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Walk With God Ministries


29 06月

二種類の主の臨在      ウェイド・テーラー   6月29日


二種類の主の臨在 

ウェイド・テイラー 
(階段の秘密-雅歌による霊的成長の手引き から抜粋)

主の臨在には二種類あることを知らねばなりません。

第一のものは、救われた者すべての内に来てくださる「内住の臨在 abiding presence」です。イエスを救い主として受け入れさえすれば、聖霊は必ず与えられます。すべて救われた者にとって、聖霊の内住は現実のものであり、私たちはそれを確信することができます。聖霊は誠実であられ、私たちの救いを保ち、イエスというお方を私たちに活き活きと示してくださいます。

第二のものは、主が知性、意志、感情を持ったパーソン(人格)として来られる臨在です。主は私たちの霊の小部屋にはいることを切望され、そこで私たちと語りあいたいと願われるのです。そして、そこから更に私たちを主の部屋につれて行ってくださり、 主の御計画を打ち明けてくださいます。このような主の訪れは「顕現的な臨在 manifest presence」 と呼ばれ、これを受けるには条件があります。主が私たちの霊の扉をたたかれるときに、それを識別する力と正しく応答する力とは、私たちが自分の「霊的感度」や「霊的姿勢」をどれだけ訓練し発達させているかにかかっています。ですから、私たちはいつでも自分の霊が主にしっかりと向いているようにし、主が私たちと交わりを持ちたいと願ってこられるときには、それをすぐ察知できるようにしていなければなりません。

イエスはヨハネ福音書で、ご自分を現されるときに必要な私たちの条件を明らかにされています。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」 ヨハネ14:21

私たちの主を愛する気持ちが大きくなるにつれて、主が訪れてご自身を現わして下さるのを期待しながら待つようになっている自分に気がつくでしょう。私たちは主が来られたとき、自分の霊の戸をどうやってあければいいかを学ぶ必要があります。

新生したとき私たちは霊に生まれ、「新しく造られた者」となります。肉体の感覚が成長とともに徐々に発達するように、私たちの新しく造られた霊的感覚もどんどんと発達していかねばなりません。この内なる霊的感覚によって私たちは主の現われを察知するのです。

黙示録3:20a
「見よ。わたしは、戸の外にたってたたく…」

主との友情を心から願う人たちは、すばやく私たちの霊の戸をたたく主に応答して、自分の霊の小部屋へと主を招き入れます。この部屋は私の内なる人の中にあり、主と交わりをする場所です。それは私が主とふたりきりになるための特別の私の部屋であり、又、主が私とふたりきりになるための主の部屋なのです。というのは、私が一緒に食事をしてください、と主を私の部屋に招きいれると、主はそこから私を主の部屋への階段を教え、導いてくださり、そこで私は主とともに食事をするのです。そこで私は主のいのちに与り、主と一つになるのです。

雅歌5:2-3では、花婿が花嫁の都合の悪いときに訪れようとしましたが、花嫁はそれに答えませんでした。花嫁が「部屋の戸」を開けるのを躊躇したので、花婿は落胆してそこを去ります。しかしながら、彼は花嫁に「賜物と祝福」 を残していきましたが、それが「主ご自身の現われ」のすばらしさに比べれば、全く価値のないものであることを、彼女がはっきりとわかるようにしたのです。イエスは私たちが主を「祝福を与えてくださる方」としてのみ知るのではなく、「一人のお方」として主ご自身を知ることを熱望しておられるのです。

雅歌の時代には、家の戸の取っ手は内側にありました。ですから、戸を開けるためには、小さな穴に手を差し入れて中の取っ手をはずさねばなりませんでした。主は花嫁に会いたいと熱望されて、戸の穴に手を入れて取っ手をはずそうとしましたが、開けることはしませんでした。私たちの心の小部屋の戸は、私たちがコントロールしていて、私たちにしかあけられないのです。主がこのよう手を差し伸べられたことは、花嫁の心をかき乱しました。

箴言5:4
「私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。私の心はあの方のために立ち騒ぎました。」

主は決して私たちのプライバシーを侵害することはありません。私たちが戸をあけなければならないのです。主があけることは決してありません。この原則は聖書の中にはっきりと書かれています。主は外に立ち、戸をたたいて私たちが戸をあけるのを待っておられるのです。もし、戸をあけなければ、主は去っていかれます。

