Walk With God Ministries
Archive for 1月, 2006:
19 01月
2006—熱いか冷たいかの年
ダニー ステイン
詩篇46:1-11 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ 来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ」
熱いか、冷たいかを選ぶ年、なまぬるいままでいることは非常に危険
今年、主が私に示された中心的なことは、2006年(2007年の初めも含む)は熱いか冷たいかの年であるということです。つまり、なまぬるかったり、中途半端な年ではないと主は言われたのです。
1990年代の初めに、主は私に、空間と時間に宙吊りになっている教会の建物の幻を見せてくださいました。その教会の上にイエスが立っておられました。教会はイエスの足ほどの大きさでした。教会の真ん中をめがけてイエスは両手に剣を持っておられました。イエスの顔には何にも増して一つのことを決意している、という表情が浮かんでいました。私にはイエスが決められた(適切な)時を一心に待っているということが分かりました。
次の瞬間、イエスは剣を教会の中に差込み、真二つに切ってしまわれました。教会の中にいた人々は二組に分けられて、教会の中は恐怖でみちあふれるのを私は見ました。
半分は上に上げられて、「キリストの花嫁」と言われているものとなり、その信仰の故に明るく栄光に輝いていました。
もう一方の半分は、「宗教的な暗やみ」として知られているものとなりました。それは、暗やみと不信仰の故であり、彼らは忘却へと落ちていきました。これらの者たちも回心したならば花嫁に変えられたのですが、神はこれ以上失われた者たちが光の中に隠れているのを許されないと宣言されたのです。
主は、このことが今年起こると語られたと私は信じます。光と闇の間にははっきりした区別があるのです。中途半端でいる人は大怪我をするか命を失います。(霊的に、そして肉体的である可能性もあります。)
その理由は、光の中にいる人が中間にいる人にむかって、そこから出るようにとはっきりと宣告していたからです。これはヘブル6章が実現していることだと私は信じます。
ヘブル6:4-6 「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
Iペテロ4:17 「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」
今年は熱いか冷たいかがはっきり分かれるときであり、我々の従順が明確に問われるときなのです。
又、一方では、栄光が今までよりより大きな規模で解き放たれる年となるでしょう。主のしもべたちの信仰が大きくなり、奇跡が爆発的に起こります。これは世界的規模で(西欧でも!)起こるでしょう。
すでに現れている栄光のひな形や影、また2006年のはじめに解き放たれる栄光は、これからの1年半の間にはっきりと明白になってくるでしょう。それらは、来るべきものの良いことも悪いことも含めての前ぶれです。教会の中で、「死」の雛形を表していたものがこれからはもっと公にはっきりと現れてくるでしょう。また、「命」の雛形を表していたものが、大きく解き放たれて、大きな奇跡が、努力や断食や何年も祈り続けることなしに起こってくるでしょう。
砕かれ通す年
今年は打ち破りの年ではなく、砕かれ通す年です。主によって砕かれることを耐え忍び通した者は、天の領域に入っていくでしょう。 主の傷の豊かさを分け与えられるように信頼され、へりくだりを経験したものは、天の領域で昇格していくでしょう。
Iペテロ5:6 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」
時が来ました! 信じる者が集まるところに天国のしるしがどんどん現れるようになるでしょう。天国から直接送られて来るしるしが起こるでしょう。それは金粉や、羽根、オイルだけではなく、天国からの訪問者と主の訪れが集会にあらわれるのです。また、驚くべき高度な作品とか、天国からの芸術品が、いままで地上では知ることができなかったような色彩とか、音色、あるいは現象として起こるでしょう。
時には、天が大きく開いて、主の臨在と力が集会の中にとめどなく流れ込むように感じられることが起こるでしょう。 エノクのように一人で神と共に歩くことを願うのではなく、この世代に生きる者たち総てが神と共に天の領域を歩き、その栄光を地上にもたらすことを熱望する時なのです。
誰の権威によってするのか?
