聖なる「からだ」であるのですから、めぐみによって罪の無いイエス様と同じ立場にあるということです。その私たちが「霊的な洗礼」を改めて受けることを、イエス様は望んでおられると私は理解します。
但し、この場合の「悔い改めの洗礼」とは、普通未信者であった私たちがイエスをキリストと信じた時に受ける水の洗礼とは違う性質のものであると思います。それはむしろクリスチャンとして生きて来た私たちが、それまで本当に主の御心を理解せずに、御心から外れた生き方をして来たという罪に対する心からの悔い改めであって、もっと霊的に深い悔い改めの決意でなければならないと思うのです。そしてこの洗礼を私たちが受ける時には、ちょうどヨハネの洗礼を受けられたイエス様の上に神の御霊が鳩のように下って来たように、私たちにも特別の御霊の力が授けられると信じます。
「整えられた民を主のために用意する」(ルカ1:17)という使命を持って既に現れたヨハネは、主の再臨を目前に控えて生きている今の私たちに「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と叫んでいるのです。今こそなまぬるい不信仰を振り捨てて、主に忠実な花嫁となる時が来ました。そして、人々の心だけでなく、主のご計画に従って村を、町を、国をまっすぐにして王をお迎えする準備をしなければなりません。まさに私たちがバプテズマのヨハネになる時です。
この重要な御国のミニストリーを行うためにはそれだけの御霊の力が必要です。従って主は私たちの上に、初代の使徒たちがペンテコステの時に受けた力以上の前代未聞の超自然の力を今下さろうとしていると信じます。私たちはそれを信仰で受け取ることが出来るのです。
第二に示されたことは、ヨハネが授けた洗礼とは「悔い改めの洗礼」ではありましたが、それが「死んでよみがえる」ことを意味しているということでした。ヨハネは主が現れる前に先ずこの世に来て「主の通られる道」をまっすぐに整える使命を持っておりました。そうであるなら、イエス様がこの世に来られた最大の目的が、総ての人を救うための「いけにえ」として十字架にかけられて死ぬことであったのですから、先駆けのヨハネ自身が先ず「いけにえ」として自分の命をささげることが「イエス様の通られる道を用意する」ことにふさわしいのではないでしょうか。この「いけにえとして死ぬ」ことこそが、バプテズマのヨハネがこの世に現れた最大の目的であったことを私は示されました。彼は荒野にとどまり、この世から離れた生活をすることによって出来る限り自分が「聖いいけにえ」となる準備をしました。
ヨハネが「いけにえ」となったことは彼の死に方が物語ってくれます。彼は当時のヘロデ王によって首をはねられ、その首は盆に載せられて会衆の前に披露されました。それはあたかもヨハネが「キリストの花嫁になるには自分の頭はいらないから世に返す。」とでも言っているようです。
そして、首のないヨハネの遺体は弟子たちのよって引き取られ葬られました。(マタイ14:1-12)これは一体何を意味するのでしょうか。
「首のないヨハネの死体」とは「キリストのからだ」引いては「キリストの花嫁」を象徴していると私は信じます。とすれば、自ら花嫁の姿をとって「いけにえ」として死んだヨハネは、私たちクリスチャンに対し「キリストのからだ」になるためには自らをキリストの十字架につ けて死に、キリストと共によみがえること(霊的に)が必要であることを身をもって示してくれたことになります。そればかりではなく、ヨハネはキリストという花婿を心から愛するがゆえに、私たち花嫁を花婿に導く霊的マッチメーカーとしてこの世に送られて来たのです。
それが三番目に示されたことなのですが、バプテズマのヨハネとは「花婿の友人」として私たちのために現れてくれたという事実です。
「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」(ヨハネ3:28-29)
ここで「花婿のことばに耳を傾けているその友人」とはヨハネを指しています。ヨハネが花婿であるイエス様の友人と呼ばれる理由は、ヨハネは常に花婿の御声に耳を傾け、その御声を聞いて大いに喜ぶ人であるからです。そして、彼は友人として花婿が花嫁を迎えるために現れることを誰よりも待ち望んでいるのです。
先程私はヨハネが私たち「キリストのからだ=花嫁」の形をとって死んでくれたと申し上げましたが、実は、花婿と花嫁を愛するヨハネは、私たちの地上での花嫁を指導する者でもあるのです。と言うのは、ヨハネは私たちに花嫁となるための一番大事なことを少なくとも一つ教えてくれたからです。
その一つのこととは、花嫁は常に「花婿のことばに耳を傾ける」ということです。そのためにヨハネは花嫁の目を花婿の方に向けさせる役目を買って出たのです。それが「花婿の友人」としての役目です。そしてその人は「キリストの花嫁」とは友人である以上に花婿と親密な関係に入る者でなければならず、常に花婿の声を聞いて喜びに満たされている人であるべきことを私たちに示してくれたのです。
ヨハネは弟子を訓練しました。しかし、その弟子を決して自分のものと考えず、むしろイエス様の弟子となることを薦め、彼の二人の弟子がイエス様の後を慕ってイエス様の最初の二人の弟子となった時に心から喜びました。彼が弟子に徹底して教えたことは、彼らの真の教師は自分ではなくイエス様であること、そのイエス様に常に目を向けることを示したのでした。
バプテズマのヨハネから私は、クリスチャンとは「キリストの花嫁」にならねばならないことを改めて教えられました。そして又、私たちは花嫁であると同時に「花婿の友人」にならねばならないことも教えられました。それは私たちが、私たちより後にクリスチャンになった人を花婿と個人的に親密な間柄になることを最重要事として導き、その方法を教え、又、そうなる過程においての困難さを分かち合い、必要な時に励ます友人になることです。
私たちクリスチャンは、一日も早く主を「花婿」である「夫」として意識して、毎日を貞節かつ忠実な「妻」として仕えながら生きる生活に入らねばなりません。このクリスマスを通して、それが新しい年の最大の目標であることを確認することが出来た次第です。
2007年は皆さんが、ヨハネのように主の御声を聞く度に大いに喜び、毎日が喜びに満たされた年になりますようにお祈りしております。(終わり)
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