黙示録3:20b
「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって…」

花婿の手が取っ手のほうに伸ばされるのを見て、花嫁は彼の思いを知り、やっとそれに応答して戸をあけます。

雅歌5:5-6
「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。私が愛する方のために戸をあけると、愛する方は、背を向けて去って行きました。あの方のことばで、私は気を失いました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。私が呼んでも、答えはありませんでした。」

彼女が戸をあけたとき、主はもうそこにはいなかったのです。彼女の応答が遅れたために、主は彼女の部屋の戸口からご自分の「顕現の臨在」をやむなく取り去られました。しかし、主がそこにおられた結果として、取っ手に油が注がれていました。彼女が取っ手に触ると油注ぎが彼女の手にあふれました。それは主が去られるときに、彼女に手一杯の祝福を置いていったからです。以前でしたら、彼女は主がおられなくてもこの祝福だけで十分満足していたのですが、いまは彼女はうろたえ、花婿なる主ご自身の臨在を熱望するようになったのです。

花婿が訪れたときに花嫁がすぐに応答しなかったという失敗の経験は、彼女にとって大切な成長のステップとなりました。彼女はすぐに応答してさえいれば、彼の奥の部屋にのぼっていくことができたという「秘密」を学んだのです。主の「顕現的な臨在」に応答するチャンスを彼女は今回逃がしてしまいました。しかし、その苦い経験を通して、主が自分の部屋をノックされるときは、すぐにそれが聞こえるように、自分が早急に内なる霊的感度を養わなければならないことを学んだのです。また、自分
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29 06月

主との交わり       坂 柚実子         6月29日


主との交わり

私たち夫婦は、ほとんど毎日一緒にいます。主人が家で仕事をするようになった数年まえから、かなりそういう感じではありましたが、ハワイに来てから特にそうなりました。そして、日本伝道旅行のときなどは全く24/7の状態となります。飛行機の中、電車の中、車の中、レストランの中、教会の中、祈りの歩行中、ホテルの中等々すべて一緒です。ホテルの部屋に二人でいて、それぞれが静かな時間を持ちたいときなど、お互いが邪魔なような感じをもったことも以前はありますが、今はそれにもすっかり慣れてしましました。電車の中で空いている席が並んでないときは、やむなく離れて座りますが、どちらかの席の横があくと、もう一人がそちらに移動して一緒になります。(別に一緒にいて何をするわけでもなく、4時間くらいの道中の間、一言も話さなかったこともあります。全く日本的な夫婦ですね。)

主人とはこのようにいつも一緒にいるのですが、では、私はイエス様をどのくらい身近に感じているかなと、考えます。まだ結婚する前に聞いた一つの話を、私はなぜかいつも思いだすのです。それは一人で住んでいるクリスチャンのおばあさんの話です。近所の人が「おばあさん、一人暮らしで寂しいでしょうね。」というと、おばあさんは「いえいえ、私はいつもイエス様と一緒だから、寂しいことなんかありませんよ。」と答えたという、それだけの話です。これを聞いたときは、理解できなかったし、信じられませんでした。つまり、私はクリスチャンではありましたが、イエス様の存在をそんな身近に感じることができるという信仰を持っていなかたし、知りもしなかったからです。

その話を聞いてから40年以上経った今、主の臨在に関して少しずつ理解を与えられていることは感謝なことです。この数日、ウェイド・テイラー師の「The Secret of the Stairs」 という本を読んでいました。サブ・タイトルは「雅歌による霊的成長への手引き」というものです。テイラー師はアメリカで主との親しい交わりを自ら体験し、それを教えることのできる第一人者だと思いますが、この本の中で主の臨在についての説明を書いておられます。

彼は主の臨在には二種類あることをはっきり理解しなくてはならないといいます。一つは、イエスを救い主と信じた者すべてに与えられる内住の聖霊の臨在(abiding presence)であり、もう一つは主が現れてくださる顕現的な臨在(manifest presence)であるということです。 そして、ヨハネ福音書の14章21節後半の「…わたし自身を彼に現します。」(新改訳)、「之に己を顕すべし」(文語訳),「and (I)will manifest myself to him.」(KJV)」はこの特別な主の現れを指しているとのことです。(今週の「主と個人的に深い交わりを持つためのメッセージ」欄に紹介してありますので、ぜひお読みください。)

