25 01月
暗雲と神の国の輝き(2)
リック・ジョイナー(訳者:渡橋喜代佳)
産みの苦しみを理解する
私たちは、分娩中の女性に陣痛が襲うように、霊的な陣痛が世界を襲っているのを見るようになる。出産が近づくにつれて母親の陣痛がひどくなり、その間隔も狭まるように、この世界を襲う苦難もますます激しさを増し、頻発するようになるだろう。嵐も激化し、地震も激化していく。病気もまた悪化するばかりだろう。そうした中で、神を知り神に近づいている人々は、キリストがこの地を支配される新しい時代が到来するための産みの苦しみをとおして、さらなる栄光を経験するのである。
分娩中の女性は、動揺を避けるため、何か「焦点」となるものを見つけてそれに意識を集中させるように教えられるが、私たちもまた同様のことをしなければならない。私たちの焦点になるのは、主ご自身である。私たちの注意を、世界で起こっていることにだけではなく、主と主がなさっておられることにもしっかり向けていなければならない。
ヘブル12章で言われているように、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての揺り動かされるものが揺り動かされる。揺り動かしが来るなら、何がこの世のもので、何が揺り動かされることのない神の国のものかが明らかになるだろう。前述したとおり、私たちは主のことばを聞いて主に従いながら、岩の上に自分の家を建てている。嵐や洪水はその建てたところまでやって来るかもしれない。しかし、私たちの家は倒れることなく、もちこたえるのである。けれども、もし、今私たちが詩篇32:6~11にあるこの警告に注意を払わなければ、異教徒よりも愚かな者となるだろう。
それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。
あなたにお会いできる間に。
まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。
あなたは私の隠れ場。
あなたは苦しみから私を守り、
救いの歓声で、私を取り囲まれます。
わたしは、あなたがたに悟りを与え、
行くべき道を教えよう。
わたしはあなたがたに目を留めて、
助言を与えよう。
あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。
それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、
あなたに近づかない。
悪者には心の痛みが多い。
しかし、主に信頼する者には、
恵みが、その人を取り囲む。
正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。
すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。
この時代(世)の終わりは、何年か先というよりは、まだ何十年か先のことになるだろう。戦略と将来のビジョンをもって生きていくことが重要である。世界がばらばらに崩壊し始めるときに、もし私たちが主を知って主のみこころを行なっているなら、私たちは築き上げていることになる。けれども、揺り動かしが始まったり、嵐が来たりするまで、「岩」の上に自分たちの家を建てるのを待つ、ということのないようにしよう。今が建てる時である。洪水が来てからでは遅すぎるのだ。
また、これらの苦難が来たときには、ダニエル11:31~35に記されていることを、私たちも決意しなければならない。
彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、
荒らす忌むべきものを据える。
彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、
堅く立って事を行なう。
民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、
火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。
彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮
深い人につく。
思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白
くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。
私たちはここで、「荒らす忌むべきもの」が据えられているまさにそのとき、「自分の神を知る人たち」は、堅く立って事を行なう」ということがわかる。真の戦士たちのように、「自分の神を知る人たち」は、戦いの音を聞いて逃げたりはしない——それに向かって駆け込むのだ!主は、かつてこの地上に存在した中で最高の霊的戦いの戦士たちの世代を建て上げておられる。ダビデの心をもった何万もの人たち、エリヤよりもさらに力ある何万もの人たち、バプテスマのヨハネの説教の油注ぎを受けた何万もの人たちが出てくることだろう。彼らは困難から逃げることをせず、逆に困難に突き進んで行く。「自分の神を知る人たち」は、隠れていない。むしろ、私たちの時代の大いなる闇に大胆に立ち向かうようになる。そして、この闇は、終わりの時には、すべての時代を通じて最大の闇となっていくのである。
