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Walk With God Ministries


28 11月

魂の闇夜  ポール・キース・デイビス  11月28日


たましいの闇夜―神の光の軍隊を準備するために
ポール・キース・デイビス

アメリカ国内だけではなく世界中で最近よく耳にするのが、「今はたましいが闇夜を通っている!」という言葉です。 確かに一見、多くのクリスチャンが、険しく苦しい道を通らされているように見えます。 しかし、これは実は、よい結果をもたらすためなのです。

私は数年前にある啓示的なヴィジョンを見たのですが、そのヴィジョンは私が苦しいところを通らねばならなかったときに大きな励ましとなりました。このヴィジョンは特にリーダーの立場にある人たちに対して語られていると思いますが、すべてのクリスチャンに適応することが出来ると思います。
自分のミニストリーはかなり成功している、と思っていたリーダーが、突然「神から取り扱いを受けている」自分を発見する、ということが最近よく起こっています。しかしその試練を通ったあとには、主と更に親しく交わるようになり、もっと大きな霊的権威を持つようになるという素晴らしい結果が期待できるのです。

光の軍隊のヴィジョン


私に与えられたヴィジョンの中で、光の軍隊が広い戦場で整列していました。私たちは戦闘態勢をとっており、暗やみの勢力と戦おうとしていました。光の戦士たちは、どの地位の者もすべて称賛に値するほど立派で、昔風の武具で身を固め、手には剣を持っていました。

やがて激烈な戦闘がはじまり、それはあたかも「世の終わりの戦い」のように見えました。 光の軍隊は剣の一振りごとに戦果をあげて敵を撃退し、勝利は間違いなし、と感じていました。

戦いは凄絶を極めましたが、私たちは前進し続け、敵は次第に後退していくように見えました。私たちは「我々は世の終わりの戦いに勝利している、自分たちの力はこのように偉大なのだ。」と心の中で感じていました。

聖霊によってとどめられる


しかし突然、聖霊が私たちを捉え、私たちはそれ以上前進することを許されませんでした。勝ち進んでいた戦いを、敵にではなく聖霊によって阻止されて、私たちは狼狽しました。私も敵からわずか数メートルしか離れていなかったのですが、身体が麻痺して一歩も前に進めなくなりました。

私は非常に落胆し、混乱してしまいました。 そして主にどうして光の軍隊が前進するのをとどめられたのかをお聞きしました。すぐに主は私たちの頭上の雲を吹き払われました。すると、私たちの目は開かれて、今までは隠れて見えなかった敵のいくつもの巨大な大砲が、私たちに向けられて並んでいるのが見えたのです。

敵は後退していると見せかけていたのですが、それは彼らの策略であり、実際には私たちが自分たちの力を過信するようにしむけていたのです。確かに私たちは戦場で戦うことにより主と共に歩み、主の力をいくらかは受けていました。しかし、預言にある「世の終わりの戦い」を長期に亘って戦うのに不可欠な主の力を、まだ十分には受け取っていなかったのです。

教会の上に神の霊が完全に注がれることを、敵は断固として阻もうとしています。神の民は主の完全な啓示と力の油注ぎを受けることが、み言葉で約束されていますが、そのときには、私たちは主のもとに帰り、完全に癒されることを、敵はよく知っていますから、それを阻止しようと必死なのです。主による完全な癒しとは、単に身体や心の癒しだけではなく、エデンの園以来できてしまった神と人との間の裂け目を完全に修復するものです。

これが成就されれば、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み(コロサイ1:27)」 が現実のものとなり、私たちクリスチャンは聖書に預言されている通りに生きることが出来るようになります。敵が、「預言的世代」が生まれ出るのを何故これほどまでに阻止しようとしているのか、という理由がここにあります。