主の臨在を歌った賛美は沢山あります。それらは、きっと素晴らしい主の臨在を体験した人の霊から生まれた歌なのだと思います。私たちもそんな賛美を歌うときに、賛美の中に住まわれる主の臨在に触れられることがあります。私たちはそれを喜びますが、それだけではなく、もっともっと主を心から求める「主のmanifest presenceを待ち望む者」になりたいと思わせられた本でした。(終わり)


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22 06月

熟年離婚           坂 柚実子      6月22日


熟年離婚

日本でよく聞く話の一つに熟年離婚があります。夫が定年になって退職金をもらうのを待って、妻が「永らくお世話になりました。これにて失礼させていただきます。」と離婚を申し入れるのだそうです。そして悲しいことに、ほとんどの夫には寝耳に水で、そういわれても何故そんなことになったのか、全く分からないそうです。

長年、仕事ばかりしてほとんど家族との時間を持たなかった夫に妻は愛情を感じないようになっていて、自分の趣味とかを見つけてそれなりに充実して生活する術を身につけています。定年になってずっと家にいる夫との生活など考えられない、ということが多いらしいです。夫としては、やっと仕事から解放されて、家でゆっくり好きなことをして暮らそうと思っているわけですから、本当にショックは大きいでしょう。妻子のために犠牲的に働いてきた、必要なものは与えてきた、確かに一緒に過ごした時間は少なかったかも知れないけれど、それもすべて家族のためにしてきたことだ、、、と本心思っていますから、無理もありません。

このことを考えていたら、マタイ7章21-23節の話を思いだしました。「あなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。」という大ぜいの者にむかって、イエスは、その日には、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け。」といわれるという箇所です。

夫が「私はあなたのために長年一生懸命働いてきたではありませんか。給料を運んできたではありませんか。すべてあなたのためだったのですよ。」というと、妻が「私はあなたを他人のように感じます。(あなたを全然知らない)あなたは私の気持ちを少しも理解しようとはしてくれませんでした。もう離婚してください。」と応えるのと、似てませんか?

イエスの言葉は非常に厳しくて、主人がこのところから説教するたびに、私はとても複雑な気持ちになりました。「彼らなりに一生懸命イエス様のために働いたんでしょう?イエス様もそこまで言わなくてもいいんじゃない?」という風に。

でもやっぱり、イエス様は「御心を知り、御心を行う者」だけを求めておられるのですね。それが「イエスの身体」としてのつとめであり、主を愛することであり、それ以外の「活動」は何の益にもならないどころか、神の怒りを買うことであることを、私たちは肝に銘じるべきでしょう。妻が夫に望むように、イエス様も私たちが一緒に時をすごしてお互いに心を通わせることを、何よりも一番望んでおられるのですね。

私は離婚を求める妻が正しいとは勿論思いませんが、ともあれ、夫の皆様、イエス様の御心とともに、妻の気持ちもしっかり理解するようにしようではありませんか。(終わり)


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22 06月

語られる神       チャック・ピヤース      6月22日


神が語られるとき

          チャック・ピアス著 
               「When God Speaks」の第一章 からの抜粋

神は声を持っておられ、実際に人に語りかけられる、ということを初めて知ったのは、私が8才のときでした。私のおばあさんは大変信仰深い人でしたが、テキサス州にあった私たちの家からすぐ近くの小さなバプテスト教会へ私をいつも連れていってくれました。教会にはグリムス夫人という人がいて、彼女は非常に変わったことをいつもするのでした。説教の最中に立ち上がって手を振り出すのです。バプテスト教会ですから、これは本当に変わった行動だったにもかかわらず、牧師は話すのをやめて、「グリムス夫人、何でしょうか?」と聞くのでした。するとグリムス夫人は「主が私に語られました!」といい、牧師は「主が語られていることを教えてください。」と頼むのでした。彼女は主の御霊が語られていることを会衆に告げ、それが教会にとってどのような意味があるのかを話すのでした。

神が実際に人々に語りかけることができることを知った私は、本当にそのことに魅了されました。牧師が神について話すと、退屈で無味乾燥な感じがしましたが、グリムス夫人が語ると、いのちと躍動に満ち溢れているようでした。
私はおばあさんを見上げて、「神様があの婦人に語ってくださるなら、僕にも話してほしいなぁ。」というと、おばあさんは、「神様に何か言って欲しかったら、先ず、静かにじっと座っていなくちゃだめよ。」 というのでした。私は普通の8才の男の子でしたから、教会でじっと座っているのは苦手だったのです。

