25 03月
神と人とに愛される ポール・キース & ワンダ デイビス, ボブ・ジョーンズ 私たちは今、非常に重要な時代に生かされています。聖書の中に書かれている「終末に起こる重大な出来事」が、今まさに、私たちの周りで毎日のように起こっています。私たちは人間の歴史の中で「時が満ちた」といわれる分岐点にさしかかっているのです。
確かに、私たちが、祈りによって神の憐れみを乞わねばならない悲惨な事件も多く起こっていますが、それと同時に、神の偉大な訪れを予期させるような、励まされる「しるし」も起こっています。多くのクリスチャンや教会は、今や、神の王国を大きく押し広げ、前進させていく事ができる場所に、霊的に配置されています。私たちの一番の目標は、暗やみに住む失われた現代の人々にイエス・キリストを示し、主の王国の勝利の力を表わして行くことです。
初代教会の弟子たちに与えられたのと同じ任務の遂行が、私たちにも課せられています。即ち、私たち神の民は「天の御国は近づいた。」とこの世に布告しなければいけないのです。このメッセージを伝えて行く時に、私たちは、病人を癒し、死人を蘇らせ、らい病人を癒し、悪霊を追い出す(マタイ10:7,8)ことをもして行くのです。私たちの基本的な目標がそれ以下であってはならないのです。
1940年から1950年代にかけて「後の雨、ラター・レイン」という癒しのムーブメントが起りましたが、その時に与えられた霊的な油そそぎを主がもう一度解き放ってくださるタイミングは、ヨハネ・パウロ二世の死がその一つのサインになるであろうと、主は数年前に私に語られました。私たちはこのメッセージを様々な機会に語り、また書きあらわして来ました。
私たちが今果たすべき責任は、破れ口に立って主が恵みをもって回復のミニストリーを解き放ってくださるようにと嘆願し、叫ぶことです。私たちは、前の時代の人々に主が与えられた約束と任務をもう一度取り戻し、それに新しいフレッシュな主の息吹を吹き込むのです。
預言者イザヤは、イスラエルの歴史の中で、現代とちょうど同じような時について語っています。それは、契約の民イスラエルが長子の権利を略奪され、敵に相続財産を奪われてしまった時のことでした。
「これは、かすめ奪われ、
略奪された民のことであって、
若い男たちはみな、わなにかかり、
獄屋に閉じ込められた。
彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、
奪い取られても、それを返せと言う者もいない。
あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、
だれが、後々のために注意して聞くだろうか。」 (イザヤ42:22,23)天に向かって嘆願し、敵の陣地を襲撃して相続財産を奪い返すことのできる権威の油注ぎを受けた人々を、主は今、求めておられると信じます。敵に渡してしまった賜物、油注ぎ、任務、約束をすべて取り戻さねばならないのです。この任務を遂行するために主は恵みを与えてくださいました。主よ、どうかこの事が出来るように私たちを助けてください!
神と人から愛される ポール・キース・デイビス私たちや又、他の人々が主にお訊ねしてきた質問がいくつかあります。それらはとてもシンプルですが、非常に深い意味を持つ重要な質問です。
1. 神は私たちに何を望んでおられるのか。
2. 私たちは今の時代に何を望んでいるのか。
3. 天国の通貨は何か。
4. 神に目を留めていただくにはどうすればいいのか。
これらは聖書的で正当な質問であり、それに対する聖書的な油注がれた答えがキチンとあるのです。
ソロモン王はこの地上で生きた人の中で、(イエス様は別にして)最も知恵ある最も油注がれたリーダーでした。彼は、リーダーとして成功するために鍵となるものを、聖霊によって次のように書いています。
「恵みとまこととは王を守る。
彼は、恵みによって王位をささえる。」 (箴言20:28)今の時代の人々を神の方法で霊的に目覚めさせるには、恵みとまことが必要不可欠なのです。
聖霊様は最近、何度もこの事実を強調されています。もし、私たちが主の柔和さを自らの生き方であらわし人に示して行くならば、私たちはその時に主の力をも受けることが出来るのです。もし、私たちが主の従順さを持つならば、主の復活の力をも受け取ることが出来るのです。
モーセの模範 聖書に、地上のすべての人にまさって柔和であった(民数記12:3 口語訳)、と書かれているモーセは、イスラエルのリーダーとして、長く待ち望んだ約束の地をあと一歩で相続するというところまで来ていました。しかしながら、これが彼のすばらしいところですが、彼は神の約束を手に入れる事だけでは満足せず、神の臨在をも切に求めたのです。この事は私たちが、神の臨在を求めることなしに、預言で約束されたものを手に入れようとする、という愚かな行動をとることも可能である、という事実を示しています。
モーセの心は主の約束と主の臨在を求めただけでは満たされず、そればかりか、彼は主の栄光を見ることを望みました。ですから、私たちも同じようにこれらのことを期待し、求めるべきなのです。
主がモーセの前を通り過ぎるときにこう宣言されました。
「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」(出エジプト34:6,7)恵みとまことに満ちている、とは、神のご性格そのものなのです。
神に目を留めていただく 1995年4月28日に、私はあることを示唆する夢を見ました。夢の中で私は、ラター・レイン(後の雨)リバイバルの著名なリーダーの一人をよく観察することが出来ました。実際、彼はラター・レインのムーブメントを起こしたと言われている人でした。
聖霊様はこのへりくだった一人の人を使って大きな業をされました。多くの著しい奇跡が起こったので、多くの歴史家たちは、彼を通してこのような神の霊の降り注ぎは、初代教会以来のものあった、と評価しています。このムーブメントの中で、彼や、彼を通して主に触れられた人たちのミニストリーによって、実に何百万という人たちが、救われ、癒され,開放された
のです。