倒れる者も出てくるし、死ぬ者も出てくるであろう。ヨルダン川を渡るという前号のメッセージでも触れているように、私たちが神のみこころだけを行なって前進している間、その周りで多くの人々が亡くなっていくのに慣れなければならないだろう。
私たちには揺り動かされることのない神の国がある。その神の国の上に建てられたものと、今の邪悪な時代のシステムの上に建てられたものとの違いが、これから先、ますますはっきりしてくるだろう。「自分の神を知る人たち」は、神がすべての力と権威と主権の上におられる方だということを知っている。あらゆる状況下で、主にとどまっている人たちは主の権威を行使していくようになり、それによって地上のどんな状況も変えられていくだろう。
私たちには恐れ自体以外には恐れるものはない
悪魔は、人々をコントロールするのに恐れを用いるが、主を知る人たちは、信仰によって生きる。悪魔は、恐れや恐怖を用いて、大勢の人々を奈落の底に追い集めようとしている。箴言4:18~19で与えられている約束と警告はこうだ。
義人の道は、あけぼのの光のようだ。
いよいよ輝きを増して真昼となる。
悪者の道は暗やみのようだ。
彼らは何につまずくかを知らない。
義人の道を歩いている人たちは、その道でいよいよ光が輝いて明らかにされ、確信をもって歩けるようになる。ますますはっきり見えてくるからだ。この先何が起きてもけっして驚かないようにすること—–それが私たちのゴールとなるべきである。なぜなら、私たちは見えることを可能にして
くれる光にとどまっているからだ。けれども、悪者の道を歩いている人たちは、目に見えないものにつまずくようになる。
ありそうにない提携
ニュースメディアは、この時代の最強のテロリストだと言える。現在の世俗的なメディアは恐れと悲運を食い物にしており、どうしてもそこには欺きが入り込む。必ずしも意図しているわけではないのに、その性質上、そうならざるをえないのだ。たいした話題がない時は、どんなささいなことでもセンセーショナルに取り上げようとする。そうでなければ、だれもその新聞や雑誌を買わないし、番組を見ないからだ。
たとえば、2、3年前のことになるが、他にビッグニュースがなかったために、サメによる被害がメディアの関心を集めたことがあった。それがあまりに誇張して取り上げられたため、恐れた何万という人々が海に行くのを控えてしまい、その年は多くのリゾート地に深刻な被害をもたらした。しかし、実際には、その年のサメによる被害はいつもの年よりも少なかったのである。海に行く途中の車の事故による死者の数の方が、サメや他の原因による溺死者の数をはるかに上回っていたのだが、そのことを言う者はだれもいなかった。もし本当に安全でいたかったら、車に乗ってはいけなかったということになる!
同様に、わずか二回の祭日の週末で起こる車の事故で死亡するアメリカ人の数は、今までのイラク戦争における死者の数よりも多いのだ。実際、私は軍に入隊していた経験があり、どれだけの隊員が任務についていないときに車の事故で亡くなるのかを知っているので、これらの兵士たちが母国で車を運転している時よりイラクにいる方が安全であるかどうかを調べてみるのは、興味深い調査になるだろう。私はイラクの方が安全だと言っているわけではないが、たとえ危険だとしても、バグダッドをパトロールしている方が合衆国内でドライブしている時よりもはるかに危険だということはなさそうである。
テロというのは人間がなしうる最も極悪非道な行為の一つであるため、最近このように注目されているのは、当然といえば当然だろう。とは言え、脅威ということに限れば、テロリストの手にかかるよりも、車でスーパーに買い物に行く途中の事故や雷に打たれて死亡する方が、はるかに確率として高い。間違った事を恐れてそれに多くの時間やエネルギーや資産を費やしてしまい、それよりもはるかに危険な事に対しては無防備な状態になるということが時々ある。
メディアは、伝える内容やその伝え方によって、事実に基づいたものにもなり得るし、人を欺くものにもなり得る。伝える側は、自分たちはニュースを伝えるだけで、解説するわけではないと主張するかもしれないが、それは視聴者の知性を侮辱することであり、その言い訳はもはや通らなくなっている。半世紀前、ジャーナリストにはあらゆる職業人の中でも最大の敬意が払われていた。ところが、ニュースをすぐにセンセーショナルに取り上げようとする姿勢や、メディアの冷笑的な姿勢のために、ジャーナリズムに対する信頼が損なわれてしまった。今では、ジャーナリストというと、弁護士(法律家)や説教者よりも信頼できない者とみなされるまでになった!