私が救われた日

その時から、神は声を持っておられる方だということを疑う気持ちは私の心から消え去りました。グリムス夫人を通して聞きましたし、日曜学校で聞く聖書の話の中でも神が語られることを知りました。でも神が直接私に語られることはそれからもずっと無かったのですが、ついに、私が11才のときにそれが起こったのです。
ある日曜日に礼拝の中で、主の御霊が私に臨まれて、はっきりと「今日はあなたの日です。」と語られたのです。そして、あたかも主の御霊に導かれるようにして私は祭壇の前まで行き、11才の子供として出来る限りのやり方で、主に私の人生を明け渡しました。

後になって聖書を調べて明確にわかったのですが、神は私たち一人一人に救いの日を定めておられます。(IIコリント6:2参照)
私たちはみな、自分の救いの日に神の声が私たちの霊に語られるのを聞いて救われるのです。それまで私たちの霊は罪の中で死んでいましたが、私たちが神の語りかけに応答し、自分の暗い霊の中に真理を照らしだしてくださるようにお願いするときに、それが私たちの救いの日になるのです。
事実、神の声が私たちに働きかけることなしに救われる人は一人もいません。耳に聞こえるような声を聞かなかったかもしれませんが、救いの真理を明らかに示すことができるのは神だけです。 ですから、イエスを主とし、救い主として受け入れた経験のある人は、そのときにはそれとわからなくても必ず神の声を聞いたのです! 又、神の言葉を、読む人に生きたものとするのも神の声です。ですから、聖書の言葉から私たちが真理を汲み取るときはいつも神の声を聞いているのです。

「わたしは回復させる」

私は11才で救われましたが、私の子供時代は問題だらけで暴力やトラウマの多い環境で過ごしました。私の家庭は多くのものを失い、苦悩に満ちていました。父がサタンからの攻撃に負けてしまったのが原因で、私がティーン・エイジャーになる頃には、家族のほとんどはばらばらになっていました。父が悲劇的な最期を遂げたのは、私が16才の時でした。18才になったころには、働きながら大学に行っていたことや夜遊びなどで、私は身体をすっかり悪くしてしまいました。

ついに私は疲労と肺炎で入院しなければならなくなりました。その入院中に主が耳に聞こえる声ではっきりと、「わたしはあなたがこれまでに失ったものをすべて回復する。」と言われたのです。その言葉と共に、主は私の身体のすべての部分に浸透してこられました。そうではないかと思っていたのですが、そのとき私ははっきりと、主が私の過去の傷をいやされるばかりではなく、私の将来をも回復してくださることを知ったのです。 

それまで私は「回復」という概念を聖書の中に見つけることはできなかったのですが、もっと深く読むうちに、神の声には回復させる力があることを学びました。(ヨエル2:25参照)
神の声を聞いた瞬間から、私の人生は変わりました。神は奇跡的な方法で私を癒され、解放し、回復させてくださいました。
神の声は私たちを過去の廃墟から助け出し、私たちのために主が定められた人生のコースに立たせてくださるのです。そのことを私はずっと昔、あの入院中に知ったのです。

あなたの証には力がある

みなさん今、この本を読むのを中断して、あなたの人生の中でどのように神の声を聞いてきたかを考えてみてはいかがでしょうか。どのようにしてあなたは救われたか、どのように神はあなたの人生や状況に超自然的に介入してくださったか等を考えてみてください。その証を書いてみるといいかもしれません。あなたの証の言葉には偉大な力があるからです。他の何よりも信仰を立てあげてくれます。

私たちの証は人間の霊の重要なはたらきの一つです。契約の箱のことを考えてみてください。いくつかの物がそこに入れられていましたが、その一つは神がモーセに与えたテスタメント(二枚の証しの石の板)でした。御言葉を通して神と交わるとき、私たちは心の奥深くに神の命令や規則を蓄え、そこで神との契約を結びます。これらの命令や規則に私たちが従い、神の真実・誠実を経験すると、私たちは敵と戦うときに偉大な力を発揮する証という武器を沢山持つようになります。
私たちがしっかりした証を持つと、敵がうそで惑わそうとするときにも、「神が私にこう語られた。今までにも神の御手が働くのを見てきた。今も神は同じようにしてくださること私は知っている。神には不可能なことはないからだ!」といって敵を論破することができるのです。

黙示録12:10には次のように書かれています。

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威があらわれた 。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」  
             