敵は、私たちの準備が完全に整う前に戦いに引きずり込むことしか、自分には勝ち目がないことを知っています。教会がキリストの花嫁として、キリストにあって受け取ることのできるすべての啓示を受け取り、その花嫁の住まいとして用意された場所に入るならば、敵の勝ち目は全くなくなるのです。その真理に立てば、私たちは地獄の勢力にも対抗して戦うことができます。なぜならば、そのとき私たちは自分の力ではなく、天からの見えざる力の源から力を得て、神の勝利を勝ち取ることができるようになるからです。

私たちがあれ以上敵を攻撃するのを許されなかったのは、神の憐みと恵みの故でした。あのまま進んでいたら私たちは滅んでいたことでしょう。私たちが、完全にキリストを着ることをせずに、また主の武器で武装する用意もないままで戦いを続けることを許されなかったのは、父なる神の偉大な愛の故でした。 もし私たちがあと少し攻撃を続けていたならば、敵の巨大な兵器が終末の大戦争のために使用され、私たちは簡単に滅ぼされていたでしょう。

手術室

次に私たちは、天の手術室と訓練センターのようなところに移されました。 この特別な部屋の中で、私は手術台に横たわっていましたが、面白いことに、手術台を取り巻いている天使たちのうしろで私も一緒に手術台の自分を見ていました。天使たちは「手術」の準備をしていました。



背丈2メートル半くらいの6人から8人の天使が手術台の周りで、それぞれ分担された作業に取り掛かっていました。彼らは私たちに霊的手術をほどこして、来るべき戦闘のために整えているのでした。


彼らは、一枚ずつ私の肉を私の身体から剥ぎとっていきました。それは私の中の肉的なもの、この世的なものを取り去る作業でした。自分の身体から自分のアイデンティティーや計画、野心、欲望が除去され捨てられるのを私は見ていました。 そして、来るべき戦いには何一つ不純なものを持ち込むことは許されないのだ、という理解が与えられました。自分の考えとかアイディアとかというパン種を、主の純粋な真理の中に混ぜることは絶対に許されません。人間的なものが混じってはいけないのです。

天使たちによるこの作業が続けられ、おしまいには手術台の上の私はなくなってしまいました。私は一人の天使に「私はどこにいるのですか?いなくなってしまったようですが。」 と尋ねました。声がして、手術台の上の小さな、しかし命にあふれている種を指差しました。 丁寧な手術を受けて私に残されるのを許されたものは、神から与えられたいのちの種だけだったのです。

肉的なも
23 11月

非難の中を主と歩む   ビクトリア・ボイソン  11月23日


非難の中を主と歩む

                                       ビクトリヤ・ボイソン

詩篇84:10「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」

 幻の中で、私は長く続く道をイエスと共に歩いていました。 主の片方の腕は一緒に歩いている私の身体を抱かれ、もう一方の手で大きな十字架のついている黄金の大盾を持っておられました。主はその盾で私たちを覆い、多くの火矢を防いでおられました。

主と共に歩いていくと、両側に人々が立っていて私たちにむかって告発糾弾、不当な判決という火矢を投げつけました。彼らは偽りを信じ込んでいて、私を激しく非難し、告発の矢を投げつけていたのです。

ほとんどの矢はイエスがその盾で防いでくださいましたが、時々防ぎきれなかった矢が私を突き刺しました。その矢は私の霊に刺さり、私は大きな痛みを感じました。

激しい痛みでしばらくの間、私の身体は麻痺し、動くこともできず、矢を投げつけた相手に対抗することもできませんでした。 しかし感覚がもどると、私の心は彼らに対する怒りで一杯になりました。そして彼らにむかって、自分はそんなものではない、言葉を発しました。すると彼らはもっと激しく私を糾弾したので、私の痛みはひどくなるばかりでした。

すると、イエスが御腕で私をぐっと御自分の方に引き寄せられたので、私の顔は主の胸の中に埋まってしまうほどでした。しばらくの間そうしていると、私の痛みは主によって吸い取られてしまい、私の心と霊は主の中でいやされ回復していきました。