もちろん、弁護士も同様に評判を落としてきたし、最近ではクリスチャンのリーダーに対する信頼も損なわれている。この三者ともが信頼を損なったが、その原因はみな同じだ。すなわち、事実の歪曲、センセーショナルに取り上げようとする姿勢、誠実でない態度である。こうした態度はごくわずかな者にしか見られなかったのかもしれないが、その影響は全体に及ぶことになる。社会秩序に測り知れないダメージが加えられてきた。それは、まさにこの三者の信頼が損なわれたためであった。来たるべきものに備えて、この三者の誠実さと信頼とが回復されなければならない。
この先、最高レベルの誠実さと信用を併せ持ったメディアが必要である。そのメディアは大災害の時にはきわめて重要であり、人々やそうした状況を救援するうえで通常大いに益となっている。もし、メディアがハリケーン・カタリーナの脅威についてあのように警告を与えていなければ、そして災害直後にもあのようなめざましい救助の働きをしていなければ、この嵐でさらにどれほど多くの犠牲者が出ていただろうか。こうした場合、ジャーナリストが多くの場合最大のヒーローとなる。
弁護士も、これから先、秩序の維持や回復のためにきわめて重要な存在になるだろう。家族やビジネス、政治にかかわる問題を解決するにあたって、彼らの助けはきわめて重要なものとなってくる。
また、誠実さと正確さが試されて信頼できる者とされた預言者も必要になってくる。事をセンセーショナルに取り上げたり、粉飾したり、利己的な目的のために自分が得た情報を用いたりせずに、はっきりと聞き、はっきりと見、はっきりと語る預言者が、私たちには絶対に必要である。真実こそがキリスト教にとって欠くことのできない最高のものであり、理由はどうであれ、真実を曲げるようなことがあってはならない。神の言葉のよき管理人として、忠実で、清廉潔白で、信頼できる人々が将来についての情報を扱うことになるだろう。彼らの預言は、これからの時代には今まで以上に非常に価値あるものとなるからである。
しっかり立っているものの上に立ちなさい
私たちには揺り動かされることのない神の国がある。だれがその国の国民であるかは、ますますはっきりしてくるだろう。やがて、彼らは、将来に向かって大胆に確信をもって立っている唯一の人々ということになる。この時代に関しては、主イエスご自身の預言も明らかにしているが、私たちはいまだかつてこの世の中が経験したことのないような最大の苦難の時代を迎えようとしている。けれども、よいことは、もし、私たちが揺り動かされることのない神の国の上に人生を築いて来たのであれば、来たるべき苦難を生き残れるだけでなく、備えをしていなかった人々を助けるようになるのはもちろんのこと、敵に打ち勝ち、栄えるようになるのだ。実際、これが教会がヨルダン川を渡り、約束の地を所有し始める時なのである。
現在のこの世のシステムは、揺り動かされ、崩壊していく。このしるしとして、地震や嵐といった自然災害がますます頻発するようになり、その規模や被害の記録を次々と塗り替えていくだろう。神を抜きにしてやっていけるという考えを捨てなかった人々も皆、それが不可能だということがわかってくる。「福音に従っている」人々は、自分たちを取り巻く世界が崩壊していく
のと同時に、ますます自分たちが光り輝いて繁栄していくのを知るようになる。私たちはこのことを恥じてはならない。これもまたさばきの一部だからだ。けれども、私たちが繁栄するのは、私たちが贅沢に暮らすためではなく、絶望的な人々を助け、神の国が来るための道備えをするためなのである。
ヨシュア3:16に、ヨルダン川の「上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツアレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち」と言われている。この箇所は、ヨルダン川の水は「アダムのところまでずっと後退して」とも訳すことができる。
この小さな町が「アダム」という名前であるのは、偶然でも何でもない。これは、神の民がヨルダン川を渡り始めるとき、私たちは神から相続するようにと約束されたすべてのものを所有し始め、死はアダムのところまで後退するという預言であったのだ!