神の声と私たちの証とが共にはたらくとき、敵はそれに耐えることができないのです。……


人生の中で神の声を聞く

父、子、御霊なる三位一体の神はそれぞれが私たちに「語ってくださり」、力強く働かれます。神の声は大いなる権威をもって命令を下し、それは無から有を創造する力を今も持っています。神の声は私たちの人生に起こってくるすべてのことに対してもそれと同じ力を発揮します。私たちの人生が混沌としているとき、それは天地が創造されたときの状態と同じなのですが、神の声がその混沌に向かって発せられると、それは闇と光をわけ、そこに秩序をもたらします。

さらに、神は私たちが気がつかないときでも、私たちの想像以上に、しばしば語られているのです。旧約と新約の聖書全体を通じて、神は人々に頻繁に語られています。王や裁き司、預言者や羊飼い、そしてイエスの弟子たちにも神は語られました。年寄りにも若者にも同じように語られました。権力のある者にも社会的には全く認められていないような者にも語られました。正しい者にも罪人にも語られました。創世記から黙示録にいたるまで、神はあらゆる種類の人たちに語られたのです。

聖書が完成したときに神が語るのをやめられたとは、聖書のどこを探しても書いてありません。人類の歴史を通して、神は人々に語り続けられているのです。もしあなたが、キリストをあなたの救い主であり主であると受けいれているならば、あなたもそのうちの一人なのです。神は人々に、指示、なぐさめ、深い洞察、矯正、励まし、約束等を今日も語ってくださいます。
黙示録2:7には「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」とある通りです。

今は主イエスの血潮が私たちを贖ってくださった故に、聖霊が私たちと父の心とをしっかりと結びつけて下さっています。しかし、聖霊は私たちに語られるだけではなく、私たちを通しても語られるのです。
神が私たちを無から有を創造する御声をもって形造られたとき、私たちを神の形に似せて造られました。そして地を支配せよといわれました。(創世記1:26参照)
私たちは神の似姿に造られ、キリストによって贖われましたから、私たちは聖霊の力によりこの地上で神の声になる力を持っているのです。私たちを通して聖霊はキリストの教会に、また、罪の中で瀕死の状態にあるこの世に対しても語られます。これこそがまさにキリストの使節になる事であり、預言するということなのです。(終わり)


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22 06月

傷ついた心と父の愛          坂 達也   6月22日


傷ついた心

特にここ数年のことかもしれませんが、日本に行きますと、少し気になることに出くわします。それは日本のクリスチャンの間で「自分は誰々に傷つけられた」とか「深い昔の傷を何とかしなければ」と言うことを、まるでクリスチャンが皆、そのような傷を持っていることが当たり前であるかのように言い、それへのカンセリングが少し大げさに言えば「もてはやされている」ことです。

 そもそも「傷つく」とか「傷ついた」とはどう言うことでしょうか。それは人間の罪の性質から生じる「肉の行い」であることはガラテヤ5:20,21等を見れば明らかです。それを具体的に羅列してみると、敵意 争い、そねみ、憤り、党派心、分裂・分派、ねたみ、紛争・不和、殺意 憎悪、悪く言うこと、批判、虐待、いびる、非情、謀反心、反抗、虚栄に走る、等々…があります。そしてその結果として:感情を害する、不快になる、侮辱されたと思う、赦せない、反感・反目、立腹、怒りを感じ、憤る、憎しみを持つ、うらむ、人間関係が冷たくなり、愛が冷え、疎遠になる、…のではないでしょうか。
この現象をひっくるめて「傷つく」「傷ついた」あるいは「人間関係が傷ついた」と言い、その多くは「プライドが傷つく」ことでもあると思います。

 そこで私が気がつくのは、もしこれをクリスチャンが大問題にしているのなら、一体私たちが受け入れて信じたはずの「十字架」はどこへ行ってしまったのかと言うことです。
 イエス・キリストが私たちのためになぜ十字架についてくださったのか――それはまさにこの「傷つく」ことを私たちに替わってイエス様ご自身が「傷つかれ」その報いと根を処理してくださったのではなかったのでしょうか。
 1ペテロ2:24,25に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ(罪に死に)、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ここにこそ私たちがクリスチャンになった最大の理由があり、私たちの信仰の根本ではなかったのでしょうか。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と言うみ言葉を日常よく使っているマチュアなクリスチャンなら、少なくとも自分の「心の傷」は「いやされた」と言う「信仰」に立つことがそんなに難しいことなのでしょうか。