長い間その道を歩きました。両側に立つ敵からは容赦なく非難の言葉が投げつけられていました。 攻撃は何回も繰り返されました。 私はこの戦いが何であるのか、また、どこに向かって歩いているのかも分かりませんでした。ただ、私はイエスのそばにいなければならない、ということだけははっきり分かりました。 戦いは非常に激しかったので、イエスの中だけが安全な場所だったのです。

御座からの輝く光

 前方を見ると、遠くにぼんやりと光が見えました。なおも歩いていくと、その光は明るさを増していきました。歩けば歩くほど光は輝きを増し、それと同時に敵からの攻撃は弱まっていきました。やがてイエスと私は神の御座までたどりついたのです。

御座からは光が輝き出ていて、その光が触れるすべての物の中に光は浸透していくように見えました。光には神の慈しみと厳しさがあるのが感じられました。神は義であられ、また慈しみ深い方でした。私は畏敬の念に打たれましたが、自分が全く安全であることも感じていました。

イエスはまだ私の身体に腕を回しておられましたが、私にもっと御座の近くに進むようにと促されました。 そして、父なる神にむかって「お父様、この者は非難と告発の道を忠実に歩いてきましたから、あなたからの栄誉を受けるのにふさわしい者です。どうか祝福してください。」といわれました。

白い滴る炎

父なる神は御目をイエスから私のほうに移され、私をご覧になりました。そして御手を私のほうに愛をこめて差し出されると、その御手から白い液体の炎が滴り落ちました。 父なる神は全体の御姿がその炎そのもののようでした。 

炎の滴りが私に振りかかると、それは私の身体を貫き、私の身体は力が失せて立っていることができませんでした。床にくずおれた私の上に、なおも父の御手から炎のしずくが滴り続けました。やがて父は御手を私の上から引かれましたが、私はなおもそこに横たわっていました。

イエスは優しく御腕で私を助け起こしてくださいました。一言も言葉を交わすことなく私たちは近くの丘まで歩いて行き、腰をおろしました。そして、これから起ころうとしていることを、主が話してくださいました。

「父とわたしは、あなたがこの丘の上に立つことを計画してきました。あなたがこの丘の上に立つとき、父とわたしは人々をあなたのところに連れてきます。それは、彼らも父の輝く炎を体験し、傷をいやされて回復し、自分に与えられた使命を全うできるようになるためです。人々がわたしを見つけられるように手伝ってくれますか?」

苦痛と非難の旅

父なる神に触れられた衝撃から私はまだ力がなく震えていましたが、「はい。」とうなずきました。しばらく丘の草の上で休むようにと言われて、主は私を一人にされました。

そこにじっと横たわりながら、私は今まで歩いてきた道について思いをめぐらしはじめました。私に投げつけられた非難を思い出したとき、私は大きな痛みを感じました。そしてその瞬間に、イエスもご自分への非難を浴びながら同じ道を歩かれたのだ、ということに気がついたのです。ただ私と違うことは、主はただお一人で、防ぐ盾も持たずに歩かれたということでした。私の戦いは非常に困難なものでしたが、イエスが共におられず、また、盾で守られていなかったならばもっと厳しいものであったことでしょう。平安が私の心をみたしました。 そしてIペテロ2:21-23を思いだしました。

「 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:21-23)

皆さんの中の多くの方が、父なる神の栄光の御座にまで通じているこの道を歩くようにと召されていると思います。それは大変困難な道ですから、あなたは弱リ疲れ果てることでしょう。でもその報酬を考えてください。父の栄光に勝るものはないのです。敵の非難、告発はあなたを父から引き離すことはできません。しかも、敵の非難が大きければ大きいほど、あなたはもっと大きな父の栄光を見ることができるのです。なぜなら「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる。」(詩篇34:18)とあるからです。

あなたの周りで今戦いが激しくても、救い主なるイエスの御そば近くにとどまっていてください。主の中にこそ、あなたの避けどころ、力があるからです。代価がいかに大きくても「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさる」(詩篇84:10)ことを決して忘れないでください。