これは、アダムとエバが犯した最初の罪の結果としてもたらされた死のすべてがアダムまで逆戻りするという意味である。それこそが福音だが、実際に起こることは、私たちの理解をはるかに超えたすばらしいものとなるだろう。今がその時、今日が救いの日なのだ!今日この日、私たちは決して揺り動かされることのない神の国で生きることができ、必ず勝利するのである。今日この日に、いのちの木を選び取ろう。そうすれば、永遠に生きることになるのだから。
まとめ
テロ行為さえもニュースの片隅に追いやってしまうような自然災害と災禍が来ようとしている。私たちはこれらのものを恐れる必要はないが、慎み深くして、それへの準備ができていなければならない。今は、自分たちの家族や教会、住んでいる町のために祈り始める時である。今は、霊的な支配権を行使して、天を閉ざすことによって地を閉ざしたり、天を開いて地上に解き放ったりする時である。
クリスチャンが陥りうる最悪の状態はなまぬるさである。これから数年のうちに押し寄せて来る苦難の波によって、教会からなまぬるさが取り除かれるだろう。しかし、今なまぬるさを悔い改めるなら、その方がはるかにいいのだ。私たちの神は焼きつくす火であるから、真に神を知っていながら神と神の目的のために心が燃やされないでいるということはありえない。神のために燃やされていない人々は、恐るべきあざむき(惑わし)の中にいるのであって、この世の心遣いや心配といういばらにふさがれて実が結べなくなっているのだ。
私たちに与えられているすばらしい約束の一つは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて,これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:25~34参照)という約束である。もし、私たちがすべての決断において神の益を優先順位の第一にするなら、神も私たちの益を第一にしてくださる。神は、私たちが自分で自分の面倒をみるよりも、はるかによく私たちの面倒をみてくださるのだ。
この時代に、主がこの地上に対してもっておられる最大の関心と目的は、ご自分の花嫁である教会を建て上げることである。教会は、今の時代のこの地上における神の国であり、神の国がこの地上に確立されるための器となる。もし私たちが神の益を第一にしているなら、よりよい仕事を得たからという理由でその仕事場の近くに引っ越すのではなく、そこに自分たちの所属すべき教会があるからという理由で家を引っ越すようになるだろう。繰り返すが、もし私たちが神の益を第一にするなら、私たちが自分で自分の面倒を見るよりも、はるかによく神が私たちの面倒をみてくださるのである。
あの暗雲が迫って来ている夢は、私たちが神の家、すなわち神の教会にいることがどれほど重要なことかという、生死にかかわる決定的なメッセージを伝えていた。今この時点では、教会はまだ整えられておらず、多くの点で混乱状態にあるかもしれない。けれども、やがて立ち上がり、本来の召しである救いの要塞に変えられていくのだ。あなたはこの教会の一員となるように召されている。今、教会に逃げ込みなさい。洪水が来るまで待っていてはならない。主のみからだの中に自分の場所を見つけるのだ!(終わり) この原稿を訳していただいた渡橋喜代佳先生はリック・ジョイナー師の本「天国からのメッセージ」(マルコーシュ出版)を訳された方です。今回私たちのミニストリーにご協力いただいて心から感謝申し上げます。坂 達也
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25 01月
キリストが現われる
ナンシリー・レスティヴォ
1999年1月、私は2週間にわたって主から一連のヴィジョンを与えられ、それによって私の人生は全く変えられました。そのうちの一つをお話したいと思います。私に一番影響を与えたものです。主が私を召しておられることへの新しい高さと深さを真に理解することができるように私の目を開けてくださったのです。それはあなたの目も同じように開けられるかも分かりません。
このヴィジョンは、ドアの入り口に立っている私がイエスが群衆の中にいるのを見ているのを自分が見ているところから始まりました。イエスがある人に手を伸ばすと彼らは瞬時に癒されるのです。イエスは又、ある者には励ましのことばをかけ、愛に飢えている者の肩を抱き、悪霊に苦しんでいる者から悪霊を追い出しておられました。
すると突然、何かが変わりました。私もイエスと共にその場にいたのです。しかも、イエスと私は写真のネガが重なったように一体となっているのです。イエスと私は全く一人の人間として動いていました。
「…主と交われば、一つ霊となるのです。」 Iコリント6:17
イエスが手を差し伸べられると、私の手がそれと全く一つになって動くのです。イエスが口を開かれると、ことばが私の口から出ていくのです。イエスが一歩前に進まれると私の足が一歩進み、イエスが人を見るときは、私の目を通して見られるのです。
そして、私は理解しました。それは「私の中におられるキリスト、栄光の望み(コロサイ1:27参照)」なのです。ただし、キリストが私の中に隠れておられるのではなく、私が彼の中に隠れていたのです!