ガラテヤ5:24には、 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や、欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とあります。
ロマ書6:6-7でも、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」と過去完了形で書かれています。
 罪とその性質から来る上記のような諸々の問題から完全に開放されるには「自分に死んでしまう」つまり、「自分の肉を十字架につけてしまう」以外に解決方法はないのです。もしそれ以外に解決方法があるのなら、イエス様は敢えて私たちのために十字架につくことはされなかったと思います。

そのことを端的に言い表わしているのが1コリント1:18です。「十字架のことば(ロゴス)は、滅びに至る人々にはおろかであっても、救いを受ける私たちには、神の力(ドウーナミス)です。」つまり、十字架のメッセージを本当に自分のものとするときに、それは奇跡を起こすような「力」が及んで、肉と罪の性質から来る一切の「傷つき」を払拭できるのです。これこそクリスチャンとしての最大の特権であると思います。どのようなカンセリングにせよ、それを受ける前にもう一度あなたの内におられる聖霊様から「十字架のメッセージ」をお聞きし、真に理解することによって、あなたの心の傷がいやされる力を受けることが大切であることを私は強調したいのです。
  私たち霊に生まれ変わったはずの、十年選手のベテラン・クリスチャンが、いつまでも肉の性質を十字架にかけようと努力しないで、それを「わがままに」放置したまま、「いつまでも傷ついている」ことを何か新しい大問題かのように取り沙汰していてよいものでしょうか。

 しかし、「自分に死ぬこと」によって「心の傷」を取り去ることが難しいからこそ、聖書ではそのことが繰り返し言われているのも確かです。心の傷がいやされることは「傷つけた人を赦す」ことに深く関係していますから、本当に難しく並大抵なことではありません。ですから私は「聖霊様からカンセリングを受ける」ことを基本とするクリスチャン・カンセリングのやり方が悪いと申し上げているのでは決してありません。イエス様は忍耐強く、やさしい方ですから、私たちが「心の傷」の問題を正直に提起すれば、聖霊様を通して主は解決のためのカンセリングをていねいにしてくださいます。(もっともそれが、人間的なカンセリングを人間的に受けて解決しようとするカンセリングであるなら、多くの場合、未信者のように古い自分を生かしたままで何とかしようとしますから、本当の解決にはなりません。)そこで、私はもっと良い方法を提案したいと思います。

 それは「父の愛」に私たちがもっともっと触れることです。溢れるような父の愛、私たちのために十字架にかかってくださったイエス様の愛を毎朝、主の前に出てふんだんに受け取ってください。私がいつも提案している「毎日、主と個人的に親しい交わりを持つこと」とはこのことです。そして、一日中父の愛を思い起こしてはその大きな愛に包まれて生きる時に、新しい傷を受けにくくなり、又過去のどのような傷も、たとえ傷跡は残っているかもしれませんが、その傷はもはやうずかないでしょう。
 
よみがえったイエス様の手と横腹には傷跡がありました。私たちがイエス様にお会いする時に、その傷跡をイエス様は私たちに見せてくださるでしょう。イエス様の十字架の傷跡は永遠に残ります。しかし、それは完全にいやされた栄光の痕跡として残るのです。私たちはそのいやされた傷跡の永遠の証し人になるように選ばれた人たちではありませんか。

本日は私たちに与えられたすばらしい溢れるばかりの父の愛に感謝したいと思います。天の父は、私たちにご自分のひとり子のいのちさえも惜しまずに与えてくださった愛を今日も又、ふんだんに与えてくださろうとして待っておられます。その父の愛を今受け取ろうではありませんか。
今回お訪ねしたある教会で、教 会の建物の至る所にセント・フランシス・アシシの祈りのことばが標語として張ってあり、その祈りの一部にこう書いてありました。

憎しみあるところには、愛を
傷あるところには、赦しを
疑いあるところには、信頼を
絶望あるところには、希望を、
闇あるところには、光を
そして、悲しみあるところには、喜びを
もたらすものとさせてください。

聖なる主よ。
慰められるよりは、慰めることを
理解されるよりは、理解することを
そして、愛されるよりは、愛することを
求められますように
与えることによってこそ、真に受け取ることができ
赦すことによってこそ、真に赦され
死ぬことによってこそ、永遠の生命に生まれることが
できるのですから

このことばをモットーとする教会とは父の愛を豊かに受けている教会の一つであるに違いありません。

私は以上のメッセージをこの父の日に与えられました。(終わり)


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