神はあなたと
19 11月

秋の日本旅行で感じたこと   坂 達也    11月19日


2006年秋の日本旅行から帰って

9月26日から5週間にわたり日本の各地の教会(主に聖霊派)を回って参りました。
今回の旅行で感じたことは、今は神の御国をいただく最高の時に来ているということでした。ルカ12:32に 「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」とあります。
日本の教会といえば、教会員が100名を越すところは見渡しても数えるほどしかありません。みな小さな群れです。その小さな群れがそれぞれ何とかして「大きな群れになりたい」と苦心し、その方法を一生懸命模索しながら色々なことを試しておられる様子が痛ましいほどよく分かります。

そこで思い出すのはマルタとマリヤのお話です。ルカ10:38-42に「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

私はこの話を今の教会に当てはめてみることが出来ると思います。つまり、マルタが私たちの今の教会の姿であると言うことです。
イエス様を喜んで家に迎え入れたのはマルタでした。しかし、マルタはイエス様のご臨在の中で「いろいろなことを心配して、気を使って」忙しく働いていますが、イエス様のお話は聞いていませんでした。その気になればマルタは、マリヤと同じように先ず座ってお話を聞くことが出来たと思います。それによって食事の用意が少し遅れたとしてもイエス様はお怒りにならなかったと思います。あるいは、必要なことをしながらでも、主のお話に耳を傾けることは出来たかと思いますが、マルタはそうしませんでした。その気が無かったように思えます。

そこで、もし私たちの今の教会がマルタのようであるならば、イエス様は私たちに、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」とおっしゃられると思います。
そのポイントは、私たち教会が真っ先にしなければならないことを私たちはしていないと言うことです。私たちはマリヤが選んだことをすべきなのです。マリヤは、イエス様を待ち受け、イエス様のご臨在される時には、イエス様の前で集中して主を見つめ、聞き、そして礼拝しました。
マリヤは本当に一つのことだけを求めました。しかし、この一つのことだけを求めた人は他にもおります。それはダビデです。ダビデは叫びました。

わたしは『一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。…… あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。』(詩篇27:4,8、口語訳)

クリスチャンであるならば、私たちも同じように常にイエス様を親しく求め、イエス様の御声を聞いて、主と交わりつつ一日を過ごすべきではないでしょうか。なぜなら私たちの救いはイエス様個人にしかないからです。本当に頼れる人はイエス様しかおりません。ちょうど3-4歳の子どもが常に母親の足にまとわり付くように、私たちがいつもイエス様の御そば近くにいれば恐れるものは一つもありません。イエス様が道であり、真理であり、命です。(ヨハネ14:6)

それには毎日少なくとも時間を決めて、マリヤのようにイエス様を個人的にお迎えし、イエス様と親密な時間を過ごすことが、クリスチャンとしての必須最低条件であると思います。そしてそのイエス様と共に一日を歩むのです。これを英語でintimacyと言います。
思い出してください。私たちはボーンアゲインして、既に霊に生まれ変わった者であることを。私たちの実在は霊の存在であり、肉で生きているこの世の存在は、もはや仮の一時的な姿でしかありません。つまり「霊の人間」が「霊の主」と直接「霊で交わる」ことをしなければ、全く、どだい、話しにもならないのです。

私たちクリスチャンが皆そのようになる時に、私たちの「教会」に対する考え方が変わってくると思います。と言うのは、私たちが所属し奉仕している教会とは、実は、イエス・キリストが唯一主であり、ただ一人の師である「天の御国教会」と言う「霊の教会」であるからです。
今こそ私たちは、天におられる私たちの唯一、真の牧師を仰ぎ見て、その牧師と深く交わり、その牧師から総てを教わる時が来ています。そのために主は私たちの内に聖霊様を送られました。
私たちがこの世にいる目的とは何でしょうか。それは、私たちが「キリストのからだ」として建て上げられ、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられる」教会(エペソ1:23)になる霊的な弟子訓練を受けるためです。