「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神にうちに隠されてあるからです。」コロサイ3:3
私は傍観者として、興味と驚嘆をもってイエスの一挙一動をすべて見逃すまいと見つめていました。イエスのこんなにもそば近くで主が地上におられた時と同じ奇跡をされるのを見るのは、本当にわくわくしました。
人々は私を見ているのではないことがはっきり分かってきました。彼らは主を見ていました!主はその力と栄光をもって、すべての人に分かる姿でご自身を「現されて」いたのです。群衆も自分たちはイエスを見ていることが分かっていて、主のされるすばらしい業に完全に心を奪われていました。
私は、イエスにだけ完全に全く何の障害もなく焦点が当てられねばならない、それが「唯一」受け入れられることである時代に私は生きているのだ、ということにはっと気がつきました。私に関することとか、何が私に出来るかとは全く関係がないのです。そうではなく、私はからっぽの器であり、イエスご自身がそこに満ち満ちてくださるのだということだけなのです。主がその中に住んでくださり、主が望まれる通りにその器を通して働かれる器になることなのです。このことが理解できたとき、私はあふれるような喜びで満たされました。
「…こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」エペソ3:19
ヴィジョンが終わるときに、主が次の箇所を示してくださり、私が経験していることが正しいことを確証してくださいました。
「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される(be manifested)ためです。」IIコリント4:10-11
神学者の多くは、この箇所を理性で理解しやすく説明がつくようなものに変えてしまっています。しかし、今主は、今まで私たちが理解したり、私たちの理性では理解できる範囲をはるかに超えた何かをしはじめようとしておられるのです。
「明らかに示される(manifested)」ということばをThayerのギリシャ語辞書で調べてみると、
「今まで隠されていたもの、また知られていなかったものを、ことば、行為、その他の方法で明らかにすること」とあります。
これはまさに私のヴィジョンの中でイエスに起こったことでした。主はご自分を人に見えるようにし、明らかにされ、知られ、はっきりとイエスだと分かるようにされました。主は周りにいる群衆のなかに現れて、彼らは主を見たのです!これがまさに我々主に完全に従う者を通してイエスがしようとされていることなのです。
主がこれをどうようにして実現されるのかについて私は十分にはわかりませんが、一つのことだけは知っています。それは、人々は彼らの真ん中でイエスがご自身を現されていることがわかり、イエスにだけ彼らの注意が集中されているということです。
鍵となるもの
先にあげたIIコリント4:10に、「イエスの死」ということばがあります。これはイエスの十字架上での死だけではなく、主が毎日自分の意志と自分の命に死んで来られたということをも指しています。主は何事もご自分の思いからはされませんでした。イエスにはただ一つの動機しかありませんでした。それは父なる神の御心と地上での目的を表していくということでした。
私たちも「イエスのための絶えず死に渡されていますが、、、」(11節)といわれています。イエスの命が私たち人間の身体を通して現されるためには、それが唯一の道です。自分の肉が自我の一つの領域で死ぬとき、イエスがその領域を完全に支配することが出来ます。私たちが自我に死ねば死ぬほど、イエスが私たちを通して生きることができるのです。
イエスがこのような力と権威を帯びて現れるためには、私たちは邪魔をしないように完全に退かねばなりません。バプテスマのヨハネと同じように心から「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と叫ばねばならないのです。
私たちが自我のすべての領域で喜んで死ぬ、その度合いによって、イエスは人間をとおしてご自分を十分に現される自由を持つことができるのです。
イエスは「わたしに従ってきなさい。」といわれ、そして「その中を歩きなさい。」といわれているのです。(終わり)[この記事はウエイド・テイラー・ミニストリーからのものです。]
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