マタイ21:23-27 「それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合
18 01月
私たちの教会
私たちは、一年半前にオレゴン州からハワイに移住してから、自分たちがつながるべき教会を主に求めてきましたが、今回、New Life Church Honoluluがそれであると示され、メンバーとなることになりました。メンバーになるための説明会では、この教会がどのようにして生まれ、神からどのように導かれてきたか、また、神から示されているこれからのヴィジョンは何かを、主任牧師であり日系三世のフランシス・オダ師から聞くことができました。
個々の教会はそれぞれにユニークであり、それぞれに神からユニークな使命をいただいているわけですが、この教会はマーケット・プレイス・ミニストリーが使命の一つだそうです。今、世界的にマーケット・プレイス・ミニストリー(人々の日常の生活の場や仕事場でのミニストリー)の重要性が謳われていますが、この教会は10年前にすでに神からそのことを示されていました。そのときはキリスト教界では全く理解されず、カルトではないかと危険視されたこともあったそうです。
又、神から「教会のようでない教会、a church that does not look like a church をつくりなさい」ということばを受け取って、牧師はそれはどんな教会なのかと祈りました。そして答え(それが答えなのか、答えの一部なのか分からないといわれましたが)が示されました。皆さんは、それはどんな教会だと思われますか。
オダ牧師に示された答えというのは「教会のようでない教会とはイエス様のような教会である。」というものです。イエスは美しい式服ではなく普通の格好をしていて、自分の地位や人々からの評判は気にもかけず、罪人と交わり、空腹なものには食べさせ、病人を癒し、人々に仕えられました。当時の宗教家たちとは全く違っていました。伝統的ではなかったのです。教会が教会らしい、というのは悪いことではありません。教会らしい教会を必要としている人々も沢山います。しかし、ニュー・ライフ・チャーチは教会のようでない教会になりなさいという神からの召しを受けたのです。教会でするべきこと、つまり礼拝とか、サンディースクールとかは勿論するのですが、それに加えて、普通は教会に足を踏み入れないような人たちに対して、いろいろな方法で神の愛を示していくのです。
この教会はホノルルのチャイナ・タウンの一角にあります。このチャイナ・タウンがこの教会のまず第一のミッションの場で、祈りの歩行も行われています。又、チャイナ・タウン全体の催しとして毎月第一金曜日の夜を「ファースト・フライディ」と呼んで、 画廊などがオープンしたりバンドが演奏したりして、沢山の人が来るそうです。今教会が計画しているのは、その時に教会もドアをオープンして、クリスチャンのアーティストのショウや、コンサートをしようというものです。この教会はもともと劇場だったので、建物的にもそのようなことをするには、ぴったりなのです。現在計画が進んでいて、三月の第一金曜日に一回目をする予定です。
又、私たちはここにある日本語部の中でもお手伝いをさせていただくことになりました。主人は月二回メッセージを担当し、私はピアノで賛美チームに参加させていただきます。これはすべて主の御計画であるという平安があり、ハワイにこのような働きの場所を用意してくださった主に心から感謝しています。(終わり)トップページへ戻る
13 01月
預言的イメージの表現
キム・クレメント
ヨネ4:16-18 「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』 女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 』
その後、彼女は水がめをそこに置いて町に戻り、人々に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:29)
イエスが井戸のそばでサマリヤの女と話したとき、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われました。 イエスは彼女の人生の中の一つの小さなポイントにだけ焦点を合わせたのですが、その結果として彼女は町に走っていって、人々に「私の人生のすべてを話した人がいますから、来て会ってください。」と言ったのです。 イエスは彼女の人生のすべてを語ったのではありませんでした。一つのことだけ話したのです。しかし、それが彼女の全世界、人生のすべてだったのです。ですから、あなたにとっても、現在あなたが面している「まさにその事」が、あなたの全人生なのです。
他の人の重荷と自分の重荷とを比較して、自分の重荷の方がずっと小さいと思うことはできません。私の重荷は私にとっては大きいものであり、敵はいつも私の人生を最後にはやっつけたいと考えています。敵は些細な事柄をいつも掘り起こしてきて私たちが前進するのを阻止しようとします。
ヨハネ8:32に「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。真理そのものではなくて、真理を知ることがあなた方を自由にするのです。真理はあなたを自由にしません。真理を知ることが自由にするのです。ひと度あなたが真理を知るならば、真理はあなたを自由にするのです。この真理というのは、神から与えられた真理です。もし、誰かがあなたのことを悪く言っていて、それがあなたにわかった場合、その真理はあなたを自由にはしません。かえってあなたを傷つけるでしょう。神の真理は直接神から与えられます。聖書には神の言葉は真理であると書かれています。医者は医学的な観点からあなたに事実を告げ、それは多分真理かもしれません。しかし、今私がお話している真理は、神がみ言葉によって与えてくださる真理のことなのです。