そうであるとすれば、たまたま私たちが現在地上で属している地方教会とは、聖霊様によって振り分けられ配属された「天の御国教会何々支部」兼「弟子訓練教習所」とも言うべき、「兄弟姉妹の地上集会場」であると言うことが理解できると思います。

多くの人は今自分が属する地方教会に失望し、指導者に不満を抱いています。ある人たちは良い教会探しに余念がありません。しかし考えてみれば、この世では未だ完全な教会は一つもないのです。なぜなら私たち自身が完全でないのと同じようにどの教会の先生方も指導者も完全ではないからです。主ご自身がそのことを一番よくご存知です。だからこそ主は、私たちが至らない者同士助け合い、お互いを建て上げ、「組み合わされた建物全体が成長し、主にある聖なる宮となる」(エペソ2:21)ことを望んでおられます。

教会が今のような肉の人間の集団である限り、決して御国の教会にはなりえません。しかし、今こそ、真の御国の教会を求めるべき時が来ました。そ
17 11月

イラク戦争は神の御心であったのか 坂 達也  11月17日


イラク戦争は神の御心であったのか

 今回のアメリカの中間選挙では、民主党が共和党を抑えて圧勝し、両院とも過半数を勝ち得ました。今回の選挙はブッシュ大統領に対する、ひいてはイラク戦争に対する国民の判決が下ったと言うのがメデイヤ一般の見方です。

ブッシュ政権がイラク戦争に踏み切ったことは、国益に反して間違いであった、という判断をアメリカ国民が下したことは、それなりに理解できます。しかし、それでは「イラク戦争は神の意思には反した行為であったのかどうか」ということを、この際私たちクリスチャンは改めて問う必要があると思います。皆さんはクリスチャンとしてどう思われますか。

創世記を読みますと、イラクを含むアラブ諸国がどのようにして生まれたかが書かれています。アブラハムには二人の子どもがおりました。最初の子は、主の約束が待ちきれなくて、人間的な判断と方法でサラの女奴隷ハガルに産ませた子どもであるイシュマエルです。そのいきさつは創世記16章に書いてあります。その14年後に、主は約束通りにサラから奇跡の子イサクを生まれさせました。

勿論アブラハムは父としてどちらの子どもも愛しておりました。神の愛の偉大さはここにあります。神は、アブラハムとサラの信仰の至らなさのゆえに神の御心ではなく生まれて来たイシュマエルに対しても、同じように愛と憐れみを持たれたのです。神はアブラハムに忠実な方であられたので、イシュマエルの子孫も大いなる国民にすると約束されました。(創世記17:20,それに21:12,13、18)
勿論総てのことに神は最初からご計画を持っておられますから、アブラハムとサラが待ちきれないで人間的な子どもを先に生むことは当然知っておられました。このアブラハムの子、イシュマエルは主の御使いによって次のように預言されました。
「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」(創世記16:12)
この預言はイシュマエルに対して与えられましたが、それは彼の子孫に受け継がれて行きました。これによってアラブとイスラエルが後にお互いに相容れない怨念の仲となっていることは皆さんよくご存知のことです。この宿命的確執は初めから神のご計画であり、今までの歴史ではその通りになっています。

しかし、人間として生まれてくる者がみな救われることを神様は望んでおられ、イエス様は総ての人間の罪を赦すために十字架にかかられました。それにはアラブ人も含まれ、神は彼らが悔い改めるのを待っておられます。
そうであれば神は、彼らに西洋諸国と同じようにその悔い改めのための福音を聞く機会を与えたいと計画しておられても当然であると思います。
しかしながら歴史的に見て、今まではそのような機会があまり与えられてはいないように見受けられます。とすれば、この終末の時が押し迫る現在において、今こそアラブ諸国に大々的なリバイバルの機会が与えられなければおかしいと言う気がするのです。つまり、アラブ諸国にも他の国と同じようにリバイバルが来ないままで世の終わりが来るとはとても考えられません。