この人の何が主の目にとまったのでしょうか。このように重要な任務を与えられ、天の恵みを買うことのできる天国の貨幣を手に入れることが出来たのは、彼のどのような資質によるのでしょうか。私はこの問いを、夢を見る前からずっと心に持っていたのでした。
夢の中で彼が語るのを聞いていた時、私は彼の首に何かがぶら下がっているのに気がつきました。それは革の紐にさげられた馬蹄形の飾りで、胸のあたりにぶら下がっていました。時々彼はその馬蹄形の飾りを自分の口の中に入れるのです。するとそれは彼の身体の一部のようにぴったりと彼の口にはまり、それと同時に、彼の口からはすばらし霊的真理が語られるのでした。
つまり、この飾りが何を意味するにせよ、それを口に入れると彼は地上での神の代弁者、スポークスマンになることが出来るのでした。確かにいつの時代でも、神の御心をはっきり語ることが出来る人たちがたくさんおります。教会は天国を顕すものになるという召しを受けていて、私たちは神の王国を代表する油注ぎと権威を授けられた大使なのです。
私たちが神の力をこの世にあらわしていくときに、その力を大きくするために私たちに求められる非常に大切な資質があります。夢の中の馬蹄形の飾りを見た時、私は直観的に、それは彼が神とよい関係をもっている秘訣の一つであることがわかりました。
それから、私はこの夢の霊的意味に確証を与える聖書の箇所として箴言3:3,4を示されました。
「恵みとまことを捨ててはならない。
それをあなたの首に結び、
あなたの心の板に書きしるせ。
神と人との前に
好意と聡明を得よ。」恵みとまこと(Kindness and Truth)知恵の霊は、決して恵みとまことを忘れることのないように、と私たちを訓戒されています。それを首飾りのように首につけ、心の板に書き記されねばなりません。そうする時に私たちは、神と人との前で好意を得ながら歩むことが出来るのです。
多くの者たちは人との関係においては信頼を得ていますが、神との間では得ていません。又、ある人たちは神との縦の関係は築いていますが、人とはあまり深くかかわっていません。変わることのない「恵みとまこと」という資質は、神との関係と人との関係のどちらをも私たちに与えてくれます。この二つの徳を養い育てることによって、私たちは神と人との両方の確かな信頼関係を結んで生きることが出来ます。
私たちが首にかけるものは、とても重大な価値のあるものを表わしています。例えば、偉大な富のしるしを人にあらわすために私たちは高価な宝石を首飾りにします。恵みとまことの資質は霊的富の大きさを表わすために私たちの首にかけられるべきものなのです。
古代に人々は、自分にとって最も神聖な言葉を羊皮紙に書いて、それにひもをつけて首にかけ、自分にとって何が一番大切かと言うことをいつも忘れないようにしました。
それに加えて、「恵みとまこと」は私たちの心の板に書き記されねばなりません。人の心とはその人の存在の核心です。心に何かを刻むならば、私たちのすべての行動の上にそれが書き写されます。
それは単に言葉を知的に理解するとか、意味もなく言葉を機械的に反復することではありません。それらは私たちの存在そのものに影響を与えることの出来る心の内から湧き出る資質です。それによって私たちの口から出るすべての言葉、すべての行いは「恵みとまこと」を着せられて出てくるのです。
恵みとまことを理解するこの箴言の中の「恵みkindness」という言葉は、ヘブル語で「checed」です。旧約では240回使われていて、神のご性格を理解するうえで最も大切な言葉の一つでり、「あわれみ mercy」と訳されていることも多い言葉です。 それは又、恵みとあわれみという概念だけではなく、同情 (compassion)、誠実 (royalty) という意味も含んでいます。
「恵み(kindness 親切)はただである。」といった人がありました。又、ウイリアム・ペンは「私は人生は一度きりだと思う。だから、もし何か恵みを施す機会があるならば、また、何か善を施すことが出来るならば、後に延ばしたり、怠ってしないことがないように、今それをさせてもらいたい。ここを通ることはもうないだろうから。」と言ったといわれています。
人に恵み、親切を示すのにはお金はかかりません。神の性格を持ちたいと願う人の個人的な選択で出来るのです。それに加えて、神の御性質にあずかることが終末の神の軍隊には必要不可欠であると御言葉にもあります。(第二ペテロ1:4参照)
次に、「まことtruth」という言葉は「emeth」という語根からきていて、「真実な証言」という意味を持っています。また、忠実、不変、信頼出来る言葉、などの意味も含みます。
「まこと・真理」は神の証印です。真理の御霊は私たちをすべての真理に導かれ、よって
すべての偽りや偽善の企てを取り除いて下さいます。
聖なる飾り物をつける「恵みとまこと」は、神と人から好意をもたれるための不可欠な徳であると言われています。この二つの性質を私たちがしっかりと心に抱きしめ育てていく時に、この世に神の救いと力の衣を運んで行くために必要な完全は霊的な力を、私たちは持つことが出来るのです。
使徒パウロを通して、聖霊は「神が喜ばれる心」を次のように表わしています。
「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なもので
なく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人
がらを飾りなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(第一ペテロ3:3,4) この箇所は、直接的にはパウロの時代の婦人たちに対して語られたものですが、神が外面的な美しさに重点をおくのではなく、内面の美しさをもっとも喜ばれるということを私たちに教えています。私たちは外面だけではなく、「朽ちることのない柔和で穏やかな霊と言う心の中の隠れた人がら」を飾らねばならないのです。これが神にとって価値のあるもの、即ち、天の貨幣である、とパウロは言っているのです。 (終り)
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