私がある人に個人的な預言の言葉を与えたとします。そのとき彼がそれは確かに神のことばだと信じ、神からの「真理の知識」を得るならば、その後どんなに敵の攻撃にあったとしても彼は「真理の知識」という武器で敵をやっつけることができるのです。ですから、彼が神から受け取った真理を事実(fact)にするか、ただの絵空事(fiction)にしてしまうかという力を彼は与えられているわけで、したがって責任は彼の肩にかかっています。
医者はあなたを診断して得た事実を基にしてあなたに真理(真実)を告げるかもしれません。一方、神は神の真理を基にしてあなたに事実を告げられます。あなたはそれを目で見ることが出来ないかもしれませんし、明らかでないかもしれませんが、神は確かに真理に基づいた事実をあなたに語ってくださるのです。私たちは自分の人生は自分の望み通りであってほしいと思います。完全な人生を望みます。しかし、そうはなりません。問題や困難が絶えず起こってきます。 このようにあなたを襲ってくる問題から真理はあなたを開放してくれるのです。
真理のことばを受けてからは、周りの状況がどのようになろうとも、自分は真理を知っているのだということを忘れないでください。神はあなたに一つの約束を下さいましたが、事の成り行きは預言の霊とくいちがってくることがあります。 しかし、預言の霊は真理の霊であり、又、キリストは真理の霊です。このようなくいちがいが起こるとき、もしあなたが真理を持っていたら、神の真理をあなたの真理にする力をあなたは持っているのです。たとえ物事が反対のほうに進んでいると思われるときでも、真理は真理であり続け、あなたはそれを事実にしていく力を持っているのです。
真理はいつまでも真理
神が究極的な真理です。私たち個人の真理は現実です。それは知恵ですが、時間と空間のなかでそれを事実としていかねばなりません。私は真理の力に関してすばらしいことがわかりました。その真理をあなたが事実とするならば、真理はなんでも出来るのです。どうやって事実にするのでしょうか。あなたの信仰がそれを事実にするのです。あなたの想像がそれを事実にするのです。あなたが夢見ることはすべて真理でなければなりません。現在の状況に飲み込まれてしまってはいけません。
神があなたに語られるとき、一つのことばだけをくださいます。
「ある人には御霊によって知恵のことば(the word of wisdom)が与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことば(the word of knowledge)が与えられ…」 (Iコリント12:8)
これはあなたは、知恵の一つのことば、知識の一つのことばを与えられるということです。 どうして神は一つのことばだけをくださるのでしょうか。どうしてちゃんとした文章をくださらないのでしょうか。それは、私たちは神のかたちに造られたので、一つのことばから文章を造りだす力を持っているからなのです。もし私たちが間違った文章を書いたならば、神はそれを消して、もう一度書き直させます。そうやって最終的に神が意図された文章になるまで何度も書き直させるのです。
神は全能の神なのだから、最初からなぜちゃんとなるようにしてくださらないのだろうか、と思われるかもしれません。それは神は私たちを神のかたちに造られたので、私たちが自分でちゃんとできる力を与えられているからです。ですから、神から「富」ということばを受けたとき、あなたは「富は私を堕落させ、悪くする」という文を作ることもできるし、または、「富は神の国を拡大する力を私に与えてくれて、福音が全世界に広まる」という文を作ることもできるのです。 もし、あなたがするべきであると分かっていることにむかっての一歩を踏み出さないでいるときに、真理はただの絵空事になってしまうのです。
神はアダムとイブに、地を従わせて支配せよといわれました。これが真理です。しか
09 01月
神への信頼
私の母方の祖父は中村寅松といって第八高等学校の教師でした。残念ながら私は一度も会う機会はなかったのですが、生徒たちに慕われたよい教師だったようです。祖父には私の母を含め七人の娘と一人の息子がおりましたが、そのうちの一人の娘が療養生活をしていたところに祖父が見舞ったときに与えたという色紙があります。それには
「 過去に泥まず(なずまず)
未来を憂えず
日々是好日
昭和十六年 正月」
と書かれていました。父親が療養中の娘に対して、「後のことも先のことも何も心配しないで、一日一日、心穏やかに暮らして病気を早くなおしなさいね。」ということを言いたかったのではないでしょうか。「日々是好日」というのは中国の仏教書である碧巌録の中にある言葉だそうで、茶道でも使われますし、日本人には大変親しまれている言葉です。その意味は、「悪いことでも、良いことでも、たとえ何が起こったとしてもそれを良しとして受けとめて今日を生きる」ということだと聞きました。
一方、フランスの16世紀のキリスト者であるガイオン夫人の本に、神にすべてを明け渡すことを説明した言葉があり、それは
「神に自分を明け渡すとは、過去を忘れ
未来を神に委ね
現在を神にささげることである。」というものです。