その意味において神は、その福音の使者としてアメリカを、特にブッシュ大統領を先駆けとして起用されたと私は信じております。イラクはフセイン大統領と言う悪魔的な暴虐専制君主によって長い間抑圧されておりました。この専制弾圧政治から国民を解放することが歴史的に見てどれ程重要なことであったかは、これからの歴史が証明すると私は確信します。それは単に大量破壊兵器が発見されたとか、されなかったからと言うような議論のレベルの問題ではないと思います。 

ところが解放後のイラクは、今内乱によってその民主化安定政権の誕生は一見絶望的に見えますが、実際は報道陣の報道以上に民主化は進んでいると言われています。少なくともイラク国民がどれ程デモクラシーを望んでいるかは、選挙の投票に多くの民が命の危険を犯して参加したことからもはっきり見えたと言われます。又、あまり報道はされませんが、福音が一般市民の間で伝えられ始めております。
安定政権樹立の道は決してなまやさしいものではないにしても、世界が忍耐を持って支援をし続けるならば、かならずイラクの民主化は成功すると言う信念を持つブッシュ大統領の政策は、神のご計画にそって行われていると信じるクリスチャンも少なからずおります。その一人がリック・ジョイナー師です。

彼は神の御心についてイザヤ書19:19-25を挙げています。この預言は歴史的に未だ実現していないと師は言われますが、多くの聖書学者も同意見です。
「その日、エジプトの国の真中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。 そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。 主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。
23(節) その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける。 万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」


先ずエジプトについての預言がなされ、最後の23-25節ではエジプトとイラクがハイウエイで結ばれ、真ん中のイスラエルと共にこの三国が主の御名を共に称える時が来ることが預言されています。ここに出てくるアッシリアとは現在のイラクです。しかも歴史的に見てイラクこそ文明の発祥地であることも注目に値すると思います。
ここにおいて、神がアブラハムに約束された「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)が実現されるのではないでしょうか。
この預言が実現するためには、今こそイラクの民を独裁政治から解放することが神のご計画であると言っても、それは充分納得できるように思えます。

世界、特にアメリカ
16 11月

一番良いもの    ラリー・オケーシオ   11月16日


一番良いもの

ラリー・オケーシオ(Other Side Ministries モーニングスター・ジャーナル誌Vol.16、No.4)


イスラエルの2つ半の部族が神の約束の地にゆくことをやめて、ヨルダン川の東側に定住することに決めてしまった事は、聖書の中で最も悲しい出来事の一つではないでしょうか。(民数記32:1-33)確かにその土地は彼らの生活に適する良い地ではありましたが、それは、神の約束の成就ではありませんでした。「良いものは一番良いものの敵である。Good is the enemy of best.」という古いことわざがあります。これはまさに真理です。私たちも神様が約束された「一番良いもの」を求めてヨルダン川を渡ろうとしないで、ただの「良いもの」で妥協し満足してしまうことが、あまりにも多いのではないでしょうか。

人間は、心地よさや気楽さ、苦労しないで満足を得ることを好む傾向がありますから、神から与えられる一番良いことが何であるのかを見極めることは、聖霊の助けがなければ非常に難しいのです。今の社会は、何が最高のものであるかを、ブランド名やタイトル、又は貨幣価値で決めてしまおうとしています。しかし、これはなにも今始まったことではないのです。イスラエルがカナンの住民を追い出して約束の地を勝ち取ろうとしたとき、主は彼らがただの「良いもの」を「一番良いもの 」の代用にしてしまう傾向を知っておられましたから、「あなたは一生、彼ら(アモン人とモアブ人)のために決して平安も、しあわせも求めてはならない」(申命記23:6)という警告を発せられました。


しかし、悲しいことにイスラエルの民は何度もこの警告を無視しました。そしてそれは私たちも同様なのです。度々私たちは、自分にとって一番良いことは何かという答えを、神にではなく神以外のものに聞いてしまうという罠に陥るのです。この世が最良とするものと神が最良とするものとは往々にして正反対であることを、私たちは、何故かなかなか理解できないのです。