この二つはよく似ていますが、「日々是好日」は悟りの境地であり、明け渡しは神への全き信仰であると言うことが出来るのではないでしょうか。
過去、未来、現在をすべて手中に治めておられる父なる神に信頼してこの年を始めることができることは本当に感謝なことです。激動が予想される2006年、主と共に日々すごしたいものです。(終わり)トップページへもどる
08 01月
新しい年に
ウェイド・テイラー
イエスは言われました。
「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。』(ルカ13:32)
主は又、次のように言われました。
「主はモーセに仰せられた。『あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。』(出エジプト19:10-11)
「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」(ホセア6:1-3)
これら三つの聖書箇所では、準備のための2日間がまず設けられていて、それは「三日目」に起こる重大なことのための備えのためであることが書かれています。
最初のルカ13:32で、主は「わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し…」と言われました。イエスは現在父なる神と共に天に座しておられますが、今の期間に選ばれて完全にされる者たち(chosen and perfected)がキリストの身体なる教会の中にいるのです。イエスは、ご自身が「三日目」に「全うされる perfected」と言われました。この「全うされる、完全にされる」時というのは、かしらなるイエスと身体なる教会が一致し、一つとされる時という意味です。
二つ目にあげた出エジプト19:10-11は、備えの期間の後、主がすべての人々の目の前に下りてこられるというところです。この箇所から、イエスは「三日目」に人々にあきらかに見える形で、キリストの身体なる教会のかしらとしてご自分を現され始めるということがわかります。
このように、イエスがご自分ひとりの身体を通して現された業を、教会という身体全体を通して再びされようとしているのです。
三番目のホセア6:1-3では、「三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」と書かれています。
すべての被造物が主の臨在…即ち、私たちが主の御前に生きること…が現れるのを待ち望み、うめいています。「うめき」とは激しいとりなしを意味していて、それによって教会が変えられていくのです。今の時代、主は多くの人たちを「激しいとりなし」をするようにと召しておられます。彼らは必ずしもすべての状況を把握していないかもしれませんが、主が今介入してくださるようにと真剣に祈っているのです。
「この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。… 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」(黙示録12:2,5)
この聖書箇所を現在に当てはめて見ると、一日目、二日目、三日目という意味を理解する助けとなります。
一日目…今日 「召し」 選ばれる
今のとき、私たちにはある選択をする機会が与えられています。
「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:14)
この主による選びは、私たちが、自分中心の生活から離れてキリスト中心の生活をするための犠牲を、どれだけ喜んで払う意志があるかどうかにかかっています。キリスト中心の生活とは、私たちが全く透明になって内なるキリストご自身が私たちを通して「三日目」にこの世に現れるような生活ということです。
二日目…明日 「準備」 調えられる
私たちの主に従うという決意がテストされるときです。それは、主と共に御座にすわる資格が与えられ勝利者となるためです。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」 (へブル12:6)
この「むち」により、私たちの内にある自分中心の生き方が十字架につけられ、時としてむくむくと起き上がってくる様々な「自分中心の生き方」に打ち勝つことができます。
三日目 「現れ」 主と共に効果的に働く
「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け…」(IIテサロニケ1:10a)
私たちは2日の間、準備されてきましたから、三日目に入ることができるのです。「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」とホセア書にあるようにです。
「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」 黙示録5:10
私たちは現在、「二日目」がほとんど終わろうとしている時代に生きております。主が重大な変化を起こそうとされています。主の「臨在の現れ」がどんどんと増し加わっています。私たちは更にすばらしく新しい力と油注ぎを与えられています。主は今まで教会が見たことがないような癒しと奇跡をもたらそうとしておられるのです。
私たちは今までこの「三日目」を迎えるための準備期間にいたのですが、今はその「三日目」がいよいよ来ようとしているのです!(終わり)トップページに戻る