このポイントをよく表している話が旧約聖書にあります。それは第一サムエル記に出てくるハンナのことですが、彼女は主からの特別な召しを受けました。(Iサムエル1-3章)ハンナの夫はエルカナといいましたが、その時代の習慣で彼にはもう一人ペニンナという妻がおりました。エルカナはこの二人の妻を愛しておりましたが、特にハンナを愛していたことがうかがわれます。

Iサムエル1:4-5

イスラエルの当時の時代背景を考えますと、不妊の女ということがハンナにとってどれほど辛い重荷であったかが分かります。不妊の女は神にのろわれているとみなされていたのです。その上ハンナは絶えずペニンナに嫌がらせをいわれ、苦しんでいました。

Iサムエル1:6-7

この箇所を読んで私たちは、ハンナにとってペニンナは神からおくられた「一番良いもの」では決してありえない、と決め付けてしまいそうになります。しかし、もう少し掘り下げて考えてみると、興味深い真理が見えてきます。ペニンナという名前はヘブル語でルビーという意味なのです。そうです、女性の好きなあの宝石です。しかしこのペニンナというルビーはハンナにとっては宝石どころか、ただ悩みを与えるだけのものの様に思えます。しかし、本当にそうだったでしょうか。聖書によると、ハンナはペニンナから絶えず苦しみを受けた故に、追い詰められてついに神にすべてを打ち明け、明け渡す決心をしたのでした。

Iサムエル1:11

この後、ハンナにはサムエルという子供が授けられ、誓い通りに彼は主にささげられました。サムエルは成長してイスラエルの大預言者、祭司、士師となりました。ハンナが神からの一番良いものを受け取ることを止めてしまう危険があったのは、皮肉なことにペニンナではなく、ハンナを心から愛していた夫のエルカナでした。エルカナはハンナの重荷を少しでも軽くしようと一生懸命彼女を慰めました。神がハンナに「一番良いもの」を求めさせようとしておられたときに、図らずも彼は「良いもの」で満足するようにと彼女を諭してしまったのです。ハンナが神の約束を求めるのをやめさせようとしてサタンは狡猾にもエルカナにこういわせました。

Iサムエル1;8

これはとても優しいエルカナの言葉です。しかしこれは実はハンナやサムエル、ひいてはイスラエルという国家に対する神のご計画を台無しにしようとする敵が彼に言わせたことなのです。エルカナの「私は十人の息子以上の者ではないのか?」という質問に対して、私たちは、「いや、違う、絶対に違う!」と叫ばねばなりません。

たとえそれがどんなに素晴らしい夫であっても、どんなに立派な家であっても、またどんなに素敵な車であっても、それらは神が私たちの人生のために用意していてくださる一番良いものと比べ物には絶対にならないのです。私たちが今緊急にせねばならないことは、聖霊との交わりを深く持つことです。何故ならば聖霊の助けによってのみ、自分の人生の中のペニンナとエルカナを識別していくことが出来るからです。彼らはあなたの人生の中に必ず存在しますが、彼らを識別する知恵は私たちのうちにはないことを知ってください。


邪悪な敵は、私たちが神からの一番良いものを求めないで、それ以下のもので満足するようにと惑わす機会をいつも狙っています。敵は「それで十分ではないか、満足しなさい、感謝しなさい。」とささやきます。神がもっと素晴らしいものを用意していてくださることを、信じて期待をすることは欲張りであるという罪悪感を私たちに抱かせようとします。敵が「あなたにとって私は十人の息子以上の者ではないのか。」とささやくのが聞こえますか?

神からの一番良いものとはなんでしょうか。それはあなたの人生に対する神の御計画が完全に成就することです。そしてそれは、すなわち、主に栄光をおささげできるように私たちのうちにキリストが形作られることです。この地上でそれ以上に良いものや価値のあるものは絶対にないのです!(終わり)


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